上板橋村
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上板橋村 | |
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廃止日 | 1932年10月1日 |
廃止理由 |
東京市編入 上板橋村、板橋町、志村、赤塚村、 練馬町、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村→東京市板橋区 |
現在の自治体 | 東京都板橋区、練馬区 |
廃止時点のデータ | |
地方 | テンプレート:地方区分東京府 |
都道府県 | 東京府 |
郡 | 北豊島郡 |
団体コード | 当時存在せず |
総人口 |
8,454人 (1930年10月1日) |
隣接自治体 |
北豊島郡板橋町、志村、 練馬町、中新井村、 長崎町 豊多摩郡野方町 |
上板橋村(かみいたばしむら)は、かつて武蔵国豊島郡、後に東京府北豊島郡に存在した村の一つ。江戸時代初期に誕生した。歴史的な板橋のうち、西側の部分に相当する。
Contents
地理
現在の国道254号(川越街道)「日大病院入口」交差点から旧川越街道の石神井川に架かる「下頭橋」にかけての地域である。板橋区の南西部分であり、地名では大谷口、大谷口上町、大谷口北町、上板橋、小茂根、桜川、東新町、常盤台、徳丸、東山町、南常盤台、向原、弥生町のほぼ全域および中板橋の一部、練馬区小竹町、旭丘のほぼ全域に相当する。
武蔵野台地上にあるが、中央に石神井川が流れているため傾斜となっている。
- 河川:石神井川
歴史
板橋の地名はすでに平安時代には存在しており、江戸時代初期に上板橋村と下板橋村に分割された。
江戸時代となると大半が江戸幕府の天領となり、野方領に属した。川越街道(川越・児玉往還)の宿場町としては「上板橋宿」と呼ばれていたが、下板橋宿と異なり正式な村名は「上板橋村」であった。江戸側から下宿、中宿、上宿に分かれていたが、規模としては小さなもので、問屋場や本陣などは設置されず、名主屋敷がその代わりを果たしていた。また、江戸時代初期には下板橋と同じく、小竹村などのいくつかの集落に分かれていた。
1889年(明治22年)に市制町村制が開始されると、上板橋村は北豊島郡の中で最も発展しているとして飛地を除く単独で上板橋村となり、1932年(昭和7年)の板橋区の成立時には上板橋一 - 七丁目、小山町、茂呂町、根ノ上町、大谷口町、向原町、小竹町、江古田町となった。
沿革
- 江戸時代初期:板橋村が上板橋村と下板橋村(下板橋宿)に分割される。
- 1868年(慶応4年、明治元年)8月7日(旧暦6月19日):武蔵知県事管轄区域となる。
- 1869年(明治2年)
- 1872年(明治5年)1月8日(旧暦1871年(明治4年)11月28日):浦和県から東京府に編入される。また同時に、大区小区制により郡・町・村の呼称が廃され、第四大区十七小区に編入される。
- 1874年(明治7年):区画改正により第九大区四小区に編入される。
- 1878年(明治11年)11月:大区小区制が廃され、郡区町村編制法により北豊島郡が設置される。
- 1884年(明治17年):連合戸長役場が設置され、上板橋村は下練馬村、上練馬村、長崎村との四ヵ村連合となる。
- 1889年(明治22年)4月1日:市制町村制により、上板橋村独立。飛地は板橋町に譲る。
- 1932年(昭和7年)10月1日:東京市編入により、上板橋村は板橋町、志村、赤塚村、練馬町、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村と合併され、板橋区となる。
- 1947年(昭和22年)8月1日:板橋区より練馬区を分区。旧上板橋村域の内、小竹町と江古田町(現・旭丘)が練馬区へ移管される。
交通
鉄道路線
道路
船舶
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
出身・ゆかりのある人物
政治・経済
- 北豊島郡会議員、上板橋村長、上板橋村会議員[1]。
- 大野善太郎(政治家、農業)[1]
- 栗原佐吉(政治家)[1]
- 篠彌市(政治家、農業)[1]
- 寶田龜五郎(政治家、農業)[1]
脚注
参考文献
- 交詢社編『日本紳士録 第16版』交詢社、1911年。
- 篠田皇民『東京府市名誉録』東京人事調査所、1925年。
- 交詢社編『日本紳士録 第41版』交詢社、1937年。