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平泉 渉(ひらいずみ わたる、1929年11月26日 - 2015年7月7日)は、日本の政治家、外交官。衆議院議員・参議院議員。科学技術庁長官・経済企画庁長官を歴任。
来歴・人物
1929年に福井県勝山市で生まれる。父は当時東京帝国大学助教授で後に教授となる国史学者の平泉澄。旧制東京高等学校を経て、1952年に東京大学法学部政治学科を卒業後、外務省入省。フランス語研修員として、フランスのグルノーブル政治学院、エクス=マルセイユ大学などに学んた。その後、在フランス大使館に勤務し、1954年に訪仏した鹿島守之助を案内したことがきっかけで守之助に見込まれ、その三女・三枝子と結婚。やがて国連代表部二等書記官、在イラン大使館一等書記官を経て、1965年、守之助に日本に呼び戻されて鹿島建設の専務取締役となり、同年、第7回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補し、初当選。
1971年、2回目の当選を果たした後、当時の佐藤栄作首相と守之助が親友同士だったこともあり、第3次佐藤改造内閣で科学技術庁長官として入閣する。異例の抜擢に「あっと驚くタメゴロー人事」などといわれたが、同年11月11日、同庁国立防災科学技術センターなどが川崎市で行った崖崩れ実験の失敗で、報道関係者ら15名が生き埋めとなって死亡するという惨事があり(川崎ローム斜面崩壊実験事故)、11月15日に引責辞任した。
その後、1974年 - 1975年にかけて、上智大学教授・渡部昇一を相手に、学校での英語教育は「実用性」を重視すべきか「教養」と捉えるべきかを巡る論戦を行ったりした。1976年、参議院議員を辞職し、第34回衆議院議員総選挙に旧福井全県区から無所属で出馬し、衆議院議員に鞍替え当選。以後6回当選する。派閥は宏池会に所属した。
党国際局長等を経て、1985年、第2次中曽根第2次改造内閣で経済企画庁長官として2度目の入閣を果たすが、これも当時の中曽根康弘首相と関係の深い鹿島家への配慮ではないかとささやかれた。翌1986年、フィリピンでアキノ政権が誕生し、マルコス前政権時代の経済援助に関する疑惑が取り沙汰されるようになると、平泉は「フィリピンの問題は、深く追及すると内政干渉になる」と発言した。フィリピンで手広く事業展開をしている鹿島建設に追及が及ぶのを防いでいるのではないかと見られ、野党は一斉に更迭要求を行ったが、中曽根首相の配慮により衆院本会議の陳謝で収拾をみた。1996年の第41回衆議院議員総選挙で福井1区で新進党現職笹木竜三や通商産業省を退官した無所属新人松宮勲に後塵拝し落選し、2000年・2003年の総選挙も続けて落選し、事実上の引退に追い込まれた。2000年勲一等旭日大綬章受章。
フランス語・英語が非常に堪能で、ドイツ語・ロシア語も解する。椎名素夫らと並んで自民党きっての国際派議員と目された。ただ国粋主義を貫く父親とは違い、政治思想的にはハト派を自認していた。財団法人鹿島平和研究所会長、鹿島建設相談役、公益財団法人日本国際フォーラム政策委員[1]を務めていた。
2015年7月7日、老衰のため死去[2]。85歳没。叙正三位[3]。
著書
- 『国際理解と外国語教育』新教育懇話会 1976
- 『銀色の独立国 若返る高齢社会』日本経済新聞社 1997
共著
- 『英語教育大論争』渡部昇一共著 文芸春秋 1975 のち文庫
翻訳
- L.B.ジョンソン『偉大なる社会』鹿島研究所出版会 1965
- R.クレーマン『大西洋の危機 復活するヨーロッパに直面する米外交』鹿島研究所出版会 1965
- R.スチール『同盟の終り ヨーロッパの将来とアメリカ』鹿島研究所出版会 1965
- J・W・フルブライト『古い神話と新しい現実』鹿島研究所出版会 1965
- J.W.フルブライト『アメリカ外交批判 力のおごり』鹿島研究所出版会 1968
系譜
- 平泉氏
┏平泉洸 ┃ 平泉澄━━━╋平泉汪 ┃ ┗平泉渉 ┃ 鹿島守之助━━三枝子
中曽根康弘 ┃ ┣━━━┳美智子 ┃ ┃ 小林儀一郎━━━蔦子 ┃ ┗美恵子 ┏渥美昭夫 ┃ ┃ ┃ 渥美育郎━━━╋渥美謙二 ┃ ┃ ┃ ┗渥美健夫 ┃ ┃ ┏渥美直紀 ┣━━┫ ┃ ┗渥美雅也 ┏伊都子 ┃ 鹿島守之助 ┃石川六郎 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣よし子 鹿島精一 ┣━━━┫ ┃ ┃ ┃平泉渉 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━卯女 ┣三枝子 ┃ ┃ ┃ ┃ 鹿島岩蔵━━いと ┗鹿島昭一 ┃ ┃ 梁瀬次郎━━━━┳公子 ┃ ┗弘子 ┃ ┃ 稲山嘉寛━━━━稲山孝英
脚注
公職 | ||
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先代: 金子一平 |
経済企画庁長官 第36代:1985年 - 1986年 |
次代: 近藤鉄雄 |
先代: 西田信一 |
科学技術庁長官 第23代:1971年 |
次代: 木内四郎 |