「瀬戸内海」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「'''瀬戸内海'''(せとないかい) 本州西部と四国の間にある海域。更新世中期(約 38万年前)に,琵琶湖から有明海に…」で置換)
(タグ: Replaced)
1行目: 1行目:
'''瀬戸内海'''(せとないかい)は、[[本州]]、[[四国]]、[[九州]]に挟まれた[[内海]]。[[山口県]]、[[広島県]]、[[岡山県]]、[[兵庫県]]、[[大阪府]]、[[和歌山県]]、[[徳島県]]、[[香川県]]、[[愛媛県]]、[[大分県]]、[[福岡県]]がそれぞれ海岸線を持つ。沿岸地域を含めて'''[[瀬戸内地方|瀬戸内]]'''(せとうち)とも呼ばれている(ただし瀬戸内海の名称源ではない。瀬戸内海は「瀬戸の内海」の意である)。
+
'''瀬戸内海'''(せとないかい)
 
 
古来、[[畿内]]と九州を結ぶ航路として栄えた。[[気候]]は[[瀬戸内海式気候]]と呼ばれ、温暖で雨量が少ない。
 
 
 
[[Image:Seto_Inland_Sea_satellite.jpg|thumb|350px|right|'''瀬戸内海''' 写真上は北東方向。左下に見える九州、中央に見える四国(島)、左中央から右上に見える本州にはさまれている]]
 
 
 
== 概要 ==
 
[[画像:Setouchi.jpg|thumb|400px|瀬戸内海の多島美、山口県周防大島町]]
 
東西に450km、南北に15-55km、平均水深:約38m、最大水深:約105m([[豊予海峡]]および[[鳴門海峡]])の内海である瀬戸内海は複数の島嶼群で構成され、豊かな生態系を持つことで知られている。 医師であり博物学者であった[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]を始めとして数多くの欧米人から高く評価された景勝地であり、19世紀後半の[[1860年]]、日本では[[明治維新]]直後に瀬戸内海を訪れたシルクロードの命名者でもある[[ドイツ]]人の[[地理学]]者[[フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン]](Ferdinand Freiherr von Richthofen、1833年 - 1905年)の『支那旅行日記』により「これ以上のものは世界のどこにもないであろう」と世界中に紹介され<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.hiroshima.lg.jp/www/contents/1306742356416/files/mokuji-rinen.pdf 『瀬戸内 海の道構想』 目次及び構想の理念]}} 広島県、2011年</ref>、今もなお風光明媚な風景として絶賛される地域である<ref>例えば2007年5月に瀬戸内海を通過したハワイの航海カヌー「[[ホクレア]]」のクルーは、公式報告の中で次のように瀬戸内海の美を表現している。「瀬戸内海の風景はまるで夢の中のようでした。柔らかく丸みを帯び緑に覆われた島を、私たちは無数に通り過ぎました。島々を包むように波が立っています。こんな航海をこそ私は夢見ていたのです。もちろん私は福岡も楽しみましたが、この大自然の美は別格です。いや、今日のこの航海の感動は、単なる大自然の美という言葉では言い表せないでしょう。」[http://hokulea.aloha-street.com/?p=277 ホクレア号航海ブログ「5月20日<祝島と大島>」より抜粋]</ref>。
 
 
 
=== 「瀬戸内海」の誕生 ===
 
瀬戸内海という概念が誕生したのは、[[江戸時代]]後期とされる。それまでは[[大阪湾|和泉灘]]や[[播磨灘]]、[[備後灘]]、[[安芸灘]]など、より狭い[[海域]]の概念が連なっているのみで、現在の瀬戸内海全域を一体のものとして捉える視点は存在していなかった。とはいうものの、江戸時代の「瀬戸内」は現在でいう「瀬戸内海」とは必ずしも重なっていない。[[1813年]]に書かれた[[佐渡]]の[[廻船]]商人の旅行記『海陸道順達日記』では[[尾道]]と[[下関]]の間を「瀬戸内」と呼んでいる。
 
 
 
「瀬戸内海」概念が今日のようなものとして確立される契機となったのは、[[明治]]期に欧米人がこの海域をThe Inland Seaと呼んだことによる。欧米人がこのように呼んだ海域を日本人の地理学者たちが1872年頃から「瀬戸内海」と訳して呼び、これが明治時代の後半に広まっていったのである(ただしこの時期の「瀬戸内海」は[[明石海峡]]から[[関門海峡]]までの海域を指していることが多く、現在のようなより広い海域に「瀬戸内海」の概念が拡張されるには、さらに時間を要した)。
 
 
 
日本人による最初のまとまった論考は[[小西和]]の『瀬戸内海論』(1911年)である。本論の中で、小西は瀬戸内海を一つの大きなテーマとして捉えることの必要性を指摘するとともに、瀬戸内海の多島美を積極的に評価した。また、小西は「[[国立公園]]」を日本に作ることの必要性も併せて指摘し、後に[[帝国議会]]に国立公園の設置を建議した。この建議を容れて[[国立公園法]]が制定されたのは1931年で、[[1934年]][[3月16日]]の第1回指定で瀬戸内海は雲仙(現・[[雲仙天草国立公園]])、霧島(現・[[霧島錦江湾国立公園]])とともに日本初の国立公園「[[瀬戸内海国立公園]]」となった<ref>『瀬戸内海事典』南々社、2007年</ref>。
 
 
 
== 海域 ==
 
=== IHOが定める範囲 ===
 
[[国際水路機関]](IHO)が1953年に発行した『大洋と海の境界』において、瀬戸内海は[[英語]]版で'''Seto Naikai or Inland Sea'''、[[フランス語|仏語]]版で'''Mer Intérieure (Seto Naikai)'''と表記され、その範囲は次のように定義されている<ref>{{cite book|url=http://www.iho-ohi.net/iho_pubs/standard/S-23/S23_1953.pdf|title=Limits of Oceans and Seas|edition=3|year=1953|page=23|publisher=International Hydrographic Organization|accessdate=25 February 2015}}</ref><ref>{{cite book|url=http://www.iho.int/iho_pubs/standard/S-23/S-23_Ed3_1953_FR.pdf|title=Limites des Océans et des Mers|edition=3|year=1953|page=32|publisher=Organisation hydrographique internationale|accessdate=25 February 2015}}</ref>。
 
* 西端 - [[関門海峡|下関海峡]]において、[[名護屋岬]]から[[馬島]]と[[六連島]]を通り[[村崎の鼻]]に至る線
 
* 東端 - [[紀伊水道]]において、[[田倉崎]]と[[淡路島]]の[[生石鼻]]、同島の[[塩崎]]と[[大磯崎]]を結ぶ線
 
* 南端 - [[豊後水道]]において、[[佐田岬]]と[[関崎]]を結ぶ線([[豊予海峡]])
 
 
 
=== 法令が定める範囲 ===
 
[[ファイル:Seto_Inland_Sea01.png|thumb|400px|[[領海法]]による瀬戸内海の範囲。面積 1万9,700[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]]]
 
[[ファイル:Seto_Inland_Sea02.png|thumb|400px|瀬戸内法と瀬戸内法施行令による瀬戸内海の範囲。面積 2万1,827km<sup>2</sup>]]
 
 
 
瀬戸内海の海域は法令の目的ごとに扱い方が異なり複数の法令で範囲が定義されている。
 
 
 
以下の引用文は一部漢数字を算用数字に直すなどしている。
 
 
 
;領海及び接続水域に関する法律施行令(領海法施行令)第1条
 
:*一 [[紀伊日ノ御埼灯台]](北緯33度52分55秒、東経135度3分40秒)から[[蒲生田岬]]灯台(北緯33度50分3秒、東経134度44分58秒)まで引いた線
 
:*二 [[佐田岬灯台]](北緯33度20分35秒、東経132度54秒)から[[関埼灯台]](北緯33度16分、東経131度54分8秒)まで引いた線
 
:*三 [[竹ノ子島]][[台場鼻]](北緯33度57分2秒、東経130度52分18秒)から[[若松区|若松]][[洞海湾]]口防波堤灯台(北緯33度56分28秒、東経130度51分2秒)まで引いた線
 
