「横浜港」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「{{mapplot|139.665556|35.450556|横浜港}} '''横浜港'''(よこはまこう) 神奈川県東部,横浜市東京湾岸に連なる港湾。首都東...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{Infobox 港
 
| 港名 = 横浜港
 
| 画像 = [[ファイル:Ōsanbashi_Port_of_Yokohama_April_14,_2005.jpg|300px|]]
 
| 画像説明 = 横浜港[[大桟橋]]
 
| 国 = {{JPN}}
 
| 所在地 = [[神奈川県]][[横浜市]]
 
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 27 | 緯度秒 = 2 | N(北緯)及びS(南緯) = N
 
| 経度度 = 139 |経度分 = 39 | 経度秒 = 56 | E(東経)及びW(西経) = E
 
| 地図国コード = JP-14
 
| 開港 =
 
| 管理者 =
 
| 種類 =
 
| 泊地面積 =
 
| 陸地面積 =
 
| 面積 =
 
| 係留施設数 =
 
| 埠頭数 =
 
| 桟橋数 =
 
| 従業員数 =
 
| ラベル1 =満潮12:45〜12:50
 
 
 
| データ1 =
 
| ラベル2 =
 
| データ2 =
 
| ラベル3 =
 
| データ3 =
 
| 年度 =
 
| 発着数 =
 
| 貨物取扱量 =
 
| コンテナ数 =
 
| 貨物総額 =
 
| 旅客数 =
 
| 売上高 =
 
| 利益 =
 
| ラベル4 =
 
| データ4 =
 
| ラベル5 =
 
| データ5 =
 
| ラベル6 =
 
| データ6 =
 
| 公式サイト =
 
}}
 
 
{{mapplot|139.665556|35.450556|横浜港}}
 
{{mapplot|139.665556|35.450556|横浜港}}
'''横浜港'''(よこはまこう)は、[[神奈川県]][[横浜市]]の[[東京湾]]岸にある[[港湾]]である。港湾管理者は'''横浜市'''。[[港湾法]]上の正式名称は横浜港だが、港内の船舶交通を図る[[港則法]]では'''京浜港横浜区'''と称される<ref group="注">京浜港は他に、川崎区([[川崎港]])と東京区([[東京港]])がある。</ref>。その範囲は[[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]沖合いより[[金沢区]][[八景島]]の辺りまで7,315.9[[ヘクタール|ha]]に及ぶ<ref>[http://www.city.yokohama.lg.jp/kowan/m-learn/chiri.html 横浜港の範囲](横浜市港湾局:キッズページ)</ref>。
+
'''横浜港'''(よこはまこう)
 
 
[[東アジア]]の大規模港に対抗するため新たに設けられた[[国際戦略港湾]]・京浜港(ハブ港)の一翼を担い、[[国土交通省]]より「国際コンテナ戦略港湾」の指定も受けている。[[1859年]][[7月1日]]([[安政]]6年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]])[[開港]]。いわゆる「安政の開国」による開港五港である。'''金港'''の美称を持つ。他に[[関税法]]施行令上の開港で国際貿易港(五大港)、[[日本三大一覧#港湾|日本三大貿易港]]などに含まれる。
 
 
 
== 概説 ==
 
横浜港は[[1858年]][[7月29日]](安政5年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]])に締結された[[日米修好通商条約]](安政五ヶ国条約)に基づき1859年7月1日(安政6年6月2日)に[[武蔵国]][[久良岐郡]]横浜村(横浜市[[中区 (横浜市)|中区]]の関内付近)に開港され、生糸貿易の中心港としてまた[[京浜工業地帯]]の工業港、[[東京]]の外港として大きく発展した。
 
 
 
当初は現在の[[神奈川県庁]]本庁舎付近(中区[[日本大通]])にあった運上所([[税関]])の沿岸に東西2つの波止場が設けられて貿易が始まったが、大正期間にかけ[[新港 (横浜市)|新港埠頭]]などの港湾施設が整備されたことにより[[神戸港]]とともに東西の国際貿易港として日本の近代化を牽引した。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]の際の[[空襲]]とその後の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍駐留により大きな打撃を受けたものの、[[1950年]]([[昭和]]25年)制定の[[港湾法]]に基き、翌[[1951年]](昭和26年)には[[横浜市]]が港湾管理者となり戦前の国営港湾から終戦直後の連合国軍接収時代を経て市営港湾化された。1950年(昭和25年)に制定された[[横浜国際港都建設法]]の下、国際港都・横浜の中心的施設として整備。現在では横浜市の東京湾沿岸ほぼ全域に広がり、10ヶ所の[[埠頭]]と249のバース(岸壁)を有する。外貿コンテナ取扱個数は[[東京港]]に次ぐ国内第2位であり、東日本を代表するコンテナポート。また[[クルーズ客船]]の発着港としても寄港数で[[2003年]]([[平成]]15年)に初めて国内港湾第1位となって以来、その地位を保っている。
 
 
 
入港船舶数は全国1位(43,400隻、[[2005年]](平成17年))、海上出入貨物量は全国2位(1億3328万トン、同)、外国貿易額は全国3位(104億円、同)。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 神奈川湊 ===
 
[[ファイル:NauticalChart Yokohama 1874.jpg|thumb|300px|[[大日本帝国海軍|日本海軍]][[水路部 (日本海軍)|水路寮]]作成[[海図]]「武藏國横濱灣」の一部([[明治]]7年<small>([[1874年]])</small>刊行)。神奈川湊沖は遠浅で、横浜港沖は水深が急速に深くなっている。]]
 
