「カール1世 (オーストリア皇帝)」の版間の差分

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[[カトリック教会]]への篤い信仰心を持ち、[[フランス]]首相[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]からは「[[中欧]]における教皇<ref name="「福者に。」 p.4"> [http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_world-news/016.pdf 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」] p.4</ref>」と、時の[[ローマ教皇]][[ベネディクト15世]]からは「私のお気に入りの子<ref name="「福者に。」 p.4" />」と呼ばれ、[[20世紀]]の[[国家元首]]としては初めての[[福者]]になった。
 
[[カトリック教会]]への篤い信仰心を持ち、[[フランス]]首相[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]からは「[[中欧]]における教皇<ref name="「福者に。」 p.4"> [http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_world-news/016.pdf 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」] p.4</ref>」と、時の[[ローマ教皇]][[ベネディクト15世]]からは「私のお気に入りの子<ref name="「福者に。」 p.4" />」と呼ばれ、[[20世紀]]の[[国家元首]]としては初めての[[福者]]になった。
 
== 生涯 ==
 
=== 幼少期 ===
 
[[File:Persenbeug, Lower Austria, Austro-Hungary-LCCN2002708373.jpg|thumb|right|200px|[[1895年]]頃の{{仮リンク|ベルゼンボイク城|de|Schloss Persenbeug}}]]
 
[[1887年]][[8月17日]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の皇族[[オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ|オットー・フランツ大公]]と[[ザクセン王国|ザクセン]]国王[[ゲオルク (ザクセン王)|ゲオルク]]の娘[[マリア・ヨーゼファ・フォン・ザクセン|マリア・ヨーゼファ]]の長男として、[[ドナウ川]]の河畔に位置する{{仮リンク|ベルゼンボイク城|de|Schloss Persenbeug}}に生まれる。
 
 
当時は、皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の長男[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ皇太子]]が存命であり、皇弟[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ大公]]の孫として誕生したカールは帝位継承とはかけ離れた存在だった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.89"> グリセール=ペカール(1995) p.89</ref>。そのため、カール誕生のニュースは、宮廷に関する他の記事といっしょに扱われたに過ぎなかった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.89" />。
 
 
<center>'''カール生誕時のオーストリア皇位継承順位'''(灰色は故人)</center>
 
{{familytree/start}}
 
{{familytree | | |,|-|-|-|v|-|-|-|.}}
 
{{familytree | | FRA  | |MAX | |KARLUD | | FRA=オーストリア皇帝<br/>[[フランツ・ヨーゼフ1世]]|MAX=メキシコ皇帝<br/>[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]|KARLUD=[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ]]<br/>第2位
 
|boxstyle_MAX=background-color: #808080;
 
}}
 
{{familytree | | |!| | | | | | | |)|-|-|-|.}}
 
{{familytree | |RUD | | | | | | FRAFE | | |OTT | | RUD=オーストリア皇太子<br/>[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]<br/>継承順位第1位|FRAFE=[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]<br/>第3位|OTT=[[オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ|オットー・フランツ]]<br/>第4位
 
}}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | |!}}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | KAR | || | KAR='''カール'''<br/>第5位}}
 
{{familytree/end}}
 
<br />
 
[[1889年]]1月30日、2歳に満たないときに「マイヤーリンク事件」でルドルフ皇太子が謎の死を遂げた。皇位継承者はしばらく決定されなかったが、皇弟カール・ルートヴィヒ大公かその長男[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]のどちらかが後継者だと目された。将来フランツ・フェルディナント大公が身分相応の女性との間に男児を儲けることが当然視されており、オットー・フランツ大公とその息子カールの出番はないと考えられていた。ルドルフ皇太子の死後も、依然としてカールの立場には変化がなかったのである。
 
 
=== 少年期 ===
 
[[File:Otto Franz Austria Maria Josepha.jpg|thumb|right|200px|オットー・フランツ大公一家。左下の少年がカール。母に抱かれているのは弟[[マクシミリアン・オイゲン・フォン・エスターライヒ|マクシミリアン・オイゲン]]([[1900年]]頃)]]
 
一家の領地である{{仮リンク|ヴィラ・ヴァルトホルツ|en|Villa Wartholz}}や父オットー・フランツ大公が帝国陸軍の司令官を務めていた[[プラハ]]で、カールは特に母マリア・ヨーゼファの寵愛を受けて育った。父オットー・フランツは素行にやや問題のある大公として知られ、軍帽と剣以外のものを一切身につけずに[[ホテル・ザッハー]]のロビーを横切るという事件を起こしたこともあった<ref>ホフマン(2014) p.280</ref>。そのため母マリア・ヨーゼファは、カールたちを父親の悪い影響から避けるために腐心したという。
 
 
皇族の義務として受けた宗教教育によって、カールは[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]への篤い信仰心を持つようになった<ref name="「福者に。」 p.1"> [http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_world-news/016.pdf 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」] p.1</ref>。カールは家の礼拝堂での祈りを欠かさず、毎日夕方になると良心の糾明をし、Tafertの[[聖母マリア]]の聖堂に行くのを好んだ。
 
 
ある日、{{仮リンク|ライヒェナウ・アン・デア・ラクス|en|Reichenau an der Rax}}の領民が火事で家を失って困っていることを知ったカールは、自分の貯金箱を壊して貯めたお金をその家族に渡した<ref name="「福者に。」 p.1" />。またある日、無造作に投げた木の枝が聖母マリアに捧げられた聖堂に当たってしまい、[[神の母]]を傷つけたという思いで泣き出してしまったという<ref name="「福者に。」 p.1" />。
 
 
[[1896年]]、祖父カール・ルートヴィヒ大公が他界し、伯父フランツ・フェルディナント大公が皇位継承者に決定した。しかしフランツ・フェルディナント大公は、将来の皇后としては身分不相応の伯爵令嬢[[ゾフィー・ホテク]]と恋に落ち、子孫の帝位継承権を放棄することを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に誓ったうえで[[1900年]]に[[貴賤結婚]]した。これによって、将来フランツ・フェルディナント大公からその弟オットー・フランツ大公の血脈に帝位が移ることがほぼ確定的になった。[[1906年]]、不摂生が過ぎたために父オットー・フランツ大公が41歳で早世すると、カールの帝位継承順位は伯父フランツ・フェルディナント大公に次いで第2位となった。
 
