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明治維新

明治政府から転送)

明治維新(めいじいしん、: Meiji Restoration, Meiji Revolution[1]

日本史における政治的革命。徳川将軍家が没落し,国の支配権は明治帝のもと天皇親政に戻り,明治時代として知られる政治的,経済的,社会的大変革の時代が始まった。この革命は日本に近代化と西洋化をもたらした。江戸幕府に歴史的敵意をもつ諸藩の若い武士を主体とする維新の指導者は,深刻化する国内問題と外国による侵略の脅威をバネにして活動した。「富国強兵」というスローガンを採用することで,彼らは西洋列強と肩を並べられる国民国家をつくろうとした。慶応4 (1868) 年の五箇条の御誓文に述べられているように,東京に移転した新政府の第一目標は幕藩体制の解体であった。これは明治4 (1871) 年,各藩が公式に廃止され,県制度に置き換わったことでおおむね達成された。すべての領主的特権も廃止された。同じ年に国軍が創設され,1873年の徴兵令によって一層の強化がはかられた。新政府はまた,金融と税制の一本化をはかる諸政策を実施し,1873年の地租改正により,主要収入源が確保された。

維新指導者が天皇の名のもとに進めた革命的な変化は,1870年代半ばに反対論の高まりに直面した。新政府を相手にした各地の反乱には不平士族が参加しており,その最大のものはかつての維新の英雄,西郷隆盛が率いた反乱 (西南戦争 ) であった。これらの武装蜂起は大きな困難を伴いつつも,新たに創設された軍隊の手で鎮圧された。新政権に不信をいだき,その農業政策に不満をもつ貧農たちも反乱に参加,こうした運動は 1880年代に頂点を迎える。同じ時期,自由な西洋思想の導入によって勢いづいた自由民権運動は,立憲政府の創設と国会を通じたより広範な政治参加を要求した。こうした圧力に対応して,1881年,政府は 1890年までに憲法を起草することを公約した。 1885年に内閣制度が整い,1886年には憲法起草作業が開始された。最終的に 1889年,天皇から国民に下しおかれる形で憲法が公式に発布された。これをもとに,二院制の議会が設けられ,参政権に制限はあったものの,選挙によって議員が選ばれた。翌 1890年,第1回帝国議会が開かれた。

明治時代には政治的変化と並行して,経済的,社会的変化も進行した。経済は依然として農業に依存していたが,工業化が政府の第一目標であり,政府は戦略的産業や交通,通信分野の発展を指導した。日本初の鉄道は明治5 (1872) 年に建設され,1890年までに線路の総延長は2250kmに達した。すべての主要都市が 1880年までに電信で結ばれた。民間企業も政府の財政支援によって奨励を受けるとともに,これを支援するため 1882年にはヨーロッパの銀行制度を模した金融機関も創設された。こうした近代化への努力には西洋の科学技術が必要であり,「文明開化」の旗印のもと,西洋文化は知的流行から衣服や建築にいたるまで,盛んにもてはやされた。しかし,無分別な西洋化は 1880年代にいくぶん抑制され,伝統的な日本的価値観を新たに称揚する動きが現れた。たとえば,近代的教育制度を発展させる場合,西洋の理論と実践の影響を受けながらも,武士の忠誠心や社会的調和といった伝統的価値観が強調された。同じ傾向は芸術や文化にもみられ,当初は西洋スタイルが模倣されたが,その後西洋的趣味と日本的趣味のより選択的な混交が実現された。

20世紀の初めまでに,明治維新のさまざまな目標はおおむね達成され,日本は近代工業国になる道を着実に歩んでいた。治外法権を通じて外国列強に司法面と経済面の特権を許していた不平等条約は 1894年に改定され,さらに 1902年の日英同盟締結と,二つの戦争の勝利 (1895年の日清戦争と 1905年の日露戦争 ) により,日本は西側世界から敬意をもって見られるようになり,史上初めて国際舞台に主要な世界的勢力として台頭した。 1912年の明治天皇の崩御は,こうした時代の終わりを画するものであった。



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