毛利元尭
提供: miniwiki
毛利 元尭 | |
---|---|
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 元禄15年8月16日(1702年9月7日) |
死没 | 享保6年2月11日(1721年3月8日) |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 周防徳山藩主 |
氏族 | 毛利氏 |
毛利 元堯(もうり もとたか)は、周防国徳山藩の第4代藩主。就隆系毛利家4代。
第3代藩主・毛利元次の次男。母は側室・蓮性院。弟に毛利広豊。官位は従五位下、日向守。幼名は亀松、または亀次郎。後に百次郎と改める。名を元国、就久、就清、元堯と変えた。
経歴
元禄15年(1702年)、徳山で生まれる。正徳5年(1715年)に元服する。享保元年(1716年)に徳山藩が万役山事件が原因で改易されたため、身柄を本家の長州藩に預けられた。しかし享保4年(1719年)5月、家臣団の努力により徳山藩の再興を幕府より許されて、3万石の徳山藩主となった。その後は改易されていた徳山藩政の再建を目指すが、享保6年(1721年)2月11日、江戸参勤中に疱瘡が原因で他界した。享年20。実子がいなかったため、弟の広豊が跡を継いだ。法号は豪徳院殿家山紹運大居士。墓所は東京都港区愛宕の青松寺。