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{{統合文字|塚|[[Image:U+FA10.svg]](塚)}}
 
 
{{Infobox 漫画家
 
{{Infobox 漫画家
 
| 名前      = 手塚 治虫
 
| 名前      = 手塚 治虫
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| 公式サイト = [http://tezukaosamu.net/jp/ 手塚治虫公式web]<br />[https://www.facebook.com/tezukaosamu.net/ 手塚治虫公式facebook]
 
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'''手塚 治虫'''(てづか おさむ、本名:'''手塚 治'''(読み同じ)、[[1928年]]<ref group="注">生前は1926年生まれと自称していた「現代漫画6巻 手塚治虫集」(筑摩書房)著者紹介など。</ref>([[昭和]]3年)[[11月3日]] - [[1989年]]([[平成]]元年)[[2月9日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[アニメーター]]、アニメーション監督。
 
'''手塚 治虫'''(てづか おさむ、本名:'''手塚 治'''(読み同じ)、[[1928年]]<ref group="注">生前は1926年生まれと自称していた「現代漫画6巻 手塚治虫集」(筑摩書房)著者紹介など。</ref>([[昭和]]3年)[[11月3日]] - [[1989年]]([[平成]]元年)[[2月9日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[アニメーター]]、アニメーション監督。
 
[[大阪大学|大阪帝国大学]][[旧制専門学校#医学|附属医学専門部]]を卒業、医師免許取得、のち[[博士(医学)|医学博士]]([[奈良県立医科大学]]・[[1961年]])。[[ABO式血液型|血液型]]A型<ref>元はB型と言われていたが、改めて検査をしたらA型だった。(『小池一夫対談集 ~キャラクター60年~』対談:手塚治虫)</ref>。[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]日本において[[ストーリー漫画]]の第一人者として、漫画の草分け存在として活躍した。[[兵庫県]][[宝塚市]]出身(出生は [[大阪府]][[豊能郡]]豊中町、現在の[[豊中市]])、同市名誉市民。
 
[[大阪大学|大阪帝国大学]][[旧制専門学校#医学|附属医学専門部]]を卒業、医師免許取得、のち[[博士(医学)|医学博士]]([[奈良県立医科大学]]・[[1961年]])。[[ABO式血液型|血液型]]A型<ref>元はB型と言われていたが、改めて検査をしたらA型だった。(『小池一夫対談集 ~キャラクター60年~』対談:手塚治虫)</ref>。[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]日本において[[ストーリー漫画]]の第一人者として、漫画の草分け存在として活躍した。[[兵庫県]][[宝塚市]]出身(出生は [[大阪府]][[豊能郡]]豊中町、現在の[[豊中市]])、同市名誉市民。
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[[藤子不二雄]]([[藤子・F・不二雄]]、[[藤子不二雄A]])、[[石ノ森章太郎]]、[[赤塚不二夫]]、[[横山光輝]]、[[水野英子]]、[[矢代まさこ]]、[[萩尾望都]]などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。
 
[[藤子不二雄]]([[藤子・F・不二雄]]、[[藤子不二雄A]])、[[石ノ森章太郎]]、[[赤塚不二夫]]、[[横山光輝]]、[[水野英子]]、[[矢代まさこ]]、[[萩尾望都]]などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。
 
== 生涯 ==
 
=== 幼少期 ===
 
手塚治虫(本名・治)は[[1928年]][[11月3日]]、[[大阪府]][[豊能郡]][[豊中市|豊中町<small>(現在の豊中市)</small>]]に、父・[[手塚粲]](てづかゆたか・1900年 - 1986年5月14日<ref>[http://tezukaosamu.net/jp/about/1980.html 1980代:年譜:手塚治虫について:TezukaOsamu.net(JP) 手塚治虫 公式サイト]</ref>)と母・文子の長男として生まれた。[[明治節]]に生まれたことから「[[明治]]」にちなんで「'''治'''」と名づけられた{{Sfn|桜井|p=22}}。
 
 
[[1933年]]、治が5歳の時に、一家は、1932年に他界した祖父の屋敷であった、[[兵庫県]]川辺郡小浜村(現在の[[宝塚市]])川面(かわも)に移った。戦前の[[宝塚市|寶塚<small>(現在の宝塚)</small>]]は、[[小林一三]]が[[箕面有馬電気軌道]]の乗客増加を狙って田園風景の中に開発した[[新興住宅地|新興の住宅地]]が散在して、その中心に[[宝塚歌劇団|宝塚少女歌劇団<small>(現・宝塚歌劇団)</small>]]の本拠地である[[宝塚大劇場]]、[[宝塚ファミリーランド]]の前身である[[宝塚温泉|宝塚新温泉]]や[[宝塚ルナパーク]]などの[[リゾート|行楽施設]]が立ち並んで、一種の異空間を形作っていた{{Sfn|桜井|pp=24-28}}。宝塚の人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる{{Sfn|夏目|pp=70-71}}。父は[[宝塚ホテル]]の中に作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき治は父に連れられて宝塚ホテルのレストランで食事をして、母には宝塚少女歌劇団に連れて行ってもらっていた{{Sfn|桜井|p=31}}。また手塚家の隣家は宝塚少女歌劇団の[[男役]]トップスターである天津乙女(本名:鳥居榮子)と[[雲野かよ子]](本名:鳥居華子)と[[池邊鶴子]](本名:鳥居久代)姉妹が住む鳥居家であり、[[宝塚音楽学校]]に入学したい娘が保護者とともに[[百度参り|お百度]]を踏む光景がよく見られるなど、宝塚少女歌劇団の女性と接する機会も多かった{{Sfn|手塚|1999|p=20}}。のちに手塚は、初恋の相手が宝塚少女歌劇団の生徒だったこと、宝塚の生徒を見たいがために宝塚大劇場に通ったこと、[[月丘夢路]]や[[淡島千景]]のような鉄火肌の女性が好みであること、月丘主演の大映映画『新雪』(1942年)を20数回観たことを語っている{{Sfn|北|p=20}}。
 
 
[[1935年]]、[[大阪教育大学附属池田小学校|池田師範附属小学校<small>(現在の大阪教育大学附属池田小学校)</small>]]に入学。母が[[東京]]出身だったこともあり、[[近畿方言]]を話せず、浮いていた存在だったため、小学校2年の時に「'''ガヂャボイ'''」というあだ名を付けられ、からかいの対象になった。囃し歌を歌われる度に泣いていたという。しかし、幼い頃から見様見真似で描いていた漫画絵が治を救うことになる。小学校3年の時に、最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させると、その後漫画の練習に取り組み{{Sfn|手塚|1997|p=20}}、小学5年生の頃には長編漫画「支那の夜」を完成。同作品は、仲間内のみならず学校の[[教員|教師]]の間でも話題になるほどであり、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったという{{Sfn|手塚|1997|pp=20-22}}。漫画を描くことでクラスからも一目置かれ、また漫画目当てにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになるなどして次第にいじめはなくなった。誕生日には家に20人もの友人が集まるほどになっていた{{Sfn|手塚|1997|p=13}}<ref group="注">ただし、後述の石原実は手塚没後のインタビューで「手塚がいじめっ子を自宅に呼んで漫画で懐柔・籠絡した」とされる点に疑問を呈している。石原によると、同窓会のたびに皆で「おかしいなー」と言っていたが、手塚本人に言うと「『すまん、すまん』とケロッとして」いたという。(池田啓晶他 『手塚治虫完全解体新書』 集英社、2002年、p238)</ref>。友人が家に来ると、当時としては珍しく[[紅茶]]と[[菓子]]でもてなされ、治の誕生日には[[ちらし寿司|五目寿司]]や[[茶碗蒸し]]が振舞われた{{Sfn|手塚|1997|p=13}}。この当時に描いた漫画の一部は今でも記念館に保存されている{{Sfn|手塚|2009}}。
 
 
この時期に、同級生の石原実(大阪[[淀屋橋]]石原時計店社長)と親しくなり、彼の影響を受けて[[昆虫]]や[[自然科学|科学]]、[[天文学]]に興味を持つようになる{{Sfn|手塚|1997|pp=6-9}}。手塚家の広い庭は昆虫の宝庫であり{{Sfn|桜井|p=32}}、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、[[昆虫採集]]には最適の環境だったことから、趣味に対し深みを持たせた{{Sfn|手塚|1999|p=29}}。友人から借りた[[平山修次郎]]『原色千種昆蟲図譜』を読み、[[甲虫類|甲虫]]の[[オサムシ]]の存在を知り、それにちなみ、この時期から[[ペンネーム]]として「'''手塚治虫'''」を使い始めた。1950年頃までは、「'''治虫'''」はそのまま「'''おさむ<u>し</u>'''」と読ませていた{{Sfn|手塚|1999|p=274}}。
 
 
=== 青年期と戦争体験 ===
 
[[1941年]]、[[大阪府立北野高等学校|大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野'''高等'''学校)]]に入学。時節柄[[軍事]]色が強まっていった時期であり、小学校時代とは一転し、漫画を描いているのを[[学校教練]]の教官に見つかり殴られるなどしている{{Sfn|桜井|p=45}}。この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動する。
 
 
[[1944年]]夏には体の弱い者が入れられる[[学校教練|強制修練所]]に入れられる。9月からは学校に行く代わりに[[工廠|軍需工場]]に駆り出され{{Sfn|桜井|p=45}}、ここで[[格納庫]]の[[屋根]]にする[[粘板岩|スレート]]を作った{{Sfn|手塚|1997|p=52}}。
 
 
[[1945年]]3月、戦時中の修業年限短縮により北野中学を4年で卒業。6月、[[学徒勤労動員|勤労奉仕]]で[[防空監視哨|監視哨]]をしていたときに[[大阪大空襲]]に遭遇、頭上で[[焼夷弾]]が投下されるも九死に一生を得る{{Sfn|手塚|1997|pp=52-59}}。この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『[[紙の砦]]』(1974年)や『[[どついたれ]]』([[1979年]] - [[1980年]])などの自伝的作品の中にその様子が描かれている{{Sfn|桜井|pp=48-50}}。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった{{Sfn|手塚|1997|p=62}}。
 
 
1945年3月に[[浪速高等学校 (旧制)|旧制浪速高等学校]]を受験したものの、漫画ばかり描いていたため、不合格となった{{Sfn|桜井|p=58}}。同年7月、手塚は大阪帝国大学医学専門部の試験を受け、入学を許可された<ref group="注" name=daigaku/>。医学専門部は戦争の長期化に伴い[[軍医]]速成のために臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもので、[[学制]]上は[[旧制医学専門学校]]と扱われ{{Refnest|group="注"|旧制大学と旧制専門学校は明確に区別されており、旧制専門学校卒業生には[[学士号]]の授与も行われなかった。}}、従って[[旧制中学校]]からの入学が可能であった{{Sfn|桜井|p=59}}。大阪大学(旧・大阪帝国大学)[[大学専門部 (旧制)|附属医学専門部]]は[[1951年]]に廃止されている。なお後述の通り[[医師国家試験]]についてはジャングル大帝や鉄腕アトムなど連載の執筆をしながら合格している。
 
 
=== デビュー、赤本の世界へ ===
 
[[終戦の日|終戦]]後、学生である手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『[[メトロポリス (漫画)|メトロポリス]]』の原型)という長編を選んで描き直し、[[毎日新聞]]学芸部へ送った{{Sfn|手塚|1999|pp=57-60}}。これは音沙汰無しに終わったが、その後、隣に住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女性からの紹介で、子供向けの『少国民新聞』(現在の[[毎日小学生新聞]])学芸部の程野という人物に会い{{Sfn|手塚|1999|pp=61-65}}、彼の依頼を受けて『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画『[[マアチャンの日記帳]]』を連載(1946年1月1日 - 3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。この『マアチャン』はローカルながら人気があり、[[人形]]や[[駄菓子]]の[[キャラクター]]に使用されたという記録も残っている{{Sfn|米澤|p=13}}。『マアチャン』に続けて4月から『[[京都新聞|京都日日新聞]]』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと平行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド』(後述するものとは別物)なども各紙に描かれているが、4コマ連載という形式に限界があり、後2者はどちらも中断に近い形で終わっている{{Sfn|米澤|p=13}}。
 
 
漫画家としてデビューする前の[[1945年]]頃、[[桂春団治 (2代目)|2代目桂春団治]]が地方での自主興行を行う際のポスター画を提供した(現物は[[宝塚市立手塚治虫記念館]]に展示されている)。2代目春団治が宝塚市清荒神在住ということもあり、親交を重ねるうち、手塚の漫画家志望という進路を案じ、落語家になるよう勧めたという。
 
 
1946年、[[同人誌]]『まんがマン』の例会を通じて後見役の酒井七馬と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の[[コラボレーション|合作]]の話を持ちかけられる{{Sfn|手塚|1999|pp=89-90}}。これは戦後初の豪華本の企画でもあり、それまで長編漫画を描き溜めていた手塚としては願ってもない話であった{{Sfn|手塚|1999|p=90}}。こうして大雑把な構成を酒井が行い、それを元に手塚が自由に描くという形で200ページの描き下ろし長編『[[新宝島|新寶島]]』が制作された{{Sfn|手塚|1999|p=91}}。1947年1月に出版されると、当時としては異例の[[ベストセラー]]となった。映画的な構成とスピーディな物語展開を持つ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている{{Sfn|米澤|p=82}}{{Sfn|呉|p=128}}(後段[[#新寶島(新宝島)の革新性]]も参照)。
 
 
ベストセラーとなった『新寶島』は大阪に[[赤本 (少年向け本)|赤本]]ブームを起こし、手塚はこれに乗って描き下ろし単行本の形で長編作品を発表できるようになった{{Sfn|米澤|pp=14-15}}。手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編を基に、学業の傍ら月に1、2冊は作品を描き上げなければならなくなった{{Sfn|手塚|1999|p=96}}。1947年に発表された『[[火星博士]]』『怪人コロンコ博士』『キングコング』などは子供向けを意識した[[B級映画]]的な作品であったが、[[1948年]]の『[[地底国の怪人]]』からは[[悲劇]]的な展開も取り入れるようになり、[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[冒険]]などを題材に作品中でさまざまな試みが行なわれた。同年末に描かれた『[[ロストワールド (漫画)|ロストワールド]]』では様々な立場の人物が絡み合う[[地球]]規模の壮大な物語が描かれ、続く『メトロポリス』(1949年)『[[来るべき世界 (漫画)|来るべき世界]]』(1951年)とともに手塚の初期を代表するSF[[三部作]]をなしている{{Sfn|米澤|pp=15-16}}。1949年の[[西部劇]]『拳銃天使』では[[幼年漫画|児童漫画]]で初の[[接吻|キスシーン]]を描く{{Sfn|米澤|p=16}}。1950年には文豪[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ファウスト]]』を漫画化したほか、「映画制作の舞台裏をお見せします」という導入で始まる『ふしぎ旅行記』、自身の漫画手法を体系化して示した漫画入門書の先駆的作品『漫画大学』などを発表している。
 
 
漫画執筆が忙しくなると大学の[[学年制と単位制|単位]]取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。[[教授]]からも[[医師|医者]]になるよりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める{{Sfn|手塚|1999|pp=98-99}}。もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年[[原級留置|留年]]。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに[[大阪大学医学部附属病院]]で1年間[[インターン制度|インターン]]を務め、[[1952年]]3月に第十二回医師国家試験に合格、[[1953年]]9月18日に医籍登録されている<ref>公表されている手塚治の医師免許による。</ref>。このため、後に手塚は自伝『ぼくはマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べている{{Sfn|手塚|1999|p=100}}。
 
 
=== 雑誌連載開始 ===
 
[[ファイル:Tezuka Osamu.JPG|thumb|1953年]]
 
手塚は大阪で赤本漫画を描く傍ら、東京への持ち込みも行なっている。当初期待した[[講談社]]では断られたが、[[新生閣]]という[[出版社]]で持ち込みが成功し、ここでいくつか読み切りを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に1950年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となった{{Sfn|桜井|pp=72-73}}。同年11月より雑誌『[[漫画少年]]』([[学童社]])にて『[[ジャングル大帝]]』の連載を開始、1951年には『[[鉄腕アトム]]』(1952年 - )の前身となる『アトム大使』を『[[少年 (雑誌)|少年]]』([[光文社]])に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には目ぼしい少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画が開始されることになった{{Sfn|米澤|p=21}}。1953年には『[[少女クラブ]]』(講談社)にて『[[リボンの騎士]]』の連載を開始。宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は、以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった{{Sfn|米澤|p=27}}。[[1954年]]には『[[ジャングル大帝]]』の後を受けて『漫画少年』に『[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]』の連載を開始。『火の鳥』はその後幾度も中断しながら長年描き継がれた手塚のライフワークとなった。
 
 
雑誌連載という形態は、手塚がそれまで[[書き下ろし|描き下ろし]]単行本で行ってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成などの作劇方法へ手塚を向かわせることになった{{Sfn|米澤|p=23}}。一方、描き下ろし単行本の方は1952年の『バンビ』『罪と罰』の2冊で終わりを告げるが、代わりに[[郵便法]]の改正によってこの時期に雑誌の付録が急激に増加し、手塚は連載作品と平行して付録冊子の形で描き下ろし長編作品をいくつも手がけ、この形で単行本時代の作品も続々と[[リメイク]]されていった{{Sfn|米澤|pp=23-24}}。
 
 
私生活の面では、[[1952年]]に上京しており、翌1953年に『漫画少年』からの紹介で[[豊島区]]の[[トキワ荘]]に入居{{Sfn|手塚|1999|p=183}}、その後手塚に続いて[[寺田ヒロオ]]、[[藤子不二雄]]が入居。手塚は自分の部屋である14号室を藤子不二雄の二人に譲り転居したが、その後も[[石ノ森章太郎|石森章太郎]](後に石ノ森章太郎に改名)、[[赤塚不二夫]]らが続々と入居し、トキワ荘は漫画家の一大[[メッカ#比喩表現|メッカ]]となった。この時、トキワ荘の漫画家には[[映画]]をたくさん観るように薦めており、手塚自身も十数年間は年に365本を必ず観ていたという<ref group="注">徹夜明けであっても映画館に駆け込んだという。『観たり撮ったり映したり』(手塚治虫著)</ref>。
 
 
なお、1953年に手塚は関西の[[高額納税者公示制度|長者番付]]の画家の部でトップとなっているが、仕事場が[[木構造 (建築)|木造]]2階建て建築のトキワ荘であったため、[[取材]]に来た[[記者]]に驚かれ、以後手塚は意識して高級品を買い込むようにしたと語っている{{Sfn|手塚|1999|pp=184-185}}。
 
 
『鉄腕アトム』『[[ぼくのそんごくう]]』など児童漫画の人気作の連載をする一方で、手塚は[[1955年]]に大人向けの漫画雑誌『[[漫画読本]]』([[文藝春秋|文藝春秋新社]])に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表しており、ここでは子供向けの丸っこい絵柄とは違った大人向けのタッチを試みている{{Sfn|米澤|p=31}}。1955年から[[1958年]]にかけての手塚は知的興味を全面に出した作品を多く出しており{{Sfn|米澤|p=31}}、[[1956年]]にSF短編シリーズ『[[ライオンブックス]]』を始めたほか、学習誌に『漫画[[生物学]]』『漫画天文学』などの[[学習漫画]]を発表、後者は第3回小学館漫画賞(1957年)の対象作品となった。この他にも幼年向け作品や[[絵物語]]、[[小説]]や[[エッセイ]]など漫画家の枠を超えた活動をするようになっており{{Sfn|米澤|pp=32-33}}、1958年には[[東映アニメーション|東映動画]]の演出家白川大作から請われて同社の嘱託となって劇場用長編漫画映画『[[西遊記 (1960年の映画)|西遊記]]』(『[[ぼくのそんごくう]]』が原作)の原案構成を受け持っている{{Sfn|桜井|p=118}}。
 
 
=== 劇画との闘い ===
 
1958年頃より、各漫画誌で[[桑田二郎|桑田次郎]]、[[武内つなよし]]、横山光輝などの売れっ子漫画家が多数出現しており、この時期の手塚は人気面ではそのような漫画家たちのうちの一人に過ぎなくなっていた{{Sfn|米澤|pp=85-86}}。さらに手塚を脅やかしたのは、この時期に新しく台頭してきた[[劇画]]の存在であった。社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時の手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけ、集会に参加したりした{{Sfn|桜井|p=119}}。
 
 
当初は劇画の雑誌にも連載を持つなどしていたが、手塚の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]までが貸本劇画を何十冊も借りてくるようになると、手塚は[[ノイローゼ]]に陥り、精神鑑定も受けたという{{Sfn|手塚|1999|pp=216-217}}。またすでに、1957年には『黄金のトランク』(『[[西日本新聞]]』連載)で劇画風のタッチを試みるなどしており、徐々に劇画の方法論を自作に取り入れていくようになる{{Sfn|桜井|p=121}}。
 
