観心寺
観心寺 | |
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所在地 | 大阪府河内長野市寺元475 |
位置 |
北緯34度26分14.43秒 東経135度35分54.94秒 |
山号 | 檜尾山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
本尊 | 如意輪観音(国宝) |
創建年 | 天長2年(825年)または天長4年(827年) |
開基 | 実恵 |
正式名 | 檜尾山觀心寺 |
札所等 |
新西国三十三箇所客番 仏塔古寺十八尊 第13番 関西花の寺二十五霊場25番 役行者霊蹟札所 神仏霊場巡拝の道 第56番 |
文化財 |
金堂、木造如意輪観音坐像、観心寺縁起資財帳(国宝) 書院、絹本著色大随求像、木造釈迦如来坐像ほか(重要文化財) |
地図 |
観心寺(かんしんじ)は、大阪府河内長野市寺元にある高野山真言宗の寺院。山号を檜尾山と称し、遺跡本山である。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は実恵である。 仏塔古寺十八尊第十三番。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている[1]。
Contents
歴史
伝承では、大宝元年(701年)、役小角(役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。その後、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一である)。
弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は伝承の域を出ないが、現在金堂本尊として安置される如意輪観音像は、様式的に9世紀の作品とされている。また、観心寺には奈良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから、奈良時代草創説もあながち否定はできない。
観心寺の実質的な開基とみられるのは、空海の一番弟子にあたる実恵である。『観心寺縁起資財帳』(国宝)などによると天長4年(827年)、実恵の意を受け、弟子の真紹が造営を始めている(なお、年次に関しては天長2年(825年)とする異説もある)。承和3年(836年)には石川郡東坂荘が勅によって施入されたと伝えられている。鎌倉時代の末期には塔頭50か寺以上を誇る大寺院となっていた。
観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られている。正平14年(1359年)12月から翌正平15年(1360年)9月まで後村上天皇の行宮となった。また、境内には後村上天皇桧尾陵がある。
境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているという。討ち死にした正成の首は当寺に届けられ、首塚に祀られている。
室町時代以降は、管領畠山氏の庇護を受けて栄えたが、戦国時代に入ると織田信長に寺領を没収された。しかし文禄3年(1594年)豊臣秀吉によって25石の寄進を受け、豊臣秀頼によって金堂や諸堂の修復などが行われた。江戸時代になると、塔頭槙本院の檀家であった江戸幕府の旗本甲斐庄氏などの支えにより、伽藍の維持に努めた。
安永年間(1772年 - 1781年)には30余りあった塔頭は慶応年間(1865年 - 1868年)には12坊となり、明治時代となって廃仏毀釈が始まるとさらに減り、現在では本坊となった槙本院の他には中院を残すのみである。
2005年(平成17年)には高野山真言宗総本山金剛峯寺より遺跡本山の寺格が贈与された。
伽藍
- 金堂(国宝)
- 南北朝時代、正平年間(1346年 - 1370年)の建立。桁行七間、梁間七間、入母屋造、本瓦葺き。和様と禅宗様の要素が混淆した折衷様仏堂の代表例である。朱塗の柱に白い漆喰壁の外観は和様の要素であるが、扉は禅宗様の桟唐戸を用いる。堂正面は七間のうち中央五間を桟唐戸、両端の各一間を和様の連子窓とする。和様では頭貫(かしらぬき)以外の貫(柱を貫通する水平材)を用いず、長押(柱の外側から打ち付ける水平材)を多用するが、この堂では頭貫以外に飛貫(ひぬき)、足固貫を用いている。堂内は手前二間通りを外陣とする。その奥は中央の五間×四間を内陣、その両脇一間通りを脇陣、背後の梁間一間分を後陣とする。内陣はその奥の三間×一間を内々陣として須弥壇を構え、厨子内に本尊如意輪観音像を安置する。須弥壇の手前左右には曼荼羅壁を設け、それぞれに両界曼荼羅を描く。[2]
- 建掛塔(重文)
- 訶梨帝母天堂(かりていもてんどう、重文)
文化財
当寺には多くの文化財があり、仏像などは寺内の霊宝館に多数展示されている。また境内が国の史跡に指定されている。
木造如意輪観音坐像
