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'''所得倍増計画'''(しょとくばいぞうけいかく)は、[[1960年]]に[[池田内閣]]の下で策定された長期経済計画である。[[閣議決定]]された際の名称は'''国民所得倍増計画'''(こくみんしょとくばいぞうけいかく)という。この計画では、翌[[1961年]]からの10年間に名目[[国民所得]]([[国民総生産]])を26兆円に倍増させることを目標に掲げたが、その後日本経済は計画以上の成長に至った。立案は経済学者の[[下村治]]。
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'''所得倍増計画'''(しょとくばいぞうけいかく)
  
== 概要 ==
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経済審議会の答申を基に、1960年(昭和35)12月池田勇人(はやと)内閣により閣議決定された経済政策の基本方針で、高度成長政策の基礎となった計画。1970年までの10年間に国民総生産を倍増させることを目標として年平均成長率を7.2%に設定し、積極的な財政金融政策による社会資本の拡充と大企業中心の投資配分計画、労働力流動化の促進、人的能力開発のための技術教育の推進に重点が置かれた。結果的には計画を上回る高成長が実現されたが、公害、物価上昇、格差の増大、社会保障の立ち後れなどのひずみを生んだ。また政治的には、日米安全保障条約改訂後の政治的緊張から国民の関心を転換させる役割を果たした。
日本の経済史においては、[[1955年]]から[[1973年]]までを[[高度経済成長|高度成長期]]あるいは[[高度経済成長|高度経済成長期]]と呼び、この間、日本は年平均10%という驚異的な経済成長を遂げた<ref>[http://web-japan.org/factsheet/archives/ja/  Japan Fact Sheet - Web Japan - 経済]-2頁、[http://book.asahi.com/reviews/column/2015081600002.html 経済成長の光と影 高橋伸彰さんが選ぶ本 - 高橋伸彰(立命館大学教授)]</ref>。中でも特に、1960年に首相に就任した[[池田勇人]]が打ち出した「国民所得倍増計画」によって、成長体制が整備された<ref name="syukainikkei267" />{{Sfn|鈴木|pp=2-8}}{{Sfn|土志田|pp=85-97}}。
 
 
 
池田は「国民所得倍増計画」を打ち出し<ref name="kokkai1961130"/><ref>[http://j.people.com.cn/94473/8050280.html 日本の「所得倍増計画」が成功した4つの点 人民網日本語版>>中日交流]、[http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20070215/119113/ 安倍成長戦略の誤謬:日経ビジネスオンライン]、[http://ci.nii.ac.jp/naid/110005859599 近代大阪の小売商 : 公設市場からスーパーマーケットまで 薬師院仁志]-44頁、[https://oiu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=710&item_no=1&page_id=13&block_id=21 インスタントラーメンの消費構造分析と“康師傅”の経営状況分析 賈志聖 植松康祐 大阪国際大学紀要]-52頁。</ref>、[[国民総生産|国民総生産(GNP)]]を「10年以内に26兆円に倍増」させて、国民の[[生活水準]]を[[西ヨーロッパ|西欧]][[先進国]]並みに到達させるという経済成長目標を設定し、内政と外交を結びつけることで、[[完全雇用]]の達成と[[福祉国家論|福祉国家]]の実現、国民各層間の[[所得分布|所得格差]]の是正をはかることを目指した<ref name="jimin"/><ref name="mainichi20151210">[http://mainichi.jp/articles/20151210/dde/012/010/003000c 特集ワイド:「1億総活躍」自画自賛するが… 首相、現実を見てますか]</ref><ref name="highgrowth"/><ref name="doshisha1428"/><ref name="jinryu20140523189"/><ref name="hitozukuri" /><ref name="social4791">[http://social-design-net.com/archives/4791 「国民所得倍増計画」から「国民生活幸福化計画」へ]</ref>。さらに[[租税|減税]]、[[社会保障]]、[[公共事業|公共投資]]を三本柱として経済成長を推進させた<ref name="jimin"/><ref name="moderncha6"/>{{Sfn|塩田|2015|pp=84-97}}。
 
 
 
また悪い表現でいえば"[[仕事中毒|エコノミックアニマル]]"の出発点でもある{{Sfn|読売|1985|pp=95-105}}{{Sfn|林|pp=449-460}}<ref>[http://plus.papy.co.jp/plus/sc/kiji/1-1074736-84/ 第二節 国民に希望を与えた池田勇人 - 倉山満]</ref>。
 
 
 
== 実施に至る経緯 ==
 
「国民所得倍増計画」が、池田内閣で世に出るまでは複雑な経緯を辿っている。そもそもこの"高度経済成長政策"の理論的骨格は、宏池会が結成された1957年頃から、池田の指示を受けた[[下村治]]たち池田のブレーンが、[[ケインズ経済学|ケインズ的思想]]を初めて導入して、日本経済と国民生活がこれからの10年間にどこまで豊かになれるかという潜在成長力の推計を大蔵省内の一室で続け、池田とのディスカッションを経て練り上げたものが"大元"である<ref name="jcer50">[http://www.jcer.or.jp/bunka/bunkatokushu.html 第50回「日経・経済図書文化賞」記念に寄せて 金森久雄- 日本経済研究センター]13-18頁。</ref><ref name="nikkei20121014">{{cite web|url = http://www.nikkei.com/article/DGKDZO47234020T11C12A0TY8000/|accessdate = 2016-03-21|title = (経済史を歩く)(22) 国民所得倍増計画(1960年)本物の成長戦略 「豊かな日本」誰もが確信|publisher = 日本経済新聞社|date = 2012-10-14|archiveurl = https://web.archive.org/web/20160130110658/http://www.nikkei.com/article/DGKDZO47234020T11C12A0TY8000/|archivedate = 2016年1月30日|deadlinkdate = 2017年10月}}</ref><ref name="canon20160404">[http://www.canon-igs.org/column/macroeconomics/20160404_3594.html 「所得倍増」の故事-自民党内で真摯な政策論争を-岡崎哲二| キヤノンコラム・論文 | キヤノングローバル戦略研究所(CIGS) ]</ref>{{Sfn|エコノミスト|1984a|pp=10-31}}{{Sfn|沢木|pp=27-44,114-117|3a1=田中六助|3pp=134-138}}<ref name="kantei20130419"> [http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2013/0419speech.html 平成25年4月19日 安倍総理「成長戦略スピーチ」 - 首相官邸]</ref><ref>[https://www.jimin.jp/aboutus/convention/60th/130961.html 安倍晋三総裁演説(全文) | 立党60年記念式典 | 自民党] </ref><ref>[http://shuchi.php.co.jp/article/575 財務省は経済成長が嫌い ~なぜ不景気なのに増税に固執するのか 若田部昌澄]、[http://www1.saga-s.co.jp/news/saga.0.1415578.article.html 佐賀市出身エコノミスト・下村治 再評価の動き/佐賀新聞ニュース] 、[http://www.projectdesign.jp/201508/pn-saga/002360.php 日本随一の地域ブランド育成力 佐賀の「強み」「弱み」を分析]、[http://japanese.cri.cn/1041/2012/05/17/144s192645.htm 経済学者・竹中平蔵さん~Part2 - 中国国際放送局]、[http://news.goo.ne.jp/article/toyokeizai/bizskills/toyokeizai-98384.html?page=4 竹中平蔵氏「僕が会いたい5人の偉人」 惚れる!歴史のリーダーの「ここ」に学べ]</ref>。当時から、この経済成長政策に"月給二倍"、"所得倍増"という考えが池田の頭に既にあったとする文献もあるが{{Sfn|大久保|入江|草柳|pp=46-49}}{{Sfn|塩田|2007|pp=38-42}}、1958年頃はまだはっきりとは無かったものと思われる。池田がはっきり、"倍増"という発想を明確にしたのは、[[読売新聞]]1959年1月3日付朝刊に掲載された[[一橋大学]][[教授]]の[[中山伊知郎]]短い[[エッセイ]]を読んだのがきっかけとされる{{Sfn|沢木|pp=27-44,114-117}}{{Sfn|大久保|入江|草柳|pp=29-34}}{{Sfn|柴垣|pp=298-304}}。このエッセイには、新聞社の整理部員が「賃金2倍を提唱」という見出しがあった{{Sfn|沢木|pp=27-44,114-117}}。内容以上に見出しの"賃金2倍"の言葉が池田の心を捉えた<ref name="canon20160404" />{{Sfn|沢木|pp=27-44,114-117}}。月給が2倍になるという具体的なイメージを、理論とは別の「そうならざるを得ない」といった展開性を持った構想を高めていった{{sfn|エコノミスト|1984a|pp=61-70}}{{Sfn|櫻井|2001|p=60}}<ref name="yamamoto20130406">[http://www.yamamotokozo.com/2013/04/abenomix20130406/ 近聞遠見:アベノミクスと所得倍増=岩見隆夫 | 衆議院議員 山本幸三]</ref>。下村は「日本経済の成長可能性が、当時国民全体が感じている状態より非常に強いと、池田さんがだんだん感じをつかんだんじゃないかと思います」と述べている{{sfn|エコノミスト|1984a|pp=10-31}}。
 
 
 
池田は1959年2月22日に郷里広島の演説会で「月給倍増論」を初めて口に出した。同市の天城旅館に[[宮澤喜一]]、[[大平正芳]]、[[登坂重次郎]]が集まった際に、池田が「月給倍増はいかん。月給というと給料取りばかりが相手だと思われる。"所得倍増"にしよう」と言ったといわれ{{sfn|塩口|pp=185-192}}、時系列的には若干合わないものの、この辺りで"所得倍増"というフレーズが生まれたものと見られる{{Sfn|エコノミスト|1984a|pp=61-70}}{{Sfn|塩口|pp=185-192}}{{Sfn|上前|pp=374-376}}。
 
 
 
広島からの帰途、大阪に立ち寄り、100人余りの関西財界人の前で再び「月給倍増論」を唱えたが「[[春闘]]を控えて、いたずらに労働者側に甘い期待を抱かせることになる」「月給を二倍にすると、必ずインフレになる。無理に生産力を伸ばせば、輸入が激増し国際収支が大幅赤字になる」といった反対論が噴出した{{Sfn|沢木|pp=40-44}}{{Sfn|塩田|pp=38-42}}。池田は誤解を解く必要があると思い、帰郷後3月9日の『[[日本経済新聞]]』朝刊「経済時評」の欄に「私の月給倍増論」と題する小論を発表した{{sfn|塩田|2007|pp=38-42}}。内容は「いま月給をすぐ二倍に引上げるというのではなく、国民の努力と政策のよろしきをえれば生産が向上する。せっかく力が充実し、国民経済が成長しようとしているのに、これを無理に抑えている。いま日本でインフレの心配は少しもない」というようなものだった{{sfn|塩田|2007|pp=38-42}}<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/35836?page=4 『経済白書』で… - 現代ビジネス]</ref>{{sfn|上前|pp=370-372}}。この議論は大きな反響を呼び<ref name="jairo00003643">[http://jairo.nii.ac.jp/0236/00003643 JAIRO | 高度成長期の経済政策構想--システム選択としての所得倍増計画 藤井信幸]</ref><ref name="nikkeimaeo3">{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0801P_Z01C11A1000000/|title=造幣局長に左遷、政界出馬を決意 「池田首相を支えた男」前尾繁三郎 (1) |date=2011-11-13|accessdate=2016-02-04|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社}}{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2101M_S1A121C1000000/|title= 池田内閣で幹事長を3期3年 「池田首相を支えた男」前尾繁三郎 (3) |date=2011-11-27|accessdate=2016-02-08|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社}}</ref>、「[[国民総生産|国民総生産(GNP)]]」という経済用語が、初めて政治家によってマスメディアに持ち出されたといわれる{{sfn|上前|pp=370-372}}。
 
 
 
一方で、[[自由民主党幹事長|幹事長]]だった[[福田赳夫]]が「岸総理に『所得倍増』をいわせるんだ」と言っていたという{{sfn|塩口|pp=185-192}}。[[経済企画庁]]の[[大来佐武郎]]が、福田が幹事長だったときに説明に言ったら福田が「何か二倍になるものはないか」と言ったと証言しており、福田の幹事長就任は1959年1月のため、福田は池田の『所得倍増』のアイデアを盗み、池田-下村ラインの経済政策を岸-福田ラインが内閣の方針として取り込もうとしたものと考えられる{{Sfn|大久保|入江|草柳|pp=29-34}}{{Sfn|上前|pp=374-376}}{{Sfn|エコノミスト|1984a|61-80}}<ref name="nikkeimaeo3"/>{{Sfn|日経|2014|pp=18-19}}{{Sfn|沢木|pp=57-60}}。池田が1959年6月の[[第5回参議院議員通常選挙|参院選]]でも党内野党として「月給倍増論」を活発に繰り返すに及んで{{sfn|エコノミスト|1984a|pp=61-70}}、岸は池田を強力な反主流派に留めておくべきでないと判断し、[[第2次岸内閣 (改造)|内閣改造]]の際に「所得倍増計画」の実現を任せると約束して池田を[[経済産業大臣|通産大臣]]として入閣させた{{Sfn|エコノミスト|1984a|pp=61-70}}{{Sfn|樋渡|pp=175-186}}。池田は、早速組閣直後の閣議で、首相談話原案中に書かれた「10年で所得を倍増させる」という文章から「10年」という文字を削除させ、「10年」以内に所得倍増が可能であることを強調し、内閣を主導した{{Sfn|エコノミスト|1984a|pp=10-31}}{{Sfn|牧原|pp=44,226-247}}。池田は入閣によって次期政権の機会を捉えようとし、政府側の経済政策を積極論へ転換させることに力を注ぎ、ブレーンたちと「所得倍増計画」の原型を作っていく<ref name="nikkeimaeo3"/>{{sfn|樋渡|pp=175-186}}。岸は池田の政策構想を福田に牽制させる体制を作ろうとし、福田を蔵相に据える構想を抱いたが、弟の[[佐藤栄作]]が蔵相の留任に固執したため福田は農相に就任した{{sfn|堀越|pp=80-81}}。池田はこの通産大臣時代に「所得倍増計画」と同じような積極財政論を公表していたが{{sfn|エコノミスト|1984a|pp=61-70}}、岸内閣は翌年の[[安保闘争]]による総辞職に至るまでこの問題にかかりきりで新政策を展開する余裕がなかった{{sfn|エコノミスト|1984a|pp=61-70}}{{sfn|樋渡|pp=175-186}}{{Sfn|塩田|2007|pp=185-192}}、1959年10月、自民党内に設置された経済調査会が出した報告に池田や佐藤が「具体的データが不足している」などとその内容にクレームを付け、白紙に戻された<ref name="jairo00003643" />{{sfn|沢木|pp=156-159}}{{sfn|牧原|pp=44、226-247}}<ref name="biwako965">[http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/handle/10441/965 1990年代の行政改革と政治主導 : 反利益集団的要素と自律的個人像(3) 宗野隆俊 滋賀大学学術情報リポジトリ] 119-120頁。</ref>。党の基本構想を葬り去った池田の背後には「下村プラン」が控えており、既に骨格を作り上げていたため、党の基本構想のデータの欠陥を指摘し得たのである{{Sfn|牧原|pp=44、226-247}}。やむなく岸内閣は11月26日、あらためて経済審議会([[石川一郎]]会長)に諮問したが、この年9月にあった[[伊勢湾台風]]の被害に対応するため、1960年度の予算編成は、国土保全政策に重点的な支出配分を行うものになり、「所得倍増計画」に重点を置くことができなかった{{sfn|牧原|pp=44、226-247}}。
 
 
 
大来佐武郎はこの11月の答申から12月の閣議決定の間も池田が狙っていた高度成長と違うと相当揉めたと話している{{sfn|エコノミスト|1984a|pp=32-41}}。福田もかねてから長期経済計画を持っていたため、池田が「月給二倍論」を唱えるのに対抗して「生産力倍増十ヵ年計画」を構想した{{Sfn|牧原|pp=44,226-247}}{{Sfn|沢木|pp=117-120}}{{Sfn|田原|1996|pp=19-22}}。福田は、これに池田が影響を受けたと話しているが{{Sfn|田原|1996|pp=19-22}}、池田サイドから福田のそれに影響を受けたとする証言がない。「福田が池田の構想を先取りしようと考えた」と書かれた文献もある{{Sfn|明治人下|pp=43-248}}。福田は「積極財政」の池田とは逆の「均衡財政」志向の「安定経済成長論」を唱え続け、後に[[政調会長]]だった[[第2次池田内閣]]のとき「国民所得倍増計画」を批判して池田に更迭された人である<ref name="jcer50" /><ref name="nikkeimaeo3"/>{{Sfn|堀越|pp=131-134}}<ref name="seiwaken">{{cite web|url = http://www.seiwaken.jp/seiwaken/seiwaken.html|accessdate = 2016-03-16|title = 出身総理大臣 - 清和政策研究会|publisher = [[清和政策研究会]]|date = |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080515113228/http://www.seiwaken.jp/seiwaken/seiwaken.html|archivedate = 2008年5月15日|deadlinkdate = 2017年10月}}</ref>。戦後最初の経済計画は[[第3次鳩山一郎内閣]]が1955年12月に決定した「経済自立五ヶ年計画」といわれており<ref name="jairo00003643" />、当然ながら福田以外にも同時期に経済成長政策を構想していた政治家もいたと思われ、また「所得倍増計画」に一部に共通する部分があるとしても、同じ経済成長政策のため似ている部分があっても不思議はない。[[藤山愛一郎]]は「福田君の安定成長論は私のマネをした」と述べている{{sfn|北國新聞|pp=198-201}}{{Sfn|藤山|pp=129-134}}。福田は「池田氏の所得倍増は月給二倍論で非常に危険だった。背景には消費美徳論、[[二宮尊徳]]批判論があった。これが定着すると[[消費]]をあおり、その後の政治が難しくなる。これをひっくり返すため私は、安定成長論を持ち出したんだ」と語っている{{sfn|北國新聞|pp=209-212}}。下村は「所得倍増計画が10年計画だったが、それは前半の5年ぐらいで、あとの後半は全然考えの違った人たちに計画が委ねられたことが、最も不幸だった」と述べている{{sfn|エコノミスト|1984a|pp=42-51}}。鳩山内閣の「経済自立五ヶ年計画」や、岸内閣の「新長期経済計画」も、年平均5〜6%の成長率を政策運営の前提とし{{sfn|中川|pp=62-81}}、従来の経済計画はいずれも5ヵ年を目途とする計画であったのに対して、この計画は1970年を目標年次とする10ヵ年計画であった{{sfn|佐和|pp=56-59}}。より長期的視点で日本経済の性格を決定したという意味で「所得倍増計画」は大きな役割を果たした{{sfn|中山|後藤|吉岡|pp=1-4}}。
 
