「コソボ紛争」の版間の差分

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{{Battlebox
 
| battle_name=コソボ紛争
 
| partof=[[ユーゴスラビア紛争]]
 
| campaign=コソボ紛争
 
| colour_scheme=background:#ffccaa
 
| image=[[ファイル:Kosovo War header.jpg|280px]]
 
| caption=<span style="font-size:90%;">(上)コソボ空爆による被害。<br />(下)爆撃のため飛び立つNATO軍(米空軍)の[[F-15E (航空機)|F-15E]]</span>。
 
| conflict=コソボ紛争
 
| date=[[1998年]][[2月]] - [[1999年]][[6月11日]]
 
| place=[[コソボ]]
 
| result=[[北大西洋条約機構|NATO]]の勝利。コソボから[[ユーゴスラビア]]軍は撤退、[[国際連合コソボ暫定行政ミッション|UNMIK]]開始、[[KFOR]]駐留、[[コソボ解放軍]]は解体。
 
| combatant1=[[画像:Flag of Albania.svg|25x20px]] '''[[コソボ解放軍]]''' <br />{{Flag|アルバニア}}<br />[[ファイル:Flag of Jihad.svg|border|25x22px]] [[ムジャーヒディーン|ムジャーヒディーン義勇軍]]<br />{{OTAN}}'''<br />戦闘参加国:<br /> {{Flag|アメリカ合衆国}}<br /> {{Flag|イギリス}}<br />{{Flag|イタリア}} <br /> {{Flag|オランダ}}<br />{{Flag|カナダ}}<br />{{Flag|ギリシャ}}<br />{{Flag|スペイン}}<br />{{Flag|スロバキア}}<br />{{flag|チェコ}} <br />{{Flag|デンマーク}}<br />{{Flag|ドイツ}} <br /> {{Flag|トルコ}}<br />{{Flag|ノルウェー}}<br />{{Flag|ハンガリー}}<br />{{Flag|ベルギー}}<br /> {{Flag|フランス}}<br />{{Flag|ポーランド}}<br />{{Flag|ポルトガル}} <br />{{Flag|ルクセンブルク}}
 
| combatant2=''' [[画像:Flag of FR Yugoslavia.svg|25x20px|ユーゴスラビア連邦共和国の旗]] [[ユーゴスラビア連邦共和国]]'''<br /> [[画像:Flag of FR Yugoslavia.svg|25x20px|ユーゴスラビア連邦共和国の旗]] [[ユーゴスラビア連邦共和国|ユーゴスラビア]]軍<br />{{flagicon|Serbia1990}}  セルビア警察<br />{{flagicon|Serbia1990}}  セルビア人[[準軍事組織]](外国人兵士含む)
 
| commander1={{flagicon|NATO}}{{仮リンク|ウェズリー・クラーク|en|Wesley Clark}}([[欧州連合軍最高司令部|SACEUR]])<br />{{flagicon|NATO}}[[ハビエル・ソラナ]](NATO事務総長)<br />[[画像:Flag of Albania.svg|25x20px]] {{仮リンク|アデム・ヤシャリ|en|Adem Jashari}}(1996-1998、コソボ解放軍総司令官)<br />[[画像:Flag of Albania.svg|25x20px]] {{仮リンク|スレイマン・セリミ|en|Sylejman Selimi}}(コソボ解放軍参謀長、1999年5月まで)<br />[[画像:Flag of Albania.svg|25x20px]] {{仮リンク|アギム・チェク|en|Agim Çeku}}(コソボ解放軍参謀長、1999年5月から)
 
| commander2={{flagicon|FRJ}} [[スロボダン・ミロシェヴィッチ]](ユーゴスラビア軍最高司令官)<br  />{{flagicon|FRJ}} {{仮リンク|ドラゴリュブ・オイダニッチ|en|Dragoljub Ojdanić}}(参謀総長)<br />{{flagicon|FRJ}} [[スヴェトザル・マリャノヴィッチ]](参謀副長)<br /> {{flagicon|FRJ}} {{仮リンク|ネボイシャ・パヴコヴィッチ|en|Nebojša Pavković}} (ユーゴスラビア第3軍司令官)
 
|strength1={{flagicon|NATO}}航空機: 1,031+<ref name="facts">[http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/kosovo/etc/facts.html War in Europe: Facts & figures]</ref><br />[[画像:Flag of Albania.svg|25x20px]] 兵士: <small>
 
* 12,000-20,000 人(アルバニア人側の情報)
 
* 6,000-8,000 人(セルビア人側の情報)</small>
 
|strength2={{flagicon|Serbia1990}} 兵士: 85,000-114,000 人 <br />{{flagicon|Serbia1990}} 警察官: 20,000 人 <br />{{flagicon|Serbia1990}} 義勇軍 15,000 人
 
<!------------ We do not add military equipment to the Military Conflict Infobox; the casualty figures official NATO's and JFR's respectively-------------->
 
| casualties1 = コソボ解放軍: 死者: 2,788 人<ref>{{cite web|url=http://www.guardian.co.uk/Archive/Article/0,4273,4052755,00.html|title=Serb killings 'exaggerated' by west|publisher=The Guardian|author=Jonathan Steele|accessdate=2009-11}}</ref> - 6,000 人<ref name="lancet-pdf">{{cite web |url=http://pdf.thelancet.com/pdfdownload?uid=llan.355.9222.original_research.1004.1&x=x.pdf |title=Casualties in Kosovo |date=2000-06-24 |format=PDF |publisher=[[The Lancet]] |accessdate=2004-10-29 |deadlinkdate=2008-12}}</ref>
 
----
 
NATO: 死者: 2 人(非戦闘中)<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/335709.stm|title=Two die in Apache crash|accessdate=2009-11}}</ref>
 
| casualties2 = '''コソボ解放軍による死者数:'''<br /> 不明<br />'''NATOによる死者数:'''<br />{{flagicon|FR Yugoslavia}} 兵士: 462 人<ref name="syzlgikbtgfzp1999">{{citation | url = http://books.google.com/books?id=-OhPTJn8ZWoC&pg=PA323&lpg=PA323&dq=civilian+deaths+in+1999+bombing&source=bl&ots=74u940OrT8&sig=xfrVt8NTQ4kntr0D_xFshCaPwhQ&ei=yOO-SYzLGIKBtgfzp_D2Cw&sa=X&oi=book_result&resnum=9&ct=result | title = The Kosovo conflict and international law | first =  Heike | last = Krieger | accessdate = 2009-04-19 | page = 323 | publisher = Cambrige Univerity Press | isbn = 978-0521800716 | year = 2001}}</ref><br>{{flagicon|FR Yugoslavia}} 警官: 114 人<ref>{{cite news|url = http://www.cnn.com/WORLD/europe/9906/10/kosovo.milosevic/ |title=Milosevic proclaims victory with end to Kosovo conflict | date = June 10, 1999 |publisher=CNN |accessdate=2009-03-24}}</ref>
 
|casualties3= 7,449 人から 13,627 人のアルバニア人がセルビア側によって殺害される<ref name="hrw">[http://www.hrw.org/reports/2001/kosovo/undword-03.htm UNDER ORDERS: War Crimes in Kosovo - March-June 1999: An Overview] Human Rights Watch 2001</ref><br />3,000人移譲のセルビア人がコソボ解放軍によって殺害される <ref>[http://www.srbija.sr.gov.yu/kosovo-metohija/index.php?id=46852 Proves that there were more than 3,000 murdered Serbs in Serbian province of Kosovo-Metohija by KLA forces]</ref><ref>[http://www.arhiva.serbia.sr.gov.yu/news/2002-07/08/325076.html Victims of KLA terrorists in Serbian province of Kosovo-Metohia]</ref> <br /> およそ 400 人のアルバニア人がコソボ解放軍によって殺害される<ref>[http://www.arhiva.serbia.sr.gov.yu/news/2002-07/08/325076.html List of Albanian civilians killed by KLA forces]</ref> <br /> NATOの空爆: ヒューマン・ライツ・ウォッチは、ユーゴスラビア全土で 500 人の市民の死亡を確認するに留まる <ref name="hrwcrisis" /><ref>[http://www.hrw.org/reports/2001/kosovo/undword.htm UNDER ORDERS: War Crimes in Kosovo - executive summary] Human Rights Watch 2001</ref> 他のソースによる市民の死者数は 1,200人から 5,700人 <ref name="hrwcrisis">[http://www.hrw.org/reports/2000/nato/Natbm200-01.htm THE CRISIS IN KOSOVO] Human Rights Watch 2000</ref>
 
}}
 
{|class="infobox bordered" cellpadding="4" style="width:280px; font-size:95%; border-spacing: 4px;"
 
|colspan="2" style="text-align:center"|{{Campaignbox ユーゴスラビア紛争}}
 
|}
 
{{コソボの歴史}}
 
  
'''コソボ紛争'''(コソボふんそう、[[アルバニア語]]:{{lang|sq|Lufta e Kosovës}}、[[セルビア語]]:{{lang|sr|Рат на Косову и Метохији}}は、[[バルカン半島]]南部の[[コソボ]]で発生した2つの武力衝突を示す。
+
'''コソボ紛争'''(コソボふんそう、[[アルバニア語]]:{{lang|sq|Lufta e Kosovës}}、[[セルビア語]]:{{lang|sr|Рат на Косову и Метохији}}
# '''1998年 - 1999年''':[[1998年]][[2月]]から[[1999年]][[3月]]にかけて行われた[[ユーゴスラビア]]軍および[[セルビア]]人勢力と、コソボの独立を求める[[アルバニア人]]の武装組織[[コソボ解放軍]]との戦闘
 
# '''1999年''':1999年[[3月24日]]から[[6月10日]]にかけて行われた[[北大西洋条約機構|NATO]]による[[アライド・フォース作戦]]<ref>{{citeweb|url=http://www.nato.int/kosovo/all-frce.htm|title=Operation Allied Force|publisher=[[NATO]]|accessdate=2008-12-04}}</ref>、この間、NATOはユーゴスラビア軍や民間の標的に対して攻撃を加え、アルバニア人勢力はユーゴスラビア軍との戦闘を続け、コソボにおいて大規模な人口の流動が起こった。
 
  
なお、セルビア語とアルバニア語で地名が異なる場合、この記事では「'''アルバニア語呼称 / セルビア語呼称'''」のように表記する。
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[[セルビア]]のコソボ自治州([[コソボ]])における[[セルビア人]]と[[アルバニア人]]の民族紛争。人口約 200万のうち約 90%をアルバニア人が占めたコソボ自治州では,ユーゴスラビア時代の 1974年に大幅な自治が認められたものの,国内の最貧地域であり,アルバニア人は経済的後進性への不満をいだいていた。歴史的な反セルビア感情も加わり,1981年にはアルバニア人の暴動が発生,セルビア人に多数の死傷者が出た。この事件以後,アルバニア人とセルビア人の対立が深まった。紛争の直接的な契機は 1989年にセルビア共和国憲法が修正されてコソボの自治権が剥奪されたことだった。自治権の回復を求めるアルバニア人は 1991年にコソボ共和国の樹立を宣言,1992年にはコソボ民主同盟 KDLのイブラヒム・ルゴバ議長を大統領に選出した。ルゴバはセルビアの[[スロボダン・ミロシェビッチ]]大統領との交渉で自治権を回復しようとしたが果たせなかった。こうした情勢に不満をもつ青年層は武力による独立を掲げるコソボ解放軍 KLAを支持。KLAの活動が激化したため,1998年2~3月セルビア治安部隊は掃討作戦を展開。以後両者の戦闘は長期化した。国際社会はコソボの自治の回復を支持し,仲介をはかったが,行きづまった。1999年3月[[北大西洋条約機構]] NATO軍がアルバニア人の人権擁護を理由にユーゴスラビアに空爆を行なったが,この空爆は国連安全保障理事会の決議を経ておらず,国際世論の批判を受けた。空爆後はユーゴスラビア軍のコソボ制圧が激化し,80万をこえるアルバニア人難民が近隣諸国に流出した。6月ミロシェビッチ政権はアメリカ合衆国,ロシアおよびヨーロッパ連合
 +
EUの提示した和平案を受け入れた。これにより空爆は中止され,国連コソボ暫定統治機構 UNMIKの創設,コソボ平和維持部隊 KFORの派遣が行なわれた。情勢の安定に伴い多くのアルバニア系住民が帰還したが,今度はアルバニア人によるセルビア人やロマへの暴力が頻発し,20万人以上のセルビア人難民が発生した。コソボは2008年独立を宣言した。
  
== 前史 ==
+
*[[ユーゴスラビア史]]
=== 1945年 - 1986年 : 共産主義時代のユーゴスラビアにおけるコソボ ===
 
{{Main|コソボ・メトヒヤ自治州 (1946年-1974年)|コソボ社会主義自治州}}
 
セルビア人、アルバニア人の間には[[20世紀]]を通して常に民族間の対立があり、大規模な暴力行為へと頻繁に結びついた。特に[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]の[[戦間期]]には頻発した。第二次世界大戦後、[[社会主義]]体制をとる[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]の政府はユーゴスラビア全域において民族主義者の活動を体系的に抑止し、ユーゴスラビアのいかなる構成国も、ヘゲモニー(覇権)となってユーゴスラビアを牛耳ることのないように努めた。特に、セルビアは、ユーゴスラビアの中で最大で、最も多くの人口を抱えていた。そのため、セルビアの影響力を制限するために、セルビア北部の[[ヴォイヴォディナ]]と南部の[[コソボ|コソボ・メトヒヤ]]はそれぞれ[[ヴォイヴォディナ自治州 (1945年-1963年)|ヴォイヴォディナ自治州]]、[[コソボ・メトヒヤ自治州 (1946年-1974年)|コソボ・メトヒヤ自治州]]としてセルビア本体から切り離された。コソボの国境はユーゴスラビアにおけるアルバニア人の居住地域の境と完全には一致していなかった。多数のアルバニア人住民はコソボ域外の[[マケドニア社会主義共和国|マケドニア]]、[[モンテネグロ社会主義共和国|モンテネグロ]]、[[セルビア社会主義共和国|セルビア]]本体に残された一方、コソボの北部には多くのセルビア人が住む地域が含まれた。いずれにしても、新設されたコソボの領域全体では、[[1921年]]の段階でアルバニア人が多数派であった。
 
  
コソボの公的な自治は[[1945年]]にユーゴスラビア憲法によって定められ、大きな自治権は与えられなかった。チトーの秘密警察([[:en:UDBA|UDBA]])は民族主義者を厳しく弾圧した。[[1956年]]には、多くのアルバニア人がコソボにおいて国家転覆の企てとスパイの容疑で訴追された。分離主義による脅威は実際にはそれほど大きなものではなく、少数の地下活動組織が[[アルバニア]]への統合を求めて活動しているのみであり、政治的には大きな影響力を持ち得なかった。しかしながら彼らの活動のもたらす長期的な影響は小さくなく、アデム・デマツィ([[:en:Adem Demaci|Adem Demaci]])によって組織されたアルバニア人統一革命運動は、後の[[コソボ解放軍]]({{lang|sq|Ushtria Çlirimtare e Kosovës; UÇK}})の政治的中核となっていった。デマツィ自身は[[1964年]]に他の賛同者らとともに投獄されている。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
ユーゴスラビアでは[[1969年]]、政府による大規模な経済再建プログラムによって豊かな北西部と貧しい南部の地域の間で貧富の差が拡大し、政治的・経済的な危機を迎えていた。しかしながら、ユーゴスラビアおよびセルビアにおける真のアルバニア人の代表の設置を求め、[[アルバニア語]]の地位向上を求める学生らの要求に、チトーは応じることになった。[[1970年]]には、[[ベオグラード大学]]の下部組織であったプリシュティナ大学が独立の教育機関として設置された。コソボにおける教育のアルバニア語化は、ユーゴスラビア国内でのアルバニア語教材の不足により困難となったが、アルバニア人自身が教材を用意することで合意された。
 
 
 
[[1974年]]、コソボの政治的地位はユーゴスラビアの憲法改正に伴って大きく向上し、コソボの政治的権利は拡大された。[[ヴォイヴォディナ社会主義自治州|ヴォイヴォディナ]]とともに、コソボは他のユーゴスラビア構成国と多くの面において同等の地位を持つ[[コソボ社会主義自治州]]となった。政治権力は依然として[[ユーゴスラビア共産主義者同盟|共産主義者同盟]]が独占していたものの、独自のコソボ共産主義者同盟がその中核を担うようになった。
 
 
 
