足利晴氏
足利晴氏 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 永正5年(1508年) |
死没 | 永禄3年5月27日(1560年6月20日) |
幕府 | 室町幕府第4代古河公方 |
主君 | 足利義晴→義輝 |
氏族 | 足利氏(古河公方家) |
足利 晴氏(あしかが はるうじ)は、戦国時代の第4代古河公方(在職:1535年 - 1552年)。室町幕府が正式に認め、尚且つ影響力を持っていた古河公方としては最後の古河公方である。
Contents
生涯
永正5年(1508年)、足利高基(初名は高氏)の嫡男として生まれる。幼名は亀若丸。後に将軍足利義晴から偏諱を賜り晴氏を名乗る。
享禄4年(1531年)、関東享禄の内乱を経て、古河公方の地位を確立[1]。
天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で北条氏綱と同盟し、父の高基の代から敵対していた叔父で小弓公方を自称していた足利義明を滅ぼした。『伊佐早文書』によれば、晴氏は合戦の勝利を賞して氏綱を関東管領に補任したという[2][3]。なお、同年期の賛をもつ「雪嶺斎図」(五島美術館蔵、重要美術品)では、晴氏が図上に題字と花押を書し、建長寺第172世麟仲祖祥、同170世貞芳昌忠、同175世九成僧菊らが詩をしたため、画層僊可が絵を描いており、晴氏の教養や交友の一端が見て取れる[4][5]
しかし氏綱の死後、跡を継いだ北条氏康と敵対し、関東管領上杉憲政や上杉朝定と同盟を結んで、天文15年(1546年)にともに北条領へ侵攻するが、河越夜戦で大敗すると、古河公方としての力を失ってしまう。そして命は助けられたものの、天文21年(1552年)に公方の座を子の義氏に譲ることを余儀なくされた上で、天文23年(1554年)には古河城を攻められ、氏康によって相模国波多野(神奈川県秦野市)に幽閉された。
弘治3年(1557年)7月、古河城復帰を許されたが、9月には氏康によって廃された嫡男・藤氏の義氏打倒の陰謀が発覚した。
晴氏は再び拘束され、栗橋城主・野田氏のもとに預けられた。のちの永禄3年(1560年)5月27日、元栗橋(茨城県五霞町)の「嶋」にて死去。[6]
偏諱を与えた人物
- 足利晴直?(実弟、上杉氏に養子入り後、古河足利家に戻って改名、「晴」字は足利義晴または晴氏から受けたものである)
- 簗田晴助(家臣、高助の子で晴氏の義弟(正室の弟)にあたる)
- 結城晴朝(初め小山晴朝)
- 山川晴重 - 晴朝の妻の甥とされ、晴朝の1字を受ける。
- 結城晴綱(白河結城氏)
- ※大関晴増?(大関高増の子)
- ※大田原晴清?(大関高増の甥)
(※印の付いた二名は、晴氏の死後に生まれており、晴氏から直接「晴」の字を受けていないのは確実である。ただ近親者である大関高増に晴氏の父・高基の偏諱と思われる「高」の字が含まれていることから何かしら関係・影響している疑いが推測されるため一応掲載してある。今のところ、それに関して言及している史料等はない。)
脚注
- ↑ 黒田基樹「関東享禄の内乱」『関東足利氏と東国社会 中世東国論 5』(岩田書院、2012年)
- ↑ 森幸夫 「第二代 北条氏綱」『戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡』 (新人物往来社、2005年、ISBN 4404033168)
- ↑ ただし、関東管領補任は幕府の権限であり、実際に関東管領山内上杉憲政が存在する以上、正式なものにはなり得ない。
- ↑ 『新装開館記念名品展 「時代の美─五島美術館・大東急記念文庫の精華─ 第二部 鎌倉・室町編」図録』 公益財団法人 五島美術館、2012年11月23日、p.26。
- ↑ 重要美術品 雪嶺斎図 僊可筆 麟仲祖祥他賛 - 五島美術館
- ↑ 佐藤博信 「付論「嶋之 上様」のこと」 『中世東国の支配構造』(思文閣出版、1989年、129-133頁)
参考文献
関連項目
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