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自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐している通り、幼少の時から老年に差し掛かった現在まで、仕事に対する執着心は非常に強い。第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、執筆活動など数え切れないほどの仕事をこなす。現役時代は捕手という負担の大きいポジションで歴代選手2位の出場数(3017試合)を記録し、[[選手兼任監督]]まで務めており、監督としての試合出場も通算3204試合と3000試合の大台に乗せている。また通算打席数(11970打席)と通算打数(10472打数)も歴代1位記録である。
 
自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐している通り、幼少の時から老年に差し掛かった現在まで、仕事に対する執着心は非常に強い。第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、執筆活動など数え切れないほどの仕事をこなす。現役時代は捕手という負担の大きいポジションで歴代選手2位の出場数(3017試合)を記録し、[[選手兼任監督]]まで務めており、監督としての試合出場も通算3204試合と3000試合の大台に乗せている。また通算打席数(11970打席)と通算打数(10472打数)も歴代1位記録である。
 
== 経歴 ==
 
=== プロ入り前 ===
 
実家の家業は食料品店。[[日中戦争]]に出陣した父・要市は3歳のときに[[満州]]にて戦死したというが、実際は道端の供え物の[[柿]]を食べて亡くなったらしく、幼少時代に情けない思いをしたと語っている。[[網野町]]は[[丹後ちりめん]]の産地で周囲は裕福な家庭が多い一方、野村の家は貧しく、劣等感にさいなまれる。[[看護師]]だった母・ふみは病弱で野村が小学校2年生と3年生のときに二度も[[癌|ガン]]を患い、一家は極貧といっても過言ではない状況に陥った。家計を少しでも助けるため、野村は小学校1年生の頃から兄とともに[[新聞配達]]やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをした。また、父の戦友の助けや母の糸繰りの仕事もあり、何とか生活は出来た。
 
 
[[貧乏]]な生活から脱却したいとの思いから、将来は[[歌手]]になろうと[[中学校]]のコーラス部に所属したり、[[俳優]]になろうと[[映画館]]通いをしたりしていたが、当時[[プロ野球]]の大スターであった赤バットの[[川上哲治]]・青バットの[[大下弘]]への憧れや、出身地にほど近い[[兵庫県]][[出石郡]][[出石町]]にて名を馳せていた[[大友工]]投手(後に[[読売ジャイアンツ|巨人]]等で活躍)の影響もあり、次第に野球選手を志すようになる。
 
 
中学2年生で野球部に入ると、すぐに4番・捕手に抜擢され、3年生の時には[[京丹後市|奥丹後地方]]予選で優勝。京都府大会でも四強に入り、青年団の補強選手にもなった。中学卒業後は働くように母から言われるが、兄が大学受験を断念する等の取り計らいにより、野村は[[京都府立峰山高等学校]]に進学した。その後に内緒で野球部に入部したことが母にばれ、退部するよう言われるが、顧問の取り計らいにより続けさせてもらう。貧しく[[バット (野球)|バット]]も買えないため、海水を一升瓶に入れて持ち帰り、素振りをしていたという。
 
 
野球部は地方大会で1回戦負けが常という弱小チームであり、野村が在学中も2年生の時に京都府予選の2回戦まで進んだのが最高で、[[甲子園]]など夢のまた夢だった。当時は廃部も検討されており、野村も全くの無名選手だった。卒業後の進路は顧問がプロ球団の監督に手当たり次第に推薦状を送り、南海監督・[[鶴岡一人]](当時は山本姓)だけが返事をくれた。
 
実際に見に来た鶴岡監督の見守る中、野村はランニングホームランを放つ(野村が高校時代、打った本塁打はこの一本のみである)<ref>名球会コミック 野村克也より。</ref>。
 
 
=== 現役時代 ===
 
==== プロ入り〜レギュラー定着 ====
 
[[1954年]]、南海に契約金0のテスト生として入団{{#tag:ref|実はテストには落ちていたが、キャンプイン前に合格者の一人が入団を辞退したこと、高校の顧問が手紙を送った鶴岡監督が「カベ(ブルペンキャッチャー)用にでも入れておけや」と温情を下したことにより入団が決まった。|group="注"}}。野村は巨人の大ファンであったが、巨人は[[藤尾茂]]捕手が活躍していたため断念。捕手層が薄く高齢化していた南海なら一軍のレギュラーになりやすいと考えた<ref>自著「巨人軍論」より。</ref>。同期入団には[[皆川睦雄]]や[[宅和本司]]がいる。
 
 
当時の南海は鶴岡監督の下、毎年優勝争いを繰り広げていた。シーズン当初は出場機会がなく代打での初打席は三振、結局1年目は9試合で11打数無安打だった。シーズンオフにマネージャーに呼び出され[[戦力外通告]]を受けるが、[[秋季キャンプ]]中に正捕手([[松井淳 (捕手)|松井淳]])が交通事故、2番手捕手([[筒井敬三]])が[[高橋ユニオンズ]]に[[トレード]]、3番手捕手([[蓜島久美]])が怪我(頭部に死球を受けた)をしたことで捕手不足となり残留。「もしここでクビになるようなら生きていけません。南海電鉄に飛び込んで自殺します」と辛抱強く交渉し、担当マネージャーに「お前のようなやつは初めてだが、若いうちなら人生はやり直せる。お前は活躍できないんだぞ。俺の目は確かだ」と苦言を言われつつも何とか残ったと語っている。
 
 
しかし肩が弱かったため、秋季キャンプで[[一塁手]]への[[コンバート (野球)|コンバート]]を言い渡される。当時の一塁手は球界を代表する[[飯田徳治]]が務めていたため、このままではレギュラーになれないと考えた野村は、砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。このような努力が実り、2年目は1軍出場や[[1955年の日本シリーズ|日本シリーズ]]の出場こそなかったものの、2軍で打率2位の成績を残し、<ref>広尾晃(2014) 主婦の友社「読む野球」No.3 野村克也を読む pp.112</ref> シーズンオフの秋季キャンプで捕手に再コンバートされる。
 
 
この時代、まっすぐ投げれていないことを先輩に指摘され、その原因がろくにボールの握り方も知らないことであったことから、考えることの重要性を知ったという。また、「遠投は体全体で投げること」という先輩の言葉を「体全体を鍛えればいい」と解釈し、当時はまだタブー視されていた[[ウエイトトレーニング]]を始めた。こういう経験から{{要出典|date=2015年5月}}、指導者となってからはプレースタイルなどについて考えることの重要さを口を酸っぱくして説いている。
 
 
3年目の{{by|1956年}}、[[ハワイ州|ハワイ]][[キャンプ (日本プロ野球)|春季キャンプ]]で一軍に抜擢され、以降正捕手に定着した。なお、この段落にある経緯を鶴岡は、『[[私の履歴書]]』では若干異なる趣旨のことを書いている<ref>野村は入団直後に肩を痛めた。ブルペン捕手の傍ら、打撃を生かすため一塁手をやらせていた。温暖なハワイでのキャンプで肩も回復し、このキャンプの成果となった。高橋ユニオンズの誕生にともなう捕手放出、ハワイの温暖さなど、どれ一つ欠けても後の野村はなかっただろう({{Citation |author=鶴岡一人 |publisher=日本経済新聞出版社|year= |title=私の履歴書|isbn=978-4532193867 }})。</ref>。
 
 
==== 大選手への道/三冠王====
 
打撃不振に陥った頃、[[テッド・ウィリアムズ]]の著書「バッティングの科学」に出会い、その中で「投手は球種によりモーション時にクセを見せる」という一言があり、これをきっかけに投手のクセを研究するようになった。それ以来、打撃力が格段に向上したが、どうしても[[稲尾和久]]だけは攻略できず、野村は16ミリカメラで稲尾を撮影し研究した。このことが後に野村本人が確立する[[ID野球]]の基礎となった。
 
 
[[1957年]]に[[山内一弘|山内和弘]]([[千葉ロッテマリーンズ|毎日]])、[[中西太]]([[埼玉西武ライオンズ|西鉄]])ら並み居るスラッガーを抑え[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]の[[プロ野球#個人タイトル・表彰|タイトル]]を獲得。以降毎年のようにタイトルを獲得し、[[杉浦忠]]、[[広瀬叔功]]、[[皆川睦雄]]らと共に南海の黄金時代に大きく貢献した。南海は[[1959年]]、[[1961年]]、[[1964年]]、[[1965年]]、[[1966年]]にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。
 
 
[[1962年]]、[[別当薫]](毎日)の持っていたパ・リーグ記録のシーズン43本塁打([[1950年]])を抜く44本を記録。[[1963年]]には[[小鶴誠]]([[松竹ロビンス|松竹]])のプロ野球記録シーズン51本塁打(同上)を破る52本を残した{{#tag:ref|ともに最終戦、最終打席で[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]の[[山本重政]]から打ったものだった。|group="注"}}。52本塁打は翌年に巨人の[[王貞治]]が55本を打ったことによりプロ野球記録としては更新されたが、パ・リーグ記録としては{{by|2001年}}に[[タフィ・ローズ]]が55本を打って更新するまで長く残っており、捕手として50本以上打った選手はメジャーリーグを含めても野村だけである。さらに同年は[[盗塁阻止率]]でもキャリアハイの.524を記録するなど、パ・リーグを代表する強肩強打の捕手として名を馳せた<ref>南海ホークス[[選手名鑑]](1957年、1959年){{full|date=2017年9月}}</ref>。
 
 
その後、8年連続本塁打王、[[1965年]]には戦後初の'''[[三冠王]]'''に輝く{{#tag:ref|捕手としての三冠王は、[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]でも例がなかった。|group="注"}}。また、1977年には規定打席到達者の中では最低打率であったが、これによって野村は最高打率([[首位打者]])と最低打率の両方を経験した初めての打者となった{{#tag:ref|他には[[王貞治]]、[[佐々木誠 (野球)|佐々木誠]]がいる。|group="注"}}。
 
 
しかし、当時の日本のプロ野球を取り巻く世情は人気面・知名度いずれも[[読売ジャイアンツ|巨人]]を中心とした[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]偏重傾向が現在より圧倒的に高かったため、同時期に[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]で活躍していた巨人の[[長嶋茂雄]]や王貞治に比べて世間からの注目は少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。{{by|1975年}}5月22日、野村が史上2人目の600号本塁打を達成([[後楽園球場]])したときの観客はわずか7,000人ほどであった{{#tag:ref|約1年前に王貞治が[[阪神甲子園球場|甲子園球場]]で600号を放った際の観客は3万3,000人いた。|group="注"}}。野村はこの試合後のインタビューで「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだって[[ヒマワリ]]もあれば、人目につかない所でひっそりと咲く[[月見草]]もある」と答え、それ以後「月見草」が野村の[[代名詞]]となった<ref>長沼石根『月見草の唄 - 野村克也物語』(朝日新聞社、1981年)P206。</ref>。
 
 
打撃部門で多くの記録を残したが、年間最多本塁打の記録を更新した翌年の{{by|1964年}}に王に更新され(55本塁打)、{{by|1973年}}に通算最多本塁打の記録を(約2週間の攻防の末)王に、{{by|1978年}}には一晩のうちに通算最多打点を王に、通算最多安打を張本勲(当時巨人)に破られるという経験もしている。王は1973年以降のオールスター戦で、野村がマスクを被った試合では27打数1安打0本塁打と抑え込まれている。
 
 
また、足は遅い方だったが、通算117盗塁を記録。そのうちホームスチールが7回、三盗は2回ある。
 
 
==== データ野球・駆け引き ====
 
===== 打者としての読み =====
 
上述のような成績を残せた大きな理由に、試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことが挙げられる。当時の鶴岡監督率いる南海は、他球団に先駆けてデータ収集・活用のための体制を整えており、実際のデータ収集を担当した[[尾張久次]]は日本プロ野球の[[スコアラー]]第1号とも言われている。野村は[[蔭山和夫]]コーチらとともに、こうしたデータを試合展開や相手選手の観察結果と併せて分析し、打撃にも配球にも生かした。
 
 
[[投手]]のクセを盗み、球を投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけたことも活躍の要因となった。当初は[[カーブ (球種)|カーブ]]が全く打てず、「カーブの打てないノ・ム・ラ!」「カーブのお化けが来るぞ!」などと野次を浴びるほどだったが、投手のクセを盗みカーブを事前に見破ることで克服した。こうした能力は、徹底的な観察と各投手との駆け引きの中で身に付けたものだった。中でも西鉄のエースとして活躍した[[稲尾和久]]とは、野村が苦心の末にクセを見破ると、稲尾はそれに気付いてさらに対策を講じるという、ハイレベルな駆け引きを繰り広げた。
 
 
===== 捕手としての駆け引き =====
 
野村がプロ生活を始めた当時、捕手の地位は打者としての役割を求められないばかりか大柄で、ミットの薄い部分でキャッチングして大きな音を出すことで投手の気分を良くさせる程度しか求められていないなど、現在とは比べ物にならないほど低いものであった。その中で野村は自身の打撃成績の向上のため[[蔭山和夫]]や[[尾張久次]]とスコアの研究を重ねる過程で、スコアの研究をリードに生かすことで効率よく打者を抑えることを研究するようになっていった。
 
 
捕手として守備に就いた時には、相手打者にささやくことで集中力を奪うことを得意とした。この策は「[[トラッシュ・トーク|ささやき戦術]]」として知られる。野村のささやき戦術は1950年代、当時同リーグで活躍していた西鉄の[[日比野武]]を参考にして(著書「野村克也 野球論集成」では日比野、「野村の遺言」には、阪急の[[山下健]]と書いている)始まったといわれる。当初は「次は頭にいくでぇ」「今度こそ頭だぞ」「当たったら痛いだろうナァ」などといった直接的な脅しだったため、当時ライバルだった阪急の[[西本幸雄]]監督が「先に野村にぶつけろ」と指令を出した。その後、鶴岡と西本の会談が持たれたために脅しは止めたが、次は相手打者の私生活などについてささやき、集中力を乱す方向へ変更された。東京であれば[[銀座]]、大阪であれば[[北新地]]といった繁華街の[[高級クラブ]]に頻繁に出向き、その店のホステスから常連客として姿を見せるライバル選手の情報を仕入れるのが常だったという<ref>2003年9月放送の『[[NANDA!?]]』より。{{要高次出典|title=放送番組の類は、基本的にリアルタイム外での検証が困難であるため。|date=2017年9月}}</ref>。
 
 
このささやき戦術は多くの選手に影響を与え、有名選手を中心に様々なエピソードを残している。[[白仁天]]はささやきによる集中力低下を避けるために[[耳栓]]を用いたが、かえって意識しすぎて打てなかったという。一方で大杉勝男にささやきかけると「うるさい!」と一喝されたものの、その一喝は野村のささやきをそれだけ気にしていた結果であった。また、張本勲は対策として空振りと見せかけて野村の頭をバットで殴るという手段を取ったと述べているが、野村自身は著書{{full|date=2017年9月}}でこれを否定しており、別の理由でささやきをやめたと記している(詳しくは[[張本勲#現役時代|張本の項を参照]])。
 
 
ただし、この戦術が全く通じない選手も存在した。[[王貞治]]はバッターボックスに入るまでの雑談には応じたものの、いざ投手と構えると集中し、話を全く聞かなかった。[[長嶋茂雄]]は、野村のつぶやきに「よく知ってるねぇ。どこで聞いたの?」と違う話を持ちかけたり、かみ合わない話を返したりするなど全くささやきが通じず、動揺を誘う為「(バッティングの)フォームが少しおかしいんじゃないの?」と長嶋にささやいた際には、「本当?ちょっと待って」とタイムをかけられ1、2回素振りをした後に次の球を本塁打にされてしまった。ホームインした長嶋から「教えてくれてありがとう」と言われ、野村は唖然としたという。天才肌の[[榎本喜八]]に対しては、榎本独特の[[オーラ]]に呑まれて、野村自身余裕をなくして戦術を実行できなかった。また、投手のクセの研究に関しては野村にもヒケをとらない[[高井保弘]]は、打席で「何(のボールを)待ってんのや」と聞いてきた野村に「ヤマの張り合いをしよう」と持ちかけ、ことごとく球種を言い当てた上に最後に本塁打を打ったという<ref>高橋安幸『伝説のプロ野球選手に会いに行く2』白夜書房、P132 - 133。このときの投手は江夏豊だったという。</ref>。
 
 
[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]でも、パ・リーグ捕手としての地位を最大限に利用して同リーグ投手のデータ収集を行ったが、稲尾はこの意図を見抜いていたため野村のサイン通りに投げることはなかった。パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」だったと言われており、稲尾は後年「オールスターでは野村との駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と語っている。
 
 
==== プレイング・マネージャー時代 ====
 
1965年オフ以降、恩師であった[[鶴岡一人]]との確執が表面化しはじめ、同年11月に自身の理解者であった蔭山が急逝する。{{by|1968年}}からはコーチ兼任となり<ref>HAWKS the 70th―ホークス栄光の軌跡、ベースボールマガジン社、2008年、P91</ref>、同年オフに母親と死別。また、この頃に関係がうまくいっていなかった前妻とは別居状態となった。野村は別居状態になった理由は前妻の浮気であると語っている<ref>https://www.youtube.com/watch?v=n3NPzh_c5C8</ref>。
 
 
{{by|1970年}}、戦後初の最下位に終わり[[飯田徳治]]監督が辞任。[[川勝傳]]オーナーから「南海再建を託せるのは君しかいない」と熱心に口説かれ承諾し<ref name="草創期から支え続けた147人の監督列伝 P46-47">[完全保存版] 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P46 - 47</ref>、野村が35歳の若さで選手兼任監督に就任。この時に野村が挙げた条件が[[ドン・ブレイザー]]をヘッドコーチにすることであり<ref name="草創期から支え続けた147人の監督列伝 P46-47"/>、野村は「ブレイザーがヘッドじゃなきゃ監督は引き受けなかった」と語っている<ref>『週刊プロ野球データファイル』2012年65号、ベースボール・マガジン社、P24</ref>。捕手というポジションで野球を突き詰めて考えていた野村は、以前からブレイザーの野球への知識に感銘を受け、共感できる部分が多いと思っていた<ref name="草創期から支え続けた147人の監督列伝 P46-47"/>。監督と選手を兼任する[[選手兼任監督|プレーイングマネージャー]]として「4番打者」「捕手」「監督」の3つの重責をひとりで担うことになった。野村の著書によると、このときの年俸は選手、監督分を合わせて1億円を超えていたという(当時の南海は給料を税金分天引きした手取りで渡していたため、1億円を超えていなかったが税金分を含めた給料は1億円を超えている){{#tag:ref|後にテレビ番組内で日本プロ野球最高年俸(放送当時)の話がでた際、プレイングマネージャー時代の年俸は5億円だったことを明かしており、35年ほど前には現在の最高年俸者と同額の年俸であったとした。{{要高次出典|title=放送番組の類は、基本的にリアルタイム外での検証が困難であるため。|date=2017年9月}}|group="注"}}。
 
 
監督兼任となってからも打棒は健在で、1970年シーズンは42本塁打を記録。この年は大杉勝男と最後まで本塁打王を争い、ともに42本でそれぞれのシーズン最終戦を迎え、ここで大杉が2本塁打を放ち、44本として野村に2本差をつけた。これに対し野村は打席数を増やすためにそれまで全試合座っていた4番を捨てて1番打者として出場したが、本塁打を記録できず、大杉に及ばなかった。同年10月18日の西鉄戦では史上4人目となる通算2000本安打を達成。{{by|1972年}}には打点王を獲得した{{#tag:ref|同年はトリプルスチールを2回成功させている。なお、自身が現役時代、三塁走者の時に敢行したホームスチールは7回という記録がある(2009年11月4日、[[RKBラジオ]]『[[中西一清スタミナラジオ]]』にて、作家でスポーツジャーナリストの[[玉木正之]]が電話で証言{{要高次出典|title=放送番組の類は、基本的にリアルタイム外での検証が困難であるため。|date=2017年9月}})。|group="注"}}。この頃には、後の妻、[[野村沙知代]]との[[愛人|愛人関係]]が始まっている{{#tag:ref|野村沙知代に対する公職選挙法違反(虚偽事実公表)の疑いでの告発を受けた東京地方検察局は平成11年、実子・野村克則の誕生日から逆算して、昭和47年(1972年)当時には野村克也と事実婚の関係にあったとの推定を報告している。|group="注"}}。
 
 
監督就任1年目は新人・[[佐藤道郎]]を抑えでフル回転させ、何とか投手陣をやり繰りして2位となったが<ref name="草創期から支え続けた147人の監督列伝 P46-47"/>、2年目は勝率が5割を切って4位で終わる<ref name="草創期から支え続けた147人の監督列伝 P46-47"/>。ここで野村は他球団で燻っていた投手たちの獲得を目指すことにした<ref name="草創期から支え続けた147人の監督列伝 P46-47"/>。トレードで[[北海道日本ハムファイターズ|東映]]から[[江本孟紀]]、巨人から[[山内新一]]、[[福士敬章|松原明夫]]を獲得した。弱体化していたチームを立て直し、{{by|1973年}}にリーグ優勝を果たした。当時パ・リーグで採用していた[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]制度を最大限に利用し、実力は南海より上と見られていた阪急を退けての優勝だった{{#tag:ref|ただし、この年の後期には阪急戦に1勝もできず、惨敗した試合ではベンチで笑みを浮かべるなど真剣勝負を疑われかねない態度も見せたため一部で物議を醸し、「死んだふり」などと揶揄された。勝敗は二の次で相手方の作戦やサインプレーの研究に終始していたという。|group="注"}}<ref>南海ホークス栄光の歴史―1938ー1988、[[ベースボール・マガジン社]]、2012年、P37、後期阪急に一度も勝てなかったことについて佐藤道郎は「アレは作戦でもなんでもないよ。」、江本孟紀は「実力差ですよ、明らかに」と語っている</ref>。監督兼任でありながら、選手としても.309、28本塁打、96打点の成績を残し、[[最優秀選手 (野球)|MVP]]に選ばれた。しかし、[[1973年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では巨人に敗れ、[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]]を許す結果となった。
 
 
阪急の1番打者として活躍していた[[福本豊]]の[[盗塁]]を阻止する為、投手に素早いモーションで投球させた。これが後の[[クイックモーション|クイック投法]]の原型である。クイック投法の重要性自体は[[三原脩]]が既に提唱していたが<ref>『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』</ref>、南海投手陣にその意識をもたせてリーグ戦で使い、パ・リーグ全体に普及させたのは野村だった。この頃は現役生活も晩年に差し掛かって肩が衰えており、それを補うために考え出した策である。{{main|クイックモーション#歴史}}
 
 
監督としての野村はトレードに対しては積極的であった。トレードの理由としては単に戦力的な面だけではなく、実は選手を借金地獄から救う為や、チーム内での交友関係を思い、移籍先に頭を下げて引き取ってもらったこともあったという。ある主力投手は投手コーチと衝突したためトレードに出して欲しいと直訴してきた。野村は「自分が球を受けているから、主力でいられるんや」と慰留したが、本人の意思が堅かったために止む無く放出する。その投手はわずか数年で2球団を渡り歩き、ユニフォームを脱いだ([[西岡三四郎]])。逆にトレードで迎えたある選手には、飲み屋のツケを全て調べ、「お前は南海に野球しにきたんやろ、これで全部(ツケを)払ってから、球場にこいや」と言ってポンと現金を渡した。以来その選手は「この人のためなら」という気持ちになったという。一方で放出した選手の一部には恨まれることもあった。
 
 
{{by|1972年}}、チームでは、一部選手が野村の指導にはついていけないと首脳陣にこれまでの方針撤回を迫り、クーデターが起こった。それに対して野村は代表して意見を具申してきた[[三浦清弘]]に対して、強制的に任意引退の手続きを取るという強硬な手段に打って出た(最終的に三浦は、同じ大分出身の[[稲尾和久]]のいる太平洋クラブに引き取られた)。
 
 
{{by|1975年}}オフ、巨人はこのシーズン最下位に沈むと、コーチ陣のテコ入れのため、極秘で野村に接触、巨人の当時球団常務だったロイ佐伯、広報担当の張江五が交渉し、選手兼任ヘッドコーチというオファーを打診。当時、チーム内の派閥抗争に巻き込まれ孤立していた本人は快諾した。ところが肝心の長嶋がクビを縦に振らなかった為、“巨人・野村克也”は幻に終わった<ref>[https://web.archive.org/web/20120214190755/http://sankei.jp.msn.com/sports/news/120214/oth12021421160011-n1.htm 【清水満のSPORTSマインド】“野村色”に染まる巨人+(1/2ページ)] - MSN産経ニュース 2012年2月14日付(インターネットアーカイブ同日付保存キャッシュ)</ref><ref>[http://web.archive.org/web/20120217195620/http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/sports/other/545796 野村色に染まる巨人] - iza(産経新聞) 2012年2月14日付(インターネットアーカイブ同17日付保存キャッシュ)</ref>。
 
 
{{by|1976年}}に江本らとのトレードで阪神から獲得した[[江夏豊]]が、移籍1年目に思うような成績が挙げられなかったことから、江夏を[[リリーフ]]専任投手として再生することを決断。「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で江夏を説得し、江夏は{{by|1977年}}6月からリリーフに転向<ref name="MoobieScoop">[https://hikakujoho.com/moviescoop/13734100002563/ 「日本プロ野球界の名将・野村克也によって復活した選手たち」] - CyberOwl(当時の社名はCyberSS。[[サイバーエージェント]]の関連会社)運営「Moobie Scoop!」(比較情報.com内のコンテンツ)。2017年6月12日発信、2018年5月24日閲覧。</ref>。この年19セーブを挙げて最優秀救援投手に輝いた。江夏は「『革命』と言われなかったらリリーフ転向はOKしなかったと思う」と語っている。投手分業制を提唱し実践していた[[近藤貞雄]]の存在や、江夏のこの活躍などがあってリリーフの役割の重要性を球界に認識させ、先発、中継ぎ、抑えというピッチャーの分業を本格的に定着させるきっかけとなった。
 
 
1977年9月28日、シーズン終了まで2試合を残して解任される。当時はまだ愛人関係にあった[[野村沙知代|沙知代]](当時は[[野村沙知代|伊東芳枝]])の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で<ref name="BT 033">{{Cite journal|和書
 
|author= 出野哲也
 
|title= 1ページで分かった気になるプロ野球 002 - 偉大なる月見草・野村克也の人生 - 圧倒的な才覚で野球と向き合った波乱の54年
 
|journal= 週刊ベースボール・タイムズ Vol.033 , 2008年12月3日/10日合併号
 
|publisher= 株式会社スクワッド
 
|pages= P40
 
}}</ref>、このことが野村を大事にしていた川勝オーナーの耳にも入り解任に至った{{#tag:ref|ただし、南海監督解任後も、野村とは親交があった。|group="注"}}。野村が「鶴岡元老らOBの政治的圧力があった」と述べているように、監督退任後も依然として支配力を発揮していた鶴岡との確執が原因の一つと考えられる<ref name="BT 033"/>。[[広瀬叔功]]は著書の中で「南海の監督を辞めてから鶴岡親分が監督人事に口を挟むことなど考えられなかったし突拍子もない言いがかりだと思った<ref>広瀬叔功著、南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷 (追憶の球団)[[ベースボールマガジン社]]、P78</ref>」、「当時を思い起こせば監督夫人が球場へ出入りしていろんなことに口出していてチーム内に不協和音が満ちていた。川勝傳オーナーが『泣いて馬謖を斬る』と、自分がもっとも信頼をおいていたノムやん解任に踏み切ったのも無理はなかったろう<ref>南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷 (追憶の球団)、P174</ref>」と記している。江本は著書の中で沙知代が大阪球場に電話かけてきて「なんであんな選手を使ってるの!」、「コーチを出しなさい」などと怒鳴り、選手起用が悪いからバッティング・コーチを電話口に呼び出せと言ったと言う<ref group="注">電話の内容が分かった理由は選手たちは、電話交換室にしばしば出入りしていた。冷房の効いた電話交換室を休憩所代わりにし電話の内容は聞こえてくる。携帯電話、メールがない時代。プライベートな会話も丸わかりだったという。</ref><ref name="野球バカは死なず">[[江本孟紀]]著、野球バカは死なず、[[文藝春秋]]、P156-P160、2018年</ref>。「えらいこと言うオバハンやな」、「公私混同でひっかきまわないでくれや」と選手もウンザリしていたという<ref name="野球バカは死なず"/>。1975年オフ選手会が緊急会合をもち、「野村監督に忠告しよう」と決議したもののベテランは尻込みし、中堅選手も次々に腰が引けた為結局最後まで残った江本、西岡三四郎、[[藤原満]]の3人が大阪のホテルで野村に直談判し「監督、プレーイングマネージャーなんですから、公私の区別をきっちりつけて選手が納得できるよう収めてください。」と話をして野村は神妙な面持ちで聞き「やっぱり話の分かる人だな。」と江本ら安心して引きあげたが江本<ref name="野球バカは死なず"/>、西岡は同年オフトレードで移籍している。なお、後任の監督に広瀬が決定するまでの残り2試合は、当時[[二軍監督]]だった[[穴吹義雄]]が指揮を執った。[[1978年]]([[昭和]]53年)、前妻との[[離婚]]が成立した野村は沙知代と[[結婚|再婚]]した。
 
 
この時のことについて野村は著書やテレビで後援会長の[[葉上照澄]]と会った時に、「野球を取るのか女を取るのか」と聞かれ、「女を取ります」と答えたと言っている。
 
 
監督解任時の会見でも[[野村沙知代|沙知代]]の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」を否定。「コーチ会議に出した覚えもないし、それほど常識のない女とも思っていません」と発言している。
 
 
解任後は進退について大いに悩み、多くの知人にも引退を勧められたが、現役続行を選び、以前より誘われていたロッテに移籍した。南海の選手のうち、野村の解任に反対していた[[柏原純一]]と江夏豊はそれぞれ日本ハム、広島に移籍。打撃コーチの[[高畠導宏|高畠康真]]も南海を退団し、野村と共にロッテに移籍した。この年を最後に南海はAクラスに入ることなく{{by|1989年}}に[[ダイエー]]に身売りされた。また、ホークスの連続Bクラスは{{by|1997年}}まで20年続いた。
 
 
==== ロッテ・西武時代 ====
 
{{by|1978年}}、[[金田正一]]監督率いるロッテが獲得の意思を示し、選手として移籍。懇意にしていた[[草柳大蔵]]からの「生涯一書生」という禅の言葉を教わり、新たに標榜した「生涯一捕手」は流行語となり、今でも野村の代名詞の一つとなっている。当時ロッテの投手だった[[村田兆治]]は「足の遅い私にとっては鈍足の野村さんは憧れの選手」、また村田によると「野村さんは川勝オーナーが金田監督に頼んでロッテへ移籍してきた」と述べている<ref>[[スポーツニッポン]]、[[村田兆治]]の我が道2017年7月15日</ref>。ロッテの一選手として親子ほど歳の違う選手と一緒に練習をしていると、何とも言えない虚しさを感じたという<ref name="プロ野球重大事件 誰も知らない“あの真相”128-130">野村克也『プロ野球重大事件 誰も知らない“あの真相”』[[角川書店]]、2012年、P128 - 130</ref>。ところが金田から「若手らにいろいろ教えてやってくれ」と言われアドバイスするとコーチ陣から煙たがられ、金田から「コーチがやりにくいと言っている。悪いが、教えるのはやめてくれ。」と言われた<ref name="プロ野球重大事件 誰も知らない“あの真相”128-130"/>。同年オフ、ロッテのオーナー[[重光武雄]]から「監督をやってくれませんか」、「ロッテを君に再生してもらうしかないんだ。本当の野球を教えてくれ」と言われ監督就任を要請されるが<ref name="プロ野球重大事件 誰も知らない“あの真相”128-130"/>、金田が誤解すると察し、固辞し、同時に自由契約となる。ちなみにロッテは野村への監督要請を打ち切った翌日に[[山内一弘]]の監督就任を発表している<ref name="プロ野球重大事件 誰も知らない“あの真相”128-130"/>。
 
 
{{by|1979年}}、[[根本陸夫]]監督率いる西武へ移籍{{#tag:ref|このとき同僚になった[[松沼博久]]は野村の配球に強い印象を受けたと語っている。|group="注"}}。{{by|1980年}}は控えに回ることが多くほとんど目立った活躍はなかったが、[[1980年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]には全パ・西本幸雄監督の推薦により出場。[[1950年代]]、[[1960年代]]、[[1970年代]]、[[1980年代]]の4つの年代での出場は史上唯一の記録である。また、選手として22回のオールスター選出は歴代最多。このうち[[1957年]]から{{by|1977年}}まで21年連続でファン投票選出されており、ファン投票選出回数、連続選出回数ともに王貞治と並ぶ歴代最多記録となっている。同年8月1日に前人未到の3,000試合出場を達成。同年11月15日に引退を表明<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_august/KFullNormal20070718167.html 「生涯一捕手」ノムさん、前人未到の3000試合出場](Sponichi Annex)</ref>、実働26年、45歳だった。最後の本塁打は7月29日の対阪急戦で放ったもので、このとき45歳1ヶ月、[[岩本義行]]の持つ最年長本塁打記録(45歳5ヶ月)に4ヶ月及ばなかった。出場試合数は3017試合まで伸ばし、この記録は2015年に[[谷繁元信]]に抜かれるまで35年間、歴代1位だった。
 
 
==== 引退 ====
 
野村の著書{{full|date=2017年9月}}によると、引退を決めたのは現役最後の年である{{by|1980年}}9月28日の阪急戦だという。この日、野村は捕手としてスタメン出場。4-3と西武が1点を追う展開の8回裏、一死満塁で迎えた野村の打席で、実働26年の選手生活で唯一の代打([[鈴木葉留彦]])を送られる。犠牲フライくらいはいくらでも打てると思っていた野村は愕然とし(野村は犠飛数のプロ野球記録保持者であり、横変化の球種をやや遅れ気味に打つという犠飛を打つコツも体得していた)、ベンチに下がった後、代打策の失敗を祈っていた。結局鈴木はショートゴロ[[併殺]]打に倒れ、その瞬間「ざまあみろ」と思ったという。この逸機が響いて西武は試合に敗れた。野村は帰途の車中、自分の気持ちが勝利を目指すチームとは逆の方向に向いてしまったことを悔い、引退を決めたという。
 
 
[[引退セレモニー]]は西武全選手が一・三塁間に横一列で並び、一人ずつピッチャーマウンド上のマイクで言葉を贈った後キャッチャーズボックスで構える野村に投球し、それを野村が受けるというものだった。南海の高卒新人捕手[[香川伸行]]から花束贈呈された。その後の記者会見終了後の野村の肩にはハローキティのカメラを持った当時小学1年生の息子・克則が乗っていた。
 
 
なお、打席時に着用したヘルメットは南海時代から引退まで着用し続けたが、チームを移籍する際にも塗装を塗り替えながら使用し続けた。そのヘルメットは引退後西武球団に保管されていたが、5年後に[[清原和博]]に引き継がれる。入団時、自分に合うサイズのヘルメットがなく、たまたま見つけたヘルメットがピッタリと合ったことによる。移籍後も塗装し直して引退まで使い続けた。
 
 
=== 解説者時代 ===
 
{{by|1981年}}から[[TBSテレビ]]・[[TBSラジオ]]の[[野球解説者]]({{by|1982年}}まで){{#tag:ref|1981年から1982年までTBSテレビ・TBSラジオのプロ野球解説者を務めたことについては、次の資料を参照<ref>『[[#TBS50年史|TBS50年史]]』資料編P234掲載「主なスポーツ番組解説者」</ref>。|group="注"|name="tbs_k"}}および[[サンケイスポーツ]]の[[野球評論家]]を務める。{{by|1983年}}からは[[テレビ朝日]]の解説者を務め、プロ野球中継では「ノムさんのクール解説」と呼ばれた。また、1981年から6年余り、[[週刊朝日]]で「野村克也の目」を連載した。テレビ朝日解説者時代には、ストライクゾーンを9分割した「ノムラスコープ」による配球の読み、打者・投手心理の解説が評判になる<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20140215/npb14021510010001-n4.html 【ノムラの記憶】江夏の21球(下)ノムさんが球史に残る名場面を語る (4/4ページ) - 野球] - SANSPO.COM(サンスポ) 2014年2月15日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20071017023012/http://hokkaido.nikkansports.com:80/baseball/professional/fighters/p-hf-tp0-20071015-270056.html HTB中継で伝説の「野村スコープ」復活 - 日本ハムニュース] - nikkansports.com(日刊スポーツ北海道版) 2007年10月15日9時19分 紙面から(インターネットアーカイブ同17日付保存キャッシュ)</ref>(「次の球は、ここに投げておけば必ずファウルになる」と予想し、その通りの結果になったなど。後年も解説者として出演する際には登場することがある)。これは野球中継では初の試みであった。またこの時期は講演や、沙知代がオーナーを務める少年野球チーム港東ムースの監督就任など公私にわたって活動した。
 
 
{{by|1988年}}オフ、古巣である南海ホークス改め[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]より、監督就任要請を受けるが固辞する<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1110/kiji/K20111019001852270.html 【10月19日】1989年(平元) ヤクルト新監督に野村克也 ちょっとゴネてみた理由] - 『スポニチアネックス』内「日めくりプロ野球」2011年10月配信分</ref>。
 
 
{{by|1989年}}に[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りする。
 
 
=== 専任監督時代 ===
 
==== ヤクルト監督 ====
 
===== 就任時の状況 =====
 
1989年の秋、野村の野球解説の鋭さを評価していた[[相馬和夫]]から監督就任の要請を受ける。[[長嶋茂雄]]が固辞したことによる要請であった為、一度は渋り断っていたが、南海時代に残っていた監督業への未練や、現場以外の多忙な生活から開放されたい一心でこれを承諾する。
 
当時のヤクルトは[[松園尚巳]]の下、ファミリー主義と明るいチームカラーでファンからも親しまれていた。しかし勝負への甘さがあり、長年にわたって負け越し、Bクラスに甘んじていた。野村の就任に対しては、暗い性格がチームカラーに合わないと懸念する声も多く、世間からは「過去の人」「ヤクルトにとっては部外者」というイメージを持たれた。また就任直後の12月、心疾患の疑いで一時入院すると早くも「野村の次の監督」を推測する報道がされるなど、健康面での不安も囁かれていた。コーチ陣はヘッド兼打撃コーチに南海時代からの参謀格である高畠、投手コーチに[[安田猛 (野球)|安田猛]]が就任し<ref>サンケイスポーツ1989年10月14日7版</ref>、[[伊勢孝夫]]が二軍から一軍の打撃コーチ、[[浅野啓司]]が二軍投手コーチに就任した。
 
 
===== ID野球 =====
 
{{see also|ID野球}}
 
{{by|1990年}}、データを重視するという意味の「ID野球」(IDは、Important Dataを意味する造語<ref>野村克也『無形の力 私の履歴書』 日本経済新聞社、2006年、P188。</ref>)を掲げてチームの改革を図る。主砲の[[池山隆寛]]や[[広澤克実|広沢克己]]らには、[[三振]]を減らすことや状況に応じたバッティングを指導。結果として、広沢は後に打点王のタイトルを獲得し({{by|1993年}})、池山もその90年にキャリアハイの打率.303、97打点(本塁打は31)を記録した。また、[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]2位で入団した[[古田敦也]]らをレギュラーに抜擢、前年まで正捕手だった[[秦真司]]を外野手に、控え捕手だった[[飯田哲也 (野球)|飯田哲也]]を二塁手にコンバートした。しかし1年目は改革が勝利には結びつかず、開幕からの巨人戦は[[大里晴信]]の疑惑の判定もあり、2試合連続のサヨナラ負け、3戦目に初勝利をあげるものの、その後も連敗を重ね結局5位に終わり、前年の4位を下回った。9月8日の試合では巨人の優勝が決まり、目の前で胴上げを見ることになった。野村の要請でヘッド兼打撃コーチに就任した高畠は一年で辞任、「野村さんはすっかり変わってしまった。いろいろな事に疑心暗鬼になる人に変わってしまった。かつての野村さんはそんな人じゃなかった。相変わらず[[野村沙知代|夫人]]の介入もありました」と述べている<ref>[[門田隆将]]著、甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯 ([[講談社]]文庫)、2008年、P303ー304</ref>。
 
 
{{by|1991年}}はキャンプ時から若手の成長が注目され、巨人の極度の不振(1979年以来12年ぶりにBクラスに転落)などもあってAクラスの3位に躍進。野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得して一流打者への仲間入りも果たした。二塁手から[[中堅手]]へ再度コンバートされた飯田は強肩俊足を生かした華麗な守備と走塁で注目を浴びた。[[高津臣吾]]に「日本を代表する抑えになれ、[[潮崎哲也]]のシンカーを参考にしてシンカーを投げろ」と助言し、その成長を促した。
 
 
現役時代、野村と確執のあった[[江本孟紀]]は「やさしいことを難しく言うのが野村ID野球の最大の特徴。データや戦略だけで勝てるほどプロは甘くない。実際野村さんの成績を見れば分かる。楽天では4年目にようやく2位になったが、ヤクルト、阪神を含めれば7年連続Bクラス。4年連続最下位の監督は過去に例がない。このとき野村さんが何て言ったかといえば、『オレがどんなに言っても選手がその通り動かなかった』って。でもこれは話が矛盾している。そういうチームをデータや戦略で強くするのが野村ID野球なのに、選手の力が足りないというのは本末転倒もいいところ」と批判している<ref>{{Cite book|和書|author=|year=2012|title=プロ野球ウラ人脈大全|chapter=江本孟紀の球界ウラ人脈講座|pages=28–39頁|publisher=[[宝島社]]|isbn=4800202253}}</ref>。
 
 
なお、IDバレー([[眞鍋政義]]監督)やIDサッカー([[野村雅之]]監督)など、他のスポーツでも「ID○○」という言葉が、後に使われるようになった。
 
 
===== セ・リーグ連覇と日本一 =====
 
{{by|1992年}}に混戦を制してセ・リーグ優勝。胴上げ投手はこの年ケガから復活したベテラン[[伊東昭光]]だった。この年は前述の選手に加え、投手では[[西村龍次]]、[[岡林洋一]]、[[内藤尚行]]、[[高野光]]、野手では[[荒井幸雄]]、[[橋上秀樹]]、[[笘篠賢治]]、[[ジャック・ハウエル]]らが活躍。ベテラン選手の渋い活躍もあったほか、9月には故障から4年越しで復帰した[[荒木大輔]]の起用もあった。他球団から移籍してきた[[新浦壽夫]]、[[角盈男]]、[[金沢次男]]らは中継ぎ投手として、ヤクルト一筋の[[杉浦享]]や[[八重樫幸雄]]は代打として働いた。[[1992年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では最終第7戦までもつれ込む激闘を演じたが、西武に敗れた。
 
 
{{by|1993年}}は[[長嶋一茂]]を巨人に金銭トレードで放出し、前年のリーグ優勝で自信を深めた古田、広沢、[[レックス・ハドラー]]、ハウエル、池山、荒井、飯田、秦のレギュラー陣が安定した活躍を見せた。投手では、新人の[[伊藤智仁]]が前半戦で大活躍。伊藤は酷使が祟ったのか故障で後半戦を棒に振るが、先発の伊東、西村、この年に[[カムバック賞 (日本プロ野球)|カムバック賞]]を受賞した[[川崎憲次郎]]、中継ぎの内藤、8年目でブレイクした[[山田勉 (投手)|山田勉]]、リリーフエースとして定着した高津らの働きもあり、チームはそのままリーグ優勝。前年に続いて西武との対戦となった[[1993年の日本シリーズ|日本シリーズ]]を、再び最終第7戦までもつれ込む激闘の末に制し、遂に日本一に輝いた。この年の12月31日に行われた[[第43回NHK紅白歌合戦]]では審査員として出演した。
 
 
{{by|1994年}}は投手陣や古田など怪我人が相次いだこともあり、5月中旬を境に低迷。[[10.8決戦#同率最終戦での最下位決定戦|ペナントレース最終戦]]に勝ってようやく最下位だけは免れた。
 
 
===== リーグ優勝・日本一 =====
 
{{by|1995年}}は、投手の[[石井一久]]、[[山部太]]、高津、野手の古田、[[土橋勝征]]、池山、飯田らのほか、新人の[[稲葉篤紀]]、新外国人[[テリー・ブロス]]、さらに阪神を自由契約になっていた[[トーマス・オマリー]]、前ロッテの[[ヘンスリー・ミューレン]]<ref>週刊ベースボールプラス6 1950-2011 わが愛しのスワローズ 国鉄から始まった栄光の軌跡、[[ベースボール・マガジン社]]、2011年、P69。ミューレンは「野村監督からも、いろいろためになる話を聞かせてもらったし、細部にわたって細かく気を配ることが勉強になった。彼らは優れた指導をしている。ヤクルトでプレーできて本当に幸運だった」と語っている。</ref>、近鉄との間で西村とのトレードで獲得した[[吉井理人]]など移籍してきた選手が活躍。前年オフに主砲の広沢([[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]制度を利用)とハウエルが揃って巨人に移籍したことによる穴をこれらの選手が十分に埋め、安定した戦いぶりにより{{#tag:ref|この年、同一カード3連戦で3連敗は1度もなし。|group="注"}}、最終的には全カード勝ち越しでセ・リーグを制した。また、オリックスと対戦した[[1995年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は[[イチロー]]を内角高めの速球を意識させることで封じ込め、4勝1敗で日本一になった{{#tag:ref|イチロー以外にも[[中嶋聡]]捕手も徹底的にマークし打ち崩して捕手交代に追いやった。|group="注"}}。{{by|1996年}}は4強の一角に食い込むも投手陣の総崩れから早々に脱落、終盤にはイニング連続無得点のリーグ記録も更新して4位に終わる。
 
 
{{by|1997年}}の開幕戦(対巨人)、前年広島を自由契約になり獲得した[[小早川毅彦]]がエース[[斎藤雅樹]]から3本の本塁打を放ち快勝、ヤクルトはそのまま開幕ダッシュに成功する。1997年5月16日の阪神戦の勝利で監督として[[三原修]]、[[藤本定義]]、[[水原茂]]、[[別当薫]]に次いで史上5人目の両リーグ500勝監督になった<ref>サンケイスポーツ 1997年5月17日7版</ref>。8月には[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]との熾烈な首位争いを繰り広げ、最終的には1度も首位を明け渡すことなく、2位横浜に11ゲーム差をつけてリーグ優勝。[[1997年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも西武を破り3回目の日本一となる。この年活躍した選手に投手の石井、吉井、[[田畑一也]](ダイエーから獲得)、野手の古田、土橋、池山、[[宮本慎也]]、[[真中満]]、稲葉、シーズン前に酷評した[[ドゥエイン・ホージー]]、1996年に田畑と共にダイエーから移籍した[[佐藤真一]]、[[青柳進]]、同じく1996年に西武を戦力外になり移籍した[[辻発彦]]、オリックスから移籍した[[馬場敏史]]、[[中日ドラゴンズ|中日]]からテスト入団した[[野中徹博]]らがいる。{{by|1998年}}は4位に終わり、この年のオフで勇退。最初に2連覇した後は日本一と4位を交互に繰り返したが、スワローズ歴代でも屈指の名将と評価されている。ヤクルト監督時代の成績は1187試合628勝552敗7引き分けで勝率.532<ref name="わが愛しのスワローズ 国鉄から始まった栄光の軌跡">週刊ベースボールプラス6 1950-2011 わが愛しのスワローズ 国鉄から始まった栄光の軌跡、ベースボール・マガジン社、2011年、P56</ref>。
 
ヤクルトの前身国鉄・サンケイ時代を含め、野村の勝利数、勝率はいずれもトップである<ref name="わが愛しのスワローズ 国鉄から始まった栄光の軌跡"/>。
 
 
===== ID野球のミーティング =====
 
現役晩年を野村指揮下で過ごした[[渡辺久信]]はヤクルト時代での体験を著書『寛容力 怒らないから選手は伸びる』で振り返り、カルチャーショックだったと語っている。曰く、野村ヤクルトは西武では考えられないほど、まず何よりミーティングに長い時間を費やした。そしてその形式も非常に独特のものであり、野村が延々と講義しながらホワイトボードに板書し、選手はそれを耳で聞いていては理解が追い付かないので、ノートをとって試合、オフ時間に見返す、というまるで学校の授業のようなことをしていたという。
 
 
その講義内容自体も渡辺にとっては大きな衝撃であり、それは当時「常勝軍団」としてNPB界屈指のハイレベル野球を展開していた西武ですら実践していなかった深いものだったと語っている。特に打球カウント別の打者・投手・捕手心理がその講義の中心で、カウントパターンに合わせた野村の緻密な独自理論は、渡辺に指導者・戦略としての野球の面白さを感づかせてくれるような機知に富むものであったという。
 
 
[[トーマス・オマリー]]は「監督、大好きね。リスペクトしているんだ」、「とにかく色々教わった。データから相手の強み、弱み。すべて理解し準備した上で試合に臨むことが重要だとね。」と述べている<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20140829/bbl1408290700002-n1.htm スランプ短い虎の4番ゴメス 秘密は野村ID オマリー補佐が注入] - 『ZAKZAK』(夕刊フジ)2014年8月29日</ref>。
 
 
==== 阪神監督 ====
 
{{by|1999年}}、[[三顧の礼]]をもって阪神の監督に迎えられる。ヤクルト監督退任直後であること、阪神は例年生え抜きを中心に監督人事を進めていたことから、電撃的な就任だった。[[久万俊二郎]]から野村には対して「今まで球団が監督要請をした中で、私が直接出てきてお願いするのは野村さんが初めてです」、「今、タイガースはどん底にあります。来年、一からスタートするのにあたり、監督にふさわしいのは野村しかいない。野村さんは球界の第一人者。あなたの右に出る者はいません」とそう熱っぽく語ったという<ref>野村克也『無形の力 私の履歴書』日本経済新聞出版社、2006年、P232</ref>。当時阪神の球団本部長だった[[野崎勝義]]によると野村が連れてきたコーチはヘッドコーチに[[松井優典]]、投手コーチに[[八木沢荘六]]、打撃コーチに[[柏原純一]]の3人である<ref name="ダメ虎を変えた!">[[野崎勝義]]『ダメ虎を変えた! ぬるま湯組織に挑んだ、反骨の11年』[[朝日新聞出版|朝日新聞社]]、2011年、P60 - 61</ref>。他に多くの要望が来ると覚悟していたが、野村が注文を付けたのはこれだけである<ref name="ダメ虎を変えた!"/>。
 
 
{{by|1985年}}の日本一以降長く低迷するチームの再建を託した野村に対する期待は大きく、就任時の会見ではフロントが「野村監督様」と紹介するなどVIP待遇を受ける。またファンの人気も絶大だった。「野村TOP野球」(TOPとは、Total・Object lesson・Processの略語)をチームの[[標語|スローガン]]とし、開幕直後から快進撃を続け、6月9日には単独首位に立ち(この年優勝した中日以外唯一首位についたチームとなる)、野村の誕生日である6月29日に発売される予定だった時価100万円の純金製野村監督像(通称・純金ノムさん)が前倒しで発売された(最初の購入者は、[[月亭八方]])。総売上げ数は27個。
 
オールスター戦を挟んで9連敗<ref name="週刊プロ野球セ・パ誕生60年 第36号 1999年(平成11年)">週刊プロ野球セ・パ誕生60年 第36号 1999年(平成11年)、[[ベースボールマガジン社]]、2009年、P20 - 21</ref>、9月28日には前年記録した球団ワースト記録の12連敗を喫し最下位に終わった<ref name="週刊プロ野球セ・パ誕生60年 第36号 1999年(平成11年)"/>。
 
 
また安芸キャンプにおける[[新庄剛志]]の投手兼任プランや、[[遠山奬志]]の[[松井秀喜]]キラーとしての再生、遠山と[[葛西稔]]のスイッチ起用(通称「遠山・葛西スペシャル」、遠山 - 葛西 - 遠山 - 葛西、この頃の阪神の選手層の薄さから抑えに指名できる投手がいなかったため。どちらかが一旦一塁を守って再度登板する)なども行った。
 
 
{{by|1999年}}のオープン戦で、強肩の新庄を「投手心理を理解させるため」投手として起用。野村が提言する「考える野球」と新庄の積極的な性格も相まって関係は良好だった。6月12日の対巨人戦では新庄が敬遠球をヒッティングし、三遊間を抜けるヒットになりサヨナラ勝ちを収めた。サヨナラ劇では新庄が「敬遠されたらボール球を打ってもいいか」と奇襲策を提案し、野村は「好きにせえや!」と事実上のゴーサインを出している。
 
 
[[ダレル・メイ]]が「あの監督は勝てば自分の手柄、負ければ選手の責任」と放言<ref name="週刊プロ野球セ・パ誕生60年 第36号 1999年(平成11年)"/>。文書で野村批判のビラを自ら配る<ref name="週刊プロ野球セ・パ誕生60年 第36号 1999年(平成11年)"/>。メイはシーズン終了待たずに解雇された<ref name="週刊プロ野球セ・パ誕生60年 第36号 1999年(平成11年)"/>。
 
 
なおこの年の[[8月7日]]の対ヤクルト戦、3回表無死一二塁で、阪神・[[湯舟敏郎]]が送りバント。一塁塁審の[[小林毅二]]は湯舟を一塁アウトと判定したが、野村は一塁ベースカバーのヤクルト・[[馬場敏史]]の足が送球を受けるより早くベースを離れたとして抗議。野村はセーフではないかと審判団に詰め寄り、その抗議の中で「このバカ」と暴言を吐いたため、小林は野村に退場を宣告し<ref name="test">[http://web.archive.org/web/20020617042055/http://osaka-nikkan.com/lib/otr99/08/07.html 大阪日刊スポーツ・なにわWEB・99年タイガース戦跡] 野村、64歳にして初の退場(2002年6月17日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>、野村の野球人生で初めての退場処分となった。
 
 
{{by|2000年}}は、4月の9連勝(1分け含む)で首位浮上した時は「今年は違うぞ」の印象を与えたが、すぐさま6連敗<ref name="週刊プロ野球セ・パ誕生60年 第37号 2000年(平成12年)">週刊プロ野球セ・パ誕生60年 第37号 2000年(平成12年)、ベースボールマガジン社、2009年、P41</ref>。以降立て直しがきかず球団史上初の3年連続最下位に終わった<ref name="週刊プロ野球セ・パ誕生60年 第37号 2000年(平成12年)"/>。チーム得点は両リーグ最低の2年連続400点台、投手陣も[[川尻哲郎]]が復調の気配を見せたぐらいだった<ref name="週刊プロ野球セ・パ誕生60年 第37号 2000年(平成12年)"/>。{{by|2001年}}は、4番として自己最高の成績を収めた新庄が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]で前年オフに[[ニューヨーク・メッツ]]へ移籍。厳しい状況の中、若手選手育成を掲げ、7人の俊足選手を「F1セブン」(後述)と名付けて売り出したが、打率・得点・本塁打はリーグ最下位、この年も順位は最下位。野村が招聘した松井、八木沢、柏原の3コーチは解任された(松井はフロント入り)<ref>阪神、松井ヘッドら3コーチ解任へ、[[時事通信]]2001年10月8日</ref>。2001年10月19日に来季の首脳陣が発表され野村の留任も発表されヘッドコーチに[[木戸克彦]]、投手コーチに[[佐藤義則]]、打撃コーチに[[和田豊]]が就任した<ref>阪神の来季スタッフが決定=プロ野球、時事通信2001年10月19日</ref>。秋季キャンプは指揮を執ったものの、沙知代夫人が脱税容疑で[[東京地検特捜部]]に逮捕された当日に辞任を発表した<ref>[http://www.m-tigers.net/koyuroku/n1212.html 虎を変えた名将 気の毒な退団劇の顛末] - 『月刊タイガース』公式サイト</ref>。結局、阪神監督としては3年連続最下位で終わった。尚、著書の一冊である「女房はドーベルマン」によると、野村は沙知代が逮捕されるまで脱税行為をしているとは知らなかったとのこと。
 
 
===== F1セブン =====
 
F1セブン(エフワンセブン)は2001年に、本拠地である[[阪神甲子園球場]]が広いということ、ホームランバッターが皆無というチーム状況の中で、機動力重視のチーム方針の象徴として名付けられた選手たちのことを言う。
 
* メンバー
 
** (1号車)[[赤星憲広]]
 
** (2号車)[[藤本敦士]]
 
** (3号車)[[沖原佳典]]
 
** (4号車)[[上坂太一郎]]
 
** (5号車)[[平下晃司]]
 
** (6号車)[[松田匡司]]
 
** (7号車)[[高波文一]]
 
 
なお、この当時から俊足選手として重宝されていた[[田中秀太]]を忘れたため、発表翌日に「秀太忘れとった、F1エイトや」と訂正したが、ほとんど話題になることはなかった。なお、『野村ノート』(小学館)では「高波、藤本、沖原、秀太ら足の速い選手を7人集めて【F1セブン】といって売り出した。まぁ、沖原などは決して速いほうではなかったのだが、セブンの語呂がよかった」と説明している。
 
 
===== F1セブンと平成の新少年隊 =====
 
* F1セブンは、かつての[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]の[[スーパーカートリオ]]([[屋鋪要]]、[[高木豊]]、[[加藤博一]])を意識したネーミングで、野村曰く「[[スーパーカー]]はもう古い、これからの時代は[[フォーミュラ1|F1]]」とのことで「F1セブン」となった。
 
* 赤星、藤本、沖原の3人は新入団で、野村が直々にスカウトした選手だった。そのためキャンプでは新戦力に期待するファンが多かったが、オープン戦では全員が打率2割台以下に落ち込み、オープン戦で大爆発を見せた新外国人の[[イバン・クルーズ]]に話題を奪われた。
 
* シーズン序盤に空中分解したF1セブンの後釜として、同年6月に赤星、上坂、[[濱中治]]で『平成の新少年隊』を結成したが(当初は藤本の予定だったが、藤本が怪我で2軍落ちしたため、上坂と交代)、F1セブンと比べると話題性は低かった。
 
* F1セブンのメンバー及び平成の新少年隊では、赤星がルーキーながら[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]を獲得し、濱中もこの年にブレイクして活躍、藤本と上坂も若手ながらレギュラーを奪取するなど、一定の成果が見られた。
 
* 翌年、[[星野仙一]]監督が高波、松田の代わりに[[坪井智哉]]、濱中を加えた「新F1セブン」を考案したが、これも話題にならなかった。
 
* その後、赤星と藤本は{{by|2003年}}、{{by|2005年}}の阪神優勝の原動力となり、沖原も2003年の優勝に大きく貢献するなど、一部のメンバーは活躍を見せた。
 
* 野村は楽天の監督に就任後、西武から戦力外通告を受けた高波を獲得。代走、守備要員として活躍したが、2008年オフに沖原と共に自由契約となった。また、上坂は2007年オフのトライアウトで視察したが、獲得には至らなかった。
 
* F1セブンのメンバーは、赤星が引退し藤本が国内FA権を行使してヤクルトに移籍した2009年シーズンを最後に、全員が阪神を退団。その後、平下が2010年シーズンで引退。最後まで現役を続行した藤本も、[[2013年]]シーズン限りで引退している。
 
 
===== 阪神監督としての評価 =====
 
メディアでは「阪神では常勝チームとなる礎を築いた」などと紹介されることが多いが、最下位からの浮上は出来ず、あまり結果を残したとはいえない3年間であった。上述のように南海、ヤクルト時代とも多少なりとも戦力は揃っており、野村はそのチームの弱点(絶対的な抑え投手、捕手、1番打者などの不在等)を的確に改善してきた。しかし野村が監督をしていた当時の阪神は、本塁打を20本程度打てるものの三振も多く規定最低打率を争う状態だった新庄と[[桧山進次郎]]がクリーンナップとして出場するなど、過去2球団と異なり選手層が薄いチームであった。
 
 
投手陣では、リリーフエースから先発に転向させた[[福原忍]]や若手で野村監督就任時2年目だった[[井川慶]]に大きな期待をかけていた。特に井川については野村が監督をつとめた3年間でエースとして成長した。また「遠山・葛西スペシャル」などは人材難の裏返しでこそあったが、野村時代3年間でチーム防御率は4.04⇒3.90⇒3.75と年々改善されている。福原や井川が活躍してセ・リーグ制覇を勝ち取った2003年シーズンのチーム防御率は3.53だった。
 
 
野村が招聘したヘッドコーチの松井優典は「ミーティングを仕切れない。その言葉に説得力がない」、打撃コーチの柏原純一は「外国人選手に対してものを言えない。また特定の選手、例えば人気の新庄剛志外野手しか指導しない。それ以外の選手に熱意を持った指導がない」そんなことを野崎はオーナーの久万に伝えた<ref>野崎勝義『ダメ虎を変えた!ぬるま湯組織に挑んだ、反骨の11年』P71-72</ref>。
 
 
一方でチームの打撃成績は中々上がらず、戦力が少ない中でのやりくりも上手く行かず、「何度駄目なところを指摘しても直さない。日本語が通じないのか」と度々酷評していた[[今岡誠]]や[[大豊泰昭]](後に中日移籍)との対立が話題に挙がることも多かったが、こうした対立はあくまでも少数派であり、[[岡田彰布]]が監督に就任した前後で野村が楽天の監督となった後も赤星、藤本、[[矢野燿大|矢野輝弘]]、桧山らは楽天戦の試合前には必ず挨拶し、その様子は新聞などによって度々報じられていた。また、低打率かつ三振が多くレギュラーポジションを奪われていた桧山が中距離打者としての地位を確立したのも、新人の赤星がリードオフマンのポジションを得たのも、野村監督時代であった。
 
 
ヤクルト監督時代の教え子で巨人退団後野村が獲得した広澤克実は「2000年の阪神はヤクルトが最下位争いしていた時代と同じ色がしていた。ベテラン、外国人、若手がみんなバラバラ。不協和音が流れ、選手が育たない独特の雰囲気だった。私は右肩の脱臼骨折が完治しておらず、ボールが投げられない状態だったが、よく4番一塁で使ってもらった。一塁手の大豊泰昭が野村監督と揉めていたからだ。」と述べている<ref>2014年3月29日[[スポーツニッポン]]11版「広澤克実の我が道29」より</ref>。
 
 
野村が阪神監督時代二軍監督だった岡田は「阪神の二軍監督の時は野村さんとの関係でいろいろ言われた。野村さんとは話をせずに報告ばっかりやったから、コミュニケーションが取れんかったのは事実だ。野村さんは一度も二軍の試合は見にこんかった。鳴尾浜には松井さん(ヘッドコーチ)がいつも来ていた。二軍の選手も数字がついてくる。打者も投手もファームで成績を残し一軍に上がりたい。打っても、抑えても一軍からお呼びがかからなければモチベーションは下がるし、「なんで俺より先にあの選手が?」と疑問に思う。野村さんは一軍に昇格させた選手を一度も使わず、二軍に戻すこともあった。あの頃は、頑張っている選手たちの汗に応えてあげることができず本当につらかった。野村監督で一番参っていたのは今岡だろう。今岡自身にも問題はあったかもしれないが、野村さんは覇気のない態度や、時に見せる淡泊なプレーが気に入らなかったようだ。今岡という選手は二軍に置いて調子を見るというタイプではない。気持ちで打つ選手やから、難しい球をホームランすることもあれば、あっさり三振する時もある。この点も野村さんには嫌われていたのではないか。」と述べている<ref>岡田彰布、[[日刊ゲンダイ]]、俺の頭はなぜデカイのか<第25回>野村さんとは選手に対する考え方が根本から違った 2015年10月8日</ref>。
 
 
グラウンドでの采配のみならず、フロントに積極的な戦力補強の進言をしたとされる<ref>[http://www.m-tigers.net/koyuroku/n1301.html 虎に浸透させた「野村の考え」 イメージに反して意外な一面も]
 
- 『月刊タイガース』公式サイト</ref>。野村は史上初めて久万と会談した阪神の監督である。久万は元々、FAなど多額の金銭を使って日本人選手を獲得することに消極的で、補強はトレードと外国人獲得で済ませていたこともあり、「巨人のようになれというのか」「4番バッターを育てるのが監督の役目」などと拒否していた。しかし野村は「ある意味では(巨人の補強方法は)正しい、時代に合ったものです」と進言し、「じゃあ今まで60年あった阪神の歴史の中で誰が4番バッターにまで生え抜きで成長しましたか? [[掛布雅之]]ぐらいでしょう。あと60年待ちますか? 4番バッターだけは(才能ある選手との)巡り会いなんですよ」と説いたという。
 
 
また、当時阪神が短期間で監督を代えていたこと、編成部の有力な新人選手獲得失敗にも言及し、「監督だけ代えてもチームは強くならない。戦力補強と編成部の強化を行うべき」とも進言した。これらの意見に対し、久万は会談中激昂する場面もあったものの、会談後、野村の意見を取り入れたと見られる施策を打っている([[片岡篤史]]や[[ジョージ・アリアス]]の補強、[[鳥谷敬]]の獲得等)。
 
 
当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったと報じられた。
 
 
また、後任として中日の監督だった星野を久万に推薦したのも野村であるという。任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り「今の状態の阪神を再建できるとすれば[[西本幸雄|西本(幸雄)]]さんか星野だ」と、既に熱血指導型の星野に後を託す考えもあったと言われる。後任の星野も久万に直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と発言した。
 
その後阪神は、野村辞任の2年後にあたる{{by|2003年}}と岡田監督2年目の{{by|2005年}}にリーグ優勝を果たした。{{by|2006年}}5月30日、野村は楽天の監督として初めて甲子園球場における対阪神戦([[セ・パ交流戦]])を迎えたが、選手交代を告げにグラウンドに姿を現す野村を、甲子園の阪神ファンは歓声と拍手で迎えた。
 
 
==== シダックス監督 ====
 
2002年秋から[[日本野球連盟|社会人野球]]チームの[[シダックス野球部]]監督兼[[ゼネラルマネージャー]]に就任した。就任当時のシダックスは低迷していたが、野村は持ち前の理論を元にチームを再建。また[[オレステス・キンデラン]]、[[アントニオ・パチェコ]]の元キューバ代表選手を獲得、2003年の[[第73回都市対抗野球大会]]では準優勝を果たした。この年のオフには[[サンケイスポーツ]]など一部[[スポーツ紙]]から[[中日ドラゴンズ]]の次期監督候補として名前が挙がった<ref>[http://web.archive.org/web/20030928031859/http://www.sanspo.com/baseball/top/bt200309/bt2003092711.html 中日の新監督候補に社会人シダックス監督の野村克也氏] - サンケイスポーツ 2003年9月27日(2003年9月28日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref> が、結局は[[落合博満]]が就任した。
 
 
2005年10月3日、楽天監督就任要請を受けたため同年限りでシダックス監督を退任することを発表。11月19日の対[[日本生命硬式野球部|日本生命]]戦(1対2で敗退)が最後の指揮となった。なお、[[日本野球連盟]]は同年の[[社会人ベストナイン]]特別賞を野村に授与している。
 
 
のちにキューバの監督をつとめるパチェコは「野村の野球を日本で吸収した」と語るなど、シダックスで得たものもあった。
 
 
==== 楽天監督 ====
 
{{by|2005年}}9月、楽天は「チームの再構築が必要」という理由から初代監督の[[田尾安志]]を就任1年足らずで解任。この時、野村は楽天側から非公式の監督就任の打診を受けていたものの、契約条件や巨人を自由契約になった[[清原和博]]の獲得問題などで難航した。だが、10月3日、社会人日本選手権を最後にシダックス監督を退任するとともに、楽天の監督就任要請を正式に受諾。5年ぶりにプロ野球界に復帰することとなった(3年契約)。日本のプロ野球において70歳代で監督となったのは[[仰木彬]]に次いで史上2人目{{#tag:ref|1976年に71歳で太平洋クラブ(現・埼玉西武)の監督として契約した[[レオ・ドローチャー]]を含めると3人目である。ドローチャーは契約後病に倒れ、実際に指揮を執ることはなかった。なお、野村の辞任後に70歳で中日監督に復帰した[[高木守道]]を含め、70代の日本人プロ野球監督は2015年現在でも3人しかいない。|group="注"}}。監督就任に際し野村は「このおじいちゃんに監督の要請が来ること自体プロ野球に後継者が育っていないことを意味している」とコメントしている。1年間監督を続け仰木の持つ最年長監督記録を更新した。「三木谷浩史が清原のファンみたいだね。オレは知らないけど、三木谷が獲りにいくでしょう。ピアスに代表されるように、精神構造が乱れている。チームの統制が乱れるので、指揮官としてはやりにくい」と改めて難色を示し、コーチ人事は[[伊勢孝夫]]、[[八重樫幸雄]]、[[川崎憲次郎]]の名前が候補に挙がっていたが<ref>ノムさん“田尾内閣は全員辞めてもらう” [[スポーツニッポン]]、2005年10月8日</ref>、川崎に投手コーチの要請をしたが断られ<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32123?page=2 [虎四ミーティング]川崎憲次郎(プロ野球解説者)<後編>「“怖さ”の松井と“嫌らしさ”の川相」] - 2012年3月23日</ref>、自身の人脈で連れて行ったのは[[池山隆寛]]だけだった<ref>野村克也『野球のメキキ 観戦力が高まる本』[[東邦出版]]、2012年、P154</ref>。
 
 
{{by|2006年}}5月11日、[[セ・パ交流戦]]の対横浜戦において、8回裏に[[谷中真二]]が投じた肩付近への死球が危険球とみなされ退場処分になったことに激昂、[[木内九二生]]球審を突こうとするなどして猛抗議。あわや野村も退場処分になるところだった。5月16日、[[宮城球場|フルスタ宮城]]で行われたヤクルト戦では、ヤクルトを率いる古田監督との師弟対決が実現した(結果は、10-9でヤクルトが勝利)。以後この師弟対決は5回戦まで全てヤクルトが勝っていたが、雨天中止で予備日(6月19日)に回された6回戦に4-2で勝ち、ヤクルトの交流戦単独優勝の可能性を消滅させた。
 
 
かつては自軍の選手が本塁打を打ってもベンチに座ったまま出てこようとはしなかったが、ベンチから出て選手を[[ハイタッチ]]で出迎えるようになった。相変わらずの毒舌も度々飛び出す一方、記者の質問にジョークを返したり、ユーモアを交えて回答するようになった。テレビのスポーツニュースでは毎回野村の試合後のコメントが伝えられた。特に[[田中将大]]が登板した日のコメントは「マー君、神の子、不思議な子」や「不思議の国のマー君」などと残しており、スポーツ紙などでは名物コーナーとして「野村語録」が次第に常設されるようになった。
 
 
育成方針は基本的に叩いて伸ばすタイプだが、楽天時代には活躍した選手や、進歩が見られる選手に対しては素直に感謝や賞賛の言葉を贈るなど、以前とは違った面を見せ始めた。ただし息子のカツノリは同年に戦力外通告されたのを機に現役を引退し、コーチに転身。
 
 
2006年は昨年続き最下位に終わり、[[飯田徳治]]、[[別当薫]]、[[根本陸夫]]、[[近藤昭仁]]に次いで史上5人目の両リーグ最下位の監督になった。公式シーズン後(11月)に行われた[[日米野球]]の監督を務めたが、選手の出場辞退が相次ぎ苦戦、史上初めてメジャーリーグ選抜チームに5戦全敗。72年ぶりの記録を作ってしまう。
 
 
2006年11月23日に開催された楽天のファン感謝祭において、「来年は私の野球人生のすべてを賭ける。Aクラスに入れないようなら辞めて次の人に譲ります。いくら東北のファンが粘り強いと言っても、(新規参入から)3年連続で裏切ったら許してくれないでしょう」と、来季の成績に自分の進退を賭ける旨の決意表明をした。このことは球団側も聞かされておらず、[[米田純]]球団代表も突然の事態に困惑していた。野村は就任当初から「作る年、戦う年、勝つ年」と3年かけてチームを作る方針を語ってきたが、{{by|2007年}}は3年契約の2年目であり「戦う年」にあたる。監督自らが提唱する計画に反するため、本当に辞めるつもりだったのか、それとも辞めるくらいの決意で戦うというリップサービスであったのかは定かでない。また、球団側は2007年シーズンが終了してもまだ契約が残っていることを強調したため、来季の成績如何にかかわらず慰留する方針であると考えられていた。11月26日に行われた球団納会において[[島田亨]]球団社長から前述の発言の再考、撤回を求められたが拒否した。11月28日に行われた楽天の経営諮問委員会に出席し、その場で[[三木谷浩史]]オーナーや東北の財界者にAクラス入りを果たすまでは辞任しないで欲しいと長期政権を望まれた。しかし「成績が悪ければ進退伺を提出するのが通例。来季は自分の野球生命を賭ける」と今までと同じ姿勢を崩さなかった。
 
 
2007年シーズンは、新人を含め若手選手を積極的に起用する場面が目立った。投手陣では[[一場靖弘]]、[[岩隈久志]]らのシーズン序盤での離脱の影響もあり、[[永井怜]]、田中将大らを先発ローテーションに起用。捕手は育成を兼ねてルーキーの[[嶋基宏]]を多用。またシーズン中盤には[[渡辺直人]]、[[草野大輔]]らが台頭した。後半戦開始間もなく[[福盛和男]]が離脱するものの[[小山伸一郎]]をリリーフエースとして起用、一場靖弘、岩隈久志が一軍復帰したこともあり先発ローテーションを再編し、それまで主に先発だった[[山村宏樹]]、[[有銘兼久]]、永井怜らをリリーフ転向させた。結果は球団3年目で初の最下位脱出となる4位となる。2007年10月4日、3年契約最後の年である{{by|2008年}}も予定通り監督を続けることを表明。
 
 
2008年6月29日、対ソフトバンク戦では球団史上最多の20安打の猛攻で15点を奪い大勝。この日は73歳の誕生日で、7年ぶりの誕生日白星となり、選手達が用意した帽子型のケーキで祝福された。7月5日、対西武戦([[西武ドーム]])では「ライオンズ・クラシック」の企画の一環として、当時([[1963年]])の日本記録である野村の52本塁打達成の舞台となった西鉄ライオンズ対南海ホークス戦を再現する形でイベントが行われた(この試合では[[豊田泰光]](元西鉄)が始球式を行い、野村が捕手を務めた)。
 
 
同年7月15日、対日本ハム(東京ドーム)戦で監督として通算3,000試合出場を達成、選手としても通算3,017試合に出場しており、日米ともに前例のない、選手・監督両方での通算3,000試合出場を達成した。この年は序盤に球団初の単独首位になるものの交流戦後半から失速、かろうじて最終戦で勝利して最下位脱出をしたものの5位に終わる。2007年とはうって変わり、得失点差はプラスとなり、エース岩隈久志が21勝を挙げて復活するなど戦力の整備は進んだものの、順位には反映されなかった。同年シーズンを以って3年契約が終了。去就が注目されたが、球団から戦力の整備を評価され、1年契約での続投要請を受ける。野村自身もそれを受諾し、{{by|2009年}}も引き続き楽天を指揮することになったが、[[ドミンゴ・グスマン]]と[[ホセ・フェルナンデス (1974年生の内野手)|ホセ・フェルナンデス]]([[中村紀洋]]をFA獲得)が退団。
 
 
2009年シーズンは開幕から投手陣を中心に怪我人が続出した。特にドラフトで獲得した新人投手全員がオープン戦前に故障してしまい、[[片山博視]]や[[青山浩二]]といった期待の若手もキャンプで出遅れた上、前年活躍した新守護神[[川岸強]]も開幕後すぐに体を傷めるなど、投手に関しては就任以来の災厄に見舞われた。さらに野手に関しても、[[高須洋介]]や[[リック・ショート]]などが故障でシーズン中に長期間戦線離脱するなど怪我人の多い年となった。スポーツ紙での解説者の順位予想では楽天は軒並み下位予想され、野村はこれに対して「下馬評が低いからやりやすい」とコメント。
 
 
開幕当初はチーム初の開幕4連勝を果たす好スタートを見せ、4月を首位で終える。しかし、怪我人が続出した5月以降は調子を落とし、交流戦では最大6連敗を喫し、7月には3年ぶりの8連敗を喫し、一時は5位にまで後退するが、8月に入り最大6連勝を含め通算17勝7敗。9月以降も好調を維持し、9月12日のソフトバンク戦([[福岡ドーム|ヤフードーム]])でチーム初の[[クライマックスシリーズ]](以下「CS」)進出マジックナンバー「19」が点灯。2度消滅するが、10月3日の対西武戦(Kスタ宮城)で勝利し、チーム初のCS進出決定。同9日のオリックス戦で2位が確定し、CS第1ステージの地元開催権を獲得する。楽天としては初のAクラス入りとなり、野村自身のキャリアでもヤクルトで最後に優勝した1997年以来8シーズンぶりであった。しかし、その翌々日・11日にKスタ宮城で行われたレギュラーシーズン最終戦(対ソフトバンク)終了後、球団から契約を更新しない旨を告げられ、同年シーズン限りでの退任が決定した。16日に開幕したCS第1ステージではソフトバンクに2連勝し第2ステージ進出を決めたが、10月21日開幕の第2ステージでは日本ハムに1勝4敗を喫し、日本シリーズ出場はならず。日本ハムのCS優勝セレモニーの後、楽天、日本ハム両軍の選手、コーチに胴上げされた。11月2日、楽天の新監督に[[広島東洋カープ|広島]]の前監督[[マーティ・ブラウン]]の就任が発表されるとともに、一度は拒否の姿勢を見せていた名誉監督就任要請を受諾することとなった。退任決定の際に「人生に疲れた。クビと言われ、どっと疲れが出てきた」と語った。さらに「ユニホーム姿もいよいよ秒読みだが、やっぱりオレは『元南海』がいい」とも口にした。
 
 
=== 監督退任後 ===
 
{{by|2010年}}からは[[サンケイスポーツ]]の野球評論家に復帰、テレビ・ラジオではフリーの野球解説者として出演している。
 
 
2010年1月24日には、故郷網野や母校が在る[[峰山町]]([[平成の大合併]]で両自治体合併し[[京丹後市]])を含んでいた[[京都5区]]選出代議士[[谷垣禎一]]が[[自民党総裁|総裁]]就任直後の[[政権奪還]]を目指す[[野党]]第一党[[自民党]]の党大会で講演をした。講演では「負けるときは負けるべくして負ける。巻き返しに向けて頑張れ」と自民党の政権奪還に向けて叱咤激励し、「負ければ反省するが、勝つと反省しない。そこに落とし穴があった」と[[第45回衆議院議員総選挙]]敗北の要因を野村なりに分析し語った。また、自民党をかつて「球界の盟主」と言われた[[読売ジャイアンツ]]に例え「上に立てば必ず足を引っ張られることを忘れず、気を引き締めて捲土重来、頑張ってください」と応援の言葉を述べた<ref>{{Cite news
 
|url = http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100124/stt1001241204008-n1.htm
 
|title = 【自民党大会】ノムさん、自民と楽天にチクリ
 
|newspaper = [[産経新聞]]
 
|date = 2010-01-24
 
|accessdate = 2010-01-25
 
|archiveurl=http://web.archive.org/web/20100127184934/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100124/stt1001241204008-n1.htm
 
|archivedate=2010-01-27
 
}}</ref><ref>{{Cite news
 
|url = http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010012401000142.html
 
|title = 野村前監督、党大会で自民を叱咤 「巻き返しに向け頑張れ」
 
|newspaper = [[共同通信社]]
 
|date = 2010-01-24
 
|accessdate = 2010-01-25
 
}}</ref><ref>{{Cite news
 
|url = http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100125ddm002010156000c.html
 
|title = 自民党大会:負けに不思議の負けなし ノムさん、敗因を分析
 
|newspaper = [[毎日新聞]]
 
|date = 2010-01-25
 
|accessdate = 2010-01-25
 
|archiveurl=http://web.archive.org/web/20100127180715/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100125ddm002010156000c.html
 
|archivedate=2010-01-27
 
}}</ref><ref>{{Cite news
 
|url = http://www.sanspo.com/baseball/news/100125/bsr1001250507001-n1.htm
 
|title = ノムさんが自民党に辛口声援「落とし穴あり」
 
|newspaper = [[サンケイスポーツ]]
 
|date = 2010-01-25
 
|accessdate = 2010-01-25
 
|archiveurl=http://web.archive.org/web/20100127205051/http://www.sanspo.com/baseball/news/100125/bsr1001250507001-n1.htm
 
|archivedate=2010-01-27
 
}}</ref><ref>{{Cite news
 
|url = http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20100125-589068.html
 
|title = ノムさん自民党大会で講演、敗因指摘!
 
|newspaper = [[日刊スポーツ]]
 
|date = 2010-01-25
 
|accessdate = 2010-01-25
 
}}</ref><ref>{{Cite news
 
|url = http://www.daily.co.jp/newsflash/2010/01/25/0002664671.shtml
 
|title = ノムさんボヤキ健在!自民に毒舌エール
 
|newspaper = [[デイリースポーツ]]([[時事通信社]])
 
|date = 2010-01-24
 
|accessdate = 2010-01-25
 
}}{{リンク切れ|date=2013年2月28日}}</ref>。また、[[小泉進次郎]]([[衆議院議員]]初当選から半年足らず)については「実にしっかりしている」と述べ、その上で「球界では親子2代で名選手の例がない。どうして政界と違うのかねぇ」と述べた<ref>{{Cite news
 
|url = http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1001240019/
 
|title = 小泉進次郎氏に、楽天の野村・前監督が「実にしっかりしている」/自民党大会
 
|newspaper = [[神奈川新聞]]
 
|date = 2010-01-25
 
|accessdate = 2010-01-25
 
}}{{リンク切れ|date=2013年2月28日}}</ref>。
 
 
[[2010年]][[5月10日]]、[[大動脈解離|解離性大動脈瘤]]のため東京都内の病院に緊急入院<ref>{{cite news
 
|url=http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00177139.html
 
|title=プロ野球・楽天の野村克也名誉監督、解離性大動脈瘤のため緊急入院
 
|work=[[FNNニュース]]
 
|publisher=[[フジテレビジョン|フジテレビ]]
 
|date=2010-05-12
 
|accessdate=2010-05-12
 
|archiveurl=http://web.archive.org/web/20100514062435/http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00177139.html
 
|archivedate=2010-05-14
 
}}</ref>。10日間ほどで退院する。
 
 
[[S☆1]]で共演していた[[枡田絵理奈]]は「野村の解説は本当にわかりやすく、ひとつひとつのプレイをとてもていねいに教えてくれます。監督は、野球をあまりよく知らない私に、野球の〝楽しさ〟や〝奥深さ〟を教えてくれる先生でもありました」と言っていた<ref>[http://sportiva.shueisha.co.jp/series/announcer/2010/08/19/article4/index2.php 【枡田絵理奈】名将・野村克也監督が選手に話しかけない理由とは?] - スポーツナビ 2010年8月19日</ref>。
 
[[2011年の日本シリーズ]]では第2戦、第5戦をテレビ東京系列で、第7戦をTBS系列でゲスト解説を担当した。中継放送終了後のS☆1も生出演した。
 
 
[[2012年]][[12月29日]]、契約満了で楽天の名誉監督を退任<ref>[http://www.rakuteneagles.jp/news/detail/2799.html 球団名誉監督に関して] - 東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト 2012年12月29日</ref>。現在、プロ野球界で[[名誉監督]]の称号を贈られたのは全球団で野村と[[長嶋茂雄]]のみである。
 
 
[[2013年]][[4月]]、[[日本体育大学]]児童スポーツ教育学部[[客員教授]]に就任<ref>{{cite news|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp3-20130304-1093228.html|title=ノムさん日体大監督も!将来の就任要請|work=nikkansports.com|publisher=[[日刊スポーツ新聞社]]|date=2013-03-04|accessdate=2013-03-04}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.sanspo.com/sports/news/20130304/gym13030420390000-n1.html|title=ノムさん、田中理恵に「運動選手は美人いないのに」|work=SANSPO.com|publisher=[[サンケイスポーツ]]([[産経新聞社]])|date=2013-03-04|accessdate=2013-03-05}}</ref>。大学で講演など実施。
 
2013年12月16日に[[有馬記念]]レセプションパーティーにスペシャルトークショーのゲストで出演し司会の[[徳光和夫]]に対して監督時代から鬱積した不満をぶちまけるようにストレートな毒舌を浴びせたこともある<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20131216-1232336.html 野村克也氏「あなた嫌い」徳光アナに激怒] - 2013年12月16日</ref>。
 
 
2014年10月16日に体調不良で11月1日の講演会が中止になることが明らかになった<ref>[http://www.daily.co.jp/newsflash/baseball/2014/10/16/0007423254.shtml 野村克也氏が体調不良で講演中止] - 2014年10月16日</ref>。後に解離性大動脈瘤で1ヶ月入院したことを明かした<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20150407_314288.html 重病説流れた野村克也 食欲睡眠欲すごいと完全復活アピール] - NEWSポストセブン 2015年4月7日</ref>。
 
 
また、野村は監督在任中の[[1990年]]から、地元の旧[[京都府]][[網野町]](現・[[京丹後市]])に、三冠王達成時のペナントや、MVPの[[トロフィー]]など約80点の記念品を寄贈してきた。網野町では記念館の建設を計画したもの頓挫し、その後、これらの記念品は京丹後市内で[[塩漬け#転用|塩漬け]]状態となっているという。地元住民や[[有識者]]からは記念館建設を望む声が強いものの、京丹後市は予算不足を理由に及び腰とされている。野村は「自分の記念品を邪魔物扱いしているのか」とぼやいているという<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/20170106-OYT1T50022.html ノムさん寄贈品「邪魔なんか…」…倉庫に塩漬け] 読売新聞 2017年1月6日{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。
 
 
2017年12月8日、妻の沙知代が急逝し、当日の自宅前での会見では「突然のことでびっくりしています」と憔悴した表情で述べた<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/12/08/kiji/20171208s00041000241000c.html |title=朝食の後…野村克也氏 沙知代さんの死去にショック「突然死みたいなものだと思います」  |newsapaper=スポーツニッポン|date=2017-12-09|accessdate=2017-12-10}}</ref>。
 
 
== 記録面でのトピック ==
 
野村の残した3,017試合出場は日本プロ野球2位(パリーグ1位)<ref>現在、出場試合数の日本プロ野球記録を持つ谷繁元信はパリーグの球団に所属したことがない。</ref>の記録であるが、2015年7月28日に[[中日ドラゴンズ|中日]]の[[谷繁元信]]が記録を更新するまで、日本プロ野球1位の記録であった。これについて[[宇佐美徹也]]は「野村が本塁打記録よりも何よりも最も誇りに思っている記録なのだ。(中略)この出場記録の話になると目の輝きが違ってくる」と記している<ref name="usami">宇佐美徹也『プロ野球データブック'84』講談社文庫、1984年、P316 - 317</ref>。この3,017試合中、捕手として出場した試合が2,921試合ある。宇佐美の著書の当時は[[メジャーリーグベースボール|MLB]]の捕手出場最多記録は[[アル・ロペス]]の1,918試合でこれを1,000試合以上上回っており、宇佐美は捕手の負担の重さも踏まえて「(このことを知ったら)米大リーグ関係者はびっくり仰天するに違いない」と記している<ref name="usami"/>。なお、MLBの記録は後に更新されており、2015年4月時点での記録は[[イバン・ロドリゲス]]の2,428試合となっている<ref>{{Cite web|url=http://www.fangraphs.com/leaders.aspx?pos=c&stats=fld&lg=all&qual=y&type=0&season=2014&month=0&season1=1871&ind=0&team=0&rost=0&age=0&filter=&players=0&sort=4,d|title=Currently viewing seasons between 1871 and 2014|publisher=[[FanGraphs|FanGraphs.com]]|language=英語|accessdate=2015-04-04}}</ref>。宇佐美が野村に「もっと楽なポジションだったら?」と尋ねると、野村は「捕手の目を通して得たものは限りなく大きい。捕手だからできたのさ」と答えたという<ref name="usami"/>。
 
 
[[伊東一雄]]が野村が1963年に150試合全部それもフルイニング出場した事をアメリカ人記者に話したところ、正に信じられないといった顔付きで「全く信じられない。捕手で全試合、全イニングなんて彼は一体その選手はどんな物凄い体をしてるんだ」と驚いたという。MLBでは[[ダブルヘッダー]]では捕手を併用する事が多く、全イニングどころか全試合も不可能に近いとされている<ref>{{Cite book|author=[[伊東一雄]]|title=[[メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事]]|publisher=[[サンケイスポーツ]]|page=122-124}}</ref>。「捕手は投手を除く他の守備位置とは疲労度が違う。ほとんど投手と同じくらいと言っていいぐらいだ」とMLB各監督は共通して語っているほどで、ダブルヘッダーでは続けて被らせないようにしている。伊東一雄は「ひょっとして世界最強チームを選ぶ際、野村の名が挙がる事もあるんじゃないか」と思えるほど値打ちがあると述べている<ref>{{Cite book|author=伊東一雄|title=メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事|publisher=サンケイスポーツ|page=246-247}}</ref>。
 
 
ただし、その出場試合数の多さがネックとなることもあり、通算[[併殺打]]の378回、シーズン最多併殺打8回という負のイメージのある日本記録ホルダーでもある。
 
 
野村は1956年から1977年まで22年間の長期にわたって南海の正捕手の座を死守した。この期間に38人の選手が捕手として南海に入団したが、そのうち22人が一度も一軍の試合でマスクを被る事が出来なかった。100試合以上を捕手として出場出来たのは[[柴田猛]](165試合)と[[松井淳 (捕手)|松井淳]](101試合)の2人のみである<ref>{{Cite book|author=宇佐美徹也|title=プロ野球記録大鑑|publisher=講談社|page=222}}</ref>。[[2014年]][[8月27日]]、中日ドラゴンズの谷繁元信が捕手として2,922試合目の公式戦出場を達成し、野村の引退から34年にして記録を更新した<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140827-00000109-spnannex-base 谷繁“ノムさん超え”プロ野球新記録の捕手2922試合出場] - スポニチアネックス(2014年8月27日)</ref>。
 
 
2リーグ制となった[[1950年]]以降、日本プロ野球において捕手が打撃三部門(打率、本塁打、打点)のタイトルを獲得した例は21回あるが、そのうち17回は野村によるものである(ほかに[[田淵幸一]]、[[古田敦也]]、[[阿部慎之助]]がタイトルを獲得している)。
 
 
選手として[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]通算21回出場、48安打の最多記録を持ち、最年長出場選手([[1980年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1980年]]、45歳)でもあるが、オールスターでは打撃不振で知られた。しかし1972年の[[1972年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]] 第1戦では、[[谷村智博]]から本塁打を放つなど2安打3打点と活躍、初の[[最優秀選手 (野球)|MVP]]を獲得した。1977年の[[1977年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]] 第2戦でも先制打を放ち、42歳にして2度目のMVPを手にしている。
 
 
== 人物 ==
 
{{スポーツ選手の出典明記|選手=元プロ野球選手|人物像|section=1|date=2010年5月7日 (金) 13:54 (UTC)}}
 
自分から野球をとってしまったら何も残らないという意味で、自ら「野村克也-野球=ゼロ」と語っている。夫人も「主人は野球以外は何もできない人」とテレビ出演時に言ったことがある。
 
 
母子家庭に育ったこともあり身内への情が深く、南海兼任監督時代には選手や裏方のことを常に気にかけていた<ref>長沼石根『月見草の唄 - 野村克也物語』(朝日新聞社、1981年)</ref>。猛打賞等でもらったアンダーシャツ、ソックスをダンボールに山ほど積んで選手や打撃投手・ブルペン捕手によく配り、スーツもよく裏方スタッフに譲っていた。
 
 
生来の性格に環境も手伝ってか、とび抜けた「負けず嫌い」である。
 
 
愛妻家として知られ、テレビ等でも数多くのエピソードが自身により披露されている。他方、沙知代夫人の存在の影響もあり、日本でも代表的な[[恐妻家]]と思われている。野村の語録に「オレも支配下選手だからな」という台詞がある。
 
 
幼少時代からの極貧生活の反動で、一流選手になってからは金遣いが非常に荒かった。超一流ブランドの衣服、時計、装飾品を毎週のように買い込み、スーツは250着、ネクタイはその倍をいっていたという。沙知代夫人と初めて出会ったときも[[ジバンシー]]のシャツだった。前妻のもとを離れ、沙知代夫人と同居する時も、トラックに衣服を詰め込んでやってきたという。車は決まって外国車(現役時代はリンカーンコンチネンタル)。「贅沢だと思われるけど、下取りを考えても国産と比べても、大差ない」というのが持論だった。現在は、[[ヴェルサーチ]]のネクタイと時計の収集が趣味で、ネクタイはヴェルサーチだけで合計411本、時計は[[1996年]]に現役時代から収集してきたものを[[泥棒]]に全て盗まれてしまったが、その後数千万円の時計がおおよそ15本ある<ref>(「読売テレビ[[ダウンタウンDX]]」[[2012年]]8月16日放送分より{{要高次出典|title=放送番組の類は、基本的にリアルタイム外での検証が困難であるため。|date=2017年9月}})</ref>。
 
 
沙知代夫人と再婚してからは、夫人が一切現預金を管理しているため、現金を持たせてもらえず、クレジットカードだけ持たされている。ある日、一流ブランド店に行った時、服や宝飾品、時計を眺めていると、店員に言葉巧みに買わされてしまう。そこで、『監督、(クレジットの明細書に)サインして』と言われ、かつクレジットカードの仕組みが分からず、『カードを見せてサインしただけで、なんで商品をくれるんだろう』と思っていたという。おまけに、クレジット明細が沙知代夫人の元に届くことを知らず、いつ、どこで、何を、いくら買ったかが全てバレてしまい、夫人から追及され、『オレの後をつけて来てるやろ、嫌らしい女やな』と言ったという。キャッシュカードで現金を引き出すやり方も知らず、『選手がやるとお金がジャージャー出てくるのに、自分がやるとなぜ出来ないのが不思議だった』という。つまり、引き出すには暗証番号が必要であることを知らなかった。
 
 
[[野崎勝義]]は野村について、「話し好きで、話題が多岐にわたり、実に楽しい人物である。ただ、本人によると、いや、よらずとも確かに初対面の方には人見知りをされる。言い換えればシャイなのである。それはわずか3年のお付き合いだったが、よくわかった。」と著書に記している<ref name="ダメ虎を変えた!"/>。
 
 
よく縁起を担ぎ、勝ち続けた日は下着を変えない、負けた日は行きと同じ道を通らない、など徹底している。遠征先でもバスやタクシーの運転士に命じてまで実行するという。[[血液型占い|血液型による性格付け]]を信じているとされる。
 
 
現役時代から、付き合い程度でしかゴルフをやらず、ゴルフ場にもほとんど顔を出さない。1975年オフの球団納会ゴルフにいて、江本が「なぜ監督がいるのか?」と驚いていたが、江本への阪神へのトレードを通告するためだけに来ていた。この時に発した言葉は「お前、旅に出てこいや」だった。現役を引退してからは、金輪際体を酷使することはしないことを誓ったため、一切運動はしていない。カメやワニが長生きするのは動かないからということを真似たことだと語っている。故に70歳を過ぎても健康且つ長生きする秘訣と語っている。
 
 
若い頃は酒をどんなに飲んでも翌日に酒が残ることはなかったが、1973年の南海選手兼任監督時代、飲んだ翌日、二日酔いが抜けなかったことをきっかけに、以後たまにワインを口にする程度で、現在は[[ビールかけ]]以外では一切酒を口にしなくなった。また、たばこは1日[[ケント (たばこ)|ケント]]を40〜50本吸うほどの[[ヘビースモーカー]]で、南海時代に一時期禁煙していたが、体重が90kgを超えたため、再び喫煙するようになった。しかし、1989年のヤクルト監督就任後の秋季キャンプ時に体調を崩し入院してからは一切吸わなくなった。
 
 
母校である峰山高校が[[第71回選抜高等学校野球大会|1999年の春の甲子園]]に出場した際に500万円の寄付を行い、京都府より推薦され[[褒章#紺綬褒章|紺綬褒章]]を授与された。
 
 
阪神監督就任時から[[松村邦洋]]に物真似され、「[[掛布雅之]]と[[川藤幸三]]と野村は完璧。でももう古いから、これからは新庄やれ」と言っていた。阪神の選手の結婚式の時、松村も招待されており、ここでも物真似を披露し、「松村…うまくなったね…」と野村は評した。ネタは「野村克也、逆から読むと、やつからむの」だった。
 
 
=== 野球 ===
 
打撃はもちろん、捕手としても優れていたが、野村自身は[[松井淳 (捕手)|松井淳]]を優れた捕手として認めており「強打者として買われていたから松井さんからレギュラーを奪えたが、自分が打撃に悪影響のある怪我をすれば、すぐに松井さんに代わってしまう」と高く評価していた<ref>野村克也『ノムダス 勝者の資格』1995年、31頁。</ref>。野村が今まで見た投手の中で、最も球が速かったのは[[江夏豊]]だという<ref>著書『プロ野球選手の男たち』、『エースの品格』より。</ref>。また、現役時代に対戦した打者の中で1番恐ろしかったのは[[榎本喜八]]であると語っており<ref>著書『私が見た最高の選手、最低の選手』</ref>、長い監督経験でNO.1の投手は[[伊藤智仁]]であると述べている<ref>『フルタの方程式』 野村x古田対談より</ref>。
 
 
野村は{{by|1965年}}に戦後初の三冠王を獲得したが、野村自身は「あの年(1965年)は、(首位打者争いの常連の)榎本喜八と[[張本勲]]の調子が良くなくて俺は3割2分で首位打者を獲れた。本当にラッキーだったんだよ」と語っている<ref>{{Cite news|title=山田、史上初「4冠」への道 元三冠王・野村克也氏は プロ野球|newspaper=朝日新聞|date=2016-7-15|url=http://digital.asahi.com/articles/DA3S12460889.html?rm=150|accessdate=2016-7-15}}</ref>。ちなみに野村が首位打者を獲得したのはこの1965年のシーズンだけであり、自己最高打率でもあった。
 
 
選手の身なりや礼儀に厳しく、茶髪、長髪、髭は社会人失格という考えを持っている。事実、南海時代に江本が長髪だった時、無理やり切らせたこともある。
 
 
監督としては徹頭徹尾トップダウンの姿勢を取った<ref>古田敦也『優柔決断のすすめ』(2009年、PHP新書)pp.136-138. ISBN 4569774210</ref>。いつも口にしていたのは「無視・賞賛・非難」。三流は無視、二流は賞賛、一流は非難、という方程式を野村は公言して憚らなかった<ref>『優柔決断のすすめ』p.141. ISBN 4569774210</ref>。
 
 
楽天監督最終年の2009年終盤、その年シーズン途中に加入した[[トッド・リンデン]]は途中加入ながら3割近い打撃成績を残すなど、楽天初のAクラスの立役者となった。一方でバントの構えからバットを引く際に捕手のマスクにわざとぶつけ、両チームの選手たちの小競り合いを誘発したり、肘打ちで守備妨害するなどトラブルも目立った。そしてシーズン終盤の10月10日の[[北海道日本ハムファイターズ]]戦で6点ビハインドの9回に代打で出場したが、点差が離れた場面での代打起用にリンデンはプライドを傷つけられ、「クレイジー」「ありがとう」といずれも、自身への起用を皮肉る発言をした。これが野村自身を含めた首脳陣への批判、侮辱の発言となり、リンデンは懲罰として1軍登録を抹消された。この抹消で楽天はCS第1ステージをリンデン不在で戦うこととなったが、[[福岡ソフトバンクホークス]]相手にストレートの2連勝で第2ステージ進出を決めた。一方リンデンは謝罪のため、野村と面会したが、Tシャツと短パン、サンダルという軽装に加え、激昂する態度をとったことでその日の謝罪を受け付けなかった。後日リンデンはスーツ姿で謝罪したことで野村も許し、第2ステージから出場した。だが首脳陣批判は罰金も科され、球団が独自で出場停止処分を科すのが当然のことで、最悪の場合解雇の可能性があるがこの時は1軍登録抹消だけの処分だった。これとは別に、リンデンの謝罪を受け入れてまもなく、[[城島健司]]に対して「あいつはジャパニーズリンデンや」と批判している。リンデンは翌年も残留したが、翌年は成績不振に加え、暴言退場となった際に、当時の[[マーティ・ブラウン]]監督に「なぜ日本人の肩を持つんだ」と言い放った。これがきっかけで球団から40日間の謹慎と600万円の罰金が科せられた<ref>http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/09/07/01.html</ref>。
 
結局素行そのものは改善されず、リンデンは2010年限りで解雇された。
 
 
上記以外にも、監督時代は外国人に苦労させられることが多く、阪神時代はマイケル・ブロワーズを筆頭に数多くの外国人に、楽天時代には上記のリンデンの素行に加えて林英傑がまったく戦力にならなかったことがある。野村は、この事について、著書である『ああ、阪神タイガース』や『あ〜あ、楽天イーグルス』で、フロントの見る目のなさを批判している。
 
 
[[岩崎夏海]]の対談で「どこの球団のフロントがいいですか」の質問に、「ソフトバンク」と答えている。野村は「全員のことを知っているわけじゃありませんが、ソフトバンクはダントツじゃないですか。実は僕が監督して3000試合を達成した時[[孫正義]]オーナーから祝電をいただいたんです。僕は56年間野球をやってきたけど他球団のオーナーから祝電をもらったことなんて初めてだったから感激しました。よその監督に祝電を打つ発想、日本では普通ないでしょう?祝電をいただいてソフトバンクが強いのがわかった気がします。自分のチームのことだけじゃない。球団全体の目配りができる」と語っている<ref>「[[Sports Graphic Number]]」文藝春秋、2011年7月21日号、P20</ref>。
 
 
楽天監督時代ソフトバンクの一軍投手コーチだった[[杉本正 (野球)|杉本正]]についてあのコーチはダメコーチと酷評している<ref>[[週刊ポスト]]2008年7月18日号</ref>。
 
 
=== 野村再生工場 ===
 
南海監督時代から他球団から自由契約やトレードで放出され、獲得した選手を活躍させており、世間から野村再生工場という名で有名である<ref name="MoobieScoop" />
 
 
=== 歌手デビュー ===
 
ヤクルト監督時代の1993年4月1日にシングルCD「俺の花だよ月見草」で歌手デビュー。歌詞は野村と交遊のある[[山口洋子]]が、野村が自身を月見草に例えた名言をモチーフに作詞した<ref>『[[産経新聞]]』1993年4月30日付東京朝刊、社会面。</ref>。初版は当時8,000枚売れたという。さらに阪神の監督就任時である1999年7月23日に再発売された。再発売にあたって、レコード会社側はジャケット写真を阪神タイガースの縦縞のユニフォーム姿に差し替えたい意向であったが、ジャケットを差し替えると発売までに期間が掛かるため初版のセーター姿のジャケット写真がそのまま流用された<ref>『産経新聞』1999年7月12日付大阪夕刊、社会面。</ref>。「俺の花だよ月見草」は1999年11月3日発売のオムニバスCD『おとこの演歌最新ヒット全曲集』にも収録されている。楽天監督時代の2009年1月21日には、実に16年ぶりとなるシングルCD「女房よ…」(作詞は沙知代夫人)をリリース。同年に『うたばん』に夫婦で出演し、披露した。
 
 
=== テレビ出演でのエピソード ===
 
ヤクルト監督時の1997年シーズンオフ、『[[関口宏の東京フレンドパークII]]』にヤクルト選手が出演した際に、「[[つば九郎]]」の中に入って登場したことがある。
 
 
=== 野球マンガ・アニメにおける野村克也 ===
 
野村は選手・監督として野球マンガにも出演している。主なものとして
 
* 『[[巨人の星]]』ではオールスターで「[[大リーグボール]]3号」と最初に対戦したバッターである。
 
* 『[[野球狂の詩]]』では非公式ではあるが[[水原勇気]]と最初に対戦し三振に打ち取られている。また、実写版の映画にも出演した。作者の[[水島新司]]によれば水原勇気、ドリームボール誕生のきっかけは野村の一言であるとされる。{{main|水原勇気}}
 
* 『[[あぶさん]]』では主人公・[[景浦安武]]の入団時の監督。事実通り、公私にわたり面倒見のよい選手想いの監督として描かれている。野村が40歳時、野村を主人公にした話もある。野村が南海ホークス監督を解任された以降もロッテや西武の捕手として、さらにヤクルトや楽天の監督として景浦と対戦するエピソードがある。また、野村の南海監督時代のシーンに前妻との間の息子・陽一が登場している。
 
* 『[[侍ジャイアンツ]]』では主人公の番場のハラキリ・シュートと対戦した最初のバッター対戦者である。また[[1973年の日本シリーズ]]で対戦、膏薬の匂いで王の故障を見抜くが、現実と同様にシリーズは敗退する。
 
* 『[[ドカベン プロ野球編]]』ではオールスター戦のオールセントラルの監督や日本シリーズのヤクルト監督として登場している。
 
* 『[[がんばれ!!タブチくん!!]]』では現役の選手として登場している。
 
 
== 球界に対するスタンス ==
 
=== 現役時代に南海ホークスの本拠地移転を提案 ===
 
南海在籍時代、川勝傳オーナーに「南海を[[和歌山県|和歌山]]か[[四国地方|四国]]に移転させませんか?」と提案したことがあった。理由は[[大阪府]]・[[兵庫県]]に南海を含めて4球団(大阪 - 南海・[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]、兵庫 - 阪神・阪急)では観客とファンの奪い合いになることもあり、それであれば親会社である[[南海電気鉄道|南海電鉄]]沿線の和歌山県かプロ野球のない四国地方への移転をすれば地域に密着した球団になるとの考えからだった<ref>著書『あぁ、阪神タイガース』、『巨人軍論』より。南海グループは四国も自社の営業区域の1つとして捉えており、[[徳島バス]]などの[[南海グループ|南海系列]]の会社も四国に所在している。</ref>。なお、[[青木一三]]は著書の中で、川勝オーナーが2度にわたって[[愛媛県]]を本拠としていた[[新来島どっく|来島どっく]]グループ総帥の[[坪内寿夫]]に球団売却を持ちかけたと記しているが、その時期は野村の退任後である<ref>青木一三『ダイエー/オリックス球団買収の真相』ブックマン社、1989年、P18 - 20。時期は1981年頃と1985年頃という。</ref>。
 
 
=== 「南海ホークスOB」としてのスタンス ===
 
[[大阪スタヂアム]]跡地の[[なんばパークス]]にある「南海ホークスメモリアルギャラリー」では、同球団で活躍した多数の選手を写真・映像・展示資料で紹介している。しかし、野村については一切取り上げていないばかりか<ref name="BT 033"/>、シーズン単位で監督名を記した球団年表にも野村の名前を載せていない。このような展示に至った理由は、メモリアルギャラリーの建設に際して[[南海電気鉄道|南海電鉄]]から本人宅へ連絡があったにもかかわらず、プレイイングマネジャー時代の解任劇を根に持っている沙知代夫人が名前や写真の掲載を一切拒否したことにある。この件については、往年のファンから、夫人宛てに抗議の電話が殺到したという<ref>野村克也・野村沙知代 著『[[野村セオリー 絆]]』より</ref>。野村は、なんばパークスオープン半年後の2004年3月に[[関西テレビ放送]]で放映された『[[ザ・ドキュメント]]』の「帰らざる黄金の日々 南海ホークスへの鎮魂歌」の中で、南海時代についてコメントしたことがある<ref>[http://www.ktv.jp/document/040330.html 帰らざる黄金の日々 南海ホークスへの鎮魂歌] - 『ザ・ドキュメント』ウェブサイト(関西テレビ放送)</ref>。
 
 
なお、南海の後継球団である[[福岡ソフトバンクホークス]]では、{{by|2013年}}に(南海時代からの通算で)ホークス創設75周年を記念したプロジェクト「LEGEND HAWKS」を展開。野村に協力を要請した結果、[[8月31日]]の対楽天戦([[福岡ドーム|福岡 ヤフオク!ドーム]])の試合前に開かれた記念セレモニーへの出席が実現した。野村がホークス関連のイベントに参加したのは、南海からの退団以来36年振り。捕手専任時代後期からの主力打者であった[[門田博光]]と共に当時の復刻ユニフォーム姿で登場した野村は、球団会長の立場で「見届け人」として参加した王に見守られながら、始球式で同ドームの右打席(門田は左打席)に立った<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130901/haw13090105040001-n1.html 歴史的和解!南海ノムさん、36年ぶり復活] サンケイスポーツ 2013年9月1日</ref>。また、[[8月27日|同月27日]]に[[ベースボール・マガジン社]]から発売された『B.B.MOOK962 ホークス75年史 HAWKS 1938-2013』には、「ホークスの歴代指揮官」の立場で初めて応じたインタビューの模様が掲載されている<ref>[http://www.sportsclick.jp/magazine/mook/962/index.html ベースボール・マガジン社『B.B.MOOK962 ホークス75年史 HAWKS 1938-2013』]</ref>。
 
 
[[2018年]][[2月10日]]の巨人宮崎キャンプ60周年記念 ジャイアンツOB対ホークスOB戦で監督として南海のユニホームに袖を通したが「このユニホームは大嫌い。これにお世話になって、これに裏切られて。感謝と憎しみが五分五分」とコメントした<ref>http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20180211-OHT1T50003.html</ref>。対戦相手の監督はライバルの長嶋であった。
 
 
== 語録 ==
 
{{See|q:野村克也}}
 
 
== 詳細情報 ==
 
=== 年度別打撃成績 ===
 
{| {{年度別打撃成績|リーグ= 日本プロ野球}}
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1954}}
 
|rowspan="23" style="text-align:center;"|[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]
 
|9||11||11||1||0||0||0||0||0||0||1||0||0||0||0||--||0||5||0||.000||.000||.000||.000
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1956}}
 
|129||403||357||33||90||26||3||7||143||54||3||3||4||5||36||6||1||66||8||.252||.318||.401||.719
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1957}}
 
|'''132'''||542||474||75||143||20||1||'''30'''||255||94||7||2||1||1||57||0||'''9'''||'''87'''||7||.302||.386||.538||.924
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1958}}
 
|120||510||451||56||114||19||2||21||200||79||3||1||3||3||45||5||'''8'''||94||'''17'''||.253||.329||.443||.773
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1959}}
 
|132||526||472||71||124||18||5||21||215||78||7||5||0||6||45||2||3||'''98'''||18||.263||.327||.456||.783
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1960}}
 
|124||480||430||66||125||21||4||29||241||88||8||6||1||4||41||2||4||77||15||.291||.355||.560||.915
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1961}}
 
|136||559||494||70||146||17||2||'''29'''||254||89||8||2||0||6||54||10||5||71||17||.296||.367||.514||.881
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1962}}
 
|'''133'''||571||489||96||151||28||0||'''44'''||'''311'''||'''104'''||5||5||1||7||70||9||4||101||11||.309||.395||'''.636'''||1.031
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1963}}
 
|'''150'''||643||550||'''104'''||160||20||2||'''52'''||'''340'''||'''135'''||4||5||0||5||84||11||4||'''112'''||'''24'''||.291||.386||'''.618'''||'''1.004'''
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1964}}
 
|148||641||558||89||146||23||1||'''41'''||'''294'''||'''115'''||7||4||1||6||71||6||5||50||12||.262||.347||.527||.874
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1965}}
 
|136||559||488||'''92'''||'''156'''||27||1||'''42'''||'''311'''||'''110'''||3||2||0||5||60||'''16'''||6||57||'''16'''||'''.320'''||.397||.637||1.034
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1966}}
 
|'''133'''||556||474||'''82'''||148||19||0||'''34'''||269||'''97'''||8||1||0||4||'''71'''||'''13'''||7||79||12||.312||.406||.568||.974
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1967}}
 
|'''133'''||551||472||72||144||'''27'''||0||'''35'''||'''276'''||'''100'''||13||4||0||5||68||14||6||53||'''23'''||.305||.396||.585||.980
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1968}}
 
|133||567||458||80||119||18||0||'''38'''||251||99||2||1||0||3||'''103'''||'''37'''||3||65||14||.260||.397||.548||.945
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1969}}
 
|106||434||388||44||95||7||0||22||168||52||1||1||0||3||39||7||4||51||'''21'''||.245||.318||.433||.751
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1970}}
 
|'''130'''||559||481||82||142||11||0||42||279||114||10||4||0||6||66||7||6||47||12||.295||.383||.580||.963
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1971}}
 
|127||531||467||75||131||13||0||29||231||83||12||2||0||1||56||10||7||43||18||.281||.365||.495||.860
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1972}}
 
|129||538||473||62||138||16||0||35||259||'''101'''||4||3||0||'''8'''||46||6||11||38||17||.292||.362||.548||.910
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1973}}
 
|129||539||475||65||147||18||0||28||249||96||3||6||0||'''10'''||51||7||3||48||'''31'''||.309||.373||.524||.897
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1974}}
 
|83||307||265||33||56||7||0||12||99||45||2||0||0||2||38||5||2||30||13||.211||.313||.374||.686
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1975}}
 
|129||546||473||63||126||11||0||28||221||92||3||1||0||8||58||9||7||49||'''17'''||.266||.350||.467||.817
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1976}}
 
|119||468||429||35||117||13||0||10||160||57||2||2||0||5||29||1||5||50||21||.273||.323||.373||.696
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1977}}
 
|127||493||447||33||95||9||1||16||154||58||0||4||0||'''8'''||33||5||5||41||'''24'''||.213||.270||.345||.614
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1978}}
 
|style="text-align:center; white-space:nowrap;"|[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]
 
|64||145||133||7||30||4||1||3||45||12||0||0||0||1||10||1||1||15||5||.226||.283||.338||.621
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1979}}
 
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[埼玉西武ライオンズ|西武]]
 
|74||213||194||14||43||3||0||5||61||22||1||0||0||1||14||0||4||34||4||.222||.286||.314||.601
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1980}}
 
|52||78||69||9||15||2||0||4||29||14||0||0||0||0||7||0||2||17||1||.217||.308||.420||.728
 
|-
 
!colspan="2"|通算:26年
 
|3017||{{Color|red|'''11970'''}}||{{Color|red|'''10472'''}}||1509||2901||397||23||657||5315||1988||117||64||11||{{Color|red|'''113'''}}||1252||189||122||1478||{{Color|red|'''378'''}}||.277||.357||.508||.865
 
|}
 
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高、{{Color|red|'''赤太字'''}}はNPBにおける歴代最高
 
 
=== 年度別盗塁阻止率 ===
 
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small"
 
!年度!!試合!!企図数!!許盗塁!!盗塁刺!!阻止率
 
|-
 
|1954||8||4||4||0||.000
 
|-
 
|1955||-||-||-||-||-
 
|-
 
|1956||127||163||100||63||.387
 
|-
 
|1957||132||136||77||59||.434
 
|-
 
|1958||120||131||81||50||.382
 
|-
 
|1959||131||95||55||41||.432
 
|-
 
|1960||121||94||58||39||.415
 
|-
 
|1961||133||101||60||43||.426
 
|-
 
|1962||130||136||90||49||.360
 
|-
 
|1963||150||145||74||76||.524
 
|-
 
|1964||148||109||70||46||.422
 
|-
 
|1965||133||103||69||38||.369
 
|-
 
|1966||133||87||48||39||.448
 
|-
 
|1967||133||102||54||49||.480
 
|-
 
|1968||133||110||74||39||.355
 
|-
 
|1969||104||90||65||27||.300
 
|-
 
|1970||130||134||90||47||.351
 
|-
 
|1971||126||148||104||46||.311
 
|-
 
|1972||129||166||115||57||.343
 
|-
 
|1973||129||160||112||54||.338
 
|-
 
|1974||75||135||100||37||.274
 
|-
 
|1975||125||166||114||57||.343
 
|-
 
|1976||113||131||81||53||.405
 
|-
 
|1977||127||172||117||57||.331
 
|-
 
|1978||31||39||33||10||.256
 
|-
 
|1979||59||133||112||25||.188
 
|-
 
|1980||41||48||46||5||.104
 
|-
 
|}
 
=== 年度別監督成績 ===
 
; レギュラーシーズン
 
{| class="wikitable" style="text-align: right; font-size: small;"
 
![[年度]]!![[日本プロ野球|球団]]!!順位!![[試合]]!![[勝利]]!![[敗戦]]!![[引き分け|引分]]!![[勝率]]!![[ゲーム差]]!!チーム<br/>打率!!チーム<br/>本塁打!!チーム<br/>防御率!![[年齢]]
 
|-
 
|{{by|1970年}}||rowspan="8" style="text-align:center"|[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]||2位||130||69||57||4||.548||10.5||.255||147||3.43||35歳
 
|-
 
|{{by|1971年}}||4位||130||61||65||4||.484||22.5||.260||156||4.27||36歳
 
|-
 
|{{by|1972年}}||3位||130||65||61||4||.516||14.0||.253||133||3.48||37歳
 
|-
 
|{{by|1973年}}||1位||130||68||58||4||.540||1位・3位||.260||113||3.35||38歳
 
|-
 
|{{by|1974年}}||3位||130||59||55||16||.518||4位・2位||.246||124||'''3.06'''||39歳
 
|-
 
|{{by|1975年}}||5位||130||57||65||8||.467||5位・3位||.246||102||'''2.98'''||40歳
 
|-
 
|{{by|1976年}}||2位||130||71||56||3||.559||2位・2位||.259||97||'''2.91'''||41歳
 
|-
 
|{{by|1977年}}||2位||130||63||55||12||.534||2位・3位||.250||108||'''3.15'''||42歳
 
|-
 
|{{by|1990年}}||rowspan="9" style="text-align:center"|[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]||5位||130||58||72||0||.446||30.0||.257||123||4.24||55歳
 
|-
 
|{{by|1991年}}||3位||132||67||63||2||.515||7.0||.259||140||3.93||56歳
 
|-
 
|{{by|1992年}}||1位||131||69||61||1||.531||(2.0)||.261||'''173'''||3.79||57歳
 
|-
 
|{{by|1993年}}||'''1位'''||132||80||50||2||.615||(7.0)||'''.263'''||140||3.20||58歳
 
|-
 
|{{by|1994年}}||4位||130||62||68||0||.477||8.0||.250||130||4.05||59歳
 
|-
 
|{{by|1995年}}||'''1位'''||130||82||48||0||.631||(8.0)||.261||147||3.60||60歳
 
|-
 
|{{by|1996年}}||4位||130||61||69||0||.469||16.0||.264||103||4.00||61歳
 
|-
 
|{{by|1997年}}||'''1位'''||137||83||52||2||.615||(11.0)||'''.276'''||138||'''3.26'''||62歳
 
|-
 
|{{by|1998年}}||4位||135||66||69||0||.489||13.0||.253||97||3.69||63歳
 
|-
 
|{{by|1999年}}||rowspan="3" style="text-align:center"|[[阪神タイガース|阪神]]||6位||135||55||80||0||.407||26.0||.259||97||4.04||64歳
 
|-
 
|{{by|2000年}}||6位||136||57||78||1||.422||21.0||.244||114||3.90||65歳
 
|-
 
|{{by|2001年}}||6位||140||57||80||3||.416||20.5||.243||90||3.75||66歳
 
|-
 
|{{by|2006年}}||rowspan="4" style="text-align:center"|[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||6位||136||47||85||4||.356||33.0||.258||67||4.30||71歳
 
|-
 
|{{by|2007年}}||4位||144||67||75||2||.472||13.5||.262||111||4.31||72歳
 
|-
 
|{{by|2008年}}||5位||144||65||76||3||.461||11.5||'''.272'''||94||3.89||73歳
 
|-
 
|{{by|2009年}}||2位||144||77||66||1||.538||5.5||.267||108||4.01||74歳
 
|-
 
!colspan="3"|通算:24年
 
|3204||1565||1563||76||.5003||colspan="5" style="text-align:center"|Aクラス12回、Bクラス12回
 
|}
 
: ※1 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差
 
: ※2 順位の'''太字'''は日本一
 
: ※3 1970年から1996年までは130試合制
 
: ※4 1997年から2000年までは135試合制
 
: ※5 2001年から2004年までは140試合制
 
: ※6 2005年からは136試合制
 
: ※7 2007年からは144試合制
 
: ※8 通算成績は1977年の解任後の2試合を含めない
 
 
; ポストシーズン
 
{| class="wikitable" style="text-align: right; font-size: small;"
 
!年度!!チーム!!大会名!!対戦相手!!勝敗
 
|-
 
|rowspan="2" style="text-align:center"|1973年||rowspan="2" style="text-align:center"|南海||[[1973年のパシフィック・リーグプレーオフ|パ・リーグプレーオフ]](※2)||[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]([[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]後期優勝)||'''3勝2敗'''
 
|-
 
|[[1973年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[読売ジャイアンツ]]||1勝4敗
 
|-
 
|style="text-align:center"|1992年||rowspan="4" style="text-align:center"|ヤクルト||[[1992年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]||3勝4敗
 
|-
 
|style="text-align:center"|1993年||[[1993年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||西武ライオンズ||'''4勝3敗'''
 
|-
 
|style="text-align:center"|1995年||[[1995年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]||'''4勝1敗'''
 
|-
 
|style="text-align:center"|1997年||[[1997年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||西武ライオンズ||'''4勝1敗'''''
 
|-
 
|rowspan="2" style="text-align:center"|2009年||rowspan="2" style="text-align:center"|楽天||[[2009年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|パ・リーグ クライマックスシリーズ]]<br/>1stステージ(※3)||[[福岡ソフトバンクホークス]]<br/>(パ・リーグ3位)||'''2勝0敗'''
 
|-
 
|[[2009年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|パ・リーグ クライマックスシリーズ]]<br/>2ndステージ(※4)||[[北海道日本ハムファイターズ]]<br/>(パ・リーグ優勝)||1勝4敗(※5)
 
|}
 
: ※1 勝敗の'''太字'''は勝利したシリーズ
 
: ※2 当時のパ・リーグプレーオフは'''5試合制'''で先に3勝したチームがリーグ優勝
 
: ※3 クライマックスシリーズ1stステージは'''3試合制'''で先に2勝したチームの勝利
 
: ※4 クライマックスシリーズ2ndステージは'''6試合制'''で先に4勝したチームの優勝、'''リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ'''
 
: ※5 4敗の中に日本ハムに与えられたアドバンテージを含む
 
 
=== タイトル ===
 
* [[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]:1回 (1965年)
 
* [[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]:9回 (1957年、1961年 - 1968年)※9回獲得、8年連続獲得はいずれも[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]記録。
 
* [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]:7回 (1962年 - 1967年、1972年)※7回獲得、6年連続獲得はいずれもパ・リーグ記録。
 
* [[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]](当時連盟表彰なし):1回 (1965年) ※1994年より表彰
 
 
=== 表彰 ===
 
* [[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]:5回 (1961年、1963年、1965年、1966年、1973年)
 
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:19回 (1956年 - 1968年、1970年 - 1973年、1975年、1976年)※通算19回受賞は、史上最多。
 
* [[ゴールデングラブ賞|ダイヤモンドグラブ賞]]:1回 (1973年)
 
* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]敢闘賞:1回 ([[1973年の日本シリーズ|1973年]])
 
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]MVP:2回 ([[1972年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1972年]] 第1戦、[[1977年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1977年]] 第2戦)
 
* [[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]競技者表彰(1989年)
 
* [[パ・リーグ]]特別表彰:4回 (1963年〈シーズン最多本塁打新記録〉、1975年〈2500本安打及び2500試合出場〉、1979年〈通算650本塁打〉、1980年〈通算3000試合出場及び功労賞〉)
 
* [[正力松太郎賞]](1993年)
 
* [[毎日スポーツ人賞]]ファン賞(2009年)
 
* [[ベスト・ファーザー イエローリボン賞#ベスト・プラウド・ファーザー賞|ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」]] (2009年)
 
 
=== 記録 ===
 
; 初記録
 
* 初出場:1954年6月17日、対[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]9回戦([[大阪スタヂアム]])、9回裏に[[飯田徳治]]の代打で出場 [[河村英文|河村久文]]から三振
 
* 初先発出場:1954年7月13日、対[[大阪近鉄バファローズ|近鉄パールス]]12回戦(大阪スタヂアム)、8番・捕手で先発出場
 
* 初得点:1954年10月21日、対[[高橋ユニオンズ]]19回戦(大阪スタヂアム)、8回裏に[[蔭山和夫]]の適時打で生還
 
* 初安打:1956年4月9日、対近鉄パールス3回戦([[藤井寺球場]])、8回表に[[辻中貞年]]から左前安打
 
* 初打点:1956年4月14日、対[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]1回戦([[後楽園球場]])、8回表に森口哲夫から右越決勝2点適時三塁打
 
* 初本塁打:1956年4月28日、対[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]5回戦(後楽園球場)、6回表に[[中川隆 (野球)|中川隆]]から左越3ラン
 
; 節目の記録
 
* 100本塁打:1960年8月31日、対西鉄ライオンズ26回戦(大阪スタヂアム)、7回裏に岩永功から左越3ラン ※史上21人目
 
* 150本塁打:1962年6月15日、対近鉄バファローズ9回戦([[日本生命球場]])、4回表に[[黒田勉]]から中越ソロ ※史上14人目
 
* 200本塁打:1963年6月29日、対[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]12回戦(大阪スタヂアム)、3回裏に[[安藤治久]]から左中間へ先制決勝3ラン ※史上9人目
 
* 1000試合出場:1963年7月31日、対阪急ブレーブス17回戦(大阪スタヂアム)、4番・捕手で先発出場 ※史上82人目
 
* 1000本安打:1963年8月29日、対阪急ブレーブス23回戦(大阪スタヂアム)、6回裏に[[足立光宏]]から中前安打 ※史上46人目
 
* 250本塁打:1964年5月31日、対[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]14回戦(後楽園球場)、12回表に[[嵯峨健四郎]]から左越決勝満塁本塁打 ※史上3人目
 
* 300本塁打:1965年8月8日、対近鉄バファローズ15回戦(日本生命球場)、6回表に[[徳久利明]]から左中間へ逆転決勝2ラン ※史上2人目
 
* 1000打点:1966年7月23日、対阪急ブレーブス13回戦([[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]])、5回表に[[柿本実]]から中前2点適時打 ※史上5人目
 
* 1500本安打:1966年10月4日、対東映フライヤーズ25回戦(大阪スタヂアム)、1回裏に[[尾崎行雄 (野球)|尾崎行雄]]から遊撃内野安打 ※史上18人目
 
* 350本塁打:1966年10月6日、対東映フライヤーズ27回戦(大阪スタヂアム)、6回裏に尾崎行雄から右越ソロ ※史上初
 
* 1500試合出場:1967年5月4日、対東映フライヤーズ5回戦(大阪スタヂアム)、4番・捕手で先発出場 ※史上24人目
 
* 400本塁打:1968年7月12日、対東京オリオンズ13回戦([[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]])、3回表に[[坂井勝二]]から中越ソロ ※史上初
 
* 1000三振:1968年8月31日、対東京オリオンズ21回戦(大阪スタヂアム)、4回裏に坂井勝二から ※史上2人目
 
* 1000得点:1969年5月13日、対近鉄バファローズ2回戦(日本生命球場)、4回表に[[国貞泰汎]]の左前適時打で生還 ※史上5人目
 
* 3500塁打:1969年9月23日、対東映フライヤーズ17回戦(大阪スタヂアム)、7回裏に[[宮崎昭二]]から同点ソロ ※史上3人目
 
* 450本塁打:1970年4月24日、対東映フライヤーズ1回戦(後楽園球場)、4回表に[[森安敏明]]から左中間へ先制ソロ ※史上初
 
* 300二塁打:1970年9月26日、対阪急ブレーブス23回戦(阪急西宮球場)、3回表に[[米田哲也]]から左翼線二塁打 ※史上10人目
 
* 2000本安打:1970年10月18日、対西鉄ライオンズ26回戦(大阪スタヂアム)、3回裏に[[東尾修]]から左前安打 ※史上4人目
 
* 2000試合出場:1971年5月1日、対近鉄バファローズ3回戦(大阪スタヂアム)、4番・捕手で先発出場 ※史上5人目
 
* 500本塁打:1971年7月2日、対西鉄ライオンズ10回戦(大阪スタヂアム)、4回裏に[[三輪悟]]から左越ソロ ※史上初
 
* 4000塁打:1971年8月26日、対東映フライヤーズ22回戦([[明治神宮野球場]])、4回表に[[高橋善正]]から右翼線安打 ※史上2人目
 
* 1500打点:1972年4月18日、対東映フライヤーズ1回戦(大阪スタヂアム)、6回裏に[[大羽進]]から左越3ラン ※史上初
 
* 550本塁打:1972年9月28日、対阪急ブレーブス25回戦([[京都市西京極総合運動公園野球場|西京極球場]])、4回表に[[水谷宏]]から左越ソロ ※史上初
 
* 4500塁打:1973年9月12日、対東映フライヤーズ後期8回戦(大阪スタヂアム)、1回裏に[[渡辺秀武]]から中前安打 ※史上初
 
* 350二塁打:1974年6月9日、対阪急ブレーブス前期11回戦(阪急西宮球場)、7回表に[[山田久志]]から右前へ逆転決勝2点適時二塁打 ※史上7人目
 
* 2500本安打:1975年5月13日、対ロッテオリオンズ前期7回戦(後楽園球場)、5回表に[[成田文男]]から左前安打 ※史上初
 
* 600本塁打:1975年5月22日、対日本ハムファイターズ前期8回戦(後楽園球場)、5回表に[[テリー・レイ]]から左越逆転決勝3ラン ※史上2人目
 
* 2500試合出場:1975年6月5日、対ロッテオリオンズ前期10回戦(大阪スタヂアム)、4番・捕手で先発出場 ※史上初
 
* 100犠飛:1976年5月6日、対ロッテオリオンズ前期5回戦(大阪スタヂアム)、5回裏に[[三井雅晴]]から ※史上初
 
* 5000塁打:1976年8月24日、対阪急ブレーブス後期6回戦(阪急西宮球場)、7回表に足立光宏から左前安打 ※史上初
 
* 650本塁打:1979年5月27日、対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]前期6回戦([[鳥屋野運動公園野球場]])、4回表に[[村上雅則]]から左越先制決勝ソロ ※史上2人目
 
* 1500得点:1979年9月21日、対阪急ブレーブス後期12回戦(阪急西宮球場)、4回表に[[立花義家]]の中前適時打で生還 ※史上2人目
 
* 3000試合出場:1980年8月1日、対南海ホークス後期4回戦([[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])、8番・捕手で先発出場 ※史上初
 
 
; その他の記録
 
* [[三冠 (野球)|三冠王]]:1回 (1965年)※戦後初。
 
* 実働26年(1954年、1956年 - 1980年)※歴代5位
 
* 25年連続シーズン本塁打(1956年 - 1980年)※歴代2位
 
* 21年連続シーズン2桁本塁打(1957年 - 1977年)※歴代1位タイ
 
* 4年連続シーズン40本塁打以上(1962年 - 1965年)※歴代3位タイ
 
* 7年連続シーズン30本塁打以上(1962年 - 1968年)※歴代4位タイ
 
* 17年連続シーズン20本塁打以上(1957年 - 1973年)※歴代2位
 
* 4年連続シーズン100打点以上(1962年 - 1965年)※歴代4位タイ
 
* シーズン40本塁打以上:5回 (1962年 - 1965年、1970年)※歴代3位タイ
 
* シーズン30本塁打以上:10回 (1957年、1962年 - 1968年、1970年、1972年)※歴代2位
 
* シーズン20本塁打以上:18回 (1957年 - 1973年、1975年)※歴代2位
 
* シーズン本塁打:52(1963年)※歴代5位タイ
 
* シーズン100打点以上:7回 (1962年 - 1965年、1967年、1970年、1972年)※歴代2位
 
* シーズン100安打以上:18回(1957年 - 1968年、1970年 - 1973年、1975年、1976年)※歴代3位タイ
 
* シーズン[[故意四球|敬遠]]:37(1968年)※歴代4位、パ・リーグ記録
 
* シーズンフルイニング出場(1963年)※捕手登録選手では史上初
 
* 5試合連続本塁打(1970年7月15日 - 7月26日)
 
* 1試合に満塁本塁打とサヨナラ本塁打(1968年10月3日)※史上2人目
 
* 逆転満塁サヨナラ本塁打(1966年5月14日)※史上7人目
 
* 通算[[猛打賞]]:180回 ※歴代4位
 
* 通算満塁本塁打:12本 ※歴代7位タイ
 
* 通算サヨナラ本塁打:11本 ※歴代2位、パ・リーグ記録
 
* 通算サヨナラ安打:19本 ※歴代2位、パ・リーグ記録
 
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:21回 (1957年 - 1968年、1970年 - 1977年、1980年) ※史上最多(1969年はファン投票で選出されているが、負傷により出場辞退)
 
* オールスターゲーム通算安打:48本 ※歴代1位
 
* オールスターゲーム通算二塁打:15本 ※歴代1位
 
 
=== 背番号 ===
 
* '''60''' (1954年 - 1955年)
 
* '''19''' (1956年 - 1980年、2006年 - 2009年)
 
* '''73''' (1990年 - 1998年、2001年)
 
* '''82''' (1999年 - 2000年)
 
一の位と十の位を足して'''10'''になる数字を縁起が良いと言って好んでいる。
 
 
== 関連情報 ==
 
=== 栄典・野球以外での表彰 ===
 
; 栄典
 
* [[紺綬褒章]](1999年)
 
; ファッション関連
 
* [[日本メガネベストドレッサー賞]](スポーツ界部門:1992年)
 
; その他
 
* [[網野町]]町民栄誉賞(1990年)<ref name="houchi090811">{{Cite news|url=http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/bunka_seisaku/0000000228.html|title=楽天・野村監督が京丹後市の名誉市民に…9月に正式決定|newspaper=[[スポーツ報知]]大阪版|publisher=[[報知新聞社]]|date=2009-08-11|accessdate=2017-12-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090815185141/http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/baseball/npb/news/20090811-OHO1T00077.htm|archivedate=2009-08-15}}</ref>
 
* 都民文化栄誉賞(1993年)<ref>{{Cite web|url=http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/bunka_seisaku/0000000228.html|title=東京都文化賞・都民文化栄誉章|work=文化振興|publisher=[[東京都生活文化局]]|accessdate=2017-12-04}}</ref>
 
* よい夫婦の日 ナイス・カップル(1994年、妻:[[野村沙知代]])<ref>{{Cite web|url=http://www.422fufu.com/couple.html|title=歴代ナイスカップル表彰|work=よい夫婦の日、ナイス カップル|publisher=[[講談社]]|accessdate=2017-12-18}}</ref>
 
* [[ユーキャン]][[新語・流行語大賞]] トップテン(2009年、「ぼやき」)
 
* [[京丹後市]]名誉市民(2009年)<ref name="houchi090811" /><ref>{{Cite web|url=http://www.city.kyotango.lg.jp/shisei/shisei/hyosho/index.html|title=表彰|work=市政情報|publisher=[[京丹後市]]|accessdate=2017-12-04}}</ref>
 
* [[いい夫婦の日|パートナー・オブ・ザ・イヤー]](2010年、妻:野村沙知代)
 
 
=== 著書 ===
 
==== 単著 ====
 
===== 単行本 =====
 
*『デッチ人生20年:ゼニのとれる人間になれ』(いんなあ とりっぷ(インナーブックス)、1973年8月)
 
*『敵は我に在り:危機管理としての野球論』([[サンケイ出版]]、1980年8月)
 
*『背番号なき現役:私のルール十八章』([[講談社]]、1981年5月)
 
*『プロ野球の男たち:野村克也の目』([[朝日新聞社]]、1982年3月)
 
*『わが子とともに:あすなろうの記』([[集英社]]、1982年9月)
 
*『敵は我にあり・続:危機管理としての人材育成論』(サンケイ出版、1982年12月)
 
*『プロ野球・野村克也の目』(朝日新聞社、1983年4月)
 
*『親バカ野球バカに捧げる本:ノムさんの野球式子育て 金の成る木に育てる方法』([[ベストセラーズ]]、1983年7月、ISBN 4584005117)
 
*『私の野球人生』([[聖教新聞社]](文化教養シリーズ)、1983年8月)
 
*『頭脳派・野村克也のもう一つ別の管理学:人をどう読み、どう動かすか』([[PHP研究所]]、1983年9月、ISBN 4569211666)
 
*『ノムさんの目くばりのすすめ:捕手型人間で成功する方法』([[プレジデント社]](イルカの本)、1984年2月、ISBN 4833440091)
 
*『組織戦の時代:プロ野球野村克也の目』(朝日新聞社、1984年3月)
 
*『敵は我に在り』(KKベストセラーズ、1984年6月)
 
*『裏読み:今、勝つために何をすべきか』([[ロングセラーズ]]、1984年10月、ISBN 4845401843)
 
*『プロ野球監督たちの戦い』(朝日新聞社、1985年3月、ISBN 4022553278)
 
*『生涯一捕手の目:組織論の死角』([[潮出版社]]、1985年12月、ISBN 4267010617)
 
*『一流の条件:プロ野球 野村克也の目』(朝日新聞社、1986年3月、ISBN 402255486X)
 
*『役者はもう新人類:プロ野球 野村克也の目』(朝日新聞社、1986年12月、ISBN 4022556420)
 
*『ノムダス:勝者の資格』([[ニッポン放送]]、1995年11月、ISBN 4594018440)
 
*『ノムダス2:弱者が勝者になるために』(ニッポン放送、1998年1月、ISBN 4594023762)
 
*『女房はドーベルマン』([[双葉社]]、2002年5月、ISBN 4575294241)
 
*『新・敵は我に在り:生涯現役宣言』([[経済界]]、2004年2月、ISBN 4766782860)
 
*『野村ノート』([[小学館]]、2005年10月、ISBN 4093876045)
 
*『無形の力:私の履歴書』([[日本経済新聞出版社]]、2006年03月、ISBN 4532165571)
 
*『知るを楽しむ:人生の歩き方:野村克也逆転の発想』([[日本放送出版協会]]、2008年1月、ISBN 4141891894)
 
*『野村の流儀:人生の教えとなる257の言葉』([[ぴあ]]、2008年2月、ISBN 4835616898)
 
*『野村の「眼」:弱者の戦い』(ベストセラーズ、2008年2月、ISBN 4584130566)
 
*『エースの品格:一流と二流の違いとは』(小学館(Clickシリーズ)、2008年5月、ISBN 4093877785)
 
*『野村の極意:人生を豊かにする259の言葉』(ぴあ、2009年3月、ISBN 4835617320)
 
*『野村主義:勝利への執着力』(小学館、2009年5月、ISBN 4093878463)
 
*『弱者の兵法:野村流 必勝の人材育成論・組織論』([[アスペクト (企業)|アスペクト]]、2009年7月、ISBN 4757216483)
 
*『野村の革命』(ベストセラーズ、2009年11月、ISBN 4584131430)
 
*『野村の実践「論語」』(小学館、2010年11月、ISBN 4093881510)
 
*『私とプロ野球』(ベストセラーズ、2011年2月、ISBN 458413295X)
 
*『野村の見立て:わたしが見抜いた意外な長所・短所』([[東邦出版]]、2011年6月、ISBN 4809409546)
 
*『私が野球から学んだ人生で最も大切な101のこと』([[海竜社]]、2011年7月、ISBN 4759311912)
 
*『人生を勝利に導く金言』([[致知出版社]]、2012年4月、ISBN 4884749618)
 
*『野球のメキキ:観戦力が高まる本』(東邦出版、2012年5月、ISBN 4809410358)
 
*『そなえ:35歳までに学んでおくべきこと』([[大和書房]]、2012年9月、ISBN 4479793615)
 
*『オレとO・N』(小学館、2012年10月、ISBN 4093965188)
 
*『この一球:野村克也の人生論』(海竜社、2012年11月、ISBN 4759312323)
 
*『負けかたの極意』(講談社、2013年5月、ISBN 4062183501)
 
*『ノムラの教え:弱者の戦略99の名言』(講談社、2013年5月、ISBN 4062183528)
 
*『凡人を達人に変える77の心得』([[バレーフィールド]]、2013年7月)※電子書籍限定
 
*『野村克也の「菜根譚」』(宝島社、2013年11月、ISBN 4800211042)
 
*『人生に打ち勝つ野村のボヤキ:一流か二流か――手を見ればわかる』([[三笠書房]]、2013年11月、ISBN 4837925162)
 
*『私が見た最高の選手、最低の選手』([[東邦出版]]、2013年12月、ISBN 4809411389)
 
*『野生の教育論:闘争心と教養をどう磨くか』(ダイヤモンド社、2013年12月、ISBN 4478024782)
 
*『理は変革の中にあり』(ベストセラーズ、2014年5月、ISBN 4584135738)
 
*『それでもプロか!:ノムラの本物論』([[ベースボール・マガジン社]]、2014年9月、ISBN 9784583107363)
 
*『プロ野球:最強のエースは誰か?』([[彩図社]]、2014年10月、ISBN 9784801300231)
 
*『野村克也の人間通』([[海竜社]]、2014年10月、ISBN 9784759313994)
 
*『「小事」が大事を生む』([[扶桑社]]、2015年5月、ISBN 9784594072605)
 
*『老いの可能性:老いて学べば、則ち死して朽ちず 』(海竜社、2016年3月、ISBN 9784759314908)
 
*『野村の遺言』(小学館、2016年9月、ISBN 9784093885133)
 
*『野村克也 100の言葉:人を育て、動かすヒント』(宝島社、2016年11月、ISBN 9784800257659)
 
*『最強の組織をつくる:野村メソッド』(彩図社、2016年12月、ISBN 9784801301986)
 
*『運: 「ツキ」と「流れ」を呼び込む技術』(竹書房、2017年1月、 ISBN 9784801909878)
 
 
===== 文庫本 =====
 
*『敵は我にあり・続:反乱分子撃退の管理術』(ワニ文庫、1984年10月、ISBN 4584300445)
 
*『野球は頭でするもんだ!』([[朝日文庫]]、1985年9月、ISBN 4022603453/完全版、上下巻、2010年4月、上:ISBN 4022616601、下:ISBN 402261661X)
 
*『負けに不思議の負けなし』(朝日文庫、1987年4月、ISBN 4022604417/完全版、上下巻、2009年3月、上:ISBN 4022616121、下:ISBN 402261613X)
 
*『「攻め」と「守り」の管理学:人をどう読み、どう動かすか』([[PHP文庫]]、1987年2月、ISBN 4569261027)
 
*『野村ノート』([[小学館文庫]]、2009年11月、ISBN 4094084479)
 
*『敵は我に在り』(新装版、上下巻、ワニ文庫、2008年2月、上:ISBN 4584392587、下:ISBN 4584392595)
 
*『野村の「眼」』(ワニ文庫、2010年2月、ISBN 4584392927)
 
*『エースの品格:一流と二流の違いとは』(小学館文庫、2010年7月、ISBN 409408522X)
 
*『野村イズムは永遠なり』(小学館文庫、2011年4月、ISBN 4094086056)
 
*『弱者の兵法:野村流 必勝の人材育成論・組織論』(アスペクト文庫、2011年11月、ISBN 4757219954)
 
*『私が野球から学んだ人生で最も大切な101のこと』(知的生きかた文庫、2014年4月、ISBN 9784837982791)
 
*『凡人の強み』(ワニ文庫、2016年2月、ISBN 9784584393871)
 
*『そなえ:35歳までに学んでおくべきこと』(だいわ文庫、2016年5月、ISBN 9784479305941)
 
*『野村克也人生語録』([[講談社+α文庫]]、2016年7月、ISBN 9784062816823)
 
*『私とプロ野球』(ワニ文庫、2017年3月、ISBN 9784584393970)
 
 
===== 新書 =====
 
*『運鈍根』(日本社(にっぽん新書)、1965年12月)
 
*『巨人軍論:組織とは、人間とは、伝統とは』([[角川oneテーマ21]]、2006年2月、ISBN 4047100366)
 
*『あぁ、阪神タイガース:負ける理由、勝つ理由』(角川oneテーマ21、2008年2月、ISBN 404710132X)
 
*『野村再生工場:叱り方、褒め方、教え方』(角川oneテーマ21、2008年8月、ISBN 4047101516)
 
*『あぁ、監督:名将、奇将、珍将』(角川oneテーマ21、2009年2月、ISBN 4047101834)
 
*『あ〜ぁ、楽天イーグルス』 (角川oneテーマ21、2009年12月、ISBN 4047102237)
 
*『野村ボヤキ語録:人を変える言葉、人を動かす言葉』 (角川oneテーマ21、2011年1月、ISBN 4047102717)
 
*『考える野球』([[角川SSC新書]]、2011年4月、ISBN 404731546X)
 
*『プロ野球重大事件:誰も知らない“あの真相”』(角川oneテーマ21、2012年2月、ISBN 4041101611)
 
*『理想の野球』([[PHP新書]]、2012年3月、ISBN 456980280X)
 
*『阪神タイガース暗黒時代再び』([[宝島社新書]]、2012年12月、ISBN 4800202949)
 
*『執着心:勝負を決めた一球』(PHP新書、2013年1月、ISBN 4569809472)
 
*『監督の器』(イースト新書、2013年6月、ISBN 4781650023)
 
*『読売巨人軍黄金時代再び』(宝島社新書、2013年6月、ISBN 4800210542)
 
*『私の教え子ベストナイン』([[光文社新書]]、2013年9月、ISBN 4334037658)
 
*『楽天はなぜ強くなれたのか:巨人の「天才野球」をしのいだ力』(PHP新書、2014年1月、ISBN 456981686X)
 
*『野球のコツ:「下手な選手は上手く」なり、「弱いチームは強く」なる!』([[竹書房新書]]、2014年4月、ISBN 4812499356)
 
*『私が選んだプロ野球10大「名プレー」』(青春新書インテリジェンス、2014年9月、ISBN 9784413044332)
 
*『阪神タイガースの黄金時代が永遠に来ない理由』(宝島社新書、2014年9月、ISBN 9784800227898)
 
*『名選手にドラマあり:脳裏に焼き付くあのシーン』([[小学館新書]]、2014年10月、ISBN 9784098252206)
 
*『なぜか結果を出す人の理由』([[集英社新書]]、2014年11月、ISBN 9784087207651)
 
*『リーダーのための「人を見抜く」力』(詩想社新書、2014年12月、ISBN 9784434199370)
 
*『強打者列伝』 (角川oneテーマ21、2014年12月、ISBN 9784041106310)
 
*『高校野球論:弱者のための勝負哲学』([[角川新書]]、2015年7月、ISBN 9784041027516)
 
*『セ界恐慌:プロ野球の危機を招いた巨人と阪神の過ち』(宝島社新書、2015年11月、ISBN 9784800246455)
 
*『言葉一つで、人は変わる』(試想社新書、2016年1月、ISBN 9784434209208)
 
*『名将の条件:監督受難時代に必要な資質』(SB新書、2016年2月、ISBN 9784797385601)
 
*『俺の苦言を聞け!』(悟空出版、2016年6月、ISBN 9784908117169)
 
*『由伸・巨人と金本・阪神 崩壊の内幕』(宝島社新書、2016年8月、ISBN 9784800257024)
 
*『暗黒の巨人軍論』(角川新書、2017年2月、ISBN 978-4040820941)
 
*『負けを生かす極意』(SB新書、2017年5月、ISBN 9784797389388)
 
 
==== 共著 ====
 
*([[筑紫哲也]])『功なき者を活かす:リストラ時代の人材活用法』([[光文社]]、1998年3月)
 
**『「功なき者」を活かす:時代を超えた人材活用の極意』([[朝日文庫]]、2011年4月、ISBN 4022616938)
 
*([[米長邦雄]])『一流になる人二流でおわる人』(1999/05/01 [[致知出版社]])
 
*([[野村沙知代]])『野村セオリー:絆』(2006/10/24 [[海竜社]])
 
*([[野中広務]])『憎まれ役』(2007/10/15 [[文藝春秋]])
 
*([[田原総一朗]]) 『再生力』(2009/03 [[イースト・プレス]])
 
*([[原田雅史]]漫画)『ノムさんに聞け!:野球的人生指南』(2009/07 PHP研究所)
 
*([[渡邉美樹]])『これだけで「組織」は強くなる:戦うリーダーの作り方』(2010/7/7 角川書店)
 
*([[野村克則]])『野村のDNA:頭脳野球とは何』(2012/05 朝日新聞出版)
 
*(野村克則)『野村の「人生ノート」:夢をつかむ特別講義』(2012/06 日本文芸社)
 
*([[竹中平蔵]])『嫌われ者の流儀』(宝島社、2014年4月、ISBN 4800221463)
 
*([[宮本慎也]])『師弟』(講談社、2016年4月、ISBN 9784062200615)
 
 
=== 関連書籍 ===
 
*『ホームラン・350本:ある高校教師の記録』(清水義一{{#tag:ref|野村の高校時代の恩師|group="注"}} 著、錦正社、1967年)
 
*『月見草の唄 : 野村克也物語』(長沼石根著、朝日新聞社、1981年10月)
 
**『球界に咲いた月見草:野村克也物語』(朝日文庫、1993年12月、ISBN 4022607890)
 
*『野村克也カニの念仏集』([[永谷脩]]著、ポケットブック社、1993年6月、ISBN 4341140450)
 
*『野村克也の「勝利に理あり」:長嶋巨人と森西武を破った男』(永谷脩著、徳間書店、1993年12月、ISBN 4198600465)
 
*『野村監督部下が育つ「将の器」』([[江本孟紀]]著、[[二見書房]]、1996年5月、ISBN 4576960520)
 
*『野村克也「勝利の方程式」』(永谷脩著、[[知的生きかた文庫]]、1996年5月、ISBN 4837908063)
 
*『野村克也勝利を導く「知・情・念」の応用』(永谷脩著、未来出版、1997年8月、ISBN 4943901298)
 
*『野村克也の「人材再生」工場』(高田実彦著、[[プレジデント社]]、1998年5月、ISBN 4833416549)
 
*『野村監督知将の思考』(江本孟紀著、[[東方出版]]、1999年2月、ISBN 4809401650)
 
*『猛虎逆襲計画:拝啓野村克也様』(摂津守桃丸著、エイ出版社、1999年3月、ISBN 4870992183)
 
*『野村マジック:阪神再生の秘策』(江本孟紀著、二見書房(フタミ文庫)、1999年6月、ISBN 4576991132)
 
*『野村監督に教わったこと:僕が38歳で二冠王になれた秘密』([[山崎武司]]著、講談社、2008年2月、ISBN 4062145332)
 
*『野村監督(全)ボヤキ:08シーズン完全収録』(服部翔太編著、コスミック出版、2008年11月、ISBN 4774790044)
 
*『捕手ほど素敵な商売はない:森祇晶vs.野村克也』([[松下茂典]]著、[[朝日新聞出版]]、2009年7月、ISBN 4022506059)
 
*『野村克也知略と戦略:弱者を勝者に変えるメソッド』([[二宮清純]]著、[[PHP研究所]]、2009年11月、ISBN 4569771742)
 
*『野村克也は本当に名将か』(工藤健策著、[[草思社]]、2009年11月、ISBN 4794217382)
 
*『野村克也全ボヤキ&名言ノート:プロ野球生活』(服部翔太編著、シーエイチシー、2010年4月、ISBN 4860973348)
 
*『野村の「監督ミーティング」:選手を変える、組織を伸ばす「野村克也の教え」』([[橋上秀樹]]著、[[日本文芸社]](日文新書)、2010年5月、ISBN 4537257644)
 
*『野村克也解体新書:ノムさんは本当にスゴイのか?』(江本孟紀著、無双舎、2011年7月、ISBN 4864084742)
 
*『野村克也に挑んだ13人のサムライたち:「大成した選手」と「消えた選手」その違いはどこにあったのか?』(橋上秀樹著、[[双葉新書]]、2011年4月、ISBN 4575153710)
 
 
=== CD ===
 
* 「俺の花だよ月見草」(1993/04/01初版発売、1999/07/23再発売)
 
* 「ドキュメント『野村監督語録集』〜名将かく戦い かく語りき〜」(2008/11/19発売)
 
** 東北楽天ゴールデンイーグルスの2008年度の試合後のメイン・コメントを集めたCD。
 
* 「女房よ…」(2009/01/21発売)
 
** 作詞:野村沙知代・[[坂口照幸]]、作曲[[三木たかし]]
 
* 「[[花は咲く]]」[[花は咲くプロジェクト]](2012/05/23発売)
 
** NHK東日本大震災復興応援ソング。東北3県の出身ではないが、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めていた縁からプロジェクトにボーカルで参加している。
 
** 作詞:[[岩井俊二]]、作曲・編曲:[[菅野よう子]]
 
 
=== 出演映画 ===
 
* [[野球狂の詩]](1977年) - 本人 役
 
* [[盲導犬クイールの一生|クイール]](2004年) - 片岡智則 役
 
 
=== 出演番組 ===
 
* [[プロ野球中継]](各放送媒体) - 解説者
 
** TBS制作・放送分([[SAMURAI BASEBALL|テレビ]]<nowiki>or</nowiki>[[TBSラジオ エキサイトベースボール|ラジオ]]。1981年 - 1982年<ref group="注" name="tbs_k" />。シダックス監督時代も、ゲスト解説者として出演{{#tag:ref|2005年6月28日巨人対ヤクルト戦ラジオ中継([[栗山英樹]]とのダブル解説)<ref>[https://web.archive.org/web/20050619015959/http://www.tbs.co.jp:80/baseball/oaguide/schedules.html 2005年6月のTBSラジオプロ野球中継公式サイト内放送予定表](インターネットアーカイブ同19日付保存キャッシュ)</ref>|group="注"}}。2011年は大一番であるオールスターゲーム、及び日本シリーズ第7戦の解説を担当)
 
** [[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|テレビ朝日系列向け]](1983年 - 1989年。その後も、ゲスト解説を担当)
 
** [[ニッポン放送ショウアップナイター]]([[ニッポン放送]]。2010年からゲスト解説として登場。[[聴取率]]調査期間に行われる巨人戦や、ポストシーズンマッチなどの大一番クラスのカードを中心に、年数試合程度)
 
 
'''テレビ'''
 
* [[S☆1]](TBSテレビ 2009年夏ごろから不定期で「ノムラの考え」と題して日曜準レギュラーでビデオ出演。2010年4月より「S☆1ファミリーNO19」としてプロ野球コメンテーター。4月-9月は土曜準レギュラー、10月より日曜準レギュラー)
 
* [[小川宏のなんでもカンでも!]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、前期解答者)
 
* [[速報!TVスタジアム]](キャスター。1983年、テレビ朝日)
 
* [[NHK特集]]「スポーツドキュメント[[江夏の21球]]」(進行役。1983年1月24日、[[NHK総合テレビジョン]])
 
* [[この人○○ショー|この人野村克也ショー]](1985年1月24日、NHK総合テレビ)
 
* [[第44回NHK紅白歌合戦]](1993年12月31日、NHK総合テレビ、審査員)
 
* [[知るを楽しむ]]・人生の歩き方「逆転の発想」(2008年、[[NHK教育テレビジョン]])
 
* [[プレミアム8]](人物)「野球と歩んだ73年・野村克也」(2009年6月11日、[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|NHK-BSハイビジョン]])
 
: インタビュアーは堀尾正明。後者は知るを楽しむにおける講義をベースに、新たに撮り下ろしたインタビューを交えて再構成したものである。
 
* [[イマだ!タレント再生工場 「ノムさん」]](フジテレビ)
 
* [[TheサンデーNEXT]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、2009年3月- 2011年3月) - ノムさんの「今週のボヤキ節」
 
* [[課外授業 ようこそ先輩]](NHK総合テレビ、2010年5月23日)
 
: ナレーションは、野村の物まねをしている[[松村邦洋]]が担当した。
 
* [[NEWS23X]]([[TBSテレビ]]、2010年4月-2013年3月、スポーツコメンテーター(不定期))
 
* [[こころの遺伝子 〜あなたがいたから〜]](NHK総合テレビ、2010年7月5日)‐「技術の前に人間を磨け 野村克也」
 
* [[世紀の和解SHOW]](日本テレビ、2011年7月-8月)
 
* [[ヒーローたちの名勝負]]「王座かけたギャンブルスタート 野村ヤクルト初優勝」(2013年10月12日、NHK総合テレビ)
 
 
'''ラジオ'''
 
* [[土曜朝イチエンタ。堀尾正明+PLUS!]](TBSラジオ、2008年-2010年、番組枠内のコーナー「野村克也・朝イチ野村ゴロク」のパーソナリティ)
 
: 2010年5月に病気療養で休養してから、しばらくは撮り溜めしていたものを放送した後、同6月以後は無期限休止状態となった。
 
 
=== 出演CM ===
 
* [[サントリー]]「バイオミンX」(解説者時代、1982年頃)- [[ビートたけし]]と共演。野村が解説者で、たけしが実況アナ役だった。
 
* [[カシオ]]「ゲーム電卓ベースボール」(解説者時代、1983年頃) - [[村山実]]と共にタキシード姿で出演。自ら[[野球拳]]の歌を披露。「コンピューターは強いぞ」(直後に村山が「う〜ん」と唸る)という台詞あり。
 
* [[エーザイ]]「スカイナー鼻炎用カプセル」(解説者時代、1984年頃)- スーツ姿でキャッチャーのようにしゃがみサインを出す仕草をして「(鼻炎の)サイン出てますよ」と例の口調で話す。
 
* [[サンスター]]「Do」(解説者時代、1985年頃)- 「野球にストライクゾーンがあるように、歯磨きにもブラッシングゾーンがあります。」と例の口調で話す。笑顔で「しっかり磨けます。」と語る。
 
* [[ゼロックス]](現:[[富士ゼロックス]])[[パーソナルコンピュータ]]『TALK』(解説者時代、1985年)- キャッチャーボックスの中でスーツ姿で立ったままキャッチャーミットでボールを受ける様子がスローモーションで2度繰り返され、最後に「ゼロックスのパソコンはTALK」と語る(“TALK”というシーンでは野村の顔がアップになり、スローモーションになる)
 
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)『踏切事故防止キャンペーン』(ヤクルト監督時代、声のみで出演。1993年)
 
** 第1弾 - [[古田敦也]]が出演していたCMに声のみで指導していた。
 
** 第2弾 - 声の他アニメで登場、折れた[[踏切]]を手に一言「''野球も踏切も、ルールを守らん奴は、わしゃ大嫌いや''」
 
* [[東京デジタルホン]](関東限定、1994年)- ヤクルト主力選手とともに出演。ヤクルトをモチーフにした架空の企業「ツバメ商事」の部長と部下という設定のコント形式のCFだった。野村が部長、部下は[[広澤克実|広沢克己]]、[[池山隆寛]]、古田、[[荒木大輔]]、[[荒井幸雄]]、[[内藤尚行]]、[[高津臣吾]]、[[川崎憲次郎]]。全員背広での出演で、様々なバージョンが放送された。ラジオ版もあり、選手のコメントに監督がぼやく内容。
 
* [[麒麟麦酒|キリン]]「ラガービール」(阪神監督就任時の1999年。関西限定)
 
** - 単身赴任のサラリーマンという設定で古アパートに、疲れ切った表情で遅く帰宅し、留守電のメッセージを聞くと、沙知代夫人本人の声で「あなた、生きてますか?」という一言が流れる。安堵の笑みを浮かべながら、ダイニングテーブルに座り一人ビールを飲む。
 
** - 新世界界隈の居酒屋で、野村がカウンターに座っていると、熱狂的な虎党が野村の周りに集まり「たのむで〜」「頑張ってや〜!」と声をかけながら、コップに入ったビールを飲もうとした野村の背中をボンと叩く。勢いでビールをこぼしそうになる。最後は引きの画で野村が虎党と笑顔をかわす。
 
* [[ロータス・スーパーオフィス]] - 雑誌広告のみでCMはなし。阪神監督時代のものでユニフォーム姿の野村が「選手交代!(ここでは対抗ソフトである[[Microsoft Office]]を指す)」と叫んでいる。
 
* [[大阪メディアポート]](阪神監督時代。関西ローカルCM) - ボクシングのリングにスーツ姿の野村が一人で立ち上がり、「''関西の通信はOMP''」という台詞があった。
 
* [[セガゲームス|セガ]]「[[プロ野球チームをつくろう]]」
 
* [[大正製薬]]「[[大正漢方胃腸薬]]」(楽天監督時代、2006年11月から12月まで) - [[長塚京三]]と共演。忘年会の席で長塚が社員の1年の労を労い「食べる前に…」と言うと野村が登場して「ノム(飲む)」と言う。自身のニックネームをかけた駄洒落である。ちなみに野村のアドリブが入っている。
 
* [[富士通]]「[[FMV]]」([[木村拓哉]]、[[田中将大]]と共演) - 「ピッチャー交代、マー君に代えてマー君」と審判に告げる。収録は[[宮城球場|Kスタ宮城]]ではなく[[横浜スタジアム]]で行った。
 
* 野村工務店([[2010年]] [[大阪府]]ローカル。野村つながりということで「野村の一級入魂プロジェクト」イメージモデルとして起用)
 
* [[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]「2010年プロ野球放送」- [[東北楽天ゴールデンイーグルス]]監督時代の試合終了後の会見のパロディ。ラストには背中が写り、ユニフォームの後ろ(背番号)にスカパー申し込み電話番号が書いてある。
 
* [[トヨタ自動車]]「[[トヨタ・ノア|ノア]]」 2010年([[松下由樹]]出演) - カピバラの声を担当
 
* [[日本中央競馬会]](JRA)
 
* [[スポーツ振興くじ|BIG]](2013年2月、「ボヤいてばっかりマン」として出演)
 
 
== 参考文献 ==
 
{{脚注の不足|section=1|date=2017年9月}}
 
* [[新宮正春]]著『私のベストナイン』(2000年、講談社発行) ISBN 4-06-268345-8
 
* <div id="TBS50年史">『TBS50年史』(2002年1月、東京放送編・発行)…[http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003623730-00 国立国会図書館サーチの書誌情報]
 
** 資料編
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
 
=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
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+
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== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
{{Wikiquote|野村克也}}
 
* [[京都府出身の人物一覧]]
 
* [[福岡ソフトバンクホークスの選手一覧]]
 
* [[千葉ロッテマリーンズの選手一覧]]
 
* [[埼玉西武ライオンズの選手一覧]]
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
{{NPB|01603809|野村克也}}
 
{{BASEBALLstats |brjpn=nomura002kat}}
 
* [http://fenterprise.jp/ エフエンタープライズ]
 
* [http://nomura-katsuya.com/ 野村克也オフィシャルサイト]
 
* [http://www.jiji.com/jc/v2?id=20091015katsuya_nomura 時事ドットコム:波乱万丈 野村克也] 時事通信社
 
* [http://meikyu-kai.org/member/batter/katsuya_nomura.html 会員選手名鑑 野村克也] 日本プロ野球名球会
 
* [http://www.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/detail/detail_094.html 殿堂一覧|公益財団法人野球殿堂博物館 野村克也]
 
 
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{{東北楽天ゴールデンイーグルス歴代監督|東北楽天ゴールデンイーグルス|2006 - 2009}}
 
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2018/8/8/ (水) 08:29時点における最新版


野村 克也(のむら かつや、1935年6月29日 - )は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身の元プロ野球選手捕手)・元プロ野球コーチ・元プロ野球監督で、南海ヤクルト阪神東北楽天の監督を歴任し、現在は野球解説者評論家日本体育大学客員教授も務める。所属事務所はエフエンタープライズ。

戦後初の三冠王かつ世界のプロ野球史上初の捕手の三冠王で、選手出場試合数歴代2位、監督出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位、通算安打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算犠飛数歴代1位、パ・リーグ通算打席数1位などの記録保持者。

血液型はB型。愛称は「ノムさん」。元東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督(2012年まで)。

概要

京都府京丹後市出身。野球選手としての現役生活は1954年から1980年の27年間にわたり、南海ホークスロッテオリオンズ西武ライオンズでプレーした。選手引退後は1990年から1998年までヤクルトスワローズ1999年から2001年まで阪神タイガース2003年から2005年まで社会人野球シダックス2006年から2009年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めた。2010年から2012年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督[1][2]2010年からはサンケイスポーツの野球評論家を務める。また、出身地の京丹後市名誉市民となっている。

通算試合出場数は日本プロ野球歴代2位(実働年数は歴代2位)、通算の安打本塁打打点塁打数は歴代2位で、いずれもパ・リーグ記録である。捕手を務めながら通算RCWINでも歴代5位を記録している球史に残る名選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」と自負している。選手・監督時代を通じ、勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献している。

前述の「ノムさん」の愛称の他にも、「ノムやん」「ノムはん」「ムース」「和製のベーブ」などと呼ばれることがある。ムースとはロッキー山脈に生息する、普段のっそりしているが非常に敏感で頭がよい「へら鹿」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが「のそっとしているがいろいろな動きによく反応している」野村をこう呼んだことから名づけられた。

二度結婚しており、2人目の配偶者が野村沙知代である。沙知代との間に息子・野村克則。1人目の配偶者との間にも息子が1人いる。継子には団野村ケニー野村がいる。

自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐している通り、幼少の時から老年に差し掛かった現在まで、仕事に対する執着心は非常に強い。第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、執筆活動など数え切れないほどの仕事をこなす。現役時代は捕手という負担の大きいポジションで歴代選手2位の出場数(3017試合)を記録し、選手兼任監督まで務めており、監督としての試合出場も通算3204試合と3000試合の大台に乗せている。また通算打席数(11970打席)と通算打数(10472打数)も歴代1位記録である。

脚注

注釈

出典

  1. 楽天・野村克也名誉監督 - リアルライブ 2010年3月28日
  2. 野村氏が楽天名誉監督退任 - 河北新報・2012年12月30日(2013年1月14日時点のアーカイブ

関連項目

外部リンク