 
 
またそれまでの経済計画が、"安定成長"を志向したのに対して、池田は市場経済システムを強化することを主眼としていた<ref name="jairo00003643" />{{Sfn|日経|2014|pp=57-60}}{{Sfn|武田|pp=10-34}}<ref>{{Cite book|和書|author=[[橘木俊詔]]|title=戦後日本経済を検証する|publisher=[[東京大学出版会]]|year=2003|isbn=4130401963|pages=32-33}}</ref>。当時の民間経済界や[[エコノミスト]]の間では、日本の経済成長は、戦後の復興段階を終えて、屈折点を迎え、鈍化するのではないかとする見方が根強かったが{{Sfn|中川|pp=62-81}}{{Sfn|佐和|pp=56-59}}、この計画は全く趣を異にしていた{{Sfn|佐和|pp=56-59}}。池田内閣の「国民所得倍増計画」は、このような殻を打ち破ろうとする政策だったのである<ref name="business20070215">[http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20070215/119113/ 安倍成長戦略の誤謬:日経ビジネスオンライン]</ref>{{sfn|中川|pp=62-81}}<ref name="jinryu20140523189">[http://www.jinryu.jp/20140523189.html 国土政策と人流・観光 ∼全総神話の発生と消滅∼ 寺前秀一]</ref>。岸や福田が所得倍増計画を作った、とする文献も散見されるが、「所得倍増」というアイデアは中山伊知郎のエッセイをヒントに池田が思いつき、取り入れたものであり、池田は「所得倍増計画」を自身の内閣の一枚看板にするほど重きを置いたが、岸と福田が経済政策にどれほど熱を入れていたのか不明である。岸は経済政策を軽蔑していたともいわれる{{Sfn|武田|pp=169-171}}<ref>[http://www.alter-magazine.jp/index.php?%EF%BD%9E1960%E5%B9%B4%E5%AE%89%E4%BF%9D%E3%81%8B%E3%82%891989%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%9D%B1%E6%AC%A7%E6%BF%80%E5%8B%95%E3%81%BE%E3%81%A7%EF%BD%9E 『体験によって歴史をみる』~1960年安保から1989年の東欧激動まで~ メールマガジン「オルタ」]</ref>。
 
 
 
また、この二人が[[プレゼンテーション|プレゼン]]して国民に受け入れられたのかという疑問もある。[[宮崎勇]]は「岸内閣のときは大蔵省も反対し、佐藤栄作蔵相も『倍増なんて数字ではなかなかできない』と言っていたのに、池田さんが総理になってやるということになると、『これは協力すべきだ』と変わった」と証言しており{{sfn|宮崎|pp=130-142}}、池田の時代になってから本格的になったといえる{{Sfn|佐和|pp=56-59}}。
 
 
 
「国民所得倍増計画」は、独自に人心に訴える効果があり、その後の日本の進路を決する重要な選択として世間に知られることになった{{sfn|中山|後藤|吉岡|pp=240-250}}。立案には約3年間を費やし、民間の有識者など各方面から1000人ほどの意見を聞いて練り上げたともいわれ<ref>[http://mainichi.jp/auth/guide.php?url=%2Farticles%2F20151210%2Fdde%2F012%2F010%2F003000c 特集ワイド:「1億総活躍」自画自賛するが... 首相、現実を見てますか]</ref>、最終的には池田が首相就任後の1960年9月、池田とその側近である下村、大平、宮澤らも含めて、役所が総がかりで池田内閣として政策体系にまとめ上げた{{sfn|エコノミスト|1984a|pp=10-31}}<ref name="jinji200602">[http://www.jinji.go.jp/hakusho/h17/jine200602_2_059.html 平成17年度 年次報告書 - 人事院 第1編 人事行政 官僚達のネットワーク 御厨貴]</ref><ref name="nikkei20121014"/><ref name="syukainikkei267">[http://syukai.com/nikkei267.html 日本経済新聞 ビジネスリーダー 【池上彰の教養講座:東工大講義録から】 現代日本の足跡に学ぶ8]</ref>。宮崎勇は「池田さんは下村さんを中心とした個人的ブレーンを使っていたから、私どもが『倍増計画』を経済審議会の意向を受けて仕事をこなす以外に、池田さんとのブレーンとも調整を進めなくてはならず、複雑な機構になっていた」などと述べている{{sfn|宮崎|pp=130-142}}。下村は「経済企画庁が作った所得倍増計画と自身のもの(下村プラン)とは、全く違う発想で、池田内閣になって、池田さんの意見が出てきたので、総理大臣の意見を無視するわけにもいかないので、何とかある程度総理大臣の意見をくんだものをつくるということが最後に決まった」と述べている{{Sfn|エコノミスト|1984a|pp=10-31}}。
 
 
 
「国民所得倍増計画」は、池田のアナウンス効果も含めて、国民各層の意欲を喚起するだけの新鮮な響きを持っていて、提唱が現実の施策として時宣を得ていたから池田内閣のときに、国民に受け入れられたといえ{{Sfn|田中六助|p=144}}{{Sfn|沢木|pp=13-16}}<ref>[http://diamond.jp/articles/-/36813 "一撃"こそが説得の極意 「大胆な金融緩和」もその成功例 -野口悠紀雄]、[https://ja-jp.facebook.com/chichipublishing/photos/a.356271697749717.81469.177000792343476/964146510295563/ 致知出版社 - これからのリーダーに求められる条件 ]</ref>、日本経済と国民生活がこれから10年間に、どこまで、どう、豊かになるのか、分かりやすく、かつ緻密に示したことが括目に値する<ref name="nikkei20121014"/><ref name="syukainikkei267" />。側近の前尾などは「所得倍増計画」は選挙までと思っていたが{{Sfn|藤山|pp=129-134}}、池田政権の約4年の間、細かい不況などの逆境があったが強気の姿勢・政策を取り続けた{{sfn|樋渡|pp=175-186}}。
 
 
 
[[沢木耕太郎]]は「所得倍増計画」の辿った運命について以下のように表現している。「池田とそのブレーンが生み出した"発想"としての『所得倍増』が、福田赳夫の機転により岸内閣のもとにかすみとられ、経済企画庁の"計画化"という長いトンネルに放り込まれ、そのトンネルがあまりにも長すぎ『所得倍増』が『国民所得倍増計画』の衣装をまとってトンネルを抜け出したときには、向こう側で待っていたのが放り込んだ者ではなく、"発想"をかすみとられた人々だったという皮肉な巡り合わせになる。池田にとって幸運だったのは"計画"としての『所得倍増』が岸内閣の手に渡されなかったことである。もし"計画化"が早くなされ、岸内閣の手に渡っていれば、『所得倍増』が明確な思想のもとに"政策化"されることもなく、ブームとなることもなかったろう。その処女性を失うだけで棚ざらしのまま、それまでのいくつかの政府長期計画のように意味のないものとなって消えただけだろう。そして、1960年代の政治状況は決定的に異なっていたかもしれない」{{Sfn|沢木|pp=156-159}}。すべての始まりとなった中山伊知郎は「あの文章が池田さんの『所得倍増』を生んだとは、どうしてもぼくには思えないんですよ。ぼくは『所得倍増』という言葉を作った覚えもない。その当時のぼくが考えていたのは、高賃金の経済というものが日本でも可能なのではないかということでした。経営者は賃金のコストの面ばかりを見て抑えつけようとするが、賃金のもうひとつの側面である所得をあげることこそが、かえって生産性を上昇させ[[労働争議]]のロスを少なくさせ、社会全体にとってよいものなのだということを主張したかったわけです。賃金を二倍にしてもやっていけるような経済を作っていこうという、いわば夢を述べてわけなんですね。『所得倍増』は、ぼくのこの考えを基礎にしたものではありません。二つは無縁なものだと思いますね」と語っている{{Sfn|沢木|pp=27-44,114-117}}。[[岡崎哲二]]はこのような「所得倍増計画」をめぐる経緯に関して「当時の自民党の中に政策的・政治的な立場を異にする複数の有力な政治家とそれを支えるグループ([[派閥]])が、厳しく対立しつつ政治的な駆け引きを行っており、そのことが自民党と日本の政治全体に活力を与えていた点」を評価し「派閥の積極的な意味にあらためて目をむけるべき」と論じている<ref name="canon20160404" />。
 
 
 
== 所得倍増計画その要締 ==
 
[[1960年]][[7月19日]]に池田は内閣総理大臣に就任し、[[9月5日]]に「所得倍増論」の骨子を発表。「今後の[[実質経済成長率|経済成長率]]を[[経済企画庁]]は年率7.2%といっているが、私の考えでは低すぎる。少なくとも年率9%は成長すると確信している」<ref name="sankeiw120905" /><ref name="sunmai20150208">{{Cite journal | 和書 | title = 〔一億人の戦後史〕「日本初の総合週刊誌」だから書ける 終戦70年特別企画 昭和30年代編(2) | journal = [[サンデー毎日]] | chapter = 所得倍増計画 米国のルサンチマンが池田勇人を『月給2倍』に駆り立てた | publisher = [[毎日新聞出版]] |url = http://mainichibooks.com/sundaymainichi/backnumber/2015/02/08/ | date = 2015-02-08 | pages = 17-18 }}</ref>{{sfn|塩口|pp=267-291}}「過去の実績から見て、1961年度以降3ヵ年に年平均9%は可能であり、[[国民所得]]を1人あたり1960年度の約12万円から、1963年度には約15万円に伸ばす。これを達成するために適切な施策を行っていけば、10年後には国民所得は2倍以上になる」「9%程度の成長がないと、10年間で[[完全雇用]]と、[[生活水準]]を[[西ヨーロッパ|西欧]]並みに引き上げることはできない」などとした{{Sfn|大久保|入江|草柳|pp=46-49}}{{Sfn|朝日新聞社|p=116}}<ref name="sankeiw120905">{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120905/wlf12090512340005-n1.htm|title=【浪速風】 同じ「倍増」でも支持は得られない|date=2012-03-31|accessdate=2016-04-01|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=[[産経新聞ニュース|MSN産経ニュース]]|archiveurl = http://web.archive.org/web/20120905182414/http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120905/wlf12090512340005-n1.htm|archivedate = 2012-09-05}}</ref>。経済成長率年平均9%は、池田の裁断で決めたといわれ、外人記者は「ナイン・パーセント・マン」と打電した{{sfn|朝日新聞社|p=116}}。
 
 
 
「所得倍増論」は、はじめは非現実な人気取りと見られ、野党、[[エコノミスト]]、マスコミ、一部与党内、また多くの国民の反応は冷ややかで、実現不可能と思われていた{{sfn|池上|pp=6-9}}<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/001487/files/51165_41909.html 浅沼稲次郎 浅沼稲次郎の三つの代表的演説 - 青空文庫]</ref><ref name="nikkei20090920">{{Cite news|title=自民党半世紀 党勢経済成長とともに|date=2009-09-20|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社}}</ref>。また実現したとしても[[インフレーション|インフレと物価上昇]]が起こり、[[実質賃金]]が上がるわけではない、話がうますぎる、"絵に描いた餅"だなどと懐疑的に見られていた{{Sfn|池上|pp=6-9}}{{Sfn|歴史街道|pp=58-62}}。[[都留重人]]は「日本経済は伸びているように見えるが、それは"回復であって"成長"ではない」などと「所得倍増論」は本質を見誤った錯覚と切り捨てた<ref name="business20070215">[http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20070215/119113/ 安倍成長戦略の誤謬:日経ビジネスオンライン]</ref>{{Sfn|上前|pp=384-386}}。エコノミストの多くは「所得倍増論」を愚かな暴論としか取り扱わず、痛烈な批判を浴びせた{{Sfn|エコノミスト|1984a|pp=10-31}}{{Sfn|上前|pp=384-386}}<ref name="jimin60th">[https://www.jimin.jp/aboutus/convention/60th/130961.html 安倍晋三総裁演説(全文) | 立党60年記念式典 | 自民党]</ref>。
 
 
 
しかし池田は、国際政治経済の大きなうねりや、国内に於いても[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]開催に向け、大規模な[[インフラストラクチャー|インフラ]]整備という[[公共事業]]が控えていたこと、[[家電]]分野を中心に[[イノベーション]]が始まっていて、[[農村]]を中心とする[[地方]]からの勤勉な労働力にも恵まれているといった国内外に於ける成長へのうねりを見据えていた<ref name="doshisha1428" />{{sfn|池上|pp=6-9}}<ref name="jcer50">[http://www.jcer.or.jp/bunka/bunkatokushu.html 第50回「日経・経済図書文化賞」記念に寄せて 金森久雄- 日本経済研究センター]13-18頁。</ref>。
 
 
 
9月7日の記者会見で「[[憲法改正]]はいま考えていない」と発言<ref name="mainichia70l5">{{Cite news|url=http://mainichi.jp/feature/afterwar70/since1945/vol5.html|title=戦後70年:Since1945 第5回 「日本国憲法はどこへ 施行から68年問い直される理念」|date=|accessdate=2016-04-11|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]|archiveurl =http://web.archive.org/web/20150501031639/http://mainichi.jp/feature/afterwar70/since1945/vol5.html|archivedate = 2015-05-01}}</ref>{{sfn|その時歴史が動いた|pp=236-240}}<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2014/kenpouto/list/CK2013042302000177.html 東京新聞:第1部 50年代の攻防<4> 学者の気骨 政府の「調査会」に対抗]</ref>、憲法改正を棚上げすることで国民の懸念を和らげるとともに{{sfn|高坂|pp=128-138}}<ref name="asahi20100614">[http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201006140176.html asahi.com(朝日新聞社):60年安保、半世紀目の問い(1/4ページ)]、[http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201006140176_02.html (3/4ページ)]</ref>、経済重視の姿勢を強調した。翌日は選挙遊説のスタートを「新政策発表会」と称して、[[学校法人共立女子学園|共立講堂]]で行い、テレビ全局で生中継された{{sfn|逢坂|pp=39-67}}。
 
 
 
[[11月20日]]の[[第29回衆議院議員総選挙]]で自民党は当時戦後最多の296議席を獲得して圧勝、[[12月8日]]に[[第2次池田内閣]]が発足すると、「所得倍増」を目指す構想は実行に移り、[[12月27日]]に「[[国民所得倍増計画]]」が[[閣議|閣議決定]]する<ref name="highgrowth">{{Cite news|title =高度成長の時代へ-高度成長政策の展開|newspaper =|date =|author =|authorlink =|url =http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/high-growth/policy.html|accessdate =2016-02-28|publisher =[[国立公文書館]]|archiveurl =https://web.archive.org/web/20160221130155/http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/high-growth/policy.html|archivedate =2016年2月21日|deadlinkdate =2017年10月}}{{Cite news|title =高度成長の時代へ-国民所得倍増計画について|newspaper =|date =|author =|authorlink =|url =http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/high-growth/contents/10/index.html|accessdate =2016-02-28|publisher =国立公文書館|archiveurl =https://web.archive.org/web/20160203125333/http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/high-growth/contents/10/index.html|archivedate =2016年2月3日|deadlinkdate =2017年10月}}{{Cite news |title = 平成21年度第2回常設展「昭和の公文書-復興から高度成長へ-」 |newspaper =  |date =  |author =  |authorlink =  |url = http://www.archives.go.jp/exhibition/jousetsu_21_2_details.html |accessdate = 2016-03-26 |publisher = [[国立公文書館]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20100211203548/http://www.archives.go.jp/exhibition/jousetsu_21_2_details.html |archivedate = 2010年2月11日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref><ref name="moderncha6">{{Cite news |title = 第6章 55年体制の形成 : 概説 |2 = 史料にみる日本の近代. 開国から戦後政治までの軌跡 |newspaper =  |date =  |author =  |authorlink =  |url = http://ndl.go.jp/modern/cha6/index.html |accessdate = 2016-02-15 |publisher = [[国立国会図書館]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20150804081105/http://www.ndl.go.jp/modern/cha6/index.html |archivedate = 2015年8月4日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}{{Cite news |title = 第6章 55年体制の形成 :  安保闘争前後 池田内閣の所得倍増論 |2 = 史料にみる日本の近代. 開国から戦後政治までの軌跡 |newspaper =  |date =  |author =  |authorlink =  |url = http://www.ndl.go.jp/modern/cha6/description14.html |accessdate = 2016-02-15 |publisher = 国立国会図書館 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20130106095103/http://www.ndl.go.jp/modern/cha6/description14.html |archivedate = 2013年1月6日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref><ref name="bunshun1289">{{cite web|url = http://hon.bunshun.jp/articles/-/1289|accessdate = 2016-02-08|title = 「寛容と忍耐」で経済成長路線を打ち出した池田勇人 |文春写真館 あのとき、この一枚|date = 2013-01-21|archiveurl = https://web.archive.org/web/20130201233454/http://hon.bunshun.jp/articles/-/1289|archivedate = 2013年2月1日|deadlinkdate = 2017年10月}}</ref><ref>[http://showa.mainichi.jp/news/1960/12/post-bd86.html 昭和毎日:所得倍増計画決定 - 毎日jp(毎日新聞)]、[http://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005310459_00000&p=box 池田勇人|クリップ|NHK for School]、[http://www.news-postseven.com/archives/20120911_142257.html?PAGE=2 岸信介、池田勇人、中曽根康弘 3人の宰相が権力誇示した館]</ref>。計画は第一表「将来人口」から始まる26個の計画表からなるが、その主目標は、[[1970年]]度の実質[[国民総生産|国民総生産 (GNP)]]を26兆円、すなわち1960年度のそれの二倍の大きさまでに成長させることに置かれた<ref name="jimin">{{cite web|url = http://www.jimin.jp/aboutus/history/prime_minister/100351.html|accessdate = 2016-02-08|title = 第4代 池田 勇人 歴代総裁 党のあゆみ 自民党について|publisher = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]|date = |archiveurl = https://web.archive.org/web/20111227124739/http://www.jimin.jp/aboutus/history/prime_minister/100351.html|archivedate = 2011年12月27日|deadlinkdate = 2017年10月}}</ref>{{Sfn|佐和|pp=56-59}}{{Sfn|猪木|pp=133-136}}<ref name="50thkinen">[http://www.jps.or.jp/books/50thkinen/index.html 特集 日本物理学会50周年記念 日本物理学会の50年と社会 杉山滋郎]</ref>。「経済の安定的成長の極大化」を通じて「国民生活水準の顕著な向上と完全雇用の達成」を企図した、社会理念としての「高度成長」を高らかに宣言した{{Sfn|佐和|pp=56-59}}。[[株価]]は安保騒ぎに嫌気して低迷していたが、池田の登場を歓迎して急速に回復し「所得倍増政策」の発表をうけて史上最高値を実現した{{Sfn|上前|pp=420-433}}。「国民所得倍増計画」は、戦後政治の流れを大きく転換する大政策となった{{Sfn|苅谷|pp=21-46}}。大幅な減税を続けながら、次々と得意の経済政策を打ち出していく<ref name="jimin"/>{{Sfn|堺屋|pp=162-163}}{{Sfn|武田|pp=35-76,89-104}}<ref name="ironna771">[http://ironna.jp/article/771 なぜ「高度成長」の考察が重要なのか]iRONNA</ref>。その後30年近くも続く「成長の時代」の幕開けであった<ref name="astand20150417">[http://astand.asahi.com/webshinsho/asahi/asahishimbun/product/2015041700005.html 成長こそが生きがいだった 所得倍増からバブルまで駆け抜けた奇跡の時代 - astand.asahi]</ref>。具体的処方として次の五つが挙げられる{{Sfn|佐和隆光|1984|pp=56-59}}<ref name="hitozukuri">[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/036/0512/03610210512003a.html 第36回衆議院(本会議)1960.10.21 施政方針演説]、[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/041/0512/04108100512003a.html 第41回国会衆議院本会議第3号(1962/08/10、29期)]、[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/043/0512/04301230512002a.html 第43回国会衆議院本会議第2号施政方針演説(1963/01/23)]、[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0512/04601210512003a.html 第046回国会 本会議 第3号1964/01/21]、[http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1297 戦後七十年を動かした「政治家の名言」 文藝春秋2015年6月号 | バックナンバー - 文藝春秋WEB]、[http://iwj.co.jp/wj/open/archives/230249 2015/02/04 古賀誠・元自民党幹事長が講演「私の政治の原点は平和」][http://www.mofa.go.jp/mofaj/ic/ap_m/page3_001019.html 国際協力60周年記念シンポジウム 岸田外務大臣基調講演]、[http://www.panasonic.com/jp/corporate/history/konosuke-matsushita/114.html 114. NHKで池田総理と対談 1963年(昭和38年) - 松下幸之助の生涯]</ref>。
 
* [[鉄道]]・[[道路]]・[[港湾]]・[[工業用水道|用水]]など、相対的に立ち遅れた[[インフラストラクチャー|社会資本]]の整備{{Sfn|佐和|pp=56-59}}<ref name="senior1845" /><ref name="grips0105">[http://www3.grips.ac.jp/coslog/public_html/activity/01/05/index.html 比較地方自治研究センター - 政策研究大学院大学 第7期 高度成長期〜戦後地方自治制度の定着・発展期 「1961-1974年」小山永樹]1-頁。</ref>。
 
* 産業構造の高度化、すなわち[[重化学工業]]化へ向けての誘導、[[生産性]]の高い部門へ[[労働力]]の移動<ref name="moderncha6"/>{{Sfn|佐和|pp=56-59}}。
 
* 自由貿易の推進と上記の重化学工業による生産性向上により輸出競争を勝ち抜くこと<ref name="jimin"/><ref name="nikkei20121014"/>{{Sfn|佐和|pp=56-59}}<ref> [http://www.news-postseven.com/archives/20151008_355123.html 経済成長を所得増に結びつけるには「池田勇人色」改革が必要]</ref>。
 
* 人的能力の向上と科学技術の振興により、従来経済と切り離されていた教育・研究などの文教問題を経済成長と関連付け、文教政策に積極的に取り組む<ref name="moderncha6"/>{{Sfn|佐和|pp=56-59}}。
 
* 二重構造の緩和と社会的安定の確保{{Sfn|佐和|pp=56-59}}。経済的成長の背面に噴出が予想される産業構造の転換にともなう摩擦的失業、資金格差などの問題への対処。[[福祉#社会福祉|社会福祉]]と[[福祉#社会福祉|福祉政策]]の推進{{Sfn|佐和|pp=56-59}}。
 
 
 
「国民所得倍増計画」は「生産第一主義」「経済成長至上主義」「科学技術万能主義」などと呼称される「高度成長の[[パラダイム]]」の[[政策]][[綱領]]として以後10年の間、席巻を極めた{{Sfn|佐和|pp=56-59}}。それはこの後自民党長期政権下での開発政策の基礎となった{{Sfn|大久保|入江|草柳|pp=38-39}}。また国民もそれが人間の至福をかなえる手段だと刷り込まれていった{{Sfn|佐和|pp=56-59}}。
 
 
 
== 全国総合開発計画(全総) ==
 
「所得倍増政策」の一環として<ref name="shugiin2005518">[http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/009916220050518018.htm 第162回国会 国土交通委員会 第18号(平成17年5月18日)]</ref><ref name="hitozukuri" />{{Sfn|大来|pp=117-121}}{{Sfn|昭和ニッポン|pp=22-29}}{{Sfn|斉藤|p=128}}<ref name="gendai34775">[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34775 馬淵澄夫レポート | 「全総時代」に逆戻りする国土強靱化法案が抱える「これだけの問題点」]</ref><ref name="Prome20120404">{{Cite news|url= http://sky.geocities.jp/mmbdlab08/atom/PublicView/Media/Asahi/Prome/Prome_ScientistZD17_20120404.pdf|title=[[プロメテウスの罠]] ロスの灯り(17) 「所得倍増の足固め|date=2012-04-04|accessdate=2016-02-01|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]}}</ref>、1962年10月に閣議決定した[[東京都|東京]]、[[名古屋市|名古屋]]、[[大阪府|大阪]]、[[北九州市|北九州]]を繋ぐ「[[太平洋ベルト|太平洋ベルト地帯]]」に[[工業地帯]]を形成する「[[全国総合開発計画]]」(全総)は、戦後日本の国土計画の原点といわれる<ref name="shugiin2005518" /><ref name="gendai34775"/>{{Sfn|昭和ニッポン|pp=22-29}}{{Sfn|斉藤|p=128}}<ref name="uedreport12">[http://www.ued.or.jp/report/UEDreport.html 第12号 UEDレポート 2015.夏号 戦後70年の国土・地域計画の変遷と今後の課題 一般財団法人 日本開発構想研究所 - UED]11-33頁。</ref><ref name="gakugei110311">[http://ir.u-gakugei.ac.jp/handle/2309/110311 郷土教育論争と公害教育実践に学ぶ地域学習の視点 竹内裕一 東京学芸大学リポジトリ]34頁。</ref><ref>[http://www.canon-igs.org/column/macroeconomics/20141028_2788.html 地域開発 バラマキ型の限界 | キヤノングローバル戦略研究所]</ref>。同計画により、東京から九州北部に至る太平洋沿岸地域が、基幹インフラ整備の中核に位置づけられ、太平洋ベルト地帯を中心とする拠点開発構想が推進された<ref name="shugiin2005518" /><ref name="jinryu20140523189"/><ref name="water201201">[http://www.water.go.jp/honsya/honsya/pamphlet/kouhoushi/toyokawa.html 新・種を蒔く人 <私説>世紀の大プロジェクト~豊川用水~ 2012年01月号 第10回「多難な水資源開発公団との統合~]-11頁。</ref><ref name="manabiehime"> [http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=2&P_SNO=51&P_FLG1=4&P_FLG2=3&P_FLG3=1&P_FLG4=0 愛媛県史一覧 - 生涯学習情報提供システム、<えひめの記憶> 第三節 高度成長 概説]</ref><ref name="gakugei110311"/>{{Sfn|斉藤|p=128}}{{Sfn|猪木|pp=161-164}}{{Sfn|幸田2|pp=159-161}}<ref name="kuciv166">[http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/archives/166 藤井聡:日本復興への青写真 | 京都大学 都市社会工学専攻]</ref><ref name="takeda20150904">[http://journalism.jp/takedatoru/2015/09/04/227 論壇キーワード「地方選挙」 | 武田徹@journalism.jp]</ref>。
 
 
 
元々、1950年に「[[国土形成計画法|国土総合開発法]]」が制定されて仕事は始まっていたが、国として正式に決定しうるような計画が作れないでいた{{sfn|エコノミスト|1984a|pp=102-126}}。1950年代の仕事は、[[稲作|米作り]]のための[[用水路|農業用水]]や[[発電|電力開発]]、[[ダム]]建設、[[治水工事|治山]][[治水]]対策といった戦後復興が主だったが「所得倍増計画」ができて、国土をいかに開発するかという中心テーマが確定し、一気に[[工業#工業の諸要素|重化学工業]]化の施策が進展した<ref name="shugiin2005518" />{{sfn|エコノミスト|1984a|pp=102-126}}<ref name="nhkschool">[http://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005403097_00000&p=box 高度経済成長 | クリップ | NHK for School]</ref>。また関連の「[[新産業都市建設促進法]]」「[[工業整備特別地域整備促進法]]」<ref name="highgrowth"/><ref name="moderncha6"/><ref name="grips0105" /><ref name="Prome20120404" />{{sfn|家の光協会|pp=253-300}}、これに漏れた地域の発展のために「低開発地域工業開発促進法」が1961年から1964年にかけて<ref name="uedreport12" />{{Sfn|宮澤回顧録|pp=223-234}}{{Sfn|三十年代|pp=431-439}}<ref>[http://www.mlit.go.jp/about/file000073.html 国土計画局 - 国土交通省]、[http://webun.jp/item/1101160 <43>富山・高岡新産業都市|北日本新聞ウェブ「webun」]、[http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T6/T6-6-01-01-05-03.htm 『福井県史』通史編6 近現代二 第六章 「地方の時代」の諸問題...]</ref>、「[[農業基本法]]」「[[中小企業基本法]]」「[[沿岸漁業等振興法]]」「[[森林・林業基本法|林業基本法]]」の四大産業基本法や「海運再建整備法」を任期中に策定し、産業の[[工業#工業の諸要素|重化学工業]]化を推進した<ref name="jimin"/><ref name="hitozukuri" />{{Sfn|中村|1993|pp=527-538}}{{Sfn|若田部|pp=170-179}}<ref name="jx030205">[http://www.noe.jx-group.co.jp/binran/part03/chapter02/section05.html 3編2章5節 高度成長期と石油業法体制 | 石油便覧-JXエネルギー]</ref><ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110006262912 戦後日本の国土開発政策 山崎朗]、[http://www.forum-fukuoka.com/dousyusei/12_0815/ なぜ、いま道州制なのか - フォーラム福岡]、[https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/handle/10087/1422 戦後のわが国における観光政策に関する一試論 : 地域・経済政策との関連で 今村元義 群馬県地域共同リポジトリ] 324-327頁。[http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/20c/33high-economic-growth/index.htm 徳島の20世紀 第33回 高度成長 - 四国放送]</ref>。
 
 
 
「全国総合開発計画」(全総)の策定の中心は[[下河辺淳]]で<ref>[http://www.ued.or.jp/shimokobe/index.php 下河辺淳アーカイヴス]</ref>、池田内閣による「所得倍増計画」を推進する地域開発の諸問題解決を目的とし、全国を均衡に発展させるという趣旨で<ref name="jinryu20140523189"/><ref name="grips0105" /><ref name="gendai34775"/>{{Sfn|野原|森滝|pp=397-402}}{{Sfn|田原|pp=106-111}}<ref>[http://www.kokudokeikaku.go.jp/document_archives/ayumi/22.pdf 国土交通省・全国総合開発計画 (PDF)]、[https://www.jstage.jst.go.jp/article/srs1962/1962/1/1962_1_29/_pdf 全国総合開発計画の背景と課題 - J-Stage]、[http://repo.lib.hosei.ac.jp/handle/10114/11451 大平正芳内閣の「田園都市国家構想」と戦後日本の国土計画 竹野克己 法政大学学術機関リポジトリ]</ref>、これにより経済計画からブレークダウンして[[国土計画]]が決定されるという、その後のパターンを定着させた<ref name="shugiin2005518" /><ref name="biwako965" /><ref name="uedreport12" /><ref name="jinryu20140523189"/>。
 
 
 
「[[太平洋ベルト|太平洋ベルト地帯]]」に重化学工業地帯を出現させることを通じて「高度経済成長」に貢献した<ref name="uedreport12" /><ref name="kuciv166"/>{{Sfn|大来|pp=117-121}}{{Sfn|中大|1975|pp=108-111,358-364}}{{Sfn|幸田2|pp=159-167}}。工業化が沿岸部で進んだ大きな理由は、原料が全部輸入のため船で運んでこなければならず経済的だったからである{{Sfn|宮崎|pp=146-161}}<ref name="tokyoue50">[http://www.due.t.u-tokyo.ac.jp/ue50/interview.php 東京大学工学部都市工学科創立50周年記念式典 伊藤滋先生インタビュー]</ref>。例えば[[鉄鋼業]]のライバルだったアメリカの[[ピッツバーグ]]は、ニューオーリンズ港に原料を持ってきて、それから川船や鉄道で[[五大湖]]の方へ持ってきていたが、日本は技術革新で[[タンカー|大型タンカー]]を安く造り、一番安い原料を世界中から探し出して運び、アメリカより低コストで鉄鋼を作った{{sfn|宮崎|pp=146-161}}<ref name="tokyoue50" />。日本の人口が農村から太平洋側に向かって流出し、定住したのは池田内閣の時代が始まりである<ref name="takeda20150904"/>{{Sfn|中村|1993 |p=679}}<ref>[http://www.ja-yamaguchi.jp/evolution/2010_06_08.html 「戸別所得補償制度、その光りと陰」(2) 山口大学農学部、糸原義人教授]</ref>。
 
 
 
社会資本の充実が経済成長にとって不可欠であるという要件の元<ref name="expresshighway50th">[https://www.express-highway.or.jp/jigyo/kenkyu/50th/50th_history_b2.pdf 《高速道路50年の歩み》第2章 高速道路の黎明期-名神・東名の時代]</ref>、1961年から(1964年修正)5年間に4兆9000億円の道路投資が決定し<ref name="SENTAKU46218" /><ref name="expresshighway50th" />、任期中に[[中央自動車道]]、[[東名高速道路]]や<ref name="expresshighway50th" />、[[東京国際空港|羽田空港]]に代わる[[成田国際空港|新国際空港]]建設などが閣議決定されている<ref>[http://www.city.narita.chiba.jp/sisei/koho/2014/2014-0501.html 広報なりた2014年5月1日号]-20頁、[http://www.zenshin.org/syuu_san/s_back_no05/s673.htm#a1_4 週刊『三里塚』(S673号1面4)(2005/02/15)]、[http://www.sankei.com/region/news/150802/rgn1508020033-n1.html 【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(上) さながら白昼の市街戦]</ref>。また[[左藤義詮]][[大阪府知事]]、[[原口忠次郎]][[神戸市]]長から「大阪に[[公団]]を設立して欲しい」との陳情を受け、[[阪神高速道路公団]]の設置を決定させた他<ref>[http://www.hanshin-exp.co.jp/50th/short-story/past/story01.html 「阪神高速ショートストーリー」 第1話 阪神地区に都市高速道路を建設]</ref>、行政に関する公的な事業推進のため、任期中に[[水資源機構|水資源開発公団]]、[[都市再生機構|産炭地域振興事業団]]など公団等を増加させた<ref name="grips0105" />。民間企業が資金を借りやすくするため[[政策金利|日銀金利]]を0.37%引き下げ、さらにおよそ800億円の減税を実施した{{Sfn|その時歴史が動いた|pp=120-135}}。一方で二年以内に9割の貿易自由化を決定し、日本企業を海外との競争に向かわせた。このアメとムチの政策により企業は新たに工場を建設するなど一斉に設備投資に走った{{Sfn|中村|1993|pp=509-523}}{{Sfn|その時歴史が動いた|pp=120-135}}<ref name="nhkschool" />。
 
 
 
