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コソボ紛争

コソボ紛争(コソボふんそう、アルバニア語Lufta e Kosovësセルビア語Рат на Косову и Метохији

セルビアのコソボ自治州(コソボ)におけるセルビア人アルバニア人の民族紛争。人口約 200万のうち約 90%をアルバニア人が占めたコソボ自治州では,ユーゴスラビア時代の 1974年に大幅な自治が認められたものの,国内の最貧地域であり,アルバニア人は経済的後進性への不満をいだいていた。歴史的な反セルビア感情も加わり,1981年にはアルバニア人の暴動が発生,セルビア人に多数の死傷者が出た。この事件以後,アルバニア人とセルビア人の対立が深まった。紛争の直接的な契機は 1989年にセルビア共和国憲法が修正されてコソボの自治権が剥奪されたことだった。自治権の回復を求めるアルバニア人は 1991年にコソボ共和国の樹立を宣言,1992年にはコソボ民主同盟 KDLのイブラヒム・ルゴバ議長を大統領に選出した。ルゴバはセルビアのスロボダン・ミロシェビッチ大統領との交渉で自治権を回復しようとしたが果たせなかった。こうした情勢に不満をもつ青年層は武力による独立を掲げるコソボ解放軍 KLAを支持。KLAの活動が激化したため,1998年2~3月セルビア治安部隊は掃討作戦を展開。以後両者の戦闘は長期化した。国際社会はコソボの自治の回復を支持し,仲介をはかったが,行きづまった。1999年3月北大西洋条約機構 NATO軍がアルバニア人の人権擁護を理由にユーゴスラビアに空爆を行なったが,この空爆は国連安全保障理事会の決議を経ておらず,国際世論の批判を受けた。空爆後はユーゴスラビア軍のコソボ制圧が激化し,80万をこえるアルバニア人難民が近隣諸国に流出した。6月ミロシェビッチ政権はアメリカ合衆国,ロシアおよびヨーロッパ連合 EUの提示した和平案を受け入れた。これにより空爆は中止され,国連コソボ暫定統治機構 UNMIKの創設,コソボ平和維持部隊 KFORの派遣が行なわれた。情勢の安定に伴い多くのアルバニア系住民が帰還したが,今度はアルバニア人によるセルビア人やロマへの暴力が頻発し,20万人以上のセルビア人難民が発生した。コソボは2008年独立を宣言した。



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