観心寺の本尊で、金堂内陣の厨子内に安置される。秘仏で、毎年4月17・18日の2日間のみ開扉される。平安時代前期・9世紀の作。像高108.8cm。六臂(手が6本)の密教彫像。長らく秘仏であったため、保存がよく、表面の彩色や文様もよく残っている。右脚を立て膝とし、6本の手のち、右第一手は頬に当てて思惟相とし、第二手は胸前で如意宝珠を捧持し、第三手は垂下して数珠を持つ。左の第一手はまっすぐ下方に伸ばし、第二手は掌を正面に向けて胸の高さで蓮茎を持ち、第三手は伸ばした指先で法輪を支える。カヤ材の一木造で、頭・体の主要部を一材から木取りしたうえで、左膝外側部、各腕などに別材を矧ぎ付けている。各腕は臂釧(ひせん、上腕部に巻いた装飾)のあたりで矧いでいるとみられる。国宝指定名称は「木造」となっているが、乾漆技法が併用されており、各所に木屎漆(こくそうるし、麦漆に木粉などを混ぜたもの)を厚く盛り上げて、肌の柔らかい感触を表現しており、密教彫像特有の神秘性と官能性を表出する。面相部や、左肩から右腰に掛かる条帛(じょうはく)、下半身にまとった裳などの衣文は乾漆技法で成形されている。条帛、裳、台座の蓮弁などには繧繝彩色と截金を用いた造像当初の彩色が残っている。特に裳の装飾は文様帯を4段に分けて地色や文様を違えた入念なものである。頭上の宝冠は木製透彫で、造像当初のものではないが、平安時代後期の作とみられる。
台座は蓮華、上敷茄子(うわしきなす)、華盤(けばん)、下敷茄子、受座、反花(かえりばな)、上框、下框から成る八重蓮華座で、造像当初のものであり、平安初期の仏像台座の典型作である。蓮弁は12方3段(計36枚)に葺かれるが、うち1枚を亡失する。残り35枚の蓮弁は様式から3種に分かれ、うち9枚が像と同時期のものとみなされる。光背は二重円相部分は平安時代のものだが、像と一具ではなく、他の像の光背を転用したものと推定される。
なお、1955年(昭和30年)、金堂に不審者が侵入した際に本像を毀損し、右第三手の手先と左第二手の手先を持ち去ったため、これらの部分は補修されている。[3]
国宝
- 金堂
- 木造如意輪観音坐像 - 解説は前出
- 観心寺縁起資財帳
重要文化財
- 書院
- 建掛塔
- 訶梨帝母天堂(かりていもてんどう)
- 恩賜講堂[4][5]
- 絹本著色大随求像(だいずいぐぞう)
- 金銅観世音菩薩立像(像高33.3cm)
- 金銅観世音菩薩立像(像高18.3cm)
- 金銅釈迦如来半跏像
- 金銅如意輪観音半跏像
- 木造愛染明王坐像
- 木造不動明王坐像
- 厨子入木造愛染明王坐像(伝後村上天皇念持仏)(像高6.2cm)
- 木造如意輪観音坐像
- 木造四天王立像[6]
- 木造釈迦如来坐像
- 木造薬師如来坐像
- 木造宝生如来坐像
- 木造弥勒菩薩坐像
- 木造聖観音立像2躯(像高166.5cm、167.0cm)(前者は奈良国立博物館寄託)
- 木造聖観音立像(像高180.3cm)(東京国立博物館寄託)
- 木造聖観音立像(像高163.5cm)
- 木造聖観音立像(像高167.0cm)
- 木造聖観音立像(像高170.2cm)
- 木造十一面観音立像
- 木造地蔵菩薩立像
- 木造厨子入聖僧(しょうそう)坐像
- 金銅蓮華花瓶 一対 うち1口元徳二年銘
- 鉄燈籠 貞永二年銘
- 藍韋威肩赤腹巻(伝楠木正成所用) ※「腹巻」は鎧の一種
- 観心寺縁起(後亀山天皇宸翰奥書本、後小松天皇宸翰本)2巻
- 中尊寺経(金銀字経166巻、金字経50)216巻
- 観心寺文書(688通)29巻、2冊、360通
所在地
〒586-0053 大阪府河内長野市寺元475
交通アクセス
- 南海高野線および近鉄長野線 河内長野駅3番乗り場から南海バス小深線「金剛山ロープウェイ前行き(8、11系統)」「石見川行き(9系統)」、小吹台団地線「小吹台行き(10系統)」のいずれかに乗車し、「観心寺」バス停下車すぐ
周辺情報
脚注
- ↑ “大阪みどりの百選”. 大阪府. . 2016閲覧.
- ↑ 『週刊朝日百科 日本の国宝』36号、pp.178 - 179(解説執筆は林義久)
- ↑ 如意輪観音像の解説は、倉田文作『仏像のみかた 技法と表現』、第一法規出版、1965、pp.134 – 139, 288 – 289, 304 - 310による。ただし、どの手を「第一手」「第二手」「第三手」とするかについては、西村 公朝、永島 龍弘、西川 杏太郎 『魅惑の仏像 15 如意輪観音』、毎日新聞社、1987、pp.34, 42によった。
- ↑ 平成29年7月31日文部科学省告示第101号
- ↑ 重要文化財(建造物)の指定について(2017年5月19日)
- ↑ 四天王像の正式の重要文化財指定名称は「木造持国天立像1躯」(1899年指定)、「木造増長天・広目天立像2躯」(1915年指定)、「木造多聞天立像1躯」(1899年指定)
参考文献
- 井上靖、佐和隆研監修、前登志夫、永島行善『古寺巡礼西国2 観心寺』、淡交社、1981
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』36号(孝恩寺ほか)、朝日新聞社、1997
- 『日本歴史地名大系 大阪府の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 大阪府』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館
- 倉田文作『仏像のみかた 技法と表現』、第一法規出版、1965