打撃投手
打撃投手(だげきとうしゅ)は、打者の打撃練習のための球を投げる投手。
バッティングピッチャー(B・P)、略してバッピとも呼ばれる。ただしこれは和製英語であり、英語圏ではbatting-practice pitcherである(野球用語一覧参照)。
概要
役割
打撃練習の際に意図的に打者に打たせる球を投げるのが打撃投手の役割である。ピッチングマシンと異なり、実際の人間が投じる生きた球を打つことはより実戦的な練習となるため、プロ・アマを問わず打撃投手は需要がある。投球はマウンドから行う場合もあれば、より打者に近い位置から投げる場合もある。ピッチャー返しの打球による危険を防止するため、投手の前にはL字型のネットが設置される。また、高校野球においてはヘッドギアの着用が義務付けられている。
プロ野球
NPB
現在のプロ野球においては各球団が専門の打撃投手を雇用している。主に現役を退いた投手が務めることが多く、引退後の選手の受け皿ともなっている。2003年に現役を引退し、打撃投手に転向した島田直也(現横浜DeNA2軍投手コーチ)が、2004年に北海道日本ハムファイターズの打撃投手の一員として、テレビドキュメントで紹介された番組内容によると、「打たれない投球から打たれる投球を投げなければいけない」、「打球の飛ぶ先を確認することなく黙々と投げる」、「短時間(10分程度で、現役投手の半分以下の時間)でウォームアップを済ませなくてはならない」など、現役から打撃投手に転向するにも苦労する島田が紹介され、現役時代とは全く異なる環境に置かれることから、この世界でも生き残れる者は少ない。一方で池田重喜(千葉ロッテマリーンズの寮長を兼任しながら70歳まで打撃投手を務めた)や、水谷宏のように還暦を過ぎるまで打撃投手を務める者もいる。
専門職としての打撃投手の元祖は佐藤玖光である。佐藤は1975年から1998年まで広島で打撃投手を務め、1995年にはセ・リーグから特別表彰を受けた。また、それに近い立場として南海の西村省一郎は1970年に引退した後も球団に残り、スコアラーやマネージャー等を兼任しながら打撃投手を務めている。
かつてはドラフト下位あるいはドラフト外で入団した選手を戦力としてではなく打撃投手として用いるのが一般的であった。そういった選手の中からドラフト制度導入前では稲尾和久・小山正明、導入後は西本聖といった選手がエースとして大成している。ダイエー時代の下柳剛は「毎日中継ぎ登板、毎日打撃投手」という過酷な投げ込みで制球力を改善させた。
少数ではあるが、益山性旭・有沢賢持・中山裕章・西清孝・栗山聡のように、打撃投手から現役選手に復帰した例や、佐伯和司のように事実上引退して打撃投手に専念していた期間も、形式的に現役選手として支配下登録されていた例もある。また、古賀英彦・入来祐作・杉山賢人などは打撃投手を経てコーチになった経歴を持つ。
特定の強打者とペアを組む「専属打撃投手」も存在する。オリックス時代のイチローの専属打撃投手だった奥村幸治や、金本知憲と共に広島から阪神へ移籍した多田昌弘がその一例である[1]。また、北野明仁は、キャンプ・シーズン中に加えオフシーズンにも(個人的な契約を交わした上で)松井秀喜のパートナーとして自主トレーニングに参加した[2]。
背番号は3桁(100番台)であることが多いが、2桁(80番台・90番台が多い)も存在する。また、西武の打撃投手は、01番や02番といった10の位が0番台の2桁の背番号を着用している(00番を除く)。日本ハムでは打撃投手は2006年までは全員2桁の背番号であったが、2007年より打撃投手の背番号を廃止している。
MLB
- メジャーリーグベースボール(MLB)では、チームに専属の打撃投手は存在せず、主にバッティングマシンを相手に打撃練習を行う。打撃投手が必要な場合は、コーチやマイナーリーグの選手が投げたり、アルバイトを雇う[5]。
事故
西鉄ライオンズの宇佐美和雄が、1969年3月14日午後9時頃、雨天練習場で練習中に同僚の打球が左胸に直撃した[6][7]。宇佐美は一度は立ち上がったものの再び倒れ、人工呼吸や酸素吸入を受けたが、外傷性ショックのため30分後に死亡した[8]。
また、中日で打撃投手を務めていた平沼定晴も立浪和義の打撃練習の際、防護ネットをすり抜けたライナー性の打球を、脇腹に受けたことがあった[9]。打撃投手は本来、110km/hから120km/hの球を、マウンドの少し前から投げるが、立浪は30代半ばごろから、「早いボールを打つ」練習を重点的に取り組んでいたため、練習相手の平沼・清水治美両打撃投手の協力を得て距離を詰めて打撃練習をしており、その際に起きた事故だった[9]。平沼は心配する立浪に対し、「大丈夫」と言いつつ、最後まで練習相手を務めたが後で病院の診察を受けた際、肋骨骨折の重傷を負っていたことを知ったという[9]。
脚注
- ↑ “阪神多田打撃投手 涙のラスト登板”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2012年10月10日). オリジナルの2016年7月20日時点によるアーカイブ。 . 2018閲覧.
- ↑ ““松井秀の恋人”北野明仁さんの転職と引退会見前日に届いたメール”. zakzak(夕刊フジ) (産業経済新聞社). (2013年3月22日). オリジナルの2013年3月24日時点によるアーカイブ。 . 2018閲覧.
- ↑ “打撃投手の年俸500~800万円 チーム最大貢献なら1000万円も”. Newsポストセブン (小学館). (2012年12月18日). オリジナルの2018年4月19日時点によるアーカイブ。 . 2018閲覧.
- ↑ “守道監督が打撃投手で600球”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2012年11月17日). オリジナルの2016年7月20日時点によるアーカイブ。 . 2018閲覧.
- ↑ “東尾修 引退後に米で投げ打撃投手として雇うべしと言われた”. Newsポストセブン (小学館). (2012年12月19日). オリジナルの2018年4月19日時点によるアーカイブ。 . 2018閲覧.
- ↑ 『週刊ベースボール』 ベースボール・マガジン社、1969年3月31日号、13頁。
- ↑ 『週刊ベースボール』、14頁。
- ↑ 『朝日新聞』1969年3月15日、13面。
- ↑ 9.0 9.1 9.2 立浪和義 『負けん気』 文芸社、2010-02-20。ISBN 987-4286088532。