聖書への批判
聖書への批判の項目ではユダヤ教・キリスト教の聖典である聖書への批判について記述する。
並行記事の矛盾について
聖書には同じ対象を書いたものでも矛盾した記述が存在する。イエスの生涯を描いた四福音書でもしばしば並行記事が食い違っており、創世記にある二通りの創造も字義通りにとれば矛盾すると思われる場合もある。信者にはこれらを矛盾と考えず調和化しようとする人もいる。堀尾幸司は自著のなかで、ユダの二通りの死に方をつなぎ合わせ、首を吊って自殺した後に紐が切れ、死体が落ちて裂けたのだとした[1]。
このような立場に対し、たとえば矢内原忠雄は、2つの創造説が字義通りには矛盾するが、創造における神の目的や被造物の位置付けを表現したものとして象徴的に解釈する[2]。青野太潮は神ならぬ人間が解釈し、記録した聖書が無謬であることはありえないとして矛盾があることを認め、そこから導き出した信仰的意義を述べている[3]。
科学的間違いについて
聖書もまた古代の神話的世界観のもとに書かれた文書であり、そこには字義通りに読むと科学と矛盾する文章も見られる。現に、字義通りに聖書を解釈する立場から進化論や地質学を攻撃する人々が存在している。科学主義者や合理主義者の中にも章句を直解した際に起こる齟齬をもって聖書を批判する人々がいる。
これに対し、当時の科学的知識が不十分であることが宗教的価値を損ねることはないと主張するキリスト教徒もおり、聖書をもとに科学的知識を否定することに対しても批判を加えている。こうした立場は4世紀の教父アウグスティヌスにもみられる。アウグスティヌスは、非キリスト教徒が持つ自然界についての知識を、キリスト教徒が聖書を元に否定することで聖書そのものまで嘲笑されることを懸念し[4]、学問上の知識と矛盾する場合には聖書を象徴的に解釈することをすすめた。
現代のエキュメニカル・リベラルな教団の間では聖書は科学の教科書ではないとし進化論などを否定しないことが少なくない。
聖書の倫理性について
アブラハムがイサクを神に捧げようとしたこと、妻サラ及びヤハウェも共謀した美人局行為、モーセやヨシュアが行った聖絶、エリシャによる熊を使った子供達の殺害(子供達に自らの禿げ頭をからかわれたことによるものである)、ヤハウェによる狭量で理不尽かつ気まぐれな残虐行為の数々、同性愛差別などが批判される。
また、これらのエピソードに対するキリスト教徒による正当化も併せて批判されることが多い。
例えば、バートランド・ラッセルは幼少時に牧師からエリシャの行動を正当化する話をされたが受け入れることはできなかったと語り、アブラハムやエリシャのエピソードは遠い昔の人間が陥った残酷さや邪悪さを説明するものとして語られなければならないとした[5]。
他宗教の立場から
イスラム教
イスラム教では聖書のうち、タウラート(『モーセ五書』)、 『ザブール』(ダビデの『詩篇』)、『インジール』(イエスの『福音書』)を啓典と認めているが、ユダヤ教徒やキリスト教徒によって本来の形から改変・改竄されたとみなしており、『クルアーン』と矛盾する部分があれば否定される。イスラム教徒の中には本文批評の研究成果を援用して、自教の立場を裏付けようとする立場もある[6]。