:※国際的にはこの範囲が瀬戸内海とみなされる。
 
:※西端は[[関門海峡]]の西端である。関門海峡の全域と洞海湾は瀬戸内海に含まれる。
 
;瀬戸内海環境保全特別措置法(瀬戸内法)第2条第1項
 
:次に掲げる直線及び陸岸によつて囲まれた海面並びにこれに隣接する海面であつて政令で定めるものをいう。
 
:*一 和歌山県紀伊日の御岬灯台から徳島県[[伊島 (阿南市)|伊島]]及び[[前島 (徳島県)|前島]]を経て[[蒲生田岬]]に至る直線
 
:*二 愛媛県佐田岬から大分県関埼灯台に至る直線
 
:*三 山口県[[火ノ山下]]灯台から福岡県[[門司崎]]灯台に至る直線
 
:※「政令」とは次に挙げる「瀬戸内海環境保全特別措置法施行令」のこと。
 
:※西端は関門海峡の最狭部(東端に近い)である。関門海峡の大部分と洞海湾は一~三の範囲に含まれない。
 
;瀬戸内海環境保全特別措置法施行令 第1条
 
:*一 (略)愛媛県[[高茂埼]]から大分県[[鶴御埼]]に至る直線及び陸岸によつて囲まれた海面
 
:*二 (略)山口県[[特牛]]灯台から同県[[角島]][[通瀬埼]]に至る直線、同埼から福岡県[[妙見埼]]灯台に至る直線及び陸岸によつて囲まれた海面
 
:※瀬戸内法の一~三の範囲に追加される。
 
:※[[豊予海峡|早吸瀬戸]]と関門海峡の外側のかなりの範囲が瀬戸内海に含まれる。
 
;海上交通安全法施行令 第1条
 
:紀伊日ノ御埼灯台(北緯33度52分55秒、東経135度3分40秒)から蒲生田岬灯台(北緯33度50分3秒、東経134度44分58秒)まで引いた線及び佐田岬灯台(北緯33度20分35秒、東経132度54秒)から関埼灯台(北緯33度16分、東経131度54分8秒)まで引いた線
 
:※西端は言及されていない。
 
;漁業法施行令 第27条
 
:*一 和歌山県紀伊日ノ御埼灯台から徳島県伊島及び前島を経て蒲生田岬灯台に至る直線
 
:*二 愛媛県佐田岬灯台から大分県関埼灯台に至る直線
 
:*三 山口県火ノ山下潮流信号所から福岡県[[門司埼灯台]]に至る直線
 
:※瀬戸内法の一~三とほとんど同じ。
 
 
 
=== 区分 ===
 
瀬戸内海は複数の海域で構成されている。
 
 
 
『[[領海及び接続水域に関する法律]]』では東側から順に次に掲げる10区分された海域で構成されている。
 
# [[紀伊水道]]
 
# [[大阪湾]]
 
# [[播磨灘]]
 
# [[備讃瀬戸]]
 
# [[備後灘]]
 
# [[燧灘]]
 
# [[安芸灘]]
 
# [[広島湾]]
 
# [[伊予灘]]
 
# [[周防灘]]
 
 
 
『[[瀬戸内海環境保全特別措置法]]』では前記10区分に次に示す海域を加えた計12区分で構成される。
 
# [[豊後水道]]北部
 
# [[響灘]]
 
 
 
上記の12区分された個々の海域を示す明確な基線(境界線)は存在しない。
 
 
 
== 生物相 ==
 
汚染と環境破壊が進んだ現在でも[[天然記念物]]の節足動物の[[カブトガニ]]、小型鯨類の[[スナメリ]]や[[ハセイルカ]](近年、[[伊勢湾]]や[[大村湾]]など、瀬戸内海以外にもスナメリの生息地として知られる諸々の海域に本種の再定着が確認されてきている)などの海洋生物や、[[アユ]]を初めとする400-500種類を越す魚類が生息している。天然記念物に指定されている種類も多く見られ、前述のカブトガニのほか広島県三原市[[有竜島]]は[[ナメクジウオ]]の生息地として、また、同県竹原市高崎町[[阿波島]]周辺は『スナメリクジラ回遊海面』として1930年に登録されている。
 
*ナメクジウオは海砂の採取事業が盛んになった昭和30年代から大幅な減少を見せ、昭和60年頃には姿が確認されなかった。しかし、1990年代に再発見され、保護策の向上故か順調な自然回復が見られ始めている<ref>{{cite web|publisher=[[四国新聞]]|year=1999|title=第3部 命の ふるさと - 14.ナメクジウオ再生 海砂禁止、息吹き返す|url=http://www.shikoku-np.co.jp/feature/rensa/3/2/|accessdate=2015年01月13日}}</ref>。
 
*阿波島はスナメリ自体よりも、スナメリを利用した[[スズキ (魚)|スズキ]]の伝統漁法が記念物指定対象となっており、国内唯一の鯨類関連の指定例であり、海棲哺乳類関連としては[[南西諸島]]の[[ジュゴン]]と本例の二つのみである。なお、2015年現在では、当漁法はスナメリの生息数減少故に廃止されている。スナメリは瀬戸内海全域にて大幅な減少が見られたが、近年大規模な群れの再確認や大阪湾の[[関西国際空港]]周辺で個体数の増加が見られている(ターミナルが人工環礁として機能している)<ref>{{cite news|publisher=[[朝日新聞]]デジタル|year=2012|title=関空沖にスナメリの楽園 禁漁でエサ豊富、「奇跡的」|url=http://www.asahi.com/eco/news/OSK201209050063.html|accessdate=2015年01月13日}}</ref>。また、[[岡山県]][[牛窓町]]<ref>{{cite web|title=牛窓のスナメリを見守る会|url=http://www.beautiful-setonaikai.jp/|accessdate=2015年01月13日}}</ref>や[[北九州市]][[藍島]]<ref>{{cite web|publisher=瀬渡し船・ニュー大漁丸|title=スナメリ・ウォッチング|url=http://www.tairyoumaru.net/sunameri-watching.html|accessdate=2015年01月13日}}</ref>では、本種の保護および[[ホエールウォッチング|観察事業]]が施行されている。
 
 
 
鳥類ではとくに[[カンムリウミスズメ]]が注目されており、[[長島 (岡山県)|長島]]をはじめ現在でも比較的広範囲にて確認できる。
 
 
 
豊富な[[アマモ]]場も本来の瀬戸内海の生態系の重要な一部であり、1960年代に20,000ヘクタールを超す群生域が当海域に広く見られたが、1978年の時点では7,000ヘクタール程度に減少し、環境汚染など様々な要因により、その後の顕著な増加は見られない<ref>{{cite web|publisher=岩城生名漁協|year=|title=岩城島・生名島・赤穂根島・津波島の藻場 - 瀬戸内海から、失われつつあるアマモ場|url=http://jf-iwagi-ikina.jp/amamo/amamoba-garamoba.html|accessdate=2015年01月14日}}</ref>。近年、各地で[[藻場]]復元の動きがあるほか、芸予諸島には比較的良好な分布が残されている。
 
 
 
2015年1月には、新種であり固有種の[[カタツムリ]]「アキラマイマイ」が発見されている<ref>{{cite news|author=原田悠自|publisher=[[毎日新聞]]|year=2015|title=新種カタツムリ:「アキラマイマイ」瀬戸内海で発見|url=http://mainichi.jp/select/news/20150115k0000m040182000c.html|accessdate=2015-01-28}}</ref>。
 
 
 
