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日清戦争

日清戦争
戦争: 明治二十七八年戦役 日清戦争
年月日: 1894年7月25日 – 1895年11月30日[* 1]
場所: 主に朝鮮半島満州・黄海
結果: 大日本帝国の勝利、下関条約締結
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 清の旗
戦力
240,616 630,000
損害
戦死 1,132
戦傷死 285
病死 11,894
戦傷病 3,758[2]
死傷 35,000

日清戦争(にっしんせんそう)

日本と清国が 1894~1895年に戦った戦争。両国が朝鮮の支配権を争ったのが原因となった。

1894年5月に朝鮮で甲午農民戦争が起ると,6月朝鮮政府は鎮圧のために清国と,次いで日本に援兵を依頼した。6月 12日に日本軍は仁川に上陸。7月 23日にソウルの王宮を占領,親日派の大院君政権をつくった。 25日には日本の連合艦隊は,豊島西南沖で清国軍艦および輸送船団と遭遇,相互に砲火を浴びせ,戦争が始った。

29日に朝鮮の成歓,30日には牙山を占領。9月 15日,日本軍は平壌周辺で清国軍との会戦に勝ち,17日には連合艦隊と北洋艦隊が黄海海戦を戦い,日本側が勝って制海権を獲得した。 10月 24~25日に日本軍は鴨緑江を渡って満州に入り,11月 19日には旅順を占領。

1895年2月2日には威海衛軍港陸岸を占領,12日に北洋艦隊が降伏した。3月に入ると日本軍はさらに牛荘,営口などを占領,3月 26日には澎湖列島を占領した。4月 17日に下関で日清講和条約 (下関条約 ) が結ばれ,日本は,中国から朝鮮の独立の承認,遼東半島,台湾,澎湖列島の割譲,賠償金2億両支払い,欧米並みの通商条約の締結,威海衛保障占領などを取付けた。

しかし条約調印後6日目の1895年4月 23日,ロシア,ドイツ,フランスから三国干渉を受け,5月4日に日本政府は遼東半島放棄を決定,還付の代償として清国より庫平銀 3000万両を得た。

日清戦争の勝利によって,日本は欧米資本主義列強と並び,極東における帝国主義諸国との対立,葛藤に巻込まれることになった。

脚注

注釈

  1. 参謀本部編「明治廿七八年戦史」は、戦争期間を宣戦布告(1894年8月1日)から日清講和条約調印(1895年4月17日)までとせず、豊島沖海戦(1894年7月25日)から台湾平定(1895年11月30日)までとした。原田 (2007)。また、日本軍の朝鮮王宮占領(1894年7月23日)を開戦日とする見解もある。前掲書。[1]。当時、宣戦布告前の戦闘行為は最後通牒の提出後であり、事実関係が明らかでなかった。そのため7月25日、高陞号事件(日本の軍艦が清軍を乗せたイギリス商船を撃沈した事件)がイギリス世論を一時的に沸騰させたくらいで、国際社会から問題視されなかった。なお、戦後の1899年明治32年、光緒25年)、日清両国も参加した万国平和会議ハーグ陸戦条約が採択された。

出典

  1. 中塚明『歴史の偽造をただす』高文研、1997年。ISBN 4874981992
  2. 参謀本部「明治二十七八年日清戦史」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774128/90