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{{日本の歴史|MIKASAPAINTING.jpg|180px|画像説明=[[1905年]](明治38年)<br>[[日露戦争]]の[[日本海海戦]]}}
 
'''明治'''(めいじ)は[[日本]]の[[元号]]の一つ。[[慶応]]の後、[[大正]]の前。[[新暦]][[1868年]][[1月25日]]([[旧暦]][[慶応]]4年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]/明治元年1月1日)から[[1912年]](明治45年)[[7月30日]]までの期間を指す。日本での[[一世一元の制]]による最初の元号。[[明治天皇]]在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に[[改元]]の[[詔書]]が出されたのは新暦1868年[[10月23日]](旧暦慶応4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]])で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。
 
  
== 改元 ==
+
'''明治'''(めいじ)
{{Wikisource|今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書}}
 
* [[1868年]][[10月23日]]([[慶応]]4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]])- [[明治天皇]]の[[即位]]による[[改元]]。
 
** ただし、改元の[[詔書]]には「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて明治元年と為す)とあり、改元が年の呼称を改めるということから、慶応4年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]](1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。また、[[一世一元の詔]]も併せて出され、天皇在位中の改元は行わないものとした。
 
** 「元号247総覧」(著者:[[山本博文]][[東京大学]]史料編纂所教授)によると、[[松平春嶽]]に新元号が委ねられ、いくつかの案を出し、明治天皇がくじ引きで明治を選んだ。
 
* [[1912年]](明治45年)[[7月30日]]([[1873年]](明治6年)にグレゴリオ暦を施行)- [[明治天皇]]の[[崩御]]と[[大正天皇]]の即位([[践祚]])により、[[大正]]と改元。同日施行され、大正元年7月30日となった。
 
  
== 出典 ==
+
[[日本]][[元号]]の一つ。[[慶応]]の後、[[大正]]の前。[[新暦]][[1868年]][[1月25日]]([[旧暦]][[慶応]]4年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]/明治元年1月1日)から[[1912年]](明治45年)[[7月30日]]までの期間を指す。日本での[[一世一元の制]]による最初の元号。[[明治天皇]]在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に[[改元]]の[[詔書]]が出されたのは新暦1868年[[10月23日]](旧暦慶応4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]])で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。
[[易経]]』の「聖人南面而聴天下、嚮'''明'''而'''治'''」より。
 
 
 
「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)ひて治む」というこの言葉は、過去の改元の際に[[江戸時代]]だけで8回、計10回候補として勘案されているが、通算11度目にして採用された。[[岩倉具視]]が[[松平春嶽|松平慶永]]に命じ、[[半家_(公家)#菅原氏(6家)|菅原家]]から上がった佳なる勘文を[[籤]]にして、宮中[[賢所]]で天皇が自ら抽選した<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917908/207 維新史 第5巻(維新史料編纂事務局)]</ref>。聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まるという意味である<ref>[http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/07.html 「明治」の由来は何ですか?] 明治神宮 Q&A </ref>。
 
 
 
== 新暦の実施 ==
 
{{main|グレゴリオ暦}}
 
[[1873年]](明治6年)より、[[和暦|日本の暦]]は[[改暦]]され、[[新暦]]に[[太陽暦]]([[グレゴリオ暦]])を採用した。従来の暦は[[太陰太陽暦]]に基づく[[天保暦]]で、以後、日本で単に[[旧暦]]と言えば天保暦を指す<ref group="注釈">厳密には、天保暦による日付と現在一般に「旧暦」として流布する日付は、わずかにずれる。詳しくは、[[旧暦#日本]]を参照。</ref>。
 
 
 
改暦は、具体的には、天保暦(旧暦)の明治5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]の翌日を、新暦の明治6年1月1日とすることで実施した。これにより、[[西暦]](グレゴリオ暦)と[[和暦]]の日付が一致することとなった<ref group="注釈">ただし、[[西暦]]についても、ユリウス暦からグレゴリオ暦への移行は国ごとに異なっていることを念頭に置く必要がある。例えば、ヨーロッパでも、ロシアがグレゴリオ暦を実施したのは1918年2月14日、同じくギリシアは1923年3月1日など、日本よりも遅い。</ref>。
 
{|class=wikitable
 
|+日付対応表
 
|-
 
!colspan="2"|[[和暦]]!!colspan="2"|[[西暦]]!!rowspan="2"|[[ユリウス通日]]
 
|-
 
![[天保暦]]<br />([[旧暦]])!!現行暦<ref group="注釈">法令上、日本の現行暦はグレゴリオ暦そのものではなく、[[神武天皇即位紀元]](皇紀)を元にした暦である([[wikisource:ja:閏年ニ關スル件|閏年ニ關スル件]](明治31年勅令第90号))。もっとも、グレゴリオ暦の特長である[[閏年]]の計算は、神武天皇即位紀元年から660を減じた年数(グレゴリオ暦の年数に等しい)を元に行う。そのため、日本の現行暦はグレゴリオ暦と実質的に同じ暦となる。</ref><br />([[新暦]])!![[ユリウス暦]]<br />(旧暦)!![[グレゴリオ暦]]<br />(新暦)
 
|-
 
|align="center"|明治5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]||align="center"| なし
 
|1872年12月19日(火曜日)||1872年12月31日(火曜日)||2405159
 
|-
 
|align="center"|([[12月3日 (旧暦)|12月3日]])||明治6年1月1日(水曜日)||1872年12月20日(水曜日)||1873年1月1日(水曜日)||2405160
 
|-
 
|align="center"|([[12月4日 (旧暦)|12月4日]])||明治6年1月2日(木曜日)||1872年12月21日(木曜日)||1873年1月2日(木曜日)||2405161
 
|}
 
 
 
== 明治時代 ==
 
[[画像:Meiji Emperor.jpg|thumb|200px|[[明治天皇]]]]
 
明治天皇が即位し、新政府は[[天皇]]を中心とした新しい国家体制を築くことを目指して、[[江戸]]を[[東京]]と改め、天皇が東京に[[行幸]]し、明治2年(1869年)に政府が[[京都]]から東京に移された([[東京奠都]])。この明治天皇の治世が'''明治時代'''と呼ばれている。明治政府の樹立に大きな役割を果たした[[薩長土肥]]四藩は新政府でも強大な権力を握った。なお、[[幕末]]には薩長と共に[[尊王攘夷]]運動を主導してきた[[水戸藩]]は「[[天狗党]]」と「[[諸生党]]」の藩内抗争で人材が失われ、明治新政府ではめぼしい人材は皆無となった。
 
 
 
[[尊皇思想]]に基づき、[[天皇]]は[[親政]]を行い人民を直接統治するとした。しかし、[[1890年]](明治23年)に[[大日本帝国憲法]](明治憲法)が施行されるまでは、明治天皇は青年期であり、天皇以外にも[[薩摩藩]]や[[長州藩]]の出身者が政治の実権を握っていた。明治改元の時には、[[明]]朝中国を模倣して[[一世一元の制]]を定め、天皇の名(厳密には[[追号]])を[[元号]]として、それまでの[[陰陽五行思想]]的改元を廃止した。
 
 
 
この明治時代は、欧米[[列強]]の[[植民地]]化を免れるために[[近代化]]を推進した時代であり、[[世界史]]的に見れば、日本の'''[[産業革命]]時代'''である。西洋化と[[近代化]]が[[幕末]]から始まって明治年間で達成されたことから、「'''幕末・明治'''」と括られることも多い。なお、「幕末・明治」という括りは、[[不平等条約]]の締結([[1854年]](安政元年))から完全撤廃([[1911年]](明治44年))までの時代とほぼ一致する。[[中央集権]]的な[[王政復古]]の過程から「'''王政維新'''」ともいわれる。また、[[1870年代]](明治初期)は[[文明開化]]を略し「'''開化期'''」とも呼ばれている。
 
 
 
=== 明治維新 ===
 
{{See also|明治維新}}
 
[[1867年]](慶応3年)に[[江戸幕府]]15代将軍・[[徳川慶喜]]が朝廷に対し[[大政奉還]]を行った。これにより朝廷は、[[玉松操]]と[[大久保利通]]らが作成した「'''[[王政復古の大号令]]'''」を宣言。[[1868年]](明治元年)1月、京都付近において薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と旧[[幕臣]]や会津・[[桑名藩]]兵を中心とする旧幕府軍との間に武力衝突が起こった([[鳥羽・伏見の戦い]])。これに勝利を収めた新政府軍は[[徳川慶喜]]を[[朝敵]]として追討し、[[二条城]]に退去していた[[会津藩]]・[[桑名藩]]・[[旗本]]は[[辞官納地]]の命令により、徳川慶喜と共に[[大坂城]]に退いた。徳川慶喜は[[薩摩藩]]の罪状を弾劾した「[[討薩表]]」を提出して京都に進軍したが朝敵となって討伐され、大坂城を軍艦・[[開陽丸]]で脱出し、[[江戸城]]へ逃亡。新政府軍は[[江戸]]へ軍を進めた。[[大久保一翁]]や[[山岡鉄舟]]の尽力もあって新政府軍を代表する[[西郷隆盛]]と旧幕府軍を代表する[[勝海舟]]との交渉が成功し、同年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]](新暦[[5月3日]])、江戸は戦火を交えることなく新政府軍により占領された([[江戸開城]])。東北諸藩も[[奥羽越列藩同盟]]を結成して[[会津藩]]を助けたが次々に新政府軍に敗れ、[[7月29日]]に[[越後]][[長岡城]]落城、同年9月22日には激しい戦闘の末に[[会津若松城]]が落城して会津藩も降伏。次いで[[庄内藩]]が降伏すると、[[1869年]][[6月27日]](明治2年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]])には、旧[[幕府海軍]]を率いて[[箱館]]を占領していた[[榎本武揚]]らが[[箱館戦争|五稜郭の戦い]]に敗れて降伏し、ここに[[戊辰戦争]]は終結した。
 
 
 