=== 大型生物 ===
 
現在の状況からは想像しがたいが、かつて[[ニホンアシカ]]や[[クジラ]]、[[ウミガメ]]や[[サメ]]類の一大生息地でもあり、沿岸性である[[コククジラ]]<ref>{{cite web|author=宇仁義和|year=2004|title=西部系群コククジラ Eschrictius robustus の記録集成と通過海峡|url=http://www.h6.dion.ne.jp/~unisan/data/graywhale/cetaken15.html|journal=日本海セトロジー研究会第15回大会ポスター発表(2004)|publisher=宇仁自然歴史研究所, [[東京農業大学]]・[[生物産業学部]]|accessdate=2015年01月13日}}</ref>や[[セミクジラ]]、[[ウバザメ]]や[[ジンベイザメ]]、[[ホホジロザメ]]、[[オニイトマキエイ]]、[[マンボウ]]などの大型魚類<ref>{{cite web|publisher=公益社団法人瀬戸内海環境保全協会|title=瀬戸内魚類目録|url=http://www.seto.or.jp/seto/kankyojoho/sizenkankyo/fish/fish_list01.htm|accessdate=2015年01月13日}}</ref>や[[オサガメ]]など、現在では絶滅危惧種となっている大型の生物も多く見られたとされ、たとえば[[周防灘]]や[[別府湾]]などは鯨類にとって育児海域になっていたとする意見も存在する<ref>{{cite web|publisher=[[四国新聞]]|year=1999|title=第3部 命の ふるさと - 2.クジラがいた(中)|url=http://www.shikoku-np.co.jp/feature/rensa/3/2/|accessdate=2015年01月12日}}</ref>。瀬戸内海の各地に小規模な捕鯨会社が設立されるなどの狩猟と漁業による圧力や、高度成長期に急速に拡大した護岸ふくむ沿岸開発と環境破壊や汚染などの経緯を経て、これらの動物は瀬戸内海からは[[江戸時代]]から[[昭和時代]]初期にかけて激減または地方絶滅を迎えた。前述の絶滅危惧種はほぼ消え去ったが、たとえば他種のクジラならば現在でも稀に迷入することがある。
 
*土佐湾に定住する[[ニタリクジラ]]([[カツオクジラ]])はかつて[[豊後水道]]や[[大阪湾]]、瀬戸内海にも普通に生息していたとされ、近年でも[[芸予諸島]]<ref>{{cite web|publisher=[[岩城村]]役場産業振興課|year=2001|title=釣り情報 2001.6.8 ワシャー、ビックラコイタガァー、、、クジラ目撃あいつぐ|url=http://fukurou.tuzikaze.com/tsuri/|accessdate=2015年01月12日}}</ref><ref>{{cite web|publisher=[[岩城村]]役場産業振興課|year=2001|title=
 
“一六会メンバーの近況/激写”|url=http://www.dokidoki.ne.jp/home1/idehosp/tor/16/kujira/index.html|accessdate=2015年01月12日}}</ref>や[[宇和海]]<ref>{{cite web|editor=山田 格|year=2005|title=愛媛県宇和島市沖で種不明ヒゲクジラの目撃|url=http://svrsh1.kahaku.go.jp/marmam/?p=435|page=海棲哺乳類情報データベース|publisher=[[国立科学博物館]]|accessdate=2015年01月12日}}</ref>などに短期間定着した例がある(瀬戸内海周辺には多数の鯨類に関連する昔話や[[鯨塚]]が残っており、芸予諸島には「[[まんが日本昔ばなし]]」でも紹介された「くじらのお礼参り」という民話や<ref>{{cite web|publisher=一六会|year=2008|title=くじらのお礼まいり|url=http://murakamitakeyoshi.blog122.fc2.com/blog-entry-102.html|accessdate=2015年01月12日}}</ref>、豊後水道には「鯨の背比べ」と呼ばれる、鯨類の海面での繁殖行動を連想させる話が伝わっている<ref name=Miyawaki>(著)宮脇 和人 「鯨塚からみえてくる日本人の心―豊後水道海域の鯨の記憶をたどって」</ref>が、大型鯨類のこれらの地域での過去の生態がどの程度であったのかは不明瞭である)。
 
*同じく[[土佐湾]]や豊後水道でよく見られる[[ハンドウイルカ]]、[[オキゴンドウ]]等も比較的頻繁に目撃されている。[[豊後水道]]には現在、少なくともハンドウイルカ、[[ミナミハンドウイルカ]]、[[ハセイルカ]]の3種類が季節的または年間を通して定住していると考えられている<ref>{{cite web|author=豊後水道桂丸|title=イルカの回遊情報|url=http://www.hyper-tsukumi.jp/~amadai/irukanokaiyuu.html|accessdate=2015-02-01}}</ref>。また、個体数の回復に伴い近年では[[ザトウクジラ]]や[[ミンククジラ]]の確認や小滞在が微弱ながら増えているほか、[[マッコウクジラ]]の確認も特に東西両方の太平洋につながる海峡内部にてある。源平合戦([[治承・寿永の乱]])の折、瀬戸内海を進むイルカの群れの進行方向を使って戦績の吉兆が占われたという逸話も残っている<ref name=Miyawaki />。
 
*1957年、[[明石海峡]]と[[播磨灘]]に夫婦の[[シャチ]]が漁業との軋轢を考慮して駆除されるまで約2ヶ月間定着しており、かつて瀬戸内海に定着した群れがいた可能性がある。<ref name=OSAKACEA>{{cite web|publisher=[[大阪ECO動物海洋専門学校]]|year=2011|title=シャチ騒動|url=http://cblog-eco.oca.ac.jp/blog/2011/10/post-aa1b.html|accessdate=2015年01月09日}}</ref><ref>{{cite web|publisher=下関鯨類研究室|year=2014|title=ストランディング・データベース(1901-2012)、兵庫県|url=http://whalelab.org/HyogoPRF.htm|accessdate=2015年01月09日}}</ref>大阪湾では、生存個体の観察例はないが[[ナガスクジラ]]の漂着が相次ぎ、古文上でも大型のナガスクジラ類と思わしき鯨類が同海域にて渡し船上等から度々目撃されていた事が明らかになっているほか、[[シロナガスクジラ]]も戦前は確認されていた。余談だが、日本国内で近代では唯一の[[ホッキョククジラ]]の迷入例は大阪湾にて発生しており、[[ツノシマクジラ]]が新種として認定されたのは瀬戸内海の水域からほど近い[[角島]]にてである。
 
 
 
鯨類のほか、ニホンアシカは20世紀初頭まで[[鳴門海峡]]<ref>{{Cite web|date= 2010-01-18|url=http://www.topics.or.jp/nie/117307666665/126379259331.html|title=人魚伝説 歴史探検隊江戸中期の鳴門に記録|work=ふるさと歴史探検隊|publisher=[[徳島新聞]] |accessdate=2015年01月13日 }}</ref>を含む瀬戸内海各地に見られ<ref name="danwa1995">{{Cite web|author=[[伊藤徹魯]]、[[井上貴央]]、[[中村一恵]]|date=1996年|url=http://dx.doi.org/10.11238/mammalianscience.35.176|title=自由集会報告(日本哺乳類学会1995年度大会自由集会の報告)「1995年度ニホンアシカ談話会」|format=PDF|work=[http://dx.doi.org/10.11238/mammalianscience.35.176 哺乳類科学 Vol.35]|pages=pp.176-179|publisher=[[日本哺乳類学会]] |accessdate=2015年01月13日 }}</ref>、[[ニホンカワウソ]]も1975年まで棲息が確認されていた<ref>{{cite web|author=石井信夫|title=絶滅危惧種情報(動物)- ニホンカワウソ(本州以南個体群) - |url=http://www.biodic.go.jp/rdb_fts/2000/74-083.html|publisher=一般財団法人[[自然環境研究センター]]|accessdate=2015年01月13日}}</ref>。また、陸生ではあるが[[ニホンジカ]]や[[ニホンイノシシ]]が瀬戸内海を泳いで縦横断する光景は古来より見られてきた。
 
 
 
[[アカウミガメ]]や[[アオウミガメ]]<ref>{{cite journal|author=亀崎直樹|year=2012|title=大型海洋動物からみた瀬戸内海と今後|url=http://www.env.go.jp/council/former2013/11seto/y111-hearing03b/mat03_3.pdf.|journal=中央環境審議会瀬戸内海部会企画専門委員会現地ヒアリング(東部) 2012年2月23日|publisher=[[神戸市立須磨海浜水族園]], 特定非営利活動法人日本ウミガメ協議会, [[東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部]]|format=PDF|accessdate=2015年01月13日}}</ref>も激しく減少したが、現在も回遊は続いている。[[明石市]]の望海浜<ref>{{cite news|author=高松浩志|year=2014|title=瀬戸内海でウミガメ6年ぶり産卵 兵庫・明石で確認|url=http://www.asahi.com/articles/ASG6K4QVJG6KPIHB01H.html|publisher=[[朝日新聞]]デジタル|accessdate=2015年01月13日}}</ref>などの産卵場が最も有名だが、戦前は瀬戸内海各地にこのような産卵場が存在し、近年でも大阪府沿岸や淡路島などでも確認されている<ref>{{cite web|publisher=[[四国新聞]]|year=1999|title=第3部 命の ふるさと - 15.ウミガメ回帰 人工砂浜が産卵の場|url=http://www.shikoku-np.co.jp/feature/rensa/3/15/|accessdate=2015年01月13日}}</ref>。しかし、定期的な繁殖場として機能しているのは依然明石沿岸のみである。[[オサガメ]]は2002年<ref>{{cite web|authors=森谷香取夫妻|title=オサガメの基礎的知識|url=http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/osagame.html|publisher=[[特定非営利活動法人]]カレッタいすみ, 自然を守り育むいすみ地域団体, 房総の自然環境をただす会|accessdate=2015年01月13日}}</ref>や2003年<ref>{{cite journal|year=2004|title=オサガメ|url=http://www.city.kyotango.lg.jp/cms/shisei/singikai/kekka/bunkazaihogo/documents/h170306.pdf.|publisher=[[京丹後市]]|format=PDF|accessdate=2015年01月13日}}</ref><ref>{{cite web|山本 貴仁|year=2003|title=活動報告 - 資料収集|url=https://www.i-kahaku.jp/magazine/backnumber/35/03-2.html|journal=博物館だより - 2003年9月1日  NO.35|publisher=[[愛媛総合科学博物館]]|accessdate=2015年01月13日}}</ref>に発見されている。 2002年の確認は産卵との情報があるが、これまで日本で唯一の産卵の確認例は[[奄美大島]]のみである。
 
 
 
== 地理 ==
 
=== 地形 ===
 
瀬戸内海は灘や湾と呼ばれる広い部分が、瀬戸や海峡と呼ばれる狭い水路で連結された複雑な構造を持つ[[多島海]]である。平均水深は31mであり、全体的な傾向としては東に行くほど浅い。瀬戸と呼ばれる水路は強力な潮流によって海底部が浸食されている。最深部は豊予海峡(速吸瀬戸)で約195m、鳴門海峡では約200mと考えられている。
 
 
 
=== 強い潮流 ===
 
[[画像:Ohbataseto.jpg|240px|thumb|right|[[周防灘]]と[[安芸灘]]の間にある[[大畠瀬戸]]の潮流。]]
 
瀬戸内海は潮の干満差が大きいことで知られている。これは奥に行くほど顕著になり、最奥部の[[燧灘]]周辺では干満差は2m以上にもなる。この為、瀬戸内海の潮流は極めて強く、場所によっては川のように流れている所もある。この強力な潮流により「[[鳴門の渦潮]]」が発生している。また、この強力な潮流によって海底部の養分が常に巻き上げられ、植物プランクトンの成育を促していると考えられている。つまり、瀬戸内海が豊かな漁場であることの理由の一つはこの大きな干満差なのである。
 
 
 
=== 主要な島 ===
 
[[画像:SetonaiKaiTagged.jpg|thumb|300px|right|瀬戸内海[[直島諸島]]から[[瀬戸大橋]]エリア空撮]]
 
瀬戸内海には大小あわせて3,000もの島があり、無人島や、周囲数メートルしかない小さな島も存在する。
 
 
 
主な瀬戸内海の島を以下に示す。
 
* 東部 : [[淡路島]]、[[小豆島]]
 
* 中部 : [[大三島]]、[[因島市|因島]]、[[大崎上島]]、[[生口島]]、[[向島 (広島県)|向島]]、[[ホボロ島]]
 
* 西部 : [[周防大島]](屋代島)、[[倉橋島]]、[[能美島]]([[江田島]]と一体)、[[厳島]]
 
 
 
=== 主要な流入水系 ===
 
流域面積1,000km<sup>2</sup>以上の流入水系は以下の通り
 
* 紀伊水道 : [[紀の川]]、[[吉野川]]
 
* 大阪湾:[[淀川]]、[[大和川]]
 
* 播磨灘:[[加古川]]
 
* 備讃瀬戸:[[吉井川]]、[[旭川 (岡山県)|旭川]]、[[高梁川]]
 
* 広島湾:[[太田川]]
 
* 伊予灘:[[肱川]]、[[大野川]]
 
 
 
=== 沿岸主要都市 ===
 
*[[大阪府]]
 
**[[阪南市]]、[[泉南市]]、[[泉佐野市]]、[[貝塚市]]、[[岸和田市]]、[[泉大津市]]、[[高石市]]、[[堺市]]、[[大阪市]]
 
*[[兵庫県]]
 
**[[尼崎市]]、[[西宮市]]、[[芦屋市]]、[[神戸市]]、[[明石市]]、[[加古川市]]、[[高砂市]]、[[姫路市]]、[[たつの市]]、[[相生市]]、[[赤穂市]]、[[淡路市]]、[[洲本市]]、[[南あわじ市]]
 
*[[和歌山県]]
 
**[[和歌山市]]、[[海南市]]、[[有田市]]
 
*[[岡山県]]
 
**[[備前市]]、[[瀬戸内市]]、[[岡山市]]、[[玉野市]]、[[倉敷市]]、[[笠岡市]]、[[浅口市]]
 
*[[広島県]]
 
**[[福山市]]、[[尾道市]]、[[三原市]]、[[竹原市]]、[[東広島市]]、[[呉市]]、[[広島市]]、[[廿日市市]]
 
*[[山口県]]
 
**[[岩国市]]、[[柳井市]]、[[光市]]、[[下松市]]、[[周南市]]、[[防府市]]、[[宇部市]]、[[山陽小野田市]]、[[下関市]]
 
*[[福岡県]]
 
**[[北九州市]]、[[行橋市]]、[[豊前市]]
 
*[[大分県]]
 
**[[中津市]]、[[宇佐市]]、[[豊後高田市]]、[[国東市]]、[[杵築市]]、[[別府市]]、[[大分市]]
 
*[[愛媛県]]
 
**[[伊予市]]、[[松山市]]、[[今治市]]、[[西条市]]、[[新居浜市]]、[[四国中央市]]
 
*[[香川県]]
 
**[[観音寺市]]、[[三豊市]]、[[丸亀市]]、[[坂出市]]、[[高松市]]、[[さぬき市]]、[[東かがわ市]]
 
*[[徳島県]]
 
**[[鳴門市]]、[[徳島市]]、[[小松島市]]、[[阿南市]]
 
 
 
=== 橋 ===
 
[[画像:Kurushimakaikyou_ohashi01.jpg|240px|thumb|right|尾道・今治ルートの来島海峡大橋]]
 
本州と四国を[[道路]]・[[鉄道]]で結ぶ橋または道路として瀬戸内海上に[[本州四国連絡橋]]が架かり、以下の3ルートがある。
 
 
 
*神戸・鳴門ルート [[神戸淡路鳴門自動車道]]
 
*児島・坂出ルート [[瀬戸大橋]]([[瀬戸中央自動車道]]、[[四国旅客鉄道|JR四国]][[本四備讃線]])
 
*尾道・今治ルート [[瀬戸内しまなみ海道]]([[西瀬戸自動車道]])
 
 
 
=== 航路 ===
 
[[Image:FerryMiyajima7511.jpg|240px|thumb|right|宮島フェリー]]
 
[[File:Wake behind a ferry.jpg|thumb|呉-松山航路のフェリ 左奥の島は[[倉橋島]]]]
 
*[[長距離フェリー]]航路
 
**[[フェリーさんふらわあ]]([[大阪港]] - [[別府港]]、[[神戸港]] - [[大分港]])
 
**[[阪九フェリー]]([[泉大津港]] - [[新門司港]]、神戸港 - 新門司港)
 
**[[名門大洋フェリー]](大阪港 - 新門司港)
 
*[[宇高航路]]
 
**[[宇高国道フェリー]]
 
**[[四国フェリー]]
 
*各島間航路
 
**[[四国フェリー]]・小豆島フェリー([[宇野港]] - [[小豆島]]、[[姫路港]] - 小豆島、[[岡山港]] - 小豆島)
 
**[[小豆島豊島フェリー]](宇野港 - [[豊島 (香川県)|豊島]] - 小豆島)
 
**[[両備運輸]]([[岡山港|新岡山港]] - 小豆島)
 
*阪高(神高)航路
 
**[[ジャンボフェリー]]([[高松港|高松]] - [[神戸港|神戸三宮]])
 
*広島港・呉 松山 クルーズフェリー - [[瀬戸内海汽船]]
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 先史時代 ===
 
;1600万年前
 
:日本列島が[[ユーラシア大陸]]から分離。古瀬戸内海と呼ばれる海が出現する。古瀬戸内海には、現在の和歌山県、大阪府河内地方、大阪湾、兵庫県西部、岡山県、広島県東部、島根県東部などが含まれていた。古瀬戸内海は亜熱帯の海であり、[[珊瑚]]や[[マングローブ]]が生育していた。この時期に古瀬戸内海の海底で形成された地層は[[備北層群]]と呼ばれている。
 
;1,400万年前から1,000万年前
 
:二上山、室生、讃岐、周防大島の各地域で火山活動が活発化し、古瀬戸内海は陸地化する。
 
;7万年前
 
:[[ウルム氷期]]始まる。現在は瀬戸内海である一帯にはステゴドンやナウマン象が住んでいた。また広島県の情島で、1万数千年前の石器が発見されており、後期旧石器時代には人類の生活の場にもなっていたことがわかっている。
 
;1万年前
 
:氷河期が終わり気温が上昇。海水面も上昇し、6,000年前までに現在のような瀬戸内海が形成された。
 
 
 
=== 古代 ===
 
[[Image:Sumiyoshi_Taisha_dai1hongu.jpg|240px|thumb|住吉大社第一本宮]]
 
[[Image:Tomonoura07s1800.jpg|240px|thumb|鞆の浦の町並み]]
 
[[Image:ItsukushimaTorii7492.jpg|240px|thumb|厳島神社から見る瀬戸内海]]
 
古くより瀬戸内海は交通の大動脈として機能した。そのことは『[[魏志倭人伝]]』の記述や『[[日本書紀]]』の[[国産み]]の段で[[イザナミ]]の産んだ島が瀬戸内航路沿いに並んでいることから推察できる。
 
 
 
古代においては、[[摂津国]]の[[住吉大社]]の管轄した古代港の[[住吉津]]を出発地とした[[遣隋使]]、[[遣唐使]]の航路であったことから、瀬戸内海は、海の神である[[住吉三神|住吉大神]]を祀る住吉大社の影響下に置かれ各地に住吉神を祀る住吉神社が建てられた。またこの頃既に[[鞆の浦]]は瀬戸内海の中央に位置するため汐待ちの港町として栄えていた。
 
 
 
[[奈良時代]]には陸上の交通路([[山陽道]]や[[南海道]])が整備されたが、外国使節が瀬戸内海を通った記録が残っており、瀬戸内航路も引き続いて利用されていたと見られる。
 
 
 
[[平安時代]]中期は、[[嵯峨源氏]]の[[渡辺綱]]を棟梁とする[[摂津国]]の[[渡辺党]]が瀬戸内海の[[水軍]]系氏族の棟梁となり、[[渡辺氏]]の庶流である[[肥前国]]の[[松浦氏]]が九州の水軍[[松浦党]]の惣領となる。
 
 
 
[[藤原純友]]が瀬戸内海の海賊の棟梁として反乱を起こし([[承平天慶の乱]])、瀬戸内海は、純友の活動舞台となる。伊予国の警固使の[[橘遠保]]が純友を捕らえる。
 
 
 
平安時代末期には[[平清盛]]が瀬戸内航路を整備し、音戸の瀬戸開削事業を行ったり、[[厳島神社]]の整備を進めたりした。
 
 
 
=== 中世 ===
 
[[鎌倉時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけては、[[伊予国]]の[[越智氏]]や[[河野氏]]ら沿海部や島嶼の[[武士]]たちが瀬戸内航路に勢力を張り始め、河野氏や[[村上氏]]らは海賊大将軍を名乗って[[海賊衆]]([[水軍]])を組織し、瀬戸内航路を制御下においた。
 
 
 
=== 近世 ===
 
[[豊臣秀吉]]による海賊禁制を経て[[江戸時代]]には水軍勢力が排除され、回船商人らによる[[西廻り航路]]の一部([[関門海峡]]~[[大坂]])として、瀬戸内海は流通の主役の務めを果たした。幕末には、[[長崎港]]発の外国船が瀬戸内海を経由して[[横浜港]]へ航海していた<ref>アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(上),A diplomat in Japan』坂田精一訳、岩波書店(岩波文庫)1990年、116頁~</ref>。1864年(元治元年)には,[[下関]]砲台の外国船砲撃事件により瀬戸内海が封鎖された際には、これを原因として[[馬関戦争]]([[長州藩]]の砲台と英仏蘭米艦隊との戦い)が起きている。
 
 
 
=== 近代 ===
 
[[明治]]時代以降は[[鉄道]]開通などの本州・四国内交通網の整備、本州・四国間に[[瀬戸大橋]]の開通に至って、以前より交通路としての重要性は薄れたが、[[大正]]時代には阪神・別府間などに観光航路が開設され、戦後の観光ブームにも多くの[[クルーズ客船]]が往復し賑わいを見せていた。その後航路の主役は[[フェリー]]に移行したが、[[平成]]に入っても無数の定期航路が存続している。また、環瀬戸内文化圏という観点から、瀬戸内海を文化交流の場としてとらえ直す試みも行われている。
 
 
 
== 観光 ==
 
[[ファイル:Genpei kassen.jpg|240px|thumb|源平合戦図屏風([[赤間神宮]]所蔵)]]
 
[[ファイル:Minamoto no Yoshitsune,dannoura.jpg|180px|thumb|壇ノ浦を眺める公園に置かれた源義経の像]]
 
[[ファイル:Mount_Ishizuchi.jpg|240px|thumb|石鎚山]]
 
[[ファイル:Royal Wing01.JPG|240px|thumb|「瀬戸内海の女王」[[くれない丸]](現・ロイヤルウイング)]]
 
 
 
=== 歌枕の地 ===
 
古代から瀬戸内海は風光明媚な海として知られ、沿岸には『[[万葉集]]』『[[古今和歌集]]』『[[新古今和歌集]]』などに登場する歌枕が点在している([[住吉区|住吉]]、[[大阪市|難波]]、[[須磨区|須磨]]、[[明石市|明石]]、[[高砂市#和歌と能に登場する高砂|高砂]]、[[布引の滝 (兵庫県)|布引]]、[[生田神社|生田]])。
 
 
 
=== 中世日本文学と瀬戸内海 ===
 
中世になると『[[伊勢物語]]』『[[土佐日記]]』『[[源氏物語]]』『[[山家集]]』などの文学作品が瀬戸内海を取り上げたことで、作中に登場する土地が名所となっていく。
 
 
 
=== 寺社詣で ===
 
庶民の観光旅行が一般化した近世には、『[[平家物語]]』『[[源平盛衰記]]』『[[太平記]]』などに登場する古戦場([[屋島]]や[[壇ノ浦]]、[[牛窓]]、[[藤戸]]など)が観光名所として注目されるようになる。また[[金比羅宮]]、[[石鎚山]]、[[住吉大社]]、[[厳島神社]]、[[宇佐八幡宮]]、[[大山祇神社]]などへの参拝も盛んになる。瀬戸内海各地の名所は『[[諸国名所百景]]』などの[[浮世絵]]にも頻出する。さらに、こうした寺社詣での旅行者を主な顧客とする観光産業([[旅籠]]、[[茶屋]]、土産物屋など)が[[丸亀]]や[[多度津]]、[[下津井]]、[[厳島|宮島]]などに成立し、繁栄を見せるようになった。
 
 
 
またこの時期、[[朝鮮通信使]]が[[鞆の浦]]を「日東第一景勝(日本一の景色)」と称えた記録が残されている。
 
 
 
=== 近代観光の目的地へ ===
 
[[19世紀]]になると、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]が瀬戸内海の風景を絶賛し、また明治時代には[[トーマス・クック]]や[[ユリシーズ・グラント]]などの欧米人が来日し、近代的な「観光のまなざし」(この概念については[[ジョン・アーリ]]を参照のこと)によって瀬戸内海を再編していった。すなわち近世以前の瀬戸内海観光が文学作品を媒介とした「名所」訪問や、由緒ある神社仏閣への参拝という形式を持っていたのに対し、欧米人は瀬戸内海各地で(当時)当たり前のように見られた風景(多島海、[[段々畑]]、[[白砂青松]]、行き交う[[和船]]など)に注目し、これらに観光資源としての価値を与えていった。言い換えるならば、近代の訪れとともに、瀬戸内海観光は「意味」を求める観光から、「視覚」による観光へと変質していったのである<ref>西田正憲『瀬戸内海の発見』中央公論新社、1999年</ref>。
 
 
 
更に[[1912年]](明治45年)[[5月]]には、[[大阪商船]]が[[別府温泉]]の観光開発を目的として阪神・別府航路にドイツ製の[[貨客船]]「[[紅丸]]」を就航させ、純粋に観光を目的とした船旅が大人気となった。[[1934年]]([[昭和]]9年)には前述のように日本初の国立公園の一つとなる。
 
 
 
また戦後も、阪神・別府航路を引き継いだ[[関西汽船]]が、[[1960年]](昭和35年)に「[[くれない丸]]」を就航、その後3,000トン級[[クルーズ客船]]が最大時6隻体制となった別府航路(瀬戸内航路)は、阪神と九州を結ぶ観光路線として多くの新婚旅行客を別府温泉などへと運んだ。
 
 
 
=== バブル経済と乱開発 ===
 
[[1987年]]の「[[総合保養地域整備法]]」制定に伴う日本列島のリゾート開発ラッシュは瀬戸内海も例外とせず、沿岸にゴルフ場やマリーナが次々に建設された。しかし、こうした乱開発は、瀬戸内海の歴史的な景観を破壊するものでもあった。また、バブル経済が崩壊するとこれらリゾート開発は中断され、開発中途で放棄された土地も発生した。
 
 
 
=== 現在の瀬戸内海観光 ===
 
[[1996年]]には広島市の[[原爆ドーム]]と廿日市市の[[厳島神社]]が[[ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された。また1999年に本四架橋が全て完成すると、尾道・今治ルートは「[[しまなみ海道]]」と名付けられ、観光ルートとして注目を浴びるようになった。2016年には、瀬戸内海地域の観光地経営を行う[[せとうち観光推進機構]]が発足した。
 
 
 
== 産業 ==
 
日本の総面積の12%にあたる4万7千km<sup>2</sup>におよぶ瀬戸内海沿岸地域には日本の総人口の約4分の1の3千万人が住んでおり、[[重工業]]、[[石油化学]]産業などが多く立地している。全国に占める製造品出荷額は[[鉄鋼業]]46%、石油化学産業40%、[[化学工業]]35%、[[パルプ]]・[[紙]]産業30%と工業化が進んでいる地域であるが、これら[[第二次産業]]の総生産額に対する比率は年々減少している。比率がもっとも高かったのは1970年で42.6%であったが、2002年には25.4%まで下がった。[[農林]]・[[水産業]]など[[第一次産業]]は、1965年には7.4%であったが、2002年には0.8%となっている。比率が増加しているのは、[[運輸]]・[[通信]]、卸・[[小売]]、[[金融]]・[[保険]]業、[[サービス業]]などの[[第三次産業]]で、1965年には52.6%であったが、2002年には73.8%となっている。人口の密集度や産業の多さから古代より[[海運]]が発達していた。[[漁業]]も盛んであったが、2000年代は1980年代に比較して漁獲量(重量)は約35%減少した<ref name=SetoUchi>環境省・せとうちネット [http://www.seto.or.jp/setokyo//kankou/panf/seto_panf/seto_nihongo/j_page5.htm 「瀬戸内海の概況」] </ref>。
 
 
 
各地で[[埋め立て]]が行なわれ、[[藻場]]、[[干潟]]、[[自然海岸]]などの[[浅海域]]が減少しており、[[閉鎖水域]]であるため[[下水道]]や[[油流出事故]]などの影響で[[赤潮]]発生など[[水質汚染]]が憂慮されている<ref name=SetoUchi/>。
 
 
 
瀬戸内海は重要な水路として海運や漁業で多くの船舶が運行しており、近年はレジャーボートの数も増し、多島部や狭い水域では[[海難事故]]も多発している<ref>海上保安庁 [http://www.kaiho.mlit.go.jp/info/kouhou/h24/k20120322/k120322-honpen.pdf 「海難の現況と対策について(平成23年版)」] </ref>。
 
 
 
=== 漁業 ===
 
==== 江戸以前の漁業 ====
 
[[画像:Okikamuro.jpg|240px|thumb|一本釣り漁で栄えた沖家室島]]
 
瀬戸内海は[[縄文時代]]から今日に至るまで、多様な漁業の場となってきた。[[弥生時代]]には既に[[タコツボ]]による[[タコ]]漁が行われていたことも、出土物によって明らかになっている。
 
 
 
江戸時代には肥料に用いる[[イワシ]]を獲る[[地引き網]]や[[船引き網]]漁が盛んとなった。また[[イカ]]や[[アナゴ]]や[[キス (魚)|キス]]、[[エビ]]、[[ナマコ]]などを狙う[[手繰網]]漁、現在も[[鞆の浦鯛しばり網漁法|鞆の浦で行われている鯛網漁]]、帆走しながら網を引く[[打瀬網]]漁など、様々な網漁が行われていた。これらの漁法は瀬戸内海にとどまらず、房総半島などにも伝播した。また瀬戸内海の内部でも、紀州で考案されたイワシの船引き網漁法が[[真鍋島]]、[[宇和島]]、[[安芸草津]]など各地に伝播したことが知られている。
 
 
 
大物を狙う[[一本釣り]]漁も江戸時代に発達した漁法である。これは主に潮流の早い瀬戸を中心に行われた漁法で、[[鯛]]、[[ブリ|ハマチ]]、[[カレイ]]、[[サワラ]]などを対象とした。一本釣りの発達を促したのは、中国から輸入されるようになった天然のテグスの存在である。これを最初に一本釣り漁に用いたのは、現在の鳴門市にある[[瀬戸町堂浦|堂浦]]の漁民であったが、この漁法が17世紀後半に現在の[[周防大島町]]にある[[沖家室島]]に伝播し、沖家室島は瀬戸内海有数の一本釣り漁の基地として栄えた。現在も大物釣り用の釣り針の基本的なデザインである「[[かむろ針]]」は沖家室島で考案されたものである。その他、[[佐賀関]]、[[音戸]]、三津浜、牛窓、[[雑賀崎]]などが一本釣り漁で有名な漁村である。
 
 
 
こうして獲られた高級魚は船の中の生け簀に入れたまま大坂まで運ばれ、高値で売却された。[[祇園祭]]の頃に旬を迎えるハモは[[活け締め]]にして京まで運ばれた。[[広島かき|広島のカキ]]も江戸時代には関西に広く流通していた。
 
 
 
==== 瀬戸内海の漁民の国外出漁 ====
 
明治維新後には、瀬戸内海の漁民たちが漁場を求めて日本国外に出漁する事例が増えていった。山口県や広島県の一本釣り漁師たちは[[台湾]]、[[ハワイ]]などに渡り、打瀬網を使う漁民は[[フィリピン]]に出漁した。森本孝は沖家室島の漁民がハワイの漁業の屋台骨を担った状況を明らかにしている<ref>森本他『沖家室瀬戸内海の釣漁の島』みずのわ出版、2006年</ref>。また日本国内でも、周防大島の漁民が対馬に集落を建設して移住した事例が[[宮本常一]]によって報告されている<ref>宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫</ref>。
 