池田は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の物質的な豊かさを評価し、それと結びつくことで日本も豊かになる、アメリカは[[自動車産業]]が発達して産業を引っ張っている、だから日本もそのために[[高速道路]]を造り、自動車産業を伸ばそうと説いた{{Sfn|堺屋|pp=170-177}}。減税、社会保障、公共投資の拡大は[[医療機器メーカー一覧|医療]]、[[製薬]]、[[建設業|建設]]、[[電機メーカー]]の発展をもたらした{{Sfn|堺屋|pp=170-177}}。[[国鉄]]の[[動力近代化計画|ディーゼル化]]と[[複線|複線化]]を本格化し[[輸送力]]を強化した{{Sfn|塩田|2007|p=234}}{{Sfn|北岡|pp=100-102}}。[[産業構造]]を[[軽工業]]から[[重工業]]に転換させ<ref name="highgrowth"/><ref>[http://www.rengo-ilec.or.jp/seminar/hitotsubashi/2009_later/youroku04.html 非正規労働問題と連合の取り組み - 公益社団法人 教育文化協会]</ref>、それまで日本の主要な[[産業#輸出産業と国内産業|輸出産業]]だった[[繊維]]や[[雑貨]]など軽工業を抑えぎみにして、[[鉄鋼業|鉄鋼]]、自動車、電機などの産業部門に政府資金の[[財政投融資]]を集中的に行い振興を図った<ref name="doshisha1428"/><ref name="syukainikkei267" /><ref name="manabiehime"/>{{Sfn|堺屋|pp=170-177}}<ref name="seikatsu">[http://www5.cao.go.jp/seikatsu/whitepaper/h2/wp-pl90-02101.html 経済企画庁 国民生活白書 人にやさしい豊かな社会 第1節 ライフスタイルの変化 1. 戦後日本の経済社会の発展 ]</ref><ref name="gunma1422">[https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/handle/10087/1422 戦後のわが国における観光政策に関する一試論 : 地域・経済政策との関連で 今村元義 群馬県地域共同リポジトリ] 324-327頁。</ref>。
 
 
 
1963年の「[[新産業都市建設促進法]]」や1964年の「[[工業整備特別地域]]」などで、[[太平洋ベルト|太平洋ベルト地帯]]以外にも工場を誘導していくことが意図され{{Sfn|中山|後藤|吉岡|pp=310-319}}、そこに国から多くの[[補助金]]を投入して全国各地で、[[港湾]]整備、[[埋め立て|埋立造成]]、トンネルの堀削、[[バイパス道路|バイパス]]新設、[[日本の空港#地方管理空港|地方空港]]、高速道路、新幹線など、産業基盤の大がかりな整備が進行し、国土は大きな変貌を遂げていった<ref name="highgrowth"/><ref name="ironna771"/><ref name="uedreport12" />{{Sfn|堺屋|pp=170-177}}{{Sfn|中山|後藤|吉岡|pp=310-319}}。工業先導による地域振興を謳い上げたため、[[地方自治体]]は工場誘致を血眼にした{{Sfn|堺屋|pp=170-177}}。既存の[[工業地域|四大工業地帯]]の周辺に、[[鉄鋼]]・[[石油精製]]・[[石油化学]]・[[火力発電所]]を結ぶ[[コンビナート]]を造る構想が出され、[[四日市コンビナート|四日市]]を皮切りに全国各地に[[工業地帯]]が続々建設された<ref name="jx030205" /><ref name="nhkschool" /><ref name="uedreport12" /><ref name="mexthakusho"/>{{Sfn|歴史街道|pp=42-46}}{{Sfn|昭和ニッポン|pp=22-29}}<ref>{{Cite news|url=https://lec.biwako.shiga-u.ac.jp/AllWeb2/Files/?no=2185|author=|title=【時代の証言者】宮本憲一(4)バラ色の夢と深刻な現実|newspaper= [[読売新聞]]|date=2007-03-13}}</ref>。これらは日本の海岸の形を変えた{{Sfn|中村|1993|pp=509-523}}。全総の「工業先導性の理論」は、まず大規模工場を誘致すれば、[[流通業]]や[[サービス業]]は後から付いてくるという理論であった<ref>[http://dot.asahi.com/column/sengo70/2014102800036.html?page=1 堺屋太一の戦後ニッポン70年 第15回 2冊目の著書「日本の地域構造」――東京一極集中に反対]</ref>。重化学工業を中心とする企業群が規模の利益を取り入れて規格化、大量化を進めて、工場施設を大型化し、規格品を大量生産する近代工業社会が一挙に完成した<ref name="nhkschool" />{{Sfn|堺屋|pp=170-177}}。
 
 
 
しかし、開発拠点の指定をめぐり激しい[[陳情]]合戦が起こり<ref name="uedreport12" />{{Sfn|大来|pp=117-121}}{{Sfn|中大|1975|pp=108-111,358-364}}、結果、地元政治家を中心とした自民党の「利益誘導政治の始まり」<ref name="allabout2935362">[http://allabout.co.jp/gm/gc/293536/2/ 自民党の歴史 長期政権化とそのひずみ (2ページ目)]</ref>、「大企業による[[土地]][[買い占め|買占め]]による[[地価]]高騰をもたらしただけで、富と人口の分散による国土の均衡ある発展というテーマは実現されずに終わった」{{sfn|中大|1975|pp=108-111、358-364}}、「効率性を重視して大都市圏とその周辺地域に優先的に配分されただけ」<ref name="jairo00003643" />、「それは[[1969年]]の『[[新全国総合開発計画]](新全総)』に受け継がれ、[[1972年]]の田中内閣における『[[日本列島改造論]]』につながって、ますます地価の高騰をもたらした」{{Sfn|猪木|pp=161-164}}{{Sfn|中大|1975|pp=108-111,358-364}}、「わが国の産業構造および地域構造を激変させた」<ref>{{Cite book|和書|author=森井淳吉|title=「高度成長」と農山村過疎|publisher=文理閣|series=阪南大学叢書45|year=1995|isbn=4-89259-235-8|page=53}}</ref>などの批判も多い<ref name="gakugei110311"/><ref name="allabout2935362"/>{{sfn|中村|1993|pp=527-538}}<ref>[http://reposit.sun.ac.jp/dspace/handle/10561/752 府県間格差とその要因 -政府の自律に関わる変数を手がかりに- 野田遊 長崎県立大学学術リポジトリ]、[http://www.mskj.or.jp/report/2898.html 「地域格差」はなぜ生まれたのか(塾生レポート) | 松下政経塾] 、[http://www.dhctheater.com/movie/11132 討論番組 『そのまま言うよ!やらまいか』#33(テーマ:日本破滅論 ゲスト:藤井聡)]</ref>。
 
 
 
== 農業基本法 ==
 
池田は[[池田勇人#「農地法」の制定|「農地法」制定]]、[[池田勇人#池田・ロバートソン会談|米国余剰農産物受け入れ]]、「[[農業基本法]]」制定など、日本の戦後農政に深く関与した{{Sfn|中村|1993|p=472}}{{Sfn|鈴木猛夫|pp=13-42}}{{Sfn|野原|森滝|pp=106-111}}<ref>{{Cite book|和書|author=[[山下一仁]]|title=「亡国農政」の終焉|publisher=[[ベストセラーズ]]|series=ベスト新書257|year=2009|isbn=978-4-584-12257-0|pages=122-124}}{{Cite book|和書|author=山下一仁|title=日本の農業を破壊したのは誰か <small>「農業立国」に舵を切れ</small>|publisher=講談社|year=2013|isbn=978-4-06-218585-1|pages=26-32}}[http://diamond.jp/articles/-/47489 農業立国への道(中) 農地集約・規模拡大を阻む農地法を廃止せよ]、[http://diamond.jp/articles/-/47489?page=2 農業立国への道(中) page=2]、 [http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51902601.html 池田信夫 blog : 農地改革と資本家の不在]、[http://ci.nii.ac.jp/naid/110000982329 MSA協定と日本 : 戦後型経済システムの形成(2) 石井晋]、[http://www.jacom.or.jp/archive02/document/jake/kenkyu/jaca101s08091202.html 農業協同組合研究会/JACOM - JAcom 農業協同組合新聞 食料自給力強化の一点に絞った施策構築を急げ]、[http://www.kosuke-ogawa.com/?eid=3040&PHPSESSID=3b71c5bc8e51a4ad6600f9e7f7936416 【書評】 鈴木猛夫(2003)『アメリカ小麦戦略と日本の食生活』藤原書店]、[http://1000ya.isis.ne.jp/1541.html ラーメンと愛国] 松岡正剛の千夜千冊1541夜、2014年04月15日</ref>。[[農業]]、[[林業]]、[[漁業]]の[[第一次産業]]に対して近代化を図り<ref name="doshisha1428">[https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/1428/?lang=0 池田・ケネディ会談の意義: 国内経済体制の再編と経済外交 田辺宏太郎 同志社大学学術リポジトリ]</ref>、1961年「所得倍増計画」の重要な柱として[[日本社会党|社会党]]と対決してまで、戦後農政の憲法といわれる「[[農業基本法]]」を成立させた<ref name="jimin"/><ref name="jinryu20140523189"/><ref name="senboku">[http://ci.nii.ac.jp/naid/110002970183 戦後我が国の農業・食料構造の変遷過程 : 〜農業近代化のアウトライン〜 仙北富志和] 34-35頁。</ref><ref name="uedreport12" /><ref name="growth11">[http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/high-growth/contents/11/index.html 高度成長の時代へ-高度成長政策の展開-農業基本法の制定 - 国立公文書館]</ref><ref name="mainichi20160125">{{Cite news|url=http://mainichi.jp/sunday/articles/20160125/org/00m/020/003000d|title=TPPの罠:第6回 安倍強い農業の壮大なる“虚構”|date=2016-01-28|accessdate=2016-02-08|newspaper=毎日新聞|publisher=毎日新聞社}}</ref><ref name="peace151101">[http://www.peace-forum.com/newspaper/151101.html ニュースペーパー2015年11月|ニュースペーパー|平和フォーラム]</ref>。
 
 
 
1960年11月12日、選挙史上初の三党首テレビ・ラジオ討論会で、池田は「経済成長率が9%なら農村人口を半分以下にすることになる。日本の農業は、ほかの産業が合理化・近代化されているにも関わらず、[[江戸時代|徳川時代]]と同じ状態である。農業規模の拡大と、多角経営によって、ひとつの企業として成り立つようにしなければならない」{{Sfn|塩口|pp=207-218}}、宏池会の機関紙で「農業人口が[[日本の人口統計|日本の総人口]]の40%を占めているのに、農業所得は国民所得の20%に過ぎないのが問題である。そこで農業人口を[[第二次産業|鉱工業]]や[[サービス業]]に吸収して、農民の一人当たりの所得を増やす方向に持っていきたい」{{Sfn|上前|pp=374-376}}、「今後10年以内に[[第一次産業|農林漁業]][[就業人口]]を3分に1程度に減らす」<ref>[http://www.ja-youth.jp/ 【JA全青協】トップページJA全青協創立60周年記念誌]-10頁。</ref>などと述べ、農業の近代化と合理化、及び農業の発展と農業従事者の地位向上のための施策を定め、「日本を世界の工場にする」という国家目標を打ち出した<ref name="senboku"/>{{Sfn|若田部|pp=170-179}}<ref name="growth11"/><ref>[http://www.jacom.or.jp/archive03/tokusyu/2010/tokusyu100115-7663.html 農業協同組合新聞 【座談会】「FEC」自給圏の形成めざして 内橋克人・駒口盛・梶井功(後編)]、[http://s-yamazaki.net/pdf/2012-07-07.pdf 『分権時代の議会役割』北川正恭]</ref><ref name="SENTAKU46218">[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0512/04602180512008c.html 第46回国会 衆議院議員本会議 第8号 昭和三十九年二月十八日]</ref>。「所得倍増計画」による[[第一次産業|農林水産業]]から[[重工業]]への[[労働力]]流入によって、働き手が[[農業]]から離れることで海外のように大規模で機械を使った効率的な農業を目指した<ref name="highgrowth"/><ref name="ironna771"/>{{Sfn|日経|2014|pp=60-64}}<ref name="businikkei20091015">[http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20091015/207187/ 国家社会主義的な農業ビジョンの蹉跌:日経ビジネスオンライン]</ref><ref>[http://www.jacom.or.jp/nousei/proposal/2013/130610-21165.php 【提言・岡田知弘(京都大学経済学研究科教授)】農業・農村の所得倍増]、[http://umininaru.raindrop.jp/datsuseichou/tuo_cheng_zhangmitingu/akaibu.html 脱成長ミーティング アーカイブ【2014.6.15 第2回 脱成長MTG】関根佳恵「日本農業の再生と脱成長」] 14-17頁。</ref><ref name="fukushima20150601">[http://www.asahi.com/area/fukushima/articles/MTW20150601071360001.html (消える原発 福島とエネルギー・第2部:1)「新産業」出稼ぎに幕 /福島県]</ref>。商社からの[[農業機械|農機具]]の購入を奨励して機械化を図り、農家の経営規模を拡大して労働の生産性を上げ、農家所得の上昇と他産業への労働力確保を同時に達成しようとする目的を持っていた{{Sfn|大久保|入江|草柳|pp=94-95}}{{Sfn|鬼塚|pp=301-304}}。岸内閣末期の通産大臣時代に民間の農政家だった池本喜三夫に目を付け「農業基本法案」を作成させた{{Sfn|大久保|入江|草柳|pp=94-95}}{{Sfn|鬼塚|pp=301-304}}{{Sfn|上前|pp=451-458}}{{Sfn|吉村|pp=116-118}}<ref>[http://www.jnpc.or.jp/files/1986/12/b8fe4080d1fa0cf39c73b122387a96c2.pdf 武田邦太郎 研究会『米をどうする』(Ⅱ) 日本記者クラブ会報、1987年3月6日第25号] -4頁。</ref>。
 
 
 
[[稲作]]の一貫作業による機械化と[[農地|耕地]]の大規模化、すなわち[[干拓|干拓地]]の開拓が中心的に推し進められた{{sfn|大久保|入江|草柳|pp=94-95}}。[[秋田県]]の[[八郎潟]]を[[干拓]]して誕生した[[大潟村]]はその象徴であったが<ref name="businikkei20091015" />{{Sfn|昭和時代|pp=431-439}}{{Sfn|日経|2014|pp=60-64}}、新しい農業のモデルとされたこの村は、その後国の政策に翻弄された{{Sfn|日経|2014|pp=60-64}}。他地域でも農地の集約は進まず「農業基本法」が後押しした[[農業機械]]の普及は、機械の借金返済のために農閑期の[[出稼ぎ]]を増やし、むしろ零細な[[農家|兼業農家]]を増加させた{{Sfn|昭和時代|pp=431-439}}{{Sfn|大久保|入江|草柳|pp=94-95}}<ref>[http://www.ruralnet.or.jp/syutyo/2013/201308.htm 農文協の主張:2013年8月 アベノミクス="国家のギャンブル"]</ref>。「企業として成りたつ農業」を作るため、1.5[[ヘクタール|ha]]以下の農家に国の指導・援助はしないという施策を定めたため、多くの農家が廃業・転業を余儀なくされた{{Sfn|ES|pp=138-167}}。
 
重工業の発展によって不足した労働力は主に農村部からの出稼ぎや、若年労働者の[[集団就職]]によって補われたのであるが<ref name="syukainikkei267" /><ref>[http://www.ja-yamaguchi.jp/evolution/2010_06_08.html 「戸別所得補償制度、その光りと陰」(2) 山口大学農学部、糸原義人教授]、[http://www.y-shinpou.co.jp/chokugen/c-file08/c-080919.html 限界集落県/ 「山梨で生きる」ビジョンを - 山梨新報]、[http://iwj.co.jp/wj/open/archives/193032 【IWJブログ】「鹿児島県庁の主要なポストはすべて中央省庁から来た人で占められている」官僚支配下に置かれた鹿児島県の被差別構造を元南日本新聞記者が暴露 ]</ref><ref name="kagoshimah26">[http://www.edu.pref.kagoshima.jp/curriculum/sidouan/fuzokuchu/h26/syakai3nenn.pdf 鹿児島県総合教育センター 学習指導案のページ -戦後日本の発展と国際社会]77-78頁。</ref>、この頃に"[[過疎]]"という言葉が生まれたといわれる{{Sfn|大久保|入江|草柳|pp=94-95}}。農家の働き手の男性が高い収入を求めて都会に出るようになり{{Sfn|その時歴史が動いた|pp=120-135}}、実家の農作業は妻と老両親(かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん)にゆだねられたことから「三ちゃん農業」と呼ばれた{{Sfn|20世紀の記憶|pp=28-29}}。1963年から64年には農村からの出稼ぎがピークに達し、その数60万人といわれた{{Sfn|大久保|入江|草柳|pp=94-95}}。革新側は「農地切り捨て論」を訴えたが、結果的に労働力政策としては成功した{{Sfn|エコノミスト|1984a|pp=91-100}}。
 
 
 
[[肥料#化学肥料|化学肥料]]や[[農薬]]も飛躍的に普及を遂げ{{Sfn|鬼塚|pp=301-304}}{{Sfn|保阪|pp=42-43}}、農家の所得水準は上昇したが{{Sfn|中村|1993|pp=509-523}}、その後の輸入自由化で主要穀物はアメリカの大規模農業に価格で太刀打ちできず、[[減反政策|減反]]、食の洋風化に伴う米余り、農地の[[地価]]高騰などで「農業基本法」は日本の農業を強くするという目的は果たすことができなかった<ref name="highgrowth"/><ref name="mainichi20160125" /><ref name="peace151101" /><ref>[http://1000ya.isis.ne.jp/1259.html 1259夜『日本とはどういう国か』鷲田小彌太|松岡正剛の千夜千冊]</ref>。また農業に関連する公共事業が進められた半面、[[利益団体]]と自民党の[[癒着#比喩的用法|癒着構造]]も生まれた{{Sfn|中島|pp=33-38}}。[[里山]]の破壊も進行した{{Sfn|鬼塚|pp=301-304}}。戦後の農政が置き土産にしたのは、[[食料自給率]]40%(1998年)という主要[[先進国]]最下位という数字だった{{Sfn|20世紀の記憶|pp=28-29}}。「所得倍増政策」に於いて、重化学工業化をおしすすめる大きな推進力になったのは「全国総合開発計画」ではあるが、それを実現させるための「労働力確保」という点では、すべての政策は同一ともいえる{{Sfn|ES|pp=138-167}}。池田内閣が強力にリードした「所得倍増政策」により、転職の普遍化、学卒、集団就職など、1960年代に若者の就職状況は激変した{{Sfn|ES|pp=138-167}}。
 
 
 
== 貿易自由化推進 ==
 
[[神武景気]]、[[岩戸景気]]にみられた日本の著しい経済復興から判断して、[[アメリカ合衆国|米国]]は日本に貿易自由化を要求するようになった{{sfn|戦後日本外交|pp=46-60}}<ref name="戦後日本外交"> [http://ci.nii.ac.jp/naid/130004700613 池田政権期における貿易自由化とナショナリズム 高橋和宏]</ref>。日本としても世界市場に復帰していくためには、米国は勿論、[[ヨーロッパ]]に対しても自国に市場を開放することは長期的には必要であった。通産大臣を経験した池田は、自由化はそれ自体が目的なのではなく、日本の貿易拡大の手段であるという考えを早くから持ち{{sfn|伊藤 |pp=104-111}}<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/033/0216/03311050216002a.html 参議院会議録情報 第033回国会 商工委員会 第2号]、[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/041/0512/04108100512003a.html 第41回衆議院(臨時会)1962.8.10 所信表明演説]</ref>、日本が先進国入りを果たすには自由化は避けて通れない問題と受け止めていた{{sfn|塩田|2007|pp=268-270}}。宮澤は「池田さんは昭和20年代の[[ドッジ・ライン|ドッジの頃]]にさかのぼる、統制から[[経済的自由主義|自由経済]]になっていくころの担い手です。根っこからの自由経済論者、[[市場経済]]論者です」と述べている{{Sfn|エコノミスト|1984a|pp=42-51}}。
 
 
 
当時の省庁は大蔵省が自由化に積極的、通産省は消極的なスタンスをとって牽制し合っていた<ref name="jairo00003643" />{{Sfn|倉山|2012|pp=138-150}}{{Sfn|樋渡|pp=180-186}}。1959年6月に通産大臣に就任した池田は自由化構想を省議で解き{{sfn|水木|pp=278-284}}、[[佐橋滋]]重化学局長ら、貿易自由化に消極的な通産官僚を説き伏せた<ref name="doshisha1428"/>{{Sfn|若田部|pp=170-179}}{{Sfn|水木|pp=278-284}}{{Sfn|戦後日本外交|pp=46-60}}。通産省内で貿易自由化に賛成したのは[[今井善衛]]繊維局長一人だったといわれる{{sfn|樋渡|pp=180-186}}。今井は池田によく協力した{{sfn|倉山|pp=138-150}}。国内の業界から強い反対を受けたが、池田は経済基盤の整った日本が自由化を断行することは、諸外国の信用を勝ち取る上で必要不可欠で、日本経済を今後伸ばしていく唯一の道は、自由化以外には求められないと考えた{{sfn|樋渡|pp=180-186}}。自身の経済政策に揺るぎない自信を抱く池田は、[[関税及び貿易に関する一般協定|GATT]]から要求されてやるのではなく、自ら積極的に自由化を受け入れ、日本の産業を国際競争の冷たい風にさらし鍛え上げる、それから世界市場に乗り出す実力を付けるべきだと考えた{{sfn|水木|pp=278-284}}。
 
 
 
池田の自由化に対するスタンスが「所得倍増計画」に反映された{{Sfn|エコノミスト|1984a|pp=71-80}}{{Sfn|樋渡|pp=180-186}}。「所得倍増計画」と「自由化」は車の両輪をなす一体の政策であった{{sfn|水木|pp=278-284}}。池田は通産大臣の時代から「次」を狙いつつ、経済政策では連続性を有し、貿易自由化においても、常に主導権を握った<ref name="jimin"/><ref name="doshisha1428"/><ref name="kokkai1961130"/><ref name="hiroshima129750">{{Cite news |title = 『郷土広島の歴史II』 7 高度経済成長とひろしま 〜池田勇人〜 |newspaper =  |date =  |author = 広島県ホームページ |authorlink =  |url = https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/129750.pdf |accessdate = 2016-02-01 |publisher = [[広島県庁]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20160131130137/https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/129750.pdf |archivedate = 2016年1月31日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref><ref name="tufs">[http://www.tufs.ac.jp/common/archives/history.html 大学の歩み- 東京外国語大学 第五編 展開期の東京外国語大学 1960-1992年 1960年代 鈴木幸壽]265-266頁。</ref>。通産省や産業界では国内産業の現実の状況に精通しており、貿易自由化の進展には消極的だったといわれるが、貿易自由化を強く支持し1959年12月、池田は自由化に関する最初の決定を行い、[[綿花]]と[[ウール|羊毛]]の輸入を一切の政府統制から自由にし強力な先例を作った{{sfn|ジョンソン|pp=271-275}}。1960年6月「貿易為替自由化大綱」を閣議決定させ<ref name="doshisha1428"/><ref name="戦後日本外交" />{{sfn|ジョンソン|pp=271-275}}、池田内閣誕生により自由化のスピードが加速、開放経済へと大きく舵を切った<ref name="jimin"/><ref name="manabiehime"/><ref name="hitozukuri" /><ref name="ironna771"/>{{Sfn|戦後日本外交|pp=46-60}}{{Sfn|宮崎|pp=146-161}}<ref name="abe20130517">{{cite web|url = http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2013/0517speech.html|accessdate = 2016-02-29|title = 平成25年5月17日 安倍総理「成長戦略第2弾スピーチ」(日本アカデメイア)|publisher = [[総理大臣官邸|首相官邸]]|date = |archiveurl = https://web.archive.org/web/20130520200012/http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2013/0517speech.html|archivedate = 2013年5月20日|deadlinkdate = 2017年10月}}</ref><ref name="mexthakusho">[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa199501/hpaa199501_2_016.html 平成7年版 科学技術白書「第1部 第2章 第2節」- 文部科学省]、[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa199501/hpaa199501_2_017.html 「第1部 第2章 第3節」]</ref><ref name="murc 201301">[http://www.murc.jp/thinktank/rc/journal/quarterly/201301 特集:総点検:民主党政権の政策 なぜ民主党政権はTPP反対派の説得に失敗したのか? | 「季刊 政策・経営研究」]-113頁。</ref>。後述する米国・欧州に対する実質的な経済外交は、まず日本経済の自由化、開放化が必須であった。池田の中では、対等な立場での国際経済への参加を実現し、自由な貿易環境の下で日本経済を拡大させる、それこそが戦後日本にとっての国際的な威信につながるという連動する[[ナショナリズム]]の論理が形成されていたのである{{Sfn|戦後日本外交|pp=46-60}}{{Sfn|鈴木|pp=9-16}}<ref name="oecdmcm2014">[http://www.oecd.emb-japan.go.jp/mcm2014/index.html OECD概況説明資料(PDF) - OECD 日本政府代表部]-11頁。</ref>。
 
 
 
また日本企業がアメリカ資本に吸収合併されるのではないかという危機感は、大企業同士の大型合併への引き金となった{{Sfn|中村|1993|pp=527-538}}。企業は生き残りを賭け、他社より魅力的な製品を作ろうとこぞって海外から新技術を導入、その件数はそれまでの4倍に達した{{Sfn|その時歴史が動いた|pp=120-135}}。これが高度成長の鍵となった技術革新([[イノベーション]])である<ref name="jcer50" />{{Sfn|その時歴史が動いた|pp=120-135}}。これが一番目に見える形で現れたのが[[家庭用電気機械器具|家電製品]]であった{{Sfn|その時歴史が動いた|pp=120-135}}。続々と登場する新製品が国民の消費を加速させ経済は急成長を遂げた。池田を支えた「[[財界四天王]]」と[[金融機関]]の首脳を中心とした財界グループも実働部隊として重要な役割を果たした<ref name="日銀総裁論">{{Cite book|和書|author=[[吉野俊彦]]|title=歴代日本銀行総裁論|publisher=[[毎日新聞社]]|year=1976|isbn=|page=316-318}}</ref>{{Sfn|保阪|pp=49-50}}<ref>[http://net.keizaikai.co.jp/archives/15731 ワンマンシリーズ(6)三和の法皇・[[渡辺忠雄 (三和銀行)|渡辺忠雄]]〈3〉|経済界]</ref>。結果的に民間経済の潜在的エネルギーを巧みに引き出して<ref name="astand20150417" />{{Sfn|明治人上|pp=307-311}}、"ジャパンミラクル"といわれる高度の経済成長をとげた<ref name="SHOWAJIDAI20160130">{{Cite news|url=http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160129-118-OYTPT50466/list_SHOWAJIDAI|title=昭和時代 エピローグ 昭和とは何だったのか…戦争と平和、犠牲と繁栄|date=2016-01-30|accessdate=2016-02-01|newspaper=[[読売新聞]]|publisher=[[読売新聞社]]}}</ref>([[:en:Japanese post-war economic miracle]])。
 
 
 
1960年6月の「貿易為替自由化大綱」は、3年後に自由化率80%をメドとしていたが{{sfn|若田部|pp=170-179}}、池田政権初年度に輸入自由化率90%という目標に変更<ref name="jimin"/><ref name="murc 201301"/>。岸内閣当時、42%に過ぎなかった自由化率は1962年10月88%に上昇し、1964年には西欧諸国並みの93%に達成するに至った<ref name="jimin"/><ref name="murc 201301"/>{{sfn|猪木|pp=28-30}}。自由化計画の当初、保護の必要があった幼稚産業も極めて速やかに一人前に成長し、欧米先進諸国の競争相手と互角に渡り合えるようになった{{sfn|佐和|pp=71-73}}。[[自動車産業]]がその典型で{{sfn|佐和|pp=71-73}}、当時、自動車が輸出産業になるとは誰も考えてなかった{{sfn|エコノミスト|1984a|pp=10-31}}。池田は「昭和60年前後には、日本の自動車が世界のトップクラスに入る」と言っており{{sfn|栗原|pp=3-7}}、実際その通りになった。
 
 
 
貿易自由化の進捗は、当時日本では「第二の黒船」と騒がれた{{sfn|保阪|pp=118-119}}。高度成長政策の支えによって、日本企業の体質も強くなってきたとはいえ、未だ国際市場では一人立ちできるとは考えられていなかった{{sfn|保阪|pp=118-119}}。日本経済が自由化に耐えられるか否かは議論が絶えていなかったもしや{{sfn|保阪|pp=118-119}}。結果、アメリカの巨大資本に[[M&A|吸収合併]]されるのではないかという危機感から、重化学工業を中心に大型合併が成されて[[競争力|国際競争力]]が強化され、企業の近代化投資を加速させ、貿易外取引の分野における[[海外旅行|海外観光旅行の自由化]]や[[外貨|準備外貨割当制度]]の廃止にもつながった<ref name="doshisha1428"/><ref name="jx030205" /><ref>[https://www.jata-net.or.jp/voyage/1401_series01.html 海外旅行の夜明け 渡航自由化は「第二の開国」 - 社団法人日本旅行業協会]</ref>。[[八幡製鉄]]、[[富士製鐵]]、[[JFEエンジニアリング|日本鋼管]]の三社が[[寡占]]状態を形成し、一方的に価格を左右することに強い不満を持ち、通産省の幹部たちに「寡占状態はよろしくない。だいたい君たちの先輩ばかり三社にいるから通産省の腰が弱くてダメだ。[[住友金属工業|住友金属]]や[[川崎製鉄]]を伸ばせ。設備投資や外貨の割り当てもその線に沿ってやれ」ときつく言い渡した{{sfn|塩口|p=193}}。
 
 
 
特に[[レモン]]については、通産省の官僚や選挙区のレモン農家の抵抗をはねのけて自由化に踏み切り、アメリカ産[[サンキスト・グローワーズ|サンキスト]]レモンが輸入て値段は4分の1にまで下がった{{sfn|塩田|1985|pp=214-218}}。池田が一番望んでいたのは[[米]]の輸入自由化であった{{sfn|エコノミスト|1984a|pp=61-70}}。そうすれば完全に日本経済は落ち着くべきある自然的な均衡状態が生まれ、それを判断基準として何でもできるだろうという考えがあった{{sfn|エコノミスト|1984a|pp=61-70}}。貿易自由化によって外国製品が以前に増して各家庭に浸透した{{sfn|大久保|入江|草柳|p=135}}。それまでの日本の昔からの辛い食生活は、外国からの甘さが加わって変化していった{{sfn|大久保|入江|草柳|p=135}}。
 
 
 
池田の退任後自由化はストップし、再開は1970年代となっている{{sfn|若田部|pp=170-179}}。後の[[福田赳夫]]や[[中曽根康弘]]は、地元[[群馬県|群馬]]の名産・[[コンニャク]]の自由化に腰が引けたといわれる{{sfn|宮崎|pp=146-161}}。
 
 
 
== 科学技術振興 ==
 
「所得倍増計画」の主要目的五つの一つとして科学技術振興を盛り込み、「文教の刷新と科学技術振興は、すべての施策の前提ともなる」と特に力を注いだ<ref name="highgrowth"/><ref name="senior1845">[http://senior-innovation.com/blog/1845.html 池上彰のやさしい経済学2 ニュースがわかる(31)]</ref><ref name="tokyoue50" /><ref name="kokkai1961130">[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/037/0512/03712120512006a.html 第37回国会本会議第6号 所信表明演説 (1960.12.12)]([http://www.amazon.co.jp/dp/B0106VDDPG 昭和の証言「池田勇人 第37特別国会所信表明演説より」(昭和35年)])、[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/038/0512/03801300512003a.html 第38回国会本会議第3号 (1961.1.30)]、[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/038/0512/03801300512003a.html 第38回国会本会議第3号 (1961.1.30)]</ref><ref name="tufs" /><ref name="mexthakusho"/>{{Sfn|武田|pp=118-119、156-158}}。高度経済成長実現のため、それに即応する[[技術者]]を必要とすることを予想し、[[医学]]を含めた[[理学|理]][[工学|工科]]学生の拡充に重点を置いた文教予算を組んだ<ref name="50thkinen"/><ref name="tokyoue50" />{{Sfn|宮崎|pp=146-161}}{{Sfn|中山|後藤|吉岡|pp=4-7}}<ref name="ris2995">[http://repository.ris.ac.jp/dspace/handle/11266/2995?locale=ja 立正大学学術機関リポジトリ: 大学の自治と学生の自治 (1)]</ref><ref>[http://mainichi.jp/articles/20150724/org/00m/070/013000c Listening:<論点>岐路に立つ、国立大文系 - 毎日新聞]</ref><ref name="60年代リアル">{{Cite book|和書|author=佐藤信|title=60年代のリアル|publisher=ミネルヴァ書房|year=2011|isbn=978-4-623-06206-5|page=}}</ref>。それまでの[[文系|文科系]]学生中心の[[補助金|国庫補助]]からの転換で、戦後の文教政策のもうひとつの曲がり角ともいわれ、池田内閣によるこの勘案は、その後日本の[[先進国|先進工業国]]への歩みのなかで特筆される{{Sfn|宮崎|pp=146-161}}{{Sfn|中山|後藤|吉岡|pp=4-7}}{{Sfn|上前|pp=420-433}}{{Sfn|小林|pp=162-166}}。1961年に[[文部省]]が理工系学生2万人の増員を決め<ref name="50thkinen"/><ref name="60年代リアル" />、「理工系ブーム」が起こり<ref name="60年代リアル" />、これが後の経済成長を支える基盤となった<ref name="tokyoue50" /><ref name="mexthakusho"/>{{Sfn|武田|pp=118-119、156-158}}<ref>{{Cite news|title =ノーベル賞受賞者を見れば分かる、日本が傑出した人材を輩出できる理由=中国|newspaper =サーチナニュース|date =2017-02-26|url =http://m.news.searchina.net/id/1630041|accessdate =2017-04-07|publisher =|archiveurl =https://web.archive.org/web/20170226082632/http://m.news.searchina.net/id/1630041|archivedate =2017年2月26日|deadlinkdate =2017年10月}}</ref>。また研究開発の推進、及び工業化対策の改善を目的に、国内に於ける独創的研究及び開発の推進が望まれ、[[欧米]][[先進国]]に追い付くことを基本とした方向が示された<ref name="mexthakusho"/>{{Sfn|武田|pp=118-119、156-158}}。日本経済が今日あるのは、この時代の理工系学部の拡充強化で生まれた「[[イノベーション|技術革新]]」のおかげという[[社会通念]]が1960年代にはあった{{Sfn|佐和|pp=56-59}}。その考えが長きにわたり、日本の文教政策の根底に居座り続けた{{Sfn|佐和|pp=56-59}}。また工業界、産業界に貢献する実践的な技術者の養成を目的に[[高等専門学校]](高専)が全国で設立された他<ref name="nagoya17256">[http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/17256 人材開発政策の法制措置のあしどり--中等教育を中心に 佐々木享 名古屋大学大学学術機関リポジトリ]</ref><ref name="kosenkouhou">[http://www.kosen-k.go.jp/joho_kouhou.html 国立高専機構 >> 広報誌 - 独立行政法人 国立高等専門学校機構 創設から50年の歩み、高専教育における近年の動き]27-30頁。</ref><ref name="asahikosen">[http://www.asahi.com/edu/university/zennyu/TKY200710290218.html asahi.com:高専「脱皮」へ再編 - 全入時代 - 大学 - 教育]</ref>、理工系大学の新設や理工系学部増設が以降増加した<ref name="senior1845" /><ref name="tokyoue50" />{{Sfn|宮崎|pp=146-161}}{{Sfn|エコノミスト|1984a|pp=336-364}}{{Sfn|エコノミスト|1984b|pp=152-161}}<ref>[http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/29713/4/60-T-3-01.pdf Title 高度経済成長下の熊本大学 - 熊本大学学術リポジトリ]、[http://www.rku.ac.jp/about/today/ 広報誌 RKU TODAY | 第12号 2010年7月号 - 流通経済大学]-6頁。[http://www.econ.ryukoku.ac.jp/50th/index.html 経済学部開設 50周年記念事業|経済学部|龍谷大学]</ref>。
 
 
 
1961年6月の池田・ケネディ会談で、三つの合同委員会の設立が決まり<ref name="mainichi196106">[http://showa.mainichi.jp/news/1961/06/post-66db.html 昭和毎日:池田首相訪米 - 毎日jp(毎日新聞)]</ref><ref name="tokyo19610622">[http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19610622.D1J.html 池田勇人首相とケネディ米大統領の共同声明 - 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室]</ref><ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/040/0068/04012200068002a.html 第40回国会 科学技術振興対策特別委員会 第2号]</ref><ref name="culcon23">[http://www.jpf.go.jp/culcon/conference/23_report.html (カルコン) 日米関係の再定義 - 国際交流基金]</ref>、その一つとして日米科学協力事業の提案が出され、日米科学委員会が設置されるなど、その後の二国間科学技術協定のモデルとなった{{Sfn|中山|後藤|吉岡|pp=105-112}}<ref name="mext196501">[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa196501/hpaa196501_2_073.html 昭和40年版科学技術白書 第1部 第3章 - 文部科学省]</ref><ref> [http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1972/s47-2-1-3-3.htm 5. 日米科学委員会,日米医学協力委員会 外務省]、[http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/86068 日米科学協力について(談話室) 物性若手グループ事務局 京都大学学術情報リポジトリ]</ref>。この協力事業では二国間の科学者の交換も行われ、とりわけ日本の若手研究者が海外に出て、より高いエネルギーの実験を進め、第一線の研究に参加することができるようになり、次の段階の重要な基盤をつくることになった{{Sfn|中山|後藤|吉岡|pp=105-112}}。日米がん研究協力事業は、同事業に端を発する<ref>[http://www.jfcr.or.jp/about/activity.html 対外活動 - がん研究会]</ref>。
 
 
 
その他、産業部門の[[技術者]]不足、[[ブルーカラー]]の技能労働者が足らないという答申が出され、池田内閣時代には、[[資源#人的資源|マンパワー・ポリシー・人的資源]]という言葉を盛んに使い、技能労働者の拡充が行われた{{Sfn|エコノミスト|1984b|pp=152-161}}。一時期新設の高校は[[工業高校]]だけという時期もあった{{Sfn|エコノミスト|1984b|pp=152-161}}。1961年には開発あっせん等の業務を行う[[新技術開発事業団]](現[[新技術事業団]])が設立され、同年産業界の共同研究を推進するため「[[鉱工業技術研究組合|鉱工業技術研究組合法]]」を制定した<ref name="mexthakusho"/>。また世界の[[宇宙科学|宇宙科学技術]]の進歩に日本がはなはだしく遅れをとり、将来に悔いを残す恐れがあるとの認識のもとに、[[日本の原子力政策|原子力開発]]や[[宇宙開発]]などの[[巨大科学]]の自主技術開発を目指した[[国家プロジェクト|ナショナルプロジェクト]]に官民あげて取り組むことを申し合わせ体制の整備も進められた<ref name="50thkinen"/><ref name="mexthakusho"/>。[[科学技術庁]]に1963年8月に日本原子力船開発事業団が、1964年7月に宇宙開発の中枢的機関として[[宇宙開発事業団|宇宙開発推進本部]]が設置されるなど、科学技術関係の研究開発の基盤整備が行われた<ref name="50thkinen"/><ref name="mexthakusho"/>{{Sfn|中山|後藤|吉岡|pp=44-71}}。1962年には「国立試験研究機関を刷新充実するための方策について」の答申が出され、東京に立地している国立試験研究機関の集中的な移転が提言され<ref name="mexthakusho"/>、これが[[茨城県]][[筑波研究学園都市]]建設の主要なきっかけとなり1963年、筑波地区に国際的水準の研究学園都市を建設することが閣議了解された<ref name="50thkinen"/><ref name="mexthakusho"/>{{Sfn|中山|後藤|吉岡|pp=72-80}}。その他任期中に「[[原子力損害の賠償に関する法律]]」「原子力損害賠償補償契約に関する法律」などが制定されている。
 
 
 
== 文教政策 ==
 
政権を通じて「人づくり」の重要性を唱え、文教振興に力を注ぐと終始主張を繰り返したこともあり<ref name="hitozukuri" /><ref name="webronza20140827">[http://webronza.asahi.com/culture/articles/2014082700003.html 〈15〉 第4章「舞い降りたバリケード (2)」 - 菊地史彦|WEBRONZA]</ref>、これが「人づくり政策」とも称され、それに同調するように池田政権下で[[文部省]]を中心として多くの人材開発育成が成された<ref name="mexthakusho"/><ref name="nagoya17256"/>{{Sfn|ES|pp=98-136}}。それまで消費と考えられがちであった教育費を、経済成長に資する教育投資として位置付ける「教育投資論」の考え方が示され{{sfn|ES|pp=98-136}}、高度経済成長を背景とした経済優先政策下に於いて計画的、体系的な公教育改革が行われた<ref name="highgrowth"/><ref name="mexthakusho"/><ref name="nagoyaCity336">[https://ncu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=336&item_no=1&page_id=13&block_id=17 障害児教育政策の歴史的展開にみる特別支援学校の意義 古山萌衣 名古屋市立大学学術機関リポジトリ]74-75頁。</ref>。大学に対しては「経済成長に寄与・貢献する人材の養成」という義務を明確に課した<ref name="mexthakusho"/><ref>[http://www.shiga-u.ac.jp/information/organization-management/president/info_president-massage/info_msg20120720/ 役に立つ大学教育とは何か|滋賀大学]</ref>。
 
 
 
「国民所得倍増計画」と連携して発表された産業計画会議の「教育投資の経済効果」に於いて、人間労働を教育の側面から質的に捉えなおすことを求めたため、これを受けて1962年、文部省は『日本の成長と教育』で、経済成長を達成するために教育投資がいかに必要かというレポートを出し、教育投資に大きな予算が組まれた{{Sfn|エコノミスト|1984b|pp=152-161}}{{Sfn|ES|pp=98-136}}。1963年には経済審議会が「経済発展における人的能力開発の課題と対策」を答申し能力主義の徹底を標榜、「ハイタレント・マンパワー」の養成と尊重の必要を唱えるとともに、各自が自らの「能力・適性」に応じた教育を受け、それによって得た職業能力を活用することを求めた{{Sfn|エコノミスト|1984b|pp=152-161}}{{Sfn|中山|後藤|吉岡|pp=81-94}}。この二つの文書が、60年代教育政策の[[基本計画|マスタープラン]]となった<ref name="webronza20140827" />。
 
 
 
「選別と管理」という60年代教育政策を形成した文部省の背後には、[[財界]]が強く関与したともいわれる{{sfn|ES|pp=98-136}}。経済発展のための能力開発あるいは教育訓練というマンパワー政策は、社会的にもインパクトが大きく批判を浴びた{{Sfn|中山|後藤|吉岡|pp=81-94}}。文部省も大きな権限を持つのもここを始まりとしている{{sfn|ES|pp=98-136}}。教育技術者養成機関として1961年から[[高等学校通信教育|広域通信制高校]]が、1962年からは[[高等専門学校]](高専)が全国で設立された<ref name="nagoya17256"/><ref name="kosenkouhou" /><ref name="asahikosen" />。「所得倍増政策」の影響で、高校、大学の進学ブームも起きた{{sfn|エコノミスト|1984b|pp=152-161}}。また同計画に必要な人材を早期に発見し、適切な教育訓練実施の基礎資料とするため、文部省主催で1961年から1964年まで「全国中学校一斉学力テスト」が実施された<ref name="nagoya17256"/><ref name="dlndl999608">[{{NDLDC|999608}} 「全国学力調査」をめぐる議論 - 国立国会図書館]36-37頁。</ref><ref name="akai22903">[http://www.akai-shinbunten.net/Main/chita/backnumber/229/229__03.html 山田正敏(愛知県立大学名誉教授) - あかい新聞店Web Site]</ref>。テスト・選別・競争・管理の教育体制づくり、今日に至る際限のない受験競争はここに始まったとされる<ref name="nagoya17256"/><ref name="nagoyaCity336"/><ref name="dlndl999608"/><ref name="akai22903"/><ref name="ユースワーク">{{Cite book|和書|author=[[田中治彦 (教育学者)|田中治彦]]|title=ユースワーク・青少年教育の歴史|publisher=[[東洋館出版社]]|year=2015|isbn=978-4-491-03164-4|page=144-145}}</ref>。
 
 
 
1961年に[[日本母親大会]]が「高校全入運動」を取り上げ運動が全国に広がると、池田内閣の「所得倍増政策」として高校の増設・定員を計った<ref name="加瀬">{{Cite book|和書|author=[[加瀬和俊]]|title=集団就職の時代 高度成長のにない手たち|publisher=[[青木書店]]|series=AOKI LIBRARY 日本の歴史|year=1997|isbn=4-250-97022-1|page=49}}</ref><ref>[http://www.atomi.ac.jp/enkaku/130/index.html 跡見学園-130年の伝統と創造 四 社会進出をめざす女性に応えて]-174頁。</ref>。1962年以降、「みんなが高校に入れるように」というスローガンに結集する全国の父母・子ども・教師の国民要求が起こったこともあって、1961年から1963年まで相当規模の高校増設費が計上された<ref name="加瀬"/>。1964年以降は文部省が増設を打ち止めを決定したが、この池田政権3年間の予算急増で[[進学率#高校進学率|高校進学率]]も伸びた<ref name="加瀬"/><ref name="jbpress39883">[http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39883 人間を不完全なものと捉える保守の強さ 現実を見据えた歴代総理の実績]</ref>。[[堺屋太一]]は「池田内閣は"効率"を最大の社会正義にした。人間の規格化を考え、教育の規格大量生産化を実現させた。[[教育課程|教育カリキャラム]]を定め、[[学習指導要領]]をつくり、全国の学校で同じことを教えさせた。生徒指導に当たり、生徒の長所を伸ばすより欠点をなくすことに重点を置いた。5段階評価とすると、優秀な子供は全科目に5が並び、普通の子供は3が並ぶ、従って能力の差は丸の大きさだけで測れる。丸の大きさを示すのが[[偏差値]]で、これ1つですべてが評価できる仕組みを徹底させ、これが教育の場に浸透した」と述べている{{Sfn|堺屋|pp=178-179}}。[[後藤基夫]]は「今日続く[[管理社会]]の指導者を作ろうとしたのが池田・佐藤時代だったと思う。それを打破しようとしたのが[[安保闘争#70年安保|70年安保]]と絡んだ[[日本の学生運動|学生運動]]の激しい動きだった。池田・佐藤時代、明らかに彼らが日本の[[エスタブリッシュメント]]をつくるよう政策的にも色づけをしていた。あのとき色んな大学の先生、評論家がみんな政府に協力するといった形が出てきたのも、戦後できた中間層の中から[[エリート]]を作り出す作業の一つだった気がします」などと論じている{{Sfn|後藤|内田|石川|p=204}}。「人づくり国づくり」政策の中で、学校の[[教育課程|カリキャラム]]は過密化し「詰め込み教育」「落ちこぼれ」「見切り発車」「教育ママ」というフレーズがマスメディアに現れた{{sfn|エコノミスト|1984b|pp=152-161}}<ref name="ユースワーク" />。急激な都市化と工業化の中で、子どもたちの生活は大きく変貌した<ref name="ユースワーク" />。農村部では父親の出稼ぎで家庭崩壊の現象が、都市部では女性の社会進出とともに「[[カギっ子]]」問題がクローズアップされた<ref name="ユースワーク" />。「[[核家族]]」「小家族」などが流行語になった1960年代は、日本の家族にとっても激しい変動期だった{{sfn|ES|pp=202-234}}。その他「[[義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律]]」<ref name="ris2995"/>{{sfn|ES|pp=98-136}}<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/040/0512/04002280512011a.html 参議院会議録情報 第040回国会 本会議 第11号]</ref>、「[[特別児童扶養手当等の支給に関する法律]]」などが任期中に閣議決定している<ref name="jimin" />。
 
 
 
== エネルギー政策 ==
 
[[石炭]]から[[石油]]への[[エネルギー革命|エネルギー政策の大転換]]は、当時の大問題の一つであった<ref name="jx030205" />、その決定的な段階となったのが、池田内閣成立時に進行中だった[[三井三池争議]]の解決であった{{Sfn|エコノミスト|1984b|pp=243-252}}{{Sfn|塩口|pp=247-254}}。三井三池争議は1959年12月に[[三井三池炭鉱]]で発生した大規模な[[労働争議]]であるが<ref name="highgrowth"/>、元は池田が通産大臣のとき進めた輸入自由化により1962年から、石油も自由化することが決定したことに端を発す{{Sfn|水木|pp=278-279}}。労働行政に精通した[[石田博英]]を[[厚生労働大臣|労働大臣]]に起用し{{Sfn|エコノミスト|1984a|pp=52-70}}{{Sfn|柴垣|pp=291-298}}<ref name="rnpdf34">[http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn-pdf/34/34-01.PDF 第34集 日本労働年鑑 1962版 大原社会問題研究所]</ref>、池田は石田に1時間おきに電話を掛け「たとえ1人でも怪我人を出してはならぬ」と指示{{sfn|波多野|pp=21-27}}、長期戦となった争議は組合側の敗北に終わった。これを機に、エネルギー生産は当時日本で最強の[[労働組合]]・[[日本炭鉱労働組合|炭労]]から離れることになった<ref name="rnpdf34"/>{{Sfn|若田部|pp=170-179}}{{Sfn|塩口|pp=108,247-254}}。[[日本労働組合総評議会|総評]]の有力[[産業別労働組合#単位産業別労働組合|単産]]であった炭労の衰退は、総評をバックにしていた社会党に打撃を与えた{{Sfn|田中浩|pp=133-138}}。これにより石油も含めて資源全体として自由化の体制に入り、高度成長の大きな与件になった{{Sfn|塩口|pp=108,247-254}}。また日本を他国より工業化を進めるために有利な条件を与えた{{Sfn|塩口|pp=108,247-254}}。[[工業地域|臨海工業地帯]]が日本のように出来上がった国は他にない{{Sfn|塩口|pp=108,247-254}}。[[失業]]した石炭労働者は高度成長の中で他の産業に吸収させることで全体の効率化を図った{{Sfn|若田部|pp=170-179}}。1961年に[[雇用・能力開発機構|雇用促進事業団]]を設立し、炭鉱離職者を雇用した企業への[[補助金]]支給を行ったり、炭鉱離職者たちの東京や大阪での就業支援として[[公団住宅|公団型のアパート]]を建設するなど手厚いケアも行った{{Sfn|若田部|pp=170-179}}<ref>[http://www.rieti.go.jp/jp/events/tenth-anniversary-seminar/10120701.html RIETI -政治家と官僚の役割分担]</ref>。改革による痛みの代償として、三池・[[夕張炭鉱|夕張]]・[[常磐炭田|常磐炭鉱]]にお金を落とすのではなく、離職者の新しい就職先にお金を落とし、資源の移動を促進するような再分配政策を行った{{Sfn|若田部|pp=170-179}}。やがて[[エネルギー資源]]は[[原子力]]へと転換<ref name="SHOWAJIDAI20160130" /><ref name="ironna771"/><ref name="fukushima20150601" />{{Sfn|野口|pp=85-88}}、[[エネルギー革命]]の[[紀元|エポック]]もこの時代だった{{Sfn|中島|p=54}}。
 
 
 
