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(ページの作成:「 Jerusalem パレスチナの中心都市。イスラエルの首都と主張され,ユダヤ教キリスト教イスラム教それぞれ…」)
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{{Otheruses|都市|その他のエルサレムの用法|エルサレム (曖昧さ回避)}}
 
{{基礎情報 イスラエルの自治体
 
|名称 = エルサレム
 
|ヘブライ語表記 = יְרוּשָׁלַיִם
 
|アラビア語表記 = القدس<br />
 
|画像 = Jerusalem infobox image.JPG
 
|画像サイズ = 300px
 
|画像説明 =
 
|自治体旗 = Flag of Jerusalem.svg
 
|自治体章 = Emblem_of_Jerusalem.svg
 
|愛称 =
 
|標語 =
 
|名称の由来 = 平和の町・聖なる家
 
|位置図 = Jerusalem.PNG
 
|位置図サイズ =
 
|位置図説明 = エルサレムの位置
 
|位置図2 = Jerusalem Israel Map.png
 
|位置図サイズ2 =
 
|位置図説明2 = エルサレムの位置(イスラエル中部)
 
|緯度度= 31|緯度分= 47|緯度秒= |N(北緯)及びS(南緯)= N
 
|経度度= 35|経度分= 13|経度秒= |E(東経)及びW(西経)= E
 
|成立区分 = 起源
 
|成立日 = 紀元前30世紀
 
|成立区分1 =
 
|成立日1 =
 
|成立区分2 =
 
|成立日2 =
 
|創設者 =
 
|地区 = [[エルサレム地区]]
 
|郡 =
 
|自治体区分 = 市
 
|首長氏名 = [[w:Nir Barkat|ニール・バルカット]]
 
|首長所属党派 =  エルサレムの成功
 
|議長氏名 =
 
|議長所属党派 =
 
|総面積(平方キロ) = 125.16
 
|総面積(平方マイル) =
 
|陸上面積(平方キロ) =
 
|陸上面積(平方マイル) =
 
|水面面積(平方キロ) =
 
|水面面積(平方マイル) =
 
|水面面積比率 =
 
|市街地面積(平方キロ) =
 
|市街地面積(平方マイル) =
 
|都市圏面積(平方キロ) =
 
|都市圏面積(平方マイル) =
 
|標高(メートル) =
 
|標高(フィート) =
 
|人口の時点 = 2012年
 
|人口に関する備考 = [[イスラエルの都市人口の順位|全国第1位]]
 
|総人口 = 933,200 (1,700,100)
 
|人口密度(平方キロ当たり) = 5,852
 
|人口密度(平方マイル当たり) =
 
|市街地人口 =
 
|市街地人口密度(平方キロ当たり) =
 
|市街地人口密度(平方マイル当たり) =
 
|都市圏人口 =
 
|都市圏人口密度(平方キロ当たり) =
 
|都市圏人口密度(平方マイル当たり) =
 
|郵便番号区分 =
 
|郵便番号 =
 
|市外局番 =
 
|ナンバープレート =
 
|ISOコード =
 
|備考 =
 
|公式サイト = [http://www.jerusalem.muni.il/jer_main/defaultnew.asp?lng=1 The Jerusalem Website]
 
}}
 
  
'''エルサレム'''または'''イェルサレム'''は、[[イスラエル]]および[[パレスチナ自治政府|パレスチナ自治区]]にある[[都市]]。
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Jerusalem
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イスラエルはエルサレムが自国の「[[首都]]」であると宣言しているものの、[[国際連合]]など国際社会はこれを認めておらず<ref name="news1" /><ref name="news2" />、イスラエルの首都は[[テルアビブ]]であるとみなし<ref name="news1" /><ref name="news2" />ている。したがって、イスラエルと[[国交]]を持つ諸国も、大使館や領事館はエルサレムでなく[[テルアビブ]]に置いてきた。ただし、2017年になってアメリカ合衆国の[[ドナルド・トランプ]]大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると明言<ref name="news1">{{cite news|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2017012600552&g=use|title=米大使館、エルサレムに移るの?-ニュースを探るQ&A|newspaper=時事通信|date=2017-1-27|accessdate=2017-1-27}}</ref><ref name="news2">{{cite news|url=http://www.cnn.co.jp/world/35094909.html|title=米大使館のエルサレム移転、5月にも発表か 国際社会は警告|newspaper=CNN日本語版公式ホームページ|publisher=Cable News Network|date=2017-1-12|accessdate=2017-1-27}}</ref>。2018年5月、アメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転させた<ref>{{Cite news |title=ガザでの衝突を受け、外務報道官談話 |newspaper=Qnewニュース |date=2018-5-15 |url=https://qnew-news.net/news/2018-5/2018051508.html |accessdate=2018-7-11}}</ref>。
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[[パレスチナ]]の中心都市。[[イスラエル]]の首都と主張され,[[ユダヤ教]][[キリスト教]][[イスラム教]]それぞれの聖地。ヘブライ語ではイェルシャライム Yerushalayim。
  
== 名称・表記 ==
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エルサレムは紀元前 4000年頃に築かれたといわれるが,前 1000年頃ダビデ王により古代ユダヤ王国の聖都とされ,その後イエスの処刑と復活の地としてキリスト教の聖地となった。 638年にはアラブの支配下に入り,メッカ,メジナに次ぐイスラム教の第3の聖地となり,16世紀以降はオスマン帝国の支配のもと,城壁で囲まれた旧市内に集中する3宗教の聖地が保護され,宗教的共存の時代が続いた。東半の旧市街は 1948年から 1967年までヨルダンに属していたが,六日戦争 (第3次中東戦争 ) 後の 1967年6月にイスラエルが占領,統一都市として管轄権を主張したが,ヨルダン,国際連合のいずれもがこれを承認していない ([[エルサレム問題]] ) 。標高 800mのユダ山地上にあり,地中海性気候のため夏は暑く乾燥するが,冬は雨が多い。城壁に囲まれた旧市街には宗教史上の遺跡がきわめて多く,1981年ヨルダンの推薦で世界遺産の文化遺産に登録。新市街は 20世紀になって開けた近代都市で,官庁,ヘブライ大学などの文化機関が多く,伝統的な旧市街と対照をなす。人口 78万8100(2011)。
{{lang-he|יְרוּשָׁלַיִם}} (イェルシャライム)、{{lang-ar|القُدس}}、{{lang-en|''Jerusalem''}} ({{IPA-en|ʤəˈruːsələm}} ジャ'''ルー'''サラム)[[ラテン語]]では ''Hierosolyma'' (ヒエロ'''ソ'''リュマ)で、これは[[ギリシア語]]名の {{lang|el|Ἱεροσόλυμα}} をそのままローマ字に音写したもの である。
 