 
=== パルマ公女ツィタとの結婚 ===
 
[[File:Hochzeit Erzh Karl und Zita Schwarzau 1911c.jpg|thumb|right|300px|[[1911年]][[10月21日]]、[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ]]公女との結婚式。写真右側の老人は皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]。この日、[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]と[[ブルボン=パルマ家]]のほとんどの人々が一堂に会した<ref name="江村(2013) p.388"> 江村(2013) p.388</ref>]]
 
[[マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル]]の用意周到な計画によって、[[1909年]]に[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ]]と出会う{{#tag:ref|カールとツィタは幼少期に何度か会ってはいるが、まともに顔を合わせたのはこの時が初めてだった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.54" />。|group=注釈}}<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.53"> グリセール=ペカール(1995) p.53</ref>。マリア・テレサは亡き祖父カール・ルートヴィヒ大公の3度目の妻で、すなわちカールの義理の祖母にあたり<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.54"> グリセール=ペカール(1995) p.54</ref>、さらにツィタにとっては母の妹であった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.53" />。カールとツィタはこれ以降、宮廷内のほとんどの人間に気付かれることなく親密な交際をするようになった。
 
 
将来の皇帝となるであろうカールに、フランツ・ヨーゼフ1世は自身の孫娘[[エリーザベト・フランツィスカ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ|エリーザベト・フランツィスカ]]を嫁がせようと考えたが、血縁関係が近すぎることを心配するカールの母マリア・ヨーゼファの反対に遭った<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.60"> グリセール=ペカール(1995) p.60</ref>。そこでフランツ・ヨーゼフ1世は、今度は[[オルレアン家]]の血を引く[[デンマーク]]王女[[マルグレーテ・ア・ダンマーク (1895-1992)|マルグレーテ]]をカールと結婚させようと考えた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.60" />。
 
 
[[1910年]]秋、カールはフランツ・ヨーゼフ1世に呼び出され、そろそろ自分に合った結婚相手を決定するように命令された<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.61"> グリセール=ペカール(1995) p.61</ref>。結婚相手とする女性には、「カトリック信者であること」「現在または過去において統治に与った君主の子女」という2つの条件が付けられていた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.61" />。[[1911年]]5月中旬、カールはツィタに求婚し、婚約に至った。マリア・ヨーゼファから婚約の報告を受けたフランツ・ヨーゼフ1世は、カールを本気でデンマーク王女と結婚させようと考えており、ツィタと真剣に交際していることを知らなかったため、大いに驚いた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.62"> グリセール=ペカール(1995) p.62</ref>。しかし旧[[パルマ公国]]の公女でカトリック信者であるツィタに老帝は納得し、この婚約を祝福した<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.62" />。
 
 
[[1911年]]6月24日、ローマ教皇[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]はツィタに「私はあなたの未来の夫を祝福します。彼は次のオーストリア皇帝になるでしょう」と言った<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.67"> グリセール=ペカール(1995) p.67</ref>。ツィタらが次の皇帝はフランツ・フェルディナント大公であると訂正しても、ピウス10世は次の皇帝はカールであると繰り返したという<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.67"/>。同年10月21日、{{仮リンク|シュヴァルツアウ|de|Schwarzau am Steinfeld}}の城館において、カールとツィタの結婚式が挙行された。
 
 
=== 第一次世界大戦、勃発 ===
 
[[File:Prestolonaslednik Karel na tirolski fronti.jpg|thumb|right|200px|[[チロル]]前線を視察するカール(1915年)]]
 
[[File:Bosniaks in Italy 1915.jpg|thumb|right|200px|[[イゾンツォ川]]前線の[[ボスニア]]人部隊を視察するカール(1915年)]]
 
[[1914年]][[6月28日]]、[[サラエボ事件]]で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたのを契機として、[[第一次世界大戦]]が勃発した。サラエボ事件当日、食事の時間にいくら待っても主食が出てこないのを不審に思ったカール夫妻は、やがて侍従が電報を持って入ってきたのを見た<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.96"> グリセール=ペカール(1995) p.96</ref>。その電報に目を通したカールは、顔面蒼白になって「フランツ伯父が暗殺された」と一言ツィタに言ったという<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.96" />。
 
 
やがてカールのもとには時のローマ教皇[[ピウス10世]]からの手紙が届いた。カールは皇帝にこの戦争の危険性を十分に認識させるようにローマ教皇から助言されたが<ref name="「福者に。」 p.2"> [http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_world-news/016.pdf 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」] p.2</ref>、しかし当時カールはウィーンの政治中枢から一貫して外されており、一度たりとも開戦についての意見を求められたことはなかった。[[セルビア王国]]への[[オーストリア最後通牒|最後通牒]]についても、カールはある銀行筋からの電話で知ったありさまだった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.105"> グリセール=ペカール(1995) p.105</ref>。カールは新たな皇位継承者になったにも関わらずこのような扱いを受けていることに悲憤したが、のちにこれはカールに開戦責任が全くないことを証明した<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.105" />。
 
 
フランツ・ヨーゼフ1世たっての願いで、開戦後しばらくしてカール一家は[[シェーンブルン宮殿]]で皇帝と同居するようになった<ref name="江村(2013) p.412"> 江村(2013) p.412</ref>。カールは老帝から大いに信頼され、次のような評価を受けている。「朕はカールを非常に高く評価している。カールは朕に明確に意見を表明する。しかし朕が考えを固執するときには、それに従う気持ちを失ってはいない<ref name="江村(2013) p.412" />。」
 
 
参謀本部長[[フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ]]は、開戦後もカールに活躍の場を与えようとしなかった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.113"> グリセール=ペカール(1995) p.113</ref>。カールの日程は歓迎会、謁見、練兵場への訪問などの実働を伴わない公務で埋められていたが、[[1915年]]7月にようやく皇帝の側近に任命され、決済の済んだ報告書を見せられるようになった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.113" />。カールはオーストリア首相とハンガリー首相から政治の講義を受けるようになったが、この生活は長続きしなかった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.114"> グリセール=ペカール(1995) p.114</ref>。若い大公を側近から外すよう求める声に、フランツ・ヨーゼフ1世が屈してしまったのである<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.114" />。そしてカールは新設のイタリア第20部隊に派遣されることになった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.114" />。
 