== 社会保障その他 ==
 
{{Seealso|日本の福祉#歴史}}
 
[[中小企業]]近代化のため1963年にその後の中小企業政策の根幹となった「[[中小企業基本法]]」と「[[中小企業支援法]]」を制定し<ref name="jinryu20140523189"/><ref name="doyutalk03">[https://www.doyu.jp/kensyou/talk/article/talk03a.html 中小企業基本法・中小企業憲章と新しい中小企業運動]</ref>、これに基づき独占資本の要請に沿った中小零細企業の近代化は進められた{{sfn|野原・森滝|p=58}}。また[[労働#労働者の定義|労働者]]の[[雇用]]促進のため「[[雇用・能力開発機構|雇用促進事業団]]」の他<ref name="rnpdf34"/><ref name="doshisha1428"/><ref name="uedreport12" /><ref name="kokkai1961130"/><ref name="hiroshima129750">{{Cite news |title = 『郷土広島の歴史II』 7 高度経済成長とひろしま 〜池田勇人〜 |newspaper =  |date =  |author = 広島県ホームページ |authorlink =  |url = https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/129750.pdf |accessdate = 2016-02-01 |publisher = [[広島県庁]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20160131130137/https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/129750.pdf |archivedate = 2016年1月31日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref>、池田政権を通じて、新しい福祉国家の建設のため、減税、社会保障、公共投資を三本柱とすると訴えた<ref name="hitozukuri" />。福祉関連では[[厚生省]]から多くの要望が出されたが<ref name="hakusyo11">[http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/11/ 厚生労働白書 平成23年版 第2章 時代のニーズに対応した社会保障制度の発展を振り返る 厚生労働省]、[http://www.jkri. or.jp/PDF/2012/Rep120kawai.pdf 公助という幻想 - 一般社団法人 JA共済総合研究所] 36-37頁。</ref>、社会保障よりも公共投資に重点を置きたい大蔵省ともめたものの社会保障政策が拡充した<ref name="blogos100322">[http://blogos.com/article/100322/ 衆議院選挙の公示に寄せて:「60年安保+所得倍増計画」の一人二役の限界. 六辻彰二]</ref>。[[1961年]]に国民全てが[[日本の医療|公的医療保険]]に加入する「[[ユニバーサルヘルスケア|国民皆保険]]・[[国民年金|皆年金]]」を実現させ<ref name="jimin" />{{Sfn|若田部|pp=170-179}}<ref name="hakusyo11" />、同年より[[生活保護]]基準が引き上げられた。[[朝日訴訟]]の[[審級#審級表|第一審]]判決(1960年10月19日)が生活保護基準の大幅引き上げをもたらしたという見方もある。他に「[[児童扶養手当法]]」「[[老人福祉法]]」「[[母子及び父子並びに寡婦福祉法|母子福祉法]]」「[[観光立国推進基本法|観光基本法]]」などが任期中に閣議決定している<ref name="jimin" /><ref name="jinryu20140523189"/>。また[[重症心身障害児]]の法的保護は、1964年に障害児の娘を持つ[[水上勉]]が[[島田療育センター]]を見学した後、『[[中央公論]]』誌上に、法的な障害者保護を池田に訴える手記を発表したことが反響を呼び、1967年から導入されることになったもの<ref>[http://www.nichiyukyo.or.jp/contribution/contribution001.php 日本初の重度心身障害児施設を支えた人々 - 日本遊戯関連事業会]</ref>。
 
 
 
== 影響・論評 ==
 
池田内閣が所得倍増計画を発表した当時は、1959年から好況が漸く息切れしかかった時期であり<ref name="投信史">{{Cite book|和書|author=|title=証券投資信託二十年史|publisher=証券投資信託協会|year=1975|isbn=|pages=12–15}}</ref>、「所得倍増計画」が閣議決定され公式なものとなると、各[[地方公共団体#日本の地方公共団体|地方自治体]]や各産業の業界団体から個々の企業に至るまで「倍増計画」に合わせた長期計画作りが一大ブームとなった<ref name="投信史" />{{sfn|柴垣|pp=298-304}}。「所得倍増計画」以前の経済計画は、民間企業は勿論、政府に対しても強い影響力を持ち得なかった{{Sfn|中村|1968|pp=249-252}}。数多くの政治政策、運動が実施されたのは「国民所得倍増計画」以降である{{Sfn|ES|pp=138-167}}。この計画が「所得倍増」という壮大な課題を提示したことで、国民的合意を取り付けることに成功し、国民経済の前途を明るくした<ref name="投信史" />。計画初年度に当たる1961年度の民間設備投資は、目標の3兆6000億円を突破するなど、現実の動きは「所得倍増計画」の想定を上回るテンポで進んだ{{sfn|柴垣|pp=298-304}}。その点で「倍増計画」は、計画というよりも加速器のようなものであった{{Sfn|柴垣|pp=298-304}}{{Sfn|中村|1968|pp=23-24,93-94}}。
 
 
 
「[[国民所得]]」や「[[国内総生産|総生産]]」「[[国民総生産|GNP]]」「[[経済成長|成長率]]」といった、一部の専門家しか知らなかった術語が、あっという間に大衆の言葉になった{{Sfn|大久保|入江|草柳|pp=46-49}}{{Sfn|石川|pp=5-7}}。1961年度[[予算#日本の国家予算(現行制度)|予算]]から、[[概算要求基準|シーリング(概算要求基準)]]が取り入れられた{{Sfn|吉村|p=75}}<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-08-12/2008081204_01_0.html けいざい そもそも/シーリングって何だ - 日本共産党中央委員会]</ref>。
 
 
 
[[証券会社|証券業界]]が沸き立ち<ref name="toshin">{{Cite book|和書|author=|title=投資信託50年史 [概況編]|publisher=投資信託協会|year=2002|isbn=|pages=34−36}}[http://www.investlife.jp/backnumber/155.html インベストライフ Vol.155 I-OWAマンスリー・セミナー 日本証券市場のあゆみ 日本証券市場のあゆみ ~終戦から高度成長期まで(2)~ 岡本和久]</ref>{{Sfn|藤井|pp=160-162}}、これに引きずられて鉄鋼、[[自動車]]を筆頭に軒並み[[設備投資]]に走った<ref name="jcer50" /><ref name="syukainikkei267" />{{Sfn|大久保|入江|草柳|pp=40-41}}<ref>[http://www2.mazda.com/ja/stories/history/familia/story/ 【MAZDA】開発ストーリー|ファミリア物語]</ref>。[[時計]]や[[カメラ]]、[[ラジオ]]、自動車、[[オートバイ|バイク]]など、「[[Made in Japan|メイド・イン・ジャパン]]」の製品が世界に販路を広げた<ref name="abe20130517" /><ref name="SHOWAJIDAI20160130" />{{Sfn|堺屋|pp=170-177}}{{Sfn|昭和時代|pp=1-3}}<ref>[https://www.jetro.go.jp/world/reports/2007/05001424.html 日本産食品の対米輸出拡大策に関する調査 (2007年3月) ]-4頁。</ref>。[[コンピュータ]]を含む[[情報機器]]の技術革新も進み、生産・輸出も拡大した<ref>[http://www.ibs.or.jp/ibs/4 IBS | 代表理事ごあいさつ ~50周年を迎え~IBS 創立50周年事業 - 計量計画研究所] 、[http://www.jbmia.or.jp/about_jbmia/history/2001.html 事務機械産業と産業協会の50年のあゆみ - これまでの歩み 1960年代 JBMIA]</ref>。日本の"輸出大国化"は、池田後に[[日米貿易摩擦]]として[[政治問題]]化した<ref name="gunma1422" />{{Sfn|武田|pp=173-183}}。日米貿易摩擦は、日本が池田路線を選択したことの当然の帰結である{{Sfn|樋渡|p=277}}。高度成長の中で幼稚産業だった産業も発展して国際競争力も強くなった{{Sfn|土志田|pp=85-97}}。
 
 
 
1962年に一旦景気が失速し「幻の所得倍増」「破綻する所得倍増」などと池田批判があがったが、池田は高度経済成長を維持する有力な武器として、1964年開催予定の[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]に着目<ref name="bookbang513056">{{cite web|url = http://www.bookbang.jp/review/article/513056|accessdate = 2016-06-20|title = 幸田真音 刊行記念インタビュー「1964年の東京オリンピック誘致に奔走する男たちを描く大作」|date = 2016|archiveurl = https://web.archive.org/web/20160613130343/http://www.bookbang.jp/review/article/513056|archivedate = 2016年6月13日|deadlinkdate = 2017年10月}}{{cite web|url = http://ddnavi.com/interview/298253/a/|accessdate = 2016-06-20|title = あの頃の日本は熱気にあふれていた─ 1964年東京オリンピックの壮大な準備譚|date = 2016-05-06|archiveurl = https://web.archive.org/web/20160613151657/http://ddnavi.com/interview/298253/a/|archivedate = 2016年6月13日|deadlinkdate = 2017年10月}}</ref>{{Sfn|明治人下|pp=110-116}}<ref>[http://president.jp/articles/-/11382?page=3 PRESIDENT Online 安倍総理を支えた「官邸の300日」-菅義偉官房長官【2】]</ref>。公共投資の拡大には、国民が納得できる旗印が必要だが「オリンピックをてこに成長に弾みを付ける」という戦略を立て、公共事業や社会保障に積極的に予算を付けていく{{Sfn|塩田|2015|pp=84-97}}。それまではオリンピックへの政治の関与はあまりなかった{{Sfn|幸田2|pp=96-97,157-159}}。池田の戦略は当たり、日本経済は勢いを取り戻し「オリンピック景気」が到来した{{Sfn|塩田|2015|pp=84-97}}。「[[新幹線]]、東京の[[高速道路]]は、なんとしてもオリンピックに間に合わせろ」と厳命{{Sfn|塩田|2015|pp=84-97}}、この二つには特に惜しみなく予算を注ぎ込んだ<ref name="bookbang513056"/>{{Sfn|明治人下|pp=110-116}}{{Sfn|塩田|2007|pp=181-182,281-282}}<ref> [http://mainichi.jp/feature/afterwar70/since1945/vol1.html 戦後70年:Since1945 第1回 新幹線と交通 「日本を変えた夢の超特急」]</ref>。[[柔道|柔道競技]]の会場として建設された[[日本武道館]]は、池田と[[河野一郎]][[建設大臣]]が建設場所を選定したといわれる<ref>{{Cite news |title = 64年東京のいまを歩く(4)先人の知恵に育まれた殿堂 |newspaper = [[産経新聞]] |date = 2015-04-28 |author =  |authorlink =  |url = http://www.sankei.com/column/news/150428/clm1504280010-n1.html |accessdate = 2016-04-04 |publisher = [[産経ニュース]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20150509184430/http://www.sankei.com/column/news/150428/clm1504280010-n1.html |archivedate = 2015年5月9日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref>。[[渋谷区|渋谷]]の[[NHK放送センター]]は、[[阿部眞之助]]が「NHKはオリンピックのホスト局なので、主会場の[[国立競技場]]の近くに放送施設を作りたい」と「[[ワシントンハイツ (在日米軍施設)|ワシントンハイツ]]跡地が最適なので、将来的にNHK本部もそこに移すつもりなので何とか払い下げてもらえませんか」と池田に頼んで来て、池田が「オリンピック放送は是非とも成功させていただきたい」と払い下げを決めたものである{{Sfn|小野|pp=120-121,148-149}}。1960年7月から1962年7月まで蔵相を務めた[[水田三喜男]]は「オリンピックの準備は全部池田さんがした」と述べている{{Sfn|自民党広報|pp=182-191}}。
 
 
 
その他、オリンピック開催に合わせて、各種の公共事業が全国で進められた<ref name="hiroshima129750"/>{{Sfn|塩田|2015|pp=84-97}}<ref name="nhkresume039">[http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume039.html 第39回 第5章 現代の世界と日本 講和から高度経済成長の時代へ]</ref>。政府もどんどん金を注ぎ込み、財政主導で日本経済を引っ張っていく{{Sfn|塩田|2015|pp=84-97}}。新幹線、高速道路、港などの[[インフラ]]整備は大きな需要を生み出した<ref name="highgrowth"/><ref name="mexthakusho"/><ref name="SHOWAJIDAI20160130" /><ref name="seikatsu" /><ref>[https://www.tobishima.co.jp/company/company_kiji.html 会社案内/連載記事紹介 - 飛島建設 北陸(6)久保辰郎(PDFファイル 約2.4MB)]-48頁。</ref>。オリンピックは、それまで放置されていた貧弱な道路網を飛躍的に改善する画期的な機会になった{{Sfn|中村|1993|pp=527-538}}{{Sfn|塩田|2007|pp=32-34}}。池田は社会開発の一環として住宅政策、特に持ち家政策を重視し、都市における住宅環境の改善を目的として、持ち家政策の推進、住宅の高層化による都市改造、都市郊外の大規模開発といった新たな政策の方向性を打ち出した{{Sfn|下村|pp=23-36}}。都市における労働力提供のため、都市周辺に[[住宅地]]を開発して、地方から出て来て重化学工業やその周辺に勤める人々を収容できる[[団地|住宅団地]]をつくった{{Sfn|堺屋|pp=178-179}}<ref name="nhkmovie">[http://cgi2.nhk.or.jp/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0012301066_00000 所得倍増計画で高度成長 - NHK語学番組 - NHKオンライン]</ref><ref>[http://www.tamatimes.co.jp/article/6056 【連載】多摩ニュータウン(20)  開発前史 開発のきっかけ(一)]</ref>。「所得倍増計画」に合わせて、建設省が1961年8月に策定した「新住宅建設五ヵ年計画」の中で、1970年までの10年間に1000万戸の住宅を建設して、一世帯一住宅を実現することを目標とし、これを実現させるために、前期の五ヵ年で400万戸を建設すると明記した{{Sfn|下村|pp=23-36}}。池田内閣は同時に、土地の合理化を図るための住宅の高層化促進や、宅地対策の拡充強化のための新住宅市街地の開発推進などを打ち出した{{Sfn|下村|pp=23-36}}。1962年の[[建物の区分所有等に関する法律|建物区分所有法]]制定、1963年の[[建築基準法]]の改正などで住宅の高層化を進め、1960年の宅地総合対策を策定し、これに基づいて1963年に「[[新住宅市街地開発法]]」が制定され、既に始まっていた[[千里ニュータウン]]や、1964年に決定した[[多摩ニュータウン]]、[[泉北ニュータウン]]などの開発に適用され、こうして法整備を背景に、大手の不動産業者が、各地で新規の大規模開発、[[日本のニュータウン|ニュータウン]]、[[マンション]]分譲や都心部の再開発、郊外住宅地の開発に乗り出していった{{Sfn|中山|後藤|吉岡|pp=310-319}}{{Sfn|下村|pp=23-36}}。
 
 
 
池田はオリンピックをバネに「所得倍増政策」の仕上げを図った{{Sfn|塩田|2015|pp=84-97}}。池田内閣の時代に日本で初めての[[原子力発電]]が成功し{{Sfn|塩田|2015|pp=84-97}}、[[東海道新幹線]]が開業、[[海外旅行#日本の海外旅行の歴史|海外旅行が自由化]]された<ref name="SHOWAJIDAI20160130" /><ref name="gunma1422" />{{Sfn|池上|pp=12-17}}{{Sfn|中山|後藤|吉岡|pp=278-292}}。それまでは海外渡航は商用や国費留学などに限られていた{{Sfn|猪木|pp=144-146}}。国民の所得水準はその想定を上回るテンポで向上し、人々の暮らしぶりも大きく変貌した<ref name="seikatsu" />。当時「[[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]」と言われて、一般家庭には高嶺(値)の花だった[[テレビ]]・[[洗濯機|電気洗濯機]]・[[冷蔵庫|電気冷蔵庫]]が、驚異的な勢いで普及したのは池田政権の時代だった<ref name="syukainikkei267" />{{Sfn|歴史街道|pp=58-62}}{{Sfn|幸田2|pp=167-168}}<ref name="nw228212">[http://news.nicovideo.jp/watch/nw228212 “引退”直前の政治評論家・三宅久之氏がニコ生に初出演 「国会の野次はユーモアのかけらもない」 全文書き起こし<前編>]</ref><ref>[http://www.highschooltimes.jp/news/cat13/000234.html 「3C」時代の到来 高度経済成長と暮らしの変容 - キッズコーポレーション]</ref>。[[電話]]の普及は「所得倍増計画」以降といわれる{{Sfn|中山|後藤|吉岡|pp=293-299}}。
 
 
 
最初は本当に「所得倍増計画」が実現するかどうか、国民は疑心暗鬼だったが{{Sfn|塩田|2015|pp=84-97}}、"投資が投資を呼ぶ"(1961年『[[経済白書]]』){{Sfn|中島|p=51}}好景気と消費ブームが起きた<ref name="rnpdf34"/><ref name="syukainikkei267" />{{Sfn|塩田|2015|pp=84-97}}。[[通貨]]量の増大は[[中小企業]]や[[小売|流通部門]]の投資拡大を支え、[[総合スーパー|大手スーパーマーケット]]の[[フランチャイズ|チェーン展開]]が本格化し、また[[スーパーマーケット|中小スーパー]]の設立も増加して「[[流通革命]]」という言葉も生まれた{{Sfn|土志田|pp=85-97}}<ref name="辻岡">{{Cite book|和書|author=辻岡正己|title=戦後日本経済と流通近代化政策|publisher=杉山書店|year=1987|isbn=|pages=58-98}}</ref><ref>[http://www.nikkei.com/article/NIRKDB20050920NKM0132/ 中内イサオ氏死去――「安売り」大衆の夢形に、高度成長追い風、成熟社会変化読めず。]</ref>。[[既製服]]や[[インスタント食品]]の販路も急速に拡大した{{Sfn|佐和|pp=59-64}}。消費の大型化・高級化・多様化が進み、国民の生活も大きく変えていった<ref name="seikatsu" />{{Sfn|家の光協会|pp=199-204}}{{Sfn|幸田2|pp=167-168}}<ref name="wasedayujiyamagu">[http://www.f.waseda.jp/yujiyamagu/database/history/history.htm 観光レジャー行動・観光レジャー施設・観光レジャー地域計画の研究室 わが国のレジャー史 早稲田大学山口研究室]</ref><ref>[http://kawauchi.la.coocan.jp/ApparelMfg50Years.pdf アパレルものづくり変遷50年と現在 未来経済工学リサーチ主宰 河内保二]</ref>。"[[レジャー#日本でのレジャー|レジャー]]"という新しい言葉が日常の暮らしの中で使われはじめたのもこの頃からで<ref name="nhkmovie"/>{{Sfn|家の光協会|pp=205-219}}、"レジャーブーム"という[[和製英語]]も流行した{{Sfn|佐和|pp=59-64}}。[[旅行代理店|旅行]]や[[ゴルフ]]、[[スキー]]、[[ボウリング]]、[[広告代理店|広告]]・[[販売信用|クレジット業界]]などもこの時期伸びた<ref name="wasedayujiyamagu" />{{Sfn|家の光協会|pp=205-219}}{{Sfn|エコノミスト|1984b|2pp=57-66}}<ref>[http://allabout.co.jp/gm/gc/407375/ プレハブ住宅産業「半世紀」考 「ハウスメーカー・工務店」]、[http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou21/kiyou21_14.pdf 20世紀の神話を書き換えるデザイン - 大阪芸術大学]</ref>。日本経済が復興の時代を経て、新たな段階への飛躍の基盤を整えたのが池田政権の時代といえる{{Sfn|家の光協会|pp=205-219}}{{Sfn|エコノミスト|1984b|pp=57-66}}{{Sfn|昭和ニッポン|pp=22-29}}{{Sfn|大久保|入江|草柳|pp=40-41}}。これらは「1億総中流社会」を作り上げたという見方もある<ref>[http://www.kahoku.co.jp/editorial/20151008_01.html 社説|内閣改造/守りの布陣、成果は危うい | 河北新報]</ref>。この時代に日本人が[[ノスタルジア|郷愁]]を持つのは、[[生活様式|ライフスタイル]]の面で、現代日本の原点だからである{{Sfn|野口|pp=76-84}}{{Sfn|歴史街道|pp=22-23}}。
 