  
== 概要 ==
 
[[地中海]]から[[内陸]]部に入った標高800[[メートル]]の小高い[[丘]]の上に位置する。[[ユダヤ人]]が住む西エルサレムと、[[アラブ人]]居住区である[[東エルサレム]]から成り立つ。
 
 
西部はイスラエルの行政区画である[[エルサレム地区]]に属する。[[東エルサレム]]は[[第三次中東戦争]](1967年)でイスラエルが占領し、編入を宣言したが、多くの諸国と[[パレスチナ自治政府]]は認めていない。パレスチナ自治政府は東エルサレムを[[ヨルダン川西岸地区]][[エルサレム県]]に含まれるとして領有権を主張し、パレスチナ独立後の首都と規定している。
 
 
[[古代イスラエル]]・[[ユダ王国]]の首都で、[[エルサレム神殿]]がかつて存在した。[[イエス・キリスト]]が処刑された地でもあり、[[ユダヤ教]]・[[キリスト教]]・[[イスラム教]]共通の[[聖地]]となっている<ref name=news1/>。
 
 
== 市内の地理 ==
 
=== 東エルサレム ===
 
{{Main|東エルサレム}}
 
[[第一次中東戦争]](1948~1949年)によって[[ヨルダン]]の支配下に置かれた地区が東エルサレムである。1949年以前のエルサレム市域の20%を占めるが、本来のエルサレムである[[エルサレム旧市街|城壁に囲まれた旧市街]]は東エルサレムに含まれ、[[1967年]]の第三次中東戦争によってイスラエルに占領された。占領後、イスラエルは旧ヨルダン領の28の地方自治体をエルサレムに統合し、エルサレムの面積は大幅に拡大した。この新市域にイスラエルは大型の[[ユダヤ人]][[入植地]]を次々と建設している。
 
 
旧市街のすぐ東には[[オリーブ山]]がある。ここはイエス・キリストの足跡が多く、多くの[[キリスト教徒]]が訪れるほか、[[旧約聖書]]の[[ゼカリヤ書]]においても、最後の審判の日に神が現れ、死者がよみがえる場所とされているため、ユダヤ人の聖地ともなっている。
 
 
旧市街の北側には、ロックフェラー博物館や、中東における[[聖公会]]の[[主教座聖堂]]である[[聖ジョージ大聖堂 (エルサレム)|聖ジョージ大聖堂]]がある。旧市街の南側には[[シオンの山]](丘)があり、[[ダビデ]]王の墓やキリストにかかわる旧跡がある。
 
 
=== 旧市街 ===
 
[[ファイル:Austrian Hospice Jerusalem April 2007.JPG|thumb|right|古い街並みを残す旧市街]]
 
{{Main|エルサレム旧市街}}
 
旧市街は[[ユダヤ教]]・[[イスラム教]]・[[キリスト教]]の[[聖地]]であり、[[嘆きの壁]]や[[聖墳墓教会]]、[[岩のドーム]]といった各宗教縁の施設を訪れる人々が絶えない。旧市街は城壁に囲まれ、東西南北に宗派ごとで四分割されている。北東は[[ムスリム]]地区、北西はキリスト教徒地区、南西は[[アルメニア正教徒]]地区、南東はユダヤ人地区となっている。現在の城壁は[[オスマン・トルコ]]皇帝の[[スレイマン1世]]によって建設されたものである。城壁には北側中央にあるダマスクス門から時計回りに、ヘロデ門、獅子門、黄金門、[[糞門]]、シオン門、ヤッフォ門、新門の八つの門があり、ここからしか出入りができない。[[19世紀]]に作られた新門以外はスレイマン時代より存在する門である。
 
 
嘆きの壁はユダヤ人地区の東端にある。嘆きの壁の上はムスリム地区に属し、[[神殿の丘]]と呼ばれる、かつてのエルサレム神殿の跡で、ここには[[イスラム教]]の聖地[[アル=アクサー・モスク]]や[[イスラーム建築]]の傑作とされる岩のドームが建っている。
 
 
旧市街がヨルダン領であった時代にはユダヤ人は旧市街より追放され、イスラエルからは限られた時期にアラブ人のみが入国することができた。このため、イスラエルのユダヤ人は嘆きの壁を訪れることができなかった。1967年にイスラエルが旧市街を占領したことによって、イスラエルのユダヤ人は再び聖地を訪れることが可能となった。一方、イスラエルにはアラブ人のイスラム教徒が一定数存在していたため、イスラエル統治下ではイスラム教徒が聖地を訪れることは可能となった。しかし、現在でもイスラエルと国交のないアラブ国家は多く、そういった国の国民であるイスラム教徒はイスラエルに入国できないため、エルサレムにも行くことはできない。
 
 
旧市街は「[[エルサレムの旧市街とその城壁群]]」の名で[[1981年]]に[[世界遺産]]に登録された([[ヨルダン]]による申請)。
 
{{Clearleft}}
 
 
=== 西エルサレム ===
 
[[ファイル:JLM King George.jpg|thumb|近代的な建物が並ぶ新市街]]
 
