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松浦氏

松浦氏(まつらし)は、日本氏族の一つ。

肥前松浦氏

松浦氏の系譜については諸説あるが、渡辺綱の子孫とするのが通説。中世には肥前壱岐水軍衆である松浦党をなした。


源融流嵯峨源氏・渡辺綱

諸般の松浦家系図によると嵯峨源氏渡辺氏の祖の源綱(渡辺綱)の孫の源久(渡辺久、松浦久)を祖とするとされる。この伝によれば、松浦氏は、渡辺綱にはじまる渡辺氏を棟梁とする摂津国滝口武者(大内守護(天皇警護))の一族にして水軍として瀬戸内を統括した渡辺党の分派である。

渡辺綱は源融の流れを汲み、摂津(大阪)の渡辺氏の祖である。源綱は源融の孫の源仕の孫に当たり、母方の摂津国渡辺に住んだ。また筑後(福岡県柳川)の蒲池氏も源融の子孫であり、源融の孫の源是茂(源仕の弟)の孫の源貞清の孫の源満末が肥前国神埼郡の鳥羽院領神埼庄の荘官として下り、次子(あるいは孫)の源久直が筑後国三潴郡の地頭として三潴郡蒲池に住み蒲池久直と名のる。のち松浦直の六男山代囲の子・源三固は承久の乱後、蒲池氏の遺領を継ぐ。

安倍宗任の系譜

平家物語』の百二十句本(国会本)剣の巻によれば、安倍宗任が前九年の役で敗れたあと、治暦3年(1067年)に太宰府に流されるが、子孫繁栄して松浦姓を名乗ったという説がある。この伝えは、百練抄前太平記歴代鎮西要略でも記されている。

この説では、安倍宗任は、宗像氏の配下となり、筑前大島の統領となる。宗任の三男・安倍季任肥前国松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。その子孫が九州水軍松浦党を構成したともされる。なお松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍し、その為、治承・寿永の乱により、現在の山口県長門市油谷に流罪となった。その後、高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害から逃れる為に安倍姓を名乗ったとされる。

しかし他方で、『筑紫軍旗』によれば、安倍貞任が討ち死にした後、弟・宗任は降伏し、源義家によって助命されて肥前国に流罪となり、渡辺久(松浦久)に身柄が預けられた。久は宗任に娘を娶らせて下松浦に住まわせたとする。

前説は平戸松浦氏の祖(平戸藩祖)を安倍とするが、その説では松浦氏の系図や地元の伝承とは全く整合性がなく、後説のように、松浦四十八党に加わって一勢力になったに過ぎないと考えられる[1]

渡辺源次久(松浦久)

祖の松浦久(渡辺久、源久)は、渡辺綱(源綱)の子の奈古屋授(なごや さずく、渡辺授、源授)の子とされ、松浦郡宇野御厨の荘官(検校)となり定住し、松浦、彼杵郡及び壱岐の田およそ2,230町を領有して梶谷に住み、松浦久(ひさし)と名のる。次いで検非違使に補され、従五位に叙された。松浦久は、源太夫判官と称して松浦郡、彼杵郡の一部及び壱岐郡を治め、ここに肥前松浦党の歴史が始まる。

松浦党の展開

松浦氏の系譜については約30種類ほどの、それぞれに内容が異なる系図があり、松浦氏全体の立場からの正確な系譜を知ることは不可能に近く、一族や子孫の個々が、相互に異なるにせよ各自の系譜の確認をすることしか出来ないと言っても過言ではない。

松浦久の子は、長子がまたは松浦安(やすし)あるは松浦直(なおし)で、二子が波多持(たもつ)、三子が石志勝(すぐる)、四子が荒久田聞、五子が神田広(ひろし)、六子が佐志調とする。この他に後に松浦公頼と称した松浦正(ただし)、養子に松浦太郎を名乗った高俊の名が見られる。

上松浦党は松浦正、下松浦党は松浦直が祖である。直の子には、松浦清有田栄大河野遊峯披山代囲値賀連がある。

東国御家人との確執

平安時代は松浦党が盤踞した地域は平家の知行国であるため、松浦氏は平家の家人となっていたが、源平合戦では壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に与し、その功から鎌倉幕府の鎮西御家人となり地頭となる。しかし、源頼朝は、平家家人の九州の豪族への信頼は薄く、九州の抑えとして少弐氏島津氏大友氏守護として九州に送り、松浦氏は、同じ環境の秋月氏蒲池氏などと同じく、これらの新参の東国御家人の「下り衆」の傘下に置かれる。

元寇の際は、松浦党の惣領だった佐志氏佐志房や、山代氏山代階などが奮戦する。

松浦氏の一族

  • 相神浦松浦家(惣領家)
  • 平戸氏 → 平戸松浦家

平戸松浦氏

松浦党のうち下松浦党の本来の嫡流は松浦直の嫡男の松浦清の末裔の一族であるが、松浦氏の数多くの傍流のうち、松浦直の五男の峯披の子孫から平戸を本拠とする平戸松浦家(平戸氏)が興った。これが平戸氏から松浦氏に改名した。

松浦弘定松浦興信の時代には内紛もあったものの次第に惣領家や他の庶家をしのぐようになり、興信の子の松浦隆信の代には、惣領家や上松浦党をも従えて松浦半島を統一する戦国大名となった。隆信とその子の松浦鎮信豊臣秀吉に従い豊臣政権の下で近世大名としての道を確立した。

江戸時代には江戸幕府の下で平戸を城下町として平戸松浦氏の平戸藩6万3千石を構え、改易されることもなく、明治維新まで続いた。

平戸家当主

※ 以降は平戸藩を参照。

家臣

系図

和泉松浦氏

和泉松浦氏は、中世には和泉国のに拠った室町時代の武家。半国守護であった和泉守護細川氏の重臣として和泉国守護代を務めた。岸和田城主。

概要

明応9年(1500年)にの和泉上半国守護の細川元有河内国守護の畠山尚順に攻められ岸和田城で討ち死にすると、元有の子・細川元常阿波細川家の元に逃れ、代わりに松浦盛が城主を務めたと思われる[5]

その後、細川晴元が阿波から上洛すると天文5年(1536年)頃より、元常の子・細川晴貞が和泉国を治め、松浦盛の跡を継いだ松浦守が守護代を務めた。

しかし、天文18年(1549年)の江口の戦いにより細川晴元とその重臣・三好長慶が対立すると松浦守は三好長慶側につき[6]、細川晴貞の記録は途絶える。松浦守は弘治年間 (1555~1558年) 頃に没したようで、永禄3年(1560年)に十河一存が岸和田城に入り、その後見のもと松浦万松が跡を継いだ。

その後、松浦虎松浦光の間で内紛となった後、家臣の松浦宗清が松浦光を暗殺し松浦家を掌握したが、慶長5年(1600年関ヶ原の戦いでは西軍に属し改易された。

当主

  1. 松浦盛
  2. 松浦守
  3. 松浦万松
  4. 松浦虎
  5. 松浦光
  6. 松浦宗清

良文流松浦氏

桓武平氏平良文の子孫、三浦氏(三浦党)支流の松浦氏。

脚注

  1. 北波多村 1943, p.28-29
  2. 宇久太の子。
  3. 鷹島氏より養子。
  4. 東胤禄の養子。
  5. 『中世中後期の和泉国大津・府中地域』廣田浩治
  6. 『岸和田市史通史編』第2巻、p.624

参考文献

関連項目

外部リンク