シモーヌ・ペトルマン

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シモーヌ・ペトルマンSimone Pétrement1907年6月6日 - 1992年12月15日)は、グノーシス主義マニ教の研究家であり、二元論に関する著作を持つフランスの哲学者である。詳細なシモーヌ・ヴェイユ伝記の作者としても知られる。

生涯と業績

1907年フランス生まれ。1925年、アンリ4世校受験準備学級(カーニュ)に進む[1]。ここで生涯の師アランの生徒になり、同級生だったシモーヌ・ヴェイユと友情を結ぶ。1927年、高等師範学校に入学。 1937年から1964年までフランス国立図書館で司書・学芸員を務める[2]。図書館には先輩としてジョルジュ・バタイユがいた。ヴェイユから悪評を聞いて学生時代はバタイユと関わりをもたなかったペトルマンだったが、奇妙な交流が生まれた。バタイユは結果としてペトルマンの二元論に関する哲学に影響を受けている(ただしペトルマンの思想で重要な位置を占める'善'を、対極にある'悪’に置き換えた)[3]。ペトルマンは1946年創刊されたバタイユの雑誌「クリティック(Critique)」にも寄稿し[4]、さらに同誌でサルトルへの批判を(バタイユとは異なった観点で)行った[5]

その後もペトルマンは思索を深めながら、自著の日本での翻訳者である神谷幹夫に対し、何通もの手紙を書き送っている。[6] シモーヌ・ペトルマンは1992年12月15日に85才でこの世を去った。

著作

参考文献

脚注

  1. 高等師範学校に女子の入学が認められたのは前年からだった。{{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}
  2. idref
  3. 丸山真幸 2006, p. 149-150,159.
  4. 『プラトンの都市国家の三宗教』第6号.1946年。『ライプニッツとスピノザ』第11号.1946年(この号を最後にペトルマンは寄稿をやめた){{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}
  5. 論争の中心は「自由」を巡るものであったという。同,p.155-156
  6. 「二元論の復権」<訳者への手紙>や巻末<ペトルマンの自画像>や「ラニョ-/アラン/ペトルマンの宗教について」神谷幹夫(1987)など
  7. 《Revue de Métaphysique et de Morale》,1970。論文の訳出にあたって神谷は掲載誌の編集責任者をしていたポール・リクールから快諾を得たと記している(『二元論の復活』神谷幹夫解説,338頁)
  8. タイトル訳は『{{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}』巻末「<ペトルマンの自画像> 神谷幹夫」(356頁)に依る

関連項目