 
元々のパレスチナ人の村の跡地には[[ナビー・アカシャ・モスク]]のような建物も残るが、[[西]]側は新市街と呼ばれる[[近代]]的な[[都市]]で、1949年以前のエルサレム市域の80%を占める。1950年にイスラエルが西エルサレムを占領するとテルアビブより首都が移され、[[ヘブライ大学]]、[[イスラエル博物館]]、ハイテク工業団地や国会、各省庁などが立地する、[[イスラエル]]の[[政治]]・[[文化]]の中心となった。ただし、[[国防省 (イスラエル)|国防省]]に関しては、軍事的な観点で、エルサレムではなくテルアビブに立地している。メインストリートは旧市街のヤッフォ門から北西に伸びる[[ヤッファ通り|ヤッフォ通り]]で、市庁舎や市場、西端には中央バスターミナルがあり、[[ライトレール]]も走っている。途中のシオン広場から西へ延びるベン・イェフダ通りは繁華街となっている。西エルサレムの北東にある[[メーアー・シェアーリーム]]はユダヤ教超正統派の町として知られ、東欧やロシアから移住して来た当時のたたずまいを残す町並みとなっている<ref>「イスラエル」p4-5 臼杵陽 岩波書店 2009年4月21日第1刷</ref>。エルサレムの西端には国立共同墓地である[[ヘルツルの丘]]があり、[[テオドール・ヘルツル]]や[[レヴィ・エシュコル]]、[[ゴルダ・メイア]]、[[イツハク・ラビン]]などが埋葬されている。この丘の西側には[[ホロコースト]]博物館である[[ヤド・ヴァシェム]]が立っている。
 
 
== 歴史 ==
 
{{main|[[:en:History of Jerusalem|エルサレムの歴史]]}}
 
 
=== 初期 ===
 
[[紀元前30世紀]]頃、[[カナン]]と呼ばれていた土地において古代[[セム語族|セム系民族]]がオフェルの丘に集落を築いたのが起源とされている。エルサレムの地名は[[古代エジプト]]の記録([[アマルナ]]文書)などにまず見られる。[[紀元前1000年]]頃に[[ヘブライ王国]]が成立すると、2代目の[[ダビデ]]王によって都と定められた。その後、3代目の[[ソロモン]]王によって王国は絶頂期を迎え、[[エルサレム神殿]](第一神殿)が建設されたが、その死後の[[紀元前930年]]ごろに王国は南北に分裂、エルサレムは[[ユダ王国]]の都となった。
 
 
その後、エルサレムは300年以上ユダ王国の都として存続したものの、王国は[[紀元前597年]]に[[新バビロニア|新バビロニア王国]]の支配下に入り、新バビロニア王[[ネブカドネザル2世]]によってエルサレムの住民約3000人が[[バビロン]]へと連行された。ついで[[紀元前586年]]7月11日、ユダ王国は完全に滅ぼされ、エルサレムの神殿ならびに都市も破壊され、住民はすべてバビロンへと連行された。[[バビロン捕囚]]である。
 
 
=== 再建と再破壊 ===
 
[[ファイル:Jerusalem Modell BW 2.JPG|thumb|考古学を元に再現された[[1世紀]]のエルサレム]]
 
 
紀元前539年に新バビロニアが[[アケメネス朝]]ペルシアに滅ぼされると、ペルシア王[[キュロス2世]]はユダヤ人のエルサレムへの帰還を認め、エルサレムは再建された。[[紀元前515年]]にエルサレム神殿も再建([[第二神殿]])された。その後は[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス帝国]]、[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]などの支配を受けた。[[紀元前140年]]頃にはユダヤ人が[[ハスモン朝]]を建てて自立したものの、[[ローマ帝国]]の影響が強まり、[[紀元前37年]]にはローマの宗主権のもと、[[ヘロデ大王]]によって[[ヘロデ朝]]が創始され、ローマの支配下におかれた。ヘロデは第二神殿をほぼ完全に改築し、ヘロデ神殿と呼ばれる巨大な神殿を建設した。
 
 
この後は[[6年]]に[[ユダヤ属州]]が創設され、州都は[[カイサリア]]に置かれたが、エルサレムは宗教の中心として栄え続けた。この頃、[[イエス・キリスト]]がエルサレムに現れ、[[30年]]ごろに属州総督[[ポンティウス・ピラトゥス]]によって処刑されたとされる。
 
 
しかし、[[66年]]には[[ユダヤ戦争]]が勃発し、ユダヤ人はエルサレムに拠って抵抗したものの、[[エルサレム攻囲戦 (70年)]] によってエルサレムは陥落した。これ以後、それまでユダヤ人への配慮からカイサリアに置かれていたローマ軍団がエルサレムへと駐屯するようになり、エルサレムにはユダヤ人の居住は禁止された。[[ハドリアヌス]]の治世になるとエルサレムの再建が計画されたものの、ユダヤ神殿の跡に[[ユーピテル]]の神殿を築き、都市名を[[アエリア・カピトリナ]]と改名することを知ったユダヤ人は激怒し、132年に[[バル・コクバの乱]]を起こしたが鎮圧された。エルサレムは[[コロニア (古代ローマ)|ローマ植民市]]アエリア・カピトリナとして再建された。
 
 
その結果、エルサレムを追われ、離散([[ディアスポラ]])することになったユダヤ人たちは、エルサレム神殿での祭祀に代り、[[律法]]の学習を拠り所とするようになった。
 
 
=== キリスト教とイスラム教の聖地化 ===
 
[[ファイル:Jerusalem Holy Sepulchre BW 19.JPG|thumb|[[聖墳墓教会]]]]
 
 
[[313年]]にはローマ帝国が[[ミラノ勅令]]によってキリスト教を公認し、[[320年]]ごろに[[コンスタンティヌス1世]]の母太后である[[聖ヘレナ]]が巡礼を行ったことで、エルサレムはキリスト教の聖地化した。市名は再びエルサレムに戻され、聖墳墓教会が立てられた。[[ユリアヌス]]帝の時代には、ユダヤ人のエルサレムへの居住が許可されるようになった。
 
 
[[638年]]、アラブ軍による征服でエルサレムは[[イスラーム]]勢力の統治下におかれた。イスラームはエルサレムを第三の聖地としており、[[7世紀]]末に[[岩のドーム]]が建設された。[[970年]]より、[[シーア派]]を掲げる[[ファーティマ朝]]の支配下に入った。しかし、[[11世紀]]後半に大飢饉などによりファーティマ朝が弱体化すると、この地を[[スンナ派]]の[[セルジューク朝]]が占領した。この征服を率いた軍人[[アトスズ]]は、占領時に略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁止しており、エルサレムの平安は維持されていた。
 
 
=== 十字軍 ===
 
[[ファイル:1099jerusalem.jpg|thumb|left|180px|十字軍の[[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレム攻略]]]]
 
 
[[1098年]]にファーティマ朝が再びエルサレムを奪回する。しかし、翌年には[[第一次十字軍]]の軍勢がエルサレムになだれ込み、多くのムスリムやユダヤ教徒の住民を虐殺した([[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレム攻囲戦]])。そして、[[1099年]]に[[エルサレム王国]]を成立させた。ムスリムやユダヤ人はエルサレムへの居住を禁止され、エルサレムはキリスト教徒の町となった。しかし、[[12世紀]]後半に[[アイユーブ朝]]の[[スルタン]]である[[サラーフッディーン]]がエルサレムを奪回し、再びイスラーム勢力の支配下に入った。このとき[[カトリック教会|カトリック]]は追放されたものの、[[正教会]]やユダヤ人の居住は許可された。[[1229年]]、当時のイスラーム側における内部対立にも助けられ、神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]は、アイユーブ朝スルタンの[[アル=カーミル]]との交渉によってエルサレムの譲渡を認めさせた。しかし、[[1239年]]には[[アッバース朝]]の第34代[[カリフ]]である[[ナースィル]]によってエルサレムが奪回されたため、その統治は短期的なものに終わった。
 
 
それ以後は[[マムルーク朝]]や[[オスマン帝国]]の支配下に置かれた。
 
{{Clearleft}}
 
=== シオニズム ===
 
19世紀後半に入ると[[ヨーロッパ]]に住むユダヤ人の間で[[シオニズム]]が高まりを見せ、パレスチナへのユダヤ人の移住が急増した。中でも特に移住者が多かったのは聖都エルサレムであり、19世紀後半にはエルサレムではユダヤ人が多数派を占めるようになっていた。[[1892年]]には地中海沿岸から鉄道が開通し、人口はさらに増加した。[[第一次世界大戦]]でオスマン帝国が敗れると、この地方は[[国際連盟]]によって[[イギリス委任統治領パレスチナ]]となり、エルサレムにその首都が置かれた。このことでエルサレムの政治的重要性がさらに増す一方で、委任統治領政府はエルサレムの近代化に力を入れ、1925年には[[ヘブライ大学]]も開学した。
 
 
=== イスラエル建国 ===
 
[[第二次世界大戦]]後の1947年に[[国際連合]]の[[パレスチナ分割決議]]において、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国連の永久信託統治とする案が決議された。この決議を元にイスラエルが[[イスラエル独立宣言|独立宣言]]をするが、直後に[[第一次中東戦争]]が勃発。[[1949年]]の休戦協定により西エルサレムはイスラエルが、旧市街を含め東エルサレムを[[ヨルダン]]が統治することになり、エルサレムは東西に分断された。[[1967年]]6月の[[第三次中東戦争]](六日間戦争)を経て、ヨルダンが統治していた東エルサレムは現在まで[[イスラエル]]の[[実効支配]]にある。イスラエルは東エルサレムの統合を主張しており、また、第三次中東戦争による「再統合」を祝う「エルサレムの日」を設けている([[ユダヤ暦]]からの換算になるため、[[グレゴリオ暦]]では毎年変動がある。[[2010年]]は[[5月12日]]が「エルサレムの日」であった)。
 
 
イスラエルは東エルサレムの[[実効支配]]を既成事実化するため、ユダヤ人[[入植地|入植]]<ref>イスラエルの[[ベンヤミン・ネタニヤフ|ネタニヤフ]]首相は「エルサレムは入植地ではない。我々の首都だ」との見解を示しており、入植地であること自体を認めていない。[[フランス通信社]]2010年[[3月23日]] [http://www.afpbb.com/article/politics/2712203/5527800 「エルサレムは入植地ではなく首都」、イスラエル首相が言明 * 2010年03月23日 13:56 発信地:ワシントンD.C./米国]</ref> を精力的に進めており、2010年時点で入植者は20万人を超える。イスラエルは今後の数年間で、先の1600戸を合わせ5万戸の入植を計画している<ref>『[[世界日報]]』2010年[[3月12日]] [[森田陽子]][http://www.worldtimes.co.jp/news/world/kiji/100312-211053.html バイデン米副大統領、中東和平交渉の進展を促す]</ref>。一方、エルサレム市当局は、パレスチナ人の住居が無許可であるとの理由で、しばしばその住居を破壊している<ref>イスラエル側は、パレスチナ人住居建設は当局の許可が必要と主張している。しかし実際に許可が下りることは少なく、「不法」を理由にパレスチナ人住居を破壊している。『[[しんぶん赤旗]]』 2010年[[7月15日]]号 [http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-07-15/2010071507_01_1.html 東エルサレムのパレスチナ人住居 イスラエルが破壊 和平交渉 再開の動き覆す 国際社会が非難] など</ref>。
 
 
== 宗教とエルサレム ==
 
[[ファイル:Israel-Western Wall.jpg|thumb|160px|嘆きの壁]]
 
[[ファイル:Jerusalem Dome of the rock BW 3.JPG|thumb|200px|岩のドーム]]
 
