松本白鸚 (初代)
しょだい まつもと はくおう 初代 松本白鸚 | |
屋号 | 高麗屋 |
---|---|
定紋 | 四つ花菱 50px |
生年月日 | 1910年7月7日 |
没年月日 | 1982年1月11日(71歳没) |
本名 | 藤間順次郎 |
襲名歴 | 1. 二代目松本純蔵 2. 五代目市川染五郎 3. 八代目松本幸四郎 4. 初代松本白鸚 |
俳名 | 錦升 |
出身地 | 日本 東京府東京市 |
初代 松本 白鸚(しょだい まつもと はくおう、1910年(明治43年)7月7日 - 1982年(昭和57年)1月11日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は高麗屋、定紋は、四つ花菱、替紋は浮線蝶。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。
本名は藤間 順次郎(ふじま じゅんじろう)。俳名に錦升(きんしょう)がある。「白鸚」の名跡は襲名披露興行の舞台以外にほとんど実績のない事実上の隠居名で、存命中は八代目 松本幸四郎(はちだいめ まつもと こうしろう)として知られた。
来歴
七代目松本幸四郎の次男として東京に生まれる。父の方針で暁星学園に通学し、舞台に立ったのは学生時代からだったため、子役の経験がない。彼自身は後年、もし歌舞伎役者にならなかったら画家を目指していただろうと語っている。
1926年(大正15年)二代目松本純蔵の名で初舞台。1928年(昭和3年)初代中村吉右衛門の門に入る。のちに吉右衛門の娘・波野正子を妻に迎える。
1931年(昭和6年)4月[1]明治座の『菅原伝授手習鑑・車引』の梅王丸で、五代目市川染五郎を襲名。戦後は菊・吉の二大俳優の後継者として頭角を顕わす。1948年(昭和23年)文部省芸術祭賞受賞。翌年(昭和24年)8月東京劇場『勧進帳』の弁慶と『ひらかな盛衰記・逆櫓』の樋口次郎で、八代目松本幸四郎を襲名。
進取の気性に富み、従来の歌舞伎役者の殻を破る活動に積極的に挑んだ。1957年(昭和32年)には文学座の『明智光秀』に出演。また1959年(昭和34年)『娘景清八嶋日記』では八代目竹本綱太夫や九代目竹澤彌七と共演、それまで相容れなかった文楽との共演を実現し、テアトロ賞と毎日芸術賞を受賞した。さらに1960年(昭和35年)にはシェイクスピアの『オセロ』に挑んで話題となった。
この後松竹を離れ、劇作家菊田一夫の招きで一門こぞって東宝に移籍、歌舞伎界に大きな衝撃を与えた。これが歌舞伎役者が他分野の演劇に進出するひとつのきっかけとなる。その後も東宝で山本富士子や山田五十鈴らの女優と舞台で共演するなどしたが、東宝の興行方針に対する不満や自己の芸術観と菊田の脚本との相違・ずれなど問題が絶えず、この移籍は必ずしも成功とはいえないものだった。
移籍後も国立劇場で、1969年(昭和44年)6月の河竹黙阿弥作の歌舞伎『蔦紅葉宇都谷峠』(文弥殺し)復活上演など埋もれた古典に取り組んだり、同年11月には三島由紀夫作の新歌舞伎『椿説弓張月』を初演するなど精力的に歌舞伎の舞台に立った。10年後松竹に復帰し、再び歌舞伎座の舞台に立つようになる。
1972年(昭和47年)紫綬褒章。1974年(昭和49年)日本芸術院賞[2]、1976年(昭和51年)日本芸術院会員、1978年(昭和53年)文化功労者、1980年(昭和55年)NHK放送文化賞などを授与された。1975年(昭和50年)、重要無形文化財保持者(人間国宝)に各個認定されている。
1981年(昭和56年)10月、「松本幸四郎」の名跡を長男の六代目市川染五郎に譲り、自らは「松本白鸚」を襲名。「白鸚」は父・七代目松本幸四郎が使った雅号からとった。この襲名披露では八代目の孫である三代目松本金太郎も七代目市川染五郎を襲名し、高麗屋三代の襲名となった。
この襲名披露が、白鸚としては唯一、そして生涯最後の舞台となった。晩年に発症したベーチェット病が進行して、この頃には全身に痛みが走って思うように動けず、襲名披露の平伏の挨拶も苦痛に堪えながらのものであった。翌月初めには文化勲章を受章、病身を押して皇居での親授式に臨んでいる。その2か月後の1982年1月11日、ベーチェット病悪化に伴う心不全のため死去。71歳没。墓は東京・池上本門寺にあり、父・七代目幸四郎と並んで建てられている。
白鸚の名は隠居名であるため長らく襲名者はなかったが、没後36年後となる2018年1月に長男の九代目幸四郎が二代目白鸚を襲名[3]。さらに、九代目の長男である七代目市川染五郎が十代目松本幸四郎を、九代目の孫(初代白鸚の曾孫)である四代目松本金太郎が八代目市川染五郎をそれぞれ襲名し、前回の高麗屋三代同時襲名を再び行う形となった[3]。
芸風
男らしい風格のある芸風で、父・七代目幸四郎の豪快さと岳父・初代吉右衛門の丸本物の素養とが見事に融合したものであった。
丸本物では『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助(大石内蔵助)や寺岡平右衛門、『絵本太功記』の武智光秀、『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の松王丸、『ひらかな盛衰記』の樋口次郎兼光、『梶原平三誉石切』(石切梶原いしきり かじわら)の梶原平三、世話物では『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門、『於染久松色読販』(お染の七役)の鬼門の鬼兵衛、『天衣紛上野初花』(河内山)の河内山宗俊、『四千両小判梅葉』(四千両しせんりょう)の藤岡藤十郎、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三かみゆい しんざ)の弥太五郎源七、『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)の幡随院長兵衛、『東山桜荘子』(佐倉義民伝 さくら ぎみんでん)の木内宗吾、舞踊では『積恋雪関扉』(関の扉)の関守関兵衛。
新歌舞伎では『井伊大老』の井伊直弼、『元禄忠臣蔵』の大石内蔵助などが当り役。大石内蔵助は『忠臣蔵 花の巻・雪の巻[4]』などの映画でも演じている。
また池波正太郎原作のテレビ時代劇『鬼平犯科帳』で演じた長谷川平蔵は、池波が初代白鸚をイメージして書いたといわれるだけに当たり役となった(『鬼平』は次男の二代目中村吉右衛門によって継承されている)。
千谷道雄『幸四郎三国志 菊田一夫との四〇〇〇日』(文藝春秋)は東宝時代を描いている。
他に谷川建司『高麗屋三兄弟と映画』(雄山閣、2018年)がある。
逸話
- 次男の二代目中村吉右衛門が、自身が司会を務めた『美味しさの物語 幸福の一皿』での話によると、家族ですき焼きを食べる際に、初代白鸚は入れたそばから玉ねぎを口にするほどだったという。少年時代の吉右衛門もそれを真似して食べたところ、生同然で辛い味だったため、大変な目に遭ったと述懐している。
- 初代白鸚は前述にもある通り、歌舞伎役者にならなければ画家を目指していたと語っており、自宅には絵画を必ず飾り、また自らも絵筆を持って描いていたほどであったという[5]。その影響は長男・二代目白鸚、次男・二代目吉右衛門にも受け継がれており、二代目白鸚は自身のエッセイでも自画像を多く描いており、二代目吉右衛門は自身で個展を開くなど父譲りの芸術家肌を見せている。
家族・親族
十一代目市川團十郎は実兄、二代目尾上松緑は実弟。妻・正子(せいこ)は初代中村吉右衛門の長女で、小唄「松派」の家元。二代目松本白鸚は長男、二代目中村吉右衛門は次男。十代目松本幸四郎、女優の松本紀保、松たか子は孫。孫婿(二代目吉右衛門の娘の夫)は五代目尾上菊之助。
脚注
- ↑ 『歌舞伎座百年史』『歌舞伎俳優名跡便覧』
- ↑ 『朝日新聞』1974年4月10日(東京本社発行)朝刊、18頁。
- ↑ 3.0 3.1 “歌舞伎 松本幸四郎さんが白鸚に…親子孫3代で同時襲名へ”. 毎日新聞デジタル. 毎日新聞社. (2016年12月8日) . 2016-12-8閲覧.
- ↑ 1954年に松竹が製作した作品と1962年に東宝が製作した作品の両方で大石内蔵助を演じている。
- ↑ 2018年1月8日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に長男・二代目白鸚、孫・十代目幸四郎、曾孫・八代目染五郎出演時に、初代白鸚が生前描いた絵画や扇子が公開されており、二代目白鸚は「父はとにかく絵を描くのが好きだった」と語っている。
外部リンク
- 歌舞伎俳優名鑑 想い出の名優篇 「初代松本白鸚」 - 歌舞伎 on the web