 
[[イタリア戦線 (第一次世界大戦)|イタリア戦線]]においてカールは、[[イゾンツォの戦い]]の際に、皇位継承者でありながら自ら水中に飛び込んで川に溺れかけた男を助けた<ref name="「福者に。」 p.2" />。また、従軍司祭であったロドルフォ・スピッツルによれば、アシエロへの過酷な行軍の中で、傷のために歩行不可能となった兵士を助けるためにとりなしたという<ref name="「福者に。」 p.2" />。
 
 
=== 即位 ===
 
[[1916年]]11月12日、イタリア戦線にいたカールは、フランツ・ヨーゼフ1世の体調悪化の報を受けてウィーンに帰還した。同月21日の午前には、老帝は高熱を発しながらも執務室で書類に目を通しており、カール夫妻が面会に来たと聞いて軍服に着替えようとする元気はあった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.120"> グリセール=ペカール(1995) p.120</ref>。しかし同日の午後になると、老帝はため息をつきながらこう語ったとされる<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.120" />。「朕は、多事多難な折に帝位に就き、さらに困難を極める時期に帝冠を譲り渡さねばならなくなった……」同日夜21時5分、老帝フランツ・ヨーゼフ1世は86歳で死去し、カールはオーストリア皇帝「'''カール1世'''」と呼ばれることとなった。
 
 
新皇帝となったカールは、ただちに宮廷改革に取りかかった。仰々しい宮廷儀礼を廃止し、電話などの現代機器を採り入れたり、勤務形態や社交形式などを改めさせた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.127"> グリセール=ペカール(1995) p.127</ref>。[[ハンガリー人]]の官吏には母国語で話すことを許し、それまで皇帝との謁見の際に義務付けられていた[[燕尾服]]の着用を不要とするなどした<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.127" />。侍従武官{{仮リンク|アルバート・マルグッティ|de|Albert von Margutti}}はカール1世の一連の改革について、「移行措置などまったく聞き入れず、ハリケーンのごとし」と述べている<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.128"> グリセール=ペカール(1995) p.128</ref>。
 
 
先帝フランツ・ヨーゼフ1世が頑迷なまでに日常生活の形を崩そうとしなかったのに対して、カール1世は「不快である」の一言で計画を中止にすることも多々あった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.128" />。多くのことを即時即決で行ったため、「思いつきのカール」と宮廷であだ名されるようになった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.128" />。
 
 
1916年12月30日、カールはハンガリー国王「'''カーロイ4世'''」として即位することとなった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.139"> グリセール=ペカール(1995) p.139</ref>。[[聖イシュトヴァーンの王冠]]を戴かなければ正統なハンガリーの統治者とは認められないため、戦時中にも関わらず荘厳華麗な即位式がブダペストの[[マーチャーシュ聖堂]]で挙行された<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.139" />。この即位式においてカールはこう宣誓した。「ハンガリーとその周辺諸国の国境を、我々はこれまで通り存続させ、縮小させることなく、可能な限り拡大していこう」と<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.146"> グリセール=ペカール(1995) p.146</ref>。カールは皇族時代にひそかに帝国の完全連邦化を構想していたが、この宣誓は明らかにカールが念頭に置いていた新体制を阻害するものだった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.146" />。
 
 
{{Gallery
 
|File:Funeral Procession for Emperor Franz Josef 1916.jpg|[[カプツィーナー納骨堂]]へのフランツ・ヨーゼフ1世の葬送行列のなかの新皇帝カール。従来は故皇帝の棺の後ろに立つのは新皇帝のみで、その後に大公・皇后という順序であったが、カールは慣例化した様式を廃止し、皇后ツィタ・皇太子オットーと並んだ<ref>グリセール=ペカール(1995) p.125</ref>。
 
|File:Karloath.jpg|[[マーチャーシュ聖堂]]で挙行された、ハンガリー国王「'''カーロイ4世'''」としての即位の宣誓。
 
|File:Kroenung Budapest Karl und Zita 1916a.jpg|ハンガリー国王・王妃・王太子となったカール・ツィタ・オットー。
 
}}
 
 
=== ジクストゥス事件 ===
 
[[File:Sixte de Bourbon-Parme 1914.jpg|thumb|right|200px|皇后ツィタの兄、[[パルマ公国|パルマ]]公子[[シスト・ディ・ボルボーネ=パルマ|ジクストゥス]]]]
 
[[1917年]]3月23日夜、カールは[[ラクセンブルク城]]において、皇后ツィタの二人の兄[[シスト・ディ・ボルボーネ=パルマ|パルマ公子ジクストゥス]]と[[サヴェリオ・ディ・ボルボーネ=パルマ|グザヴィエ公子]]と密談した。カールが彼らと密談した理由は、あくまで勝利のみを追求する同盟国ドイツ抜きに、オーストリア=ハンガリー帝国と英仏との単独講和を締結するためであった<ref name="江村(2013) p.421"> 江村(2013) p.421</ref>。ドイツ帝国はまだしも、オーストリア=ハンガリー帝国の食糧事情は深刻で、もはや戦争を続行できるほどの国力が残っていなかったのである。
 
 
カールは前線の兵士や窮乏生活に忍従している国民のことを気をかけており<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.160"> グリセール=ペカール(1995) p.160</ref>、証言によれば戦場を訪問した際にカールは思い余って落涙したことが何度もあるという<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.160" />。また、ある写真家の前で「誰もこのようなことを神の御前で申し開きすることはできない。できるだけ早くこれを終わらせなければ」と涙を流しながら述べたこともある<ref name="「福者に。」 p.3"> [http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_world-news/016.pdf 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」] p.3</ref>。早期に戦争を終結させたいという思いからカールは単独講和を試みたのだが、彼らに渡したこの時の手紙が、かえってヨーロッパ中を騒然とさせることになる<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.158"> グリセール=ペカール(1995) p.158</ref>。
 
 
*ベルギー復興の支援
 
*[[アドリア海]]への通行権を伴った[[セルビア王国]]の独立の保証
 
*ロシア皇帝[[ニコライ2世]]退位後の[[サンクトペテルブルク]]の状況が明確になった時点での、[[コンスタンティノープル]]のロシアへの割譲の賛成
 
 
手紙は上記のような内容で、さらに次のように明記してあった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.158" />。
 
{{Quotation|朕はジクストゥスを通して、フランス大統領[[レイモン・ポアンカレ]]氏に内密に通告する。同盟国の皇帝として、(ドイツ帝国領)[[アルザス=ロレーヌ]]地域のフランスへの返還は正当であると認め、あらゆる手段を行使して、これを支援する考えである。}}
 
 
フランス政府は、パルマ公子を仲介としてのオーストリア=ハンガリー帝国との講和を、フランツ・ヨーゼフ1世の存命時から画策していた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.163"> グリセール=ペカール(1995) p.163</ref>。パルマ公子に皇位継承者カールと接触させようとフランス政府は考えていたが、当時カールには何の権限もなかったために計画のみで終わった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.163" />。カールが即位すると、フランスはパルマ公子に交渉の開始を促した<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.163" />。つまりこの単独講和交渉は、フランスとオーストリア=ハンガリーの思惑が一致してのものであった。
 
 
しかし、1918年にフランス首相[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]がこの秘密交渉を暴露してしまった<ref name="江村(2013) p.421" />。当初カールは手紙を書いたこと自体を否定し<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.182"> グリセール=ペカール(1995) p.182</ref>、次にその手紙の存在を認め、「フランスの正統な返還要求の支援」については記述がなかったと言ってしまった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.182" />。ドイツ軍部はこのカールの秘密交渉に激怒し<ref name="バウアー(1989) P.89"> バウアー(1989) P.89</ref>、またオーストリア=ハンガリーでは虚偽の発言を重ねるカールのせいで帝室の信望は失墜した。皇帝夫妻が同盟国ドイツを裏切ってその領土を割譲させようとしたことは、多くのドイツ民族主義者の憤慨を招くことになった<ref name="バウアー(1989) P.89" />。この皇帝の失態を好機と見た反君主制活動家の[[プロパガンダ]]も広まり、敵国イタリアとフランスの双方にルーツを持つ[[ブルボン=パルマ家]]出身の皇后ツィタを非難する声も高まった。
 
 
戦後になって、批評家[[アナトール・フランス]]は次のような意見を述べている<ref name="「福者に。」 p.3" />。
 
{{cquote|大戦に参戦した国家の責任者の中で、オーストリアのカール皇帝だけが品位のある人物であったが、誰も彼に耳を貸そうとはしなかった。彼は心から平和を願っていたが、そのためにみんなから軽蔑されたのだ。こうして唯一無二のチャンスは失われてしまった。}}
 
 
=== 帝国諸民族の離反 ===
 
[[1918年]]、[[中央同盟国|同盟国]]側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反([[チェコスロバキア]]、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]などが共和国を宣言)し、帝国は崩壊していく。オーストリアの休戦要請に対する協商国からの返答がない中、カールは帝国内の諸民族と直接交渉しようと試みた。
 
 
10月12日、帝室の保養地[[バーデン]]にすべての民族の32名の代議士を招き、「諸民族内閣」を発足させようと試みた。しかし[[チェコ人]]と[[南スラヴ]]人からは「オーストリア政府内でこれ以上何もすることはない」と返答された<ref>バウアー(1989) P.112</ref>。[[ボヘミア]]、[[クロアチア]]、[[ガリツィア]]などで暴動が起きようとしているのを知ったカールは、これを食い止めるため10月16日に連邦制への国家改造の宣言に署名した<ref>バウアー(1989) P.113</ref>。
 
{{Quotation|オーストリアを、すべての種族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家にすべきである。このことにより、ポーランド独立国家とオーストリアのポーランド地域の統一は、いかなる理由によっても侵害されてはならない。}}
 
カールにはもはや、皇帝の認可なしに実施されたものを明文をもって認可することによって、権力の虚像を保持することしかできなかった。また、この宣言を受けて[[ハンガリー王国]]議会では、[[1867年]]の[[アウスグライヒ]]の前提が崩れたので、オーストリアとハンガリーの間にはもはや単なる人的同君連合のほかはいかなる関係も存在しない、との声明が出された<ref>バウアー(1989) P.129</ref>。
 
 
11月3日、カールは正式に帝国連邦化を宣言し、同日イタリア王国と[[ヴィラ・ジュスティ休戦協定]]を結び無条件降伏した。
 
 
=== 「国事不関与」の宣言 ===
 
[[File:Verzichtserklärung Karl I. 11.11.1918.jpg|thumb|right|200px|[[シェーンブルン宮殿]]で署名したオーストリア版「国事不関与」の文書]]
 
[[File:Eckartsaui nyilatkozat.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|エッカルトザウ宮殿|de|Schloss Eckartsau}}で署名したハンガリー版「国事不関与」の文書]]
 
11月9日、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が退位を宣言した。その直後ドイツでは[[ドイツ社会民主党]]の主導する政権が誕生したことを受けて、[[オーストリア社会民主党]]はオーストリア皇帝も退位するよう要求し始めた<ref>ジェラヴィッチ(1994) p.131</ref>。{{仮リンク|キリスト教社会党 (オーストリア)|label=キリスト教社会党|de|Christlichsoziale Partei (Österreich)}}は王党派であったが、彼らも最終的には皇帝退位に同意した。
 
 
11月11日午後3時、[[シェーンブルン宮殿]]内の「青磁の間」において、カールは次の声明文に署名した<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.226"> グリセール=ペカール(1995) p.226</ref>。
 
 
{{Quotation|今般の戦争責任は朕の負うところではないが、帝位継承以来、忌まわしい戦禍から国民を救出すべく不断の努力を重ねてきたつもりである。国民が憲法に則った国民生活を確立し、独立国家発展への道を開拓することに対して、これを阻止する考えはない。わが国民を愛する心に変わりはなく、自由にはばたかんとする国民の前途に、朕自身が障害となることは本望ではない。朕はドイツ系オーストリア暫定政府が決定した今後の国家体制を以前から承認してきた。国民は今後、政府代表者の手に委ねられよう。'''朕はすべての国事行為の遂行を断念するとともに、現内閣の解散をここに宣言する。'''国民が一致融和の精神のもとに、新体制を確立していくことを切に望む。国民の至福が、朕の当初からの篤い祈願であり、国内の平穏によってのみ、戦禍は癒されよう。}}
 