横浜港域における歴史は鎌倉幕府の国際玄関港として繁栄していた[[六浦湊]](現在の横浜市金沢区)の存在にまで遡ることが出来るが、原型は'''神奈川湊'''(かながわみなと)の方にあると考えられている。神奈川湊は、[[武蔵国]][[橘樹郡]]神奈川(現在の神奈川県横浜市[[神奈川区]]神奈川本町、青木町付近)にあった。
 
 
 
神奈川湊は中世から東京湾内海交通の拠点の1つとされ、[[鎌倉幕府]]が置かれた[[13世紀]]以降、湾内の物流が活発になると共に神奈川湊も発展して行く。記録によれば[[室町時代]]の[[1392年]]([[明徳]]3年/[[元中]]9年)の段階で東京湾の主要積出港の1つとして機能していたことが明らかになっている。神奈川湊とその湊町は[[鎌倉時代]]には[[鶴岡八幡宮]]が支配し、室町時代には[[関東管領]]・[[上杉氏]]の領地となった。その後、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[後北条氏]]の家臣である多米氏が支配し[[1590年]]([[天正]]18年)に[[徳川家康]]が[[江戸]]に入府するとその支配下に入った。[[1601年]]([[慶長]]6年)、神奈川湊の湊町は[[神奈川宿]]として[[東海道]]の[[宿場]]となり以後[[江戸幕府]]の直轄地とされた。
 
 
 
江戸の発展に伴い全国各地からの物資輸送と江戸湾(東京湾)内海交通が活発となり、神奈川湊など湾内の各湊でも廻船業(廻船問屋)を営む者が現れた。
 
 
 
=== 黒船来航と横浜開港 ===
 
[[1853年]]([[嘉永]]6年)、[[アメリカ合衆国]]の[[マシュー・ペリー|ペリー提督]]率いる[[黒船]]が[[浦賀]]沖に来航([[黒船来航]])。翌[[1854年]](嘉永7年)には再度来航し幕府の態度が表明されるまでの間、[[六浦湊]]外周の小柴舳沖(武蔵金沢藩([[六浦藩]])=横浜市金沢区)に2ヶ月間投錨。厳重な態度の幕府や乙舳海岸に陣を張り物々しい六浦藩とは裏腹に、民間レベルでは漁師の獲った魚や艦隊側の[[ビスケット]]を差し入れし合うなどいち早くフランクな異文化交流が行われていたと記録されている。その後、幕府は神奈川湊の対岸にある武蔵国[[久良岐郡]]'''横浜村'''に応接所を設置してペリー一行を上陸させ協議に臨んだ結果、[[日米和親条約]](神奈川条約)を締結した。その後、[[1858年]](安政5年)には神奈川沖小柴に浮かぶ[[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン号]]上で結ばれた[[日米修好通商条約]]([[安政五カ国条約]])により神奈川の開港が定められた。
 
 
 
幕府は[[松代藩]]士・[[佐久間象山]]、[[外国奉行]]・[[岩瀬忠震]]らの意見により東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊を避け対岸の横浜村に開港場を新設することを決定。対して諸外国の[[公使]]はあくまで条約に批准にこだわり神奈川の開港を求め、横浜の利便性は認めつつも神奈川宿周辺に[[領事館]]を開いた。しかし開港後は[[居留地]]で取引が活発化して神奈川湊は衰退し、居留地が外国人向けに整備されるなど既成事実が積み重なり諸外国も横浜開港を受け入れた。
 
 
 
横浜は[[大岡川]]によって土砂が堆積するという不利点<!--事実、横浜は砂州の上に形成された村-->があったものの、南に[[本牧]]台地があるため風を防ぐ利点があった。横浜沖はすぐに水深を増す工事が施された。当時の横浜村は砂州の上に形成された半農半漁の寒村で相前後して居留地、[[波止場]]、[[神奈川運上所]](税関)、[[神奈川奉行所]]などを整備し東海道から横浜村に至る[[脇往還]]([[よこはま道]])が短期間で造成された。これらの事業や初期の町作りを担ったのは、神奈川宿・[[保土ヶ谷宿]]や周辺の村々の人たちだった。横浜開港の成功の背景には、神奈川湊及び同宿によって培われた経済的基盤が存在したとされる。[[下田]]出身の写真家・[[下岡蓮杖]]の浄瑠璃「横浜開港奇談 お楠子別れの段」では横浜開港の功労者として、初代横浜総年寄を務めた[[保土ヶ谷宿]][[本陣]]家10代当主の[[苅部清兵衛]]、[[吉田新田]]の[[吉田勘兵衛]]、石川村名主の[[石川徳右衛門]]を挙げている。
 
 
 
1859年7月1日(安政6年6月2日)、横浜港は開港し貿易を開始した。横浜市は6月2日を'''[[開港記念日]]'''としている。開港に先立ち幕府は横浜への出店を奨励する御触を出し、江戸の大商人や神奈川湊など江戸湾内の廻船問屋のほか全国から一旗揚げようと意気込む商人が集まり横浜は急速に発展した。同年に永住した西洋人の商人は20名以上あり、不安定ながら非常に利益率の高い商売であったことから、一攫千金をもくろむ西洋人が次々と来日しはじめ、船員が商人を兼ねることも多かった<ref name=honjo>[http://books.google.co.jp/books?id=qZxlAgAAQBAJ&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false "Japan's Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" ]Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013</ref>。ジョセフ・ヒコこと[[浜田彦蔵]]もその一人で、[[サンフランシスコ]]の出資者と組んでいち早く商売を始めた<ref name=honjo/>。
 
 
 
=== 開港後[1](太平洋戦争終結まで/国営港湾時代) ===
 
開港当時、外国商館への輸出品の販売は「売込」、輸入品の購入は「引取」と呼ばれそれぞれ売込商人・引取商人という横浜商人を通して取引が行われた。明治初期までの代表的な輸出品は[[生糸]]と[[茶]]であり、輸入品は[[綿|綿糸]]・織物と[[砂糖]]などである。特に生糸輸出は[[昭和恐慌]]期に至るまで綿花輸入と並ぶ最大の貿易品であり、横浜は生糸貿易港として世界に名を馳せた。貿易が拡大し[[外国人居留地]]での取引が活発になると、その玄関口となる横浜では流入する外国の文化・技術がいち早く採り入れられた。
 
 
 
西洋人商人にとっての対日貿易は、開港当初は非常に儲かるものであった。その後1870年ごろまで一時下降したものの、再び盛り返し1876年の居留地の取引高は約5800万円となった<ref name=honjo/>。西洋諸国から日本への輸出品は兵器や船、繊維製品が主で、卯年の1879年には[[オーストラリア]]のウサギが人気を集めた<ref name=honjo/>。また、海産物などの乾物を日本で買い、中国で販売するビジネスも西洋人が行なった<ref name=honjo/>。[[イギリス]]が覇権を握っていた[[インド]]や中国(香港)と違って、多国籍(不平等条約締結国)が拮抗していた日本では、有効な換金システムがなかったため、1885年の日銀兌換券発行まで、金銭のやり取りは混乱を極めた<ref name=honjo/>。
 
 
 
明治20年代になると、横浜港の拡大と充実を目指して港湾施設の整備が行われる。[[1888年]](明治21年)、[[外務大臣 (日本)|外相]][[大隈重信]]が[[内閣総理大臣|首相]]・[[伊藤博文]]に横浜港の港湾設備を整備するよう建言し[[イギリス]][[陸軍]]工兵[[大佐]]・パーマーの監督下、翌年より築港工事が始められた。この第1期築港工事では、内防波堤と鉄桟橋([[大さん橋]])が造られた。
 
 
 
明治30年代〜[[大正]]時代には[[日清戦争]]([[1894年]](明治27年))を経て[[東洋]]最大の港となった[[神戸港]]に対抗すべく、埠頭や海陸連絡施設など大規模な港湾施設の建設が積極的に行われた。[[1899年]](明治32年)には、海陸連絡施設の整備を目指して第2期築港工事を開始した([[1917年]](大正6年)まで)。[[横浜赤レンガ倉庫|赤レンガ倉庫]]と[[新港 (横浜市)|新港埠頭]]は、この時代に横浜市が政府に建設を働きかけて完成させたものである。建設費用はアメリカに支払った[[下関戦争]]の賠償金がアメリカから返還されそれを充てた。以後、現在に至るまで港湾施設の改良工事は度々行われている。
 
 
 
[[1923年]](大正12年)、[[関東大震災]]により横浜港は壊滅的な被害を受ける。復興事業は市長・[[有吉忠一]]の指揮下、神奈川県と横浜市、生糸商などの横浜商人をはじめとする市民らにより国の力も借りて進められた。この事業により生糸検査所、[[ホテル・ニューグランド]]、[[神奈川県庁本庁舎]]([[キングの塔]])、[[横浜税関]]庁舎([[クイーンの塔]])や瓦礫を利用して造成した[[山下公園]]など今の横浜を代表する建築、名所が造られた。事業のための巨額の資金はアメリカでドル建て[[市債]]を発行して賄ったが、この膨大な負債はその後長く市財政を圧迫した。
 
 
 
[[昭和]]に入ると[[京浜工業地帯]]が形成され、その発展に伴い横浜港は生糸貿易港から工業港となりつつあった。[[1935年]](昭和10年)、[[日産自動車|日産]]は横浜市から買収した埋立地に本社工場を完成させ[[自動車]]の生産を始めた。昭和初期は[[製鉄]]、[[造船]]、自動車、[[電機]]などの[[軍需産業]]が発展し横浜港はその重要な拠点となった。[[1941年]](昭和16年)12月には[[太平洋戦争]]が始まり、横浜は翌[[1942年]](昭和17年)[[4月18日]]に[[アメリカ軍]]から初[[空襲]]を受けた([[ドーリットル空襲]])。また同年11月には[[横浜港ドイツ軍艦爆発事件]]が発生した。   
 
 
 
その後、終戦までに横浜は30数回の空襲を受けるが臨海部の工場や港湾施設の被害は比較的軽かった。[[1945年]](昭和20年)に終戦を迎え、横浜港と横浜の市街地([[関内]]地区)は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍に接収される。特に横浜港の港湾施設はその90%が接収され、横浜の戦後復興を遅らせた。
 
 
 
=== 開港後[2](戦後-現在/市営港湾時代) ===
 
[[1952年]](昭和27年)、[[日本国との平和条約|講和条約]]が発効し横浜港の接収が解除され始める(現在も[[在日米軍]]が使用している瑞穂埠頭([[横浜ノース・ドック|ノースピア]])など一部除く)。先立って1950年(昭和25年)に接収解除された[[高島埠頭]]を足がかりに京浜工業地帯と横浜の復興は始まり、外国貿易も回復し始めた。輸入の激増により、横浜港の外国貿易量は[[1957年]](昭和32年)には戦前のピークである[[1937年]](昭和12年)を上回る。横浜港の輸入品は終戦直後は食料品が占め、後には[[石油]]、[[金属]]、[[鉄鉱石]]、[[石炭]]が増加し輸出品は[[鉄鋼]]、車両、機械類が占め工業港としての性格を強めた。
 
 
 
[[1968年]](昭和43年)には[[コンテナ]]専用埠頭である本牧埠頭(A突堤)が造成され、[[コンテナ船]]が入港し始める。[[1970年代]]にかけ神戸港と共に、日本着発の国際コンテナ物流を支えた。だが世界規模で急速に進んだ海運のコンテナ化への対応では、[[東京港]][[大井埠頭]]整備により後塵を拝した。神戸港が阪神淡路大震災で壊滅的な被害を受けた[[1995年]](平成7年)以降は外貿コンテナ取扱個数で国内首位となったが[[1998年]](平成10年)に東京港に抜かれ、現在は国内第2位。在来・素材貨物を含む総取扱貨物量(重量ベース)では[[名古屋港]]と[[千葉港]]に次ぐ国内第3位となっている。
 
 
 
横浜港で陸揚げされたコンテナはトラックに載せられ、本町通りを通って各地に運ばれた。そのため、本町通はコンテナ街道と呼ばれるようになった。これにより渋滞が頻発したため本町通を通らずに直接高速道路に入れるよう、横浜港周辺の道路整備が求められた。横浜港を代表する建築となっている[[横浜ベイブリッジ]]もこの道路整備の一環として、[[1989年]](平成元年)に建造された。また、[[都市計画道路]]として各埠頭をつなぎ'''横浜港'''を環状型に結ぶ[[臨港幹線道路]]も事業化されているが、全線完成には至っていない。
 
 
 
=== 現在の横浜港 ===
 
現在、国際船客ターミナルとして機能しているのは[[大桟橋]][[埠頭]]と[[新港 (横浜市)|新港埠頭]]である。新港埠頭は[[海上保安庁]]横浜海上保安部の庁舎を兼ねた[[横浜海上防災基地]]としての機能を主としている。また新港埠頭は[[横浜みなとみらい21|みなとみらい21]]計画の一環としてフェリーターミナルも構想されていた。[[2003年]](平成15年)度より横浜港の客船寄港数は国内最多となり現在まで堅持している([[ノート:横浜港#クルーズ客船の寄港数について|ノート]]参照)。
 
 
 
コンテナ埠頭の主力は[[本牧埠頭]]、[[大黒埠頭]]、[[南本牧埠頭]]である。[[大黒埠頭]]には完成自動車及び大型建設用機械の輸出用バースがある。また流通の拠点として[[横浜港流通センター]]も[[大黒埠頭]]にある。現在各埠頭はコンテナ船の大型化に備えた大深度化を進めているが、とくに南本牧埠頭では国内最大級の20m深度を持つバースが建設着手された。[[デンマーク]]のマースクラインは同社にとって日本国内最大の物流拠点を南本牧埠頭に構えている。2005年(平成17年)12月には本牧BCターミナルが[[スーパー中枢港湾]]ターミナルとして国内で初めて全面供用された。また2010年(平成22年)には[[国際戦略港湾]]の指定を[[京浜港]]として受け、コンテナターミナル管理の[[ポート・オーソリティ]]化や[[民営化]]つき検討が進められている。横浜港は世界最大のコンテナ船社、[[デンマーク]]の[[マースクライン]]が同社にとって日本国内最大の物流拠点を南本牧埠頭に構える等、外国船主体の利用となっている一方、[[東京港]]は日本船の利用が中心となっている。戦前から'''横浜港'''が外港、[[東京港]]が内港として利用区分されてきた。
 
 
 
在来貨物を取り扱う埠頭としては[[山下埠頭]]、[[横浜ノース・ドック|瑞穂埠頭]]、[[山内埠頭]]、[[出田町|出田町埠頭]]等がある。全て内港エリアに存在し、貨物の主流が[[コンテナ]]に移行した今日、山下埠頭や[[新山下]]地区の再整備事業など、横浜都心への一体化が構想されている。
 
 
 
=== 横浜港の客船寄航数 ===
 
[[1970年代]]初頭の[[オイルショック]]より、貨客船の船客事業から撤退したり、航路を廃止する海運会社が増え、世界的に貨客船事業は衰退した。以降、横浜港の客船定期航路は、旧ソ連の極東海運(FESCO)が運行するナホトカ航路のみであったが、それも[[1990年代]]初頭に廃止された。
 
 
 
現在の外国航路の乗降客数は、[[上海]]や[[釜山]]行き国際[[フェリー]]航路を有する[[大阪港]]、および上海や[[天津]]行き国際フェリー航路を有する[[神戸港]]に比べると、横浜港は比較にならないほど少ない。国内航路乗降客数も、[[フェリー]]航路を有する[[大阪港]]・[[神戸港]]・[[東京港]]と比較すると、これもまた桁違いに少ない([[ノート:横浜港/過去ログ1#横浜港のデータ|ノート]]参照)。
 
 
 
[[横浜市]]や横浜港は、新しい国際客船ターミナルの竣工([[2002年]])と[[2002 FIFAワールドカップ|ワールドカップ日韓大会]]開催に合わせ、[[クルーズ客船]]の寄港誘致に市をあげて積極的に乗りだした。海運会社には、着岸料金の半額を横浜市が負担するなどした結果、[[2003年]](平成15年)度において、横浜港の日本船籍クルーズ客船の寄港数は、初めて日本最多となり、現在までその地位を堅持している([[ノート:横浜港/過去ログ1#横浜港のデータ|ノート]]参照)。
 
 
 
さらに[[2000年代]]中盤に横浜市の働きかけにより、[[日本郵船]]の[[飛鳥II]]は、船籍を東京港から横浜港に移した。横浜港の港勢推移が、横浜市経済へ与える波及効果が高いため、継続したクルーズ客船や[[コンテナ船]]誘致が、重要な政策課題となっている。
 
 
 
=== 記念事業 ===
 
==== 開港50周年 ====
 
[[1909年]](明治42年)の開港50周年を記念して、[[横浜市開港記念会館]]が建設された([[1914年]]<small>(大正3年)</small>着工、[[1917年]]<small>(大正6年)</small>完成)。また、この年の7月1日には[[横浜市歌]]が発表された。
 
 
 
==== 開港100周年 ====
 
[[1959年]](昭和34年)には開港100周年記念事業の一環として、[[横浜マリンタワー]]が建設された([[1961年]]<small>(昭和36年)</small>完成)。このマリンタワーは[[灯台]]でもあり(灯台としては世界一の高さとして[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]に記載)、横浜のシンボルとして多くの観光客でにぎわっていた。しかし、集客力が減少したことから[[2006年]]に一時閉鎖、後述の開港150周年を機にリニューアルされた。
 
 
 
==== 開港130周年 ====
 
[[1989年]](平成元年)に横浜市制100周年および開港130周年イベントとして、[[横浜博覧会]](会場:[[横浜みなとみらい21|みなとみらい地区]]、3月25日〜10月1日)が開催された。
 
 
 
==== 開港150周年 ====
 
[[2009年]](平成21年)には開港150周年記念事業として、横浜マリンタワーの再整備(5月23日に営業再開)、[[開国博Y150]]の開催(4月28日〜9月27日)、象の鼻地区の公園整備([[象の鼻パーク]]、6月2日オープン)などが行われた。
 
 
 
=== 年表 ===
 
* [[1241年]]([[仁治]]2年) - 六浦湊と鎌倉を結ぶ朝夷奈切通が開通し、現・横浜港域が歴史の表舞台に登場。幕府の玄関口として文化・交易・産業に栄え神奈川湊、そして横浜港へと続く発展の序章となった。
 
* [[1392年]]([[明徳]]3年/[[元中]]9年) - '''神奈川湊'''が湾内の主要港として記録に現れる。
 
* [[1601年]]([[慶長]]6年) - 神奈川を東海道の宿場、'''神奈川宿'''とする。
 
* [[1694年]]([[元禄]]7年) - 明の心越禅師が六浦湊の景色を故郷の[[瀟湘八景]]になぞらえて漢詩にして詠み、[[金沢八景]]とした。
 
* [[1854年]]([[嘉永]]7年) - 武蔵国久良岐郡'''横浜村'''で、日米和親条約が締結される。
 
* [[1857年]]([[安政]]4年) - 浮世絵・金沢八景を描いた[[歌川広重]]、武陽金沢八勝夜景(版画3枚続・蔦屋版)を完成させる。
 
* [[1858年]](安政5年) - 神奈川沖で日米修好通商条約が締結され、「神奈川」の開港が定められる。
 
* [[1859年]][[7月1日]](安政6年[[6月2日]]) - '''横浜港が開港'''。同時に、神奈川運上所(現・[[財務省 (日本)|財務省]]横浜税関)を設置。横浜村を横浜町と改称。
 
* [[1870年]](明治3年) - 神奈川県により横浜港の鎮守として[[伊勢山皇大神宮]]が創建される。
 
* [[1877年]]([[明治]]10年) - [[外国人居留地|横浜居留地]]が返還される。
 
* [[1888年]](明治21年) - 外相大隈重信が、首相伊藤博文に対し横浜港の整備を建言。翌年築港工事を開始。
 
* [[1889年]](明治22年) - 海沿いの旅亭東屋(横浜港南部・[[金沢八景]])にて伊藤博文らにより草案された明治憲法が発布。
 
* [[1894年]](明治27年) - 鉄桟橋([[大さん橋]])竣工。[[日清戦争]]開戦。
 
* [[1896年]](明治29年) - [[横浜船渠]]第2号ドック(現・[[ドックヤードガーデン]])が竣工。東西防波堤が竣工し、第1期築港工事が完工。
 
* [[1899年]](明治32年) - 海陸連絡施設の整備を目指して、第2期築港工事を開始([[大正]]6年([[1917年]])まで)。
 
* [[1904年]](明治37年) - [[日露戦争]]開戦。
 
* [[1909年]](明治42年) - 開港50年祭実施。[[横浜市歌]]発表。
 
* [[1911年]](明治44年) - 赤レンガ倉庫完成(2号倉庫。1号倉庫は大正2年([[1913年]])完成)。
 
* [[1914年]]([[大正]]3年) - [[第一次世界大戦]]開戦。
 
* [[1917年]](大正6年) - [[新港 (横浜市)|新港埠頭]]完成。開港50周年記念事業の一環として建設された、開港記念横浜会館(現・[[横浜市開港記念会館]])竣工。
 
* [[1921年]](大正10年)5月 - [[内務省 (日本)|内務省]]横浜土木出張所横浜港修築工場(現・[[国土交通省]]関東地方整備局京浜港湾事務所)を設置する。
 
* [[1923年]](大正12年) - [[関東大震災]]で大きな被害を受ける。
 
* [[1930年]]([[昭和]]5年) - [[山下公園]]が開園。
 
* [[1934年]](昭和9年)3月 - [[横浜税関]]現庁舎(クイーンの塔)竣工 。
 
* [[1942年]](昭和17年)11月 - [[横浜港ドイツ軍艦爆発事件]]で4隻大破、死者102名。
 
* [[1945年]](昭和20年) - [[第二次世界大戦]]終戦。港湾施設の大部分が連合国軍に接収される。
 
* [[1949年]](昭和24年) - 港湾施設等の接収が解除され始める(瑞穂埠頭([[横浜ノース・ドック|ノースピア]])やその周辺水域、小柴水域や新港埠頭(センターピア)の一部を除く、これらは現在も[[在日米軍]]が管理)。
 
* [[1950年]](昭和25年) - [[横浜国際港都建設法]](昭和25年法律第248号)公布。
 
* [[1951年]](昭和26年) - 横浜市が港湾管理者となる。
 
* [[1958年]](昭和33年) - 開港100年祭が行われる(100周年の年でなく、100年目の年に開催された)。
 
* [[1961年]](昭和36年) - 開港100周年記念事業の一環として、[[横浜マリンタワー]](高さ106m)が建てられる。
 
* [[1964年]](昭和39年) - 初代大桟橋旅客ターミナル竣工。
 
* [[1981年]](昭和56年) - [[横浜港埠頭|横浜港埠頭公社]](現・横浜港埠頭株式会社)設立。
 
* [[1983年]](昭和58年) - [[三菱重工業横浜製作所]]移転し、跡地に[[横浜みなとみらい21|みなとみらい21]]事業着工。
 
* [[1986年]](昭和61年) - [[本牧埠頭]]D突堤に[[横浜港シンボルタワー]]が建てられる。
 
* [[1989年]]([[平成]]元年) - [[横浜ベイブリッジ]]開通。シーサイドライン([[横浜新都市交通金沢シーサイドライン]])開通。[[横浜博覧会]]開催。
 
* [[1990年]](平成2年) - [[大黒埠頭]]完成。
 
* [[1991年]](平成3年) - みなとみらいさん橋([[ぷかりさん橋]])完成。
 
* [[1993年]](平成5年) - [[横浜・八景島シーパラダイス]]開業(マリーナ港区と分区指定なしエリアからなる人工島・八景島上)。
 
* [[1994年]](平成6年) - [[鶴見つばさ橋]]開通。
 
* [[1996年]](平成8年) - 総合保税上屋YCC(Yokohama port-Cargo Center)オープン。
 
* [[1998年]](平成10年) - [[横浜ベイサイドマリーナ]]開業。
 
* [[2001年]](平成13年) - [[南本牧埠頭]]供用。
 
* [[2002年]](平成14年) - [[大さん橋|大さん橋国際旅客ターミナル]]がリニューアルオープン。[[赤レンガパーク]]開業。
 
* [[2004年]](平成16年) - [[横浜高速鉄道みなとみらい線]]開業。横浜ベイブリッジ下部(本牧-大黒間)に[[国道357号]]線開通。
 
* [[2005年]](平成17年) - 本牧BC間埋め立て完了、BCコンテナターミナル全面供用。
 
* [[2008年]](平成20年) - [[臨港幹線道路]]のうち、みなとみらい橋とコットン大橋開通、瑞穂大橋の名称決定。
 
* [[2009年]](平成21年) - 開港150周年記念事業として「[[開国博Y150]]」が開催される。[[象の鼻パーク]]開園。横浜マリンタワーがリニューアルオープン。
 
* [[2013年]](平成25年) - 臨港幹線道路のうち、みなとみらいトンネル開通(みなとみらい地区内の国際大通り地下を通る)。
 
* [[2017年]](平成29年)[[7月26日]] - [[国土交通大臣]]により[[港湾法]]第2条の3で定める国際旅客船拠点形成港湾に指定された<ref>[http://www.jiji.com/jc/article?k=2017072600815&g=eco クルーズ拠点で指定書=6港管理の首長らに-石井国交相] 時事通信、2017年7月26日</ref><ref>[http://miyakoshinpo.com/news.cgi?no=17521&continue=on 石井国交相が国際クルーズ船拠点港に平良港を指定] 宮古新報、2017年7月27日</ref>。
 
 
 
== 港湾概要 ==
 
=== 面積 ===
 
* 港湾区域面積:7,315.9ha
 
* 臨港地区面積:2,828.4ha<ref>[http://www.city.yokohama.jp/me/port/business/rinkouchiku/bunkuzu.pdf 臨港地区・分区指定図(横浜市港湾局)]</ref>
 
** 商港区:972.9ha
 
** 工業港区:1,697.7ha
 
** マリーナ港区:5.7ha
 
** 修景厚生港区:95.7ha
 
** 分区指定なし:56.4ha
 
 
 
=== 埠頭 ===
 
横浜港には、12か所の[[埠頭]]・[[桟橋]]がある。このうち、瑞穂埠頭は「[[横浜ノース・ドック]]」として[[在日米軍]]が現在も使用している。また、現在の[[横浜みなとみらい21|みなとみらい21]]中央地区の辺りにはかつて[[高島埠頭]]があった<ref>[http://hama80s.exblog.jp/18032360 高島埠頭](週刊 横濱80's ''2012年6月3日'')</ref><ref>[http://hama80s.exblog.jp/19710745/ 高島埠頭の市営上屋](週刊 横濱80's ''2013年5月19日'')</ref>。
 
[[ファイル:Port of Yokohama Landsat.jpg|thumb|right|450px|横浜港の[[ランドサット]]画像 <small>(※クリックして拡大)</small>]]
 
# [[新港 (横浜市)|新港埠頭]]<ref group="注">埠頭エリアは[[横浜みなとみらい21|みなとみらい21]]の新港地区にあたる。</ref>
 
# [[大さん橋]]
 
# [[山下埠頭]]
 
# [[本牧埠頭]]
 
# [[南本牧埠頭]]
 
# [[山内埠頭]]<ref group="注">埠頭エリア内に[[横浜市中央卸売市場本場]]および[[コットンハーバー地区]]がある。</ref>
 
# [[出田町|出田町埠頭]]
 
# [[横浜ノース・ドック|瑞穂埠頭]]
 
# [[大黒埠頭]]
 
# [[金沢木材埠頭]]
 
# みなとみらいさん橋([[ぷかりさん橋]])
 
# [[八景島]]さん橋
 
 
 
=== 岸壁 ===
 
* 公共及び旧公社(現・[[横浜港埠頭|横浜港埠頭株式会社]])バース数:101
 
* 民間バース数:166
 
* 合計:249バース
 
 
 
=== 港勢 ===
 
[[2004年]](平成16年)度
 
* 入港船舶数:42,252隻(うち外航船:11,214隻)
 
* 取扱貨物量:126,960千トン
 
* 貿易額:9兆8662億円
 
 
 
=== 港湾緑地 ===
 
末広緑地、末広水際線プロムナード、大黒ふ頭中央緑地、大黒ふ頭東緑地、大黒ふ頭西緑地、大黒ふ頭先端緑地、大黒ふ頭緑地、出田町ふ頭緑地、[[横浜国際平和会議場|国際交流ゾーン]]、[[臨港パーク]]、新港中央広場、新港パーク(''[[新港 (横浜市)#緑地整備|カップヌードルミュージアムパーク]]'')、[[日本丸メモリアルパーク]]、[[運河パーク]]、[[汽車道]]、[[赤レンガパーク]]、[[山下臨港線プロムナード]]、[[象の鼻パーク]]、山下ふ頭緑地、本牧ふ頭緑地、[[横浜港シンボルタワー]]、金沢木材ふ頭緑地、金沢水際線緑地、金沢福浦地区緑地、[[八景島]]緑地<ref group="注">緑地名称においては、横浜市などが公式に使用している「ふ頭」表記に従う。</ref>
 
 
 
== 航路 ==
 
* [[東海汽船]]
 
** [[東京港|東京(竹芝)]] - 横浜(大桟橋)- [[伊豆大島]] - [[利島]] - [[新島]] - [[式根島]] - [[神津島]]
 
* [[ポートサービス]]
 
** シーバス (横浜駅東口 - みなとみらい21ぷかり桟橋 - 赤レンガ倉庫 - 山下公園)
 
** 横浜港遊覧船 (みなとみらい21ぷかり桟橋・山下公園発着)
 
* 京浜フェリーポート
 
** 水上バス (大桟橋 - 日本丸 - 運河パーク)
 
** 横浜港遊覧船 (大桟橋・日本丸発着)
 
* [[レストラン船]]
 
** [[ロイヤルウイング]] - 横浜港クルーズ(大桟橋発着)
 
* [[クルーズ客船]]
 
** [[飛鳥II]](横浜を船籍港としている)
 
** [[ぱしふぃっくびいなす]]、[[にっぽん丸]]をはじめとする国内外のクルーズ客船が寄港する{{refnest|group="注"|横浜港は2017年7月に[[国土交通省]]より「国際旅客船拠点形成港湾」に指定されており、横浜市ではその拠点([[2025年]]整備目標)として大さん橋、新港埠頭、山下埠頭、本牧埠頭の4箇所を想定している<ref>[http://www.decn.co.jp/?p=96781 横浜市/国際旅客船拠点形成計画/超大型客船対応など受入機能強化](日刊建設工業新聞 2018年1月4日<small>〈5面〉</small>)</ref>。}}。
 
* チャータークルーズ
 
** [[ジール (船会社)|ジール]] - みなとみらい21ぷかり桟橋・東京(青海・天王洲)発着
 
<gallery widths="210" heights="150px">
 
ファイル:Camellia-Maru.jpg|かめりあ丸(東海汽船)
 
ファイル:Seabus.jpg|シーバス
 
ファイル:レストラン船ロイヤルウイング 横浜港.jpg|ロイヤルウィング
 
ファイル:Aska2 Kobe08s3200.jpg|飛鳥II
 
ファイル:Nipponmaru-Yokohama.JPG|にっぽん丸
 
</gallery>
 
 
 
== フィクション・作品の舞台 ==
 
* 『[[あぶない刑事]]』 - 劇中で新港埠頭・高島埠頭(当時)・大黒埠頭・本牧埠頭などが登場。
 
* 『[[探偵 神宮寺三郎シリーズ]]』 - [[ファミリーコンピュータ]]用ゲーム『[[探偵 神宮寺三郎 横浜港連続殺人事件]]』の舞台となった。
 
* 『[[レーシングラグーン]]』 - 劇中で本牧埠頭が[[走り屋]]チーム「ナイトレーサーズ本牧」の拠点として登場。高島埠頭が同じく走り屋チームの「高島ビクトリーロード」の本拠地として登場し[[チキンレース]]を行っていた。また、架空の埠頭「ベイラグーン埠頭」が登場しこちらは走り屋チーム「ベイラグーンレーシング」の本拠地として登場する。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
<references group="注" />
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考情報 ==
 
* [http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_465/yurin3.html 「有鄰」第465号-P3 座談会:東海道保土ヶ谷宿・軽部本陣](平成18年8月10日発行, [[有隣堂]])
 
 
 
===関連文献===
 
*{{Google books|7_VySQq5znsC|横浜開港側面史(横浜貿易新報社、1909年)|page=|plainurl=}}
 
*{{Google books|0LbTiQYulUMC|横浜港と其修築(内務省横浜土木出張所、1934年)|page=|plainurl=}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[条約港]]
 
* [[横浜市]]
 
* [[横浜開港祭]]
 
* [[臨港幹線道路|横浜港臨港幹線道路]]
 
* [[横浜みなとみらい21]]
 
* [[港の見える丘公園]]
 
* [[鶴見つばさ橋]]
 
* [[京浜工業地帯]]
 
* [[高島線]]
 
* [[ボート・トレイン]]
 
* [[交換船]]
 
* [[横浜ノースドック]]
 
* [[日本丸 (初代)]]
 
* [[横浜道]]・[[馬車道 (横浜市)|馬車道]]
 
* [[横浜港シンボルタワー]]
 
* [[港湾職業能力開発短期大学校横浜校]]
 
* [[メガターミナルオペレーター]]
 
* [[マリア・ルス号事件]]
 
* [[オナガドリ]]([[:en:Yokohama (chicken)]])
 
  
== 外部リンク ==
+
[[神奈川県]]東部,[[横浜市]]の[[東京湾]]岸に連なる港湾。首都東京の外港,[[京浜工業地帯]]の主要港として,荷扱い高は日本第1位である。港域は北は[[川崎市]]との境である境運河から,南は[[横須賀市]]夏島町地先までと,市の海岸線のほぼ全域に及ぶ。中央は商業港区で瑞穂埠頭,新港埠頭,大桟橋埠頭,山下埠頭,本牧埠頭などの公共埠頭があり,北東部と南部は工業港区で多数の企業専用埠頭がある。江戸時代末の開港以来,東日本最大の港として西の[[神戸港]]と並んで発展を続け,特に絹の輸出では独占的地位にあった。また外国航路の発着点としてもにぎわった。[[関東大震災]]をきっかけに東京港が開かれ,さらに第2次世界大戦の空襲で港湾施設が破壊され,戦後は連合軍に接収されて,地位は低下した。首都圏と京浜工業地帯を控えて,工業原料と食料品の輸入が多いが,1960年代に入ると,重化学工業の発達により原油,鉄鉱石の輸入が増えた。また南部の根岸湾,[[本牧岬]]の地先に新たに埋立地が造成されるなどして,工業港の比重が増大。1967年には本牧埠頭に海上コンテナ輸送の基地が設けられた。客船専用の大桟橋埠頭は春と秋には観光クルーズの大型旅客船が入港してにぎわう。山下公園,港の見える丘公園,横浜ベイブリッジなどの名所,観光地があり,横浜駅東口から桜木町にかけての臨海部には,[[みなとみらい21]]地区が広がる。
{{Commons|Category:Port_of_Yokohama}}
 
* [http://www.city.yokohama.lg.jp/kowan/guide/ 横浜市港湾局:横浜港のご案内]
 
* [http://www.yokohamaport.co.jp/facilities/yokohama/ 横浜港埠頭株式会社:横浜港 概要]
 
* [http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/keihin/index.html 国土交通省関東地方整備局 京浜港湾事務所]
 
<!--* [http://www.yokohama-customs.go.jp/ 財務省 横浜税関](リンク切れ)-->
 
* [http://www.kaikou.city.yokohama.jp/index.html 横浜開港資料館]
 
* [http://www.yokohamaport.org/portal/index.html 横浜港ポータルサイト]
 
* 国立公文書館デジタル・ギャラリー「[http://jpimg.digital.archives.go.jp/jpg_prg/jgmWeb.dll?TmpFileDisp4?si=0&md=0&ql=10&env=jpeg2k_images/ezu/kaigan_jissokuzu/028_yokohama.env&l=8&cy=7715&cx=6400&dy=800&dx=1200&i=lossy/kouseisai/ezu/kaigan_jissokuzu/t77o_1_1_28.jp2&file=temp_kuniezu.html 大日本海岸実測図 武蔵国横浜湾(明治6年<small>(1873年)</small>測量)]
 
  
{{Port of Yokohama}}
+
{{テンプレート:20180815sk}}
{{開港五港}}
 
{{指定特定重要港湾}}
 
{{特定港}}
 
  
 
{{デフォルトソート:よこはまこう}}
 
{{デフォルトソート:よこはまこう}}

2019/4/28/ (日) 22:28時点における最新版

横浜港(よこはまこう)

神奈川県東部,横浜市東京湾岸に連なる港湾。首都東京の外港,京浜工業地帯の主要港として,荷扱い高は日本第1位である。港域は北は川崎市との境である境運河から,南は横須賀市夏島町地先までと,市の海岸線のほぼ全域に及ぶ。中央は商業港区で瑞穂埠頭,新港埠頭,大桟橋埠頭,山下埠頭,本牧埠頭などの公共埠頭があり,北東部と南部は工業港区で多数の企業専用埠頭がある。江戸時代末の開港以来,東日本最大の港として西の神戸港と並んで発展を続け,特に絹の輸出では独占的地位にあった。また外国航路の発着点としてもにぎわった。関東大震災をきっかけに東京港が開かれ,さらに第2次世界大戦の空襲で港湾施設が破壊され,戦後は連合軍に接収されて,地位は低下した。首都圏と京浜工業地帯を控えて,工業原料と食料品の輸入が多いが,1960年代に入ると,重化学工業の発達により原油,鉄鉱石の輸入が増えた。また南部の根岸湾,本牧岬の地先に新たに埋立地が造成されるなどして,工業港の比重が増大。1967年には本牧埠頭に海上コンテナ輸送の基地が設けられた。客船専用の大桟橋埠頭は春と秋には観光クルーズの大型旅客船が入港してにぎわう。山下公園,港の見える丘公園,横浜ベイブリッジなどの名所,観光地があり,横浜駅東口から桜木町にかけての臨海部には,みなとみらい21地区が広がる。



楽天市場検索: