征韓論
征韓論(せいかんろん)は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張である(但し、史実として、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と呼ばれるものであり、事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた。)[1][2]。
西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁として定着した。
Contents
名称
日本書紀の神功皇后紀では高句麗・新羅・百済を「三韓」と呼んでいた。これに対して「朝鮮」は由来に緒論あるものの李氏朝鮮が使っていた正式国号である。征韓派は「征韓」を用いた。
安政五カ国条約の勅許の奏請にあたり、間部詮勝は「(13、4年ののちは)海外諸蛮此方之掌中ニ納候事、三韓掌握之往古ニ復ス」る状況を実現することができると朝廷を説得したとされる[3]。後年渋沢栄一は「韓国に対する私の考えは、三韓征伐とか朝鮮征伐とか征韓論とかに刺戟せられたものであろうが、兎に角朝鮮は独立せしめて置かねばならぬ、それは日本と同様の国であると考えていたのである」と日清戦争後の対露強硬路線に同調した経緯を述べた[4]。
概要
日本では江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。幕末期には、松陰や勝海舟、橋本左内の思想にその萌芽をみることができる。慶応2年(1866年)末には、清国広州の新聞に、日本人八戸順叔が「征韓論」の記事を寄稿し、清・朝鮮の疑念を招き、その後の日清・日朝関係が悪化した事件があった(八戸事件)。また朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、丙寅洋擾やシャーマン号事件の勝利によって、意気おおいにあがっていた。
そのように日朝双方が強気になっている中で明治維新が起こり、日本は対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された[5]。明治3年(1870年)2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況(後述)に憤慨し、帰国後に征韓を建白した[6]。9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山に遣り、明治5年(1872年)1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。
また政権を握った大院君は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」という布告を出した。当時外交官として釜山に居た佐田、森山等はこの乱暴な布告をみてすぐさま日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。[7][8]
明治6年(1873年)6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。中国から帰国した副島種臣は西郷の主張に賛成はしたが西郷ではなく自らが赴く事を主張した。二人の議論の末三条実美の説得もあり副島が折れることとなった。板垣退助も西郷のために尽力し、三条実美の承諾を得て西郷を使節として朝鮮に派遣することを上奏した。[9]
いったんは、同年8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、9月に帰国した岩倉使節団の岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らは時期尚早としてこれに反対、10月には収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れた。最終的には太政大臣代理となった岩倉の意見が明治天皇に容れられ、遣韓中止が決定された。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または明治六年政変)した。
政変後の動き
台湾出兵と江華島事件
明治政府はこの政変で西郷らを退けたが、翌年の明治7年(1874年)には宮古島島民遭難事件を発端として、初の海外出兵となる台湾出兵を行った。(木戸孝允は征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵を行うのは矛盾であるとして反対した結果、参議を辞任して下野した。)また、翌々年の明治8年(1875年)には李氏朝鮮に対して軍艦を派遣し、武力衝突となった江華島事件の末、日朝修好条規を締結することになる。
士族反乱・自由民権運動
明治7年(1874年)の佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動が起こった。
脚注
- ↑ 毛利(1979)による。「征」は本来「ゆく、旅立つ、伐(う)つ、上が下を伐つ、利益や儲けを取り上げる、税を取り立てる」などの字義。後の歴史の経緯から「征服」「侵略」「植民地化」に傾斜した意に捉えがちだが本来の字義は必ずしもそれのみではない。
- ↑ 板垣(1992)、61頁
- ↑ 藤村(1970)、13頁
- ↑ 島田(1999)、11頁
- ↑ 日本が「皇」という文字を使う事は無礼だ、として朝鮮は受け取りを拒否した。それまでは将軍が「日本国大君」「日本国王」として朝鮮との外交を行っていた。
- ↑ 「佐田白茅外二人帰朝後見込建白」(『公文録・明治八年・第三百五巻・朝鮮講信録(一―附交際書類)』、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A01100124300、国立公文書館)9頁に次のように記されている:
すなわち、「朝鮮知守不知攻、知己不知彼、其人深沈狡獰固陋傲頑
覺之不覺、激之不激、故断然不以兵力涖焉、則不爲我用
也、況朝鮮蔑視皇國、謂文字有不遜、以興耻辱於
皇國、君辱臣死、實不戴天之冦也、必不可不伐之、不伐之
則
皇威不立也、非臣子也」。「朝鮮は守るを知りて攻めるを知らず、己を知りて彼を知らず、其の人は深沈・狡獰・固陋・傲頑、
之を覺して覺らず、之を激して激せず、故に断然兵力を以って焉(いずく)んぞ涖(のぞ)まざれば、則ち我が用を爲(な)さざる也、
況や朝鮮は皇國を蔑視して、文字に不遜(ふそん)有りと謂(い)う、以って耻辱を皇國に與(あた)う、
君を辱らるれば臣は死す、實(じつ)に不戴天の冦(あだ)なり、必ず之を伐たざるべからず、之を伐たざれば
則ち皇威は立たざる也、臣子に非ざる也」。
- ↑ 伊藤博文言行録 秋山悟庵 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:34
- ↑ 維新英雄言行録 吉田笠雨 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:126
- ↑ 維新英雄言行録 吉田笠雨 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:126-127
参考文献
- リチャード・アンダーソン「征韓論と神功皇后絵馬」、『列島の文化史』第10巻、日本エディタースクール出版部、1996年3月、 ISSN 0289-7091。
- 『自由党史』(上)、板垣退助監修、遠山茂樹・佐藤誠朗校訂、岩波書店〈岩波文庫 青105-1〉、1992年(原著1957-03-25)。ISBN 4-00-331051-9。
- 島田昌和「第一(国立)銀行の朝鮮進出と渋沢栄一 (PDF) 」 、『経営論集』第9巻第1号、文京学院大学総合研究所、1999年12月、 55-69頁、 ISSN 0916-9865。
- 藤村道生「萬国対峙論の意義と限界――維新外交の理念をめぐって (PDF) 」 、『九州工業大学学術機関リポジトリ』第18号、九州工業大学、1970年3月30日、 1-16頁。
- 毛利敏彦 『明治六年政変』 中央公論社〈中公新書〉、1979-12-18。ISBN 4-12-100561-9。
- 諸星秀俊「明治六年「征韓論」における軍事構想」、『軍事史学』第45巻(1) (通号 177)、錦正社、2009年6月、 43-62頁。
- 吉野誠「明治初期における外務省の朝鮮政策――朝廷直交論のゆくえ」、『東海大学紀要 文学部』第72輯、東海大学文学部、1999年2月、 1-18頁。
- 吉野誠「明治6年の征韓論争」、『東海大学紀要 文学部』第73輯、東海大学文学部、2000年、 1-18頁。