[[1980年]][[5月4日]]のチトーの死によって、長期間にわたる政治的不安定が始まり、経済危機と民族主義者の台頭によって状況は次第に悪化していった。コソボで最初に発生した大規模な衝突は[[1981年]]3月、アルバニア人の学生が、売店の前の長い行列に対して暴徒化した。これは小規模な衝突であったが、やがてこれが引き金となってコソボ全土に急速に拡大し、各地で大規模なデモが発生するなど、国家的反乱の様相を呈した。抗議者らはコソボをユーゴスラビアの7番目の構成共和国とすることを求めた。しかしながら、この要求はセルビアおよびマケドニアには受け入れられるものではなかった。多くのセルビア人たち、そしてアルバニア人民族主義者ら自身も、この要求は[[大アルバニア]]主義への始まりとみていた。大アルバニア主義はコソボ全土とモンテネグロ、マケドニアの一部をアルバニアへと組み込むことを目的としている。ユーゴスラビアの共産主義政府は非常事態を宣言し、軍や警察を大量投入して反乱を鎮圧した。しかし、このことによってセルビアの共産主義者らが要求していたコソボの自治権廃止には至らなかった。ユーゴスラビアの新聞は、11人が死亡し、4,200人が投獄されたと発表した。別のものはこの騒動での死者は1000人を超えるものと主張している。
 
 
 
コソボ共産主義者同盟の間にも粛清が行われ、その党首をはじめ重要人物らが追放された。あらゆる種類の民族主義に対して強硬路線がとられ、セルビア人、アルバニア人双方の民族主義者らに対する取締りが行われた。コソボには大量の秘密警察が配置され、当局に認められていないセルビア人、アルバニア人双方の民族主義の活動を厳しく弾圧した。マーク・トンプソン([[:en:Mark Thompson|Mark Thompson]])の報告によると、コソボの住民580,000人が逮捕され、尋問され、拘留され、あるいは懲戒された。数千人が職を失い、あるいは教育機関から追放された。
 
 
 
この間、アルバニア人とセルビア人の共産主義者の間の緊張は高まり続けていた。[[1969年]]、[[セルビア正教会]]はその[[主教]]に対してコソボでセルビア人に対して起こっている問題に関する資料収集を命じ、ベオグラードの政府に対してセルビア人の立場を守るよう圧力をかけることを模索した。[[1982年]]2月、セルビア本国からセルビア人の[[神品 (正教会の聖職)|神品]](聖職者)らの集団が「なぜセルビア正教会は沈黙しているのか、なぜ進行中のコソボの聖堂に対する破壊行為、放火、冒涜行為に対して抗議活動をしないのか」と求めた。このような懸念はベオグラードの政府の関心をひきつけた。コソボにおいてセルビア人やモンテネグロ人が迫害を受けているとする多くの話が日々紹介された。恐怖と不安定化を招く重大な事実として、コソボの[[アルバニア・マフィア|アルバニア人マフィア]]による麻薬取引の話があった。
 
 
 
これらに加えて、コソボの経済状態の悪化が不安定化に拍車をかける要因となった。コソボの経済状態の悪化によってコソボのセルビア人は同地で職にありつく機会は失われていった。アルバニア人、セルビア人ともに、新しく労働者を採用する際には同じ民族の者を優遇したが、求職の数そのものが人口に対して極端に少ない状態となった。終局には、アルバニア人を自称している者の中に多くの[[イスラム教]]の信仰を持つようになった[[ロマ]]が含まれていると信じられるに至った。コソボはユーゴスラビアの中で最も貧しく、[[1979年]]の時点で[[国内総生産|一人当たりGDP]]は795[[アメリカ・ドル|ドル]]であった。これに対してユーゴスラビア全土での平均は2635[[アメリカ・ドル|ドル]]、最も豊かなスロベニアでは5315[[アメリカ・ドル|ドル]]であった。
 
 
 
=== 1986年 - 1990年 : スロボダン・ミロシェヴィッチ登場とコソボ ===
 
コソボでは、アルバニア人の民族主義が拡大し、分離主義によってアルバニア人とセルビア人の民族間の緊張は高まっていった。有害な雰囲気が拡大し、危険な噂が蔓延し、小規模な衝突の数は増大していった。<ref>[http://www.serbianorthodoxchurch.com/pages/s/pavle/biography-en.html Biography of His Holiness Patriarch Pavle]</ref> セルビア正教会の[[修道院]]・[[聖堂]]等へのアルバニア人による破壊行為、聖職者や[[修道士]]への暴行、[[修道女]]の[[強姦]]なども増え、のちセルビア[[総主教]]となった[[パヴレ (セルビア総主教)|主教パヴレ]]も、[[1989年]]にアルバニア人の若者グループに襲われ、全治3ヶ月の重傷を負った。
 
 
 
{{See also|パヴレ (セルビア総主教)}}
 
 
 
[[セルビア科学芸術アカデミー]](SANU)が[[1985年]]から[[1986年]]にコソボを去ったセルビア人について調査したのは、このような緊張関係に対してのものであった。<ref>{{citeweb|url=http://www.snd-us.com/history/Petrovic-Blagojevic/index.htm|title=The Migration of Serbs and Montenegrins from Kosovo and Metohija|year=2000|published=Serbian Academy of Sciences and Arts|author=Ruza Petrovic, Marina Blagojevic|accessdate=.}}</ref>。報告では、この期間にコソボを去ったセルビア人の少なからざる部分は、アルバニア人による追放圧力によるものであると結論した。
 
 
 
SANUの6人の研究者らは、[[1985年]]6月に草案に基づいてこの仕事をはじめ、草案は[[1986年]]9月にリークされた。この「[[セルビア科学芸術アカデミーの覚書|SANU覚書]]」は大きな議論を呼ぶものとなった。この文書では、ユーゴスラビアに住むセルビア人の置かれた困難な状況に焦点をあてており、セルビアの地位を低下させるチトーの周到な計画と、セルビア本国の外でのセルビア人の困難について述べている。
 
 
 
メモランダムはコソボに特に高い関心を寄せ、「コソボにおけるセルビア人が物理的、政治的、法的、文化的ジェノサイドの対象とされており、1981年以降は全面戦争が進行中である」と論じた。このメモランダムでは、[[1986年]]時点でのコソボのセルビア人の地位は、セルビアがオスマン帝国から解放された[[1804年]]以降で最悪となっており、[[ナチス・ドイツ]]の占領下にあった第二次世界大戦時や、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]と戦った第一次世界大戦時よりも悪いとした。メモランダムの著者らは、この20年間で20万人のセルビア人がコソボを去ったと主張し、急進的な改革がなければまもなくコソボからセルビア人はいなくなる、と警告した。メモランダムでは、その対処法として、「治安、およびコソボ・メトヒヤに住む全ての人々の明白な平等を保障すること」、そして「コソボを離れたセルビア人のコソボへの帰還を可能とする、永続的で実効性のある環境を作り出すこと」であるとした。メモランダムは「セルビアは、過去に見られたような、受身の姿勢で他者が何を言うかを待ってはならないとしている。
 
 
 
SANUメモランダムに対してはさまざまな反応があった。アルバニア人らは、これをコソボにおけるセルビア人優越主義を喚起するものであるとした。彼らは、コソボを去った全てのセルビア人は、単に経済的理由であると主張した。その他のユーゴスラビアの民族主義者、特に[[スロベニア人]]や[[クロアチア人]]は、セルビアの拡張主義の伸張であるとみた。セルビア人自身の見解は割れていた。多くのセルビア人らはこのメモランダムを歓迎した一方、古くからの共産主義の守護者らはこれを激しく非難した<ref name="kubo hikisakareta">{{Cite book
 
|author=[[久保慶一]]
 
|date=2003年10月10日
 
|title=引き裂かれた国家―旧ユーゴ地域の民主化と民族問題
 
|publisher=有信堂高文社
 
|location=日本、東京
 
|id=ISBN 978-4-8420-5551-0
 
}}</ref>
 
。メモランダムを非難したセルビア共産主義者同盟の指導者の一人に、[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]の名があった。
 
 
 
[[1988年]]、コソボ自治州の行政委員会の首班が逮捕された。[[1989年]]3月、ミロシェヴィッチはコソボおよびヴォイヴォディナでの「反官憲革命」([[:en:anti-bureaucratic revolution|en]])を宣言し、これらの自治権を剥奪し、外出制限をかけ、コソボでの24人の死者がでた暴力的なデモを理由にコソボに対して非常事態宣言を発令した。ミロシェヴィッチとその政府は、セルビアの憲法変更はコソボに留まるセルビア人を、多数派を占めるアルバニア人による迫害から保護するために必要不可欠であるとした。
 
 
 
=== 1990年 - 1998年 : セルビア統治下のコソボ ===
 
{{Main|コソボ・メトヒヤ自治州 (1990年-1999年)}}
 
スロボダン・ミロシェヴィッチが1990年、コソボとヴォイヴォディナの自治権を剥奪し、ミロシェヴィッチの支持者によって選ばれた新しい地元の指導者へと挿げ替え、コソボの権限縮小のプロセスを大きく進めた<ref name="kubo hikisakareta" />。両自治州はユーゴスラビアの6つの構成共和国と同様にユーゴスラビア連邦の大統領評議会に議決権のある代表者を持っていたため、コソボ、ヴォイヴォディナをミロシェヴィッチ派が乗っ取ったことにより、ミロシェヴィッチ派の支配下となった両自治州とセルビア、[[モンテネグロ]]を併せて、大統領評議会の8議席のうち4議席をミロシェヴィッチが独占することになった<ref name="kubo hikisakareta" />。そのため、これ以外のユーゴスラビアを構成する4箇国、[[スロベニア]]、[[クロアチア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[マケドニア共和国|マケドニア]]の代表者は、ミロシェヴィッチによる憲法改正の計画を阻止するために共同行動を維持し続けなければならなかった。セルビアの体制変更は[[1990年]][[7月5日]]、コソボを含むセルビア全土での[[住民投票]]によって可決された。これらの動きによって、80,000人のアルバニア人がコソボで職を追われることになった。コソボの全ての高等教育に対して、新しいセルビアの教育カリキュラムの導入が強いられた。この動きをアルバニア人は拒絶し、既存の教育機関と並存する独自の教育システムを設立した<ref name="chida naze">{{Cite book
 
|author=[[千田善]]
 
|date=2002年11月21日
 
|title=なぜ戦争は終わらないか ユーゴ問題で民族・紛争・国際政治を考える
 
|publisher=みすず書房
 
|location=日本
 
|id=ISBN 4-622-07014-6
 
}}</ref>。
 
 
 
コソボへの影響は絶大なものであった。自治権の縮小は、コソボの政治機構の解体を伴うものであった。コソボ共産主義者同盟、コソボ州政府、議会は公式に解体された。コソボの産業の多くは州が保有していたが、これらの企業の中枢は抜本的に入れ替えられた<ref name="kubo hikisakareta" />。形式的には、少数の企業はその例外となった。政府は企業に対して忠誠の誓約を要したが、ほとんどのコソボのアルバニア人はその署名を拒否して追放されたものの、ごく一部は署名に同意し、セルビアの国有企業となった後も雇用を解かれずにいた。
 
 
 
アルバニア人の文化的自治も劇的に削減された。唯一のアルバニア語の新聞である「Ridilin」は発禁され、アルバニア語でのテレビ、ラジオ放送は中止された。アルバニア語は州の公用語から外された。プリシュティナ大学はアルバニア人民族主義の温床と見られていたが、大規模に粛清された。800の講義は閉鎖され、23,000人の学生のうち22,000人は追放された。40,000人程度いたユーゴスラビア軍の兵士や警官は、それまでのアルバニア人による治安維持機構から取って代わった。強権体制は「警察国家」との非難を受けた。貧困と失業は壊滅的な状況に達し、コソボの人口のおよそ80%は失業者となった。アルバニア人成人男性の3分の1は職を求めて国外([[ドイツ]]や[[スイス]]など)へと流出した。
 
 
 
ミロシェヴィッチによるコソボ共産主義者同盟の解体によって、アルバニア人による最大の政治勢力は[[イブラヒム・ルゴヴァ]]の率いる[[コソボ民主同盟]]へと移った。コソボ民主同盟は、コソボの自治権剥奪に対して平和的手段で抵抗することで応じた<ref name="chida naze" />。ルゴヴァは現実的な理由から、武装闘争を選択しなかった。武装闘争はセルビアの軍事力の前には無力であり、単に流血を招くだけと考えたためである。ルゴヴァはアルバニア人らに対してユーゴスラビア、セルビア国家へのボイコットを求め、選挙の不参加、[[徴兵制度|徴兵]]の拒否、そして納税の拒否を呼びかけた。ルゴヴァはまた、並存するアルバニア語の学校、病院、診療所の設置を呼びかけた<ref name="kubo hikisakareta" />。[[1991年]]9月、コソボの「影の」議会はコソボの独立を問う住民投票を実施した<ref name="kubo hikisakareta" />。セルビア治安部隊による妨害や暴力にも関わらず、コソボのアルバニア人人口の90%の投票率であったと報告されている。そして、うち98%、およそ100万票が[[コソボ共和国 (1990年-2000年)|コソボ共和国]]の独立に賛成した<ref name="chida naze" />。[[1992年]]5月、2回目の選挙ではルゴヴァを大統領に選出した。セルビア政府はこれらの投票を違法であり、その結果は無効であるとした。
 
 
 
ルゴヴァは非暴力主義に立ち平和的独立を目指したが、[[セルビア]]当局は独立を認めなかった。しかし、[[クロアチア]]やボスニアなどの紛争を抱えるためにコソボに対する対処を十分にとることができなかった。1991年6月以降、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]を構成していた[[スロベニア]]、[[クロアチア]]、[[マケドニア共和国]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]が次々に独立し、残された[[セルビア]]と[[モンテネグロ]]が新国家[[ユーゴスラビア連邦共和国]]を結成する一方で、「コソボ共和国」は国際社会からも無視され、[[1995年]]のボスニア紛争終結の和平会議でも顧みられることはなかった<ref name="chida naze" />。
 
 
 
ルゴヴァの受動的抵抗の方針によって、[[1990年代]]前半の[[スロベニア]]、[[クロアチア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]で独立戦争があった間、平穏に保たれていた。しかしながら、[[コソボ解放軍]]の登場に見られるように、この平穏はアルバニア人たちの間に広がる大きな不満と引き換えのものであった<ref name="chida naze" />。1990年代半ば、ルゴヴァは[[国際連合]]に対してコソボでの平和維持活動を求めた。[[1997年]]、ミロシェヴィッチは[[ユーゴスラビア連邦共和国]]の大統領に選出された(ユーゴスラビア連邦共和国は[[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]]と[[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]]によって[[1992年]]4月に発足した新しい連邦である)。
 
 
 
セルビアによる抑圧が続くにつれ、アルバニア人たちの多くが過激化し、その一部は武力闘争のみが状況を打開し得ると考えるようになった<ref name="chida naze" />。[[1996年]][[4月22日]]、セルビア治安部隊の隊員に対する攻撃が同時多発的にコソボの異なる地域でそれぞれ発生した。コソボ解放軍の性質について、初期の頃は謎に包まれていた。実際には、コソボ解放軍は小規模で、氏族を基盤とし、組織化の十分でない急進的アルバニア人の集団に過ぎず、その多くはコソボ西部の{{仮リンク|ドレニツァ|en|Drenica}}地方の出身であった。この時点でのコソボ解放軍は、地元の農民や追放者、失業者らであったと見られる。
 
 
 
コソボ解放軍は、コソボ国外に離散したアルバニア人[[ディアスポラ]]から資金援助を受けていたと考えられている<ref>{{cite web | url = http://www.kosovo.net/judah2.html | title = Kosovo: Peace Now | publisher = kosovo.net, originally from [[B92|b92.net]] | author = Tim Judah | date = 1999-08-12 | accessdate = 2008-05-31 }}</ref>。そして、アルバニア人による麻薬取引の拠点は[[ヨーロッパ]]各地に作られた<ref name="interpol" />。[[1997年]]初期、[[アルバニア]]では、[[ねずみ講]]破綻に伴う[[1997年アルバニア暴動|アルバニア暴動]]と[[サリ・ベリシャ]]の失脚の中、無秩序状態となっていた。軍の武器庫から武器が犯罪集団の手へと渡り、その多くが後にコソボ西部へと持ち込まれ、コソボ解放軍の装備を大幅に強化した。{{仮リンク|ブヤル・ブコシ|en|Bujar Bukoshi}}は[[スイス]]の[[チューリヒ]]に置かれた亡命政府の大統領で、ブコシは{{仮リンク|コソボ共和国軍|en|Armed Forces of the Republic of Kosova}}({{lang|sq|Forcat e Armatosura të Republikës së Kosovës; FARK}})と呼ばれる組織を設立した。
 
多くのアルバニア人たちは、コソボ解放軍を正当な解放闘争者とみていたが、ユーゴスラビア政府からは政府や市民を攻撃するテロリストと呼ばれた<ref name="chida naze" />。[[1998年]]、[[アメリカ合衆国]]の[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]はコソボ解放軍をテロリストに指定した<ref name="interpol">{{cite web | url = http://judiciary.house.gov/Legacy/muts1213.htm | title = The Threat Posed by the Convergence of Organized Crime, Drugs Trafficking and Terrorism. | author = written Testimony of Ralf Mutschke Assistant Director, Criminal Intelligence Directorate International Criminal Police Organization - Interpol General Secretariat before a hearing of the Committee on the Judiciary Subcommittee on Crime | publisher = U.S. House Judiciary Committee | date = 2000-12-13 | accessdate = 2008-05-31 | quote = In 1998, the U.S. State Department listed the KLA as a terrorist organization}}</ref>。[[1999年]]、[[アメリカ合衆国上院]]の共和党政策委員会は、[[ビル・クリントン]]大統領の政治がコソボ解放軍と「実質的に同盟関係にある」ことを指摘した。
 