[[賞典禄]]を受けた「'''[[幕末の四賢侯|四賢侯]]'''」を中心とする[[討幕]]派[[大名]]および「'''[[維新の十傑]]'''」に代表される下級藩士や[[三条実美]]・[[東久世通禧]]ら[[七卿落ち]]事件に連座していた開明派の[[公家]]を中心として発足した新政府は[[封建制|封建的支配制度]]を解体し、天皇を中心とした'''[[中央集権]]的国家体制'''の基礎を固めていった。幕府や[[摂政]]、[[関白]]、[[征夷大将軍]]、[[内覧]]、[[議奏]]、[[京都守護職]]、[[所司代]]などは廃止され、それに代わり[[九条家]]に[[太政官代]]が置かれ、[[総裁]]・[[有栖川宮熾仁親王]]、[[議定]]、[[参与]]の三職および神祇・内国・外国・陸海軍・会計・刑法・制度の行政七科、[[徴士]]・[[貢士]]が置かれたが、下級藩士の実力者達は公家や雄藩の大名たちと並んで新政府に加わった。[[薩摩藩]]・[[土佐藩]]・[[安芸藩]]・[[尾張藩]]・[[越前藩]]五藩軍隊の[[京都御所]]警備の下、成立当日の夜の[[小御所会議]]で激論の末、[[徳川慶喜]]に[[内大臣]]の官職と領地の返上([[辞官納地]])を命じることを決めた。ここに、700年の[[武家政治]]の諸法度は、終焉した。
 
 
 
戊辰戦争のさなかの1868年(慶応4年)3月には、[[由利公正]]・[[福岡孝弟]]の起草により天皇が群臣を従えて神々に誓うという形式で「'''[[五箇条の誓文]]'''」を定め、[[公議輿論]]の尊重、開国親和など新しい政治理念の基本を宣言した。翌日に「[[五榜の掲示]]」を掲げた。その内容は[[五倫]]の道(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の道徳)を説き、徒党・強訴・[[キリスト教]]を禁止するなど旧幕府の政策を引き継いだものであったが、数年以内に廃止された。閏4月21日には五箇条の御誓文を受けて「[[政体書]]」を公布。[[太政官]]の下に上局と下局から成る二院制の[[議定官]]が置かれ、上局は[[議定]]と[[参与]]から、下局は各藩と藩から送られた[[貢士]]で構成した<ref group="注釈">幕府直轄領は新政府の支配下に置き、大名領は藩のまま。[[福澤諭吉]]の『[[西洋事情]]』や米国憲法を参考にした。</ref>。次いで政府は[[太政官]]・[[神祇官]]と呼ぶ[[官吏]]制度を整えた。天皇親政の下に、公家や藩主に並んで参与に任じられた9藩士、[[小松帯刀]]([[薩摩藩]])・[[大久保利通]](薩摩藩)・[[木戸孝允]]([[長州藩]])・[[広沢真臣]](長州藩)・[[後藤象二郎]]([[土佐藩]])・[[福岡孝弟]](土佐藩)・[[副島種臣]]([[佐賀藩]])・[[横井小楠]]([[熊本藩]])・[[由利公正]]([[福井藩]])の9名は「'''[[朝臣]]'''」となり、藩主から独立した地位を得た<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 140ページ</ref>。
 
<gallery class="center">
 
Komatu Tatewaki.jpg|{{center|[[小松清廉|小松帯刀]]}}
 
Toshimichi Okubo 4.jpg|{{center|[[大久保利通]]}}
 
Takayoshi Kido suit.jpg|{{center|[[木戸孝允]]}}
 
Hirosawa Saneomi.jpg|{{center|[[広沢真臣]]}}
 
Goto Shojiro.jpg|{{center|[[後藤象二郎]]}}
 
Fukuoka Takachika.jpg|{{center|[[福岡孝弟]]}}
 
Taneomi Soejima NLD portrait.jpg|{{center|[[副島種臣]]}}
 
Portrait of Yokoi Shonan.jpg|{{center|[[横井小楠]]}}
 
Kimimasa Yuri 3.jpg|{{center|[[由利公正]]}}
 
</gallery>
 
 
 
=== 東京奠都・版籍奉還・廃藩置県 ===
 
[[画像:武州六郷船渡図 Bushu Rokugo funawatashi no zu.jpg|thumb|right|230px|明治天皇の東京行幸]]
 
[[画像:Magokoro10-1-4.jpg|thumb|right|230px|廃藩置県]]
 
人心を一新するため同年9月8日(1868年10月23日)には[[年号]]を'''明治'''と改めて、天皇一代の間一年号とする一世一元の制を立てた。4月11日の江戸開城後の関東農民一揆を抑えるため、[[東征大総督府]]軍監・[[江藤新平]]は、閏4月1日に「江戸を東京と改め天皇を迎えたい」と[[岩倉具視]]に建言。これに、前[[内大臣]]・[[久我建通]]ら京都守旧派の公卿が相次いで反発したため、[[大久保利通]]が「'''[[大坂遷都論]]'''」を建言し、閏3月11日に天皇が関東親征のため、[[大坂]]に行くという形で部分的に遷都の準備に取り掛かった<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 134ページ</ref>。これに、京都市民や[[神道家]]が反発し、伊勢神宮祠官・[[山田大路陸奥守親彦]]が天皇東行の中止を朝廷に申し入れたが、7月17日に江戸は[[東京]]と改称され、[[鎮将府]]、[[東京府]]設置の政府決定が発表され、鎮将府参与に任ぜられた大久保利通と鎮将の[[三条実美]]が[[駿河]]以東の13ヶ国を管轄し、[[京都]]と[[東京]]に2つの政府が並立する形となった<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 142ページ</ref>。
 
 
 
江戸の東京への改称後、[[即位の礼#明治天皇の即位の礼・大嘗祭|8月27日に即位式]]を挙げた[[明治天皇]]が[[京都]]から東京に移った(9月20日京都出発、10月13日東京着)ことを始め、10月13日江戸城を[[皇居]]とし、東京城と改称した。天皇は12月8日に、東京を発って京都に帰ったが、同年11月、[[姫路藩]]主[[酒井忠邦]]が「藩の名称を改め、すべて府県と一般同軌にして、中興の盛業を遂げられたい」<ref group="注釈">藩が持っているものを全部朝廷に返し、それをうまく利用して新しい国家作りに役立てて貰いたい</ref>という案を出してきた他、木戸孝充が此の案を取り上げた<ref>半藤一利著 『幕末史』 新潮社 2008年 373ページ</ref>。12月22日京都[[還幸]](翌明治2年3月、再度東幸、事実上の東京遷都)。翌年1869年(明治2年)2月には政府の諸機関も東京に移された。これら一連の動きは当時'''御一新'''と呼ばれた。<ref group="注釈">1869年(明治2年)春には、議定は16人、参与は14人に増加したが後に整理が行われた。当時の狂歌に「上からは明治だなどといふけれど、治まるめい(明)と下からは読む」と謳われ、非常に惨憺たる調子で明治政府は始まった</ref><ref>半藤一利著 『幕末史』 新潮社 2008年 370-371ページ</ref>
 
 
 
新政府は未だ財政的・軍事的・制度的基礎が固まっておらず、大久保・木戸らの策謀に強い憤りを抱いていた土佐藩主・[[山内容堂]]や自らを出し抜いた家臣に反感を抱いていた薩摩藩主の[[島津久光]]や[[長州藩主]]の[[毛利敬親]]らは早々に[[所領]]に引き篭もった。長州藩において1869年(明治2年)[[12月1日]]には[[大楽源太郎]]率いる[[奇兵隊]]や[[遊撃隊 (長州藩)|遊撃隊]]が乱を起こし、[[1870年]](明治3年)7月26日に[[薩摩藩]]士・[[横山安武|横山正太郎]]が[[集議院]]門前で抗議の[[切腹]]を行い、[[1871年]](明治4年)には[[二卿事件]]が勃発した。このように新政府がその基盤を置いた薩長でさえも、洋式装備に統一され実戦的訓練を受けた軍隊を擁しており、成立間もない新政府にとって不気味な存在であった。ましてや[[静岡藩]]を初めとする[[親藩]]・[[譜代]]の諸藩の動静には過敏になっていた。その結果、小規模な蜂起反乱が勃発し、新政府は[[横井小楠]]・[[大村益次郎]]を早々に失い[[雲井龍雄]]処刑の責任者・[[広沢真臣]]が1871年(明治4年)に暗殺されるなど片翼飛行を始めた。
 
 
 
[[木戸孝允]]・[[大久保利通]]らは1869年(明治2年)[[6月17日]]から25日にかけ、諸大名に命じて領地の領民を天皇に返上させ('''[[版籍奉還]]''')、各[[藩主]]は[[藩知事]]に任命し、[[公卿]]・諸侯の呼称を廃して[[華族]]と改称し、上・中・下士の区別をやめ全て[[士族]]とした。また、知事の[[家禄]]を石高の十分の一に限定し、藩政と知事家政を分離した。これにより、建前として知事と士族の間の君臣関係が消滅し、各藩は済し崩し的に自立性を奪われて明治政府の地方行政単位に転化した<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 159ページ</ref>。ここに、廃藩と封建制度廃止の決定段階が築かれた。版籍奉還直後の[[7月8日]]に、[[職員令]]により管制を改革し、[[祭政一致]]を建前に[[神祇官]]、[[太政官]]を置いて前者を上位とし、太政官に[[左大臣]]と[[右大臣]]、[[大納言]]、[[参議]]、顧問として[[待詔院]]を置いた。政体書の規定を以て高官公選の互選も行われ、[[輔相]]には[[三条実美]]([[公家]])、[[議定]]には[[岩倉具視]](公家)、[[鍋島直正]]([[佐賀藩]]主)、[[徳大寺実則]]([[公卿]])、[[参与]]には[[大久保利通]]([[薩摩藩]]士)、[[木戸孝允]]([[長州藩]]士)、[[副島種臣]](佐賀藩士)、[[東久世通禧]](公家)、[[後藤象二郎]]([[土佐藩]]士)、[[板垣退助]](土佐藩士)の10名を選出した。9月に入ると王政復古の論功行賞として「[[賞典禄]]」を与えた。
 
 
 
1870年(明治3年)9月に政府は「[[藩制]]」を公布。諸藩に共通する職制、財政の規定を示し、重要な賞罰は政府の許可を得ることや、藩士身分の単純化、[[藩債]]、[[藩札]]の整理を命じた。[[11月29日]]には、全国諸藩の注視を集め、藩地に帰郷した[[島津久光]]と藩政改革を通して[[薩摩藩]]の軍備強化に努め、全国から集結した[[士族]]約1万2000人の兵士大軍団を束ね、政府への無言の威圧となっていた薩摩藩士・[[西郷隆盛]]を説得するため、[[岩倉具視]]を勅使、随員として[[大久保利通]]と[[木戸孝允]]が島津久光と西郷隆盛の上京を求めて鹿児島に向かい、西郷隆盛の受諾を得て政権を安定させた<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 172ページ</ref>。
 
 
 