 
 
反面、「高度成長のひずみ」として[[インフレーション|物価の上昇]]や[[第一次産業]]の激減、大都市一極集中と地方の過疎化、[[公害|公害問題]]、[[自然破壊]]などの多くの問題を生んだ<ref name="Prome20120404" /><ref name="fukushima20150601" />{{Sfn|家の光協会|pp=253-300}}{{Sfn|中島|pp=4-5}}<ref>[http://www.nokyo.or.jp/modules/107history/index.php?content_id=5 山形県農業協同組合沿革史 第二編 I編〜II編 第Ⅰ編 農業・農協をめぐる社会・経済の流れ]</ref>。これらが表面化したのは池田が亡くなった後で、池田はそれらを知らずに世を去った{{Sfn|塩口|p=6}}。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|3}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Cite book|和書|author=|title=朝日キーワード別冊・政治|publisher=朝日新聞社|year=1997|isbn=4-02-227604-5|ref={{SfnRef|朝日新聞社}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=逢坂巌|title=日本政治とメディア <small>テレビの登場からネット時代まで</small>|publisher=中央公論新社|series=中公新書2283|year=2014|isbn= ISBN 978-4-12-102283-7|ref={{SfnRef|逢坂}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=|title=実録読物・戦後の日本|publisher=[[家の光協会]]|year=1973|isbn=|ref={{SfnRef|家の光協会}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=|title=週刊 池上彰と学ぶ日本の総理 3 池田勇人|publisher=[[小学館]]|url=http://www.shogakukan.co.jp/magazines/2862102112|date=2012-01-31|ref={{SfnRef|池上}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[石川真澄]]|title=戦後政治史|publisher=岩波書店|year=1995|isbn=|4-00-430367-2ref={{SfnRef|石川|1995}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=石川真澄|title=人物戦後政治|publisher=岩波書店|year=1997|isbn=4-00-023314-9|ref={{SfnRef|石川|1997}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[伊藤昌哉]]|title=池田勇人とその時代|publisher=[[朝日新聞社]]|series=[[朝日文庫]]|year=1985|isbn=4022603399|ref={{SfnRef|伊藤}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[猪木武徳]]|title=日本の近代 7 経済成長の果実 <small>1955~1972</small>|publisher=中央公論新社|year=2002|isbn=4-12-490107-0|ref={{SfnRef|猪木}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[上前淳一郎]]|title=山より大きな猪 <small>高度成長に挑んだ男たち</small>|publisher=講談社|year=1986|isbn=978-4-06-202657-4|ref={{SfnRef|上前}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[永六輔]]・[[佐々木毅]]・[[瀬戸内寂聴]]監修、[[古川隆久]]執筆|title=昭和ニッポン <small>――一億二千万人の映像(第11巻)</small> 所得倍増計画とキューバ危機|publisher=講談社|series=講談社DVD book|date=2005-02-15|isbn=4-06-278031-3|ref={{SfnRef|昭和ニッポン}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[エコノミスト (日本の雑誌)|エコノミスト編集部]]|title=証言・高度成長期の日本(上)|publisher=[[毎日新聞社]]|year=1984|isbn=|ref={{SfnRef|エコノミスト|1984a}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=エコノミスト編集部|title=証言・高度成長期の日本(下)|publisher=毎日新聞社|year=1984|isbn=|ref={{SfnRef|エコノミスト|1984b}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[大久保利謙]]・[[入江徳郎]]・[[草柳大蔵]]監修|title=グラフィックカラー昭和史 第13巻 繁栄と混迷|publisher=研秀出版||year=1977|isbn=|ref={{SfnRef|大久保|入江|草柳}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[大来佐武郎]]|title=東奔西走 <small>[[私の履歴書]]</small>|publisher=日本経済新聞社|year=1981|isbn=|ref={{SfnRef|大来}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[鬼塚英昭]]|title=天皇種族・池田勇人 <small>知るのは危険すぎる昭和史</small>|publisher=[[成甲書房]]|url=http://www.seikoshobo.co.jp/|year=2014|isbn= 978-4-88086-322-1|ref={{SfnRef|鬼塚}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=小野善邦|title=本気で巨大メディアを変えようとした男 <small>――異色NHK会長「シマゲジ」・改革なくして生存なし</small>|publisher=[[現代書館]]|year=2009|isbn=978-4-7684-5607-1|ref={{SfnRef|小野}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[北國新聞|北國新聞社編集局]]|title= 戦後政治への証言 <small>――益谷秀次とその周辺――</small>|publisher=[[北國新聞|北国新聞社]]|year=1974|ref={{SfnRef|北國新聞}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[倉山満]]|title=検証 財務省の近現代史 <small>政治との闘い150年を読む</small>|publisher=光文社|series=[[光文社新書]]571|year=2012|isbn=978-4-334-03674-4|ref={{SfnRef|倉山}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=栗原直樹|title=田中角栄 池田勇人 かく戦えり|publisher=青志社|year=2016|isbn=978-486590-029-3|ref={{SfnRef|栗原}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[高坂正堯]]|title=宰相吉田茂|publisher=[[中央公論社]]|year=1968|isbn=|ref={{SfnRef|高坂}}}}[[中央公論新社]]〈[[中公クラシックス]]〉、2006年
 
*{{Cite book|和書|author=幸田真音|title=この日のために下<small>池田勇人・東京五輪の軌跡</small>|publisher=KADOKAWA|year=2016|isbn=978-404-103633-4|ref={{SfnRef|幸田2}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=高度成長期を考える会編|title=<small>高度成長と日本人 part1 個人篇</small> 誕生から死までの物語|publisher=[[日本エディタースクール|日本エディタースクール出版部]]|year=1985|isbn=|ref={{SfnRef|ES}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=小林吉弥|title=花も嵐もー宰相池田勇人の男の本懐|publisher=講談社|year=1989|isbn=4-06-204404-8|ref={{SfnRef|小林}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[斉藤淳]]|title=自民党長期政権の政治経済学 <small>利益誘導政治の自己矛盾</small>|publisher=[[勁草書房]]|year=2010|isbn=978-4-326-30190-4|ref={{SfnRef|斉藤}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[堺屋太一]]|title=日本を創った12人 <small>後編</small>|publisher=PHP研究所|series=[[PHP新書]]|year=1997|isbn=4-569-55389-3|ref={{SfnRef|堺屋}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[櫻井よしこ]]|title=迷走日本の原点|publisher=新潮社 |year=2001|isbn=4101272239|ref={{SfnRef|櫻井|2001}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[佐和隆光]]|title=高度成長 <small>「理念」と政策の同時代史</small>|publisher=日本放送出版協会|series=[[NHKブックス]]|year=1984|isbn=978-4-14-001465-3|ref={{SfnRef|佐和}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[沢木耕太郎]]|title=危機の宰相| series=沢木耕太郎ノンフィクションVII|publisher=文藝春秋|url=http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167209131 |year=2004|isbn=4-16-364910-7|ref={{SfnRef|沢木}}}} のち魁星出版、2006年/[[文春文庫]]、2008年。
 
*{{Cite book|和書|author=塩口喜乙|title=聞書 池田勇人 <small>高度成長政治の形成と挫折</small>|publisher=[[朝日新聞社]]|year=1975|ref={{SfnRef|塩口}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[塩田潮]]|title=東京は燃えたか 黄金の'60年代、そして東京オリンピック|publisher=[[PHP研究所]]|year=1985|isbn=4569214991|ref={{SfnRef|塩田|1985}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=塩田潮|title=昭和をつくった明治人(上)|publisher=文藝春秋|year=1995|isbn=4-16-350190-8|ref={{SfnRef|明治人上}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=塩田潮|title=昭和をつくった明治人(下)|publisher=文藝春秋|year=1995|isbn=4-16-350200-9|ref={{SfnRef|明治人下}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=塩田潮|title=昭和30年代 「奇跡」と呼ばれた時代の開拓者たち|series=[[平凡社新書]]382|publisher=[[平凡社]]|year=2007|isbn=978-4-582-85382-7|ref={{SfnRef|塩田|2007}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[柴垣和夫]]|title=昭和の歴史 第9巻 <small>講和から高度成長へ</small>|publisher=[[小学館]]|year=1983|isbn=4093760098|ref={{SfnRef|柴垣}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=自由民主党広報委員会出版局|title=秘録・戦後政治の実像|publisher=永田書房|year=1976|ref={{SfnRef|自民党広報}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=下村太一|title=田中角栄と自民党政治<small>列島改造への道</small> |publisher=有志舎|year=2011|isbn=978-4-903426-47-1|ref={{SfnRef|下村}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[チャルマーズ・ジョンソン]]・[[矢野俊比古]]監訳|title=通産省と日本の奇跡|publisher=[[TBSブリタニカ]]|year=1982
 
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*{{Cite book|和書|author=鈴木猛夫|title=「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活 |publisher=[[藤原書店]]|year=2003|isbn=4-89434-323-1|ref={{SfnRef|鈴木猛夫}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[武田晴人]]|title=「国民所得倍増計画」を読み解く|publisher=[[日本経済評論社]]|year=2014|isbn=978-4-8188-2340-2|ref={{SfnRef|武田}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[田中浩 (政治学者)|田中浩]]|title =<small>田中浩集 第八巻</small> 現代日本政治|publisher=[[未來社]]|year=2015|isbn= 978-4-624-90048-9|ref={{SfnRef|田中浩}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[田中六助]]|title=保守本流の直言|publisher=[[中央公論社]]||year=1985|isbn=4-12-001365-0|ref={{SfnRef|田中六助}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[田原総一朗]]|title=「戦後五十年の生き証人」が語る|publisher=中央公論社|year=1996|isbn=978-4120025570|ref={{SfnRef|田原|1996}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=中央大学経済研究所|title=戦後の日本経済――高度成長とその評価|publisher=[[中央大学|中央大学出版部]]|year=1975|ref={{SfnRef|中大|1975}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=土志田征一|title=経済白書で読む戦後日本経済の歩み|publisher=[[有斐閣]]|series=有斐閣選書|year=2001|isbn=9784641280649|ref={{SfnRef|土志田}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[中川順]]|title=秘史ー<small>日本経済を動かした実力者たち</small>|publisher=講談社|year=1995|isbn=4-06-207864-3|ref={{SfnRef|中川}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=中島琢磨|title=高度成長と沖縄返還 <small>1960‐1972</small>|publisher=[[吉川弘文館]]|series=現代日本政治史3|year=2012|isbn=978-4-642-06437-8|ref={{SfnRef|中島}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[長洲一二]]|title=転機の日本経済 <small>―高度成長の終幕とこれからの課題</small>|publisher=番町書房|year=1963|isbn=|ref={{SfnRef|長洲}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=中村隆英|title=昭和史II|publisher=東洋経済新報社|year=1993|ref= {{SfnRef|中村|1993}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[中山茂]]編集代表・後藤邦夫・[[吉岡斉]]編|title=「通史」日本の科学技術 第3巻 <small>「高度経済成長期」1960-1969</small>|publisher=学陽書房|year=1995|isbn=4313490035|ref={{SfnRef|中山|後藤|吉岡}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=日本経済新聞社|title=日本経済を変えた戦後67の転機|publisher=日本経済新聞出版社|series=日経プレミアシリーズ234|year=2014|isbn=978-4-532-26234-1|ref={{SfnRef|日経|2014}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[日本国際政治学会]]|title=戦後日本外交とナショナリズム|publisher=[[有斐閣]]|year=2012|isbn=978-4-641-29954-2|ref={{SfnRef|戦後日本外交}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[野口悠紀雄]]|title=戦後経済史 <small>私たちはどこで間違えたのか</small>|publisher=[[東洋経済新報社]]|year=2015|isbn=9784492371183|ref={{SfnRef|野口}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[橋本五郎]]編・[[読売新聞|読売新聞取材班]]|title=戦後70年 にっぽんの記憶|publisher=中央公論新社|year=2015|isbn= 978-4-12-004768-8|ref={{SfnRef|橋本}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[波多野澄雄]]|title=池田・佐藤政権期の日本外交|publisher=ミネルヴァ書房|series= MINERVA日本史ライブラリ|year=2004|isbn=9784623039210|ref={{SfnRef|波多野}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[林房雄]]|title=随筆 池田勇人 <small>敗戦と復興の現代史</small>|publisher=サンケイ新聞社出版局|year=1968|ref={{SfnRef|林}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=樋渡由美|title=戦後政治と日米関係|publisher=東京大学出版会|year=1990|isbn=978-4-13-036055-5|ref={{SfnRef|樋渡}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[藤山愛一郎]]|title=政治わが道 <small>藤山愛一郎回想録</small>|publisher=朝日新聞社|year=1976|ref={{SfnRef|藤山}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[保阪正康]]|title=高度成長――昭和が燃えたもう一つの戦争|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=[[朝日新書]]412|year=2013|isbn=978-4-02-273460-0|ref={{SfnRef|保阪}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=細川隆元|title=男でござる <small>暴れん坊一代記 風の巻</small>|publisher=山手書房|year=1981|isbn=|ref={{SfnRef|細川風の巻}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=堀越作治|title=戦後政治裏面史<small>「佐藤栄作日記」が語るもの</small>|publisher=岩波書店|year=1998|isbn=978-4000236089|ref={{SfnRef|堀越}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[牧原出]]|title=内閣政治と「大蔵省支配」 <small>―政治主導の条件</small>|publisher=中央公論新社|series=中公叢書|year=2003|isbn=4-12-003418-6|ref={{SfnRef|牧原}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[御厨貴]]・[[中村隆英]]|title=聞き書 宮澤喜一回顧録|publisher=岩波書店|year=2005|isbn=4-00-002209-1|ref={{SfnRef|宮澤回顧録}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[水木楊]]|title=評伝 出光佐三 反骨の言霊<small>日本人としての誇りを貫いた男の生涯</small>|publisher=[[PHP研究所]]|series=PHPビジネス新書256|year=2013|isbn=978-4-569-80985-4|ref={{SfnRef|水木}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[宮崎吉政]]|title=政界二十五年|publisher=[[読売新聞社]]|year=1970|isbn=|ref={{SfnRef|宮崎}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=宮前めぐる他|title=[[#その時歴史が動いた (漫画)|その時歴史が動いた]] [[その時歴史が動いた (漫画)#(昭和史)復興編|昭和史復興編]] <small>「下村治 所得倍増の夢を追え—高度経済成長の軌跡」、「安保闘争『憲法九条平和への闘争—1950年代改憲・護憲論」</small>|publisher=[[集英社]]|year=2008|isbn=978-4-8342-7419-6|ref={{SfnRef|その時歴史が動いた}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=吉村克己|title=池田政権・一五七五日|publisher=行政問題研究所出版局|year=1985|isbn=4905786436|ref={{SfnRef|吉村}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=読売新聞昭和時代プロジェクト|title=昭和時代 三十年代|publisher=中央公論新社|year=2012|isbn=978-4-12-004392-5|ref={{SfnRef|昭和時代}}}}
 
*{{Cite journal|和書|author=|date=2007-12-01|title=池田勇人と昭和30年代 <small>奇跡の「高度成長」を生んだもの</small>|journal=歴史街道|issue=2007年12月号|publisher=[[PHP研究所]]|url=http://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/?unique_issue_id=84236|ref={{SfnRef|歴史街道}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[若田部昌澄]]|title=ネオアベノミクスの論点 <small>レジームチェンジの貫徹で日本経済は復活する</small>|publisher=PHP研究所|series=PHP新書|year=2015|isbn= 978-4-569-82422-2|ref={{SfnRef|若田部}}}}
 
  
 
== 関連項目 ==
 
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* [[下村治]]
 
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== 外部リンク ==
 
* [https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib01354.php 国民所得倍増計画について 昭和35年12月27日 閣議決定]  内閣制度百年史(下) 内閣官房内閣制度百年史編纂委員会 pp.364-366(1985年12月) [[国立国会図書館]]リサーチナビによる公開
 
  
 
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[[Category:日本の経済政策]]
 
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2018/10/30/ (火) 08:28時点における最新版

所得倍増計画(しょとくばいぞうけいかく)

経済審議会の答申を基に、1960年(昭和35)12月池田勇人(はやと)内閣により閣議決定された経済政策の基本方針で、高度成長政策の基礎となった計画。1970年までの10年間に国民総生産を倍増させることを目標として年平均成長率を7.2%に設定し、積極的な財政金融政策による社会資本の拡充と大企業中心の投資配分計画、労働力流動化の促進、人的能力開発のための技術教育の推進に重点が置かれた。結果的には計画を上回る高成長が実現されたが、公害、物価上昇、格差の増大、社会保障の立ち後れなどのひずみを生んだ。また政治的には、日米安全保障条約改訂後の政治的緊張から国民の関心を転換させる役割を果たした。

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