:「''信頼できる複数の非公式の情報源によると(…)、コソボ解放軍は大規模なアルバニア人犯罪ネットワークに深く関与し(…)、[[イスラム主義]]のイデオロギーに動かされるテロリスト組織であり、[[イラン]]や[[ウサーマ・ビン=ラーディン]]からの援助を受け(…)''」<ref name="senate" />
 
 
 
[[2000年]]、[[英国放送協会|BBC]]の記事で、NATOによる戦いでは、アメリカ合衆国がコソボ解放軍を「テロリスト」と規定しつつも、この時コソボ解放軍と関係を持つことを模索していたと指摘した。<ref>{{citeweb|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/674056.stm|title=Behind the Kosovo crisis|author=Allan Little|publisher=[[BBC]]|date=2000-03-12|accessdate=2008-12}}</ref>
 
 
 
アメリカのロバート・ジェルバード(Robert Gelbard)使節はコソボ解放軍をテロリストと呼んだ<ref name="bbc_june_1998">{{citeweb|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/121818.stm|title=The KLA - terrorists or freedom fighters?|date=1998-06-28|publisher=[[BBC]]|author=Nened Sebak|accessdate=2008-12-04}}</ref>。批判に対してジェルバード使節が下院外交委員会に対して、「コソボ解放軍はテロリスト活動を実行しているものの、アメリカ合衆国政府によって法的にテロリスト組織と認定されているわけではない」、と明らかにした。<ref name="senate">{{citeweb | url = http://www.senate.gov/~rpc/releases/1999/fr033199.htm | title = The Kosovo Liberation Army: Does Clinton Policy Support Group with Terror, Drug Ties? | publisher = U.S. Senate, Republican Policy Committee | date = 1999-03-31 | accessdate = 2008-05-31}}</ref>。[[1998年]][[6月]]、ジェルバード使節は、コソボ解放軍の政治的指導者を名乗る2人と面会した<ref name="bbc_june_1998" /> 。
 
 
 
アメリカやその他の国々の中には、コソボ解放軍に資金や武器が流入するのを食い止めることに対して積極的ではなかったと指摘されている。コソボ紛争をはじめとする一連の問題が起きた旧ユーゴスラビア地域を、アメリカは「制裁の外壁」の中においていた。制裁をとめることを目的としていた[[デイトン合意]]が結ばれた後もこれは維持され続けた。アメリカのビル・クリントン大統領はデイトン合意によって、ユーゴスラビアはコソボに関してルゴヴァと話し合うことができるようになったと主張した。
 
 
 
コソボの危機的状況は[[1997年]]12月に上昇した。ボスニア・ヘルツェゴビナ問題を監督する[[和平履行評議会]]の会合が[[ボン]]で開かれた際に各国は、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表]]に対して、選挙で選ばれた指導者を退ける権利を含む強大な権限を与えることに同意した。同じ時期に、西側各国の外交官らはコソボについても話し合うことを企図し、ユーゴスラビアおよびセルビアはコソボのアルバニア人の要求に対して責任があるとした。これは、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題について話し合う[[コタンクト・グループ]]諸国が、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題は解決局面に入ったという認識と、セルビアに対するコソボ問題解決の求めに対するものであった。
 
 
 
== 戦闘の経過 ==
 
=== 1998年2月 - 10月 : 紛争に突入 ===
 
[[File:Kosovo-metohija-koreni-duse002.jpg|thumb|left|[[1998年]]、[[セルビア人]]犠牲者の遺体]]
 
[[1998年]][[2月]]、コソボ解放軍による攻撃が激化し、[[ドレニツァ渓谷]]地帯に集中、{{仮リンク|アデム・ヤシャリ|en|Adem Jashari}}はその中心的存在となっていた。ロバート・ジェルバードがコソボ解放軍をテロリストと呼んでから数日後、{{仮リンク|リコシャン|sq|Likoshan}}({{仮リンク|リコシャネ|sr|Likošane}})地域でのコソボ解放軍の攻撃に対してセルビア警察が応じ、コソボ解放軍の兵士らをチレズ / ツィレズ(Qirez / Cirez)まで追い、30人のアルバニア人市民と4人のセルビア人警官が死亡した<ref>{{citeweb|url=http://www.fco.gov.uk/Files/kfile/koschron.pdf|title=Kosovo Chronology: From 1997 to the end of the conflict|month=June|year=1999|publisher=[[British Parliament]] | accessdate=2008.12.10}}</ref>。これが紛争において初の本格的な戦闘であった。
 
 
 
複数の捕虜の即決殺害や市民に対する殺害があったものの、西側諸国のユーゴスラビアに対する非難は、この時点ではあまり大きくならなかった。セルビア警察はヤシャリとその支持者をプレカジ=イ=ポシュテム / ドニェ・プレカゼ({{lang|sq|Prekazi-i-Poshtem / Donje Prekaze}})へと追撃した<ref>{{citeweb|url=http://hrw.org/campaigns/kosovo98/timeline.shtml|title=Kosovo War Crimes Chronology|publisher=[[Human Rights Watch]] | accessdate=2008.12.10}}</ref>。この[[3月5日]]の出来事は、西側諸国の政府からの大きな非難を呼んだ。アメリカ合衆国の国務長官[[マデレーン・オルブライト]]は、「この危機はユーゴスラビア連邦共和国の国内問題ではない。」と述べた。
 
 
 
[[3月24日]]、セルビア軍はドゥカジン(Dukagjin)作戦地帯にあったグロジャン / グロジャネ({{lang|sq|Gllogjan}} / {{lang|sr|Glođane}})の村を包囲し、村にいた反乱分子を攻撃した<ref>{{citeweb|url=http://www.iwpr.net/?p=tri&s=f&o=235663&apc_state=henitri2005|title=Ramush Haradinaj|author=Stacy Sullivan|date=2005-03-11|publisher=[[IWPR]] | accessdate=2008.12.10}}</ref>。セルビア軍は火力の上で優位にたっていたものの、コソボ解放軍の部隊を壊滅させることはできなかった。アルバニア人側には死者や重傷者もあったものの、グロジャン / グロジャネでの反乱を抑えきることはできなかった。この地域は、後に続く紛争では抵抗勢力側の重要な拠点のひとつとなった。
 
 
 
また別のコソボ解放軍の重要な拠点はコソボとの国境に近いアルバニアの北部の、[[トロポヤ県|トポロヤ]]を中心とした地域であった。続く[[1997年]]の[[1997年アルバニア暴動|アルバニア暴動]]によって、アルバニアの一部の地域では政府の統制が及ばなくなった。さらに、アルバニア軍の装備が略奪された。これらの略奪された兵器の多くは、後にアルバニア国境地帯に拠点を構えるコソボ解放軍の手に渡った。ここはコソボ解放軍による攻撃、そして武器をドレニツァ地方へと送り込む拠点であった。メトヒヤ平原には、[[ジャコヴァ|ジャコヴァ / ジャコヴィツァ]]({{lang|sq|Gjakova}} / {{lang|sr|Đakovica}})を経由してアルバニアからドレニツァ、そして[[クリナ]]を結ぶ道路があり、コソボ解放軍の活動の初期の拠点であった。
 
 
 
コソボ解放軍の最初の目標はドレニツァの拠点とアルバニア本国の拠点を結ぶことであった。そして、戦闘の最初の数箇月でこれは達成された。コソボ解放軍は西側諸国、そしてイスラム世界からの支援を受けており、その中には[[ムジャーヒディーン]]たちも含まれる。
 
 
 
セルビア側は交渉の努力も続けており、イブラヒム・ルゴヴァの側の人員と会談もした。何度かに及んだ交渉がすべて失敗に終わった後、セルビア側の代表者ラトコ・マルコヴィッチ(Ratko Marković)はコソボの少数民族のグループを呼び、アルバニア側との交渉を続けた。セルビアの大統領{{仮リンク|ミラン・ミルティノヴィッチ|en|Milan Milutinović}}も会談に参加したが、ルゴヴァは参加を拒否している。ルゴヴァとその支持者らはセルビアではなくユーゴスラビア連邦との会談を望んでおり、コソボの独立を目指す立場であった。
 
 
 
この時、セルビアでは[[セルビア社会党]]と[[セルビア急進党]]を中心とした新しい政権が発足した。民族主義者の[[ヴォイスラヴ・シェシェリ]]が副首相となった。これによって、セルビアと西側諸国との軋轢はいっそう激しくなった。
 
 
 
4月上旬、セルビアはコソボ問題に関する外国の干渉問題について、国民投票を実施した。セルビアの有権者らは、この国内問題に対する外国の干渉を明確に拒絶した。
 
 
 
その間、コソボ解放軍は[[デチャニ]]({{lang|sq|Deçan}} / {{lang|sr|Dečani}})周辺の大半の地域を制圧し、グロジャン / グロジャネ ({{lang|sq|Gllogjan}} / {{lang|sr|Glođane}})の村の周辺を進攻した。[[5月31日]]、ユーゴスラビア軍とセルビア内務省の警察は、コソボ解放軍との前線を突破するための作戦に入った。この作戦は数日後に終わり、その中では捕虜の即決殺害や市民の殺害があったとされている。これによって西側諸国からの空爆を招くことになった。
 
 
 
この間、ユーゴスラビアのミロシェヴィッチ大統領は[[ロシア]]の[[ボリス・エリツィン]]大統領との間でNATOによる攻撃的行動を中止させ、セルビアではなくユーゴスラビアとの話し合いを望むアルバニア人側と交渉を持つことで合意に達した。実際には、ミロシェヴィッチ大統領とイブラヒム・ルゴヴァとの間で行われた会談は、[[5月15日]]にベオグラードでのたった1回のみであった。[[リチャード・ホルブルック]]は、交渉が行われるだろうと発表した2日後のことである。1ヶ月後、ホルブルックはベオグラードを訪れてミロシェヴィッチ大統領に対して「要求に従わなければ、あなたの国に残された全てが破壊されるだろう」と脅迫した後、5月から6月にかけての作戦行動の跡を見に国境地帯を訪れた。その場所で、ホルブルックがコソボ解放軍とともに写真に写っている。これらの写真の公表は、コソボ解放軍とその支持者、共鳴者らに対して、あるいは広く一般の人々の目に、アメリカがコソボ解放軍を支持していることを示す明確なシグナルとなった。
 
 
 
エリツィン大統領との合意では、ミロシェヴィッチ大統領は国際的な代表者らにコソボ・メトヒヤでの活動を容認することになっていた<ref name="chida naze" />。これはコソボ外交監視団(Kosovo Diplomatic Observer Mission)と呼ばれ、7月初旬から活動を開始した。アメリカの政府はこの合意の一部を歓迎したものの、双方への停戦の呼びかけを批判した。むしろ、アメリカはセルビア、ユーゴスラビア側が「テロリスト活動の中止とは関係なく、無条件で停戦すべき」であるとした<ref name="chida naze" />。
 
 
 
6月から7月にかけて、コソボ解放軍はその優位を保ち続けた。コソボ解放軍は[[ペヤ|ペヤ / ペーチ]]、[[ジャコヴァ|ジャコヴァ / ジャコヴィツァ]]を包囲し、[[ラホヴェツィ|ラホヴェツィ / オラホヴァツ]]の北のマリシェヴァ / マリシェヴォ(Malisheva  / [[:en:Mališevo|Mališevo]])の町にて臨時首都を設立した。コソボ解放軍はバラツェヴェツ(Belacevec)炭鉱を攻撃して6月末に占領し、地域のエネルギー供給を脅かすことに成功した。
 
 
 
7月中旬にコソボ解放軍がラホヴェツィ / オラホヴァツを制圧すると、情勢は一転した。[[1998年]][[7月17日]]、ラホヴェツィ / オラホヴァツに近接した2つの村レティムリェ(Retimlije)とオプテルシャ(Opteruša)にて、全てのセルビア人男性が拉致され、後に遺体で発見された。これらほど組織化されてはいないものの、同様の事例はラホヴェツィ / オラホヴァツや、より大きなセルビア人の村ホチャ・エ・マヅェ / ヴェリカ・ホチャ([[:en:Velika Hoča|Hoça e Madhe / Velika hoča]])でも発生した。これがきっかけとなり、セルビア人とユーゴスラビアによる攻撃が始まり、[[8月20日]]頃まで続いた。
 
 
 
ラホヴェツィ / オラホヴァツから5キロメートルにあるゾツィステ(Zociste)の[[正教会]]の[[修道院]]は、聖人コスマスとダミアノス(Kosmas and Damianos)のレリーフが有名であったが、この修道院も[[1999年]]には地元のアルバニア人によって襲撃・略奪され、修道士らはコソボ解放軍の収容所に送られた。無人となった間の同年[[9月13日]]から[[9月14日]]にかけて、修道院の聖堂を始め全ての建物は爆破され、消失した。
 
 
 
コソボ解放軍による新しい攻撃は1998年8月下旬に、ユーゴスラビア軍によるコソボ・メトヒヤ南西部のプリシュティナ=ペヤ道路の南で行われた攻撃に反応して始められた。この攻撃によってクレツカ(Klecka)は[[8月23日]]にコソボ解放軍に制圧された。この場所はコソボ解放軍による死体焼却場として使われ、その犠牲者らが見つかった。[[9月1日]]には、コソボ解放軍は[[プリズレン]]周辺で攻勢をかけ、ユーゴスラビア軍はその対処にあたった。ペヤ / ペーチ周辺のメトヒヤ地域において行われた別の攻撃は大きな非難を呼び、各国の政府や国際的な機関は、追放された人々の大規模な一行が攻撃を受けた可能性を危惧した。これに引き続いてドニイ・ラティス(Donji Ratis)が陥落した。同地では、コソボ解放軍が集団死体遺棄現場を築いており、この場所からは行方不明になっていたセルビア人やそのほかのコソボの市民ら60人の遺体が発見されている。
 
 
 
9月中旬のはじめごろ、コソボ解放軍による戦闘がはじめてコソボ北部の{{仮リンク|ポドゥイェヴォ|en|Podujevo|label=ベシアナ / ポドゥイェヴォ}}で報じられた。最終的に9月の末には、コソボ解放軍をコソボ北部、中部、そしてドレニツァ渓谷そのものから一掃するための作戦が行われた。この間、西側諸国からセルビアに対してさまざまな脅迫がなされたものの、それらはボスニア・ヘルツェゴビナで実施される選挙のために中断された。西側諸国は[[セルビア急進党]]や[[セルビア民主党 (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|セルビア民主党]]が選挙で勝利することを嫌い、セルビアへの圧力を弱めたのである。しかしながら、ボスニア・ヘルツェゴビナでの選挙が終わると、再びセルビアに対する脅迫を強化させた。しかし、それらは決定的とはならなかった。[[9月28日]]、コソボ外交監視団が、{{仮リンク|ゴルニェ・オブリニェの虐殺|en|Gornje Obrinje massacre|label=アブリ・エ・エペルメ / ゴルニェ・オブリニェ}}の村の外で、ある家族の切断された遺体を発見した。そこから見つかった血まみれの人形は衝撃的な映像として発信され、参戦への大きな理由となった。
 
 
 
このほかにも、参戦の有力な動機となった事実として推計250,000人のアルバニア人が家を追われ、30,000人は森の中に隠れており、寒さから身を守る十分な服も住む場所もなく、季節は冬へと向かっていた。
 
 
 
この間、[[マケドニア共和国]]に駐在するアメリカの[[クリストファー・ヒル]]大使がルゴヴァ率いるアルバニア人側の代表者と、セルビア、ユーゴスラビアの当局との間でシャトル外交を展開していた。このときの交渉こそが、NATOがコソボ占領の計画を策定している間に、和平合意に盛り込まれるべき内容を形作ることとなった。
 
 
 
この2週間の間、セルビアに対する圧力はさらに強められ、NATOにはついに戦時編成命令が出されるに至った。空爆のためのあらゆる準備が整えられ、ホルブルックはベオグラードへ行き、NATOによる圧力を背景としてミロシェヴィッチ大統領との間での合意を模索した。ホルブルックに同行したマイケル・ショートは、ベオグラードを破壊すると脅した。長く辛い交渉の末に、1998年[[10月12日]]にはコソボ査察合意が結ばれた。
 
 
 