 
 
==== 家船 ====
 
瀬戸内海は、20世紀後半まで[[家船]](えぶね)に乗った漁民が活動していたことでも知られている。家船とは木造の小型の漁船に簡易な屋根を装備し、布団や炊事道具など生活用具を積み込んだ船のことである<ref>同種の船はフィリピンやインドネシアでも見られる。</ref>。瀬戸内海の漁民の中には、こうした家船に夫婦単位で乗り込み、生涯を海の上で暮らす者も多かった<ref>羽原又吉『漂海民』岩波書店、1963/2002年</ref>。彼らの出自については、豊臣秀吉によって解体された村上水軍の末裔なのではないかとの説もある<ref>沖浦和光『瀬戸内の民族誌』岩波書店、1998年</ref>。
 
 
 
[[別府温泉]]では、持ち舟で寝泊まりしながら[[浜脇温泉]]や別府温泉に通う[[湯治]]の習慣が古くから見られ、戦後しばらくまでは続いていた。春には波止場に係留される舟は100艘近くにのぼり、'''湯治舟'''とよばれて[[季語]]にもなるほどの別府の春の風物詩となっていた。
 
 
 
==== 乱獲と漁業資源の減少 ====
 
第二次世界大戦後、瀬戸内海の漁獲量は爆発的に増加し、ピークとなった1982年には昭和初期の4倍にも達した。しかしその後は環境破壊と乱獲によって資源量は減少し、イワシ、タイ、サワラ、トラフグなど主な魚種の資源量は、回復にほど遠い状況である。アサリも埋め立てなどで生育環境が破壊された為に激減しており、ハマグリはほぼ絶滅となっている。
 
 
 
カキ、ブリ、タイ、[[ワカメ]]、[[海苔]]などは養殖も盛んに行われている。広島でのカキの養殖は[[室町時代]]までさかのぼる。
 
 
 
==== ブランド品 ====
 
佐賀関で上がる「[[関アジ]]」「[[関サバ]]」、明石で揚がる「[[明石鯛]]」「[[明石蛸]]」、鳴門のタイ、日出の「城下カレイ」、下関のトラフグなど、全国的なブランド品となっている品目も瀬戸内海には存在している。
 
 
 
=== 農業 ===
 
==== 段々畑 ====
 
瀬戸内海に浮かぶ離島は耕作可能な平地も少ないことから、住民たちは山を開墾して[[段々畑]]を作ることが多かった。しかしこうして開墾された段々畑は土壌が痩せていることが多かった為、農民たちは下肥や海藻を人力で運び上げて施肥し、土壌を改良していった。一般に、開墾してからまともな作物が収穫出来るようになるまでに10年かかるとされた。
 
 
 
==== 出作 ====
 
島内の山を全て開墾し尽くした後には、近くにある島に渡ってそこで開墾を行うこともあった。こうして別の島に農地を持つことを「出作」「出作り「渡り作」などと呼んだ。農民たちは出作用の小さな木造船(農船)を手に入れ、それで農地を持つ島まで行き来していた。
 
 
 
==== 柑橘栽培 ====
 
このようにして[[開墾]]された[[段々畑]]は、第二次世界大戦後、多くが[[柑橘類]]の栽培に転用された。日照と水はけに優れた段々畑は、[[糖度]]の高い柑橘の栽培には適していた。しかし段々畑での[[農業]]には非常に手間がかかることから、近年、[[耕作放棄地]]が増加しつつある。
 
 
 
==== 綿花栽培 ====
 
瀬戸内海沿岸の気候は[[綿花]]栽培にも向いていた為、江戸期には各地で綿花栽培が行われた。特に綿花栽培が盛んだったのは河内地方、播磨地方、岡山平野、福山周辺、広島周辺、観音寺周辺などである。しかし明治期に海外産の良質な綿が輸入されたことで、これらの地域の綿花栽培は衰退した。
 
 
 
==== 除虫菊栽培 ====
 
18世紀末に日本に移入された[[シロバナムシヨケギク]](除虫菊)は、20世紀に入ると広島県で盛んに栽培されるようになり、島嶼部も含めて第二次世界大戦後まで除虫菊栽培は農業の中心となった。
 
 
 
=== 製塩業 ===
 
瀬戸内海沿岸は少雨で温暖な気候を生かし、古代より製塩が盛んに営まれてきた。弥生期には吉備地方で土器に海水を入れて煮詰める製塩が始まり、奈良期には砂浜を使う「塩尻法」へと移行する。中世には汲み上げた海水を砂浜に撒いて水分を蒸発させたうえで煮詰める揚浜式塩田に移行、更に[[17世紀]]前半には[[姫路藩]]で[[潮汐]]を利用した入浜式塩田が考案され、瀬戸内海は製塩の中心地となる。この時期の瀬戸内海産の塩を「十州塩」とも呼んだ。これは[[播磨国]]、[[備前国]]、[[備中国]]、[[備後国]]、[[安芸国]]、[[周防国]]、[[長門国]]、[[阿波国]]、[[讃岐国]]、[[伊予国]]の10国で生産された塩という意味である。
 
 
 
瀬戸内の気候を生かした製塩業だったが、天候や気候に左右されない[[イオン交換膜]]製塩法]]の開発により、1972年に一時全て途絶えた。しかし2002年に塩の販売が完全自由化されると、[[仙酔島]]などで小規模ながら製塩業が復活した。
 
 
 
==== 製塩業と白砂青松 ====
 
[[製塩]]業は大量の燃料を消費する産業である。瀬戸内海沿岸は製塩が盛んであったため、燃料としての木材を供給した里山は次々にはげ山となっていった(詳しくは[[里山]]を参照)。瀬戸内海に[[白砂青松]]が多かった理由の一つとして、こうしてはげ山となった里山から[[花崗岩]]が浸食により流出し、川を流下して瀬戸内海に入り「白砂」となったという指摘がある。
 
 
 
=== 工業 ===
 
[[太平洋ベルト]]工業地域の一角を担う[[瀬戸内工業地域]]を形成し、全工業地域総出荷額のおよそ9%を占める。西部は[[北九州工業地帯]]を形成し、東部は三大工業地帯の一つである[[阪神工業地帯]]を形成している。
 
*[[大阪市|大阪]]、[[神戸市|神戸]]、[[堺市|堺]]、[[和歌山市|和歌山]]、[[姫路市|姫路]]、[[倉敷市|倉敷]]、[[福山市|福山]]、[[呉市|呉]]、[[坂出市|坂出]]、[[新居浜市|新居浜]]、[[宇部市|宇部]]、[[苅田町|苅田]]、[[中津市|中津]]、[[大分市|大分]]などの工業都市が沿岸部に集中する。
 
*[[石油化学工業]]、[[鉄鋼業]]、[[造船業]]、[[自動車]]、[[製紙]]、[[セメント]]など。
 
また海の中の離島であることを生かし、[[二酸化硫黄|亜硫酸ガス]]による煙害で批判を浴びていた[[銅]][[精錬]]業が瀬戸内海に進出した。[[三菱マテリアル]]の[[直島町|直島]]、[[住友金属鉱山]]の[[四阪島]]など。
 
 
 
== 環境問題 ==
 
=== 赤潮 ===
 
[[1970年]](昭和45年)から[[1976年]](昭和51年)にかけて[[赤潮]]の発生件数は約80件から約300件と上昇し、その後徐々にではあるが減少傾向にあるものの[[2002年]](平成14年)の発生件数は約100件が確認されており、同年の発生海域は大阪湾・紀伊水道・播磨灘の淡路島の対岸域・燧灘の愛媛県域・広島湾・防予諸島・周防灘等である。赤潮の発生に伴い養殖のハマチ・タイ・真ガキの他、天然魚介類の漁業被害が起きている。
 
 
 
[[1992年]](平成4年)[[8月27日]]に[[環境庁]]告示第67号により、海水中の窒素や燐が海洋プランクトンに対して影響を与え、著しく増殖を生ずる畏れのある海域として閉鎖性海域として指定され、赤潮を始めとして[[2004年]](平成16年)と[[2005年]](平成17年)には発生原因が不明の藻により[[底引き網漁]]などの漁獲に打撃を与えている。
 