エルサレムは単に地理的に要所であるのではなく、[[アブラハムの宗教]]全ての聖地であることが最大の問題である。このことがエルサレムの帰属をめぐる紛争の火種となっており、[[パレスチナ問題]]の解決を一層困難にしている。
 
*[[ユダヤ教]]にとっては、エルサレムはその信仰を集めていた[[エルサレム神殿]]が置かれていた聖地であり、[[ユダ王国]]の首都であった場所でもある。現在でも幾つかの神聖とされる場所が残っている。中でも[[嘆きの壁]]は有名で、これは[[70年]]に[[ローマ帝国]]がエルサレム神殿を破壊した時に外壁の一部が残されたものである。
 
*[[キリスト教]]にとっては、エルサレムは[[イエス・キリスト]]が教えを述べ、そして[[キリストの磔刑|処刑]]され、埋葬され、[[復活 (キリスト教)|復活]]したとされる場所である。それらの場所には、現在はそれぞれ[[教会]]が建っている。[[ゼカリヤ書]]12章では「地のすべての国々はエルサレムに集まって来る」とある。
 
*[[イスラム教]]にとっては、エルサレムは[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]が一夜のうちに昇天する旅を体験した場所とされる。[[コーラン]]は、[[メディナ]]に居住していた時代のムハンマドが、神の意志により「聖なるモスク」すなわち[[メッカ]]の[[カアバ神殿]]から一夜のうちに「遠隔の礼拝堂」すなわちエルサレム神殿までの旅をしたと語っている(17章1節)。伝承によると、このときムハンマドはエルサレムの神殿上の岩から天馬に乗って昇天し、神の御前に至ったのだという。この伝承は、ムハンマドの死後から早い時期には既にイスラム教徒の間では事実とみなされており、神殿の丘におけるムハンマドが昇天したとされる場所には[[ウマイヤ朝]]の時代に[[岩のドーム]]が築かれた。また、丘の上には「遠隔の礼拝堂」を記念する[[アル=アクサー・モスク]]が建設され、聖なる場所と見なされている。しかし、エルサレムは、[[メッカ]]及び[[メディナ]]と同格の聖地ではない。なぜならメッカとメディナは「禁域」とされ、異教徒の立ち入りや、樹木の伐採や狩猟などが禁止されているからである。一方、エルサレムは、ムハンマドの時代には東ローマ帝国の支配下にあり、「禁域」とならなかった。第2代のカリフである[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]の時代に征服された後も、キリスト教徒とユダヤ教徒、ムスリムが共存する異教徒禁制とは無縁な国際的な宗教都市であり続けたのである。
 
 
== 人口 ==
 
エルサレムは[[19世紀]]後半より[[ユダヤ人]]の方が[[アラブ人]]よりも常に人口で上回っており、1949年にエルサレムが東西に分割されるとその傾向はさらに強まった。東エルサレムは経済の伸び悩んだヨルダン領にあった上、首都は[[アンマン]]に置かれてエルサレムの開発は進められず、人口は停滞した。一方、イスラエル側の西エルサレムは独立後すぐに首都が移され、イスラエルの政治の中心として大規模な開発が進められたため、人口が急増した。1967年に東エルサレムがイスラエルに占領されると多くのアラブ人がエルサレムから流出し、その差はさらに開いた。1967年にはユダヤ人はエルサレムの人口の74.6%を占め、アラブ人は25.4%に過ぎなかった。イスラエルは占領後旧ヨルダン領にあった28の地方自治体をエルサレムに統合したが、その地区にはユダヤ人の大規模入植地が建設され、多くのユダヤ人が流入した。しかしエルサレムのアラブ人の出生率は高く、ユダヤ人入植地の大量建設をもってしても人口比率を増やすことはできなかった。2007年には、エルサレムのアラブ人の割合は34%にまで伸び、ユダヤ人の比率は66%にまで落ちた。このままの人口推移が続けば、2035年にはエルサレムの人口比率はユダヤ人とアラブ人がほぼ同数になると考えられている。<ref>[http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2317343/2396522 【図解】エルサレムの人口比率の変遷 AFP 2007年11月26日]</ref>
 
 
また、エルサレムはユダヤ教の中心都市であるため、国内比率に比べてユダヤ教[[超正統派 (ユダヤ教)|超正統派]]の占める割合が非常に高く、エルサレム人口の3分の1を占めており、なお増加中である。
 
 
== 首都問題 ==
 
[[ファイル:Hutz.JPG|thumb|西エルサレムに建てられた[[外務省 (イスラエル)|外務省]]庁舎]]
 
エルサレムは、古くより三つの宗教の聖地として栄えたが、経済的には必ずしも重要な位置を占めてきたわけではない。そのためエルサレムを領土に収めた代々の国家のうち、エルサレムを[[首都]]としてきた[[国家]]はほとんどない。
 
 
古代のユダ王国や、十字軍国家であるエルサレム王国を除いては、エルサレムは一地方都市にとどまっていた。しかし宗教的には非常に重要な土地であり、イギリスの[[委任統治領]]時代に首都がおかれたこともあって政治的重要性も増した。現在においても、エルサレムは、議会や首相府、中央省庁などがある政治と文化の中心であり、イスラエル最大の都市である。
 
 
しかし第二次世界大戦後、イスラエル建国・第一次中東戦争などによってパレスチナ問題が起こると、歴史的経緯により国家の正統性にも関わるエルサレムの領有問題も、にわかに浮上する。第一次中東戦争の休戦協定により、エルサレムが東西を分断された後、西エルサレムを占領したイスラエルは、[[1950年]]に議会でエルサレムを首都と宣言して、テルアビブの首都機能を西エルサレムに移転。その後、1967年の第三次中東戦争でイスラエルが東西ともに占領し、[[1980年]]には、改めてイスラエル議会により、統一エルサレムはイスラエルの不可分・永遠の首都であるとするエルサレム基本法案(エルサレム首都法案)を可決した。
 