公式には、国際社会は戦闘の終結を求めていた。国際社会は特に、セルビア側に対してコソボ解放軍への攻撃を中止するよう求めていた(コソボ解放軍による攻撃には特に触れられることはなかった)<ref name="chida naze" />。また、コソボ解放軍に対しては、その独立要求を取り下げるように求めた。さらにミロシェヴィッチ大統領に対しては、コソボ全域でのNATOによる平和維持部隊の活動を認めるように要求していた。彼らによる交渉の中で、ヒル大使に対して和平プロセスを進め、和平合意を受諾することを認めた。[[1998年]][[10月25日]]、停戦が取り付けられた。合意ではコソボ査察使節団の設置が認められた。コソボ査察使節団は[[欧州安全保障協力機構]](OSCE)による非武装の和平監視団であったが、彼らの監視は初期のころから不十分であった。そのため、彼らは"clockwork orange"と通称された。それは、鮮やかに色付けされた自動車に由来する(英語では"clockwork orange"とは無価値なものという意味である)。
 
 
 
=== 1998年12月 - 1999年1月 : 紛争の再開、激化 ===
 
[[ファイル:War in the balkans kosovo 1999 3.jpg|right|thumb|250px|紛争により破壊された建物]]
 
12月上旬にコソボ解放軍が、戦略的に重要なプリシュティナ=ポドゥイェヴォ幹線道路を見渡す[[トーチカ|バンカー]]を占領したことにより、停戦は数週間のうちに破棄され戦闘が再開された。これは、コソボ解放軍がペヤ / ペーチのカフェを襲撃したパンダ・バー虐殺(Panda Bar Massacre)から程なくしてのことであった。虐殺の2日後、コソボ解放軍は[[フシェ・コソヴァ|フシェ・コソヴァ / コソヴォ・ポリェ]]の市長を暗殺した。
 
コソボ解放軍による攻撃とセルビア側の反撃は[[1998年]]から[[1999年]]にかけての冬の間中つづけられ、都市部での危険度は増し、爆破や殺人などが多発した。[[1999年]][[1月15日]]には{{仮リンク|ラチャクの虐殺|en|Račak massacre}}が引き起こされた。事件は直ちに(調査が始められるより前に)虐殺事件として西側諸国や[[国際連合安全保障理事会]]から非難された。このことは、ミロシェヴィッチ大統領とその政権の首脳らを戦争犯罪者とみなす基礎となった。テレビカメラは、殺害されたアルバニア人たちの遺体のそばを歩くアメリカの{{仮リンク|ウィリアム・ウォーカー (外交官)|en|William Walker (diplomat)|label=ウィリアム・ウォーカー}}外交官を映し出した。ウォーカー外交官が記者会見を開き、一般市民に対するセルビアの戦争犯罪行為について明らかにしたと述べた(<ref>http://www.usembassy-israel.org.il/publish/press/security/archive/1999/january/ds1127.htm</ref>)。この虐殺が、戦争の大きな転換点となった。NATOは、NATOの支援の下で平和維持のための武力を投入することのみが、問題を解決する唯一の手段であると断じた。
 
 
 
[[連絡調整グループ (バルカン)|連絡調整グループ]]は、「交渉不可能な要素」をまとめあげた。これは"Status Quo Plus"として知られ、コソボをセルビアの枠内で[[1990年]]以前の自治水準に戻し、さらに民主主義と国際組織による監督を導入するというものであった。連絡調整グループはまた、[[1999年]]2月にも和平交渉を開き、[[パリ]]郊外のランブイエ城([[:en:Château de Rambouillet|Château de Rambouillet]])にて交渉が持たれた。
 
 
 
=== 1999年1月 - 3月 : ランブイエ和平交渉 ===
 
[[File:Kukes Refugee Camp.jpg|thumb|left|[[1999年]]、[[アルバニア]]の[[クケス州|クケス]]における[[難民]]キャンプの写真。]]
 
ランブイエ交渉は[[2月6日]]にはじめられ、NATOの[[ハビエル・ソラナ]]事務総長が両サイドと仲介交渉をおこなった<ref name="chida naze" />。彼らは[[2月19日]]に交渉をまとめる意向であった。セルビア側の代表者はセルビアの{{仮リンク|ミラン・ミルティノヴィッチ|en|Milan Milutinović}}大統領であり、ミロシェヴィッチ大統領自身はベオグラードに留まった。これは、ミロシェヴィッチ大統領自身が直接交渉に臨んでの、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]を終結させた[[デイトン合意]]のときとは対照的であった。このときは、ミロシェヴィッチ大統領自らが交渉に臨んだ。ミロシェヴィッチ大統領の不在は、交渉に関わらず実際の決定はミロシェヴィッチ大統領がベオグラードで行っていることを示すものとみなされ、セルビア国内、国際社会双方からの非難を受けた。コソボの[[セルビア正教会]]の[[主教]]アルテニイェ(Artemije)は自らランブイエへ出向き、交渉は代表者を欠いていると抗議した。
 
 
 
歴史的根拠に関する交渉の初期段階には成功した。具体的には、連絡調整グループの共同議長による[[1999年]][[2月23日]]の声明では、交渉では「民主的な共同体による自由で公正な選挙、公平な法体系を含む、コソボの自治に関して合意が得られた」としている。さらに、「政治的枠組みは定められた」とし、「合意文書の内容を定める」ことを終えるための更なる作業が残されており、残されたものの中には「コソボにおいて招致された国際的な文民と軍のプレゼンス」が含まれていた。しかし翌月の間、アメリカのルービン(Rubin)外交官とオルブライトの影響を受けたNATOによって、軍のプレセンスは「招致された」ものではなく「強制する」べきであるとした。NATOのコソボ解放軍への傾倒は、BBCテレビの番組「Moral Combat: NATO at War」にて特集された<ref>{{citeweb|url=http://news.bbc.co.uk/hi/english/static/events/panorama/transcripts/transcript_12_03_00.txt|title=Moral Combat:NATO at War|author=Allan Little|publisher=[[BBC]]|date=2000-03-12 | accessdate=2008.12.10}}</ref>。実際には、NATOの軍事委員会の議長である[[クラウス・ナウマン]]将軍の発言では、「ウォーカー大使はNorth Atlantic Councilにて、停戦の破棄の大部分はコソボ解放軍によるものであるとしている」とされた。
 
 
 
[[1999年]][[3月18日]]、アルバニア人、アメリカ、イギリスの代表者らはランブイエ合意に署名したが、セルビアおよびロシアは署名を拒否した。合意案では、次のことを求めていた。
 
# コソボをユーゴスラビア枠内の自治州としてNATOが統治する
 
# 3万人のNATOの兵士がコソボの治安維持にあたる
 
# NATO兵士によるコソボを含むユーゴスラビア領内への無制限の通行の権利
 
# NATOとその人員に対するユーゴスラビア法の適用除外
 
アメリカ合衆国およびイギリスの代表者らは、この合意案はセルビア側が受け入れることのできないものであると考えていた<ref name="chida naze" />。これらの後半の要求内容はボスニア・ヘルツェゴビナの[[平和安定化部隊]]に対して適用されたものと同様であった。合意案はアルバニア人側の要求を完全には満たしていなかったものの、合意案はセルビア側にとっては十分に過激なものであり、これに対してセルビア側は合意案の大幅な変更を求め、ロシアも合意案は受け入れ不可能であるとした。
 
 
 
ランブイエ交渉が2月に行われている間も攻撃は続けられ、コソボ査察合意は3月には破綻した。道路上での殺害は増加し、軍事衝突が頻発した。他の地域に加え、2月には{{仮リンク|ヴシュトリ|en|Vučitrn|label=ヴシュトリ / ヴチトルン}}で、3月にはこれまで衝突のなかった{{仮リンク|カチャニク|en|Kačanik}}でも衝突が起こった。
 
 
 
交渉の失敗以降、事態は急速に進行した。NATOによる空爆が始まる1週間前、西側諸国のほとんどのジャーナリストが滞在しているベオグラードの[[ハイアットホテルアンドリゾーツ|ハイアットホテル]]に、アルカンこと[[ジェリコ・ラジュナトヴィッチ]]が現れ、セルビアを去るように求めた<ref>{{citeweb|url=http://www.time.com/time/printout/0,8816,22121,00.html|title=Serbs Unplug CNN|author=Tony Karon|publisher=[[TIME Magazine]]''|date=1999-03-25 | accessdate=2008.12.10}}</ref>。
 
 
 
[[欧州安全保障協力機構]](OSCE)の国際監視団は[[3月22日]]、NATOによる空爆が予見され、監視団の安全を保障できないとして、監視団を撤退させた。[[3月23日]]、セルビア議会はコソボの自治を認め、ランブイエ合意の非軍事部分を受け入れることを決定した。しかし、ランブイエ合意の軍事部分、より厳密には「NATOによるコソボ占領統治」の様相を呈している条項Bの受け入れには反対した<ref>{{citeweb|url=http://www.state.gov/www/regions/eur/ksvo_rambouillet_text.html|title=Interim Agreement for Peace and Self-Government in Kosovo|publisher=[[U.S. State Department]] | accessdate=2008.12.10}}</ref>。合意案は全てにおいて「欺瞞」であるとし、その理由として合意案の軍事部分は交渉の最終段階になって初めて議題に上がり、十分に交渉する時間も与えられず、またその交渉相手は「分離主義者のテロリストの代表者」であり、ユーゴスラビア連邦共和国の代表者と直接会わず、直接交渉することを交渉中一貫して拒否していたとして激しく非難した。その翌日の[[3月24日]]、NATOはセルビアへの空爆を始めた。
 
 
 
=== 1999年3月 - 6月 : NATOによる空爆 ===
 
{{Main|アライド・フォース作戦}}
 
[[ファイル:Tomahawk-launch.jpg|thumb|left|[[ゴンザレス (ミサイル駆逐艦)|USS ゴンザレス]]ミサイル駆逐艦から発射される[[トマホーク (ミサイル)|トマホーク]]ミサイル([[1999年]][[3月31日]])]]
 
[[ファイル:F-117 Allied Force.jpg|thumb|250px|[[イタリア]]の[[:en:Aviano Air Base|アヴィアノ空軍基地]]に駐機する[[アメリカ空軍]]所属の[[F-117 (航空機)|F-117]]攻撃機([[1999年]][[3月24日]])]]
 
[[ファイル:Sremska mitrovica all force.jpg|thumb|250px|[[セルビア]]側の[[:en:Sremska Mitrovica|Sremska Mitrovica]]兵器貯蔵庫の空爆後に撮影された空中写真(1999年)]]
 
[[File:Графити на новосадским улицама током Нато бомбардовања СР Југославија.jpeg|thumb|250px|NATO軍を[[ナチス・ドイツ]]の[[ハーケンクロイツ]]に喩えたグラフィティが描かれた[[ノヴィ・サド]]の町(1999年)]]
 
[[File:Нато бомбе изазивале еколошку катастрофу у Новом Саду.jpeg|thumb|250px|NATO軍の空爆後のノヴィ・サド(1999年)]]
 
NATOによるセルビア空爆は、[[1999年]]の[[3月24日]]から[[6月11日]]まで続き、最大で1千機の航空機が、主に[[イタリア]]の基地から作戦に参加し、アドリア海などに展開された。[[巡航ミサイル]]・[[トマホーク (ミサイル)|トマホーク]]もまた大規模に用いられ、航空機や戦艦、潜水艦などから発射された。NATOの全ての加盟国が作戦に一定の関与をした。10週間にわたる衝突の中で、NATOの航空機による出撃は38,000回を超えた。[[ドイツ空軍]]は、[[第二次世界大戦]]後で初めて戦闘に参加した。
 
 
 
NATOによって目標と定められたのは、NATOのスポークスマンによると、コソボからセルビア人勢力を一掃し、平和維持軍を置き、難民を帰還させることであった。これは、ユーゴスラビア軍がコソボを去り、国際的な平和維持軍に置き換えられ、そして避難しているアルバニア人がコソボに帰還することを意味していた。作戦は初期の頃には、ユーゴスラビア空軍の防衛力を削ぎ、重要な戦略目標を押さえることにあった。これは、作戦初期においては十分な成功を収めることができなかった。それは、主に悪天候によって、ユーゴスラビア軍が容易に隠れられることによるものであった。NATOは、ミロシェヴィッチによる抵抗の意思を過小評価していた。ブリュッセルでは、大半が作戦は数日のうちに終わると予想していた。初期の爆撃は軽度に留まり、[[1991年]]の[[バグダード]]への集中的な攻撃と比べれば、ほぼ誰もいないような場所への攻撃が加えられるのみであった。地上では、セルビア人による[[民族浄化]]作戦は激化し、空爆が始まってから1週間の間に300,000人のアルバニア人が隣接するアルバニアやマケドニア共和国に去り、そのほかにも多くがコソボ域内で強制移動された。4月の時点で、国際連合は、アルバニア人を中心に85万人が故郷を離れたと報告している。
 
 
 
NATO軍の作戦は次第に変化し、地上のユーゴスラビア軍の、戦車や大砲よりも大きいものを直接攻撃すること、並びに戦略爆撃を加えることに重点が置かれるようになった。この活動はしかし、政治によって強く束縛されたものであった。その攻撃対象は、NATOの加盟19箇国が同意できるものでなければならなかったためである。[[モンテネグロ]]はNATOにより何度か空爆を受けたものの、モンテネグロの政治的指導者で反ミロシェヴィッチ派の[[ミロ・ジュカノヴィッチ]]の政治的不安定な状況を支援するため、まもなくモンテネグロへの攻撃は中止された。セルビアの民間・軍事双方によって用いられている施設は「デュアル=ユース・ターゲット」(dual-use target)と呼ばれ、攻撃対象となった。その中には、[[ドナウ川]]にかけられた橋や、工場、電力発電所、通信施設、そして、ミロシェヴィッチの妻・[[ミリャナ・マルコヴィッチ]]が党首を務める{{仮リンク|ユーゴスラビア左翼連合|en|Yugoslav Left}}の本部、セルビア国営放送の塔なども含まれていた。これらへの攻撃の一部は、国際法、とくに[[ジュネーヴ条約]]に違反するのではないかとの見方もされた。NATOはしかし、これらの施設がユーゴスラビアの軍事を利するものであるとし、これらへの攻撃が合法であるとした。
 
 
 
5月の始めには、NATOの航空機がユーゴスラビア軍の輸送車隊と見誤ってアルバニア人難民の輸送車隊を攻撃し、50人ほどの死者を出した。NATOは5日後に誤りを認めたものの、セルビア人らは[[難民]]への攻撃を意図的なものであるとして非難した。[[5月7日]]、[[アメリカ空軍]]は[[B-2 (航空機)|B-2]]によって、ベオグラードの中華人民共和国[[大使館]]をJDAM爆弾で攻撃し、3人の中国人ジャーナリストを殺害し、26人を負傷させた<ref name="chida naze" />。これによって[[中華人民共和国]]の世論は沸騰した。
 
 
 
当初、NATOは「ユーゴスラビアの施設への攻撃であった」と主張した。しかし、後に会議が開催され、アメリカ合衆国とNATOは誤りを認めて謝罪し、「[[アメリカ中央情報局|CIA]]による[[地図]]が古かったことによる「[[誤爆]]」であった」とした。この見解は、イギリスの新聞『[[オブザーバー (イギリスの新聞)|オブザーバー]]』の記事(1999年11月28日)や、[[デンマーク]]の新聞『[[:en:Politiken|Politiken]]』から疑問が提示された<ref>{{citeweb|url=http://www.guardian.co.uk/Kosovo/Story/0,2763,203214,00.html|title=Nato bombed Chinese deliberately|author=John Sweeney, Jens Holsoe, Ed Vulliamy|publisher=[[The Guardian]]|date=1999-10-17 | accessdate=2008.12.10}}</ref>。それらの記事によると、「NATOは、中華人民共和国の大使館が、ユーゴスラビア軍の通信信号の中継(「アーカン」と呼ばれる人物からセルビア人の暗殺部隊への情報通信)に使われていたことをアメリカ側が把握していたため、「意図的に」大使館を狙って攻撃したのではないか」と主張されている。この空爆によって、NATOと中華人民共和国との間で関係が悪化し、[[北京市]]にある西側諸国の大使館の周辺、NATO加盟国にゆかりのある企業([[マクドナルド]]など)では、店舗の破壊を伴う攻撃的な[[デモ活動]]が起こった。
 
:なお、駐中華人民共和国大使館を爆撃目標と指定したのは、アメリカ[[中央情報局]]のウィリアム・J・ベネット中佐であり、「誤爆」の責任を取らされて、2000年にCIAを解雇されている。その後、2009年3月22日、ベネット中佐が妻とともに公園を散歩していた際に、窓のない白い不審車両が公園に入って行き、激しい物音がした後に自動車が走り去るという出来事が発生した。発見された時には、ベネット中佐は既に死亡しており、妻も重傷を負っていた。この殺人事件に関して、2009年4月にアメリカの外交誌『フォーリンポリシー』は、ベネット中佐の過去の経歴が関係している「[[暗殺]]」であったと報じている。
 