 
これは{{仮リンク|ハインリッヒ・ラマシュ|de|Heinrich Lammasch}}首相と内務大臣ガイヤーの起草によるもので、カールは同日の午前11時頃にこの草稿を見せられた後、「これは退位声明ではないか!朕は退位なぞするつもりはない!」と激高した<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.222-223"> グリセール=ペカール(1995) p.222-223</ref>。ラマシュとガイヤーは「断念」とは国事行為であって帝位ではないことをカールに保証した<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.222-223" />。続いてこの最終的草稿文は皇后ツィタにも見せられたが、ツィタもカールと同様に「これは退位以外の何物でもありません」と怒った<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.224"> グリセール=ペカール(1995) p.224</ref>。この際にも、退位宣言ではないことが起草者によって保証された<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.224" />。午後3時にカールが署名を決断した時、すでに街の広告塔から「皇帝退位」は国民に知らされていた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.226" />。
 
 
2日後の13日、今度はハンガリーの統治を断念する類似の書類にカールは署名した<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.230"> グリセール=ペカール(1995) p.230</ref>。この際にもカールは「朕はハンガリー王になることを神に宣誓した。その宣誓を破棄するか否かの決定を下すのは神のみだ」と自身の立場が[[王権神授説]]にもとづいていることを述べ、国王退位は明確に否定した<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.230" />。
 
 
=== オーストリアからの脱出 ===
 
[[File:Schloss Eckartsau mit Schlosspark.jpg|thumb|left|200px|エッカルトザウ宮殿。「国事不関与」宣言後の4ヵ月間、カール一家はここで過ごした]]
 
[[File:Zasche Heimkehr-Habsburger-1919.jpg|thumb|right|300px|共和国の夜明けを描いた絵。中世以来の[[ハプスブルク家]]がオーストリアから去ってゆく様子。先頭から[[ハービヒツブルク城]]、「始祖」[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]と続き、最後尾がカール1世(1919年)]]
 
「国事不関与」宣言を発した皇帝一家は、その日のうちに[[シェーンブルン宮殿]]を退去した。皇帝夫妻は、召使いに至るまで、ひとりひとりと握手を交わして別れを告げた。24人の護衛兵の乗る自動車に先導されて、一家はシェーンブルン宮殿から{{仮リンク|エッカルトザウ宮殿|de|Schloss Eckartsau}}に移った。
 
 
[[1919年]]1月、共和国初代首相[[カール・レンナー]]がエッカルトザウ城のカールのもとを訪れた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.232"> グリセール=ペカール(1995) p.232</ref>。カールは謁見を拒絶し、代理として侍従武官レデコフスキー伯爵に会談させた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.232" />。レンナーの話の要旨は、「無分別な輩が予測できない暴挙に出る恐れがある」として、できるだけ早期に国外に出るよう勧告するものだった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.232" />。実際、2月にはエッカルトザウの周辺を300人もの赤軍が徘徊しており、配備された武装警官10人では安全面に相当の不安があった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.234"> グリセール=ペカール(1995) p.234</ref>。カールは[[スイス]]への亡命を真剣に考え始めた。
 
 
近々オーストリア皇帝一家が虐殺されるとの情報を「確かな筋」から受け取ったイギリス政府は、[[ロシア革命]]の際に[[ロマノフ家]]を英国王室と縁戚関係にあるにも関わらず見殺しにしたと非難されたため、今度のハプスブルク家の出国には積極的に協力せざるをえなかった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.234" />。イギリスから派遣されてきたストラット大佐は、ハプスブルク家をめぐって共和国首相レンナーと激しく対立した<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.234" />。皇帝の退位がなければ出国させずに逮捕すると激高するレンナーに対し、ストラット大佐は「オーストリア政府が、皇帝の出国を妨害している。バリケードを築くとともにオーストリア向け救援物資の一切の凍結を命令する」という電文をあらかじめ作成しておき、レンナーにちらつかせた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.238-239"> グリセール=ペカール(1995) p.238-239</ref>。これにランナーは絶句し、無条件で「皇帝」として御召列車で出国するカールを見逃さざるをえなかった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.238-239" />。
 
 
3月23日、皇帝一家はオーストリアを出国した。翌日、オーストリア最西端のフェルトキルヒ駅で、カールはすでに用意してあった次の声明文に署名した<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.242"> グリセール=ペカール(1995) p.242</ref>。
 
{{Quotation|ドイツ・オーストリア共和国政府暫定国民議会は、1918年11月11日以来、朕と朕の家族を無きものとして決議してきた。……戦時の混乱期に、朕は帝位を継承し、国民に平和をもたらすことを切望し続けてきた。彼らにとって、誠実にして情ある国父でありたかった……。}}
 
この時期に赤軍を刺激したくはなかったため、カールのこの声明文は[[ローマ教皇]]やオーストリア首相の手元のみに送付された<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.242" />。3月27日、レンナーは国民議会に「ハプスブルク家は永久に統治権およびすべての特権を失効する」という法案を提出した<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.246" />。この法案は4月3日に可決され、さらに王冠に基づいた財産のみでなくハプスブルク家の私的財産のほとんどが共和国に没収された<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.247"> グリセール=ペカール(1995) p.247</ref>。わずかに残された財産も、財産税課税のために差し押さえられてしまった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.247" />。([[ハプスブルク法]]を参照)
 
 
=== ハンガリー国王への復帰運動 ===
 
{{main|カール1世の復帰運動}}
 
[[File:KarlIVBassersdorffI.jpg|thumb|right|200px|飛行機から降りる際のカールと考えられる写真(1921年)]]
 
皇帝一家に対するスイス側の態度は友好的で、かつ敬意のこもったものだった。入国前には反君主制組織からかなりの批判を受けたが、しばらくするとカールへの批判は鳴りをひそめた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.246"> グリセール=ペカール(1995) p.246</ref>。急進的な新聞でも皇帝夫妻の平和への働きかけを評価するようになり、保守的な新聞にいたっては歓迎の意さえ表していた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.246" />。
 