 
イスラエルによる統一エルサレムの首都宣言に対し、[[国際連合安全保障理事会]]は「イスラエルのエルサレム首都法案は無効だとして破棄すべきものである」「[[国際連合加盟国]]はエルサレムに外交使節を置いてはならない」とする国連安保理決議478を可決し(アメリカ合衆国は[[拒否権]]を発動せずに棄権)、[[国際連合総会]]は東エルサレムの占領を非難し、その決定の無効を143対1(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など4)で決議した。
 
 
1967年までは13カ国の大使館が西エルサレムに置かれていたが、イスラエルによる東エルサレムの併合に抗議して、これらの[[国家]]も大使館を移転。2006年までエルサレムに大使館を置いていた[[コスタリカ]]と[[エルサルバドル]]も大使館を移転した。国連加盟各国はイスラエル建国初期に首都機能があった[[テルアビブ]]に[[大使館]]を集中して置いている<ref name=news1/><ref name=news2/>。
 
 
1993年の[[オスロ合意]]では、エルサレムの最終的地位については、イスラエルとパレスチナが話し合って決めることとされた。
 
 
[[2009年]]、[[欧州連合]](EU)議長国の[[スウェーデン]]は、エルサレムをイスラエル、[[パレスチナ自治政府]]、両方の首都とするよう求める発議を行った。イスラエルはこれに反発し、EU加盟各国に抗議を行った。
 
 
アメリカは二大政党である[[民主党 (アメリカ)|民主党]]と[[共和党 (アメリカ)|共和党]]は綱領でエルサレムをイスラエルの首都と認めており、1995年に[[アメリカ合衆国議会]]で、大使館のエルサレム移転を求めるエルサレム大使館法案が可決された。しかし、歴代のアメリカ大統領([[ビル・クリントン|クリントン]]、[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]、[[バラク・オバマ|オバマ]])は、大使館移転は中東和平実現の障害になるとの観点から、法律で認められた条項を根拠に半年ごとに実施を延期してきた。
 
 
2016年の[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ合衆国大統領選挙]]では「駐イスラエル大使館のエルサレム移転」を公約した[[ドナルド・トランプ]]が当選し<ref name=news1/><ref name=news2/>、2017年6月には前述の法案実施について半年延期したものの、同年[[12月6日]]には、エルサレムをイスラエルの[[首都]]と認定して、テルアビブにある大使館をエルサレムに移転する手続きを始めるよう指示したことを正式に表明した([[首都エルサレム宣言]])<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/trump-jerusalem-1206-idJPKBN1E02Z5?il|title=トランプ米大統領、エルサレムをイスラエル首都と正式認定|agency=[[ロイター]]|date=2017-12-07|accessdate=2017-12-07}}</ref>。なおトランプは「エルサレムの最終的な地位については、イスラエルとパレスチナの当事者間で解決すべきで、米国は特定の立場を取らない」とした。
 
 
この決定の撤回を求める決議が、2017年12月22日に開かれた[[国際連合総会]]で採択された(賛成128カ国、反対9カ国、棄権35カ国、欠席21カ国)<ref>反対にまわったのはアメリカの他は[[グアテマラ]]、[[ホンジュラス]]、[[イスラエル]]、[[マーシャル諸島]]、[[ミクロネシア]]、[[ナウル]]、[[パラオ]]、[[トーゴ]]であった。決定に反対する国への援助停止を米政府が表明したため、米国に経済・軍事面で依存する太平洋の島嶼国や中米、アフリカ、東欧などの一部諸国が反対・棄権・欠席に回ったと『朝日新聞』は分析している。[https://www.asahi.com/articles/ASKDQ6DJXKDQUHBI02N.html 「米圧力、揺れた東欧や小国 エルサレム決議に棄権や欠席」(朝刊2017年12月23日)]</ref>。
 
 
2018年5月14日、アメリカ合衆国が駐イスラエル大使館を公式にエルサレムに移転した。これを受けてガザ地区とイスラエルの国境沿いでパレスチナ市民がデモを行い、イスラエル軍の狙撃手が非武装のパレスチナ市民61人を殺害した。2018年3月30日から5月19日現在までに、ガザ地区との国境において、118人のパレスチナ非武装市民がイスラエル軍により殺害されている。<ref>{{Cite web|url=https://www.20minutes.fr/monde/2274059-20180519-gaza-deux-palestiniens-succombent-blessures-infligees-lundi-nouveau-bilan-61-morts|title=Gaza: Deux Palestiniens succombent à leurs blessures infligées lundi, nouveau bilan de 61 morts|accessdate=2018/05/21|website=www.20minutes.fr|publisher=|language=fr}}</ref>
 
 
'''[[:en:Positions_on_Jerusalem|それぞれの態度(国連・EU・各国)]]'''
 
 
国連:1947年11月29日に合意された国連総会決議181「'''パレスチナ分割決議'''(パレスチナぶんかつけつぎ 、[[英語|英]]: United Nations Partition Plan for Palestine)」は、当時のパレスチナ問題を解決するために出された[[国際連合総会決議|国連決議案]]。この案は「経済同盟を伴う分割案(Plan of Partition with Economic Union)」と述べられ、[[イギリス委任統治領パレスチナ|イギリスの委任統治]]を終わらせ[[アラブ人]]と[[ユダヤ人]]の国家を創出し、[[エルサレム]]を特別な都市とすることとなっていた。1947年11月29日[[国際連合総会]]において、この案の採用と実施を勧告する決議が決議181号として採択された。
 
 
== 気候 ==
 
エルサレムは[[地中海性気候]]に区分されており、冬に一定の降水があるが夏は日ざしが強く乾燥する。冬には一、二度の軽い降雪があるが、平均すると三、四年ごとにまとまった[[雪]]が降る。1月が一年で最も寒い月で、最も暑いのは7月と8月である。昼夜の寒暖差が大きいため、大抵は夏でさえ晩には涼しくなる。年平均[[降水量]]は590mm程度で、そのほとんどは10月から5月の間に降る。
 