1871年(明治4年)7月にまず[[薩長土]]の3藩から[[御親兵]]を募って中央の軍事力を固め、次いで一挙に'''[[廃藩置県]]'''を断行した。全国の261藩は廃止され、3[[府]]302[[県]]に変わり、日本は'''中央集権的統一国家'''となった。[[藩知事]]と[[士族]]の[[禄]]は保障され、藩債を肩代わりした。身分制度の改革を行い、[[大名]]・[[公家]]を[[華族]]とする華族制度の創設と、[[武士]]身分を[[士族]]として、農工商民([[百姓]]・[[町人]])などを[[平民]]とし、[[日本国民]]全員に[[苗字]]の公称を認めた[[士農工商|四民(士農工商)平等]]政策を取った。[[戸籍法]]を制定し、華族・士族の[[散髪]]、[[脱刀]]並びに華士族平民間[[通婚]]を自由にし、[[田畑]]勝手作りを認め、[[府県官制]]制定を行い華士族の農工商従事を許可した。[[1871年]](明治4年)には、いわゆる[[解放令]]によってこれまで[[穢多|えた]]、[[非人|ひにん]]とされていた[[賎民]]の人々も平民に編入された。<ref group="注釈">一方、[[家族制度]]については、それまでの武士階級の慣習に則り、[[1876年]](明治9年)に「婦女は結婚してもなお所生の氏(婚姻前の氏)を用いること」、すなわち[[夫婦別姓]]が原則とされるなど、現代とは異なる。夫婦同氏の原則に移行したのは[[1898年]](明治31年)に明治[[民法]]が制定されてからである。</ref>。
 
 
 
=== 明治国家の形成 ===
 
[[1869年]](明治2年)に、[[律令制度]]の行政機構を復活させ、役所機構を整備して[[宮内省]]・[[民部省]]・[[大蔵省]]・[[刑部省]]・[[兵部省]]・[[外務省]]の六省を設置したが、律令体制時代に存在した[[中務省]]・[[式部省]]・[[治部省]]の三省は復活設置されなかった。しかし、[[戸籍]]、[[土木]]、[[租税]]、[[駅逓]]、[[通商]]、[[鉱山]]を管轄する[[民部省]]と[[出納]]、[[秩禄]]、[[造幣]]、[[営繕]]を管轄する[[大蔵省]]の民蔵両省の[[官吏]]は、[[財政]]及び[[貿易]]問題で[[外国人]]と接する機会が多く、また職務が実質的合理的思考を必要としたので、[[1870年]](明治3年)4月に太政官が旧朝敵藩の贖罪金免除に大蔵省が反発するなど、しばしば両省の争いが政府内の紛乱の種となった<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 168ページ</ref>。しかし、後に民部省が大蔵省に統合されると、大蔵省に産業、財政の強大な権力権限が集中し、[[官僚]]社会に強固な勢力を築き上げた。
 
 
 
軍事上の改革では[[民部省]]大輔兼[[軍務官]]副知事の[[大村益次郎]](長州藩士)が「農民を募り親兵」とする[[国民皆兵]]による政府軍を作る計画を進め、[[1873年]](明治6年)1月10日、[[陸軍卿]][[山県有朋]]を中心に[[徴兵令]]を公布し身分に関わり無く[[満年齢|満]]20歳以上の男子に兵役の義務を課した([[戸主]]は徴兵を免除され、主として[[戸主]]以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担ったため、[[血税一揆]]が起きた)。兵役は3カ年。軍隊に直接入らない者も、17歳から40歳までの男はことごとく兵籍を与えられ戦争があるときは呼び出されることとなった。国民皆兵の原則である。この原則が1873年から1945年の敗戦まで72年間、日本の男の生活を支配した。また、当然ながら女性の生活も支配した。しかし、金のある者は例外となった<ref>鶴見俊輔著 『御一新の嵐』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房 2001年 238ページ</ref>。治安面では[[1874年]](明治7年)東京に[[警視庁 (内務省)|警視庁]]を置いた。華族・士族は廃藩置県後も政府から家禄を支給されていたが、[[1876年]](明治9年)[[金禄公債]]を支給してそれを年賦で支払うこととし、一切の家禄支給を停止した([[秩禄処分]])。これにより[[士族]]の地位は著しく下がった。
 
 
 
外交では1871年(明治4年)11月12日、[[不平等条約]]改正の予備交渉と欧米先進国の文物の調査を目的に、[[岩倉具視]]を全権大使、[[大久保利通]]と[[木戸孝允]]を全権副使とする大規模な使節団を欧米諸国に派遣した。この[[岩倉使節団]]には[[伊藤博文]]・[[山口尚芳]]ら中堅官吏が随行し、1年9ヶ月にわたって12カ国を訪問した。その目的の一つであった[[不平等条約]]の改正は成功しなかったが、政府は西洋文明の実態に触れ[[近代化#日本の近代化|日本の近代化]]を推し進める大きな原動力となった。新政府は、日朝国交正常化のため、[[李氏朝鮮]]に外交使節を送ったが、李氏朝鮮は徹底的な鎖国政策を採り、[[大院君]]政府は何の返事もしてこなかった。次いで、[[釜山]]にある日本公館に対して生活物資搬入妨害するなど、朝鮮側が日本を非難する事件が起こった。これらの理由から1873年(明治6年)夏から秋にかけていわゆる「[[征韓論]]」の論争が起こり、問題が大きくなっていた。6月12日に初めて閣議の議題に上った<ref group="注釈">征韓論はこの時期に突然起こったのではなく幕末からあった。学者や政治家では、国防論の元祖[[林子平]]、[[会沢正志斎]]、吉田松陰、橋本左内、藤田東湖なども大いに関心をもっていた。そして、幕末の志士といわれる人たちの共通の課題であった。だから大君院国家に厳重抗議し、いざとなったら叩き潰すくらいの覚悟を持たなくてはならないという共通意識が前々から定着しつつあった。そのような考えを踏まえて西郷隆盛は、自分が行って厳重抗議してこよう。それでも言うこと聞かないなら戦いも辞さないという強硬論を唱えた</ref><ref>半藤一利著 『幕末史』 新潮社 2008年 414-428ページ</ref>。そこで、政府は8月17日の閣議で[[西郷隆盛]]の朝鮮派遣使節任命を決めた。
 
[[画像:Seikanron2.jpg|thumb|300px|征韓議論図
 
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{{small|中央左に[[岩倉具視]]、中央右に[[西郷隆盛]]、右に[[江藤新平]]}}]]
 
欧米諸国の[[朝鮮]]進出を警戒して、[[西郷隆盛]]・[[板垣退助]]らは朝鮮の開国を迫り'''[[征韓論]]'''を唱えた。しかし、1873年(明治6年)欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らは国内改革の優先を主張してこれに反対した([[明治六年政変]])<ref group="注釈">明治維新の年、天皇は16歳だった。新政府の建設は、年少天皇が自ら指揮を執ることのないままに、天皇の名前によって進められていった。1873年(明治6年)10月24日の征韓論不採用の決定は、明治天皇が自らの意見で決定を下した最初の例だといわれる</ref><ref>鶴見俊輔著 『御一新の嵐』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房 2001年 262ページ</ref>。西郷・副島・後藤・板垣・江藤ら5参議が下野したのち、[[江華島事件]]が勃発して1876年(明治9年)[[日朝修好条規|日朝修好条規(江華条約)]]を結んで朝鮮を開国させた。また、[[清|清国]]に対しては1871年(明治4年)[[日清修好条規]]を結んで[[琉球藩]]を置き、1874年(明治7年)[[台湾]]に出兵した([[征台の役]])。次いで[[1879年]](明治12年)[[沖縄県]]を設置した。ロシアに対しては[[1875年]](明治8年)に[[樺太・千島交換条約]]を結び、[[樺太]]をロシア領、[[千島列島]]を日本領と定めた。また[[小笠原諸島]]・[[尖閣諸島]]・[[竹島 (島根県)|竹島]]も日本の領土とし、日本の領域をいったん確定した。
 
 
 
内国行政では、[[留守政府]]が1872年(明治5年)2月に田畑永代売買解禁、4月に[[庄屋]]、[[名主]]を[[戸長]]と改称、7月に全国一般に[[地券]]発行を行い、帰国した大久保利通は1873年(明治6年)に[[内務省 (日本)|内務省]]を設置、[[殖産興業]]の育成に力を入れて[[お雇い外国人]]らを用いて[[富岡製糸場]]など多くの[[官営工場]]を設立した。財政面では、[[民部省]]を統合した[[大蔵省]]の大蔵卿・大久保と大蔵大輔・[[井上馨]]が[[改正局]]を設立して、井上直属の部下の[[渋沢栄一]]を[[掛長]]に抜擢し、1871年(明治4年)には各藩の[[藩札]]等を廃止して[[新貨条例]]を制定、貨幣の単位を[[円 (通貨)|円]]・[[銭]]・[[厘]]に統一した。[[1872年]](明治5年)に[[国立銀行条例]]を制定し[[国立銀行 (明治)|国立銀行]]を各地に作らせた。[[蝦夷地]]は[[北海道]]と改められて'''[[開拓使]]'''を置き、[[屯田兵]]などと共に本格的な開拓事業を展開した。通信では江戸時代の[[飛脚]]制度にかわり、まず[[三府]](東京・京都・大阪)で1871年(明治4年)[[郵便]]事業が開始され、[[電信]]も1869年(明治2年)に東京-[[横浜市|横浜]]間で開通した。運輸関連では1872年(明治5年)[[汐留駅 (国鉄)|新橋]]-横浜間で官営の[[鉄道]]が開通した。海運事業は政府の保護の下に[[三菱商会]]を中心に発達した。建築等も[[煉瓦造]]の建物が見られるようになり、家々には[[石油ランプ]]がともされて街灯には[[ガス灯]]が登場、[[馬車]]や[[人力車]]が走るようになった。軍服には[[洋服]]が採用され、政府官吏が順次服装を西洋化していった。
 
 
 
[[司法]]面では[[法治主義]]と[[司法権]]の自立、[[三権分立]]を推進するため、初代[[司法卿]]・[[江藤新平]]がその任に当たったが、留守中の長州藩の首領・[[近衛都督]][[山縣有朋]]が、[[陸軍省]][[御用商人]]・[[山城屋和助]]の公金費消事件に関わったとされる[[山城屋事件]]、[[大蔵大輔]]・[[井上馨]](長州藩士)が職権を濫用して民間人から[[尾去沢銅山]]を巻き上げた事件([[尾去沢鉱山#尾去沢銅山事件|尾去沢銅山事件]])、長州藩出身の[[京都府]]参事・[[槇村正直]]の人民への圧政などを激しく追及、[[裁判所]]設立予算を巡る対立も絡んで3人を一時的に辞職に追い込むなどして[[長州]]閥を一掃したことで江藤は次第に政府内から煙たがられる存在となり、[[留守政府]]の五[[参議]]([[西郷隆盛|西郷]]・[[江藤新平|江藤]]・[[板垣退助|板垣]]・[[後藤象二郎|後藤]]・[[副島種臣|副島]])免職の発端の一つになった。
 
 
 
1876年(明治9年)7月28日には新政府の費用を作り出すため「[[地租改正]]」条例を公布し、[[農地]]の値段を定めて豊作・凶作に関係なく[[地租]]を[[地価]]の3%と定め、土地所有者に現金で納めさせることにした。[[地主]]は土地所有を法的に認められるようになった。しかし地主と[[小作人]]の関係は変わらず、小作人はこれまで通り小作料を現物で地主に納めさせた。自作と小作農は負担がそれまでより軽くならないで苦しい立場に置かれることになった。地主は他の農民の土地を買い、それらの土地をお金に換えて資産を増やしていった。そして一部は土地を処分して資本家に変わっていった。やがて土地を耕すことはすべて小作人に任せ、お金だけ受け取って都市部で暮らす不在地主が増えていった<ref>鶴見俊輔著 『御一新の嵐』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房 2001年 237-238ページ</ref>。徴兵令に対する不満と地租改正に反対して百姓一揆がしばしば起こり、1876年(明治9年)に[[三重県]]で発生した[[伊勢暴動]](東海大一揆)、茨城県などの[[地租改正反対一揆]]などを受けて翌年地租率を2.5%に引き下げざるを得なかった。その結果、[[地租]]を納める[[農民]]の負担は江戸時代のおおよそ20%減ることになった。
 
 
 
文化面では、1872年(明治5年)11月に[[太陽暦]]を採用。[[文明開化]]の風潮が高まり、[[福澤諭吉]]・[[西周 (啓蒙家)|西周]]・[[森有礼]]・[[中村正直]]らが'''[[明六社]]'''を結成し、著作や講演会を通じて近代的な学問・知識を日本国内に広めたほか、[[中江兆民]]ら新しい思想を説く[[啓蒙思想]]家も現れた。[[印刷]]技術の進歩により、日本最初の日刊新聞「[[横浜毎日新聞]]」を始め[[新聞]]が次々と創刊された。全ての国民が教育を受けられるよう学校制度が整備され、1872年(明治5年)「[[学制]]」を公布して全国に学校が設立された。新政府では[[寺島宗則]]・[[神田孝平]]・[[柳川春三]]といった学者を招聘して運営に当たらせた。教育機関の整備では[[大学寮]]をモデルにした「学舎制」案を[[玉松操]]・[[平田鐵胤]]・[[矢野玄道]]らに命じて起草させた。[[宗教]]の面では[[神道]]の国民教化を図ろうとして[[神仏分離令]]を出した。これを受け、[[寺請制度]]に不満を持っていた者も加わり、[[廃仏毀釈]]が行われる事態となる。[[1870年]](明治3年)[[大経宣布]]を行い祝祭日を制定した。1873年(明治6年)には天皇の誕生日を[[天長節]]、[[神武天皇]]が即位した日を[[紀元節]]とした。1873年(明治6年)に[[キリスト教]]を解禁。後の大日本帝国憲法で定められた[[政教分離原則|政教分離]]という制度的要請から、[[国家神道]]([[神社非宗教論]])に基づく宗教行政に転換していった。
 
 
 
明治新政府の近代化のための変革はあまりにも性急で、国民生活の実情を無視していた点も多かった。特に、[[廃藩置県]]と[[徴兵令]]は、士族の武力独占を破り、[[御親兵]]は[[近衛兵]]と改称され、中央集権を企図した地方行政制度である[[大区小区制]]は、従来の地方自治を無視して中央の命令の伝達と施行しかしない機関を設けたため極めて不評で、地方自治をある程度尊重した[[郡区町村編制法|郡区町村制]]に短期間で改められている。新政府の枢要な地位はほとんど[[薩長土肥]]の[[藩閥]]人物で構成されていたため全国の[[士族]]は特権を奪われ、経済的にも行き詰った。政府に対する士族の不満が高まった結果、[[民撰議院設立建白書]]を発端に[[士族反乱]]・[[自由民権運動]]が起こり、ついには1874年(明治7年)に[[岩倉具視]]暗殺未遂事件([[喰違の変]])が勃発した。
 
 
 
[[喰違の変]]の後、[[大久保利通]]は、征韓派士族に不満の捌け口を与えるため、[[台湾]]征討に手を付けた。[[台湾蕃地事務都督]]に[[西郷従道]]を任命し、「'''[[台湾出兵]]'''」を行った。[[1874年]](明治7年)5月に征台軍は[[蕃地]]を平定。大久保利通は、特命弁理大臣となり[[清国]]の[[北京]]にて会談し、清国は日本国に償金50万[[両]]を支払うとの条件で合意した。台湾問題を片づけた大久保は、西南戦争中にも関わらず、[[内務省]]主導で総裁・大久保利通、副総裁・[[松方正義]]の下で、第一回[[内国勧業博覧会]]を開催。[[製鉄所]]や[[紡績所]]を経営して士族授産事業と[[殖産興業]]が進み、それと並行して[[秩禄処分]]が進められたため、士族反乱に乗じなかった士族は、次第に[[ブルジョアジー]]と[[プロレタリアート]]に分解した<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 191ページ</ref>。
 
 
 
=== 士族反乱(自由民権運動) ===
 
[[画像:Eto_Shimpei_and_Shima_as_fugitives_1874.jpg|thumb|[[佐賀の乱]]の首謀者。[[江藤新平]]と[[島義勇]]。]]
 
[[画像:Kagoshima battle.jpg|thumb|300px|[[西南戦争]]。鹿児島付近の衝突。]]
 
1873年(明治6年)の'''[[征韓論]]'''政変により下野した[[板垣退助]]は翌1874年(明治7年)[[後藤象二郎]]・[[江藤新平]]・[[副島種臣]]らと[[愛国公党]]を結成、[[由利公正]]らと[[民撰議院設立建白書]]<ref group="注釈">この建白書を起草したのは古沢滋である。その最初に「臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、而も独り有司に帰す」で始まる</ref><ref>丸山真男 「自由民権運動史」([[丸山真男]]著 『戦中と戦後の間 1936-1957』 岩波書店 1976年 309ページ)</ref>を明治7年(1874年)1月政府左院に提出し、[[高知県|高知]]に[[立志社 (政治団体)|立志社]]を設立する。この建白書が各地の新聞に掲載されたことで、政府に不満を持つ士族を中心に運動が進められるようになった。一方、民選議院を設立すべきか否かの議論も新聞雑誌紙上で盛んに交わされるようになった<ref group="注釈">尚早論を唱えたのは[[加藤弘之]]で、これに反駁したのは[[大井憲太郎]]である。新聞では[[朝野新聞]]、曙新聞、[[郵便報知新聞]]などが民選議院論を唱え、これに対して[[福地源一郎]]が主筆の[[東京日日新聞]]が、民選議員尚早論を唱え大いに論争した</ref><ref>丸山真男 「自由民権運動史」([[丸山真男]]著 『戦中と戦後の間 1936-1957』 岩波書店 1976年 310ページ</ref>。翌1875年(明治8年)には[[愛国社 (1875年-1880年)|愛国社]]が結成されるが、[[大阪会議]]で板垣が[[参議]]に復帰して[[漸次立憲政体樹立の詔]]を出すとともに、官選の[[元老院 (日本)|元老院]]を設け[[大審院]]を置いて裁判制度を整備し、[[地方官会議]]を開いて地方議会の開設について討議した。また一方で、政府は[[新聞紙条例]]や[[讒謗律]]を制定して急進的な反政府の言論活動を取り締まった。後になり立志社が[[西南戦争]]に乗じて挙兵しようとしたとする[[立志社の獄]]が発生して幹部が逮捕されている。
 
 
 
民撰議院設立建白書に名を連ねた[[江藤新平]]は1874年(明治7年)郷里の佐賀で[[島義勇]]と共に不平士族の首領となって反乱を起こした('''[[佐賀の乱]]''')。政府はこれを鎮圧したが、[[廃刀令]]や[[家禄]]制度の廃止などによって[[士族]]の不満はいっそう高まった<ref group="注釈">佐賀の乱を受けて、政府では[[内閣顧問]]の[[島津久光]]が帰郷。[[近衛局長官]][[陸軍少将]]・[[篠原国幹]]や陸軍少将・[[桐野利秋]]といった将官が[[鶴丸城]]下で「[[私学校]]」を創設して士族を教育した。</ref>。1876年(明治9年)熊本で[[神風連の乱]]、福岡で[[秋月の乱]]、山口で[[萩の乱]]と一連の士族反乱が起こり、翌[[1877年]](明治10年)ついに[[西郷隆盛]]を首領とする鹿児島士族ら約4万人が政府に対して兵を挙げた('''[[西南戦争]]''')。西南戦争は政府にとっても大きな試練で、新しい軍隊を総動員して約8ヶ月に渡って[[九州]]各地で激しい戦闘が展開された。戦争のさなか[[木戸孝允]]が病死、西郷は自刃し、翌[[1878年]](明治11年)には[[大久保利通]]が東京で不平士族・[[島田一郎]]ら6名により暗殺された([[紀尾井坂の変]])。こうして明治政府の「[[維新三傑]]」体制は終わりを告げ、[[薩長]][[元老]]による官僚[[藩閥]]政権が確立した。
 
 
 
[[自由民権運動]]の共通の目的は国会開設であった。次第に[[農民]]の間にも支持層が広がり、[[1880年]](明治13年)全国の民権派団体が[[大阪]]に集まって[[愛国社 (1875年-1880年)|愛国社]]の大会を開き、[[国会期成同盟]]を結成し8万7千名余の[[署名]]を連ねた。[[私擬憲法]]が草案され始め、40編以上が発表された。[[イギリス]]流の二院制の議会政治([[交詢社]]、[[嚶鳴社]])、人民主権と一院制(立志社、[[植木枝盛]])、君権主義([[五日市憲法]])などのように民権派から発表されたものが多かった。[[1881年]](明治14年)[[開拓使官有物払下げ事件]]に端を発した[[明治十四年の政変]]で、[[井上毅]]・[[伊藤博文]]・[[岩倉具視]]らドイツ流憲法の支持者は即時国会開設を唱えていた急進派[[官吏]]を政府から追放する一方「[[国会開設の詔勅]]」を発し、[[1890年]](明治23年)に議会を開設することを国民に約束した。その結果、明治政府から追放されることとなった板垣退助は[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]を、[[福地源一郎]]は[[立憲帝政党]]を、大隈重信は[[立憲改進党]]を結成し、来る国会開設の準備を図ろうとした。
 
 
 
[[1882年]](明治15年)道路造成事業に反対した農民や[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]員らが検挙され([[福島事件]])、続いて[[加波山事件]]・[[秩父事件]]など東日本各地で自由党員らによる暴発事件が起こった。こうして自由民権運動は衰退していき、[[1887年]](明治20年)[[大同団結運動]]を起こしに政府に迫ったが、政府は[[保安条例]]を発して多くの民権運動家を東京から追放した。財政面では、西南戦争後の[[インフレーション]]の整理を図るため、[[大蔵卿]][[松方正義]]を中心に1882年(明治15年)に[[日本銀行]]を創立し、[[1885年]](明治18年)から正貨である銀貨と引き換えのできる[[兌換紙幣]]を発行させた([[銀本位制]])。また[[官営工場]]を民間に払い下げた影響から[[政商]]が生まれ、のちにこれらは[[財閥]]を形成していった。
 
 
 
1882年(明治15年)、政府内で実権を握った[[伊藤博文]]は憲法調査のためヨーロッパを訪問<ref group="注釈">出発前に、伊藤博文は、右大臣岩倉具視から5条の憲法制定の綱領を示されていた。
 
#我が国の憲法は欽定憲法とする。
 
#国会の構成と運営は、イギリス流を廃し、プロシャ流のそれによる。
 
#国務大臣は、天皇の親任による。
 
#大臣は天皇に対し、おのおの責任を負い、連帯責任としない。
 
#5予算が国会で成立しないときは、前年度の予算を施行できるようにする。
 
この岩倉の基本方針には、伊藤も賛成であった。</ref><ref>長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 132ページ)</ref>。帰国後[[1884年]](明治17年)[[華族令]]を制定して国家の功労者にも[[爵位]]を与えて[[華族]]とし、[[貴族院 (日本)|貴族院]]を作るための華族制度を整えた。1885年(明治18年)には太政官制を廃止して[[内閣 (日本)|内閣制]]を導入し、初代[[内閣総理大臣]]には伊藤博文が就任、[[1888年]](明治21年)新設された[[枢密院 (日本)|枢密院]]の議長にも就任した。1888年(明治21年)には[[市制]]、[[町村制]]、[[府県制]]、[[郡制]]が公布され地方自治制が実施された。1889年(明治22年)[[大日本帝国憲法]]、翌1890年(明治23年)[[教育勅語]]が発布された。
 
 
 
伊藤以降の初期内閣の構成はいずれも[[薩摩藩]]([[黒田清隆]]、松方正義)と[[長州藩]](伊藤博文、[[山縣有朋]])を中心にして組閣され、1890年(明治23年)11月25日[[帝国議会]]の幕が開いた。以後激しい選挙干渉にて[[民党]]を抑えようとしたが、[[1892年]](明治25年)に成立した[[第2次伊藤内閣]]の時には政府と[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]が次第に歩み寄りを進め、協力して政治を運用するようになった。
 
<gallery class="center">
 
Itô Hirobumi.jpg|{{center|[[伊藤博文]]}}
 
Kiyotaka Kuroda formal.jpg|{{center|[[黒田清隆]]}}
 
Yamagata_Aritomo.jpg|{{center|[[山縣有朋]]}}
 
Masayoshi Matsukata posing.jpg|{{center|[[松方正義]]}}
 
</gallery>
 
 
 
=== 条約改正問題 ===
 
[[画像:Rokumei-kan ni okeru kifujin jizenkai no zu.jpg|thumb|200px|[[鹿鳴館]]]]
 
[[画像:Aoki Shuzo.jpg|thumb|150px|[[青木周蔵]]]]
 
[[19世紀]]後半に[[アジア]]の多くの国々は欧米諸国の[[植民地]]となっていたが、[[幕末]]以来の不平等条約を改正して[[関税自主権]]の確立([[税権]]回復)と[[領事裁判権|領事裁判制度]]の撤廃([[法権]]回復)とを実現することが、日本にとって欧米諸国と対等の地位に立つためには何よりも重要であった。[[1871年]](明治4年)、日本と[[清国]]は[[日清修好条規]]に調印。[[1873年]](明治6年)に[[外務卿]]・[[副島種臣]]は、清国皇帝に謁見し日清修好条規批准書の交換を行った。
 
 
 
[[1878年]](明治11年)に[[外務卿]]・[[寺島宗則]]の下で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との間で税権回復の交渉が成立したが、[[イギリス]]などの反対により新しい条約は発効しなかった。後を継いだ[[外務卿]]・[[井上馨]]は[[欧化政策]]を取り、風俗や生活様式を[[西洋化]]して交渉を有利に運ぼうとした。[[1883年]](明治16年)に[[日比谷]]に建てられた「[[鹿鳴館]]」では、政府高官や外国公使などによる西洋風の[[舞踏会]]がしきりに開かれた。井上の改正案は外国人に日本国内を開放([[内地雑居]])するかわりに税権の一部を回復し、[[領事裁判権|領事裁判制度]]を撤廃するというものであったが、[[国権]]を傷つけるものだとして政府内外から強い反対が起こり、[[1887年]](明治20年)交渉は中止され、井上は辞職した。
 
 
 
これに続いて、[[1889年]](明治22年)[[大隈重信]]外相がアメリカ・[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[ロシア帝国|ロシア]]との間に新条約を調印したが、[[大審院]]に限り外国人裁判官の任用を認めていたので、『[[日本 (新聞)|新聞日本]]』を基盤に持つ[[東邦協会]]メンバーを皮切りに[[国民協会 (日本 1892-1899)|国民協会]]を率いる保守派の[[品川弥二郎]]や[[鳥尾小弥太]]、民権派の[[星亨]]を中心として再び国内に反対運動が起きた。大隈は[[玄洋社]]の活動家に爆弾を投げつけられて負傷したため交渉は中止となって新条約は発効せず、またその後も[[青木周蔵]]外相の交渉が[[1891年]](明治24年)に訪日したロシア皇太子([[ニコライ2世]])が[[大津市|大津]]で警護の警察官に襲われて負傷([[大津事件]])したことにより挫折するなど、条約改正は難航した。
 
 
 
その後、イギリスは[[東アジア]]におけるロシアの勢力拡張に警戒心を深め、日本との条約改正に応じるようになった。[[1894年]](明治27年)に[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[陸奥宗光]]は駐英公使[[青木周蔵]]に交渉を進めさせ、イギリスとの間で[[領事裁判権]]の撤廃と[[関税自主権]]の一部回復を内容とした「[[日英通商航海条約]]」の調印に成功した。関税自主権の完全回復は、後に持ち越された。
 
 
 
=== 大日本帝国憲法 ===
 
[[画像:Kenpohapu-chikanobu.jpg|thumb|225px|大日本帝国憲法の発布式]]
 
[[画像:Inoue Kowashi.jpg|thumb|150px|[[井上毅]]]]
 
{{main|大日本帝国憲法}}
 
;憲法制定に至るまで
 
:[[伊藤博文]]は[[井上毅]]、[[伊東巳代治]]、[[金子堅太郎]]、[[ヘルマン・ロエスレル]]らと憲法制定の準備を開始し、1888年(明治21年)[[枢密院 (日本)|枢密院]]を設置した。そして、1889年(明治22年)[[黒田清隆]]内閣の時に君主権が強い[[プロイセン王国|プロイセン]]憲法を模倣した[[大日本帝国憲法]]が明治天皇から臣下に授ける形で制定された。
 
;大日本帝国憲法の内容
 
:同憲法は天皇を第3条で神聖不可侵と規定し、第4条で統治権を総攬する[[元首]]と規定した。つまり形式上は天皇が権力の総元締ということになった。
 
:三権に関しては以下の通りである。第1に[[立法]]権であるが天皇は第5条において[[帝国議会]]の協賛を以って行使すると規定された。天皇の立法権は概ね法律の裁可が中心で、またその裁可には国務大臣の[[連署・副署|副署]]が必要とされた。つまり、大臣の副署を経てから天皇が裁可し法案が成立する、という形式である。また、帝国議会は選挙で選ばれる国会議員から成る[[衆議院]]と[[華族]]から成る[[貴族院 (日本)|貴族院]]の二院で構成された。第2に[[行政]]権であるが、後の[[日本国憲法]]と異なり連帯責任ではなく、第55条で各国務大臣は天皇を輔弼し個別に責任を負うものであった。第3に[[司法権]]であるが、第57条で天皇の名において法律により裁判所が司法権を行うものであった。
 
:この憲法の問題は主なものに以下の2つが挙げられる。第1は第11条に規定されている「天皇は陸海軍を統帥する」という規定であった。内閣や帝国議会は軍部に対して直接関与できなかった。第2は第21条で規定された「法律の範囲内において自由である」という[[臣民]]の権利であった。
 
:また、黒田清隆首相は「政党の動向に左右されず、超然として公正な施策を行おうとする政府の政治姿勢」を示し、議会と対立した。
 
:その後1889年(明治22年)の[[大日本帝国憲法]]公布に伴い[[衆議院]][[議員]][[選挙]]法が公布され、直接国税15円以上を納税した25歳以上の男子のみに[[選挙権]]を与えた制限選挙を実施し、1890年(明治23年)に最初の[[帝国議会]]が開会された。
 
;発布
 
:憲法の発布により天皇中心の国家体制が確立されると共に国民の権利と自由が認められ、国政参加への道が開かれた。不十分であったとはいえ、他のアジア諸国に先駆けて憲法と議会を持つ近代国家への道を歩み始めた。
 
:民法・商法などの諸法典も制定された。民法は[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ボアソナード]]の助言を受け、[[フランス民法典]]と日本の[[慣習法]]を折衷したものであったが、特に家族制度についての規定が[[家父長制]]に基づく日本の美風に背くとして非難が起こり実施が一時延期された。
 
 
 
=== 日清戦争 ===
 
{{main|日清戦争}}
 
[[画像:Munemitsu Mutsu 2.jpg|thumb|right|150px|外相[[陸奥宗光]]]]
 
日本は[[1882年]](明治15年)の[[壬午事変]]と[[1884年]](明治17年)の[[甲申政変]]を契機に[[朝鮮]]を巡って[[清]]と対立し、[[甲午農民戦争]]を契機に[[1894年]](明治27年)[[日清戦争]]が勃発した。当時の国力では財力、軍艦、装備、兵数すべてにおいて[[清]]の方が優位であったが、士気と訓練度で勝った日本は勝利し'''[[下関条約]]'''によって以下の内容を清に認めさせた。
 
*[[朝鮮]]の'''独立'''の承認
 
*領土として'''[[遼東半島]]'''、'''[[台湾]]'''、[[澎湖諸島]]の割譲
 
*[[戦争賠償|賠償金]](2億[[両|両(テール)]]、日本円で3億1千万円)を獲得
 
*[[重慶市|重慶]]・[[沙市|長沙]]・[[蘇州市|蘇州]]・[[杭州市|杭州]]の4港開港
 
下関条約の結果、清の朝鮮に対する[[宗主権]]は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった'''[[冊封体制]]'''は終焉を迎えた([[李氏朝鮮]]は[[1897年]](明治30年)[[大韓帝国]]として独立した)。しかし、[[遼東半島]]はロシア、フランス、ドイツの'''[[三国干渉]]'''により返還させられた(代償として3000万両を獲得)結果、国民に屈辱感を与え報復心が煽られた([[臥薪嘗胆]])。
 
 
 
結果としてこの戦争により日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなった。他方「眠れる獅子」といわれた[[清]]が敗戦したことから、諸列強による中国大陸の植民地化の動きが加速されることとなった。加えて、日清戦争の賠償金は[[1897年]](明治30年)の[[金本位制]]施行の源泉となり、[[八幡製鐵所|官営八幡製鉄所]]造営([[1901年]](明治34年)開設)の資金となるなど戦果は経済的にも影響を与えた。一方、日本は外国との間にある不平等条約の廃棄を公然と要求しうるようになった。
 
 
 
=== 日露戦争 ===
 
{{main|日露戦争}}
 
[[日清戦争]]終了後、[[ロシア帝国]]は清に圧力をかけ、遼東半島の[[旅順]]、[[大連市|大連]]を租借した。また、[[シベリア鉄道]]およびその支線である[[東清鉄道]]を建設し[[南下政策]]を進めていった。とりわけ、[[義和団の乱]](義和団事件)以降、ロシアは[[満州]]に軍隊を駐留させて利権を確保していった。日本はロシアの動きを牽制すべく、[[1902年]](明治35年)イギリスとの間に'''[[日英同盟]]'''を締結した。当時、世界第一の大帝国で「[[栄光ある孤立]]」を貫いていたイギリスが初めて同盟を締結したということとアジアの新興国家である日本が相手ということから世界の注目を受けたが、ヨーロッパでは極東において成り上がりの日本を手先にして火中の栗(中国)を拾わせようとするものとする風刺も見られた。その後、満州、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に[[日露戦争]]が勃発した。
 
 
 
陸軍は遼東半島上陸後、[[旅順攻囲戦]]、[[奉天会戦]]と圧倒的物量で上回るロシア陸軍を辛うじて後退させることに成功した。一方、海軍は最終的には[[日本海海戦]]でロシアの[[バルチック艦隊]]を撃滅した。
 
[[画像:Jutaro Komura.jpg|thumb|150px|外相[[小村壽太郎|小村寿太郎]]]]
 
ロシアはなお陸軍は維持していたが、海軍力の大半を失い国内でも革命運動が発展していたため講和に傾いた。日本も長期戦には耐えうる経済発展を達成していなかったので、外相小村寿太郎はアメリカ大統領[[セオドア・ルーズベルト]]に仲介を依頼して講和に持ち込んだ。日露戦争を終結させた[[ポーツマス条約]]の内容は以下の通りである。
 
*ロシアは日本の韓国においての政治・軍事・経済の優先権を認める。
 
*清領内の旅順、大連の租借権および、[[長春]]以南の鉄道とその付属の権利を日本に譲渡する。
 
*[[北緯]]50度以南の[[樺太]](すなわち[[南樺太]])とその付属の諸島を譲渡する。
 
*[[オホーツク海]]、[[ベーリング海]]の[[漁業権]]を日本に認める。
 
しかし、[[戦争賠償|賠償金]]は全く取れなかったため、国民の怒りが爆発し、[[日比谷焼打事件]]が起こった。
 
 
 
後の[[大東亜戦争]]時に比べると反戦的な主張も比較的許容されており、[[萬朝報]]によった[[堺利彦]]・[[片山潜]]らの[[反戦運動]]や、[[キリスト教]]の立場からする[[内村鑑三]]の[[非戦論]]も唱えられた。
 
 
 
日露戦争における日本の勝利は[[白人|白色人種]]大国に対する[[有色人種]]小国の勝利であり、[[世界史]]上の意義も大きかった。[[第一次エチオピア戦争]]で[[エチオピア帝国]]が[[イタリア王国]]に勝利した先例はあるが、これはイギリス、フランスの全面的な軍事的支援によるものであった。そのため、日露戦争における日本の勝利は有色人種国家独自の軍隊による白色人種国家に対する近代初の勝利といえる。
 
 
 
=== 条約改正の実現と帝国主義国家への道 ===
 
[[1905年]](明治38年)、[[韓国統監府]]初代統監には[[伊藤博文]]が任命されたが、[[1908年]](明治41年)に辞任した。また、[[1906年]](明治39年)の[[ポーツマス条約]]で獲得した[[遼東半島]]南部([[関東州]])および[[長春]]以南の[[東清鉄道]]に対し、それぞれ[[関東都督府]]、[[南満州鉄道株式会社]](満鉄)が設置された。その後[[1909年]](明治42年)7月、[[第2次桂内閣]]が[[韓国併合]]を閣議決定、[[10月26日]]に伊藤は[[ロシア帝国|ロシア]]との会談を行うため渡満したが、[[ハルビン]]に到着した際に[[大韓帝国]]の独立運動家[[安重根]]に暗殺された。[[1910年]](明治43年)には[[日韓併合条約]]を結んで大韓帝国を併合し、ここに諸列強と並ぶ[[帝国主義]]国家にのし上がった。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは諸外国にも反響を与えた。
 
 
 
[[1911年]](明治44年)、日本はアメリカ合衆国と新しい[[日米通商航海条約]]を締結、イギリス、ドイツ、フランス及びイタリアとも同内容の条約を締結した。外務大臣[[小村壽太郎|小村寿太郎]]は関税自主権の全面回復に成功し、これにより、幕府が西洋列強と結んだ不平等条約を対等なものに改める[[条約改正]]の主要な部分が完了、日本は長年の課題を克服し、名実ともに西欧諸国と対等な国際関係を結ぶこととなった。[[嘉永]]年間以来の[[黒船]]の衝撃と、その後に目指した西欧列強と並ぶ近代国家作りは一応達成された<ref group="注釈">政治・軍事面では西洋と表面上対等になっても、社会的・文化的な近代化が課題として残された。また、表面的かつ性急な西欧列強の模倣に走った明治日本を冷ややかにとらえ、日本の末路に悲観的な見解を示す[[夏目漱石]]のような知識人も少数ながら存在した。</ref>。
 
 
 
その後、[[第一次世界大戦]]の講和により完成した[[ヴェルサイユ条約|ベルサイユ体制]]の世界で、日本は[[1920年]](大正9年)に設立された[[国際連盟]]に[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]として参加、明治維新から約50年という速さで列強国の一つに数えられることになった。
 
 
 
==== 明治年間の条約改正交渉年表 ====
 
{{main|条約改正}}
 
植民地化されずに自力で[[近代化]]への改革をなした日本は、[[1894年]](明治27年)には[[イギリス|英国]]と条約改正を成し遂げ、これを皮切りに[[幕末]]以来の[[不平等条約]]の解消を進めた。これを完全に達成したのは[[韓国併合]]以降である。
 
[[画像:Iwakura mission.jpg|thumb|right|200px|[[岩倉使節団]]。右から[[大久保利通]]、[[伊藤博文]]、[[岩倉具視]]、[[山口尚芳]]、[[木戸孝允]]]]
 
*[[日墺修好通商航海条約]]([[1869年]]〔明治2年〕):欧米諸国の、日本に対する不平等条約体制が完成する。
 
*[[岩倉使節団]]を派遣([[1871年]]〔明治4年〕):条約改正交渉失敗。
 
*外務卿[[寺島宗則]]による交渉([[1876年]]〔明治9年〕- [[1878年]]〔明治11年〕):税権の回復にアメリカは賛成するが英独が反対し頓挫。
 
*外相[[井上馨]]による交渉([[1882年]]〔明治15年〕- [[1888年]]〔明治21年〕):[[鹿鳴館]]の建設による[[欧化政策]]、裁判所に外国人判事を採用など→[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ボアソナード]]や[[谷干城]]、[[国粋主義者]]の反発、[[ノルマントン号事件]]に対する不首尾もあり、井上辞任。
 
*外相大隈重信による交渉(1888年〔明治21年〕- [[1889年]]〔明治22年〕):大審院にのみ外国人判事を採用することがロンドンタイムズ紙にリークされる→[[玄洋社]]の[[来島恒喜]]のテロに遭遇し、辞任。
 
*外相[[青木周蔵]]による交渉(1889年〔明治22年〕- [[1891年]]〔明治24年〕):法権回復にイギリスは賛成したが、[[大津事件]]で頓挫。
 
*[[日英通商航海条約]]([[1894年]]〔明治27年〕):外相[[陸奥宗光]]、イギリスに[[治外法権]]の撤廃([[領事裁判権]]の撤廃)を認めさせる。
 
*[[日米通商航海条約]]([[1911年]]〔明治44年〕):外相[[小村壽太郎|小村寿太郎]]、アメリカに日本の[[関税自主権]]を認めさせる。
 
 
 
== 産業の変化 ==
 
明治時代で特徴的な点が、[[西洋]]式文物の大量輸入による[[産業革命]]である。
 
 
 
しかし[[明治維新]]が起こった時には[[神仏分離令]]により[[廃仏毀釈]]運動が起こった。[[1870年代]](明治3年〜12年)中期になると、西洋文明の輸入が本格化。[[1872年]](明治5年)の「[[殖産興業]]」による[[日本の鉄道開業|鉄道開業]]と[[富岡製糸場]]設立は、これを象徴する出来事である。
 
 
 
[[松方デフレ]]による不況、[[内国勧業博覧会]]の実施を経て、[[日清戦争]]の勝利によって[[軽工業]]を中心とする[[産業革命]]が本格化した。[[1901年]](明治34年)には、日本初の西洋式製鉄所である[[八幡製鐵所|官営八幡製鉄所]]が開業し、[[重工業]]の勃興を告げた。
 
 
 
== 年表 ==
 
;[[1868年]]([[明治元年]])
 
:[[明治維新]]、[[神仏分離令]]、7月江戸は[[東京]]と改称、鎮将府が置かれ、[[江戸府]]は[[東京府]]となった。[[東京行幸]]([[9月20日]]発駕〜[[10月12日]]東京着)、[[京都]]還幸(11月)。この年、現在の長野・栃木などの諸県で農民騒擾。
 
;[[1869年]]([[明治2年]])
 
:[[東京奠都]]。:[[戊辰戦争]]の終結、[[箱館戦争|五稜郭の戦い]]。[[版籍奉還]](3月)。[[太政官制]]導入。蝦夷地、[[北海道]]と改称、[[開拓使]]設置(8月)
 
;[[1870年]]([[明治3年]])
 
:[[日章旗]]が国旗となる(商船規則)。[[樺太開拓使]]設立。[[庚午事変]]。[[苗字]]許可令(庶民苗字差許)。[[横浜毎日新聞]]発刊。
 
;[[1871年]]([[明治4年]])
 
:[[新貨条例]]制定。[[廃藩置県]]、全国の[[府県]]を改廃(3府72県となる)。[[戸籍法]]を定める(翌[[1872年]][[2月1日]]より実施:[[壬申戸籍]])、[[日清修好条規]]、[[新貨条例]]。この年、現在の岡山・島根などの諸県で旧藩主の東京移住に反対して騒擾。[[岩倉使節団]]派遣。[[宮古島島民遭難事件]]。
 
;[[1872年]]([[明治5年]])
 
:[[学制]]。[[琉球藩]]設置、[[尚泰王|琉球国王]]の実質的廃位。初めて全国の戸籍調査を実施(総人口3311万825人)。太陽暦([[グレゴリオ暦]])の採用(十一月九日の改暦詔書)。[[2月15日]]、[[田畑永代売買禁止令]]を解く、明治5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]の翌日を明治6年[[1月1日]]とした)。<!--旧暦の日付は漢数字で。-->
 
;[[1873年]](明治6年)
 
:[[神武天皇]]の即位日を[[2月11日]]に改めて、[[紀元節]]を制定する。[[徴兵令]]。[[地租改正]]。[[征韓論]]問題([[明治六年政変]]:[[西郷隆盛]]・[[板垣退助]]等が下野)
 
;[[1874年]](明治7年)
 
:[[民選議院設立建白書]]。[[佐賀の乱]]。[[台湾出兵]]。この年、秋田・高知などの諸県で地租改正反対などの農民騒擾約21件。
 
;[[1875年]](明治8年)
 
:[[2月13日]]、[[平民]]の称姓布告。[[4月14日]]、[[左院]]・[[右院]]を廃し、[[元老院 (日本)|元老院]]・[[大審院]]・[[地方官会議]]を設置し、暫時立憲政体を建てるとの詔勅出る。[[樺太・千島交換条約]]。[[6月20日]]、第1回地方官会議開く。[[6月28日]]、[[讒謗律]]・[[新聞紙条例]]を定める。[[9月30日]]、[[江華島事件]]起こる。この年、福岡・島根などで農民騒条約15件。[[大阪会議]]、[[秩禄処分]]、[[国立銀行条例]]
 
;[[1876年]](明治9年)
 
:[[日朝修好条規]](江華条約)、帯刀を禁止([[廃刀令]])、[[筑摩県]]以下の14県を廃合(3府35県)、[[神風連]]の乱・[[秋月の乱]]・[[萩の乱]]・[[思案橋事件]]起こる。茨城県農民一揆・[[伊勢暴動]](三重県農民一揆)、[[愛知県]]・[[岐阜県]]・[[堺県]]下へも波及。この年、鳥取・長野などの諸府県で主に地租・地価改定を巡り農民騒動約26件。[[小笠原諸島]]を[[日本]]の[[領有]]とする。
 
;[[1877年]](明治10年)
 
:[[地租]]を100分の2.5へ軽減、2月15日、[[西南戦争]]始まる(9月24日、西郷隆盛自刃)。2月28日、熊本県民3000人暴動。8月、[[コレラ]]、長崎・横浜に発生(〜10、全国に流行)。この年、熊本をはじめ諸県で農民騒動役47件。
 
;[[1878年]](明治11年)
 
:[[地方三新法]]、[[紀尾井坂の変]]、1876年1月1日調査の戸籍表を発表(戸数7,293,110人、人口34,338,400)。[[竹橋事件]]
 
;[[1879年]](明治12年)
 
:[[8月31日]]、明宮嘉仁親王([[大正天皇]])誕生。[[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]、[[沖縄県]]を設置、[[琉球王国]]滅亡。
 
;[[1880年]](明治13年)
 
:[[国会期成同盟]]が結成される。[[君が代]]に曲がつけられる
 
;[[1881年]](明治14年)
 
:[[開拓使官有物払下げ事件]]、[[明治十四年の政変]]。[[国会開設の詔勅]]出される。→[[大隈重信]]失脚後、[[大蔵卿]][[松方正義]]による[[松方デフレ]])。[[ハワイ王国]]の[[カラカウア]]王来日。
 
;[[1882年]](明治15年)
 
:[[福島事件]]。[[壬午事変]]
 
;[[1883年]](明治16年)
 
:[[陸軍大学校]]開設。[[鹿鳴館]]開館。
 
;[[1884年]](明治17年)
 
:[[群馬事件]]、[[加波山事件]]、[[秩父事件]]、[[甲申政変]]、[[大同団結運動]]
 
;[[1885年]](明治18年)
 
:[[大阪事件]]、[[天津条約 (1885年4月)|天津条約 (日清)]]、[[内閣]]制度が発足。
 
;[[1886年]](明治19年)
 
:[[ノルマントン号事件]]
 
;[[1887年]](明治20年)
 
:[[保安条例]]
 
;[[1888年]](明治21年)
 
:[[海軍大学校]]開設。[[日墨修好通商条約]]締結。[[香川県]]が[[愛媛県]]より独立。
 
;[[1889年]](明治22年)
 
:[[大日本帝国憲法]]発布。衆議院議員選挙法・貴族院令など公布。[[市制]]・[[町村制]]が施行。
 
;[[1890年]](明治23年)
 
:[[第1回衆議院議員総選挙]](翌1891年3月7日閉会)、第1回[[帝国議会]]召集、『[[教育ニ関スル勅語]]』発布、[[府県制]]・[[郡制]]が執行される。年末より「明治23年恐慌」始まる。
 
;[[1891年]](明治24年)
 
:[[大津事件]]、[[足尾銅山鉱毒事件]]、[[濃尾地震]]
 
;[[1892年]](明治25年)
 
:[[第2回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]94議席、後の[[中央交渉部]]83議席、[[改進党]]38議席、選挙干渉で各地に騒擾、死者25人、負傷者388人</ref>。<!--
 
;[[1893年]](明治26年)-->
 
;[[1894年]](明治27年)
 
:[[第3回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">自由党119議席, 改進党48議席, [[国民協会 (日本 1892-1899)|国民協会]]26議席</ref>、[[第4回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">自由党105議席,改進党45議席, [[革新倶楽部]]40議席, 国民協会30議席</ref>、[[甲午農民戦争]](東学党の乱)→[[日英通商航海条約]]→[[日清戦争]] (- 1895年〔明治28年〕)。
 
;[[1895年]](明治28年)
 
:[[下関条約]]で日本が[[台湾]]・[[澎湖諸島]]・[[遼東半島]]を獲得、[[三国干渉]]で遼東半島を領土剥奪。[[八幡製鐵所|八幡製鉄所]]
 
;[[1896年]](明治29年)
 
:[[明治三陸地震]]
 
;[[1897年]](明治30年)
 
:[[貨幣法]]制定
 
;[[1898年]](明治31年)
 
:[[第5回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">自由党98議席、[[進歩党 (日本 1896-1898)|進歩党]]91議席、国民協会26議席</ref>、[[大津事件]]、[[第6回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">[[憲政党]]260議席, [[国民協会 (日本 1892-1899)|国民協会]]20議席</ref>。<!--
 
;[[1899年]](明治32年)-->
 
;[[1900年]](明治33年)
 
:[[義和団の乱]](義和団事件)。[[治安警察法]]
 
;[[1901年]](明治34年)
 
:[[4月29日]]、迪宮裕仁親王([[昭和天皇]])誕生。[[足尾銅山鉱毒事件]]、[[八幡製鐵所|官営八幡製鉄所]]の操業が開始される。
 
;[[1902年]](明治35年)
 
:[[日英同盟]]締結。[[第7回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">[[政友会]]190議席, [[憲政本党]]95議席,[[帝国党]]17議席</ref>。
 
;[[1903年]](明治36年)
 
:[[第8回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">政友会175議席,[[憲政本党]]85議席、帝国党17議席</ref>。
 
;[[1904年]](明治37年)
 
:[[日露戦争]](- [[1905年]]〔明治38年〕)、[[第9回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">政友会133議席、憲政本党90議席, 帝国党19議席</ref>。
 
;[[1905年]](明治38年)
 
:[[日本海海戦]]。[[ポーツマス条約]]。[[日比谷焼打事件]]。[[第二次日韓協約]]。
 
;[[1906年]](明治39年)
 
:[[鉄道国有法]]公布。[[南満州鉄道]]設立。
 
;[[1907年]](明治40年)
 
:[[ハーグ密使事件]]
 
;[[1908年]](明治41年)
 
:[[赤旗事件]]。[[第10回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">政友会187議席, 憲政本党70議席, [[大同娯楽部]]29議席, [[猶興会]]29議席</ref>。
 
;[[1909年]](明治42年)
 
:[[伊藤博文#暗殺]]
 
;[[1910年]](明治43年)
 
:[[韓国併合]]。[[大逆事件]]([[幸徳事件]]ほか)。
 
;[[1911年]](明治44年)
 
:[[関税自主権]]の回復により、[[幕末]]以来の[[不平等条約]]が完全撤廃される。
 
;[[1912年]](明治45年/大正元年)
 
:[[第11回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">政友会211議席, 国民党95議席, [[中央娯楽部]]31議席</ref>。第一次[[護憲運動]](憲政擁護運動)。[[7月30日]]、[[明治天皇]]崩御、[[大正天皇|皇太子嘉仁親王]]が天皇に践祚、[[大正]]に改元される。
 
 
 
== 西暦との対照表 ==
 
※[[明治5年]]までは[[旧暦]]を使用していたため、西暦([[グレゴリオ暦]])の年とはずれが生じる。詳細は[[明治元年]]〜[[明治5年|5年]]の各年の項目を参照。
 
 
 
※は小の月を示す。
 
{|class=wikitable
 
!nowrap="nowrap"|明治元年([[戊辰]])!!nowrap="nowrap"|一月※!!nowrap="nowrap"|二月!!nowrap="nowrap"|三月!!nowrap="nowrap"|四月※!!nowrap="nowrap"|閏四月※!!nowrap="nowrap"|五月!!nowrap="nowrap"|六月※!!nowrap="nowrap"|七月※!!nowrap="nowrap"|八月!!nowrap="nowrap"|九月※!!nowrap="nowrap"|十月!!nowrap="nowrap"|十一月!!nowrap="nowrap"|十二月※
 
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|グレゴリオ暦||[[1868年|1868]]/1/25||2/23||3/24||4/23||5/22||6/20||7/20||8/18||9/16||10/16||11/14||12/14||[[1869年|1869]]/1/13
 
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!nowrap="nowrap"|明治二年([[己巳]])!!nowrap="nowrap"|一月!!nowrap="nowrap"|二月!! nowrap="nowrap"|三月!! nowrap="nowrap"|四月※!!nowrap="nowrap"|五月※!!nowrap="nowrap"|六月!!nowrap="nowrap"|七月※!!nowrap="nowrap"|八月※!!nowrap="nowrap"|九月!!nowrap="nowrap"|十月※!!nowrap="nowrap"|十一月!!nowrap="nowrap"|十二月!!
 
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|グレゴリオ暦||[[1869年|1869]]/2/11||3/13||4/12||5/12||6/10||7/9||8/8||9/6||10/5||11/4||12/3||[[1870年|1870]]/1/2||
 
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!nowrap="nowrap"|明治三年([[庚午]])!!nowrap="nowrap"|一月※!!nowrap="nowrap"|二月!!nowrap="nowrap"|三月!!nowrap="nowrap"|四月※!!nowrap="nowrap"|五月!!nowrap="nowrap"|六月※!!nowrap="nowrap"|七月!!nowrap="nowrap"|八月※!!nowrap="nowrap"|九月!!nowrap="nowrap"|十月※!!nowrap="nowrap"|閏十月※!!nowrap="nowrap"|十一月!!nowrap="nowrap"|十二月※
 
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|グレゴリオ暦||[[1870年|1870]]/2/1||3/2||4/1||5/1||5/30||6/29||7/28||8/27||9/25||10/25||11/23||12/22||[[1871年|1871]]/1/21
 
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!nowrap="nowrap"|明治四年([[辛未]])!!nowrap="nowrap"|一月!!nowrap="nowrap"|二月!!nowrap="nowrap"|三月※!!nowrap="nowrap"|四月!!nowrap="nowrap"|五月!!nowrap="nowrap"|六月※!!nowrap="nowrap"|七月!!nowrap="nowrap"|八月※!!nowrap="nowrap"|九月!!nowrap="nowrap"|十月※!!nowrap="nowrap"|十一月※!!nowrap="nowrap"|十二月!!
 
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|グレゴリオ暦||[[1871年|1871]]/2/19||3/21||4/20||5/19||6/18||7/18||8/16||9/15||10/14||11/13||12/12||[[1872年|1872]]/1/10||
 
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!明治!![[明治元年|元年]]!![[明治2年|2年]]!![[明治3年|3年]]!![[明治4年|4年]]!![[明治5年|5年]]!!6年!!7年!!8年!!9年!!10年
 
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!明治!!11年!!12年!!13年!!14年!!15年!!16年!!17年!!18年!!19年!!20年
 
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|西暦||[[1878年]]||[[1879年]]||[[1880年]]||[[1881年]]||[[1882年]]||[[1883年]]||[[1884年]]||[[1885年]]||[[1886年]]||[[1887年]]
 
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|干支||[[戊寅]]||[[己卯]]||[[庚辰]]||[[辛巳]]||[[壬午]]||[[癸未]]||[[甲申]]||[[乙酉]]||[[丙戌]]||[[丁亥]]
 
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!明治!!21年!!22年!!23年!!24年!!25年!!26年!!27年!!28年!!29年!!30年
 
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|西暦||[[1888年]]||[[1889年]]||[[1890年]]||[[1891年]]||[[1892年]]||[[1893年]]||[[1894年]]||[[1895年]]||[[1896年]]||[[1897年]]
 
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|干支||[[戊子]]||[[己丑]]||[[庚寅]]||[[辛卯]]||[[壬辰]]||[[癸巳]]||[[甲午]]||[[乙未]]||[[丙申]]||[[丁酉]]
 
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|西暦||[[1898年]]||[[1899年]]||[[1900年]]||[[1901年]]||[[1902年]]||[[1903年]]||[[1904年]]||[[1905年]]||[[1906年]]||[[1907年]]
 
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|干支||[[戊戌]]||[[己亥]]||[[庚子]]||[[辛丑]]||[[壬寅]]||[[癸卯]]||[[甲辰]]||[[乙巳]]||[[丙午]]||[[丁未]]
 
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!明治!!41年!!42年!!43年!!44年!!45年!!colspan="5" rowspan="3"|[[大正]]
 
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|西暦||[[1908年]]||[[1909年]]||[[1910年]]||[[1911年]]||[[1912年]]
 
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|干支||[[戊申]]||[[己酉]]||[[庚戌]]||[[辛亥]]||[[壬子]]
 
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== 現代における明治 ==
 
[[総務省]][[統計局]]の推計では、[[2009年]](平成21年)[[10月1日]]の時点では、日本における明治生まれの[[人口]]は16万6千人で、総人口の0.1[[パーセント|%]]となった<ref>{{PDFlink|[http://www.stat.go.jp/data/jinsui/2009np/pdf/2009np.pdf 人口推計(平成21年10月1日現在)]}} 総務省統計局ホームページ 2010年4月19日閲覧</ref>。
 
 
 
[[2011年]](平成23年)[[10月1日]]の時点では、日本における明治生まれの[[人口]]は7万1千人で、総人口の0.1[[パーセント|%]]<ref>{{PDFlink|[http://www.stat.go.jp/data/jinsui/2011np/pdf/2011np.pdf 人口推計(平成23年10月1日現在)]}} 総務省統計局ホームページ 2015年9月5日閲覧</ref>。以降の統計では大正生まれの人口と合算して発表されている(2011年の大正生まれの人口は417万人で総人口の3.3[[パーセント|%]]
 
)。
 
 
 
[[2017年]](平成29年)[[10月1日]]の時点では、日本における明治・大正生まれの[[人口]]は170万7千人で、総人口の1.3[[パーセント|%]]<ref>{{PDFlink|[http://www.stat.go.jp/data/jinsui/2017np/index.html 人口推計(平成29年10月1日現在)]}} 総務省統計局ホームページ 2018年5月28日閲覧</ref>。
 
 
 
[[2000年代]]初め頃から、[[誕生日|生年月日]]記入欄で元号を選択させる場合、明治が省かれる(すなわち大正・昭和・平成の3つから選択させる)ケースが見られるようになっている。ただし、[[行政機関]]の申請・届出書類や、[[JR]]各社の[[定期乗車券|定期券]]購入申込書<ref>{{PDFlink|[http://www.jr-odekake.net/guide/icoca/covenant_iccard.pdf ICカード乗車券取扱約款]}} [[西日本旅客鉄道]]ウェブサイト 2010年4月19日閲覧</ref><!--ICカード以外の定期券申込書は、生年月日記入欄がないようだ-->などでは、[[2010年]](平成22年)の時点では明治が入っている場合が多い。
 
 
 
== 明治を冠するもの ==
 
{{See also|{{前方一致ページ一覧}}|明治 (曖昧さ回避)}}
 
これらのうち、明治グループ・明治大学の略として「明治」を用いることが多い。
 
;企業
 
* [[明治安田生命保険|明治安田生命(旧明治生命]])
 
* [[明治ホールディングス]](明治グループ)
 
* [[明治 (企業)|明治(旧明治乳業、明治製菓)]]
 
* [[大日本明治製糖]]
 
* [[明治屋]]
 
* [[明治書院]]
 
* [[明治鉱業]]
 
* [[明治海運]]
 
;学校
 
* [[明治大学]]
 
* [[明治学院大学]]
 
* [[明治鍼灸大学]]
 
* [[明治薬科大学]]
 
;その他
 
* [[博物館明治村]]
 
* [[明治館 (曖昧さ回避)]]
 
* [[明治用水]]
 
* [[明治治水]]
 
* [[大日本帝国憲法|明治憲法]]
 
* [[明治通り (曖昧さ回避)]]
 
* [[明治会堂]]
 
;架空の事物
 
* 関東明治組(コンピューターゲーム『[[探偵 神宮寺三郎シリーズ]]』に登場する暴力団組織)
 
: また、[[通話表#和文通話表|通話表]]で、「[[め]]」を送る際に「'''明治のメ'''」という。
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|3}}
 
 
 
== 関連書籍 ==
 
* [[湯沢雍彦]]、[[奥田都子]]、中原順子、佐藤裕紀子 『百年前の家庭生活』 クレス出版 2006年 ISBN 4877333363
 
*『ビジュアル・ワイド 明治時代館』 <大型本> (著者)宮地 正人・佐々木 隆・木下 直之
 
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
{{Wikisource|今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書|一世一元ノ詔}}
 
{{Commons|Category:Meiji era}}
 
* [[明治の人物一覧]]
 
 
* [[幕末]]
 
* [[幕末]]
 
* [[明治維新]]
 
* [[明治維新]]
425行目: 17行目:
 
* [[1910年代]]
 
* [[1910年代]]
  
== 外部リンク ==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
<!-- 閉鎖 * [http://1868.fc2web.com/links/index.html 明治史研究のためのリンク集] -->
 
* [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1215200/14 明治政史] - 『[[明治文化全集]]』
 
{{日本の元号}}
 
{{日本の歴史一覧|1868年-1912年}}
 
{{台湾の元号}}
 
  
 
{{デフォルトソート:めいし}}
 
{{デフォルトソート:めいし}}

2018/8/17/ (金) 22:20時点における版

明治(めいじ)

日本元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。

関連項目



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