奥平氏

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奥平氏(おくだいらし)は、戦国時代三河北東部の作手地方(現・新城市)を中心に活動した日本の氏族の一つ。



出自

今川氏織田氏松平氏武田氏を経て、徳川氏(松平より改姓)に臣従した。出自には各説がある。

  1. 村上源氏の後裔と自称した赤松氏の一族と称した(樋口清之丹羽基二『姓氏』)。
  2. 丈部姓有道氏流児玉氏一門片山氏の支流という(太田亮『姓氏家系大辞典』)。

家伝では上州が発祥地と言われている。その後、上州の所領を放棄して、三州に新天地を求め転住したと伝わっている(『中津藩史』、『寛政重修諸家譜』)。

その三州転住後では、奥平貞昌の大叔父、叔父、弟、甥の4世代で支族を分出するが、それでも命脈を細々と保っているという境遇に変わりは無かった。そこで宗家は、彼らを独立させるよりも奥平氏の重臣として厚遇することで、弱体化を防止した。その4世代の内から、有力7家が重責を担う事となった。それと平行して、奥平氏以上に弱小な在地の領主なども重臣として併呑。小領主は5氏が選ばれた。この12家が、七族五老と呼ばれる奥平氏の家老衆となるのである。

動向

奥平家

三河山間部の小豪族に過ぎなかった奥平氏が陽の目を浴びるようになったのは奥平定能(貞能)の代である元亀年間(1570年 - 1573年)からである。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで家運を開いた定能の長男奥平信昌(貞昌)は、徳川家康の長女・亀姫の婿に認められる。亀姫との間には4男1女が生まれるが、早世した1子を除き、分家を「徳川家御連枝」として興すことを許されるなど、信昌の子たちはいずれも家康の外孫として厚遇された。そのため信昌は家康の女婿として上野国甘楽郡小幡(宮崎)3万石を領し、関ヶ原の戦い以降は美濃国加納10万石を領した。江戸時代には大名となり、下野国宇都宮10万石を領した。後に、豊前国中津10万石に移領し、廃藩時まで存続した。

奥平松平家

ファイル:Japanese Crest Kuwana Uchiwa.svg
奥平松平家の家紋(桑名団扇)

信昌の末男松平忠明は、家康の外孫として、また家康の養子として松平姓を許されて奥平松平家を興し、故郷の三河作手藩の初代藩主となった。しかし慶長15年(1610年)に忠明が伊勢亀山藩に移封されたため作手藩は廃藩となり、その所領は天領となる。以降も忠明には転封が続き、摂津大坂藩大和郡山藩播磨姫路藩主(18万石)となった。子である松平忠弘にも転封が続き、出羽山形藩、下野宇都宮藩、陸奥白河藩、そして10万石に減封のうえ再び出羽山形藩に移されたが隠居した。以後は備後福山藩伊勢桑名藩をへて武蔵忍藩主として廃藩を迎えた。

七族五老

七族
五老

系譜

外部リンク