毛利広規

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毛利広規
時代 江戸時代中期
生誕 元禄6年(1693年
死没 寛保2年5月2日1742年6月4日
主君 毛利吉広吉元宗広
長州藩
氏族 阿川毛利家

毛利 広規(もうり ひろのり)は、江戸時代中期の武士。長州藩の一門家老である阿川毛利家の6代目当主。父は毛利就芝。正室は毛利就包(吉敷毛利広包の兄)の娘。子は毛利広漢毛利就貞柳沢就章

生涯

元禄6年(1693年)、阿川毛利家5代目当主である毛利就芝の子として生まれる。

元禄8年(1695年2月20日に父が死去したため、同年4月4日に幼少ながら家督を相続する。宝永元年(1704年)12月26日、藩主毛利吉広から「若狭」の百官名と「広」の偏諱を与えられ、「広規」と名乗った。

以後、毛利吉広、吉元宗広の3代に一門家老として仕え、享保4年(1719年)、朝鮮通信使が来朝した際に上関で接待役を務めている。

寛保2年(1742年)、阿川八幡宮を修復し、同年5月2日に死去。享年50。

嫡男の広漢が阿川毛利家の第7代当主となり、三男の就貞は分家の繁沢家を相続した後に阿川毛利家を相続し第11代当主となる。四男の就章柳沢家を相続し、その子の信任は阿川毛利家の第9代当主となった。

参考文献