: 一方、米[[連邦捜査局]](FBI)は、「事件とベネットの経歴を結びつける証拠は一切ない」と暗殺説を否定している<ref> 『[[レコードチャイナ]]』(2009年4月16日)「[http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20090416/Recordchina_20090416009.html 暗殺された元CIA将校は中国大使館誤爆事件の責任者―米国]」</ref>。
 
 
 
[[Image:Kosovo uranium NATO bombing1999.png|thumb|250px|赤い印はNATO軍が空爆で劣化ウラン弾を使用した位置。]]
 
また、コソボのドゥブラヴァ(Dubrava)収容所では、NATOによる空爆によって85人の死者が出たと言われる。[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]のコソボでの調査によると、[[5月21日]]に18人の囚人がNATOの空爆によって死亡し、また3日前の[[5月19日]]には3人の囚人と1人の守衛が死亡したとされた。
 
 
 
4月のはじめの時点において、衝突は終結には程遠いものと見られ、NATO諸国は陸上での作戦、つまりコソボへの進攻を真剣に考えなければならなかった。そして、コソボへの進攻をするならば、早急に準備する必要があった。冬が訪れる前に準備を整えなければならず、その際に予想される、ギリシャやアルバニアの港から、アルバニア北部や[[マケドニア共和国]]を経由してコソボに陸路で侵入する経路を確保するためには、するべきことが山積していた。アメリカのクリントン大統領は、アメリカ軍によるコソボ進攻を究極の選択と考えていた。代わりにクリントン大統領は、セルビア人の政府機能を弱体化させるため、CIAが[[コソボ解放軍]]を訓練することを決定した<ref>{{cite web|url=http://www.cnn.com/WORLD/europe/9905/24/kosovo.01/|title=CIA reportedly authorized to develop ways to 'destabilize' Yugoslavian government|work=CNN.com|author=Walter Rodgers, Carl Rochelle and Matthew Chance|date=1999-05-24|accessdate=2008-07-22}}</ref>。同時に、フィンランドとロシアによるミロシェヴィッチ大統領の説得交渉が続けられた。ミロシェヴィッチ大統領は最終的に、NATOがコソボ紛争の解決に対して本気であり、一方的な解決をも辞さない姿勢であることを理解し、また反NATOの強い言辞を並べるロシアには、現実的にはセルビアを守る力がないことを理解した。微修正を加えた後、ミロシェヴィッチ大統領はフィンランド、ロシアの仲介による条件を受け入れ、NATO関与による国際連合主導でのコソボの平和維持軍の駐留に同意した。
 
 
 
=== 1999年6月 - : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐 ===
 
[[KFOR]]の派遣については、指揮系統や担当地域を巡ってアメリカとロシアが交渉を続けていたものの難航し、[[6月11日]]に一旦決裂<ref name=as0613>1999年6月13日付朝日新聞記事「ロシア、コソボ一番乗り 『既成事実化』へ実力行使」</ref>。NATO軍はこの状況下で部隊の派遣に動き、ミロシェヴィッチがKFORの条件を受け入れた後の[[6月12日]]、KFORはコソボへの進駐を開始した。KFORの中心となったのはNATOの軍であり、コソボでの戦闘を指揮するために準備されていたものの、平和維持活動に従事することになった。KFORは、イギリス軍の陸軍中将マイク・ジャクソン([[:en:Mike Jackson|Mike Jackson]])の指揮の下、連合軍緊急対応軍団([[:en:Headquarters Allied Command Europe Rapid Reaction Corps|Allied Rapid Reaction Corps]])を司令部としていた。KFORは各国の軍によって構成された。イギリス軍(第4装甲旅団と第5空輸旅団からなる旅団)、フランス軍、ドイツ軍は西から、イタリア軍やアメリカ軍などそのほかは南からコソボに入境した。この時のアメリカ軍の働きは初期介入部隊(Initial Entry Force)と呼ばれ、第1機甲師団に率いられた。その配下に置かれたのはドイツのバウムホルダー([[:en:Baumholder|Baumholder]])から来たTF1-35機甲任務部隊、アメリカの[[フォートブラッグ]]([[:en:Fort Bragg (North Carolina)|Fort Bragg]])から来た第505落下傘歩兵連隊第2大隊、ドイツのシュヴァインフルト([[:en:Schweinfurt|Schweinfurt]])から来た第26歩兵連隊第1大隊、第4機甲連隊E中隊である。アメリカ軍の初期介入部隊は、後のボンドスティール基地([[:en:Camp Bondsteel|Camp Bondsteel]])に近い[[フェリザイ|フェリザイ / ウロシェヴァツ]]([[:en:Uroševac|Ferizaj / Uroševac]])、およびモンタイス基地([[:en:Camp Monteith|Camp Monteith]])に近い[[ジラニ|ジラニ / グニラネ]]の両地域の占領を実現した。初期介入部隊は4箇月にわたってここに留まり、コソボ南西部セクターの秩序回復にあたった。アメリカの初期介入部隊は地元のアルバニア人たちから歓声を浴び、花を投げて迎えられた。その間、KFORの兵士たちはコソボ各地の町や村に順次入っていった。抵抗を受けることは無かったものの、事故によって初期介入部隊のアメリカ軍兵士3名が死亡した<ref>Sergeant William Wright - B Company 9th Engineers ([[7月17日|17 July]] [[1999年|1999]]); Specialist Sherwood Brim - B Company 9th Engineers([[7月17日|17 July]] [[1999年|1999]]); Private First Class Benjamin McGill - C Company 1st Battalion 26th Infantry ([[8月9日|9 August]] [[1999年|1999]]).</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Russian KFOR BTR-70.jpg|thumb|250px|KFORのロシア軍部隊(2000年8月)。]]
 
ロシア側もNATO主導による既成事実化を避けるため、合意未成立の中でKFOR部隊の派遣に踏み切り、最も近い[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]で[[平和安定化部隊]](SFOR)に参加していた[[ロシア空挺軍|空挺部隊]]から一部を抽出し、約200人規模の派遣部隊を編成<ref name=as0613/>。ユーゴスラビア国内を経由して陸路プリシュティナに送り込み<ref name=as0613/>、NATO軍に先んじて[[6月12日]]にプリシュティナ空港周辺に展開した<ref name=as0612>1999年6月12日付朝日新聞夕刊記事「ロシア部隊、コソボ到着」</ref><ref name=as0615>1999年6月15日付朝日新聞記事「ロシア軍譲らず、緊迫」</ref>。到着したロシア軍は、過激派の脅威にさらされていた現地のセルビア人住民から歓迎を受けた<ref name=as0612/><ref name=nns0612>1999年6月12日付西日本新聞夕刊記事「ロシア軍もコソボ入り」</ref>。ロシア軍は、この先遣部隊に続き1,000人規模の主力の[[ロシア空挺軍|空挺部隊]]をロシア本国から空輸する準備を整えていたが、NATOの圧力を受けた[[ハンガリー]]・[[ブルガリア]]・[[ルーマニア]]が上空通過を認めなかったため増派は中断し、第一波の約200名のみが7月初旬まで現地を守ることとなった<ref name=as0616>1999年6月16日付朝日新聞記事「動けず孤立 ロシア軍」</ref><ref name=as0704>1999年7月4日付朝日新聞記事「ロシア軍増援 NATO阻止」</ref>。
 
 
 
NATOとロシア双方の事前合意のない派兵で現地で緊張が高まる中、KFORの指揮系統や派遣地区に関する交渉は[[6月19日]]にまとまり、ロシア軍は派遣兵力規模3,600名(うち戦闘部隊は5個大隊2,850名)でKFORに参加し、NATOの指揮系統外の独自の指揮系統で行動することが認められた<ref name=as0619>1999年6月19日付朝日新聞記事「コソボ部隊 NATOに統一指揮権」「NATO ロシア独走に歯止め」</ref><ref name="bbc-airport">{{Cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/671495.stm|title=Confrontation over Pristina airport|date=2000-03-09|accessdate=2008-02-08|publisher=[[BBC]]}}</ref>。また、KFORの指揮権の統一を保つため、関連するNATOの各段階の司令部(欧州連合軍・南欧軍・コソボ国際部隊等)にロシア軍代表が派遣されることとなった<ref name=as0619/>。[[7月4日]]までには、ロシア軍の具体的な行動に関するNATOとの合意も成立し、ロシア軍は、空輸の他、[[ノヴォロシースク]]と[[トゥアプセ]]から[[テッサロニキ]]への海上輸送も併用して約3,600名の部隊を現地に派遣した<ref name=as0706>1999年7月6日付朝日新聞記事「火種はらむロシア軍増派」</ref>。NATO軍側は、第1装甲師団隷下の第3野戦砲兵連隊第2大隊がロシア軍の展開を支援した。
 
 
 
6月の時点で、進駐したロシア軍には、現地のセルビア人住民から、アルバニア系過激派による脅迫などの被害の訴えが寄せられていた<ref name=as0706/>。ユーゴスラビア政府は、コソボで少数派となるセルビア人などの保護について懸念しており、ロシアもKFOR派遣にあたっては、セルビア人住民の多い地域を中心にロシア軍の単独進駐地区を設定するようNATO側と交渉していたが<ref name=as0613/>、NATO側はコソボの分割につながるとしてこれを認めず、NATO側5箇国がコソボ全域を分担して管轄区域を設け、ロシア軍はそのうちアメリカ・フランス・ドイツの管轄区域の一部に独自の指揮系統を保って組み込まれる形となった<ref name=as0619/>。結果的に、KFORはセルビア人など少数派住民を迫害から守りきれず、多数のセルビア人住民などが迫害を逃れて難民となりコソボを離れる事態を防ぐことはできなかった。
 
 
 
== 戦争に対する反応 ==
 
NATOによるユーゴスラビア空爆の正当性は、大きく議論の的となった。NATOは[[国際連合安全保障理事会]]による裏づけのないまま攻撃を行った。これは、ユーゴスラビアと親しい関係にある常任理事国の[[中華人民共和国|中国]]やロシアの反対による。ロシアはユーゴスラビアに対する軍事行動を正当化するような決議には拒否権を行使するとしていた。NATOは、国連安全保障理事会による同意のないままでの軍事行動を、「国際的な人道危機」を理由に正当化しようとした。また、NATOの憲章では、NATOは加盟国の防衛のための組織であるとされていたにもかかわらず、今回の場合はNATO加盟国に直接の脅威を与えないNATO非加盟国に対する攻撃を行ったことも、批判の対象となった。NATOは、[[バルカン半島]]の不安定はNATO加盟国への直接の脅威であると主張し、そのためこの軍事作戦はNATOの憲章上、認められるものであるとした。このときバルカン半島の不安定によって直接の脅威を受ける国は[[ギリシャ]]であった。
 
 
 
多くの西側諸国の政治家たちは、NATOによる作戦はアメリカによる侵略、帝国主義であるとみなし、加盟国の安全保障の利益と一致しないとして批判した。[[ノーム・チョムスキー]]や[[エドワード・サイード]]、[[ジャスティン・レイモンド]]、[[タリク・アリ]]などの古参の反戦活動家らによる反戦活動も目立った。しかし、[[イラク戦争]]に対する反戦運動と比べると、コソボ紛争介入に対するものは多くの支持を集めることはなかった。テレビに映し出されるコソボ難民たちの姿は、NATOの活動を単純化し、また西側諸国による紛争介入の大きな動機であった。このような中で、コソボ解放軍による蛮行は矮小化されていた。また、イラク戦争時と比べると、介入に踏み切った国々の指導者たちの顔ぶれも大きく異なっていた。このときの各国の指導者たちの多くは中道左派、あるいは穏健なリベラル主義の政治家たちであった。主だった者として、アメリカの大統領は[[ビル・クリントン]]、イギリスの首相は[[トニー・ブレア]]、カナダの首相は[[ジャン・クレティエン]]、ドイツの首相は[[ゲアハルト・シュレーダー]]、イタリアの首相は[[マッシモ・ダレマ]]であった。反戦活動家たちの多くは、リベラル右派、極左、セルビア系移民、そのほか人道主義団体の支援を受けた各種の左翼主義者たちであった。ベオグラードに対するドイツの攻撃(20世紀で3度目のことである)は、[[オスカー・ラフォンテーヌ]]が連邦金融大臣や[[ドイツ社会民主党]](SPD)議長の地位を退く理由のひとつであった。
 
 
 
しかし、NATOが軍事作戦を指揮するに至った点についてはさまざまな政治的立場からの批判が上がっている。NATOの指導者たちは、コソボへの介入で、[[誘導爆弾]]を用いた「きれいな戦争」を実現したいと考えていた。[[アメリカ国防総省]]は、[[6月2日]]までに使用された20,000の爆弾およびミサイルのうち99.6%は目標に命中していると主張した。しかしながら、[[劣化ウラン]]や[[クラスター爆弾]]の使用、そして「環境への攻撃」として批判を受けた[[製油所]]や化学工場への攻撃については強い異論がある。また、紛争の進展の遅れについても批判があった。NATOは小規模な空爆や空中戦から始めるのではなく、最初から大規模な全面攻撃に出るべきであったとの見解も強い。
 
 
 
=== NATOによる空爆の対象に関して ===
 
[[ファイル:Bombing of Zastava factory.jpg|thumb|250px|[[セルビア]]の都市、[[クラグイェヴァツ]]の空爆後に撮影された空中写真。]]
 
攻撃目標の選定についても批判がある。[[ドナウ川]]にかかる橋への攻撃は、その後数箇月にわたってドナウ川の水上交通を遮断し、ドナウ川沿いの国々の経済に深刻な影響をもたらした。生産設備も攻撃を受け、多くの町の経済を破壊した。後に、セルビアの反体制派らは、ユーゴスラビア軍が民間の工場を武器生産に使用したと主張した。[[チャチャク]]にあるスロボダ(Sloboda)の真空クリーナー工場は戦車の修復にも使われ、[[クラグイェヴァツ]]にある[[ザスタバ]]の工場は、自動車とともにカラシニコフ銃を生産していた。だが、自動車と銃の生産場所はそれぞれ離れた別の建物であった。国有の工場のみが標的とされており、そのため、外国資本主導による民間ベースでの再建まで見据えて空爆の標的が選ばれたのではないかとの疑念を持たれた
 
<ref>{{citeweb|author=John Pilger|date=2004-12-13|publisher=New Statesman|url=http://www.newstatesman.com/200412130010|title=John Pilger reminds us of Kosovo | accessdate=2008.12.10}}</ref>。私有、あるいは外国資本の生産施設は一切攻撃を受けていなかった。
 
 
 
もっとも批判の強かった空爆対象は、[[4月23日]]に行われたセルビアの公共放送の本社への攻撃であろう。この攻撃では少なくとも14人が犠牲となった。NATOはこのセルビア公共放送への攻撃について、ミロシェヴィッチ政権のプロパガンダの道具を破壊するためのものとして正当化した。セルビア国内の反体制派らは、放送局の上層部は攻撃を事前に警告されており、空襲警報が発令されていたにもかかわらず、放送局のスタッフに建物内に留まるよう命じたとして、これを非難した。
 
 
 
ユーゴスラビア国内では、紛争へのNATO介入に対する世論は、強く批判するセルビア人と、強く擁護するアルバニア人に分かれた。しかし、アルバニア人すべてがNATOを全面的に擁護したわけではなく、NATOの攻撃が遅いとしてこれを批判する者もいた。ミロシェヴィッチ大統領に対する支持は落ちていったものの、NATOによる空爆によって、セルビア人の間では民族的連帯感が高まった。ミロシェヴィッチ大統領は事態を放置することはなかった。多くの反体制派らは、特にジャーナリストの{{仮リンク|スラヴコ・ツルヴィヤ|en|Slavko Curuvija}}が[[4月11日]]に暗殺されてからは、生命の危機に脅かされることとなった。ツルヴィヤの暗殺は、ミロシェヴィッチ大統領の秘密警察への批判を高めた。モンテネグロでは、同国の[[ミロ・ジュカノヴィッチ]]大統領がNATOの空爆とセルビアのコソボでの攻撃の双方に反対し、モンテネグロでのミロシェヴィッチ大統領の支持者による[[クーデター]]への恐れを表明した。
 
 
 
ユーゴスラビア周辺の国々の反応はより複雑であった。マケドニアは旧ユーゴスラビア諸国のうち、モンテネグロ以外ではセルビアとの戦争を経験していない唯一の国であった。コソボでのセルビア人とアルバニア人の衝突によって、マケドニア国内で多数派である[[マケドニア人]]と、規模の大きい少数派である[[アルバニア人]]との関係が緊迫化した。マケドニアの政府はミロシェヴィッチ大統領の行動を支持しなかったものの、マケドニア国内に流入するアルバニア人難民にも強く共感することはなかった。[[アルバニア]]は紛争がコソボとの国境の両側での不安定化につながるものとして、全面的にNATOの行動を支持した。[[クロアチア]]、[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]]はNATO空軍機に対して上空通過権を認めた。[[ハンガリー]]は当時新しくNATOに加盟したばかりであり、攻撃を支持した。[[アドリア海]]をはさんで隣接する[[イタリア]]では、大衆世論は反戦に傾いていたものの、政府はNATOに対してイタリアの空軍基地の全面的な使用権を認めた。[[ギリシャ]]では、紛争への反対世論は96%に達した<ref>{{citeweb|url=http://www.hri.org/news/greek/mpa/1999/99-04-17.mpa.html|title=Macedonian Press Agency: News in English|date=1999-04-17 | accessdate=2008.12.10}}</ref>
 
 
 
1999年当時、サッカー[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[名古屋グランパスエイト]]に所属していた[[ユーゴスラビア]]代表(当時)の[[ドラガン・ストイコビッチ|ストイコビッチ]]がゴールを決めた後に、「NATO STOP STRIKE」と書かれたTシャツを見せるパフォーマンスを行った。
 
 
 
== 紛争に対する批判 ==
 
紛争に対する批判は、コソボでの[[ジェノサイド]]を阻止できなかった各方面の指導者たちにも向けられた<ref>{{citeweb|author=Joseph Farah|date=1999-11-29|url=http://www.worldnetdaily.com/news/article.asp?ARTICLE_ID=14861|title=The Real War Crimes|publisher={{仮リンク|WorldNetDaily|en|WorldNetDaily}} | accessdate=2008.12.10}}</ref>。アメリカのクリントン大統領は、多くのアルバニア人がセルビア人によって殺害されるのを阻止できなかったことについて批判された<ref>{{cite news|author=Phyllis Schlafly|date=1999-10-19|url=|title=Numbers Game in Kosovo|publisher=[[Washington Times]] | accessdate=2008.12.10}}</ref>。クリントン政権の[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]であった[[ウィリアム・コーエン]]は演説のなかで、「コソボでの虐殺に関する恐ろしい報告や、セルビア人による迫害から命を守るためにコソボを逃れるアルバニア人難民の姿は、この戦争がジェノサイドを阻止するための正義の戦争であることを明確にした」と述べた<ref>{{citeweb|author=William Cohen|date=1999=04-07|url=http://www.defenselink.mil/transcripts/1999/t04091999_t407nato.html|title=Secretary Cohen's Press Conference at NATO Headquarters|publisher=[[U.S. Department of Defense]] | accessdate=2008.12.10}}</ref>。CBSの「国家の顔」でコーエン国防長官は「現在、100,000人の従軍可能年齢の男性の行方がわかっていない。彼らは殺害されたかもしれない」と述べた<ref>{{citeweb|author=Tom Doggett|date=1999-05-16|url=http://www.washingtonpost.com/wp-srv/inatl/longterm/balkans/stories/cohen051699.htm|title=Cohen Fears 100,000 Kosovo Men Killed by Serbs|publisher=[[Washington Post]] | accessdate=2008.12.10}}</ref>。クリントン大統領も同様の見解を引いて、「少なくとも100,000人の行方不明者がいる」と述べた<ref>{{citeweb|author=Bill Clinton|date=1999-05-13|url=http://www.clintonfoundation.org/legacy/051399-speech-by-president-to-veterans-organizations-on-kosovo.htm |title=Speech by President to Veterans Organizations on Kosovo |accessdate=2005-09-15 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20051202002301/http://www.clintonfoundation.org/legacy/051399-speech-by-president-to-veterans-organizations-on-kosovo.htm |archivedate=2005年12月2日}}</ref>。
 
 
 
後に、ユーゴスラビアの選挙に関してクリントン大統領は「彼らは、ミロシェヴィッチ氏が命じた事実に直面せざるを得なくなるだろう。彼らがミロシェヴィッチ氏を指導者として認めるかどうか、彼らが数万人の人々の殺害を是認するか否か…」と述べた。同じ記者会見でクリントン大統領はさらに、「意図的で、体系的な民族浄化とジェノサイドのための動きを、NATOは食い止めた」とも述べた<ref>{{citeweb|author=Bill Clinton|date=1999-06-25|url=http://clinton6.nara.gov/1999/06/1999-06-25-press-conference-by-the-president.html|title=Press Conference by the President | accessdate=2008.12.10}}</ref>。クリントン大統領はコソボでの出来事を[[ホロコースト]]と比べた。CNNは、「ユーゴスラビアでのNATO軍の戦闘への支持を得るために、火曜日の記者会見でクリントン大統領が行った、セルビアのコソボでの民族浄化へを第二次世界大戦でのユダヤ人に対するジェノサイドに類するものとする非難によって、外交による平和的解決への道は一段と難しいものとなった。」と報じた<ref>{{citeweb|url=http://www.cnn.com/US/9903/23/u.s.kosovo.04/|title=Clinton: Serbs must be stopped now|date=1999-03-23|publisher=[[CNN]] | accessdate=2008.12.10}}</ref>。クリントン政権の[[アメリカ合衆国国務省|国務長官]]もまた、ユーゴスラビア軍がジェノサイドに加担していると主張した。ニューヨーク・タイムズ紙は、「政府は、ユーゴスラビア軍によるジェノサイドの証拠には、大規模な恐ろしい犯罪行為に関するものが含まれている。国務省による言葉は、これまででもっとも強い、ミロシェヴィッチ大統領への批判であった」と報じた<ref>Clines, Francis X ([[3月30日|March 30]], [[1999年|1999]]). "NATO Hunting for Serb Forces; U.S. Reports Signs of 'Genocide'". ''The New York Times'', p. A1.</ref>。国務省はまた、それまでで最大数のアルバニア人の死者数を挙げた。ニューヨーク・タイムズ紙が報じたところによると、国務省は、アルバニア人の死者および行方不明者の数は500,000人に上るとした<ref>Erlanger, Steven ([[11月11日|November 11]], [[1999年|1999]]). "Early Count Hints at Fewer Kosovo Deaths". ''The New York Times'', p. A6.</ref>。
 
 
 
国際連合の憲章は、国連安全保障理事会での決議を必要とする一部の例外を除いて、他の独立国への軍事侵攻を禁じている。この問題はロシアによって、国連安全保障理事会に持ち込まれた。その決議案では、特に、「このような一方的な武力行使は、国際連合憲章への重大な違反にあたる」とした。中国、[[ナミビア]]、ロシアが決議案に賛成、その他の国々は反対し決議案は否決された<ref>{{citeweb|url=http://www.un.org/News/Press/docs/1999/19990326.sc6659.html|date=1999-03-26|publisher=[[United Nations]]|title=Security Council Rejects Demand for Cessation of Use of Force Against Federal Republic of Yugoslavia | accessdate=2008.12.10}}</ref>。
 
 
 
[[1999年]][[4月29日]]、ユーゴスラビアは[[デン・ハーグ|ハーグ]]にある[[国際司法裁判所]]でNATO加盟諸国(ベルギー、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、カナダ、オランダ、ポルトガル、スペイン、アメリカ)を相手に訴えを起こした。裁判所は、紛争当時、ユーゴスラビアが国連の加盟国ではないために、この訴えについての判断を避けた。
 
 
 
西側諸国では、NATOによる攻撃に反対する意見は主にリベラル右派から起こり、またほとんどの[[極左]]主義者も攻撃に反対した。イギリスでは、元[[外務英連邦大臣]]の[[マルコム・リフキンド]]([[:en:Malcolm Rifkind|Malcolm Rifkind]])や、元[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]の[[ノーマン・レイモント]]([[:en:Norman Lamont|Norman Lamont]])、ジャーナリストの[[ピーター・ヒッチェンズ]]([[:en:Peter Hitchens|Peter Hitchens]])、[[サイモン・ヘッファー]]([[:en:Simon Heffer|Simon Heffer]])などの有力な右派の人物が紛争に反対した。また、[[:en:The Morning Star|The Morning Star]]紙によると、左翼の議員[[トニー・ベン]]([[:en:Tony Benn|Tony Benn]])、[[アラン・シンプソン (政治家)|アラン・シンプソン]]([[:en:Alan Simpson (politician)|Alan Simpson]])らが紛争に反対していることを報じた。しかし、[[レーニン主義]]の党派である緑の英国共産党([[:en:Communist Party of Great Britain (Provisional Central Committee)|Communist Party of Great Britain (Provisional Central Committee)]])は、NATOによる攻撃をアメリカ帝国主義とみなしたものの、コソボ解放軍には同調し、コソボのセルビアからの完全分離を支持した。
 
 
 
紛争が終わった[[1999年]][[6月11日]]、紛争はコソボに破壊と混乱を残し、ユーゴスラビアは将来への不安に直面することとなった。
 
 
 
== 死傷者の数 ==
 
=== NATOの空爆による市民の死者数 ===
 
紛争によって多くの死傷者が出た。1999年3月の時点ですでに戦闘による死者と民間人への攻撃をあわせて、戦闘員・民間人あわせて1,500人ないし2,000人の死者が出ていた<ref name="HRW1">{{citeweb|url=http://www.hrw.org/reports/2001/kosovo/undword-03.htm|title=Under Orders: War Crimes in Kosovo|publisher=[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ|Human Rights Watch]]|accessdate=2008-12-03}}</ref>。最終的な死者数はなお定まっていない。
 
 
 
ユーゴスラビアは、NATOの攻撃によって1,200人から5,700人の死者が出たとしている。NATOは、市民の死者数を1,500人とした。[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]は、90回の攻撃で少なくとも488人の市民の死亡を確認している<ref name="chida naze" />。(うち90-150人はクラスター爆弾による死者である)。コソボでの攻撃はより激しいものであり、攻撃全体の3分の1で、全死者数の半数以上を出したとしている<ref>{{citeweb|url=http://www.hrw.org/reports/2000/nato/index.htm#TopOfPage|title=Civilian Deaths in the NATO Air Campaign|publisher=[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ|Human Rights Watch]]|month=February|year=2000 | accessdate=2008.12.10}}</ref>。
 
 
 
=== ユーゴスラビア軍の行動による市民の死者数 ===
 
ユーゴスラビア陸軍による死者数については複数の推計がたびたび行われている。
 
 
 
紛争後ほぼ1年が経過した2000年6月、[[国際赤十字]]は、3,368人の市民(2,500人のアルバニア人、400人のセルビア人、100人の[[ロマ]])が依然行方不明であるとした<ref name = "BBC-missing">{{citeweb|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/781310.stm|publisher=[[BBC]]|title=3,000 missing in Kosovo|date=2000-06-07 | accessdate=2008.12.10}}</ref>。
 
 
 
2000年8月、[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]](ICTY)は、2,788体の遺体がコソボで発掘されたが、うちいくつが戦争犯罪の犠牲者であるかは定かではないとした<ref>{{citeweb|url=http://www.guardian.co.uk/Archive/Article/0,4273,4052755,00.html|publisher=[[The Guardian]]|title=Serb killings 'exaggerated' by west|author=Jonathan Steele|date=2000-08-18 | accessdate=2008.12.10}}</ref>。しかし、KFORの情報筋がAFPに伝えたところによると、2,150体の遺体が1999年7月までに発見され、うち850体は戦争犯罪の犠牲者であると考えられるといわれた<ref>Agence France Presse -- English; [[8月3日|August 03]], [[1999年|1999]] 11:05 GMT; Top UN official in Kosovo sparks storm over mass grave body count</ref>。
 
 
 
行方不明になった市民の一部は、セルビア本国の集団墓地で再び焼却された。2001年7月、セルビア当局は、1,000体ちかい遺体が投棄された集団墓地が見つかったと発表した<ref name="HRW1" />。最大の集団墓地は、ベオグラード郊外のバタイニツァ(Batajnica)にて、セルビアの警察訓練の団体によって発見された。
 
 
 
人権団体に報告された4,400人の死者数を大きく上回っているが、ICTYの検察局の専門家らは、死者数は合計で10,000人程度であると推定している<ref>{{citeweb|url=http://shr.aaas.org/kosovo/icty_report.pdf|title=Killings and Refugee Flow in Kosovo|date=2002-01-03 | accessdate=2008.12.10}}</ref>。ICTYの検察局による死者数の推計は、大切な人の死についてICTYに報告しない人々がいることを考慮に入れたものである<ref>{{citeweb|url=http://www.un.org/icty/transe87/070220IT.htm|title=Testimony of statistical expert Patrick Ball; Milutinovic Trial Transcript|date=2007-02-20 | accessdate=2008.12.10}}</ref>。
 
 
 
10,000人という死者数の推計は、人道上の犯罪をユーゴスラビア攻撃の最大の理由としているアメリカ国務省によっても使用されている<ref name = "state.gov-ethnic">{{citeweb|url=http://www.state.gov/www/global/human_rights/kosovoii/homepage.html|title=Ethnic Cleansing in Kosovo: An Accounting|publisher=[[U.S. Department of State]] | accessdate=2008.12.10}}</ref>。
 
 
 
[[アトランタ]]の[[アメリカ疾病予防管理センター]]によって、2000年に医学ジャーナル誌[[ランセット|Lancet]]に報告された研究調査では、住民全体の死者数のうち、12,000人は紛争によるものとみられるとした<ref name="lancet-pdf" /><!-- <ref>{{citeweb|url=http://pdf.thelancet.com/pdfdownload?uid=llan.355.9222.original_research.1004.1&x=x.pdf |title=Casualties in Kosovo |publisher=[[The Lancet]] |date=2000-06-24 |accessdate=2000?}}{{リンク切れ|date=2008年12月}}</ref>。 -->この値は、1197世帯に関しての1998年2月から1999年6月までの調査に基づいており、対象となった世帯でのこの期間の死者数105人のうち67人が紛争に関連する外傷によるものであり、これに基づいてコソボの住民全体の死者数を推計した結果が12,000人となる。紛争による死亡率がもっとも大きかったのが15歳から49歳の男性で死者数5421人、50歳以上の男性では5176人とされる。15歳に満たない人々の死者数は男性160人、女性200人とみられる。15歳から49歳の女性の死者数は510人、50歳以上の女性の死者数は541人であった。論文の著者らは、民間と軍人の犠牲者数を正確に区別することは不可能であるとした。
 
 
 
=== コソボ解放軍による市民の死者数 ===
 
セルビア政府の報告によると、[[1998年]][[1月1日]]から[[1999年]][[6月10日]]までの間に、コソボ解放軍は998人を殺害し、287人を拉致したとしている。また、NATOによる統治が行われていた[[1999年]][[6月10日]]から[[2001年]][[11月11日]]までの期間で、847人が殺害され、1154人が拉致された。この死者数には軍人と民間人の双方が含まれている。1999年6月10日までの期間の死者のうち、335人は民間人、351人は兵士、230人は警官、72人は不明である。民間人の死亡者を民族別に分けると、87人がセルビア人、230人がアルバニア人、18人がその他<ref name=serbia>{{citeweb|url=http://www.arhiva.serbia.sr.gov.yu/news/2002-07/08/325076.html|title=Victims of the Albanian terrorism in Kosovo-Metohija (Killed, kidnapped, and missing persons, January 1998 - November 2001)|publisher=Government of Serbia|accessdate=2008-12-03}}</ref> である。
 
 
 
=== NATOの損害 ===
 
NATOの軍人の損害は少なく、戦闘による死者はなしとなっている。しかし[[5月5日]]、アメリカ軍の攻撃ヘリコプター[[AH-64 アパッチ]]がアルバニアとセルビアの国境近くで墜落した<ref name="NATOlosses">{{citeweb|url=http://www.aeronautics.ru/official/losthelicopters.htm|title=Officially confirmed/documented NATO helicopter losses|accessdate=2008-12-04}}</ref>。
 
 
 
AH-64は[[ティラナ]]から64キロメートル北西の、コソボ国境に近いところで墜落した<ref name="Apache">{{citeweb|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/335709.stm|title=Two die in Apache crash|publisher=[[BBC]]|date=1999-05-05|accessdate=2008-12-04}}</ref>。CNNによると、墜落はティラナから北西に72キロメートルの地点であった<ref>{{citeweb|url=http://www.cnn.com/US/9905/05/apache.crash/|title=U.S. helicopter crew killed in crash in Albania|publisher=[[CNN]]|date=1999-05-05|accessdate=2008-12-04}}</ref>。AH-64の2人のアメリカ人のパイロット、上級准尉デーヴィッド・ギブス(David Gibbs)とケヴィン・L・ライチャート(Kevin L. Reichert)はこの墜落で死亡した。NATOの公式発表によると、この2人のみが、紛争中におけるNATO軍人の死者である。
 
 
 
また、紛争後の死者もあり、その多くは地雷によるものであった。紛争が終わったあとのNATOの報告によると、最初のアメリカ軍のステルス攻撃機[[F-117 (航空機)|F-117]]の損失は、敵による撃墜であったことが明らかにされた<ref>{{cite web |url=http://www.airpower.maxwell.af.mil/airchronicles/apj/apj02/sum02/lambeth.html |title=Kosovo and the Continuing SEAD Challenge |accessdate=October 30 2006 |author=Benjamin S. Lambeth|date=2006-06-03 |work=Aerospace Power Journal |publisher=United States Air Force|quote=航空作戦の4日目の夜、SA-3による明らかな弾幕によって、F-117は、[[ベオグラード]]の北西28マイルの、[[ルマ|ブジャノヴツィ]]([[:en:Buđanovci|Buđanovci]])付近の丘陵地帯の上空、約2045にて撃墜され、史上初の、戦闘でのステルス機の損失を記録した(''On the fourth night of air operations, an apparent barrage of SA-3s downed an F-117 at approximately 2045 over hilly terrain near Budanovci, about 28 miles northwest of Belgrade- marking the first combat loss ever of a stealth aircraft.'')}}</ref>。さらにもう1機の[[F-16 (戦闘機)|F-16]]戦闘機が[[シャバツ]]([[:en:Šabac|Šabac]])付近でユーゴスラビア空軍によって失われ(NATOはエンジン不良であると報告した)、その残骸は[[ベオグラード空軍博物館]]([[:en:Museum of Aviation in Belgrade|en]])に展示されている。また32機の[[無人航空機]]も失われた{{Fact|date=2008年2月}}。撃墜された無人偵察機の残骸は紛争中に、セルビアのテレビで放映された。2機目のF-117Aは激しく損害を受けたものの、基地への帰還を果たし、それ以降は飛ぶことはなかった<ref>{{cite web|url=http://www.pogo.org/m/dp/dp-fa22-Riccioni-03082005.pdf|format=PDF|last=Riccioni|first=Everest E., Colonel, USAF, retired|title=Description of our Failing Defense Acquisition System|date=2005-03-08|accessdate=2008-12-04|work=Project on government oversight}}</ref>。
 
 
 
=== ユーゴスラビア軍の損害 ===
 
[[ファイル:Bosnia mig29.jpg|thumb|250px|[[MiG-29 (航空機)|MiG-29]]の残骸。[[1999年]][[3月27日]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の[[:en:Ugljevik|Ugljevik]]にて。]]
 
 
 
NATOは公式にユーゴスラビア軍の損害の推計を出してはいない。ユーゴスラビア当局は、NATOの空爆によって、169人の兵士が死亡し、299人が負傷したとしている<ref>{{citeweb|url=http://www.worldnetdaily.com/news/article.asp?ARTICLE_ID=18441|title=Spinners, sinners and no winners|author=David Hackworth|publisher=WorldNetDaily |date=1999-07-02 | accessdate=2008.12.10}}</ref>。ユーゴスラビア軍の死者の名前は「記憶の書」に記録されている。
 
 
 
ユーゴスラビア軍の装備に対して、NATOは50機のユーゴスラビアの軍用機を破壊した。その多くは古く、飛べないものであり、実戦投入可能な軍用機への攻撃を逸らすための「おとり」として、わざと配置されたものであった。例外として、11機のMiG-29、6機の[[ソコ G-4|G-4スーパーガレブ]]は、頑丈なシェルターの中に収められたものであったが、シェルターのドアの閉め忘れによって攻撃を受けることになった。紛争が終わった時点で、NATOは公式に93輌のユーゴスラビアの戦車を破壊したとした。ユーゴスラビアは13輌の戦車の損失を認めた。ユーゴスラビアの主張は、同国がデイトン合意の枠組みに復した時点で、西側諸国の検査官らによって、デイトン合意当時とコソボ紛争終結後のこの時点での戦車の台数の差から確認された。喪失した戦車は全部で14輌であり、9輌の[[M-84]]と5輌の[[T-55]]であった。また。18輌の装甲兵員輸送車、20門の大砲も破壊された<ref>"The Kosovo Cover-Up" by John Barry and Evan Thomas, ''Newsweek'', [[5月15日|May 15]], [[2000年|2000]].</ref>。
 
 
 
コソボで攻撃を受けた標的の多くは「おとり」であり<ref name="chida naze" />、プラスチック・シートに電信柱で砲身をつけた戦車や、動かなくなった第二次世界大戦時の戦車などであった。対空戦力は戦略上使用されずに隠し置かれ、破壊を免れた。そのためNATO空軍機は低空を飛ぶことができず、高度5,000メートル(15,000フィート)以上を飛ぶことを余儀なくされ<ref name="chida naze" />、正確な空爆を困難にした。紛争終結に向けて、コソボ・アルバニア国境での[[B-52 (航空機)|B-52]]爆撃機での絨毯爆撃が駐留するユーゴスラビア軍に大きな損害を与えたと宣伝された。後に、NATOの注意深い調査によって、そのような大規模な損害を与えた証拠はないと結論付けられた。
 
 
 
しかしながら、ユーゴスラビア軍の中でもっとも重大な損害は、損害・破壊を受けたインフラストラクチャーであった。ほぼ全ての空軍基地と飛行場(バタイニツァ [[:en:Batajnica Air Base|Batajnica]]、クラリェヴォ=ラジェヴツィ [[:en:Kraljevo-Lađevci Airport|Lađevci]]、スラティナ [[:en:Slatina Air Base|Slatina]]、ゴルボヴツィ [[Golubovci Air Base|Golubovci]]、コヴィン [[:en:Kovin Airport|Kovin]]、ジャコヴィツァ [[:en:Đakovica Airfield|Đakovica]])や、その他の軍関係の建物、施設は激しく損害・破壊された。これは、部隊やその装備とは異なり、軍事施設は「おとり」によってカモフラージュすることはできないためである。同様に、軍需産業や軍事技術修復施設も激しく破壊された([[:en:Utva|Utva]]、[[:en:Zastava Arms|Zastava Arms]]工場、Moma Stanojlović空軍修復拠点、[[チャチャク]]および[[クラグイェヴァツ]]の技術修復拠点)。加えて、ユーゴスラビア軍を弱らせるために、NATOは重要な民間施設も標的にした([[パンチェヴォ]]の石油精製所、橋、鉄道など)。
 
 
 
=== コソボ解放軍の損害 ===
 
コソボ解放軍の損害については解析が困難である。コソボ解放軍の死者数は5000とする報告もある<ref>[http://antiwar.com/malic/?articleid=13083 The War Street Journal Invents Kosovo (KLA casualties)]</ref>。コソボ解放軍の兵士の死亡は、軍の退却時に発生することがあることや、遺体が戦場に残され、ユーゴスラビア軍によって集団墓地で焼却されてしまうことも、死者の数を特定することを困難としている。さらに問題を複雑にしているのは、誰がコソボ解放軍の兵士かという問題である。たとえば、ユーゴスラビア軍は、武装したアルバニア人はコソボ解放軍であるとみなしており、武装者が実際にコソボ解放軍に徴用されIDを与えられた兵士であるかは問題としていなかった。このことから、ある人物が、アルバニア人側からは民間人として、セルビア人側からはコソボ解放軍の戦闘員として計算されることも起こる。また、コソボ解放軍の兵士の多くは制服を着ておらず、コソボ解放軍の戦術では、死亡した兵士からは武器などを取り去り、ユーゴスラビア軍によって民間人が殺害されたかのように装うこともあったという。
 
 
 
=== 余波 ===
 
[[ファイル:Intolerance.jpg|thumb|250px|戦後にアルバニア人によって破壊された[[セルビア正教会]]の[[教会]]]]
 
 
 
3週間の間に、50万人のアルバニア人[[難民]]が故郷に戻った。1999年11月の時点で、[[国際連合難民高等弁務官事務所]](UNHCR)によると、難民848,100人のうち、808,913人が故郷に戻った。
 
 
 
しかしながら、大規模な暴力によって、20万人のセルビア人がコソボを去ることを余儀なくされた<ref>{{citeweb|url=http://hrw.org/english/docs/2004/03/18/serbia8129.htm|title=Kosovo/Serbia: Protect Minorities from Ethnic Violence|publisher=[[Human Rights Watch]] | accessdate=2008.12.10}}</ref>。[[ロマ]](ジプシー)もまたアルバニア人からの迫害によって、コソボを追われた。[[1999年]][[6月12日]]以降、少なくとも1000人のセルビア人やロマが、コソボ解放軍の成員や犯罪組織、あるいは個人による民族的憎悪によって、殺害されるか行方不明となった<ref name=serbia/>。ユーゴスラビア国際赤十字は、11月までに247,391人の難民を登録している。新たな難民の発生は、NATOの悩みの種となった。NATOは[[国際連合コソボ暫定行政ミッション|UNMIK]]傘下で45,000人の平和維持軍を作り上げていた。
 
 
 
マケドニア共和国から帰還した避難民たちは、[[ミトロヴィツァ (コソボ)|ミトロヴィツァ / コソヴスカ・ミトロヴィツァ]]の鉛で汚染された難民キャンプに留め置かれた。ポール・ポランスキ([[:en:Paul Polansky|Paul Polansky]])による慈善団体によると、鉛汚染によって27人が死亡したとしている。UNMIKはこれを否定し、死亡したのは1人のみであるとした。
 
 
 
アムネスティ・インターナショナルによると、コソボでの平和維持軍の駐留によって、性的搾取を目的とした[[人身売買]]が増加したとしている<ref>{{citeweb|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3686173.stm |title=Kosovo UN troops 'fuel sex trade' |publisher=[[BBC]] |date=2004-05-06 |accessdate=2008-12-10}}</ref><ref>{{citeweb |url=http://web.amnesty.org/actforwomen/stories-9-eng |title=Kosovo: Trafficked women and girls have human rights |publisher=[[Amnesty International]] |accessdate=2006-05-23 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20040618222134/http://web.amnesty.org/actforwomen/stories-9-eng |archivedate=2004年6月18日}}</ref><ref>{{citeweb|url=http://www.guardian.co.uk/international/story/0,,1211214,00.html|title=NATO force 'feeds Kosovo sex trade'|publisher=[[The Guardian]]|author=Ian Traynor|date=2004-05-07 | accessdate=2008.12.10}}</ref>。
 
 
 
== 戦争犯罪 ==
 
空爆が終わる前に、ユーゴスラビアのミロシェヴィッチ大統領は、紛争当時の連邦内相[[ヴライコ・ストイリコヴィッチ]]([[:en:Vlajko Stojiljković|Vlajko Stojiljković]])連邦内相や[[ニコラ・シャイノヴィッチ]]([[:en:Nikola Šainović|Nikola Šainović]])連邦副首相、{{仮リンク|ドラゴリュブ・オイダニッチ|en|Dragoljub Ojdanić}}([[:en:Dragoljub Ojdanić|Dragoljub Ojdanić]])セルビア国防相、{{仮リンク|ミラン・ミルティノヴィッチ|en|Milan Milutinović}}セルビア大統領とともに[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]](ICTY)によって殺人、強制移住、追放、政治的・人種的・宗教的な迫害を含む[[人道に対する罪]]で訴追された。このうち、ストイリコヴィッチ連邦内相は、2002年にセルビア議会前で拳銃[[自殺]]を計り死亡している。
 
 
 
2003年10月にはさらに多くの人物が起訴された。このとき起訴されたのは、元ユーゴスラビア連邦軍の[[ネボイシャ・パヴコヴィッチ]]([[:en:Nebojša Pavković|Nebojša Pavković]])参謀総長、元司令官の[[ヴラディミル・ラザレヴィッチ]]([[:en:Vladimir Lazarević|Vladimir Lazarević]])元司令官、[[ヴラスティミル・ジョルジェヴィッチ]]([[:en:Vlastimir Đorđević|Vlastimir Đorđević]])元警察官、当時の[[スレタン・ルキッチ]]([[:en:Sreten Lukić|Sreten Lukić]])セルビア公安局長であった。これらは全て人道に対する罪と[[戦時国際法]]への違反によって訴追された。
 
 
 
ICTYはまた、コソボ解放軍の成員らに対しても起訴を行った。起訴を受けたのは[[ファトミル・リマイ]]([[:en:Fatmir Limaj|Fatmir Limaj]])、[[ハラディン・バラ]]([[:en:Haradin Bala|Haradin Bala]])、[[イサク・ムスリウ]]([[:en:Isak Musliu|Isak Musliu]])、[[アギム・ムルテジ]]([[:en:Agim Murtezi|Agim Murtezi]])であり、人道に対する罪で起訴された。これらは[[2003年]]の[[2月17日]]から[[2月18日]]にかけて逮捕された。アギム・ムルテジに対する起訴はその後、人違いとして取り下げられ、またファトミル・リマイは[[2005年]][[11月30日]]に全ての容疑について無罪となった。容疑は、1998年の5月から7月にかけてラプシュニク(Lapušnik / Llapushnik)の強制収容所の護衛であったことに関連する。
 
 
 
戦争犯罪に対する訴追はユーゴスラビア国内でも起こされた。ユーゴスラビア軍の兵士イヴァン・ニコリッチ([[:en:Ivan Nikolić|Ivan Nikolić]])は2002年にコソボでの2人の市民の殺害に関して有罪と認定された。多数のユーゴスラビア軍の兵士らがユーゴスラビアの[[軍事法廷]]で裁判を受けた。
 
 
 
[[2005年]]3月、ICTYは[[コソボの首相]]・[[ラムシュ・ハラディナイ]]をセルビア人に対する戦争犯罪の容疑で訴追した。ハラディナイ首相は[[3月8日]]に首相を辞任した。アルバニア人のハラディナイ首相は、コソボ解放軍の部隊を指揮した元指揮官であり、2004年12月にコソボ議会で72票の賛成をうけて首相に就任したばかりであった。ハラディナイ首相は[[2008年]]4月、一審で全ての容疑について無罪となった<ref name="afpbb 2008 kosovo zouki">
 
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|date=2008-4-15
 
|url=http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2378725/2836420
 
|title=コソボ解放軍に臓器売買疑惑、元国際法廷検察官が本出版
 
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|title=旧ユーゴ戦犯法廷、元自治州首相に無罪判決
 
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</ref>。ICTYの検察局は判決を不服として控訴した。
 
 
 
セルビア政府や多数の国際的な圧力団体は、NATOが紛争中に戦争犯罪をしたと主張している。特に、ベオグラードにあるセルビア公共放送の本社など、軍民共用の施設に対する攻撃に関してこのような見方がもたれている。ICTYはこれらについても調査を命じた<ref>{{citeweb|url=http://www.un.org/icty/pressreal/nato061300.htm|title=Final Report to the Prosecutor by the Committee Established to Review the NATO Bombing Campaign Against the Federal Republic of Yugoslavia|publisher=[[国際連合|United Nations]]|accessdate=2008-12-04}}</ref>。ICTYは、NATOの民間人に対する戦争犯罪について訴追を進める権限がないと宣言した。
 
 
 
[[2007年]]までICTY検事であった[[カルラ・デル・ポンテ]]は、[[2008年]]に出版された著書の中で、[[1999年]]に紛争が終わった後、コソボのアルバニア人たちは100人から300人のセルビア人やその他の少数民族を殺害し、臓器をコソボからアルバニアに送っていたと主張した<ref>[http://online.wsj.com/article/SB120812796372611429.html?mod=googlenews_wsj Organ smuggling in Wall Street Journal]</ref>。しかし、ICTYの法廷は、デル・ポンテが主張するような嫌疑を支持する確固たる証拠はないとした<ref>[http://www.lefigaro.fr/flash-actu/2008/04/16/01011-20080416FILWWW00481-trafic-d-organeskosovo-aucune-trace.php Le Figaro - Flash actu : trafic d'organes/Kosovo: ''aucune trace'']</ref>。
 
 
 
ICTYとは別に、コソボ解放軍による虐待容疑を裁く特別法廷の準備手続きが2017年7月に完了した。コソボの国内法に基づいているが、公正さを確保するため設置場所は国外([[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]]と同じ[[デン・ハーグ|オランダのハーグ]])で、裁判官・検察官・職員も全て第三国民である。コソボ国内には反対論が多いものの、コソボ独立を支持した米国や[[欧州連合]](EU)が、セルビアとの和解を促す一環として設置を強く求めたため、コソボ政府・議会が受け入れた<ref>[http://www.asahi.com/articles/DA3S13083836.html コソボ紛争、裁かれる勝者/解放軍の虐待疑惑、特別法廷始動へ 裁判官すべて国外から] 『朝日新聞』朝刊(2017年8月12日)2017年8月14日閲覧</ref>。
 
 
 
== 余談 ==
 
2010年3月17日の[[ザ・ベストハウス123]]によれば、[[チリ]]国営テレビの音声担当の[[アブナー・マチュカ]]が撃たれて、手術するためイタリアに運ぶために、カメラマンの[[アレシャンド・レアル]]が世界中のマスコミに報せた。その結果、[[ジャーナリスト保護委員会]]がNATO本部へ直接交渉して、1999年5月28日午前2時から4時まで停戦した。マチュカは無事イタリアへ運ばれた。
 
 
 
== その後の軍事的・政治的な推移 ==
 
{{See also|コソボ地位問題}}
 
紛争終結以降、コソボは[[国際連合]]の監督下におかれた。その間、コソボはその後、政治・軍事の両面で重要な成果を挙げてきた。コソボの地位は2008年まで未確定の状態が続いた。
 
 
 
[[国際連合安全保障理事会決議1244]]で規定された、コソボの最終的な地位を決定するための国際的な地位交渉は2006年に開始された。国際連合の元での話し合いは、国連の特使である[[マルッティ・アハティサーリ]]の指導の下、2006年2月に開始された。技術的な面での進展は得られたものの、コソボの地位そのものに関するセルビア、コソボ双方の主張は正反対のままであった<ref>{{citeweb|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6034567.stm|title=UN frustrated by Kosovo deadlock|publisher=[[BBC]]|date=2006-10-09|accessdate=2008-12-04}}</ref>。2007年2月、アハティサーリは、セルビアとコソボの双方の指導者らに対して、自ら提起した草案を送った。これは国連安全保障理事会の決議の草案の基盤として作成されたものであり、コソボに対して国際的な監督下での独立を提案するものであった。2007年7月までに、草案は[[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]、その他の安全保障理事会の欧州の理事国からの承認を取り付けたものの、国家の主権に対する侵害にあたるとする懸念を持つロシアの同意を取り付けようと、4度にわたって修正された<ref>{{citeweb|url=http://www.setimes.com/cocoon/setimes/xhtml/en_GB/newsbriefs/setimes/newsbriefs/2007/06/29/nb-07|title=Russia reportedly rejects fourth draft resolution on Kosovo status|date=2007-06-29|publisher={{仮リンク|Southeast European Times|en|Southeast European Times}} |accessdate=2008-12-04}}</ref>。ロシアは、安全保障理事会で拒否権を持つ常任理事国であり、セルビアとコソボ双方が受け入れ可能なもの以外、あらゆる解決法を支持しないとしている<ref>{{citeweb|url=http://www.setimes.com/cocoon/setimes/xhtml/en_GB/newsbriefs/setimes/newsbriefs/2007/07/10/nb-02|title=UN Security Council remains divided on Kosovo|date=2007-10-07|publisher=Southeast European Times |accessdate=2008-12-04}}</ref>。2008年2月のコソボの一方的な独立宣言によって、草案は無効となった。
 
 
 
[[2008年]][[2月17日]]、コソボは独立を宣言し<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7249034.stm Kosovo MPs proclaim independence, ''The BBC News'', Sunday, 17 February 2008]</ref>、直後にアメリカや、イギリス、ドイツなど一部のEU諸国、トルコなどが独立を承認し、日本政府も3月18日に承認した。一方で、セルビアはアメリカなど独立を承認した国から大使を引き上げた。ロシア、ルーマニア、スロバキア、キプロス、スペインなどは独立を承認しない方針を明らかにしている。2008年末の時点で、コソボは50を超える国際連合加盟国から独立の承認を得ている一方、独立宣言の後も安全保障理事会の決議の上ではコソボの地位は未確定のままであり、引き続き国際連合の監督下に置かれている。
 
 
 
ミロシェヴィッチ大統領は紛争後、しばらくの間は政権に留まったもののコソボを事実上失ったことによって支持は低迷し、<ref>[http://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/religion-obituaries/6575889/Patriarch-Pavle.html Patriarch Pavle] (Telegraph)</ref>[[セルビア正教会]]の[[聖シノド]]からも退陣勧告が行われた。2000年にミロシェヴィッチ大統領を失脚させた反乱が起こった。ミロシェヴィッチ大統領はその後逮捕され、[[デン・ハーグ|ハーグ]]に送られた。ICTYによる判決を待つことなく、ミロシェヴィッチ大統領は2006年3月10日、拘置所内で自然死した。
 
 
 
紛争の終結には成功したものの、コソボによってNATOの弱みが明らかになった。コソボ紛争によって、ヨーロッパ諸国の軍事がいかにアメリカの軍事に依存しているかが露呈した。ほぼ全ての戦闘や非戦闘活動はアメリカの関与に依存し、ヨーロッパ諸国の軍の兵器が精度を欠いていることが明らかになった。アメリカでの右翼・軍事的な立場からは、同盟国の合意の取り付けは遅く、足かせになっているとして非難した。
 
 
 
紛争ではまた、アメリカ軍の兵器の弱点も明らかにした。これは後に[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタン侵攻]]や[[イラク戦争]]のために処置されている。[[AH-64 アパッチ]] ヘリコプターや、[[AC-130 ガンシップ]]は前線で使用されていたものの、2機のアパッチがアルバニアの山中で衝突してからは使用を中断した。精密なミサイルの備蓄は危険な水準まで低下し、紛争は想定を超えて長期化し、NATOは選択の余地なく精度の悪い爆弾を使わざるを得なかった。空中戦においても良好な結果は得られなかった。連続した作戦によってメンテナンスが省かれ、多くの航空機が代替パーツを待つ間待機を余儀なくされた<ref>{{citeweb|url=http://www.aeronautics.ru/nws002/theobserver04.htm|title=Hundreds of crippled jets put RAF in crisis|author=Antony Barnett|date=2000-01-23|accessdate=2008-12-04}}</ref>。さらに、多くの誘導型の兵器はバルカン半島の気候に順応できておらず、雲によって爆弾のレーザー誘導はさえぎられた。これは、悪天候でも使用することができる、[[グローバル・ポジショニング・システム]](GPS)を使用した旧型の爆弾によって回避された。多くの[[無人航空機]]が使用されたものの、敵側の標的を捕らえるには遅すぎることも明らかにされた。これは、後のアフガニスタン戦争では、敵機の飛行音に合わせてミサイルを使う方法が用いられ、センサ映像を確認して撃つ時間をほぼ完全に削減することができた。
 
 
 
コソボ紛争はまた、NATOのようなハイテクの軍が、単純な戦術によって裏をかかれてしまうことも明らかにした。ウェズリー・クラーク([[:en:Wesley Clark|Wesley Clark]])や、紛争後にこれらの戦略を解析したその他のNATOの将軍らによる<ref>{{citeweb|url=http://www.globeandmail.com/servlet/ArticleNews/front/RTGAM/20021120/wless1120/Front/homeBN/breakingnews|title=NATO attack on Yugoslavia gave Iraq good lessons|publisher=Globe and Mail|accessdate=2008-12-04}}</ref>。ユーゴスラビア軍は、圧倒的に強い敵に対して、ずっと立ち向かい続けていた。ユーゴスラビア軍は効果的に敵を欺いたり隠したりする戦術を発展させてきた。これらは、全面進攻に対しては長期的には無力であると思われるが、上空を飛ぶ航空機や衛星を欺くには効果的な方法であった。使われた戦術には、次のようなものがあった:
 
 
 
* アメリカのステルス戦闘機が波長の長いレーダーで追跡されていた。ステルス機のジェットが湿る場合や、爆弾を投下している場合、ステルス機はレーダーで捕捉することができる。[[F-117 (航空機)|F-117]]はこの方法で照準を当てられ、ミサイルで撃墜されたものと見られる。
 
* 多くのローテク手法によって、熱探知ミサイルや赤外線センサが撹乱された<ref name="chida naze" />。小さなガス炉などによって、実在しない山腹があるかのように見せかけられた。
 
* 「おとり」が頻繁に用いられた<ref name="chida naze" />。偽物の橋や飛行場、「おとり」の航空機や戦車が用いられた。戦車は古タイヤ、プラスチック・シート、丸太、缶、そして熱放射を装うために燃料が用いられた。だまされたNATOの操縦士らはこのような「おとり」に爆弾を投下していたことが、クラークの調査によって明らかになった。<ref name="fooled">{{citeweb|url=http://www.afa.org/magazine/june2000/0600kosovo.asp|month=June|year=2000|title=Nine Myths About Kosovo|author=Rebecca Grant|accessdate=.}}</ref>。しかし、NATOの情報によると、これは作戦遂行の手続きであり、明らかに本物であるとは思えないもの以外は、あらゆる全ての標的に対して攻撃する義務を負っているとしている。明らかに本物であるかどうかが分かるのならば、本物のみを攻撃することになる。NATOは、ユーゴスラビア空軍の損害は10倍に上るとしており、「公式なデータによると、コソボ紛争におけるユーゴスラビア軍の空爆による損害は、戦車の26%、APCの34%、大砲の47%に上る」としている<ref name="fooled" />。
 
* アメリカの衛星を使った空爆に対して、古い[[電子妨害装置]]が用いられた。
 
* [[第二次世界大戦]]期の[[イスパノ・スイザ]]対空砲が、ゆっくり飛ぶ無人偵察機に対して効果的に使用された。
 
 
 
== 軍事勲章 ==
 
コソボ紛争の結果を受けて、NATOは2つめの[[NATO勲章]]([[:en:NATO Medal|NATO Medal]])となる「コソボ戦役のNATO勲章」を、国際的な軍事勲章として作った。その後NATOは、ユーゴスラビア紛争とコソボ紛争の両方に対して与えられる「バルカン戦役の非5条事態勲章」を作った。
 
 
 
アメリカのクリントン大統領はコソボ戦役勲章として知られる軍事勲章を2000年に創設した。
 
 
 
== ギャラリー ==
 
<gallery>
 
Image:Kukes Refugee Camp.jpg| [[アルバニア]][[:en:Kukës|Kukës]]のコソボ難民キャンプ。
 
Image:USS Theodore Roosevelt launches F-18.jpg|原子力空母[[セオドア・ルーズベルト (空母)|セオドア・ルーズベルト]]、搭載されているのは[[F/A-18 (航空機)|F/A-18ホーネット。]]
 
Image:Magic II and Super 530D.jpg|[[フランス空軍]]の[[ミラージュ2000 (戦闘機)|ミラージュ2000]]の搭載するミサイル。
 
Image:War in the balkans kosovo 1999 3.jpg|廃墟と化したコソボ。1999年。
 
Image:Gvodzika.jpg|[[:en:Glogovac|Glogovac]]の近くにある[[2S1グヴォズジーカ 122mm自走榴弾砲]]の残骸。
 
Image:Destroyed-t-55-tank-Kosovo.jpg|[[プリズレン]]の近くにある破壊された[[T-55]]戦車。
 
Image:Predator uav.JPG|セルビアが撃墜した[[RQ-1 プレデター]]無人偵察機。
 
Image:F-117 canopy.jpg|博物館に飾られる撃墜した[[F-117 (航空機)|F-117]]の破片。
 
</gallery>
 
 
 
== コソボ紛争を題材とした作品 ==
 
=== 映画 ===
 
* [[ブラックバード・ライジング]]([[クラウディオ・ボニヴェント]]監督、2003年 出演:[[ジョルジョ・パソッティ]]ほか)
 
 
 
=== 音楽 ===
 
* 夜鷹の夢([[Do As Infinity]]、アルバム「[[NEED YOUR LOVE]]」に収録)
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[柴宜弘]]『新版世界各国史(18) バルカン史』山川出版社
 
* ディミトリ・ジョルジェヴィチ『バルカン近代史』刀水書房
 
* 柴宜弘『図説 バルカンの歴史』河出書房新社
 
* スティーヴン・クリソルド『ユーゴスラヴィア史』恒文社
 
* 柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店
 
* ミーシャ・グレニー『ユーゴスラビアの崩壊』白水社
 
* [[徳永彰作]]『モザイク国家 ユーゴスラビアの悲劇』筑摩書房
 
* [[千田善]]『ユーゴ紛争 多民族・モザイク国家の悲劇』講談社
 
* 千田善『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』勁草書房
 
* マイケル・イグナティエフ『軽い帝国 ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設』風行社
 
* [[最上敏樹]]『人道的介入 正義の武力行使はあるか』岩波書店
 
* [[高木徹]]『ドキュメント 戦争広告代理店』講談社
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{commonscat|Kosovo War}}
 
* [[国際文民事務所]](ICO)
 
* [[国際連合コソボ暫定行政ミッション]](UNMIK)
 
* [[KFOR]]
 
* [[EULEXコソボ]]
 
* [[プレシェヴォ渓谷危機]]
 
* [[コソボ暴動 (2004年)|コソボ暴動]]
 
* [[コソボ地位問題]]
 
* [[コソボ憲法]]
 
* [[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]
 
* [[大セルビア]]
 
* [[大アルバニア]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www.hrw.org/reports/2001/kosovo/ UNDER ORDERS: War Crimes in Kosovo] [[ヒューマン・ライツ・ウォッチ|Human Rights Watch]]
 
*[http://www.un.org/icty/indictment/english/mil-ai010629e.htm Indictment of Milosevic] [[国際連合|United Nations]]
 
*[http://web.archive.org/web/20051102025624/www.osce.org/documents/mik/1999/11/ OSCE Kosovo Verification Mission] [[欧州安全保障協力機構|OSCE]] (Internet Archive)
 
*[http://www.nato.int/kosovo/all-frce.htm#pb Operation Allied Force] [[北大西洋条約機構|NATO]]
 
*[http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/kosovo/frontline: war in europe] [[:en:PBS Frontline|PBS Frontline]]
 
*[http://news.bbc.co.uk/hi/english/static/kosovo_fact_files/default.stm Kosovo fact files] [[BBCニュース|BBC News]]
 
*[http://www.cnn.com/SPECIALS/1998/10/kosovo/ Focus on Kosovo] [[CNN]]
 
*[http://www.hrw.org/reports98/kosovo/ HUMANITARIAN LAW VIOLATIONS IN KOSOVO] HRW (1998)
 
*[http://www.hrw.org/reports/1999/kosov2/ ABUSES AGAINST SERBS AND ROMA IN THE NEW KOSOVO] HRW (1999)
 
*[http://pdf.thelancet.com/pdfdownload?uid=llan.355.9222.original_research.1004.1&x=x.pdf War and mortality in Kosovo, 1998 99: an epidemiological testimony] [[ランセット|Lancet]] (PDF)
 
*[http://www.post-gazette.com/forum/19990328edhayden8.asp "Bombing Serbia to prevent a wider war is not only hypocritical, but also insane" says Prof. Robert M. Hayden (University of Pittsburg)in an article for the Pittsburg Post-Gazette]
 
*[http://www.state.gov/www/regions/eur/rpt_990604_ksvo_ethnic.html The Ethnic Cleansing of Kosovo]  [[アメリカ合衆国国務省|U.S. State Department]]
 
*[http://www.state.gov/www/global/human_rights/kosovoii/homepage.html Ethnic Cleansing in Kosovo: An Accounting]  U.S. State Department
 
*[http://www.lib.utexas.edu/maps/kosovo.html Maps of Kosovo, Perry-Castañeda Library Map Collection]
 
*[http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%b3%a5%bd%a5%dc%ca%b6%c1%e8?kid=134039 コソボ紛争関連年表(詳細)]
 
 
 
{{アメリカの戦争}}
 
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[[Category:コソボ紛争|*]]
 
[[Category:コソボ紛争|*]]

2018/10/14/ (日) 09:43時点における最新版

コソボ紛争(コソボふんそう、アルバニア語Lufta e Kosovësセルビア語Рат на Косову и Метохији

セルビアのコソボ自治州(コソボ)におけるセルビア人アルバニア人の民族紛争。人口約 200万のうち約 90%をアルバニア人が占めたコソボ自治州では,ユーゴスラビア時代の 1974年に大幅な自治が認められたものの,国内の最貧地域であり,アルバニア人は経済的後進性への不満をいだいていた。歴史的な反セルビア感情も加わり,1981年にはアルバニア人の暴動が発生,セルビア人に多数の死傷者が出た。この事件以後,アルバニア人とセルビア人の対立が深まった。紛争の直接的な契機は 1989年にセルビア共和国憲法が修正されてコソボの自治権が剥奪されたことだった。自治権の回復を求めるアルバニア人は 1991年にコソボ共和国の樹立を宣言,1992年にはコソボ民主同盟 KDLのイブラヒム・ルゴバ議長を大統領に選出した。ルゴバはセルビアのスロボダン・ミロシェビッチ大統領との交渉で自治権を回復しようとしたが果たせなかった。こうした情勢に不満をもつ青年層は武力による独立を掲げるコソボ解放軍 KLAを支持。KLAの活動が激化したため,1998年2~3月セルビア治安部隊は掃討作戦を展開。以後両者の戦闘は長期化した。国際社会はコソボの自治の回復を支持し,仲介をはかったが,行きづまった。1999年3月北大西洋条約機構 NATO軍がアルバニア人の人権擁護を理由にユーゴスラビアに空爆を行なったが,この空爆は国連安全保障理事会の決議を経ておらず,国際世論の批判を受けた。空爆後はユーゴスラビア軍のコソボ制圧が激化し,80万をこえるアルバニア人難民が近隣諸国に流出した。6月ミロシェビッチ政権はアメリカ合衆国,ロシアおよびヨーロッパ連合 EUの提示した和平案を受け入れた。これにより空爆は中止され,国連コソボ暫定統治機構 UNMIKの創設,コソボ平和維持部隊 KFORの派遣が行なわれた。情勢の安定に伴い多くのアルバニア系住民が帰還したが,今度はアルバニア人によるセルビア人やロマへの暴力が頻発し,20万人以上のセルビア人難民が発生した。コソボは2008年独立を宣言した。



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