 
 
=== 瀬戸内海の栄養塩問題 ===
 
瀬戸内海は1960年代から1970年代にかけて富栄養化による赤潮が発生しており、1973年に瀬戸内海環境保全臨時措置法が制定され、2001年にはCOD、窒素・リンの総量規制が導入された。これにより瀬戸内海の赤潮発生が減少するとともに海の透明度も増してきた。その一方で藻場の減少や[[養殖]]海苔の色落ちが頻発し、関係性は不明ながらも漁業資源の減少も起こっておりこれらを「栄養塩の過度な減少」(いわば富栄養化の逆の『貧栄養化』状態)が原因ではないかと主張する研究者も存在する<ref>兵庫県立農林水産技術総合センター・水産技術センターの反田実所長が実際に瀬戸内海の「貧栄養化」に言及している。</ref>。反論としては漁獲量減少は乱獲が主な原因であるという意見もある。瀬戸内海への栄養塩の減少や干潟の減少は、ダムの建設やコンクリートによる河川の整備による土砂や栄養塩の瀬戸内海への流出の減少が原因であるとも指摘されている<ref>[http://www.pref.okayama.jp/uploaded/attachment/193476.pdf 河川から沿岸海域への栄養塩供給とノリの栄養塩利用に関する研究] - 高木 秀蔵</ref>。2015年10月2日に瀬戸内海環境保全特別措置法が改正<ref>[http://www.env.go.jp/water/heisa/setonaikai_law_rev.html 環境省 瀬戸内海環境保全特別措置法の一部を改正する法律について]</ref>、同年2月に瀬戸内海環境保全基本計画が変更<ref>[http://www.env.go.jp/press/100549.html 環境省 「瀬戸内海環境保全基本計画」の変更の閣議決定について(お知らせ)]</ref>され従来の瀬戸内海の「水質を保全」する考え方から「水質を保全・管理(地域性や季節性に合わせて水質を管理)」する考え方に改め、干潟や藻場の再生を行っていくなど瀬戸内海を取り巻く環境を整備することで生物多様性・文化的に「豊かな海(里海<ref>里海とは「人手が加わることにより生物生産性と生物多様性が高くなった沿岸海域」のこととされる。[https://www.env.go.jp/water/heisa/satoumi/01.html 里海とは?|里海ネット(環境省)]</ref>)」へすべく調査・研究・対策が行われることになった。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
  
 +
本州西部と四国の間にある海域。[[更新世]]中期(約 38万年前)に,[[琵琶湖]]から[[有明海]]にいたる地盤が陥没して[[備後灘]]以東に第1次の瀬戸内海が形成された。その後の海水準面の変動により,陸化したが,今日のような形になったのは約 8000年前と推定されている。面積は約 9500km<sup>2</sup>で,東西に細長く,東は大阪湾,西は九州でかぎられる。[[播磨灘]],備後灘,[[燧灘]],[[安芸灘]],[[伊予灘]],[[周防灘]]の各灘と[[淡路島]](最大),[[小豆島]]のほか,[[備讃諸島]],[[塩飽諸島]],[[芸予諸島]],[[防予諸島]]の各諸島からなる。[[紀伊水道]],[[豊後水道]]で外海とつながる。[[鳴門海峡]],[[来島海峡]]は急潮で名高く,水深は大。かつては豊富な水産資源に恵まれていたが,沿岸の埋立地に工場が立地したため,水質の汚濁が著しく,水産業は衰微。塩田もほぼ消滅。島でミカンなどの果樹や花卉を栽培する。また,山陽地方の沿岸は鉄鋼,石油化学関係の大工業地域を形成。古くから畿内と九州を結ぶ海上交通の要路。1988年4月[[本州四国連絡橋]]の一つ,[[瀬戸大橋]](児島-坂出ルート)が開通,本州から四国へ鉄道で渡れるようになった。
 +
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
 
*[[瀬戸内海歴史民俗資料館]]
 
*[[瀬戸内海歴史民俗資料館]]
 
*[[歴史的水域]]
 
*[[歴史的水域]]
 
*[[山陽地方]]
 
*[[山陽地方]]
*[[STU48]]
 
  
== 外部リンク ==
 
{{Commons|Category:Seto-naikai}}
 
{{ウィキポータルリンク|日本の地理|[[画像:Gnome-globe.svg|34px|Portal:日本の地理]]}}
 
* [http://setouchitourism.or.jp/ せとうち観光推進機構] - オフィシャルサイト
 
* [http://setouchi-artfest.jp/ 瀬戸内国際芸術祭] - オフィシャルサイト
 
* [http://ilovesetouchi.com あいらぶ瀬戸内/I ❤️ Setouchi] - 瀬戸内ブランド
 
* [http://www.seto.or.jp/ せとうちネット](環境庁による環境・経済・学術情報提供システム)
 
* [http://www.seto.or.jp/setokyo/index.html 社団法人瀬戸内海環境保全協会](環境保全の普及と指導助成、情報の収集と発信、調査研究を行ない前記せとうちネットの管理運営を担当している)
 
* [http://www.eic.or.jp/index.html EIC](国立環境研究所の情報交流サイト)
 
* [http://www.env.go.jp/council/former/yousi16.html 瀬戸内海環境保全審議会、議事要旨及び議事録]
 
* [http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=1&H_NAME=%90%a3%8c%cb%93%e0%8a%43%8a%c2%8b%ab%95%db%91%53%93%c1%95%ca%91%5b%92%75%96%40&H_NAME_YOMI=%82%a0&H_NO_GENGO=H&H_NO_YEAR=&H_NO_TYPE=2&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=S48HO110&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1 瀬戸内海環境保全特別措置法(瀬戸内法)](総務省法令データ提供システム)
 
* [http://www.pref.ehime.jp/110mat/350mat-ringyo/00004450040210/H15YARUKI/27H.htm シークエンスと瀬戸内海(愛媛県)]
 
* [http://www.stfco.jfa.go.jp/ 水産庁瀬戸内海漁業調整事務所](兵庫県神戸市)
 
* [http://www.env.go.jp/chemi/kurohon/index.html 化学物質と環境(年次報告書)]
 
* [http://minatomachi.ecobb.jp/ 港町ネットワーク]
 
  
 
{{海}}
 
{{海}}
{{Authority control}}
 
 
{{coord|34|10|N|133|20|E|region:JP_type:waterbody_scale:1300000|display=title}}
 
{{coord|34|10|N|133|20|E|region:JP_type:waterbody_scale:1300000|display=title}}
 +
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
  
 
{{DEFAULTSORT:せとないかい}}
 
{{DEFAULTSORT:せとないかい}}

2018/8/26/ (日) 12:20時点における版

瀬戸内海(せとないかい)

本州西部と四国の間にある海域。更新世中期(約 38万年前)に,琵琶湖から有明海にいたる地盤が陥没して備後灘以東に第1次の瀬戸内海が形成された。その後の海水準面の変動により,陸化したが,今日のような形になったのは約 8000年前と推定されている。面積は約 9500km2で,東西に細長く,東は大阪湾,西は九州でかぎられる。播磨灘,備後灘,燧灘安芸灘伊予灘周防灘の各灘と淡路島(最大),小豆島のほか,備讃諸島塩飽諸島芸予諸島防予諸島の各諸島からなる。紀伊水道豊後水道で外海とつながる。鳴門海峡来島海峡は急潮で名高く,水深は大。かつては豊富な水産資源に恵まれていたが,沿岸の埋立地に工場が立地したため,水質の汚濁が著しく,水産業は衰微。塩田もほぼ消滅。島でミカンなどの果樹や花卉を栽培する。また,山陽地方の沿岸は鉄鋼,石油化学関係の大工業地域を形成。古くから畿内と九州を結ぶ海上交通の要路。1988年4月本州四国連絡橋の一つ,瀬戸大橋(児島-坂出ルート)が開通,本州から四国へ鉄道で渡れるようになった。

関連項目


座標: 東経133度20分北緯34.167度 東経133.333度34.167; 133.333



楽天市場検索: