板橋 (板橋区)

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板橋
—  町丁  —
板橋の位置
板橋
板橋の位置
座標: 東経139度43分6.44秒北緯35.7468861度 東経139.7184556度35.7468861; 139.7184556
日本の旗 日本
都道府県 Flag of Tokyo Prefecture.svg 東京都
特別区 25px 板橋区
地域 板橋地域
面積
 - 計 1.005km2 (0.4mi2)
人口 (2017年(平成29年)12月1日現在)[1]
 - 計 23,273人
等時帯 日本標準時 (UTC+9)
郵便番号 173-0004[2]
市外局番 03[3]
ナンバープレート 練馬
(現行行政地名)
ファイル:Akabane-5.JPG
板橋駅(1990年撮影)

板橋(いたばし)は、東京都板橋区の地名・町名[4][5]。本項では主に現行行政地名の板橋一丁目〜四丁目について記す。

板橋区では、全域で住居表示が実施されている。[6]

汎称地名としての板橋

「板橋」は、旧中山道宿場などの歴史的地名・橋梁名・駅名・東京都の自治体名でもあるため、様々な意味合いで用いられる汎称地名である。時代により指し示す地域が異なる。

  • 中山道の整備・宿駅伝馬制度確立(江戸時代初期)以前については板橋郷を参照。
  • 中山道の宿場時代(江戸時代)については板橋宿を参照。
  • 旧中山道の橋梁については板橋 (石神井川)を参照。
  • 鉄道の駅については板橋駅を参照。
  • 東京都の自治体としての板橋については板橋区を参照。
  • 1932年の板橋区発足時点で、旧板橋町大字下板橋地域を再編して命名された行政地名の(旧)板橋町一丁目〜十丁目は、現在の板橋一丁目〜四丁目とは異なる地域を指している。(旧)板橋町一丁目は現在の板橋一丁目〜二丁目、(旧)板橋町二丁目は現在の大山東町大山金井町など、(旧)板橋町三丁目は現在の熊野町、中丸町、南町など、(旧)板橋町四丁目は現在の幸町、大山西町などに相当する。
  • 板橋は自治体名であるため、現代においてはこの地域を代表する地名としての使われ方もされている。企業の支店名などで、志村、上板橋、赤塚地域に立地している場合でも「板橋」を名乗る事例が見られる。[7]

地理

板橋区南東部に位置する。北で仲宿および加賀、東で北区滝野川、南島で豊島区上池袋、南で豊島区池袋本町、西で大山金井町大山東町および氷川町と隣接する。東辺をもって板橋区 - 北区境、南辺をもって板橋区 - 豊島区境を形成する。町域中央部を国道17号中山道)、東辺を東日本旅客鉄道赤羽線(通称埼京線)、西辺を東京都道317号環状六号線(山手通り)が通じ、板橋四丁目北東部を石神井川が流れている。町域は板橋区役所をはじめ多くの官公署が立地しているほか、民間企業事務所、住宅地として利用されている。

河川

地価

住宅地の地価は、2017年平成29年)1月1日公示地価によれば、板橋2-14-6の地点で44万6000円/m2となっている[8]

歴史

廃藩置県実施前は武蔵国豊島郡下板橋宿、瀧野川村、および金井窪村の各一部地域。中山道板橋宿のうち、江戸市中に最も近い平尾宿地域であり、川越街道が分岐する「平尾の追分」が置かれていた。

沿革

  • 14世紀室町時代初期):観明寺が創建されたと伝えられる。
  • 1602年慶長7年):徳川家康の命により中山道が整備され、伝馬制度により板橋宿が中山道の江戸日本橋側より最初の宿場として設置される。
  • 1602年(慶長7年):加賀藩・前田利光(後の前田利常)の江戸入府に伴い、当地で徳川秀忠の出迎えを受ける。
  • 1604年(慶長9年):中山道に、日本橋起点二里地点を示す平尾一里塚が造られる。
  • 1635年寛永12年):参勤交代制が実施され、加賀藩などおよそ30の藩が中山道を用いて江戸入府を行うようになる。
  • 1639年(寛永16年):川越城主松平信綱の命により、川越街道が中山道脇往還として整備され、当地に平尾追分が置かれる。
  • 1679年延宝7年):加賀藩主・金沢城主前田綱紀が、幕府より現在の加賀一丁目・二丁目および板橋三丁目・四丁目一部地域の土地を拝領し、およそ6万坪に及ぶ下屋敷とする。最盛期にはおよそ21万坪に達した。
  • 1696年元禄9年):千川上水が開削される。
  • 1868年慶応4年):戊辰戦争新撰組局長近藤勇下総国流山で捕えられ、官軍総督府が置かれていた板橋宿に身柄を送られる。平尾宿脇本陣(豊田家)におよそ20日間拘留されたのち、現在の北区滝野川で斬首される[9]
  • 1871年明治4年):浦和県から東京府に編入。大区小区制実施。
  • 1872年(明治5年):伝馬・宿駅制度廃止。板橋郵便取扱所(現・板橋郵便局)開設。
  • 1874年(明治7年):第九大区四、五小巡査屯所開設。1881年板橋警察署に改称。
  • 1878年(明治11年):郡区町村編制法により北豊島郡が設置され、東京府北豊島郡下板橋宿、瀧野川村、金井窪村となる。北豊島郡役場が当地に開設される。
  • 1884年(明治17年):旧板橋宿大火により、現在の本町・仲宿地域の建屋がほぼ全焼したことを受けて、旧平尾宿の当地域に商店・遊郭などの移転が行われる。
  • 1885年(明治18年):日本鉄道により品川新宿赤羽間路線が開通する。板橋駅開業。1906年に国有化、1909年山手線となる。
  • 1888年(明治21年):王子新道が東京府初の府道として開通する。
  • 1889年(明治22年)4月1日市制町村制施行により下板橋宿は滝野川村・金井窪村・中丸村を併合し、板橋町が発足する。当地は東京府北豊島郡板橋町大字下板橋・大字滝野川・大字金井窪となる。
  • 1909年(明治42年)12月:国有鉄道(当時は鉄道院管轄)山手線電化、電車の運行が始まる。この時、山手線の運転系統が烏森(現・新橋)-品川-新宿-池袋田端上野間および池袋-赤羽間に改められ、板橋駅は区間運転部分に編入される。
  • 1914年大正3年):東上鉄道池袋-田面沢(たのもさわ。現在の埼玉県川越市)間開通、板橋町大字滝野川に下板橋駅開業。
    • 東上鉄道は当初、下板橋-大塚辻町(現在の文京区大塚四丁目、東京メトロ丸ノ内線新大塚駅付近)の路線を計画していたが、東京市の意向により実現に至らなかった。現在でも東武東上線の起点標(0キロポスト)は当時の駅の位置にある。
  • 1918年(大正7年):板橋乗合自動車(後に東都乗合自動車を経て、戦後は国際興業バスに統合)が巣鴨駅-板橋駅間の路線を開設、現在の板橋区内での最初の路線バスの運行を開始する。
  • 1923年(大正12年):王子(王志とも)乗合自動車商会(後に中山道乗合自動車を経て、戦後は国際興業バスに統合)が、王子駅-板橋役場-志村戸田橋間の路線バス事業を開始する。
  • 1924年〜1925年(大正14年):山手線池袋-赤羽間の複線化工事が行われる。
  • 1926年(大正15年):北豊島郡役場廃止。
  • 1927年昭和2年)~1932年:中山道の新道(国道17号)敷設工事実施。[10]
  • 1928年(昭和3年):東京府立第九中学校(現・東京都立北園高等学校)開校。
  • 1928年(昭和3年):現在の町域地区の千川上水が暗渠化される。
  • 1929年(昭和4年)5月:東京市電気局により、巣鴨車庫-下板橋間の路面電車(市電板橋線)開通。板橋郵便局前(後の板橋駅前)および下板橋停留場開設。[11]下板橋-巣鴨駅-水道橋-大手町-日比谷間の旧24系統が運行を開始する。[12]
  • 1929年(昭和4年):東武東上線電化。
  • 1932年(昭和7年)10月1日:東京府内市郡併合による板橋区発足に伴い、東京府東京市板橋区(旧)板橋町一・二・五・六・八丁目となる(1943年8月1日、東京都制施行)。板橋区役所、板橋消防署開設。
  • 1935年(昭和10年):東武東上線複線化に伴い、下板橋駅が現在の豊島区池袋本町四丁目に移転する。
  • 1940年(昭和15年):現在の東京都道317号環状六号線(山手通り)開通。
  • 1943年(昭和18年):遊郭新藤楼が廃業し、板橋遊郭が消滅する。
  • 1944年(昭和19年):都電系統改正に伴い、18系統・下板橋-巣鴨駅-春日町(当時は小石川区、現・文京区)-神田橋の運転に改められる。
  • 1944年(昭和19年):都電板橋線を延伸する形で、都電志村線が志村(後の志村坂上)まで開通する。下板橋停留場廃止、板橋町五丁目および板橋区役所前停留場開設。[13]18系統は志村-巣鴨駅-春日町-神田橋の運転となり、1955年の志村橋延伸時に41系統・巣鴨車庫-志村坂上-志村橋が追加された。
  • 1945年(昭和20年)4月13日米軍爆撃機B29による空襲を受ける。
  • 1962年(昭和37年):谷端川が河川廃止され、暗渠化される。
  • 1965年(昭和40年)1月1日住居表示実施により、(旧)板橋町一・二・五・六・八丁目が(新)板橋一丁目〜四丁目に再編される。
  • 1966年(昭和41年)5月28日:都電志村線廃止(最終運行日)。翌日から1968年12月31日までの間、代替都営バス志村車庫-巣鴨駅、志村車庫-板橋駅通り(都電板橋駅前停留場の位置)が運転される。
  • 1968年(昭和43年)12月27日都営地下鉄6号線開通、新板橋駅および板橋区役所前駅開業。
  • 1972年(昭和47年):国鉄が赤羽線を正式線路名称とする[14]
  • 1977年(昭和52年)8月19日首都高速5号池袋線北池袋出入口 - 高島平出入口間開通。
  • 1978年(昭和53年):都営バス国際興業バス共同運行の東55系統・都営志村車庫 - 板橋駅通り - 巣鴨駅 - 東大赤門前 - 東京駅北口が廃止され、中山道の板橋区役所 - 西巣鴨間を運行する路線バスが消滅する。
  • 1986年(昭和61年):東武東上線の貨物営業廃止。
  • 1999年平成11年):板橋駅の貨物取扱廃止。
  • 2002年(平成14年):首都高速中央環状線王子線開通、板橋ジャンクション開設。

地名の由来

区内を流れる石神井川にかかる橋、「板橋」が地名の由来。記録によれば、約800年前の鎌倉時代から地名として使われている。

世帯数と人口

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
板橋一丁目 4,623世帯 7,317人
板橋二丁目 3,664世帯 5,615人
板橋三丁目 3,137世帯 5,453人
板橋四丁目 3,053世帯 4,888人
14,477世帯 23,273人

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[15]

丁目 番地 小学校 中学校
板橋一丁目 全域 板橋区立板橋第四小学校 板橋区立板橋第五中学校
板橋二丁目 39~42番
その他 板橋区立板橋第二小学校 板橋区立板橋第一中学校
板橋三丁目 44~65番 板橋区立金沢小学校 板橋区立加賀中学校
その他 板橋区立板橋第四小学校 板橋区立板橋第五中学校
板橋四丁目 全域

交通

鉄道

バス

  • 国際興業バス
    • 板橋駅・板橋一丁目・板橋四丁目:王22 帝京大学病院経由 王子駅行き・板橋駅行き
    • 板橋区役所・大山東町(旧称:板橋電話局前):池20 高島平操車場行き・池袋駅西口行き。池21:舟渡町経由高島平駅行き・池袋駅西口行き
  • (参考・運行休止路線)日本中央バス
    • 板橋NTT前:夜行高速バス 金山駅南口・名古屋駅太閤通口・京都駅八条口経由なんばOCAT行き。2004年4月に運行を開始したが、2005年9月1日に休止された。

道路

施設

行政
教育
公園
  • 南板橋公園
  • 谷端川児童遊園:1962年に暗渠化された旧谷端川流路上に整備された遊歩道公園。「一の橋」と記された石造り欄干が遺されている。池袋方面からの「下り谷」を流れてくる支流と、この橋の付近で合流していた。地名における“袋”は、川と川の合流点を指すことが多い用語であるため、旧池袋村と旧板橋町大字瀧野川の境に相当する板橋駅南西側の一帯(板橋一丁目および豊島区池袋本町四丁目付近)を池袋の地名の由来とする説がある[16]
神社寺院教会
  • 日本福音ルーテル板橋教会
  • 子易神社
  • 東光院
  • 観明寺

史跡

関連項目

脚注

  1. 1.0 1.1 町丁目別世帯数・人口表”. 板橋区 (2017年12月1日). . 2017閲覧.
  2. 郵便番号”. 日本郵便. . 2017閲覧.
  3. 市外局番の一覧”. 総務省. . 2017閲覧.
  4. 『角川日本地名大辞典 13 東京都』、角川書店、1991年再版、P795
  5. 『いたばしの地名』板橋区教育委員会、1995年、P189-190
  6. 住居表示実施証明書 | 板橋区” (日本語). www.city.itabashi.tokyo.jp. . 2018閲覧.
  7. たとえば、旧志村前野町に立地する「イオンスタイル板橋前野町店」、志村一丁目に立地する「凸版印刷板橋工場」、舟渡四丁目に立地する「日本金属板橋工場」など。
  8. 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
  9. 斬首場所は「板橋刑場」と言われているが、近藤の処刑以外に当地が刑場として使用されたことを示す資料は遺されていない。鈴ヶ森・小塚原などの幕府公認の常設刑場ではなかった可能性もある。
  10. 板橋区ホームページ「平成27年度板橋区土木白書 第1章 区道の歴史」(PDFファイル)
  11. 東武東上線下板橋駅とは位置が異なる。
  12. 「日本鉄道旅行地図帳 5号 東京」(新潮社・2008年)41頁
  13. 「日本鉄道旅行地図帳 5号 東京」(新潮社・2008年)41頁
  14. 現場ではそれ以前より通称として用いられていた。1985年に開業した「埼京線」も、路線案内用の通称である。
  15. 板橋区立小中学校通学区域・小学校隣接校案内”. 板橋区 (2017年7月31日). . 2017閲覧.
  16. NHK総合テレビ「ブラタモリ 池袋・巣鴨」2011年1月27日放送。他に、豊島区西池袋一丁目の「丸池」を池袋の由来とする説がある。

外部リンク