 
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|source 1=Israel Meteorological Service<ref>{{cite web
 
|url=http://ims.gov.il/IMS/CLIMATE/LongTermInfo
 
|title=Long Term Climate Information for Israel |date=June 2011|accessdate = 2012年5月4日}}</ref><ref>{{cite web
 
|url=http://ims.gov.il/IMS/CLIMATE/TopClimetIsrael/
 
|title=Record Data in Israel|accessdate = 2012年5月4日}}</ref>
 
|source 2= [[香港天文台]]より日照時間データ<ref>{{cite web
 
|url=http://www.weather.gov.hk/wxinfo/climat/world/eng/europe/gr_tu/jerusalem_e.htm |title=Climatological Information for Jerusalem, Israel|publisher=Hong Kong Observatory|accessdate = 2012年5月4日}}</ref>|date=August 2010}}
 
 
== 経済 ==
 
[[ファイル:Hotzvimview.jpg|thumb|ハーホツビムの産業団地]]
 
 
エルサレムはイスラエル最大の都市ではあるが、経済や産業の中心はテルアビブにあり、エルサレムの主な産業は政府関係や大学などの公的サービス、ならびに世界各地から訪れる観光客や巡礼客相手の観光産業であり、[[第三次産業]]が大きな割合を占める。エルサレムにはイスラエルの政府機能が置かれ、これがエルサレムの都市としての成長を促した。一方で、エルサレムの住民は、パレスチナ人やユダヤ教超正統派といった、あまり豊かでないグループの割合が大きい。そのうえ目立った産業が少なく、限られた雇用も政府関係が主であることから、エルサレムの貧困率は高く、2004年にはエルサレムの人口がイスラエル全体の10.27%だったのに対し、エルサレムの貧困人口は全国の19.29%を占めた<ref>「物語 エルサレムの歴史」p223 笈川博一 中央公論新社 2010年7月25日発行</ref>。
 
 
== 交通 ==
 
[[ファイル:Begin road (Jerusalem).JPG|thumb|ベギン・ロード]]
 
[[ファイル:Porush Bus.JPG|thumb|[[エルサレム中央バスステーション]]]]
 
[[ファイル:Jerusalem Light Rail02.JPG|thumb|[[エルサレム・ライトレール]]]]
 
 
[[テルアビブ]]・エルサレム間は高速道路で1時間、[[エゲッドバス]]が急行で1時間3本程度[[テルアビブ]]の中央バスセンターから出ている。
 
エルサレム市内はエゲッドバスが網羅している。エゲッドバスはヤッファ通り西端にあるエルサレム中央バスセンターに発着し、そこから[[ヨルダン川西岸]]を抜け、[[死海]]沿岸を通り[[ゴラン高原]]方面へ北上するものや、同じく死海沿岸のリゾート地を通って[[ネゲブ]]方面へ南下するもの、テルアビブやハイファなど国内主要都市へ向けて走るものなど、国内全域に路線網がある。鉄道は、エルサレム・マルハ駅と[[ロード (イスラエル)|ロード]]、テルアビブを1時間強で結ぶ路線([[テルアビブ=エルサレム線]])がある。[[2011年]]12月1日には[[エルサレム・ライトレール]]が、西のヘルツルの丘から中央バスステーション、ヤッファ通りを抜け、旧市街北西をかすめて東エルサレムへと向かう路線の営業を開始した。
 
 
== 観光 ==
 
* [[岩のドーム]]
 
* [[聖墳墓教会]]
 
* シロアムの池(キリストが奇跡を起こした池)
 
* ギホンの泉
 
* ヒゼキヤの水道
 
* リベルテンの会堂(リベルテンのシナゴーグ)
 
* ヒッポドローム(ヒッポドロームの[[オベリスク]])
 
* フルダ門
 
 
== 教育 ==
 
[[1925年]]に開校されたイスラエルの最高学府である[[ヘブライ大学]]を始めとする多くの大学があり、大学都市としての一面もある。ヘブライ大学のキャンパスは開校時はエルサレム東郊(現東エルサレム)のスコーパス山にあったが、第一次中東戦争によってこのキャンパスは飛び地となった<ref>「図説 聖地イェルサレム」p114 高橋正男 河出書房新社 2003年1月30日初版発行</ref> ため、西エルサレムのギブアット・ラムに新キャンパスを建設した。第三次中東戦争によって飛び地状態が解消するとスコーパスキャンパスが復旧され、現在では人文系のスコーパスキャンパスと自然科学系のギブアット・ラムキャンパスの2つのキャンパスがある。他にも、[[ベツァルエル美術デザイン学院]]やエルサレム工科大学などといった単科大学が存在している。
 
 
== スポーツ ==
 
サッカーの[[イスラエル・プレミアリーグ]]の有力チームのひとつである[[ベイタル・エルサレムFC]]が、西エルサレム南西部の[[テディ・スタジアム]]を本拠地としている。
 
 
[[グランツール]]と呼ばれる[[自転車競技]]([[ロードレース]])世界三大大会、[[ジロ・デ・イタリア]]が[[ジロ・デ・イタリア2018|2018年]]にエルサレムにて開幕。
 
 
== 友好都市 ==
 
* {{flagicon|JPN}} [[綾部市]]([[日本国]][[京都府]])
 
* {{flagicon|USA}} [[ニューヨーク]]市([[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク州]])
 
* {{flagicon|ESP}} [[トレド]]市([[スペイン共和国]][[カスティーリャ=ラ・マンチャ州]])
 
* {{flagicon|UK}}{{flagicon|SCO}} [[グラスゴー]]市([[イギリス|イギリス国]][[スコットランド]])
 
 
== 画像 ==
 
<gallery>
 
ファイル:Knesset building (edited).jpg|[[クネセト]]は、イスラエルの立法府([[国会]])である
 
ファイル:Elyon.JPG|{{仮リンク|最高裁判所_(イスラエル)|en|Supreme Court (Israel)|label=イスラエルの最高裁判所}}
 
ファイル:BankIsrael01 ST 06.jpg|[[イスラエル銀行]]
 
ファイル:HaMate HaArtzy 2 Jerusalem.jpg|[[イスラエル警察本部]]
 
ファイル:Beit Aghion.jpg|総理大臣官邸
 
ファイル:Shaaey old.JPG|イスラエル放送局
 
ファイル:2014-06 Israel - Jerusalem 099 (14753225607).jpg|[[神殿研究所]]
 
ファイル:Jerusalem Schrein des Buches BW 1.JPG|[[イスラエル博物館]]
 
ファイル:The National Library of Israel building - Amitay Katz.jpg|[[イスラエル国立図書館]]
 
ファイル:YadVashem- Enterance.JPG|[[ヤド・ヴァシェム]]
 
ファイル:Mount Herzl IMG 1149.JPG|[[ヘルツルの丘]]
 
ファイル:Filmfestival2009.jpg|[[エルサレム・シネマテーク]]
 
ファイル:Binyanei-HaUmah.JPG|国際会議センター
 
ファイル:Bible Lands Museum Jerusalem.JPG|[[聖書の土地博物館]]
 
ファイル:JerusalemMunicipalityP4190026.JPG|エルサレム市役所
 
ファイル:Israel-Jerusalem Old City.jpg|東エルサレム
 
ファイル:AlbertEinsteinStatue-InIsraelAcademyOfSciencesAndHumanities-ByRobertBerks.JPG|[[イスラエル科学・人文アカデミー]]                         
 
ファイル:Academy of the Hebrew Language.JPG|[[ヘブライ語アカデミー]]
 
ファイル:הגן הבוטני הלאומי ע"ש מונטגיו למפורט - הר הצופים.jpg|[[イスラエル国立植物園]]
 
ファイル:Jerusalem Zoo lake.jpg|{{仮リンク|エルサレム聖書動物園|en|Jerusalem Biblical Zoo}}
 
</gallery>
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons&cat|Jerusalem|Jerusalem}}
 
{{Wikivoyage|Jerusalem|エルサレム{{en icon}}}}
 
* [[エルサレム総主教庁]]([[正教会]])
 
* [[エルサレム王国]]
 
* [[エルサレム神殿]]
 
* [[マンデルバウム門]]
 
* [[嘆きの壁]]
 
* [[神殿の丘]]
 
* [[オリーブ山]]
 
* [[スコーパス山]]
 
* [[モリヤ (聖書)]]
 
* ゲーヒンノーム (ヒンノムの谷、[[ゲヘナ]]) [[:en:Gehinnom|GeyHinnom]]
 
* ガト=シェマーニーム gath-shmanim, Gethsemane ([[オリーブ]]の酒舟、ゲッセマネ、ゲッセマネの園) (新約)
 
*: ガト(gath)とは[[ブドウ|葡萄]]を足踏みで搾るために、岩に掘られた窪みのこと
 
* シロアムの坑 (ニクバト=ハッ=シーローアハ, niqbath-hašŠīlôach)
 
* エルサレム・シンドローム [[:en:Jerusalem syndrome|Jerusalem syndrome]]
 
* [[イェルーザレム]] (ドイツ語読み。またドイツ語圏にみられる姓)
 
* [[世界バラ会議]]
 
* [[エルサレム聖書]]
 
** [[旧エルサレム聖書]]
 
** [[新エルサレム聖書]]
 
* [[ユーロビジョン・ソング・コンテスト1979]]
 
* [[ユーロビジョン・ソング・コンテスト1999]]
 
* [[十字軍]]
 
* [[ティトゥス]]
 
* [[エルサレム症候群]]
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.jerusalem.muni.il/jer_main/defaultnew.asp?lng=1 The Jerusalem Website](公式サイト){{he icon}}{{en icon}}{{ar icon}}
 
 
{{coord|31|47|N|35|13|E|type:city|display=title}}
 
 
{{アジアの首都}}
 
{{古代イスラエルの町}}
 
{{新約聖書の町}}
 
{{聖書地理}}
 
{{使徒パウロの第二回伝道旅行}}
 
{{使徒パウロの第三回伝道旅行}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:えるされむ}}
 
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[[Category:エルサレム|*]]
 
[[Category:エルサレム|*]]

2018/7/23/ (月) 17:22時点における版

Jerusalem


パレスチナの中心都市。イスラエルの首都と主張され,ユダヤ教キリスト教イスラム教それぞれの聖地。ヘブライ語ではイェルシャライム Yerushalayim。

エルサレムは紀元前 4000年頃に築かれたといわれるが,前 1000年頃ダビデ王により古代ユダヤ王国の聖都とされ,その後イエスの処刑と復活の地としてキリスト教の聖地となった。 638年にはアラブの支配下に入り,メッカ,メジナに次ぐイスラム教の第3の聖地となり,16世紀以降はオスマン帝国の支配のもと,城壁で囲まれた旧市内に集中する3宗教の聖地が保護され,宗教的共存の時代が続いた。東半の旧市街は 1948年から 1967年までヨルダンに属していたが,六日戦争 (第3次中東戦争 ) 後の 1967年6月にイスラエルが占領,統一都市として管轄権を主張したが,ヨルダン,国際連合のいずれもがこれを承認していない (エルサレム問題 ) 。標高 800mのユダ山地上にあり,地中海性気候のため夏は暑く乾燥するが,冬は雨が多い。城壁に囲まれた旧市街には宗教史上の遺跡がきわめて多く,1981年ヨルダンの推薦で世界遺産の文化遺産に登録。新市街は 20世紀になって開けた近代都市で,官庁,ヘブライ大学などの文化機関が多く,伝統的な旧市街と対照をなす。人口 78万8100(2011)。