 
[[1919年]]3月21日、共産主義者の[[クン・ベーラ]]らによって共和国大統領{{仮リンク|カーロイ・ミハーイ|en|Mihály Károlyi}}の政権が倒された([[ハンガリー評議会共和国]])。クンらは急進的共産政権を打ち立てようとしたため、多くのハンガリーの資産家や政治家がウィーンを中心とする国外に亡命した<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.251"> グリセール=ペカール(1995) p.251</ref>。新政権に対して[[ホルティ・ミクローシュ]]などは反旗を翻し、政権を転覆させた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.251" />。紆余曲折を経て、ハンガリー国民議会は[[聖イシュトヴァーンの王冠]]のもとでの王政復古を決議し、ハンガリーの政体は再び王制となった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.251" />。{{main|ハンガリー王国 (1920年-1946年)}}
 
 
カールはエッカルトザウ宮殿で王権停止宣言に署名させられていたが、法的にはあくまでカールが国王であったため、スイス当局もカールを再び王位に登板させようとした<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.252"> グリセール=ペカール(1995) p.252</ref>。ハンガリーでは、カールの復位を望む者、カール以外のハプスブルクを望む者、新しい王家を望む者、君主制に反対する者もおり、混沌とした状況だった。カールはできるだけ早くハンガリーを訪れて自身がハンガリー国王であることを知らしめようと決心した<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.252" />。
 
 
1921年3月、カールがハンガリーに入国すると、王党派の政府高官{{仮リンク|レハール・アンタル|hu|Lehár Antal}}などが駆けつけてきた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.255"> グリセール=ペカール(1995) p.255</ref>。馳せ参じたハンガリー首相[[テレキ・パール]]は、カールに向かってこう述べた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.255" />。「陛下、二つの選択肢があります!このままスイスへ戻るか、ブダペストへ進軍するかのいずれかです!」カールはブダペストを選択した。しかし、自身の掌握した権力を手放そうとしない執政ホルティによって、結局この時のカールの試みは挫折した。
 
 
半年後、テレキに代わって首相となった{{仮リンク|ベトレン・イシュトヴァーン|hu|Bethlen István (politikus)}}と執政ホルティは、ハンガリーで強権的統治を行っていた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.261"> グリセール=ペカール(1995) p.261</ref>。国王支持者の計画的な追放が進められており、以前からホルティを危険人物と考えていた国王軍はカールのブダペスト入りを切望していた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.261" />。こうした情勢を受けてカールは再びハンガリー入国を決断し、子女をスイスに残したまま妊娠中の皇后ツィタとともに飛行機でハンガリーに向かった。1921年10月にカールは再びハンガリーの地に降り立ったが、この試みもまた失敗した。イギリス下院は秘密会議でカールをハンガリーから連れ出すことを外務大臣[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|ジョージ・カーゾン]]卿に迫り、ちょうど[[黒海]]を航行中のイギリス軍艦で移送することが決定された。
 
 
=== マデイラ島への配流、死去 ===
 
[[File:Portugal in its region (Madeira special).svg|thumb|right|200px|大西洋上の[[マデイラ島]]の位置]]
 
[[File:Tomb of blessed carl.JPG|thumb|right|200px|フンシャルの[[:en:Monte (Funchal)|ノッサ・セニョーラ・ド・モンテ教会]]に安置されたカール1世の棺]]
 
11月19日午後3時、カール夫妻を乗せた英国軍艦は、大西洋に浮かぶポルトガル領[[マデイラ島]]に到着した。カール夫妻は島民に温かく迎えられ、中心都市フンシャルに「ヴィラ・ヴィクトリア」という比較的快適な住居を与えられた<ref>グリセール=ペカール(1995) p.279</ref>。しかし皇帝一家の財産は尽きかけており、翌[[1922年]]2月中旬には劣悪な環境の山荘に転居せねばならなかった。ツィタの日記によれば、マデイラ島上陸の数日後に英国領事から「もしカールが正式に退位するならば、旧ハプスブルク諸国に没収されている皇室財産を返還するだけでなく、英国も経済的援助を惜しまない」といった内容の手紙が届いた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.280"> グリセール=ペカール(1995) p.280</ref>。しかしカールは「私の帝冠は換金できるものではないと、皆さんにお伝えください」と返事を送ったという<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.280" />。
 
 
やがてバターも買えないほど皇帝一家は困窮し、ベビーシッターの給料も3ヶ月間未払いだった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.288"> グリセール=ペカール(1995) p.288</ref>。当時の随員のひとりは、皇帝一家の困窮した生活を次のように回想している<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.288" />。
 
{{Quotation|電気もなく、トイレも一ケ所で住居は非常に手狭だった。暖房用に生木が使われたため、煙がいつも立ち込めていたが、それでも暖房は不可欠だった。太陽もあまり当たらないので、フンシャルの生活が懐かしく思われた。ここでは部屋中がいつもカビだらけだった。(中略)皇帝は夕食にも肉料理を食べることができず、野菜と[[クヌーデル]]だけの粗末な食事だった。また皇妃の出産には助産婦も医師もおらず、やってきたのは未経験の保母ひとりだった。}}
 
 
3月9日、四男[[カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・ルートヴィヒ]]の4歳の誕生日プレゼントを買いたいという子供たちを連れてフンシャルに出かけた<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.289"> グリセール=ペカール(1995) p.289</ref>。このときカールは風邪をひいてしまったが、医療費が心配で、医者の診察を受けなかった。風邪はしだいに悪化していき、そのうちカールは呼吸困難に陥ってしまった。ツィタは慌てて医者を呼んだが、すでに片肺が侵されているとの診断が下された<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.289" />。治療の甲斐なく、やがてカールは両肺を侵されてしまった。カールは病床で「自分は、わたしの人民たちがもう一度一緒になれるように、苦しまなければならない」とツィタに語ったといわれる<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.368"> ウィートクロフツ(2009) p.368</ref>。
 
 
カールはツィタに「これからはスペイン国王[[アルフォンソ13世]]を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると約束してくれた」「私がハンガリー王でないという宣言は無効だ」と遺言し<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.293"> グリセール=ペカール(1995) p.293</ref>、[[1922年]][[4月1日]]12時23分に死去した<ref name="江村(2013) p.422"> 江村(2013) p.422</ref>。享年34。なお、アルフォンソ13世は、カールが死去した晩にどういうわけかツィタと子供たちの面倒を見なくてはという義務感に突如取りつかれたと後に述べている<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.293" />。葬儀には3万人が参列したという。
 
 
カールの死から60年以上が経った[[1989年]][[3月14日]]、ツィタは96歳で死去した。4月1日に[[シュテファン大聖堂]]で葬儀が営まれたが、この日程はマデイラ島でカールが死去した1922年4月1日に合わせてのものだった<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.360"> グリセール=ペカール(1995) p.360</ref>。ツィタの心臓とともにカールの心臓も壺に入れられ、{{仮リンク|ムーリ修道院|en|Muri Abbey}}に安置されている<ref name="グリセール=ペカール(1995) p.360" />。心臓以外のカールの遺骸は、いまだマデイラ島フンシャルにある<ref name="江村(2013) p.422" />。オットーによれば、それはカールを寛大に扱ってくれたマデイラ島の人々への感謝のためだという。皇帝廟[[カプツィーナー納骨堂]]の地下室には、棺の代わりとしてカールの胸像が安置されている。
 
 
== 列福 ==
 
{{Infobox 聖人
 
|名前=福者 カール1世
 
|画像=Kaiser Karl I., Ölbild von Hannes Scheucher.jpg|thumb|240px|
 
|画像サイズ=
 
|画像コメント=福者皇帝カール1世
 
|称号=福者
 
|他言語表記=
 
|生誕地=
 
|生誕年(日)=
 
|死去地=
 
|死去年(日)=
 
|崇敬する教派= [[カトリック教会]]
 
|記念日=[[10月21日]]
 
|列福日=[[2004年]][[10月3日]]
 
|列福場所=[[バチカン市国]]・[[サン・ピエトロ広場]]
 
|列福決定者=[[ヨハネ・パウロ2世]]
 
|列聖日=
 
|列聖場所=
 
|列聖決定者=
 
|主要聖地=
 
|象徴=
 
|守護対象=
 
|論争=
 
|崇敬対象除外日=
 
|崇敬対象除外者=
 
}}
 
カール1世はその伝えられる数多くのエピソードから、徳の高い人物であったと評価される。アンドリュー・ウィートクロフツは、同じあだ名で呼ばれる先祖よりも「善良帝」の名に値する君主であったと評価している<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.368"/>。
 
 
[[1949年]]、カール1世の[[列福]]を求める提案が起こされた<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.368"/>。[[1972年]]、墓が開かれ、カール1世の体は腐敗していないことが判明した。
 
 
[[2003年]]12月20日、ローマ教皇[[ヨハネ・パウロ2世]]はカール1世の仲介に帰せられる治癒を「[[奇跡]]」と認定する文書に署名した<ref name="「福者に。」 p.1" />。この時に認められた「奇跡」とは、両足の炎症と激しい苦痛に苦しんでいた[[ポーランド]]の修道女が、亡きカール1世に祈りを捧げたところ、たちどころに治癒したというものである<ref name="「福者に。」 p.1" />。この「奇跡」が認定されたことによってカール1世は、[[2004年]]10月3日、20世紀の国家元首としては初めての[[福者]]となった。
 
 
カール1世の福者としての記念日は、ツィタとの結婚記念日である[[10月21日]]。
 
 
なお、福者から[[聖人]]への昇格には、福者に認定された時のものを含めて二つ以上の「奇跡」の認定が必要とされる。カール1世にまつわる「奇跡」はポーランドの修道女の事例以外にも複数あり、それらの調査は現在も行われている。
 
 
== 家族 ==
 
[[File:IV. Károly és családja.jpg|thumb|right|250px|カール1世とその家族。左から右へ、[[カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・ルートヴィヒ]]、[[フェリックス・ハプスブルク=ロートリンゲン|フェリックス]]、{{仮リンク|シャルロッテ・ハプスブルク=ロートリンゲン|label=シャルロッテ|en|Archduchess Charlotte of Austria}}とツィタ、[[ルドルフ・ハプスブルク=ロートリンゲン|ルドルフ]]とカール1世、[[アーデルハイト・ハプスブルク=ロートリンゲン|アーデルハイト]]、[[オットー・フォン・ハプスブルク|オットー]]、[[ローベルト (オーストリア=エステ大公)|ローベルト]]([[1922年]]頃)]]
 
皇后[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]との間に5男3女をもうけた。末子のエリーザベトは死後に誕生している。
 
{| class="wikitable" style="font-size:95%"
 
!名前
 
!生年
 
!没年
 
![[続柄]]
 
!備考
 
|-
 
|[[オットー・フォン・ハプスブルク|フランツ・ヨーゼフ・オットー]]
 
| style="text-align:right" |[[1912年]][[11月20日]]
 
|style="text-align:right" |[[2011年]][[7月4日]]
 
|第一皇子
 
|ハプスブルク家当主(1922年 - 2006年)<br />[[ザクセン=マイニンゲン公国|ザクセン=マイニンゲン公爵家]]の[[レギーナ・フォン・ザクセン=マイニンゲン|レギーナ]]と結婚。
 
|-
 
|[[アーデルハイト・ハプスブルク=ロートリンゲン|アーデルハイト]]
 
|style="text-align:right" |[[1914年]][[1月3日]]
 
|style="text-align:right" |[[1971年]][[10月2日]]
 
|第一皇女
 
!
 
|-
 
|[[ローベルト (オーストリア=エステ大公)|ローベルト]]
 
|style="text-align:right" |[[1915年]][[2月8日]]
 
|style="text-align:right" |[[1996年]][[2月7日]]
 
|第二皇子
 
|[[オーストリア=エステ家|オーストリア=エステ大公]]<br />イタリア旧王族[[マルゲリータ・ディ・サヴォイア=アオスタ]]と結婚。
 
|-
 
|[[フェリックス・ハプスブルク=ロートリンゲン|フェリックス]]
 
|style="text-align:right" |[[1916年]][[5月31日]]
 
|style="text-align:right" |[[2011年]][[9月6日]]
 
|第三皇子
 
|[[アーレンベルク家]]のアンナ=ウジェニーと結婚。
 
|-
 
|[[カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・ルートヴィヒ]]
 
|style="text-align:right" |[[1918年]][[3月10日]]
 
|style="text-align:right" |[[2007年]][[12月11日]]
 
|第四皇子
 
|[[リーニュ家]]の{{仮リンク|ヨランド・ディ・リーニュ|label=ヨランド|en|Archduchess Yolande of Austria}}と結婚。
 
|-
 
|[[ルドルフ・ハプスブルク=ロートリンゲン|ルドルフ]]
 
|style="text-align:right" |[[1919年]][[9月5日]]
 
|style="text-align:right" |[[2010年]][[3月15日]]
 
|第五皇子
 
|ロシア人亡命貴族のクセニヤ・チェルニシェヴァ=ベゾブラソヴァと結婚、のちヴレーデ侯カールの娘アンナ・ガブリエーレと再婚。
 
|-
 
|{{仮リンク|シャルロッテ・ハプスブルク=ロートリンゲン|label=シャルロッテ|en|Archduchess Charlotte of Austria}}
 
|style="text-align:right" |[[1921年]][[3月1日]]
 
|style="text-align:right" |[[1989年]][[7月23日]]
 
|第二皇女
 
|メクレンブルク=シュトレーリッツ大公[[ゲオルク・ツー・メクレンブルク|ゲオルク]]と結婚。
 
|-
 
|{{仮リンク|エリーザベト・ハプスブルク=ロートリンゲン|label=エリーザベト|en|Archduchess Elisabeth of Austria (1922–1993)}}
 
|style="text-align:right" |[[1922年]][[5月31日]]
 
|style="text-align:right" |[[1993年]][[1月6日]]
 
|第三皇女
 
|ハインリヒ・リヒテンシュタイン(リヒテンシュタイン侯[[フランツ・ヨーゼフ2世]]の従弟)と結婚。
 
|-
 
|}
 
  
 
== 脚注==
 
== 脚注==
{{脚注ヘルプ}}
+
{{reflist}}
 
+
{{テンプレート:20180815sk}}
=== 注釈 ===
 
{{reflist|group=注釈}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{reflist|3}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{Commonscat|Karl I of Austria}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[オットー・バウアー]]|translator=[[酒井晨史]]|date=1989年|title=オーストリア革命|publisher=[[早稲田大学出版部]]|isbn=4-657-89619-9|ref=バウアー(1989)}}
 
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|バーバラ・ジェラヴィッチ|en|Barbara Jelavich}}|translator=[[矢田俊隆]]|date=1994年|title=近代オーストリアの歴史と文化:ハプスブルク帝国とオーストリア共和国|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-65600-0|ref=ジェラヴィッチ(1994)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[リチャード・リケット]]|translator=[[青山孝徳]]|date=1995年|title=オーストリアの歴史|publisher=[[成文社]]|isbn=4-915730-12-3|}}
 
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|タマラ・グリセール=ペカール|en|Tamara Griesser Pečar}}|translator=[[関田淳子]]|date=1995-05-10|title=[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|チタ]]:[[ハプスブルク家]]最後の皇妃|publisher=[[新書館]]|isbn=4-403-24038-0|ref=グリセール=ペカール(1995)}}
 
*[[江口布由子]]「第一次大戦期のオーストリアにおける国家と子ども――「父を失った社会」の児童福祉――」(『[[歴史学研究]]』第816号、2006年7月)
 
* {{Cite book|和書|author=[[小野秋良]]、[[板井大治]]|date=2008-01-09|title=平和の皇帝カール一世:[[オーストリア=ハンガリー帝国]]最後の皇帝の受難と栄光|publisher=[[くすのき出版]]|isbn=978-4907754136|ref=『受難と栄光』}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[アンドリュー・ウィートクロフツ]]|translator=[[瀬原義生]]|date=2009年(平成21年)|title=ハプスブルク家の皇帝たち:帝国の体現者|publisher=[[文理閣]]|isbn=978-4-89259-591-2}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[江村洋]]|date=2013-12-10|title=[[フランツ・ヨーゼフ1世|フランツ・ヨーゼフ]]:ハプスブルク「最後」の皇帝|publisher=[[東京書籍]]|isbn=978-4-309-41266-5|ref=江村(2013)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[ティモシー・スナイダー]]|translator=[[池田年穂]]|date=2014-04-25|title=赤い大公:ハプスブルク家と東欧の20世紀|publisher=[[慶応義塾大学出版会]]|isbn=978-4-7664-2135-4|ref=スナイダー(2014)}}
 
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ポール・ホフマン|de|Paul Hofmann (Journalist)}}|translator=[[持田鋼一郎]]|date=2014-07-15|title=[[ウィーン]]:栄光・黄昏・亡命|publisher=[[作品社]]|isbn=978-4-86-182-467-8|ref=ホフマン(2014)}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_world-news/016.pdf 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」]
 
 
 
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2018/9/24/ (月) 23:43時点における最新版

カール1世ドイツ語: Karl I.1887年8月17日 - 1922年4月1日)は、最後のオーストリア皇帝(在位:1916年11月21日 - 1918年11月12日)。ハンガリー国王としてはカーロイ4世ハンガリー語: IV. Károly)。オーストリア帝国内ボヘミア国王としてはカレル3世チェコ語: Karel III.)。福者

概要

大伯父であるフランツ・ヨーゼフ1世の後継者として1916年に即位し、オーストリア=ハンガリー帝国の統治者となった。第一次世界大戦に敗れて「国事不関与」を宣言したが、王権神授説の観点から退位は拒絶した。莫大な皇室財産のほとんどを新生のオーストリア共和国に没収された後、二度にわたってハンガリー国王への復帰運動を企てたが失敗し、ポルトガルマデイラ島に流されて困窮の中で病死した。

カトリック教会への篤い信仰心を持ち、フランス首相クレマンソーからは「中欧における教皇[1]」と、時のローマ教皇ベネディクト15世からは「私のお気に入りの子[1]」と呼ばれ、20世紀国家元首としては初めての福者になった。

脚注



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