 
[[1959年]]、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『[[週刊少年マガジン|少年マガジン]]』(講談社)および『[[週刊少年サンデー|少年サンデー]]』([[小学館]])が創刊され、それ以後月刊の少年誌は次第に姿を消していくことになった。この時、手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となった(ただし、『少年サンデー』初代[[編集長]]の[[豊田亀市]]は、契約料200-300万円(当時)を提示して専属契約を持ちかけたが、断られたと証言している{{Sfn|豊田|pp=59-63}}。)が、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『[[スリル博士]]』を連載、『少年マガジン』の方には連載13回分の下描きだけをして石森章太郎に『[[快傑ハリマオ]]』の連載をさせている{{Sfn|桜井|p=118}}。同年、[[宝塚ホテル]]にて結婚式を挙げる。
 
 
=== アニメーション ===
 
前述のとおり、幼少期から[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー映画]]を愛好していた手塚は、もともと[[アニメーション]](注:1960年代ぐらいまでは世間一般では漫画映画と呼ばれていた)に強い関心を持っており、アニメーションの制作は念願の仕事であった。特に影響を受けた作品はディズニーの『バンビ』(1942年米国公開)だが、これは戦後の1951年に日本で公開された。手塚は1942年(昭和17年)にディズニーや[[フライシャー・スタジオ|フライシャー兄弟]]など米国のアニメーションの公開を禁止<ref>{{cite web|url=https://natalie.mu/eiga/news/255316|publisher=映画ナタリー|date=2017-11-03|accessdate=2018-03-08|title=アジア初の長編アニメ「西遊記 鉄扇公主の巻」新千歳空港で上映、岡田秀則の講演も}}</ref>した戦時中の日本で初めて公開されたアニメーションであるアジア初の長編動画作品『[[西遊記 鉄扇公主の巻]]』(中国、1941年、73分、モノクロ)を観て感動し、戦後の1980年に中国を訪れた際に[[上海美術映画製作所]]で監督の[[万籟鳴]]と対面を果たして[[孫悟空]]とアトムが握手するイラストを制作した<ref>{{cite web|url=http://ent.163.com/09/1022/15/5M88C4TF00033RBG.html|publisher=网易娱乐|date=2009-10-22|accessdate=2017-11-06|title=纪念手冢治虫辞世20年 他曾让阿童木牵手孙悟空}}</ref>。プロの漫画家になる前の敗戦の年1945年に、手塚は焼け残った大阪の[[松竹座]]で海軍省製作の長編漫画映画『[[桃太郎 海の神兵]]』を観て感涙し、このとき将来必ず自分の手で漫画映画を作ることを決意したという{{Sfn|手塚|1999|pp=33-34}}。戦後の1946年(昭和21年)に上京した際には漫画映画製作会社「芦田漫画製作所」(芦田巌)に出向いて採用を志願したが断られている。漫画は手塚にとってアニメーション制作の資金を得るための手段だった{{Sfn|山本}}。[[評論家]]の[[大宅壮一]]から([[華僑]]のように出身地の大阪を離れて東京で稼ぐという意味で)「阪僑」<ref>大宅壮一は1958年に「文藝春秋」で連載した「日本の人物鉱脈」で「最近私は"阪僑"という妙な言葉をつくって、大阪人気質、東京その他における大阪系人物のありかたを、南方諸地域や日本における中国人のありかたになぞらえて」と書いている。
 
 
: 札埜和男『大阪弁「ほんまもん」講座』新潮社、2006年 ISBN 978-4106101601 p20</ref>と嘲評されるほど漫画を描いて稼ぎまくった。また自らを「ディズニー狂い」と称した。また前述のとおり、東映動画から請われて嘱託の仕事を受けてもいる。
 
 
[[1961年]]、手塚は自分のプロダクションである[[手塚プロダクション]]に動画部を設立。当初は6人のスタッフから始まった{{Sfn|手塚|1999|p=237}}。スタッフの給料から制作費まですべてを手塚の描いた漫画の原稿料で賄い、1年をかけて40分のカラー長編アニメーション作品『ある街角の物語』を制作。この作品で[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]や[[芸術祭 (文化庁)|文部省芸術祭]]奨励賞など数々の賞を受賞する{{Sfn|手塚|1999|p=237}}。動画部は[[1962年]]から「[[虫プロダクション]]」と改名し、日本初となる30分枠のテレビアニメーションシリーズ<ref group="注" name="以前">テレビアニメとしてはそれ以前に『[[もぐらのアバンチュール]]』『[[新しい動画 3つのはなし]]』『[[インスタントヒストリー]]』『[[おとぎマンガカレンダー]]』などが放映されている。</ref>『鉄腕アトム』の制作に取り掛かった。しかし総勢10名にも満たないスタッフでは毎週テレビ放送用にディズニーのようなフルアニメーション番組を制作することは作業の量から不可能であり、絵の枚数を大幅に削減する[[リミテッド・アニメーション|リミテッドアニメ]]の手法を必要に迫られて編み出すに至った。毎週放送のアニメーション番組を実現するために(既にアメリカの[[ハンナ・バーベラ・プロダクション]]などでも工数を減らしたリミッテッド・アニメーションの制作は行われていたがそれらも参考にして)試行錯誤と創意工夫を積み重ねて作り出したさまざまなリミテッド・アニメの手法や様式は、その後の日本のアニメーション制作全般に大きな影響を与えることとなる。虫プロの鉄腕アトムは、当時の日本のテレビアニメーションを代表する大人気作品になった。[[1967年]]には自身の漫画が原作である『[[ジャングル大帝]]』が第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞している。[[1969年]]から「アニメラマ三部作」(二作目『[[クレオパトラ (1970年の映画)|クレオパトラ]]』を監督)が制作される(注:アニメラマの第一作目「[[千夜一夜物語 (1969年の映画)|千夜一夜物語]]」と第二作目のクレオパトラの企画と制作には手塚は強く関わっているが、三作目のアニメラマ「[[哀しみのベラドンナ]]」は手塚が虫プロダクションを辞した後に作られた作品で手塚は全く関与をしていない)。これは従来の子供向けアニメ映画とは逆の位置にあり、成人向けに作られた劇場用アニメーション映画であった。また虫プロダクションはアニメーション監督としては[[杉井ギサブロー]]、[[りんたろう]]、[[山本暎一]]、[[出崎統]]、[[高橋良輔 (アニメ監督)|高橋良輔]]、[[富野由悠季]]、[[吉川惣司]]など、[[アニメーター]]としては中村和子、[[月岡貞夫]]、[[川尻善昭]]、[[芦田豊雄]]、[[安彦良和]]、[[杉野昭夫]]、[[荒木伸吾]]、[[北野英明]]、[[村野守美]]、[[金山明博]]など、制作者としては[[丸山正雄]]、鈴木良武、岸本吉功、田代敦巳、清水達正、若尾博司、八田陽子、[[明田川進]]、酒井明雄、布川ゆうじなど後に日本を代表するアニメーション制作者となる人材を多く輩出した。
 
 
たとえリミテッド・アニメの手法を用いるにしてもテレビ放送の30分枠用に(最低レベルで)1本あたり2,000枚分の動画を動画家(アニメーター)5名で担当し、一人が1日66枚を仕上げる{{Sfn|桜井|p=136}}という苛酷な労働状況が作られることとなった。また作品を1本につき55万円<ref group="注">ただし、アニメーション『鉄腕アトム』関係者への聞き取りと資料の再調査を行った[[津堅信之]]は実際には「当初は1本155万円が代理店より制作費として支払われていた」としている。津堅によると、その後も制作料は少しずつ引き上げられており、「虫プロは確実に経営努力を実施して、かつ結果を得ている。『『アトム』を55万円で作ったから、その後のアニメ制作環境が悪くなった』という評価がいまだにあるとすれば、短絡的であると言わざるを得ない。」としている(津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質』NTT出版、2007年)。</ref> という破格の製作費で売り込んだことが制作部の首を絞めることになった。手塚がアニメの値段を安くして売り込んだのは、当時の普通のテレビ番組の制作費が50万程度であったことと、安くすればテレビアニメが普及させやすいのと、他の会社と差を付けるためだったと語るが{{Sfn|手塚|1999|p=242}}、後に手塚自身が「大失敗だった」{{Sfn|手塚|1999|p=242}}と認めたように、これは大きな誤算であった。『アトム』の成功を見て他社が次々と新規参入して低予算でテレビアニメが続々と制作され放映されることになった{{Sfn|桜井|p=142}}。しかし当初は[[経営]]が苦しかった虫プロも『アトム』が大ヒットすると[[版権]](マーチャンダイジング)収入で莫大な利益が上がるようになり、また海外に向けて作品の放映権+派生商品を展開する権利を販売できたことなどにより、急速に規模が拡大してゆき(最盛期には社員総数が一時は400名から最大550名の規模となり)、『アトム』は虫プロダクションを黒字にさせた{{Sfn|手塚|1999|p=249}}。放送が4年間続いた『鉄腕アトム』は放映開始から1年半で手塚の漫画原作をほぼ使い切ってしまい、その後に虫プロ文芸部のスタッフが独自に作ったエピソードは人気を得るための戦闘が描かれる傾向が強まり、「鉄腕アトム」から手塚の好んだアニメーションらしいユーモアが失われていった{{Sfn|手塚|1999|p=249}}<ref group="注">アニメーターの[[大塚康生]]は、手塚が一方で理想のアニメに憧れながらも、遂にそれを成し遂げられなかった原因を、[[商業主義]]のためではなくて、手塚がアニメの技術について無知だったからだとしている。「演技設計やアニメートに無関心では優れたアニメーションになる筈がなかったように思います。実際、手塚氏はフル・アニメーションの基礎技術をディズニーなどの先達に学んだ形跡がなく、ろくにアニメーターの養成もせずに漫画的なリミテッドから出発している点も実に不思議です」(大塚『作画汗まみれ 増補改訂版』P95「4章 テレビアニメーション時代の幕開け」)</ref>。
 
 
また手塚の存命中からアニメーターの給料が安いのは手塚のせいであると雑誌で非難されることがあったが、手塚はこう反論している「しかしね、ぼく個人我慢ならんのはね、こういう声があるんだよ。手塚があのアトムを売る時、べらぼうな安値できめてしまったから、現在までテレビアニメは制作費が安くて苦労するんだと。冗談じゃないよ。」「あの時点での制作費はあれが常識なんで、あの倍もふっかけようもんなら、まちがっても[[スポンサー]]はアトムを買わなかったね。そうしたら、テレビアニメ時代なんて夢物語だったろうね。」「たしか四十何万が制作費で、ぼくの持ち出しは二十万くらいでしたかね。ところがアトムがべらぼうにあたったんで、アニメ番組はあたるということで、それから半年ほどあとには、アニメものがたちまちバタバタとできたんだ。その制作費は、なんと百万ですよ!つまりそれだけ出してもモトがとれてお釣りがくると企業は踏んだんだ。それから先はご覧の通りですよ。現在制作費は五百万円が下限で、六、七百万円ぐらいはスポンサーが出しますよ」<ref>「話の特集」1979年7月号 瀕死のアニメーション</ref>。また[[杉井ギサブロー]]は、手塚治虫が独自のリミテッド・アニメの手法を日本に定着させなければ日本は世界一のテレビアニメ生産国にはなっていなかったであろうとも語っている。
 
 
一方で、[[アート・アニメーション]](手塚自身は商業アニメーションに対比して「実験アニメーション」と言っていた)の分野にも功績を残している。虫プロで『おす』、『しずく』、『タバコと灰』、『創世紀』、『めもりい』といった短編の非商業作品を制作し、第1回広島国際アニメーションフェスティバルグランプリに『[[おんぼろフィルム]]』が選ばれている([[名誉会長]][[ポール・グリモー]]、[[審査]][[委員長]]は[[ラウル・セルヴェ]]、選考委員長[[アントワネット・モゼス]])。虫プロ社内には社長であった手塚の発案により、実験作品の製作資金に対して20万円の助成制度まで設けられていた(手塚によると、虫プロを設立したのは本来は実験アニメーションの制作を行うためであったと語っている)。
 
 
=== 低迷と復活 ===
 
アニメ制作に乗り出して以降も、手塚は漫画作品を精力的に発表していた。虫プロの成立時期は漫画作品もアニメと関連した企画が多くなっており、アニメーションと平行して『鉄腕アトム』原作版の連載や、日本初のカラーテレビアニメ『[[ジャングル大帝]]』に連動しての同作品リメイク版の連載、当初アニメ化の企画もあった『[[マグマ大使]]』の連載などが1963年 - [[1965年]]にかけて行なわれている{{Sfn|米澤|p=50}}。他のアニメ作品と関連して『[[W3]]』連載雑誌でのいざこざが起こった[[W3事件]]も1965年の出来事である。
 
 
[[1966年]]、手塚は実験漫画雑誌『[[COM (雑誌)|COM]]』を創刊する。先行した[[白土三平]]の劇画作品『[[カムイ伝]]』を看板作品とする『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』に対抗したもので{{Sfn|米澤|p=55}}、手塚の『火の鳥』を目玉として、石森章太郎や[[永島慎二]]などの意欲的な作品が掲載された。1967年には怪奇漫画『[[バンパイヤ]]』に続いて『どろろ』を『少年サンデー』に連載。これらは当時[[水木しげる]]によって引き起こされていた[[妖怪]]ブームを意識した作品であった{{Sfn|米澤|p=54}}<ref group="注">なお『どろろ』作中の妖怪は水木の影響を受けたと思われる[[点描]]が用いられている(夏目、151-152p)。</ref>。[[1968年]]には青年誌『[[ビッグコミック]]』(小学館)、『[[プレイコミック]]』([[秋田書店]])などが相次いで創刊し、青年漫画が本格的にスタートしており、手塚も『ビッグコミック』に『[[地球を呑む]]』『[[奇子]]』『[[きりひと讃歌]]』、『プレイコミック』に『[[空気の底]]』シリーズなど青年向けの作品を手がけている。この時期の手塚の青年向け作品は[[安保闘争]]などの社会的な背景もあり、暗く陰惨な内容のものが多かった{{Sfn|米澤|pp=56-57}}。
 
 
一方少年誌では『ファウスト』を日本を舞台に翻案した『[[百物語 (手塚治虫)|百物語]]』、[[永井豪]]『[[ハレンチ学園]]』のヒットを受け{{Sfn|米澤|p=59}}、「[[性教育]]マンガ」と銘打たれた『[[やけっぱちのマリア]]』([[週刊少年チャンピオン]])、『[[アポロの歌]]』([[少年キング|週刊少年キング]])などを発表しているが、この時期には少年誌において手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていた{{Sfn|米澤|pp=59-62}}。さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、[[1973年]]に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクション(すでに[[1971年]]には経営者を退いていた)が[[倒産]]し、手塚も個人的に推定1億5000万円の[[借金]]を背負うことになった{{Sfn|桜井|pp=166-167}}。作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想している{{Sfn|夏目|pp=169-170}}。
 
 
1973年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で連載開始された『ブラック・ジャック』も、少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、[[壁村耐三]]編集長の厚意で始まったものであった{{Sfn|夏目|p=170}}。しかし、連綿と続く戦いで読み手を惹き付けようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の毎回読み切り形式での連載は新鮮であり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになった{{Sfn|米澤|p=65}}。さらに1974年、『[[週刊少年マガジン]]』(講談社)連載の『三つ目がとおる』も続き、手塚は本格的復活を遂げた{{Sfn|米澤|p=67}}。
 
 
[[1976年]]、中断されたままであった『火の鳥』が『[[マンガ少年]]』([[朝日ソノラマ]])の創刊によって再開。[[1977年]]時点で、手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『[[ユニコ]]』『[[MW (漫画)|MW]]』と6つの連載を抱えていた。また、同時期の漫画[[文庫本]]ブームに伴い手塚の過去の作品も続々と再刊されており、さらに同年6月からの講談社『[[手塚治虫漫画全集]]』刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」、「漫画の神様」という評価を確かなものにしていった{{Sfn|米澤|p=72}}。
 
 
=== 晩年 ===
 
[[1980年代]]になると、[[幕末]]から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)や、[[アドルフ・ヒトラー]]を題材に一般週刊誌で連載された『アドルフに告ぐ』([[週刊文春]])など、青年漫画の新たな代表作を手がけることになる{{Sfn|米澤|p=93}}。「陽だまりの樹」は第29回小学館漫画賞、「アドルフに告ぐ」は第10回講談社漫画賞一般部門を受賞したが1988年3月に胃を壊し、一度目の手術を受ける。5月に退院し、以前とまったく変わらない多作振りを見せた。しかし同年[[11月]]、[[中華人民共和国]][[上海市]]でのアニメーションフェスティバルに出席した後に倒れ(制止された際に「これは国際問題です」<ref>{{Cite book|和書|author=手塚治虫、松谷孝征|date=2014年10月|title=手塚治虫 壁を超える言葉|series=|publisher=かんき出版|location=|isbn=|page=第25章)}}</ref>と病身をおして訪れた)、帰国と同時に[[半蔵門病院]]に入院。医師の診断ではスキルス性[[胃癌]]であった(しかし当時の日本の医療の慣習により、直接本人には告知されなかった)。
 
 
翌1989年[[1月21日]]に手塚プロ[[社長]]の[[松谷孝征]]が見舞に来た時には、「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたという。胃癌ということは伏せたうえで聞いた事を話すと「そうか…」と一言言ったという<ref>1989年2月10日放送『おはよう!ナイスデイ』</ref>。100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は<ref>[[NHKスペシャル|NHK特集]]『手塚治虫 創作の秘密』([[1986年]][[1月10日]]放送)</ref>、病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。
 
 
同年[[1月25日]]以降、昏睡状態に陥るが意識が回復すると「[[鉛筆]]をくれ」と言っていた。息子の眞は昏睡が覚めると鉛筆を握らせるが意識がなくなりの繰り返しだったと語る<ref name="SHIN">手塚眞「わが父 手塚治虫」朝日ジャーナル臨時増刊1989年4月20日号『手塚治虫の世界』所収</ref>。死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心を無くさなかった<ref>NHK「手塚治虫 世紀末へのメッセージ」1999年1月15日 22:00 - 22:50放送</ref><ref>集英社新書「手塚先生、締め切り過ぎてます!」福元一義 2009年</ref>。
 
 
半蔵門病院の病室で、1989年(平成元年)2月9日午前10時50分死去。死に立ち会った松谷によるとこの「頼むから仕事をさせてくれ」が手塚の最後の言葉であったという。通夜は[[2月11日]]、[[東久留米市]]の自宅で<ref>東京読売新聞朝刊「いま永遠の"火の鳥"となる 手塚治虫さんの葬儀にファン1万人」(1989年3月3日)</ref>、葬儀は3月2日、東京都[[港区 (東京都)|港区]]の[[青山葬儀所]]で手塚プロダクションの社葬として<ref>東京読売新聞朝刊「手塚治虫さんの通夜 2000人がお別れ / 東京・東久留米」(1989年2月12日)</ref>、それぞれ営まれた。
 
 
『[[グリンゴ]]』『[[ルードウィヒ・B]]』『[[ネオ・ファウスト]]』などの作品が未完のまま遺された{{Sfn|米澤|p=80}}<ref>[[NHKスペシャル]]「いのち〜わが父・手塚治虫」(1989年4月16日)</ref>。また、[[梅原猛]]の小説『[[ギルガメシュ]]』のアニメ化に意欲的だったが、構想中のままに終わった<ref>宮﨑駿『折り返し点』(p.116、梅原の発言)</ref>。亡くなる3週間前(1989年1月15日)まで書かれていた自身の日記には、その時の体調状態や新作のアイデアなどが書き連ねられていた。
 
 
周りの人間は誰も手塚に胃癌であることを伝えず、手塚自身は生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされる<ref name="SHIN">手塚眞「わが父 手塚治虫」朝日ジャーナル臨時増刊1989年4月20日号『手塚治虫の世界』所収</ref>。しかし、手塚が病院で描いていた遺作の一つ「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが、本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれている。
 
 
== 作風と功績 ==
 
=== 手塚が影響を受けたもの ===
 
手塚は幼少期から独自の漫画を描いており、[[田河水泡]]『のらくろ』、[[横山隆一]]『[[フクちゃん]]』の[[模写]]をするようになったが、7歳の頃に出た[[謝花凡太郎]]による[[ミッキーマウス]]の[[ブートレグ|海賊版]]単行本に夢中になり、この本の模写をするようになった(手塚によれば「本家のディズニーに送ってやりたい程」そっくりの絵だったという)。手塚の絵柄は、劇画の影響を受ける1955年頃まではディズニーの影響が強い丸っこい絵柄で、「ディズニースタイル」とも呼ばれていた。ディズニーのアニメーションに出会ったのは9歳のときで、毎年[[正月]]に大阪の朝日会館で行なわれる「漫画映画大会」で上演されたものであった。父が家庭用映写機を購入した時には、上演用フィルムの中に『ミッキーの汽車旅行』もあった。以来ディズニーのアニメーションに心酔し、1950年にディズニーの『[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]』が封切られた時には映画館で50回、次の『[[バンビ (映画)|バンビ]]』は80回以上観たという。手塚は「尊敬する映画人」として、[[チャールズ・チャップリン]]と[[ウォルト・ディズニー]]を挙げている<ref>渡辺泰「アニメーションに魅せられた神様」、霜月たけなか編『誕生!「手塚治虫」』所収、朝日ソノラマ、1998年、101-102p</ref>。なお、[[竹熊健太郎]]は手塚が得意とした「[[落ち|楽屋落ち]]的なメタ・ギャグ」「キャラクターのメタモルファーゼ」から、[[フライシャー・スタジオ|フライシャー兄弟]]のアニメーションからも影響を受けていることを指摘している<ref>[http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-f5d4.html 「手塚治虫の引き裂かれた夢 (2)」]</ref>。また、手塚の担当編集者でマネージャーも務めた手塚プロ社長の松谷孝征は手塚が最も愛して尊敬したのは万籟鳴であり、手塚はディズニーの影響を受けていると多くの人が認識するも実際は中国アニメ、特に万籟鳴の影響を受けており、その時期はディズニーよりも早くて影響も深いと述べている<ref name="son171130">{{cite web|url=http://japanese.china.org.cn/jp/archive/zryhhj/node_2185493.htm|publisher=[[中国網]]|accessdate=2018-03-08|title=手塚治虫氏と『孫悟空』}}</ref>。病で倒れる直前の1988年に第1回上海国際アニメフェスの審査員として中国を訪れた際も[[古希]]を迎えた万籟鳴と再会しており<ref name="son171130"/>、1989年[[8月27日]]に手塚プロが制作し、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]で放映された『手塚治虫物語 ぼくは孫悟空』でも中国で万籟鳴と会った場面が再現されており、病床の手塚が草案をしたためたものの完成を見ずに放送年の2月に手塚は死去したために遺作の1つとなった<ref>{{cite web|url=http://j.people.com.cn/n3/2017/0727/c94473-9247320-3.html|publisher=[[人民網]]|date=2017-07-27|accessdate=2018-03-08|title=手塚治虫と孫悟空の「縁」 (3)}}</ref>。
 
 
夏目房之介は、「手塚が漫画に持ち込んだ外部性・異質な文化」として、ディズニーとともに[[文学]]、[[演劇]]、[[宝塚歌劇団|宝塚]]文化を挙げている。幼少期の手塚の家には新潮社の「世界文学全集」があり、よく外国文学を読み漁っていたという。後に漫画化した[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]『[[罪と罰]]』やゲーテの『ファウスト』は何十回も読み返しており、特に『ファウスト』は日本を舞台にした翻案作品『百物語』『ネオ・ファウスト』を含めると3度にわたり手塚によって漫画化されている。また宝塚演劇に惹かれたことで手塚は演劇青年となり、大学で演劇部に所属していたほか、在学中の1950年頃には関西民衆劇場に所属し、ドストエフスキー『罪と罰』の公演にペンキ屋の役で出演するなどしている{{Sfn|手塚|1999|pp=21-22}}。夏目は初期の手塚作品の大げさな表情やポーズ、舞台セットのような背景に宝塚演劇の影響を見ており、また手塚漫画の特徴である牧歌的な風景と未来的な風景の同居を、当時の宝塚の人工的な風景に由来するものと見ている{{Sfn|夏目|pp=67-92}}。
 
 
子供時代、家には「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」も揃っていたという<ref>「第一章 マンガとの出会い」内「あかぬけていた大阪文化」内の本人発言、手塚治虫+聞き手=石子順『手塚治虫漫画の奥義』、講談社、1992年</ref>。
 
 
=== 新寶島(新宝島)の革新性 ===
 
手塚治虫の最初期の作品である酒井七馬との共作による1946年の『新寶島』は戦後[[ストーリー漫画]]の原点とされ、本作を読んで影響を受けたり、漫画家を志した読者も多い。藤子不二雄<ref>『二人で少年漫画ばかり描いてきた』p.20</ref>、石ノ森章太郎<ref>石森章太郎『少年のためのマンガ家入門』秋田書店、1965年。</ref>、[[ちばてつや]]<ref>日本漫画学院(木村忠夫)編『漫画家名鑑1 漫画家訪問記』草の根出版会、1989年、p.84。ちばてつやインタビュー。</ref>、[[望月三起也]]<ref>瀬戸龍哉編『コミックを創った10人の男 巨星たちの春秋』ワニブックス、2002年、p.107。望月三起也インタビュー</ref>、[[楳図かずお]]、[[中沢啓治]]など。劇画を始めた[[辰巳ヨシヒロ]]{{Sfn|辰巳|p=18}}、[[桜井昌一]]<ref>桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった』エイプリル出版、1978年、p.32</ref>、[[佐藤まさあき]]<ref>佐藤まさあき『「劇画の星」をめざして 誰も書かなかった「劇画内幕史」』文藝春秋、1996年、p.11</ref> も衝撃を語っている。
 
 
その一方で、この作品で手塚が「新寶島」で映画から学んだ[[革命]]的な技法を導入し、これまでのマンガのスタイルを一変させた」といったような話題も生んだ<ref>竹内オサム『手塚治虫論』平凡社、1992年、224-232p</ref>。これは一部正しいが、全てが正しいと言うわけではない。[[呉智英]]は著書『現代マンガの全体像』(1986年)において、『新寶島』の1ページ3段の[[コマ (映画・漫画)|コマ割り]]はむしろ平凡なもので、構図なども戦前の作品である『[[スピード太郎]]』(宍戸左行)と比べても革新的なものとは言えないと指摘し、むしろ物語の展開の方に「手塚の天分」が見られるとしている{{Sfn|呉|p=128}}。米澤嘉博も「1ページ3段割を基本としており、アップやロングの使い分けもない」として同様の指摘を行い、それよりも戦前の絵物語やコミックストリップ、映画や少年小説などの冒険物語の要素を一つにしたところに新しさを見ている{{Sfn|米澤|p=97}}。また、[[中野晴行]]は著書『謎のマンガ家・酒井七馬伝 「新宝島」伝説の光と影』において、元アニメーターだった酒井の経歴に触れて、その後の手塚作品では「映画的表現」が後退していることから、『新寶島』の「映画的表現」には酒井の功績が大きかったのではないか、と推測している。一方、[[野口文雄]]は中野の説を批判し、『新寶島』の革新性は、それまで主に登場人物のセリフによる説明に頼っていた時間や状況の進行を、セリフによらずスピーディなアクションやコマ割り・構図による表現で行ったことであるとし(これこそが「映画的手法」)、こういった表現はそれ以前の『スピード太郎』などにも見られず、むしろそれ以降の酒井七馬の作品にも影響を与えたとする<ref>野口文雄『手塚治虫の「新宝島」』小学館、2007年</ref>。
 
 
上記のような話題が生まれた背景には、[[1938年]]に[[内務省 (日本)|内務省]]から「児童読物ニ関スル指示要項」が出され、児童図書の[[表現の自主規制|表現規制]]が10年近くなされていたため、戦前の漫画表現が忘れ去られていたこと、そのような中で『新寶島』に触れた衝撃や影響を、[[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]]など後の漫画界を支えたベテラン作家が語ったことなどがあった<ref>「霜月たかなか編『誕生!「手塚治虫」マンガの神様を育てたバックグラウンド』(1998年、朝日ソノラマ)</ref><ref>夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』筑摩書房、1992年、48p</ref>。
 
 
[[夏目房之介]]は、赤本時代の手塚漫画の達成として「コマの読み方」を変えたことを挙げている。それまでの日本の漫画は、現在の4コマ漫画と同じように、1ページ内で右側に配置されたコマを縦に読んで行き、次に左側に移りまた縦に読んでいく、という形で読まれていた。しかしこの読み方ではコマ割りの方法が大幅に制限されるため、手塚は赤本時代に、上の段のコマを右から左に読んで行き、次に下の段に移りまた右から左に読む、という現在の読み方を少しずつ試み浸透させていった{{Sfn|夏目|pp=44-46}}。これに加えて、初期の手塚は登場人物の絵柄をより記号化し、微妙な線の変化を用いて人物造形や表情のヴァリエーションを格段に増やした。流線や[[汗]]、[[擬音]]などの漫画的な記号も従来に比べて格段に増やしており、このような表現の幅の広さが、多数の人物が入り組む複雑な物語を漫画で描くことを可能にし{{Sfn|夏目|pp=47-66}}、また絵柄の[[記号]]化を進めたことは、絵を学ばずとも記号表現を覚えることで、誰でも漫画を描くことができるという状況を作ることにもなった{{Sfn|米澤|pp=161-162}}。また物語という点において戦前の漫画と手塚漫画の物語を隔てるものは「主人公の死」などを始めとする悲劇性の導入であり、[[死]]や[[エロティシズム]]を作品に取り入れていったことで多様な物語世界を描くことを可能にし、以降の漫画界における物語の多様さを準備することになった{{Sfn|米澤|pp=162-163}}。
 
 
上記の絵柄の記号化、体系化は漫画制作の平行作業化分業化を容易とするもので、アシスタントを雇いプロダクション制を導入することを可能にした{{Sfn|米澤|p=181}}。漫画の制作に対して(アニメーション制作と類似の)アシスタント制、プロダクション制を導入したのは手塚が最初である。手塚が漫画制作に導入したものとしては他に、[[つけペン#Gペン|Gペン]]の使用(早く描けるという理由による。それまで漫画では[[つけペン#丸ペン|丸ペン]]の使用が一般的だった)、[[スクリーントーン]]の採用などがある{{Sfn|桜井|p=116}}(注:日本で漫画制作にスクリーントーンを導入したのは手塚治虫が最初ではない)。
 
 
=== 手塚作品のテーマ ===
 
手塚は自らの戦争体験によってもたらされた「[[生命]]の尊厳」を自身のテーマの一つとして挙げている{{Sfn|手塚|1997}}。
 
 
手塚は、自身はマンガに置いて時代の流れに合わせ転向を繰り返す転向者であるとした上で、「ただ一つ、これだけは断じて殺されても翻せない主義がある。それは戦争はご免だということだ。だから反戦テーマだけは描き続けたい。」と語っている<ref>手塚治虫エッセイ集(3)(手塚治虫漫画全集) P185-186 講談社 1997年</ref>。
 
 
手塚は子供を「未来人」と呼び、以下のように語っている。
 
 
{{quotation|私は、暗い時代といわれた昭和初期のなかでも、実に恵まれた環境で子ども時代をすごせたと思っています。しかしそれも、青春期には、空襲と窮乏生活によってほとんど失ってしまいました。父は戦争にとられるし、勉強はできず、腹をすかせ、大勢の友人を失いました。空襲に襲われて周囲が火と死体の山となったとき、絶望して、もう世界は終末だと思ったものです。だから戦争の終わった日、空襲の心配がなくなって、いっせいに町の灯(ひ)がパッとついたとき、私は思わずバンザイをし、涙をこぼしました。これは事実です。心の底からうれしかった。平和の幸福を満喫し、生きていてよかったと思いました。これは、当時の日本人のほとんどの感慨だと思います。
 
 
 もう二度と、戦争なんか起こすまい、もう二度と、武器なんか持つまい、孫子(まごこ)の代までこの体験を伝えよう。あの日、あの時代、生き延びた人々は、だれだってそういう感慨をもったものです。ことに家や家族を失い、また戦争孤児になった子どもたちは、とりわけそう誓ったはずです。
 
それがいつの間にか風化し形骸化して、またもや政府が、きな臭い方向に向かおうとしている。子どもたちのために、当然おとながそれを阻止しなければならないと同時に、子ども自身がそれを拒否するような人間にはぐくんでやらなければならないと思うのです。
 
それは結局、先に述べたように、子どもに生きるということの喜びと、大切さ、そして生命の尊厳、これを教えるほかないと思うのです。人命だけでなく生命あるものすべてを戦争の破壊と悲惨から守るんだという信念を子どもにうえつける教育、そして子どもの文化はそのうえに成り立つものでなければならない。けっして反戦だの平和だのの政治的のみのお題目では、子どもはついてこない。率先して、生命の尊厳から教えていくという姿勢が大事なのではないでしょうか。<ref>思わずバンザイをし涙をこぼした:手塚治虫と戦争:TezukaOsamu.net(JP) 手塚治虫 公式サイトhttp://tezukaosamu.net/jp/war/entry/47.html 講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫講演集』「未来人へのメッセージ」講談社、1986年岩波書店刊『未来人へのメッセージ』</ref>
 
}}
 
 
手塚は作品の中で天使と悪魔の二面性や、[[民族|異民族]]間、[[異文化]]間の対立や[[抗争事件|抗争]]などを繰り返しテーマにしている。手塚は戦後間もない頃、酔っ払った[[アメリカ軍|アメリカ兵]]にわけもわからず殴られ強いショックを受けたことがあり、これがこのテーマの原体験になっているのだとしている{{Sfn|手塚|1999|p=53}}。もっとも、『[[ジャングル大帝]]』などにおける「分厚い[[唇]]、攻撃的なイメージ」といった類型的な[[ネグロイド|黒人]]観は批判されており、手塚の死後の[[1990年]]には「[[黒人差別をなくす会]]」により糾弾を受けている。これ以後、手塚の単行本には[[差別]]と受け取られる表現について弁明する但し書きが付けられるようになった<ref>竹内オサム『戦後マンガ50年史』(1995年、筑摩書房)</ref>。
 
 
また、漫画を描く際に[[プロフェッショナル|プロ]]・[[アマチュア|アマ]]、更には[[デビュー|処女作]]であろうがベテランであろうが描き手が絶対に遵守しなければならない[[タブー|禁則]]として、"[[人権|基本的人権]]を茶化さない事"を挙げ、どんな痛烈且つどぎつい描写をしてもいいが、「[[戦争]]や[[災害]]の犠牲者をからかう」「特定の[[職業]]を見下す」「[[民族]]、[[国民]]、そして[[大衆]]を馬鹿にする」だけはしてはならない、「これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです」と述べている<ref>光文社刊『漫画の描き方』より</ref>。
 
 
夏目房之介は、手塚が追い求めたテーマを「生命」というキーワードに見出している。夏目は手塚が小中学生の頃によく見たという以下のような夢を紹介し、この夢が生命、変身、不定形、[[エロス]]、[[世界]]との関わり方といった「手塚の作家の資質の核」をほとんど言い切ってしまっているとしている{{Sfn|夏目|pp=188-189}}。
 
 
{{Quote|子供のときの僕の夢は空飛ぶ夢とかそういうのはあまりなくて、やたらに見ているものがどんどん変わっていくような、また変わるものがセクシャルで僕の興奮につながるような……。[略]常に形が一定しないで、いろいろなものに変わる。たとえば僕と一緒に歩いている相手がいるんだけど、それは何かわからないが常に形が変わっている。僕に対して仕掛けることが常に違う。その恐怖感と同時にセックスアピールを感じる。[略]本当に異次元的なものですね。宇宙人なのか女どもなのかわからないが、僕の周りにとにかくそれがいるんです。それが常に変わる。<br />
 
僕は宝塚に住んでいたんですが、学校の帰り道にちょっと寂しい沼があって、そこを通って家に帰るんです。小学生とか中学生のころそこを通る夢をよく見ました。沼地の横で得体の知れないものがブルブルふるえながら僕を待っている。それをつかまえて自分の家へ連れてくる。逃げ出すと困るから雨戸を閉めて、ふすまを閉めて絶対に出られないようにして、僕と物体が向かいあったところでたいてい夢がさめてしまう。その間も僕がそいつを見つけ、そいつが僕のところに寄ってきて、つかまえて家に帰るまでに、何だかわからないけどそいつがいつも変わるんです。[略]だから女にもなるし、男にもなるし、化け物にもなる。[略]つまり、常に動いている楽しさみたいなものがある。動いているのが生きているのだという実感があるわけです。つまり、しょっちゅう変化していることによって、変化しながら進化しているとか、何かに働きかけようとしているとか、つまり、一つのアクティブな感じを受けるんです。で自分はどうかというと常にパッシブでそれを見て感じるとか受け入れるとかいう形で、それを見ているだけなんですが、相手は何かの形で次々に流動しているんです。||「ヒゲオヤジ氏の生と性?」石上三登志『定本 手塚治虫の世界』所収、東京創元社、2003年}}
 
 
夏目によれば、1950年頃の手塚はこのような「不定形で変身をし続ける生命の原型」を、描線に込めて漫画の全世界に拡張したことで密度の高い作品を生んだ。しかし劇画の影響などから描線の自由度が失われると、描線では実現できなくなった生命観を理念として作品のテーマとしていき、『火の鳥』に現れるような汎生命思想が描かれることになったのだという{{Sfn|夏目|p=189}}。
 
 
[[鳴海丈]]が書いた書籍『萌えの起源』([[PHP新書]] 2009年)によると「[[萌え]]」文化が日本に誕生した理由を手塚によるものが大きいとし、その理由を「[[ボクっ娘]]」「[[萌え擬人化]](擬人化)」「[[ケモノ]]」「[[ロリータ・コンプレックス|ロリ]]系」等といったジャンルを日本漫画黎明期から"意図的に"漫画の中で多用してそれが広がったことを上げている<ref>鳴海丈『萌えの起源』PHP新書 2009年</ref>。
 
 
== 人物 ==
 
=== 年齢と経歴と血液型 ===
 
手塚治虫は、1928年生まれでデビュー時は1946年1月4日で17歳であったが、1946年1月1日付の少年国民新聞(現在の毎日小学生新聞)にデビュー作の「マァチャンの日記帳」が紹介された際には、19歳として以下のように紹介されていた。
 
<blockquote>『新しく明日(原文ママ)から連載する漫画「マアチャンの日記帳」の作者手塚治蟲(原文ママ)さんはみなさんと同じクリクリ坊主で十九歳のお兄さんです。毎日、大阪帝大医学専門部に通学して、お医者さんになる勉強をしていられますが、小さい頃から漫画が大好きで国民学校2年生の時からいろいろの漫画をかいて、たのしんでいられました。あんまり上手なのでみなさんのために連載することにしました。ほがらかなマアチャンをかわいがって上げて下さい<ref>手塚治虫デビュー作品集 毎日新聞社 1991年</ref>。』
 
</blockquote>
 
 
関係の有無は不明だがこの時手塚は当時日常的に使われていた[[数え年]]ではこの記事が掲載された1946年元日で19歳になる。他に1989年の手塚と石ノ森章太郎との対談では「自分は20歳でデビューした」という体で話を進め、17歳でデビューした石ノ森を叱責している<ref name="石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年)">石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年)</ref>。(なおデビュー作のマァチャンの日記帳に手塚の紹介文が載ったのは1月1日のため数え年では前日では18歳、当日では19歳になる)晩年では生年月日は大正15年(1926年)で定着していた。世間一般に本当の生年が明らかにされたのは死去直後のことであり、訃報を伝える新聞でも新聞の種類によって生年が異なるという不思議な事態が起きた。親しい立場にあった漫画家でさえ本当の年齢を知って驚いたほどであった<ref>1989年2月10日金曜日放送 テレビ朝日『こんにちは2時 マンガ界の神様手塚治虫さん逝く!!』「「若く見られてはいけない」という事で、先生公称は大正15年生まれとして手塚さんは通していらしていたという事ですね」</ref>。
 
 
また、手塚は大阪帝国大学医学専門部の卒業生であり、上記のようにデビュー当時の新聞には事実通り「大阪帝大医学専門部(ママ)」と紹介されていた。1978年に手塚が書いた雑誌の寄稿文でも自分のことを事実通り帝国大学医学専門部の学生だったと振り返っている<ref>1978年『20歳への提言』オーシャンプランニング所収</ref><ref>1992年『手塚治虫大全1』マガジンハウス社</ref>。しかし1980年代には<ref>「論集 手塚漫画のはじまり」(1980年名著刊行会)</ref><ref>「ユリイカ」手塚治虫特集号(1983年2月号)</ref>「1944年に旧制浪華高校理乙入学」「1945年に大阪大学医学部[[予科]]入学」と事実と異なった経歴が紹介されることもあった。(事実通り紹介している書籍もある)手塚の没後、小野耕世『手塚治虫』(ブロンズ新社、1989年)によって「浪華高校」も「大阪大学予科」もそもそも存在しない学校である事が指摘されている{{Sfn|桜井|p=59}}。書籍によっては手塚の来歴が事実と異なった内容で紹介されるようになった理由については定かではない。
 
 
一方、血液型もプロフィールにおいてB型と紹介されることもあったが、現在ではA型ということで落ち着いている<ref>『漫画家・アニメ作家人名辞典』(日外アソーシエーツ)</ref>。これについては手塚本人の著書で「戦争中に検査を受けた際はB型と聞かされていたが、1980年代頃に[[人間ドック|精密検査]]を受けてA型と知らされた」と説明している<ref>手塚(1987)、pp.6-7。原文には精密検査を受けたのは「四年前」とあるが、もとは[[1982年]]から『[[キネマ旬報]]』に連載されたもので、この箇所の掲載号が明示されていないため、具体的に何年を指すのかは不明確である。手塚自身は自分がA型ということに納得がいかず「断じてぼくは(引用者注:[[血液型性格分類]]でいうところの)B型だと思う」とも書いている。</ref>。なお、息子の眞もA型である。
 
 
=== 才能と作業の手法 ===
 
ベタ塗りを時折編集者などにやらせていたのが、後のアシスタント制度に繋がった。[[飯沢匡]]がそれを面白がり、「ベタマン」という小説にして発表したが、手塚に批判的な漫画評論家などから「手塚は一人で描いていない」という非難を浴びるようになり、第三回小学館漫画賞受賞(1957年)以降、長年漫画賞から遠ざかることになった<ref name="石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年)" />。
 
 
手塚のアシスタントであった[[わたべ淳]]は、手塚が鉛筆で下書きをせずに[[ペン入れ]]していたことを証言している<ref>『ブラックジャック創作秘話』第2巻 p9 秋田書店</ref>。フリーハンドでかなり正確な[[円 (数学)|円]]や[[直線]]を描くことができ、揺れる[[タクシー]]や[[飛行機]]の中でもかなり正確に描いたという(常に原稿の締め切りに追われていた手塚は、[[乗り物]]の中で作品を仕上げることも少なくなかった)。死去の前年には[[林家木久扇|林家木久蔵(現・木久扇)]]に「木久蔵さん、僕はね、丸が描けなくなった」と体の衰えを語っている。その一方で手塚は自分の漫画について「[[絵]]ではなくて記号」であること(漫画記号論)を繰り返し強調しており、その背景には手塚の[[デッサン]]力に対する負い目があったとも言われている<ref>大塚英志、ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』[[講談社現代新書]]、2001年、19p</ref>。作品の中で自身の画力を自虐的に扱うシーンを入れる事も度々であった。
 
 
上記の通り常に原稿の締め切りに追われていた。これは、自身の漫画のネタとしてもたびたび登場している。理由は、来る仕事をほとんど拒まなかったためである。締め切りを守らず、編集者を待たせることから一部の編集者からはペンネームをもじって「ウソ虫」「遅虫」などと呼ばれていたという。
 
 
漫画の技法を自ら開拓していく傍らで、劇画が流行すると自身の絵に劇画タッチを取り入れ、水木しげるの『[[ゲゲゲの鬼太郎]]』が流行すると『どろろ』で妖怪マンガを繰り出し、『劇画』が主流の雑誌「ガロ」に対抗して、トキワ荘のメンバーである藤子不二雄や石ノ森章太郎といった『漫画』を主流にした雑誌「COM」を自ら立ち上げるなど対抗することも多かった。
 
 
[[速読術|速読]]にも長けており、500ページ程度の本を20分前後で読破したという<ref>TBS系「[[輝く日本の星!]] 手塚治虫を作る」</ref>。[[喫茶店]]などで打ち合わせの前に本屋に立寄り、立ち読みした本から得たアイデアを語り、「多忙なのに、先生はいつ勉強しているのか」と編集者を不思議がらせた(手塚眞講演)。
 
 
漫画の製作に取り掛かりながら、別の雑誌の編集者とまったく別のテーマの漫画のアイデアについて電話で話していたこともあるという(手塚眞講演)。
 
 
また手塚は極度の激務家だったことで知られる。手塚自身、睡眠時間は1日わずか4時間程度で、それ以上に眠ることはほとんどなかったと言われる。全盛期は月に数日程度しか眠らないこともしばしばであった。
 
 
===医師免許取得者として ===
 
手塚は医師免許を持っていたが、大阪帝国大学医学専門部の時代からすでにプロの漫画家として活動していたため職業医師として活動したことはない。ただし、インターン時代には[[患者]]を診ている。編集者やアシスタントなど興味本位で診察を受けに来た人間の多くを追い返していた<ref>テヅカニアン博物館監修「手塚治虫の真実と謎と秘密と履歴書」p.72</ref>。ただし、[[岡部冬彦]]が手塚と海外に行き体調を崩した際は手塚が診察している。その時、岡部は手塚のことを信じずに日本にトンボ返りして病院で検査したが、手塚の言うとおりただの飲み過ぎであった<ref>国際写真情報「異色対談 のらくろとアトム」1967年8月</ref>。
 
 
手塚が医者になるのをやめ漫画家一本にした直接的な理由は、手塚の母にある。手塚は「[[せむしの仔馬]]」というアニメ映画を見ることを口実に母親を連れ出し開演までの時間に映画館のロビーで漫画家になるか医師になるか相談した。母親はためらうことなく自分の好きな方をやりなさいと答え漫画家一本で行くことを決心した<ref>角川文庫「火の鳥13 ギリシャ・ローマ編」あとがきの手塚治虫の妹である宇都美美奈子の寄稿より</ref>。
 
ちなみにその時の映画「せむしの仔馬」には火の鳥が登場し、これが手塚の「火の鳥」の着想の一つになった。またこれは手塚が病室でコンテを切っていた遺作の一つ「[[青いブリンク]]」の原作でもある。
 
 
また手塚の学生時代の恩師からは授業中もずっと漫画を描いている手塚に対して「手塚君、君は、このまま医者をつづけても、ろくな医者にはなれん。必ず患者を五、六人は殺すだろう。世の中のためにならんから医者をあきらめて漫画家になりたまえ」と言われている<ref>手塚治虫「ぼくはマンガ家」1979年</ref>。手塚はインターン時代に患者の顔を見るとどうしてもカルテに似顔絵を描いてしまうとも語っている。息子の眞によれば、手塚は[[血液|血]]を見るのが嫌いで道を断念したとも言う。
 
 
なお専門は[[外科学|外科]]である。担当教授の紹介で[[奈良県立医科大学]]の研究生となり、「[[異形成|異形]][[精子]][[細胞]]における[[膜]]構造の電子顕微鏡的研究」([[タニシ]]の異形精子細胞の研究。タニシの精子の研究を通じて人間の精子の発生のメカニズムを考えるというもの)で[[博士(医学)|医学博士]]を取得。同論文は『奈良医学雑誌』第11巻第5号、[[1960年]][[10月1日]]、pp.&nbsp;719–735.に所収されている。
 
 
医師免許は終身有効なので、手塚はプロの漫画家になった後も医師免許(昭和28年9月18日医籍登録第150476号)を保持し続けていた。没後の2003年11月20日に宝塚手塚治虫記念館の企画展「『ブラック・ジャック』のDNA」にその現物が公開陳列されたときにある識者から、免許証は当人死亡後は政府に返納せねばならないと定めた法令に違反している、という指摘があった。厚生労働省と協議した結果、いったん規定どおりに返納手続きを行った後に同省が改めて遺族に譲渡するという特例の措置がとられた。厚生労働省医政局医事課試験免許室では「こういった例は過去にあまりない」としている。それにより現在遺されている免許証には「抹消」の赤印が押されている<ref group="注">医師法第八条の規定に基づき内閣が制定した医師法施行令の第四条第二項には「医師が死亡し、又は失そうの宣告を受けたときは、戸籍法(昭和二十二年法律第二百二十四号)による死亡又は失そうの届出義務者は、三十日以内に、医籍の登録のまつ消を申請しなければならない。」とあり、また同七条第一項には「医師は、医籍の登録のまつ消を申請するときは、住所地の都道府県知事を経由して、免許証を厚生労働大臣に返納しなければならない。第四条第二項の規定により医籍の登録のまつ消を申請する者についても、同様とする。」となっている。このため本来は死亡後三十日以内に遺族が医師の免許証の返納手続きをとるべきなのであったが、記念館内に展示保管されているため悪用される恐れがないこと、医師免許証に文化財としての価値があるという理由で、法令の本来の規定を超えた特例の措置がなされた。</ref>。
 
 
=== プロ野球との関わり ===
 
手塚治虫は[[プロ野球]]と関係が深く、特に「アトムズ(現:[[東京ヤクルトスワローズ]])」と「[[埼玉西武ライオンズ]]」に繋がりがある。
 
 
現在の東京ヤクルトスワローズは「国鉄スワローズ」という名前で誕生し、1965年に運営団体が当時の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]社長[[水野成夫]]の意向で[[フジサンケイグループ]]に買収され、「サンケイスワローズ」と変わった。1966年、『鉄腕アトム』がフジサンケイグループに属するフジテレビの看板番組となっていたことと、サンケイ新聞に鉄腕アトムを連載していたことから、名前を変え鉄腕アトムをマスコットキャラクターにした「サンケイアトムズ」が誕生した。「サンケイアトムズ」は1969年に「アトムズ」に変わり、経営権が[[ヤクルト本社]]に移ると「ヤクルトアトムズ」へと変わった。「ヤクルトアトムズ」は現在の「ヤクルトスワローズ」の直接の前身である。
 
 
また、「埼玉西武ライオンズ」も手塚と繋がりがある。[[1978年]]、[[福岡野球|クラウンライターライオンズ]]が[[西武グループ]]に[[M&A|買収]]され西武ライオンズ([[2008年]]、埼玉西武ライオンズに改名)となった際には、『[[ジャングル大帝]]』の主人公・[[レオ (埼玉西武ライオンズ)|レオ]]がマスコットに採用され、2008年まで[[ユニフォーム]]の[[帽子]]もレオをデザインしたものが使われていた(それ以降も時折復刻ユニフォームでの試合で着用されている)。ただし、手塚は球団の[[堤義明]]オーナーから「大人になった姿のレオ」と指定されたことから父親の「パンジャ」がモデルであるとしている<ref>{{Cite news | title =1978年の10月12日、西武ライオンズが誕生。その経緯と豆知識
 
| newspaper = [[SUUMOマガジン|SUUMOジャーナル]]| date = 2012-10-12|url=http://suumo.jp/journal/2012/10/12/30668/|accessdate=2018-03-08}}</ref>。また、オリジナルキャラクターでレオの妹・[[ライナ (埼玉西武ライオンズ)|ライナ]]も[[1981年]]より登場している。
 
 
2008年、東京ヤクルトスワローズは『ヤクルトアトムズ復活シリーズ』として、1969年のビジターユニフォームを復刻(手塚治虫生誕80周年記念事業として手塚プロダクションとの協賛)。[[日本生命セ・パ交流戦]]、[[西武ドーム]]で開催された西武戦では、奇しくもレオとの対決となり、手塚治虫ダービーと銘打たれた。
 
 
また2013年4月には、「[[読売ジャイアンツ]]」と「鉄腕アトム」のコラボレーション企画「GIANTS×ATOM」が発表された。この企画では鉄腕アトムの登場人物達が読売巨人軍のユニフォームを着たキーホルダー、うちわ、タオルハンカチなどが商品化され[[東京ドーム]]内グッズ売店等で売りだされることになった。
 
 
なお、手塚自身は[[阪神タイガース]]のファンであった。1950年の[[年賀状]]では、「野球ものも考えていますが近頃の阪神の不振に聊(いささ)かくさっているので書く気がありません」と1949年当時のユニフォーム<ref group="注">トレードマークの縦縞がなく、胸の部分に「OSAKA」と描かれているデザイン。</ref> を着た[[トラ|虎]]が素振りをしているイラストに添えてコメントしており<ref>[http://www.asahi.com/showbiz/manga/OSK200809250035.html 手塚治虫もトラファンだった 60年前の文通に素顔残す]([[朝日新聞]]・2008年9月25日)。なお、1950年当時の球団名は「大阪タイガース」であったが、この当時から通称としては「阪神」と呼ばれていた。</ref>、実際に野球を主題とする作品を描くことはなかった。ただし、年賀状を書いた1950年に連載した『タイガー博士の珍旅行』は「タイガース」という野球チームがあちこちを旅行する道中記(野球のプレーはしない)である。
 
[[1985年]]に阪神が優勝し日本シリーズで西武と対戦した時は「どちらも勝て」と大弱りだったという<ref>週刊少年マガジン1989年3月15日「思い出の手塚先生」</ref>。
 
 
=== 関係の深い漫画家 ===
 
; [[藤子不二雄]]
 
: 藤子不二雄の二人は、手塚治虫の「[[新寶島]]」に衝撃を受け漫画家を志した。彼らは学生時代に手塚のファンとして手塚にハガキを出し、その返事として「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」との直筆のハガキを受け取った。そのハガキは手塚のキャラクターの絵と一緒に、文字が角度を変えながら中心に近づくように書かれており、ハガキをぐるぐる回しながら文字を読むという手塚らしい実にユニークなものであった。このハガキが、ますます彼らの漫画家への志に拍車をかける。藤子不二雄は当初、手塚にちなみ、「手塚不二雄」のペンネームで漫画を投稿する。しかし余りにも露骨なため、「手塚の足にも及ばない」という意味を込め「足塚不二雄」に変更した。高校生の頃、二人で手塚の実家に訪れている。その後藤子不二雄としてデビューし、手塚の住んでいた「トキワ荘14号室」に入れ替わりで入居して暮らすこととなる。手塚はお金のない二人のために敷金の肩代わりと、漫画を描くための机を残している。そのため、藤子不二雄の初期作品は手塚の机で描かれたものである<ref group="注">この机は藤子不二雄Aの生家である富山県氷見市の光禅寺で展示されている。</ref>。憧れの手塚が住んでいた、トキワ荘14号室に住めたことについて[[藤子・F・不二雄]]は、「四畳半というものがこんなに広いものかと感動しました<ref>藤子不二雄「トキワ荘青春日記」光文社</ref>」と語る。[[藤子不二雄A]]も自身の漫画でトキワ荘14号室を宇宙のような壮大な情景で描いている。その後、たびたび手塚治虫の緊急アシスタントとして手塚の仕事を手伝っていた。藤子・F・不二雄は、生涯に渡って手塚を「最大の漫画の神様」と尊敬し続け、自伝や漫画の書き方の本で手塚を絶賛していた。藤子不二雄Aも同様に手塚を尊敬し、自伝漫画「[[まんが道]]」では手塚を最大の師として登場させ、「手塚治虫はふたりにとって神であった」「いや、日本中の漫画少年にとっても神であった」と頻繁に手塚を「神」と表現した。現在手塚が「漫画の神様」と称されるのは彼らの影響が大きい(それ以前は漫画の王様といわれてもいた)。藤子不二雄が漫画家25周年を迎えた際には手塚タッチの[[ドラえもん]]とドラえもん風のヒョウタンツギを描いた色紙をプレゼントしている。その25周年記念パーティーは手塚が仕切り、二人を二次会まで連れて行っている<ref name="「手塚治虫は宇宙人だ」月刊文藝春秋1989年4月号">「手塚治虫は宇宙人だ」月刊文藝春秋1989年4月号</ref>。手塚は藤子不二雄のスタジオに突然ひょっこり現れて「ハハハ、来たよ」と特に用事もないのにふらっと訪れることもあった<ref name="「手塚治虫は宇宙人だ」月刊文藝春秋1989年4月号" />。また藤子不二雄Aが新宿の焼き鳥屋で飲んでいると、そのことを聞きつけた手塚がやってくることもあったという。手塚は藤子・F・不二雄と二人で「惑星ソラリス」などの映画を見ることもあった。手塚は藤子の本の寄稿で「[[オバケのQ太郎]]」のことを「おばけという概念をこれほどまでにキュートに、子どもの世界にひきずりおろして描いた作品は以前にないでしょう。アメリカには幽霊の子どもを主人公にした[[出てこいキャスパー|キャスパー]]という例がありますが、これよりもずっととぼけていて性格づけがみごとです。」「キャラクターの描きやすさの点でも、まず、オバQ君にかなうものはありますまい。(日本に現在のようなキャラクター漫画が流行する前の発言)」と語っている<ref>小学館「藤子不二雄自選集8」1981年 -藤子さんは凸凹コンビです 手塚治虫-</ref>。手塚治虫の漫画「七色いんこ」では藤子のドラえもんが登場したり、「黄金のトランク」では主人公の名前が不二雄である。「どろろ」と「バンパイヤ」には「オバケのQ太郎」が登場。「ガチャボイ一代記」では、藤子・F・不二雄と藤子不二雄Aが手塚のアシスタントをする様子を手塚自身が描いている。手塚治虫漫画全集の「ジャングル大帝」のあとがきには、藤子不二雄の二人へアシスタントしてくれたことに対する、感謝の言葉と激励が書かれている。藤子の二人の結婚式の仲人は手塚が務めた。藤子・F・不二雄は、手塚が亡くなった時の追悼文で「高校生になっても先生のまんがを読み続け……、気がついてみると自分もまんが家になっていた」と語っている<ref>小学館「コロコロコミック」1989年2月27日号</ref>。
 
: 手塚、藤子・F・不二雄、藤子不二雄Aの3人が住んでいた「トキワ荘14号室」の天井は、トキワ荘解体時に手塚が持ち帰っている。その理由は「室内にこんろを持ち込んでご飯を炊いたり、煮炊きをした。あの時の煙は天井にしみ込んでいるはず。大家さんに頼んで天井板を記念に譲ってもらいます」とのこと<ref>朝日新聞「漫画家の梁山泊『トキワ荘』解体」1982年12月1日</ref>。
 
; [[石ノ森章太郎]]
 
: 石ノ森(旧:石森章太郎)も手塚治虫の「新寶島」に衝撃を受けた<ref>石ノ森章太郎のマンガ教室</ref>。中学生の頃、手塚に分厚いファンレターを出したところ、手塚からさらに分厚い封筒の返事が届き、ますます手塚のファンになったという<ref>石ノ森章太郎のマンガ教室</ref>。
 
: 石ノ森は[[高等学校|高校]]在学時、手塚が連載していた『漫画少年』の投稿欄に投稿をするようになる。手塚は漫画少年に送ってきた石ノ森のことを、「天才的な少年の絵」と褒めている{{Sfn|手塚|1999}}。そして「鉄腕アトム」執筆中の手塚に依頼され、石ノ森は学業を中断して手塚のアシスタントを務めた。手塚は回を追うごとに上手くなる石ノ森の絵を見て舌を巻き、仕事を手伝ってもらったと語る。アシスタント経験中は、手塚は激務だったはずが石ノ森を映画に連れ出している。その時の様子を石ノ森は「ギリギリの仕事のなかで、ある日、夜になると編集者の目を盗んで、こっそりぼくを映画館に連れて行ってくれた。ぼくだって当時のご多分にもれぬ映画少年である。編集者には申しわけないが、ちゃっかり便乗していた」と語る。そして、手塚が編集者に紹介したことにより、石ノ森は漫画家としてデビューすることになった。その後石ノ森は手塚が住んでいたトキワ荘に住んだ。手塚は自身の漫画に石ノ森を度々登場させている。石ノ森章太郎の結婚式の仲人は、遅刻するも手塚が務めた。テレビ映画「[[快傑ハリマオ]]」の漫画版では手塚が原作、作画が石ノ森で共作をした。1959年、石ノ森は手塚のアシスタントだった月岡貞夫とともに、手塚治虫の身代わりとして東映動画の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に派遣された。後に、この体験が石ノ森が東映グループで[[ゴレンジャー]]([[スーパー戦隊シリーズ]])等を代表とする、特撮作品の原作を担当するきっかけに繋がる。
 
: また、石ノ森は手塚が亡くなる少し前にも対談をしており、石ノ森は手塚のことを「面白おかしく事象を表現するだけ、と思われていた漫画というメディアで、ペーソスのみならず悲劇や深い哲学的な思索まで持ち込んで、ドラマを描くという試みは前人未到の事だった。」と彼の業績を評価している<ref>石ノ森章太郎『ことばの記憶』2008年 P.132</ref>。手塚は対談で石ノ森の漫画「[[仮面ライダー]]」のことを「繰り返し、繰り返し読まれてもちっとも見劣りしない作品」と褒めている<ref name="秋田文庫「ぜんぶ手塚治虫!」2007年">秋田文庫「ぜんぶ手塚治虫!」2007年</ref>。
 
: 石ノ森はデビュー後のお金のない19歳の頃、手塚に内緒で「火の鳥風太郎」という、手塚の代表作のアイデアを使った作品を描いている。本作で得られた原稿料は、全てオーディオ機器を購入するために当てられた。
 
; [[赤塚不二夫]]
 
: 赤塚不二夫も手塚治虫の漫画「新寶島」「ロストワールド」に出会ったことで、漫画家になることを決意した<ref name="gakuin">[http://www.manga-g.co.jp/akatsuka.html 日本漫画学院 赤塚不二夫インタビュー] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080916194413/http://www.manga-g.co.jp/akatsuka.html |date=2008年9月16日 }} 参考。</ref>。彼が18歳の時は[[長谷邦夫]]、石ノ森章太郎と一緒に『[[墨汁一滴]]』を描く仲間として手塚の家を訪問した<ref>『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』、44-46頁。</ref>。その時、手塚は締め切りに追われ忙しいにもかかわらず赤塚達の似顔絵を描いたり、ピアノを披露したりして彼らは感銘を受ける。赤塚が新人漫画家としてデビューした頃、手塚は「赤塚クン。りっぱな漫画家になるには一流の映画を観なさい、一流の小説を読みなさい、そして一流の音楽を聞きなさい」と助言した。手塚の言葉に従い、赤塚はレコード店に行き、店員に「一流の音楽が聞きたいんです。一流のレコードをください」と言うが、店員は何を渡したらいいのか分からず困ったという<ref>古谷三敏「ボクの手塚せんせい」2010年 P.55</ref>。その後、赤塚も手塚が住んでいたトキワ荘で暮らした。手塚はトキワ荘のメンバーに同様に「マンガからマンガを勉強するんじゃないよ。」「一流の芝居を見なさい、一流の本を読みなさい」などと言っており、赤塚は「だから僕たち(トキワ荘メンバー)はあの頃、ほとんど酒なんて飲まなかった。そのかわり、映画を見に行こう、音楽を聴こう、ジャズのコンサートに行こう、小説を読もう。手塚先生がそうしろって言ったから。」「その時はわからなかった。それで後になってからその意味がわかってくる。手塚先生のおっしゃってたことは、やっぱりすごく大きいのだ。いい音楽を聴きなさい。いい映画を見なさい。いい芝居をみなさい。本当に大事な教えだったんだと今にして改めて思うのだ」と語っている<ref>赤塚不二夫120% 小学館文庫 1999年</ref>。手塚は赤塚をたびたび自身の漫画に登場させている。それと同時に手塚は赤塚のギャグである「シェー」など気に入っていたのか「W3」「火の鳥」など複数の作品に使っている。手塚の「ブラック・ジャック」の『アヴィナの島』の回では赤塚の「[[天才バカボン]]」のパパが登場する。
 
: 赤塚はトキワ荘時代、手塚のアシスタントを務めたことがある。また赤塚は雑誌の企画で「赤塚不二虫」のペンネームで、『鉄腕アトムなのだ!』という手塚作品のパロディ漫画を描いている<ref>自由国民社「赤塚不二夫の特集」1997年</ref>。その中には火の鳥やヒョウタンツギなどが登場。その表紙には「わたしにこのマンガをかかせた手塚治虫先生にこの1編をささげます」と書かれている。
 
; [[水野英子]]
 
: 水野英子も、小学3年の時に手塚治虫の漫画に衝撃を受けて漫画家を志す。水野は16歳の頃に手塚に会いたいと伝えて東京に行き手塚と出会った。数年後、水野は上京して手塚が住んでいたトキワ荘の住人となる。水野は女性少女漫画家の草分け的先駆けとなった(それまでの少女漫画はほとんどの場合男性が描いていた。)
 
: 水野は手塚を振り返って次のように語っている。「私が初めて先生の漫画に出会った時のショックをどう言い表したら良いでしょう。そこには絢爛たるファンタスティック・ワールドが広がっていたのです!SF・西部劇・ミステリー、おとぎ話…次々と繰り広げられる見も知らぬ魅惑的な世界!街中の本屋さんを駆け巡り、一冊とも見逃すまいとするのがあの頃の私の日課でした。やっと買い求めた本を、家に持ち帰るのももどかしく、読みながら歩いているうちに夢中になって家の前を通りすぎてしまった事。親が死んでも泣かなかった私がジャングル大帝のラストシーンではもう何も見えなくなるぐらいショックで泣いてしまった事…」「私は、ついに自分も漫画を描こうと決心し、漫画家への道を歩み始めました。十七歳で上京し、とうとう本物の先生にお会いできた時の感激!銀座の喫茶店でにこやかに優しく私を迎えて下さった先生のまぶしさ!手塚先生が最初に入居なさったというアパートトキワ荘に、当時の新人実力者たちといっしょに住むことができた嬉しさ!<ref>秋田文庫「鉄の旋律」手塚治虫 水野による巻末のあとがきより</ref>」手塚は水野のことを自著で「天才児水野英子」と書いている<ref name="1987年「トキワ荘青春物語」蝸牛社 -トキワ荘前史 手塚治虫">1987年「トキワ荘青春物語」蝸牛社 -トキワ荘前史 手塚治虫-</ref>。
 
; [[横山光輝]]
 
: 横山光輝も、手塚治虫の「メトロポリス」に感銘を受け漫画家を志す。しかし、高校卒業後は一旦就職した。
 
: 手塚はある日、大阪東光堂の社長に連れられたスマートな青年と出会う。社長はその青年は[[神戸銀行]]に務めていると言い、社長は「うちでデビューさせようと思いますが、どうでっしゃろ?」と聞いた。手塚は彼の作品を読み、「売れるかも知れませんな」と褒め、その青年は漫画家としてデビューすることになった。その青年こそが横山光輝である<ref name="boku">手塚治虫「ぼくはマンガ家」大和書房、1988年、175p</ref>。横山はその後、手塚を原作とし「[[黄金都市]]」「ターザンの洞窟」など作画した。手塚は横山を「かれほど"[[彗星]]のように"という形容のあてはまる男はいない」と絶賛している<ref name="boku" />。「[[鉄人28号]]」は『少年』誌上で手塚の「鉄腕アトム」と人気を二分する大ヒット作となった。サンケイ新聞記者として、工業関係の取材経験のあった横山は、「最初は大きくしかできず、それから小さくなる」と考え、手塚治虫の『鉄腕アトム』を意識して鉄人28号を大型ロボットにしたとも語っていた。プライベートでも手塚と横山は付き合いがあったようで、横山が東京に来たばかりの頃には、手塚がいろいろアドバイスしていた<ref>福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』集英社《集英社新書》、2009年 P.44</ref>。横山は手塚のアシスタントも経験している。
 
:手塚が亡くなった際、横山は「いつも僕は手塚さんの作品を参考にしてものを考えてきましたから、すべての作品から影響は受けています。技法の点で言えばアングルの取り方がとても上手だった。影を後ろにのばしたり、壁に大きく写したり。若いころはよく食事をごちそうになったりしたものです。やさしくて、とても他人に気を使う人でしたよ。」と語った<ref>1989年2月23日 SPA!</ref>。
 
:手塚は生前、「横山さんはいろんなジャンルの仕事をされましたが、この『鉄人28号』と『[[伊賀の影丸]]』それに『[[横山三国志|三国志]]』の三つは、エポックメーキングなものでしょう。娯楽マンガの功労賞があれば、横山さんにぜひ一番にさし上げるべきではないかと思います」と発言している<ref>横山光輝さんのこと「復刻版鉄人28号」第三巻 大都社 1979年</ref>。
 
; [[松本零士]]
 
: 松本零士も、小学二・三年の頃、学級文庫で手塚治虫の描いた本を読んで漫画家を志した<ref name="松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.111">松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.111</ref>。それは手塚の「新宝島」「キングコング」「火星博士」「月世界紳士」であった。
 
: 松本は、「手塚さんの漫画がそれまでのどんな漫画よりもスピーディでかっこよかった。おそらく、当時、全国の漫画少年たちが度肝を抜かれたのではないか」と語る<ref name="松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.111" />。松本は手塚が連載していた『漫画少年』の投稿欄の常連になる。そして高校生の時、それを見た手塚から「テツタイコウ テツカ(手伝い請う。手塚)」の[[電報]]を受け取る。松本は最初はイタズラかと思ったが、それはイタズラではなく本当に手塚が緊急のアシスタントを求めた電報であった。そこで松本は緊急アシスタントとして出向いて手塚を手伝いながら、漫画家について根掘り葉掘り質問した。この出来事は、松本がプロ漫画家を目指す思いを強めた<ref>松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.129</ref>。松本がプロの漫画家になり、上京してからも手塚とは親交があり、手塚が一人で突然に松本の下宿先を訪れ、窓の外から「おーい松本君。メシ食わせるから、出てこーい。」と誘ったこともあったという。
 
: 松本が手塚と気が合ったのは、お互いがあけっぴろげだからと語っている<ref>松本零士『未来創造-夢の発想法』2010年 p.133</ref>。
 
: 手塚の漫画「[[ばるぼら]]」には松本零士をモデルにした「松本麗児」という登場人物が登場し、漫画家で本の収集家という設定で、物語に重要な場面で関わってくる。
 
: また松本は、日本初の30分テレビアニメシリーズ<ref group="注" name="以前">テレビアニメとしてはそれ以前に『[[もぐらのアバンチュール]]』『[[新しい動画 3つのはなし]]』『[[インスタントヒストリー]]』『[[おとぎマンガカレンダー]]』などが放映されている。</ref>となった「鉄腕アトム」にも縁がある。松本は「鉄腕アトムですが、実は私も関係しているんです。試写会前日の夜中に手塚さんから私の下宿に『助けてくれ!』と電話があり、『映写機が壊れて編集ができない』というので、私の映写機を持って行ったんです。アトム第一話の後半は私の映写機で編集して試写会を行っているんですよ{{Sfn|手塚プロダクション|p=136}}。」と語っている。「私と手塚さん、それと石ノ森章太郎氏の3人は自称アニメマニアという仲。将来はアニメ映画を作ろうという夢を持っていて、お互いにいろいろな機材や資料を貸合っていたんですがお二人とも亡くなってしまって。お二人から借りた機材もまだ持っているんですが、今では遺品になってしまいましたね。」とも語る。
 
: 松本は熱心な手塚治虫作品のコレクターでもあり、手塚自身も持っていなかった初期作品も全て所有し、1冊数百万の値段を付けた「新宝島」の初版本も持っている。2013年には、手塚治虫の未発表原稿を個人的に発見したことでニュースにもなった。
 
; [[永井豪]]
 
: 永井豪も、手塚治虫に影響を受け漫画家を志したと語る<ref>アンソロジー『ブラック・ジャックALIVE』(2005年、秋田書店)</ref>。「僕の人生は手塚先生の作品から始まった。」<ref>産経ニュースwest 2012.10.26 『永井豪「手塚先生とコラボ、夢が実現」アトム〜マジンガーZ…特別展で系譜も披露』より</ref> とも言い彼は子供の頃に手塚治虫の漫画をよく読みいつも衝撃を受けていた。永井は初め手塚治虫のアシスタントになるために手塚プロダクションに出向いたが、あいにく手塚と連絡が付かず、代わりに知人に紹介された石ノ森章太郎の下で仕事を手伝うことになった<ref>永井豪『漫画家』p。35(1992年、実業之日本社)</ref>。
 
: 永井は自身の半生を振り返り「私の少年時代、手塚作品と過ごす時間が最も幸せな時間だった。学校でイヤなことがあった時も、手塚漫画が私の心をいやしてくれた。自分も手塚先生のように漫画家になりたいと考えたのは自然の成り行き。そして私は漫画家になった。しかし手塚先生にはなれなかった・・・永井豪になってしまった」と語る{{Sfn|手塚プロダクション|p=140}}。またアンソロジーコミック『ブラック・ジャックALIVE』で永井豪がブラック・ジャックを描いた時には、ブラック・ジャックと永井豪自身と学生時代の手塚をいっしょに登場させ、ブラック・ジャックが学生時代の手塚に「お前は漫画家より医者に向いている」と発言すると、手塚治虫キャラ全員と永井豪も存在が消えかかった(もしも手塚治虫が漫画家になっていなかったら永井豪も漫画家になっていなかったという表現)。
 
: 永井のデビュー後は、手塚とプライベートでも親交があった。手塚と永井は複数回一緒に旅行しており、SF作家クラブのメンバーと旅行したり、[[サンディエゴ]]のコミックコンベンションに出かけたことがある。ロスでは二人っきりで映画「[[シャイニング (映画)|シャイニング]]」を見た。手塚は永井に対して「豪ちゃん、短編をたくさん描きなさい。短編は大事ですよ」といつもアドバイスを送っていた{{Sfn|手塚プロダクション|p=142}}。
 
: 永井の結婚式では手塚がスピーチをおこなっている(『コミックボックス』1989年5月号に当時の写真が掲載されている)。
 
; [[古谷三敏]]
 
:古谷も、手塚の漫画『新宝島』を読んで漫画家を志した{{Sfn|手塚プロダクション|p=150}}。彼はその時の様子を次のように語っている「ぼくも子供の頃に手塚先生の『新宝島』を読んで衝撃を受けたひとりです。それまでの漫画と比べてスピード感があって、ストーリーも絵も、今までの日本にない。ディズニー映画のようなアメリカナイズされた文化を垣間見た感じがしました。何百回読んだかわかりませんし、『新宝島』を読んで漫画家になろうと決めたんです。ぼくのデビュー作『みかんの花咲く丘』も手塚先生の漫画をずいぶんと参考にしています。」その後、古谷は手塚のアシスタントを経験した。手塚はアシスタントに給料を渡す際に「かならず映画を観るんだぞ」と言いながら笑顔で1000円を渡していた(その頃はレストラン定食が50円で食べられる時代であり、映画を見てもお釣りが来る)。古谷はいつも喜んで映画を見ていた<ref>古谷三敏「ボクの手塚せんせい」2010年 P.45</ref>。アシスタント中、徹夜明けで手塚とホテルから出てきた時に「おれは手塚治虫と一緒に歩いているんだ」と嬉しくなったという。
 
; [[さいとう・たかを]]
 
: さいとう・たかをも、手塚治虫に憧れて漫画家を目指した。手塚治虫の「新宝島」を読み、「紙で映画が作れる!」と興奮したという<ref name="bakumon130123">『[[探検バクモン]]』2013年1月23日付放送分</ref>。昭和30年頃の学生時代には漫画家志望者として手塚治虫の自宅を尋ねた。しかし、運が悪く手塚は既に東京に上京していたため、さいとうは手塚に会うことはできず、手塚の母と二・三言話しただけで帰ることになった<ref>株式会社金の星社「手塚治虫物語―漫画の夢1945〜1959」2009年、P.151</ref><ref group="注">別の対談では、このとき手塚は家にいたが、母親に「留守です」と帰されたとも語っている</ref>。この頃のさいとうは、手塚のような丸っこい絵柄であった。
 
: その後、さいとうは「手塚に憧れて漫画家を目指したが、手塚調の丸っこいタッチの絵が描けず現在の絵になった」と証言している。さいとうは後に「劇画」と呼ばれる分野の開拓に貢献し、手塚の大きなライバルとして、彼の漫画家生命を大きく揺るがした。
 
: さいとうが辰巳ヨシヒロ達と工房を立ち上げ、「打倒手塚だ!」と言った時は、実はさいとう以外は全員熱心な手塚ファンであったため、「お前なに身の程知らずなことを言っているんだ」と言われたという{{Sfn|手塚プロダクション|p=148}}。
 
: さいとうは、後に手塚と漫画「過去からの声」で共作をしており、その時は原作が手塚で作画がさいとうであった。『[[ビッグコミック]]』では、四大作家競作として石ノ森章太郎、藤子不二雄A、さいとう・たかを、手塚治虫の4人で競作をしている。
 
: さいとうは手塚が亡くなった時に「今まで目標とし、登っていた大きな山が突然なくなったような気がします」と語った<ref name="小学館「ビッグコミック」1989年3月10日">小学館「ビッグコミック」1989年3月10日</ref>。
 
; [[辰巳ヨシヒロ]]
 
: 手塚の「新宝島」に衝撃を受けて漫画家を志した{{Sfn|辰巳|p=18}}。辰巳は当時を振り返り「手塚治虫という初めて目にする作者の作品はこれまでの漫画の常識を根本から覆す画期的な世界を構築していた」、「ぼくにとって手塚治虫は神様にも匹敵する存在になっていた」と語っている{{Sfn|辰巳|p=11}}。少年時代辰巳は宝塚の手塚の家を訪問したこともある{{Sfn|辰巳|p=6}}。手塚は辰巳を優しく自室に招き入れ、辰巳が持参した4コマ漫画を読み「長編を描きませんか?これからは4コマを発表する場所がだんだんなくなります。ぜひ長編を描きなさい」と助言した。これは辰巳にとって大きな助言になる。またジャングル大帝の第一話連載前のカラーページを手塚に見せてもらい、身震いし度肝を抜かれたと語っている<ref>辰巳ヨシヒロ「劇画漂流」青林工藝舎</ref>。その後、辰巳は漫画家としてデビューし、手塚の鉄腕アトムに影響を受けた「鉄腕げん太」という漫画も描いた。しかし、数年後、敢えて手塚治虫とは別の「まんがではないまんが」を模索するようになる{{Sfn|辰巳|p=145}}。その結果、辰巳は劇画の開拓者になった。「劇画」という呼び名も辰巳が考案したものである。
 
: 辰巳は『劇画宣言』という内容の封書をいくつか書き手塚にも送った。しかし、手塚はその後に辰巳に対し、商業主義的になっていく劇画の風潮に対して忠告した{{Sfn|辰巳|p=292}}。また手塚が文藝春秋漫画賞を受賞した時さいとう・たかを、佐藤まさあきと共に辰巳を授賞式に招待し{{Sfn|辰巳|p=304}}、1982年には辰巳のフランス旅行に途中から同行したこともあった{{Sfn|辰巳|p=320}}。
 
; [[つげ義春]]
 
: 小学校4年生のころに手塚治虫のマンガに熱中しはじめる。新刊が出ると本屋へ走る日々であった。貧しさのため母に買ってもらうことはできず、3ヶ月に一度くらい帰ってくる泥棒の義祖父を待ちわび、買っていたが、その間に本が売切れてしまうのを案じ、手持ちのおもちゃをおもちゃ屋に売ってお金を工面した。それでも手に入らないときは、万引きをしようと本屋の前をうろうろするほどであった。16歳の時、一人で部屋で空想したり、好きな絵を書いていられる職業として漫画家になることを志す。当時、トキワ荘に住んでいた手塚治虫を訪ね、原稿料の額などを聞き出し、プロになる決意を強める<ref>「つげ義春自分史」『つげ義春全集・別巻 苦節十年記/旅籠の思い出』筑摩書房 1994年 ISBN 4-480-70169-9</ref>。
 
; [[白土三平]]
 
: 白土は貸本時代は手塚に似た絵の漫画を描いていた。白土の初期作品「嵐の忍者」では手塚のスターシステムのキャラクターが登場するなど、その影響を見ることができる<ref>白土三平「嵐の忍者」小学館クリエイティブ</ref>。手塚もそのことに言及しており、「たとえば白土三平氏やつげ義春氏のかつての作品が、円熟した時代のものにくらべて、きわめて手塚的であるのは、おそらくはぼくの漫画を教科書として使ったのであった。イミテーションを望んでいたわけではないはずだ」と語っている<ref>漫画の教科書「思想の科学」1982年3月号</ref>。白土は徐々に手塚的な作風を止め、劇画作家へと転向、手塚の最大のライバルとして立ちはだかった。劇画ブームが起きると、白土が率いる「ガロ」に対抗して手塚は「COM」を立ち上げた。手塚は「白土三平氏が登場してから、子供漫画には重厚なドラマ、リアリティ、イデオロギーが要求されるようになった」と語っている<ref>手塚治虫「ぼくはマンガ家」大和書房、1988年、178p</ref>。手塚の漫画「ネオ・ファウスト」では、登場人物が白土の漫画を読み、内容から教訓を得ようとするシーンが登場する。白土は手塚が亡くなった際、「気がついてみたら、私もいつかこの世界で飯を食っていたのだが、手塚さんは我々の偉大な先輩であると共に、多くの日本人にとっても忘れえぬ人でありつづけるだろう。人の運命とはいえ、実に残念である<ref name="小学館「ビッグコミック」1989年3月10日" />。」と発言している。「紙芝居をやっていたころ。いわゆるユーモアマンガで手塚さんを勉強した<ref>草森紳一「マンガ考」</ref>。」
 
; [[大友克洋]]
 
:大友は子供の頃からの手塚ファンと語っており、特に少年時代は「鉄腕アトム」のアニメを見るため、放映時間になると決まって家に帰っていたという<ref>角川書店「大友克洋×メトロポリス」2001年7月1日 P. 123</ref>。また[[マーブルチョコ]]も、アトムのおまけのシール欲しさによく買っていた。「僕は手塚作品で最初に好きなのは鉄腕アトムなんだけどビッグXも好きだし、高校生の頃は火の鳥を読んでいた」とも語り、手塚治虫漫画全集は全巻揃えている<ref>角川書店「大友克洋×メトロポリス」2001年7月1日 P. 121</ref>。大友克洋は、高校生の頃に火の鳥が連載していた手塚治虫の雑誌「COM」に漫画を投稿している。デビュー初期の作品「FIRE BALL」では敵のコンピューターの名前に「アトム」を使っている。
 
:また大友の代表作「[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]」の最終巻の最後のページには、本作を手塚に捧げるとの一文がある。大友は、手塚の作品を原作とする劇場用アニメーション映画『メトロポリス』で脚本を担当している。2005年の監督作品『[[スチームボーイ]]』のタイトルも、「鉄腕アトム」の英語版タイトル「アストロボーイ」を意識したものである。舞台挨拶では「スチームボーイは手塚さんがやろうとしていた世界観を意識した」と語った。
 
: 雑誌『ユリイカ』の大友特集号で、手塚は「僕はデッサンの基礎をやっていないから、こんな絵を見せられてはたまらない。一も二もなく降参する」と大友の画力を賞賛している<ref>ユリイカ臨時増刊号『総特集大友克洋「カミソリ感覚」』1988年8月</ref>。
 
: また手塚は「大友克洋さんの出現によって、劇画はトドメをさされてしまいました。少ないけれど確かな線によって、白っぽい画面のままで、劇画以上のリアリティが出せることが証明されてしまったのです」と述べ、劇画の衰退は大友に一因があるとし、その功績を高く評価している<ref>COMIX BOX「特集ぼくらの手塚治虫」89年</ref>。
 
: 手塚が大友をパーティーに招待した際は「ボクはあなたの絵見ました。マンガをね、虫メガネで見たけど、それでもデッサンが狂っていませんね。スゴイですよ!」と大友のことを絶賛している<ref name="1oku">『1億人の手塚治虫』(1989年、JICC出版局)</ref>。大友はそれに対して「でも僕は手塚先生のようなデフォルメされた絵はかけないんですよね」と語ると手塚は「僕は描こうと思えば誰の絵でも描けるけど、諸星大二郎のような絵と星野之宣のような絵は描けない」ということも大友に洩らしている<ref>石坂啓のインタビューによる</ref>。
 
: 大友が一番好きな手塚キャラは、屈折して影のある[[ロック・ホーム]]と語り<ref>[http://www2.toho-movie.jp/movie-topic/0104/01metro_in.html 映画メトロポリス公式サイト]</ref>、大友が脚本を手がけたメトロポリスには、原作では登場しないロック・ホームが、重要な役柄で映画全編に登場する。
 
: 大友が1993年のNHKラジオ「[[日曜喫茶室]] 鉄腕アトムの贈り物」に出演した際に、大友の作風が生まれたことについて以下のように語っている。「僕は高校の頃から映画が好きで映画ばっかり見てましたけど、手塚さんが作った漫画っていうのは非常に映画的な漫画なんですよね、昔の漫画に比べると。のらくろだったり、その、昔の古い漫画がありますけど、それに比べると非常に映画的にカメラアングルをこったり、カット割りみたいなのが素晴らしい。それをやっぱり、もう一度やってみたいなっていうのが、昔みたいなイマジネーションで漫画を描いてみたり、映画のカット割りに非常に近い、まあ手塚さんがそう作ったから当たり前なんですけど、それはありましたね、それを自分でもやってみたくなっちゃう。」「僕は手塚さんみたいに枚数が描けないんで線の数で勝負している。」また手塚が大友のことを『降参する』と言ったことについては「俺なんかをそんな風に言っていいのかなと思った」という。大友が手塚から漫画のパーティーに誘われた時のことは、「女房が電話に出て『手塚治虫から電話が来たよ』って言われて非常にビックリした」と語っている<ref>NHK-FMラジオ 「日曜喫茶室 鉄腕アトムの贈り物」1993年5月30日</ref>。
 
:大友は2014年のアニメビジエンスNo.3で大友タッチの鉄腕アトムを描いた。
 
; [[萩尾望都]]
 
: 萩尾は高校二年の頃に手塚の漫画「新撰組」に出会い、強い衝撃を受け漫画家を志した。その強い衝撃の様子を彼女はこう語る「『新撰組』のクライマックスシーンは、言うまでもなく花火のあがる河原での決闘シーンだ。このシーンが重要なのは、それまで丘十郎を支え育んできた彼の正義の情けが、熱意が、信頼が、ガラガラと崩壊していく様が描かれているからだ。親友大作は実は長州のスパイだった。敵を斬れと土方歳三に命じられた丘十郎が苦しみつつ歩く大きなコマがある。そのコマには大きなふきだしが三、四個あり、新撰組という集団の利益、忠誠と、個人の意志友情との間に引き裂かれてゆく、まさにダブルバインドに落ちた丘十郎の苦しみがめんめんとつづられている'''ハズであった。しかしそれは私の思い込みであった。実際はセリフは二行しかない'''。"大作・・許してくれ"。この二行は私にとって二百行にも価した。このシーンはぐっさりと私の心にくいこみ、いまだにその衝撃を忘れることができない<ref>手塚治虫名作集11「新撰組」あとがきの萩尾による寄稿より。</ref>。」「実のところ、私はそのショックで、十七の時に漫画家になる決心をしてしまった。」萩尾はこれを読んだ後、一週間ぐらいボーっとしたという。
 
: その後、萩尾は漫画家になり手塚と雑誌で対談をしたことも何度かある。手塚は萩尾の作品「[[11人いる!]]」に対して「11人いる!なんてのはスペース・オペラとしての傑作だと思っているんです」と評価している<ref name="秋田文庫「ぜんぶ手塚治虫!」2007年" />。萩尾は手塚の全作品を所有しているほどの大の手塚ファンであり、手塚が亡くなった時には次の様に語った。「私は手塚先生の写真を持っている。サイン本も持ってる。直筆の絵も持ってる。でももう何もいらないから手塚先生に長生きしてほしかった。悲しい。一体、どうしたらいいの。手塚先生、返事して下さい<ref>1989年「SFマガジン」4月号</ref>。」
 
; [[里中満智子]]
 
: 里中は、小学校入学直後に創刊されたばかりの『なかよし』で手塚作品に夢中になり、愛読していた。しかし、彼女はそれだけでは物足りず、貸本屋に通い詰め手塚作品をむさぼるように読んでいたという{{Sfn|手塚プロダクション|p=144}}。貸本に置いてないものは必死でお小遣いをためて買い、友人の兄から借りたりした。その中でも『鉄腕アトム』に特に夢中になった。悪いことをしようとした時にも「アトムならこんなことをしない」と自分に言い聞かせた。里中は「グレたりしないで生きてきたのはアトムのおかげ。アトムを生み出した手塚先生のおかげ」と語る。しかし、彼女が小学校5年生頃に悪書追放運動が起こり「鉄腕アトム」も悪書として批判されることがあった。里中は「こんなことでは漫画が滅ぼされてしまう!守りたい!」と思い漫画家を目指す。里中は16歳の若さで漫画家になった。[[1972年]]、里中はイベントの移動のため、手塚と二人きりで新幹線に乗ることとなり、大阪までの3時間、手塚と一緒に語り合った。その時の様子を里中は「酸欠状態で心臓バクバクだったが、手塚先生は優しかった」と語る。その中で手塚は「今後何を描きたいか」という質問で「究極のエロティシズムを描きたい!エロティシズムって素晴らしいですよ!」などと語り、当時若い女性であった里中は、どう受け答えしていいかわからず困ったという。しかし「聞いているだけで幸せでした」とも語る。その他に手塚は、妻との新婚時代のことや、息子のことについてなどを語った。
 
; [[南部正太郎]]
 
: 手塚が「マァチャンの日記帳」などの新聞連載を始めた頃、同時期に[[長谷川町子]]の「[[サザエさん]]」(『夕刊フクニチ』)、南部正太郎の「[[ヤネウラ3ちゃん]]」(『[[大阪新聞]]』)などの新聞連載漫画が始まっていた。手塚は『大阪新聞』を介して南部と知り合い、もう一人武田将美を加えて「スリー・メンズ・クラブ」というグループを結成、たびたび3人で映画や漫画について話し合うなどしていた。当時は南部の『ヤネウラ3ちゃん』の人気が圧倒的で、3人組を意味する「スリー・メンズ・クラブ」の「スリー」を3ちゃんの3のことだと思う人も多かったという{{Sfn|手塚|1999|p=87}}。
 
; [[馬場のぼる]]
 
: 馬場のその穏やかな人柄もあり、手塚の親しい友人の一人として交際。手塚の葬儀では[[加藤芳郎]]とともに、[[弔辞]]を読んだ。手塚の作品の一つ「[[七色いんこ]]」では馬場のぼるの絵本作品「[[11ぴきのねこ]]」を馬場のぼるの作品として物語の鍵に使っている<ref group="注">ただし、作中で説明されるのは[[井上ひさし]]が1971年に執筆した戯曲版のストーリーである。</ref>。また、手塚は早くから馬場をキャラクターとして自作に登場させており、中には「[[フィルムは生きている]]」の宍戸梅軒や「W3」の馬場先生のように重要な役柄で起用されるケースもある。「W3」で重要な役柄に抜擢された理由は馬場が手塚に対して「ねえ、たまにはルンペンよりいい役にしなさいよ」と言ったことによる。馬場は自分がモデルの馬場先生が「たいやきは しっぽの中のアンコで ねうちがわかるんだぞ」という場面に関心を寄せている。手塚が馬場と九州へ旅行に出かけた折、飛行機内で手塚が「[[鳥人大系]]」を描いていると「よくペンが走るなあ」と馬場が呆れたという<ref>手塚治虫漫画全集「鳥人体系」あとがきより</ref>。馬場は手塚のことを「手塚さんが現れて、どんどん人気が上がっていったんですね。そうして人気が上がるにつれ雑誌に手塚調の絵が氾濫するわけです。」と語り、手塚の訃報の際には「言うべき言葉も見つかりません。40年の付き合いでした。開拓者精神の旺盛な人で、鉄腕アトムのアニメをテレビで初めてやったのが手塚さんでした。今月の1日(手塚が亡くなったのは9日)にお見舞いに行きましたが、眠っておられてお話をすることはできませんでした。だいぶ痩せられて、危ないとは思っていましたが・・・。本当に偉大な方をなくしました」と語った<ref>報知新聞 1989年2月10日</ref>。
 
; [[小島功]]
 
: 手塚が昭和30年以降に「大人漫画」の世界に進んだ際に、大人漫画家の「若手」作家どうしとして交流が始まる<ref>峯島正行『回想 私の手塚治虫』(山川出版社)P.47</ref>。小島は、手塚のしらない「酒と女の世界」の指南役となり、手塚を銀座の夜の街に誘った<ref>峯島正行『回想 私の手塚治虫』(山川出版社)P.47</ref>。のちに二人とも「[[漫画集団]]」の一員となり、交流が深まる<ref>峯島正行『回想 私の手塚治虫』(山川出版社)P.72</ref>。また、「大人の女が描けない」漫画家だった手塚は、小島漫画のグラマーな女性キャラクターを模して、大人の女性像を描くようになった。また、小島が主導した1963年の「[[日本漫画家協会]]」の設立にも、「児童漫画家の代表」として賛成して支援した<ref>峯島正行『回想 私の手塚治虫』(山川出版社)P.72</ref>。
 
; [[やなせたかし]]
 
: 1960年代から晩年まで親交があった。手塚は劇場アニメ『千夜一夜物語』(1969年)に当時まだ大人漫画家として活動し現在ほど有名でなかったやなせを[[美術監督]]として起用し、キャラクターデザインもやなせに依頼している。そのお礼として手塚はポケットマネーを出して、やなせの原案によるアニメ映画『やさしいライオン』を制作した([[大藤信郎賞]]を受賞)。
 
: やなせは手塚のことを自著「[[アンパンマン]]の遺書」にて次のように記している「当時の小学生で漫画がうまいというのは、手塚治虫のマネがいかにうまくできるかということだった。」「手塚治虫という名前は、ぼくも風のたよりに聞いてはいたが、それはまったく別世界のできごとで、ぼくには無関係だった。」「ある日、電話が鳴った『もしもし、やなせさん、手塚治虫です』『あ、どうも』『実はね、今度虫プロで長篇アニメをつくることになったんですよ』『はあ、大変ですね』『それで、やなせさんにキャラクターデザインをお願いしたいんです。ひきうけていただけますか』『いいですよ』『それじゃね』だいたいこんな風な会話だった。手塚治虫はその頃は既に漫画の神様に近く、名声も確立して収入は僕のX倍もあったが、ぼくとはまったく世界がちがったから、ほとんど関心はなかった。」「それなのに何故ぼくに電話してきたのか。わけが分からない。漫画家は冗談が多い。これは手塚治虫の冗談だと思って、すっかり忘れていた。ところがある日、また虫プロから電話がかかってきた。」「手塚治虫はもう遠くの国へ逝ってしまったが、ぼくは改めて聞きたい『手塚さん、なぜぼくに依頼したんですか?』」「ところが千夜一夜は興行的に大ヒットするのである。そして手塚さんはぼくに言った『ヒットのお礼に、何かアニメーションの短編を自由につくってください』『え、ほんとですか』『制作費はぼくのポケットマネーから出します。』ということで、ぼくは、はじめてアニメーションを手がけることになった。とにかく自分でつくれる作品ということで、既にラジオでやっていて、脚本も音楽もできているやさしいライオンを選んだ。千夜一夜で[[山本暎一]]のやり方を見ていたので、大体のことは解ったし、絵コンテも手塚治虫と机を並べて描いたので要領はつかめていた」<ref>やなせたかし「アンパンマンの遺書」岩波書店 1995年 P146</ref>。
 
: やなせは「千夜一夜物語」前後を境に、子供向け作品を描いていた手塚が大人向け作品を作ることが増え、逆に大人向け作品を描いていたやなせが子供向け作品を作ることが増えたことを『運命の交錯』と表現している<ref>やなせたかし「アンパンマンの遺書」岩波書店 1995年 P154</ref>。
 
: 2009年に[[江戸東京博物館]]で開催された「手塚治虫展」では、「ぼくが学んだのは、手塚治虫の人生に対する誠実さである。才能は努力しても、とてもかなわないが、誠実であることはいくらかその気になれば可能である。もちろん遠く及ばないにしても、いくらかは近づける。手塚治虫氏はその意味でぼくの人生の師匠である。」というやなせのコメントが紹介された(やなせは手塚より9歳年長である)。
 
; [[寺田ヒロオ]]
 
: 寺田と手塚はトキワ荘で一緒に暮らしていた。トキワ荘に漫画家が続々と集まってくるのは、手塚が藤子不二雄の二人に14号室を譲ってからであるため、手塚は寺田と二人で住んでいた期間を「トキワ荘前史」と表している<ref name="1987年「トキワ荘青春物語」蝸牛社 -トキワ荘前史 手塚治虫" />。寺田と手塚の部屋は向かい合わせだった。手塚と寺田は年が3つほどしか違わず、手塚は寺田を「テラさん」と呼んでいた。寺田は手塚のことをこう語る「今のようにアシスタントを使って漫画を描くというスタイルは、手塚治虫さんが最初でしょう。手塚さんの登場で少年漫画の世界は革命的に変わりました。それまでは、どちらかと言えば舞台的な作り方だったのが、彼以来、映画的なものに変わってしまったんです。背景も細かく書き込むようになったし。かなり複雑なストーリーのものが漫画の世界に現れたものも手塚さん以降でしょう<ref>平凡パンチ 1984年5月 私の少年漫画誌</ref>。」手塚は自著で寺田のことを「寺田ヒロオ氏は児童漫画にかける情熱はすさまじく、高邁な信念をもって作品を描き、『スポーツマン金太郎』や『背番号0』などの名作を出した。その信念は終始一貫変わらなかった。ぼくの尊敬する漫画家のタイプの人である」と語っている<ref>手塚治虫「ぼくはマンガ家」大和書房、1988年、144p</ref>。手塚は劇画ブームの際、自身も劇画を描くなど対抗し乗り切ったが、寺田はそれができず児童漫画を貫くも、全く面識のない劇画作家(さいとう・たかを)に自分の描いた原稿を送り付け、「あなたはこんな物を描いていては駄目だ。漫画を描くならば、こういった物を描きなさい」と、一方的に諭した事もあったという。寺田の漫画は打ち切られ、寺田は自宅に引きこもりがちになる。1981年の[[NHK特集]]『現代マンガ家立志伝』で、トキワ荘メンバーが同荘会を開くという内容の番組が放送されたが、寺田は来なかった。その時、手塚は「テラさんは?」と語り寺田が来ないことを知ると、「ああ、惜しい・・」と残念がる姿が放映された。寺田はその後、トキワ荘メンバーとはほとんど会わなかったものの、90年に自宅に旧知の仲間を呼んで宴会をした後、自室に引きこもる生活を続け、92年に死亡している。
 
; [[福井英一]]
 
: 福井の[[柔道]]漫画『[[イガグリくん]]』(『[[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]』1952年 - 1954年連載)<ref>{{絶版マンガ図書館2|47591|イガグリくん}}(外部リンク)</ref> は連載時絶大な人気を誇っており、当時手塚は福井を最大のライバルと見なしていた。ライバルとしてだけではなく手塚の描いた「38度線上の怪物」には福井が登場し、福井が描いた『イガグリくん』には手塚が登場するコマがあるなど交流もあった。しかし、酔った福井が手塚に「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ!」「稼ぐばかりが能じゃねえ、ちっとは子供たちのことを考えろ、その態度がおれには腹が立ってならねえ、この贅六め!」とふっかけて口論となったこともある。1954年頃、手塚は『漫画少年』連載の「漫画教室」の中で、良くないストーリー漫画の例として『イガグリくん』を模した作品を登場させて福井の怒りを買い、福井の抗議を受けて馬場のぼるの仲裁で謝罪している。手塚は翌月の「漫画教室」に、漫画の先生が福井と馬場らしきシルエットの人物にやり込められている様子を描いて謝罪の意を表した。その1か月後に福井は[[過労死|過労で急逝]]しており、手塚は死去の報を受けて、競争相手がいなくなったことに「ホッとした」という感情を覚え、そのことで自己嫌悪に陥ったと記している{{Sfn|手塚|1999|pp=171-176}}。手塚は直後アシスタントしてもらっていた高校生時代の[[石ノ森章太郎]]にハガキを出している。「福井英一氏が亡くなられた。今、葬儀の帰途だ。狭心症だった。徹夜をしたんだ。終わって飲みに出て倒れた。出版社が殺したようなものだ。悲しい、どうにもやりきれない気持ちだ。おちついたら、また、のちほどくわしく知らせるから…」その手紙を受け取った石ノ森は、手塚の悲しみが行間からにじみ出てるようだったと語っている<ref>石ノ森章太郎のマンガ家入門 秋田文庫</ref>。その後手塚は漫画「世界を滅ぼす男」で空に浮かぶ雲を福井の形にして、自身の追悼の気持ちを漫画の中であらわした<ref>株式会社金の星社「手塚治虫物語―漫画の夢1945〜1959」2009年、P.183</ref>。その雲は穏やかな生前の福井の顔の形をしており、頭の上部には天使の輪の形をした雲が付いていた。手塚は福井が亡くなったことによるショックで、手塚と福井が連載していた「漫画少年」に『あと2年で漫画家を辞める』とまで発表し、漫画家を辞め医者を目指すつもりであった<ref>ヨシトミヤスオ「マンガ漫画の魅力」1978年。手塚とヨシトミとの対談による手塚本人談</ref>。
 
; [[水木しげる]]
 
: 水木しげるはデビュー当時、漫画は手塚治虫のような作風の漫画しか売れず、「私は(手塚治虫を)ライバルだと思ってやってきた。若い時から漫画界に君臨してきた彼に対して屈折した思いもあった」「手塚さんがコンクリート塗装の大きな道を闊歩してきたとすれば、私は細く曲がりくねった悪路をつまずきながら歩いてきたようなものだ」と自著『水木さんの幸福論』で語っている。水木しげるの長女の尚子は父の妖怪漫画よりも、かわいい絵を描く手塚の大ファンだった。水木の次女の悦子は「姉が手塚さんのマンガをかなり読んでいたことを水木は気にしていたようです」と話している。また水木の娘が水木に対して「お父ちゃんの漫画には未来がない。手塚漫画には未来がある」と言うと。水木は「これが現実なんだ!おれは現実を描いているんだ!」と激怒したという。水木の娘が手塚からサインを貰った時は『お父ちゃんの雑なサインと違って、丁寧に描いてくれた!』と言い、水木をガッカリさせている。
 
: 『週刊少年マガジン』の編集長だった[[内田勝]]によると、1965年から同紙で連載開始された水木の妖怪漫画「[[ゲゲゲの鬼太郎#メジャー化|墓場の鬼太郎]]」を目にした手塚は、その内容から受けたあまりの衝撃に、自宅で階段から転げ落ちたという<ref>[[大下英治]]「第五章 多様化するテレビアニメの世界 「悪魔くん」に先を越される」『<ruby>日本<rp>(</rp><rt>ジャパニーズ</rt><rp>)</rp></ruby>ヒーローは世界を制す』[[角川書店]]、1995年11月24日、ISBN 4-04-883416-9、110頁。</ref>。やがて「[[ゲゲゲの鬼太郎]]」と改題された同作品によって「妖怪ブーム」が起こると、手塚はこれを意識して「どろろ」を発表している{{Sfn|米澤|p=54}}。手塚はある出版社パーティーの席で、全く面識のなかった水木に話しかけ、否定的な発言をした。水木はその場では全く反論せず、後にこの体験をもとにして手塚によく似た[[棺桶]][[職人]]を主人公にした短編「[[一番病]]」<ref>初出は小学館の『ビッグコミック』1969年[[10月25日]]号、角川文庫『畏悦録』収録</ref> を描いた。手塚によく似た主人公が一番になろうとばかりし酷い目に会うという物語である。また水木が宝塚ファミリーランドで「ゲゲゲの鬼太郎」の[[遊園地#施設|アトラクション]]を開催していた事に対し、手塚は難癖と取られても仕方がない発言を行ったという<ref>足立倫行『妖怪と歩く 評伝・水木しげる』(1994年、[[文藝春秋]])</ref>。
 
: 水木は雑誌のインタビューで手塚のことを直接名指ししたわけではないが、「水木サン(水木の一人称)はいつでも自分がオモチロイと思ったものだけを描くんです。誰かにウケるものを描こうなんて考えたこともない。そんなことを考えて描く人は三流ですよ」と語っている<ref>講談社「ゲゲゲの鬼太郎 TVアニメDVDマガジン」第一巻 水木へのインタビューより</ref>。
 
: 手塚の息子の眞は、幼少期には『ゲゲゲの鬼太郎』のファンで、父親の漫画よりも好んでいた。後に眞が制作した映画『妖怪天国』は水木の影響を受けており、手塚治虫・水木しげる両人ともゲスト出演している。手塚によると、この映画への出演は眞から「水木に[[特別出演]]してほしいが、個人的に知っているか?」という相談を受けたところから始まった{{Sfn|手塚|1987|p=17}}。手塚はこれに対して「ああ、いろいろつき合って貰ってるよ」と返答した、と記しており、手塚と水木は漫画家としての交友は持っていたことがうかがえる。
 
:手塚の漫画「[[I.L]]」には主人公のI.Lの顔がモンスターになるシーンで水木が登場する。その時、水木はI.Lに関心を寄せた台詞を語っている。同じく手塚の漫画「三つ目がとおる」の「ガイコツ・ショー」の話では、テレビ局に乗り込んだ写楽達の場面で水木が登場し、三つ目小僧に付いて語っている。受け手であるタレントは「水木センセイのお話はこわかったですねー」と返答。「火の鳥 鳳凰編」では茜丸が様々な生き物に生まれ変わった夢を見る場面で、夢から目覚めた時の吉備真備が水木の登場人物「[[ねずみ男]]」の姿に変わっている。手塚は水木を自分の漫画に登場させる時は水木に電話で許可を取るようにしていた。雑誌の企画で漫画家とその妻の集合写真を撮った時は手塚と水木は二人仲良くならんで撮影している。
 
: 上記のように「手塚と水木は不仲である」ということが語られることもあるが、水木本人も後年の書籍で手塚との不仲を否定している<ref>『水木サンの幸福論』174ページ</ref>。
 
; [[諸星大二郎]]
 
: [[手塚賞]]応募作である「生物都市」を手塚は[[筒井康隆]]とともに絶賛し、この作品は満場一致で手塚から手塚賞が送られた。諸星および[[星野之宣]]と鼎談した際、手塚は「僕は諸星さんの絵だけは描けない」と発言している。手塚の漫画「ルードウィヒ・B」では、諸星のことを[[みなもと太郎]]や[[坂口尚]]などと共に「天才」と評価し、「自分を大事にして自分の個性を出していく者が結局強いんですよ。どこでも通用するんすよ。こういうのが自分の個性で勝つんすよ」と主人公のルードウィヒに語らせている。
 
; [[いしかわじゅん]]
 
: イベントでいしかわが[[吾妻ひでお]]と一緒に手塚と同席した際、「この2人は若手の間では神様みたいな人」と手塚に紹介されたことがある。その時、いしかわは「神様に神様といわれるのは妙な気分であった」と語る<ref name="ReferenceA">いしかわじゅん「フロムK」([[双葉社]]『[[漫画アクション|週刊漫画アクション]]』1989年[[3月7日]]号掲載分)</ref>。またその時、手塚は「いしかわ氏はぼくの影響を全然うけてないからなー」と語り、いしかわは「(そんなことないですよ。あなたの影響を受けていない漫画家なんていませんよ)」と心の中で語った。またいしかわは「七色いんこ」中のキャラとして登場させたいとのことで手塚から電話をもらったことがある。「七色いんこ」に登場した際のいしかわは、吾妻ひでおとキスをするという役柄であった。手塚はいしかわの作品「憂国」に対して「いしかわ氏の憂国なんかおもしろいよね<ref name="ReferenceA" />」と発言もしている。
 
: いしかわは手塚が亡くなった際に「今朝起きたら手塚治虫が死んでいた」「歴史上の人は死なないと思っていた。生死を超越した存在だとばっかり思っていたのだ」とそのショックを語った<ref>まんが情報誌「ぱふ」1989年4月</ref>。
 
; [[寺沢武一]]
 
: 寺沢は特に手塚のファンという訳ではなかったが、たまたま週刊少年チャンピオンで連載していた「ブラック・ジャック」内のアシスタント募集の広告を見て、手塚プロダクションに作品を投稿する。その時は手塚プロダクションの採用担当者の判断により不採用となったが、後日、手塚治虫が直々に寺沢の絵を見たところ寺沢の絵を気に入り、手塚のアシスタントに採用された<ref>秋田書店「ブラック・ジャック創作秘話1」</ref>。ジャンプコミックスで寺沢の『[[コブラ (漫画)|コブラ]]』第1巻には、手塚があとがきに寄稿している。手塚はその中で「じつは、助手を募集したとき、どういうわけか寺沢くんは選にこぼれてしまっていた。あとから気づいたぼくは、大慌てで彼を採用しなおした。こんなすごい絵がかける人をなんで見落とすんだ!こうして四人の採用者に彼が一人加わり、それが結果的に、彼がトップにプロの道へ進むきっかけをつくったのだった。」「彼の絵は緻密で、丹念で、しかも美しかった。ことに背景を描かせると抜群だった。」「ジャンプにプロ第一作を載せたということは、寺沢くんにとって大成功だと思う。」と寺沢のことを絶賛している。当時、寺沢は手塚の専属アシスタントをしていたにも拘らず、一人だけ残業をせず、「これから自分の創作活動するんで帰ります」と 早めに帰宅していたが、手塚は寛容に扱っていた。理由は「彼はとても才能のある子だから、一日でも早くアシスタントを卒業してデビューして欲しかった」 とのこと。寺沢は、手塚が火の鳥の原稿をカッターで切り、構図を変えているのを見て「うわっこんな風に発想するのか!」と驚いたという。また寺沢は手塚のことを「僕の思いつきを先生は面白がってくれた。きっとそういう新しい血が欲しかったんだと思う」「手とり足とり教えてくれたわけじゃないがすごくいい時間をもらった。僕にとって金に換算できない貴重な経験だった<ref>秋田書店「ブラック・ジャック創作秘話」1巻</ref>」と語っている。
 
; [[あだち充]]
 
: あだちは、高校在学中に手塚の雑誌『COM』に投稿していた。そしてCOMの新人賞において、「虫と少年」が手塚によって佳作2位に選ばれた。以後『COM』の読者コーナーにしばしば登場。あだちは手塚が死去した際に『週刊少年サンデー』上で次のような追悼文を寄せた。「亡くなられた2月9日は僕の誕生日でした。鉄腕アトムの誕生の年に生まれた僕としては、手塚先生の影響は計り知れません。虫プロ主催の雑誌『COM』がなかったら、漫画の作品めいたものも描かなかったでしょう。心からご冥福をお祈りいたします<ref>小学館『週刊少年サンデー』1989年3月1日「まんがの神様手塚治虫ご逝去を掉む」</ref>。」
 
; [[夏目房之介]]
 
: 夏目は小さな出版社に勤めながら、自分の漫画をいろんな人に送っていた。そうすることによって仕事がくるかと思っていたが、これは彼曰く全然当て外れであった。しかし、手塚治虫から夏目へと直筆のハガキが届き、その中には「24Pのものが一番面白かったと存じます」とわざわざ夏目の作品を褒めるものであった。このことに夏目は「信じられない」と語る<ref>1989年3月10日号「週刊朝日」夏目房之介のコラムより</ref>。1977年、夏目が実際に手塚と出会った時には「ああ自費出版を送っていただいて。あの本ね、面白いから編集者に貸したらそれきり返してくれないんです。週刊朝日やヤングコミックの仕事も拝見してますよ」と手塚に言われ、夏目は感銘を受けている。同時に「怖い人だ」という感想も述べている。これは当時、無名の新人であった自分の作品にもチェックを入れてくる手塚のプロ意識に対して尊敬と畏怖をこめてそう評している。
 
: 手塚死去の際、夏目は次のように語っている。「亡くなったことを知ってから、あちこちの連載に片っ端から追悼文を書いた。書いているうちは比較的冷静なのに、書き終えてみると、みぞおちのあたりから痙攣が馳せのぼってきて泣く。『うぉっうぉっうぉっおっおっ』と、まるでオットセイである。幼いころからのいろんなことが、いちどに手塚さんにむかってほとばしったみたいな泣き方で、これを書くたんびにくりかえすのである」「手塚さんの死を知ってから、表層的には平静だった私が[[コミックトム|月刊コミックトム]](遺作ルードウィヒ・Bの掲載誌)に追悼文を書き、最後に『手塚さん、さようなら』と記した途端に泣いた」「手塚治虫さんは、私などにとって好きとか嫌いとか、影響を受けたとか受けないとか、そういう表層的な存在ではなかった。だから、作品ひとつだけあげろと言われると『そんなことができるもんか!』と、どなりかえしたくなる<ref>夏目房之介「手塚治虫はどこにいる」筑摩書房 1992年</ref>」
 
 
=== 関係の深いアニメーション監督 ===
 
; [[富野由悠季]]
 
: 富野は小学生の頃、一年先輩の友達の家で雑誌「少年」に連載されていた「アトム大使」で初めて手塚作品と触れ合う<ref name="NHK BS2「週刊手塚治虫」2009年4月17日 ゲスト富野由悠季">NHK BS2「週刊手塚治虫」2009年4月17日 ゲスト富野由悠季</ref>。そして小学校5年生の4月から両親に「少年」を毎月買って貰うようにお願いした。その時のことを富野は「漫画が掲載されているような雑誌は買ってはいけないというのがうちのテーゼだったんです。それを拝み倒して4月から買ってもらった時に偶然『鉄腕アトム』の連載が始まった月だったんです。本当に衝撃的でした。それまではまだ・・・こんなタイトルあげても若い人は分からないかも知れませんが『のらくろ』の漫画がつまり戦前の漫画がちらちら残ってるんですよ。家の中に。そういうものを読んでお茶を濁していたという気分のところに、これが来ましたんで、要するに昔の軍隊話でないまったく新しい漫画が来た。ということで本当にびっくりしたし、何よりも物語を読まなければならない、つまり、絵だけを見ていたらすまないぞという物語を手塚先生がお描きになったというのが、やはり、いや、これは低俗な漫画ではないという断定を子供心にしてくれたという意味ではとてもすごい作品だったという風に思っています<ref name="NHK BS2「週刊手塚治虫」2009年4月17日 ゲスト富野由悠季" />。」また、富野は手塚の「来るべき世界」にさらにそれを超える衝撃を受けたということも語っている。富野は、小学校6年生の時には「僕は漫画で初めて女の子を知った」と「来るべき世界」のポポーニャが覆面を外すコマを上げた。
 
: 富野は日本大卒業後の昭和39年、手塚治虫が設立したアニメ制作会社の虫プロダクションに入社した。富野は手塚から直々に鉄腕アトムの演出に抜擢されアニメ後半の演出の多くは富野が手がけている。富野の初監督作品は手塚の漫画を原作とした「[[海のトリトン]]」である。富野は手塚治虫を振り返りこう語っている「アニメは全部動かさなくても伝えられるということを教えてもらった<ref>[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130623/ent13062318000017-n1.htm 産経新聞ニュース「ガンダムの富野監督の語った鉄腕アトムと手塚治虫」](2013年6月)</ref>。」「週ペースでものを作ることにすでに現場は慣れていましたが、とにかく忙しく、演出論などを議論をしている時間はなかった」「虫プロでマンガ家でアニメーターの真似事をしている人が社長であるわけがない。早く演出にならないと給料安くてやってられないと思っていた僕に「演出やらない?」と言ってきた時、ああやはりこの人はマンガ家でありクリエイターであって社長ではなかった、と思った。オレの映画観と手塚先生の映画観が違ったから。手塚先生の映画観は甘いんじゃないかと思ってた。手塚先生が満足した作品はないと思う。」「映画は好きに作ってすむものではない。好きだけで作れるとは思わないで下さい。それでも作るなら、手塚先生と同じ手の速さと学識を持ってほしい。僕もその1億分の1くらいになれるように頑張ります。」「(「ジャングル大帝」のシナリオの社内募集にコンテを持ち込みした際)それが採用されるというのは、じつはハナからわかっていた。なぜなら、コンテを読める奴はいないのだから、ぼくのコンテだって採用される。虫プロのコンテの基準は、マンガ絵がはっきりしていればいいのであって、映像的な評価を意識したものはないから、りんちゃん(=りんたろう)的なコンテであればとおるとふんだのだ」「だからといって、手塚先生がコンテを読めないことをあげつらうつもりはない」「手塚先生だって、若い連中が描いたコンテはなおすし、短編アニメのコンテをきらせたら天下一品であるのだが、ストーリー・アニメのコンテは不得手でいらっしゃったというのが、ぼくの評価である。こんなエピソードを書いたからといって、TVアニメのパイオニアである事実を貶めることにはならないし、マンガ家として天才であることを汚すことにもならない<ref>富野由悠季「∀の癒し」</ref>」
 
: 手塚は富野の監督作品『[[機動戦士ガンダム]]』について「機動戦士ガンダム以降では子供向けアニメが受けにくくなった」と語っている。
 
: 手塚が死去した時のことを富野は次のように振り返っている「先生が亡くなられたと聞いた翌朝、失礼をかえりみず先生のお宅にあがりこんで、死に顔を拝見できなくとも近くにいたいと願った。その行為は今も恥じていない。師のエキスの一万分の一も真似することはできないだろうけど、ここに従うものがいると知ってほしいと思うのは、生きている者の欲である<ref>河出書房新社「文藝別冊 総特集 手塚治虫」1999年 P.18</ref>。」
 
; [[りんたろう]](林重行)
 
: りんたろうは[[1963年]]に東映動画から手塚治虫の虫プロダクションに移籍した。これは東映動画ではやりたかった演出ができなかったためである。りんたろうは念願がかなって「鉄腕アトム」の演出を努めた。彼は手塚のことを「偉大なマンガ家であり、寝食を忘れて一緒に仕事をしたチーフ。覚えているのは、動画机を並べて仕事をしていた時のこと。[[地震]]みたいにガタガタガタガタ揺れ出した。先生は調子に乗ってくると[[貧乏揺すり]]をするクセがあった。あとは音楽に造詣が深かったこと。朝からコンテをかきつつ[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーベン]]の第5(運命交響曲)をかけていた。商業主義でアニメがどんどん大きくなり、先生が本来やりたかったアニメとどんどんかけ離れていった。でも先生は悩みながらアニメを手放さなかった。プライベートなフィルムを作ってバランスを取っていたんだと思う。でも、最後までどの作品にも満足しなかったのではないか。」と語る。
 
; [[杉井ギサブロー]](杉井儀三郎)
 
: 杉井は幼少の頃より手塚作品を読んで育った。彼はこう語る「手塚先生の『新宝島』に出会ったのは7歳の時。その紙のザラザラした感触も覚えている。手塚先生のマンガはほかのマンガと違って、読むというより映画を見ているという印象だった。」「僕は手塚マンガから映画の作り方を教わった。」「手塚先生と初めて会ったのは20代初め。小学生の頃からファンで雲の上の人だったけど、冷静に考えると先生もまだ30代。30代の若者が20代の若者を集めて作ったのが虫プロだった。一番教わったのは、[[エンターテインメント]]というのはチャレンジだということ。常にチャレンジしていないと古びてしまう。だから同じことを繰り返してはいけない。先生はホントにマンガが好きだったんだろうか、マンガではなく映画が好きで、映画を書いていたんじゃないかと思う。」
 
: 手塚は杉井のことを「ギッちゃん」と呼んでいた。
 
; [[出崎統]]
 
: 出崎は小学4・5年生の頃より手塚治虫に憧れて漫画を描いて育った。その後、虫プロに入社する。彼は次のように語る「僕は手塚治虫にあこがれ、マンガ家を目指して挫折して、偶然虫プロに入ることができた。先生を目の前にしてもこちらからアクションを起こすことなんてできなくて。何か思い出を作っておけばよかったと後悔してる。一度、アトムのコンテを見せた時『出崎君、[[エンターテインメント]]を忘れないで』と言われた。僕は暗い話が好きでそんなのばかりやっていたから。それからずっと、エンターテインメントって何だろう、と考えて、今日まで来てしまった。マンガでもアニメでも手塚作品の主人公はいつも悩んでる。そこにひかれたから、僕も『[[ロボット]]とは?』『[[人間]]とは?』とアトムをいつも悩ませた。それで『エンターテインメントを忘れないで』と言われちゃったけど、反権力で心の中に葛藤を抱えている、そういう主人公にあこがれ、僕もそういう作品を目指している。」
 
; [[高橋良輔 (アニメ監督)|高橋良輔]]
 
: 高橋も幼少の頃より手塚治虫に憧れて育ち[[1964年]]に虫プロへ入社した。「私も手塚先生のファンで、別世界の人と思ってた。虫プロの試験でお会いして「ホンモノだーっ!」って思った。[[神様]]みたいな存在だったのが、一緒に働いているとどんどん「ちょっと年上のただのオジサン」になっていった。徹夜して机の下に寝ていると何か圧迫感があって、見たら隣で先生が寝ている。手塚先生と添い寝しちゃった。後になって自分のスタジオを[[高田馬場]]に持った時、手塚プロも高田馬場にあったので、たまに坂道なんかで会うと声をかけていただき、ますますオジサン度が強まった。亡くなってからは、今度は偉大さが強まってきた。自分が生きて出会った、いちばん偉大な人、という思いを強くしている。「アトム」の後、30分のテレビアニメが増え、手塚アニメの人気が一時下がった。すると先生は大人向けの長編を作って大ヒットさせた。業界がまたそういう方向を食いつぶしていると、2時間という枠のアニメを今度はテレビでやった。開拓者、挑戦者だった。その遺志を継いで何とか新しいものを作っていこうと頑張っている。」「今仕事してみると、『先生が生きていたらどういう風に言ってくれるのかな』とか、先生のチェックがないということがね、あらためて『先生が亡くなっちゃったんだなあ』と。そういう意識の仕方ですね。」
 
: ちなみに、高橋の監督作品「[[装甲騎兵ボトムズ]]」の主人公キリコは手塚の作品「ブラック・ジャック」の登場人物から取られている<ref>[http://tezukaosamu.net/jp/dir/mushi/200404/index02.html 虫ん坊「新作アニメーション火の鳥 高橋良輔監督インタビュー」](2004年4月号)</ref>。
 
; [[宮崎駿]]
 
: 宮崎は手塚のアニメーション制作に対し批判的であった。手塚の訃報に際し、宮崎は手塚の漫画史における重要性を強調しつつも「アニメーションに対して彼がやったことは何も評価できない」「アニメーションに関しては(中略)これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」と述べた<ref name="miya">宮崎駿「手塚治虫に「神の手」を見たとき、ぼくは彼と訣別した」『[[コミックボックス|COMIC BOX]]』([[ふゅーじょんぷろだくと]])1989年5月号</ref>。
 
: 一方、漫画作品に関しては後の2009年のインタビューにおいて、7歳の時に読んだ『新宝島』に「言い難いほどの衝撃」を受けたことを明かし、「僕らの世代が、戦後の焼け跡の中で『新宝島』に出会った時の衝撃は、後の世代には想像できないでしょう。まったく違う世界、目の前が開けるような世界だったんです。その衝撃の大きさは、ディズニーのマネだとか、アメリカ漫画の影響とかで片づけられないものだったと思います」と語っている。また、その後の「ロストワールド」「メトロポリス」「来るべき世界」のSF3部作にも虜になったという。当初、漫画家を目指して活動していた宮崎がアニメーターに転じたのは、絵が手塚治虫の亜流に見えてしまうからであった。また、手塚のアニメについて、従来の評価は変わらないとした上で「僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べている<ref>[https://web.archive.org/web/20090419130306/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20090414b.htm 宮崎駿さんの手塚体験 「原点だから崇拝しない」](2009年4月19日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])YOMIURI ONLINE、2009年4月14日。</ref>。
 
: 雑誌の寄稿文では「十八歳を過ぎて自分でまんがを描かなくてはいけないと思ったときに、自分にしみこんでいる手塚さんの影響をどうやってこそぎ落とすか、ということが大変な重荷になりました。ぼくは全然真似した覚えはないし実際似てないんだけど、描いたものが手塚さんに似ていると言われました。それは非常に屈辱感があったんです。模写から入ればいいと言う人もいるけどぼくは、それではいけないと思い込んでいた。それに、手塚さんに似ていると自分でも認めざるをえなかったとき、箪笥の引き出しにいっぱいためてあったらくがきを全部燃やしたりした。全部燃やして、さあ新しく出発だと心に決めて、基礎的な勉強をしなくてはとスケッチやデッサンを始めました。でもそんなに簡単に抜けだせるはずもなくて…。」<ref name="miya" />と語り、その後のインタビューでは「僕は、手塚さんとはずっと格闘してきましたから。それは『恩義』だけれど、そんな言葉で語れるほど簡単なものじゃありません」とも語る。
 
: 宮崎は東映動画に入社した年である1963年に手塚治虫が原案を務めた「わんわん忠臣蔵」にアニメーターの一人として参加している。1977年には手塚治虫原案の「草原の子テングリ」でレイアウトを務めた。
 
: 手塚は宮崎の『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』に対し「僕は面白いと思った。うちのスタッフも皆、面白がって観ていた」と『[[ぱふ]]』のインタビューで語っている<ref>1980年5月 ぱふ</ref>。
 
:また、1981年には手塚治虫と宮崎との合作「ロルフ」も予定されていた。手塚は[[アニメージュ]]の紙面上で次のように語っている。「『ロルフ』---この有名なアングラ・コミックを宮崎さんが長編アニメにしたいという執念をぼくにもらされたのは、もう半年くらい前のことです。『じゃりん子チエ』の追い込みも終わった前後のことで、どうしてもこれだけは国際的アニメに作り上げたいという夢を、大塚康生氏とともに語られました。ぼくたちは、この夢の実現を目ざして、どんなに時間がかかっても成就したいと思っています。それにはT社の社長および原作者の強力なご援助がなければできないことです。コケの一念で実現させたいと思います。宮崎さんは、きっととてつもないもの凄い映画に作り上げられることでしょう」<ref>徳間書店「アニメージュ」1981年8月号</ref>。この合作はご破算になったが、ロルフの企画は名前を変え『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』になった<ref>徳間書店「The art of Nausica」1984年6月20日</ref>。
 
:宮崎は2011年に刊行された著書の中で、これまでの手塚への発言について「手塚さんは今の僕より若くして亡くなった方ですから、僕より若い人なんだ、とこのごろは思っているんです。年寄りがとやかく言うことではありません。」と述べている<ref>宮崎駿「本へのとびら」岩波書店、2011年、pp137-138。</ref>。
 
 
=== その他 ===
 
トレードマークは、[[ベレー帽]]と分厚い黒縁眼鏡。人前で帽子を外すことは滅多になく、「帽子を被ってないときは映さないで」と照れ笑いする様子が映像に残っている<ref>NHK特集『手塚治虫 創作の秘密』(1986年1月10日放送)</ref>。しかし、街中を歩く時、仕事中、タクシーの中などはベレー帽を脱いでいることが多かった(これにはベレー帽を脱いでいると街中を歩いていても手塚治虫であると気づかれにくい利点もあったようである)。ベレー帽は、もともと[[横山隆一]]を模倣してかぶり始めたもので、横山はやがてベレー帽の使用をやめたが、手塚は自身の漫画の中でも自分自身をベレー帽と黒縁眼鏡と鼻が大きい人物として特徴付けており、生涯これを変えることをしなかった。このベレー帽をかぶる風習はトキワ荘のメンバーにも伝わり、石森章太郎や藤子不二雄などもベレー帽をかぶっていた。
 
 
[[視力]]は度の強い[[近視]]であった。甘いものが好きであったために歯を悪くした。特に「チョコがなければ仕事ができない」というほどのチョコレート好きであり、死後に施錠されていた仕事机の中からかじりかけの板チョコが見つかった<ref name="gnavi">{{Cite web|url=http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/1380|title= 【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第二話:手塚治虫の「チョコレート」|work=ぐるなび みんなのごはん|accessdate=2015-05-30}}</ref>。
 
 
人並み外れた仕事量をこなしたことで知られているが、けして家庭を蔑ろにすることはなく、誕生日とクリスマスには必ず家族でレストラン・ディナーをとる習慣があり、計画を立てて正月と夏休みには家族旅行に出かけていた<ref name="gnavi" />。田中圭一には「マンガ家としてだけじゃなく父としても神」と評された<ref name="gnavi" />。
 
 
== 年表 ==
 
* [[1928年]][[11月3日]] - 大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)に生まれる。※岡町相生通りに生誕から2歳まで、引っ越して岡町曽根(萩の寺の付近)に2歳から5歳まで。
 
* [[1933年]] - 5歳のとき兵庫県[[川辺郡]]小浜村(現・宝塚市)の川面(かわも)の高台のふもとの元祖父の屋敷に一家で引っ越す。この頃から母と共に[[宝塚歌劇団|宝塚歌劇]]に親しむ。
 
* [[1935年]] - 池田師範学校附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校)入学。
 
* 1939年 - 自分の名前「治」に虫を付けて「治虫」をペンネームとする。
 
* [[1941年]] - 大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)入学。
 
* 1945年[[3月]] - 北野中学を卒業。[[学徒勤労動員|勤労動員]]中[[6月]]の大阪大空襲に遭遇。[[7月]]、大阪帝国大学附属医学専門部に入学。
 
* 1946年[[1月4日]] - プロデビュー作の四コマ漫画『[[マァチャンの日記帳]]』(少國民新聞(後の毎日小学生新聞)大阪版)の連載開始。
 
* 1947年 - 酒井七馬がもちかけた企画による長編漫画単行本(赤本)『'''[[新宝島|新寳島]]'''』が刊行された(初版1月30日、4月20日、6月1日、7月25日と版を重ねて累積40万部が売れたとされる)。
 
* 1950年(22歳) - 上京中に学童社に立ち寄って加藤謙一と出会い、持っていた単行本用の原稿を見せたところ連載が決まり「漫画少年」誌で『'''[[ジャングル大帝]]'''』の連載開始。
 
* 1951年 - 1年留年し、大阪大学附属医学専門部(旧制)卒業。[[毎日放送]]開局時の[[アナウンサー]]採用試験に合格。偶然通りかかって受験してみたところ合格した、と後年同局の番組『[[あどりぶランド]]』で語っている。光文社の月刊誌「少年」に「アトム大使」(当初の予定はアトム大陸)を連載開始。
 
* 1952年 - 医師免許取得。『アトム大使』から路線変更した『'''[[鉄腕アトム]]'''』(連載予告では鉄人アトム)を『少年』 に引き続いて連載。東京都[[新宿区]][[四谷]]に約1年半[[下宿]]する(四谷交差点(北西角。メトロ2番入り口前)「成木屋青物店」の2階。後の漫画作品「四谷快談」の舞台。『鉄腕アトム』などの執筆場所)。
 
* 1953年(25歳) - 東京都豊島区椎名町5丁目(現:豊島区南長崎3丁目)のトキワ荘に入居。『'''[[リボンの騎士]]'''』を講談社の月刊誌少女クラブに連載開始。
 
* 1954年 - 週刊朝日の昭和29年(1954年)4月11日号、頁22-23で「知られざる二百万長者 児童マンガ家・手塚治虫という男」として紹介される。
 
* 1954年 - 10月に豊島区雑司が谷の並木ハウスに下宿。
 
* 1957年 - 東京都渋谷区代々木初台に借家。
 
* 1958年(30歳) - 第3回小学館漫画賞受賞(『漫画生物学』『びいこちゃん』)。練馬区東大泉町(現:東大泉)の東映動画から漫画「ぼくのそんごくう」を元にした劇場用長編総天然色漫画映画「西遊記」の制作を持ちかけられて嘱託社員となる。
 
* 1959年 - [[松下井知夫]](まつしたいちお)が中心となって結成した「ストーリー漫画研究会」に参加(松下に結婚式の媒酌人を依頼)。
 
* 1959年 - 10月に岡田悦子と結婚。『[[週刊少年サンデー]]』創刊号から『スリル博士』を連載する。
 
* 1960年 - 練馬区谷原町(現:練馬区富士見台)に自らデザインした自宅を建てる。
 
* 1961年 - 奈良県立医科大学から医学博士の学位を授与される。主に東映動画から引き抜いた人材を中心とする6名で手塚治虫プロダクション動画部を設立し(12月には株式会社虫プロダクションとして登記)、自宅の庭の一角に作った建物で非商用アニメーション作品「ある街角の物語」の制作を開始。長男・[[手塚眞|眞]](本名:真)が誕生。
 
* 1963年(35歳) - 自ら創設して社長も務めた虫プロダクション制作の'''日本初'''毎週30分枠の[[テレビアニメ]]シリーズ<ref group="注" name="以前">テレビアニメとしてはそれ以前に『[[もぐらのアバンチュール]]』『[[新しい動画 3つのはなし]]』『[[インスタントヒストリー]]』『[[おとぎマンガカレンダー]]』などが放映されている。</ref>『鉄腕アトム』(モノクロ作品)がフジテレビにて1月1日から放送を開始する(丸4年間放送)。「ある街角の物語」が芸術祭奨励賞、第1回大藤信郎賞、ブルーリボン教育文化映画賞を受賞。
 
* 1964年 - 長女・[[手塚るみ子|るみ子]]が誕生。
 
* 1965年 - 日本初の1時間枠テレビアニメ「新宝島」を1月3日に放送(これは本来は手塚治虫原作の漫画を毎月1回1時間の枠で毎回完結の独立したアニメ番組化していく構想「虫プロ・ランド」の第1作目であったが、経営的な面から製作継続は無理と判断され、これ一作だけが作られて中止となった)。日本初のカラーテレビアニメシリーズ『[[ジャングル大帝]]』がフジテレビで[[10月6日]]から放送。毎日新聞社の特派員記者として[[ニューヨーク万国博覧会 (1964年)|ニューヨーク世界博覧会]]を取材するために渡[[アメリカ合衆国|米]]した際に偶然に同博覧会場のペプシコーラ館前に於いて生涯で一度だけとなったウォルト・ディズニーとの対面を果たす。W3事件。虫プロの版権部門を独立させた会社「虫プロ商事」を発足する。
 
* [[1967年]] - 虫プロ商事は月刊誌『COM』を刊行開始し、同誌に「'''[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]'''」の連載を開始。
 
* 1968年(40歳) - 虫プロ商事制作のテレビ番組「バンパイヤ」がフジテレビ系で放送開始。漫画制作のための手塚プロダクションを設立。
 
* 1969年 - 大人のための劇場用長編アニメーション「千夜一夜物語」を公開。
 
* [[1970年]] - 『火の鳥』で第1回[[講談社出版文化賞]]の児童まんが部門で受賞。[[日本万国博覧会]](大阪万博)にて「フジパンロボット館<ref group="注">フジパンロボット館は閉幕後に愛知青少年公園(現・[[愛・地球博記念公園]])に移設され、[[2005年]]に[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]でも展示された。</ref>」をプロデュース。少年画報社の「週刊少年キング」誌連載の『アポロの歌』に過度の性的描写があるとして、一部地域で青少年に対する[[発禁|発売禁止]]を受ける。
 
* [[1971年]] - 虫プロ社長を退任。(虫プロ商事の社長は継続)。手塚プロダクション動画部を作り、テレビアニメシリーズ「ふしぎなメルモ」を制作し、[[朝日放送テレビ|朝日放送]](現:[[朝日放送テレビ]]。[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]])で放送。
 
* [[1972年]] -『'''[[ブッダ (漫画)|ブッダ]]'''』を連載開始。
 
* [[1973年]](45歳) - 虫プロ商事とそれに続いて虫プロダクションが倒産。虫プロダクションの経営から手を退いた後も、手塚は個人で多額の[[保証|債務保証]]を行っていたため[[債権]]者に追われる身となるが、知人の[[葛西健蔵]](現・[[アップリカ・チルドレンズプロダクツ]][[会長]])が[[後見人]]となり、版権の散逸は免れた。11月19日、『週刊少年チャンピオン』にて『'''[[ブラック・ジャック]]'''』の連載開始。
 
* [[1974年]] - 練馬区から杉並区下井草に引っ越す。
 
* [[1975年]] - 漫画作品『ブッダ』、『動物つれづれ草』により第21回文藝春秋漫画賞を受賞。『ブラック・ジャック』により第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞。
 
* [[1977年]] - 漫画作品『三つ目がとおる』、『ブラック・ジャック』により第1回講談社漫画賞少年部門受賞。講談社『手塚治虫漫画全集』(当初は第1 - 第3期の全300巻を予定)刊行開始。
 
* 1978年(50歳) - 日本アニメーション協会(Japan Animation Association = JAA)の初代会長となった。
 
* 1978年 - 日本テレビ系の夏の「24時間テレビ」の中で、日本初の単発2時間枠のスペシャルアニメ番組「100万年地球の旅 バンダーブック」を放送。
 
* [[1979年]] – 児童漫画の開拓と業績により[[巌谷小波文芸賞]]受賞。
 
* 1980年 - 東宝洋画系で劇場用長編アニメーション「火の鳥2772」を公開。サンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞受賞。国際交流基金のマンガ大使として国連本部、米国の大学で現代日本のマンガ文化について講演。
 
* [[1983年]](55歳) - 漫画作品『陽だまりの樹』により第29回(昭和58年度)小学館漫画賞(青年・一般向け部門)受賞。
 
* [[1984年]] - 実験アニメーション『ジャンピング』が[[ザグレブ国際アニメーション映画祭]]グランプリおよびユネスコ賞を受賞。
 
* [[1985年]] - 実験アニメーション『おんぼろフィルム』が第1回国際アニメーション映画祭広島大会グランプリ受賞。東京都民栄誉賞受賞。漫画家生活40周年、『講談社 手塚治虫漫画全集』(当初予定した3期分全300冊)の完結により、講談社漫画賞特別賞受賞。同年7月にフランスで開催された「日仏文化サミット85」(朝日新聞社、フランス文化省、コミュニケーション国際広場CICOM主催、日仏両国外務省後援)に参加。
 
* [[1986年]] - 漫画作品『アドルフに告ぐ』により、第10回講談社漫画賞一般部門受賞。
 
* [[1987年]] - 愛知県岡崎市で開催の地方博覧会「葵博」の総合プロデューサーを務める。
 
* [[1988年]][[2月13日]] - 朝日賞受賞記念講演(東京・有楽町朝日ホール)、講演題「アニメーションと私」。
 
* [[1988年]][[6月4日]] - [[高橋健]]、[[矢島稔]]、[[田中栄治]]らと「日本昆虫倶楽部」を創設し初代会長に<ref>[http://chikyuza.net/wp-content/uploads/2016/07/0d9b0280360700200c189221c9d239e6.pdf 日本昆虫倶楽部ご案内]</ref>。
 
* [[1988年]](60歳) - 戦後マンガとアニメーション界における創造的な業績により朝日賞受賞。実験アニメーション「森の伝説」で毎日映画コンクール大藤賞受賞。ザグレフ国際アニメーション映画祭CIFEJ賞(青少年映画賞)を受賞。体調悪化により急遽入院(スキルス性胃癌と判明するが本人自身には伝えられず)。[[11月1日]]に大阪教育大学附属池田小学校で生涯最後の講演を行う。
 
* [[1989年]][[2月9日]] - 胃癌により入院中の半蔵門病院にて死去(享年60)。[[戒名]]は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。没後に日本政府から勲三等瑞宝章[[叙勲]]。[[日本SF作家クラブ]]主催第10回日本SF大賞特別賞受賞。
 
* [[1990年]] - [[東京国立近代美術館]]で回顧展。権威ある美術館で、没後1年足らずで回顧展が開かれた。国立美術館での漫画家の回顧展は空前のことであるという。同年、全業績に対して第19回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。
 
* [[1993年]] - 第4期講談社手塚治虫全集の刊行を開始(その後[[1997年]]12月に第4期の刊行は完了し、全部で400冊の全集が完結した)。
 
[[画像:Tezuka museum.jpg|thumb|right|[[宝塚市立手塚治虫記念館]]]]
 
* [[1994年]] - 兵庫県宝塚市に、[[宝塚市立手塚治虫記念館]]が開館した。これのメモリアル公演として宝塚歌劇団花組が第80期生初の[[舞台芸術|舞台公演]]として『[[ブラック・ジャック 危険な賭け]]』『火の鳥』を上演。
 
* [[2002年]] - 米[[アイズナー賞]]の「漫画家の殿堂」入り。同年に日本漫画家協会と出版社5社は手塚治虫の誕生日である11月3日を「漫画の日」とすることを提唱。
 
* [[2004年]] - 漫画『ブッダ』の[[英訳]]版がアイズナー賞の最優秀国際作品部門を受賞。
 
* [[2007年]] - 2008年に生誕80周年を迎えることを記念して、手塚治虫作品を読者の手で選んで発行する『手塚治虫O(オンデマンド)マガジン』のサービスが開始される。
 
* [[2008年]] - 生誕80周年を記念して小学館から過去のコミックの特装版、[[金|純金]]製アトムなどの商品の発売、出身地宝塚でのイベント、[[アメリカ合衆国]][[サンフランシスコ]]での手塚治虫展、広島国際アニメーションフェスティバル、[[東京国際映画祭]]で過去に自身が手がけたアニメ作品が特集されて上映。
 
* [[2009年]] - [[東京都江戸東京博物館|江戸東京博物館]]で特別展「手塚治虫展」開催。
 
* [[2011年]][[4月28日]]から[[6月30日]] - 大阪大学総合学術博物館 侍兼山修学館で、大阪大学総合学術博物館第13回企画展「阪大生・手塚治虫 - 医師か?マンガ家か?-」開催 ※ url=https://www.museum.osaka-u.ac.jp/jp/exhibition/P13/P13.html
 
* [[2012年]] - [[世田谷文学館]]にて「地上最大の手塚治虫展」開催。
 
* [[2013年]] - 練馬区立石神井公園ふるさと文化館にて特別展「鉄腕アトム放送50周年記念 - 鉄腕アトムが飛んだ日」(開催期間:2013年1月19日-3月24日)。
 
* [[2013年]] - 愛知県岡崎市「おかざき世界子ども美術博物館」で「手塚治虫展」。原稿や愛用品など約170点を展示(開催期間:2013年4月27日-?)。
 
* [[2013年]] - [[東京都現代美術館]]で特別展「手塚治虫×石ノ森章太郎 マンガのちから」(2013年6月29日-9月8日)。以降、[[広島県立歴史博物館]](2013年11月15日-2014年1月5日)、[[大阪歴史博物館]](2014年1月15日-3月10日)、[[山梨県立博物館]](2014年3月21日-5月19日)、[[宮城県美術館]](2014年5月31日-7月27日)、[[長野県信濃美術館]](2014年10月4日-12月7日・予定)を巡回。
 
* [[2014年]] - [[大学入試センター試験]]二日目(1月19日、日曜日)の日本史Bの設問に手塚が取り上げられ、著書や漫画が使われた。※注:学校用教科書に手塚治虫の文章が掲載された例は在命中にも何度かある。
 
* 2014年4月7日 - 米グーグルのWebサイト「歴史アーカイブ(Google Cultural Institute)」に漫画やアニメ作品でたどる手塚治虫の生涯が公開。
 
* 2014年5月16日(?) - スペイン、バルセロナのコミックサロンで、手塚治虫作「人間昆虫記」が外国作品部門で受賞 ※日本漫画作品では初の受賞。
 
* 2014年7月12日から8月31日 - 滋賀県立近代美術館で「手塚治虫展」(2014年7月12日-8月31日)。
 
* 2014年7月25日 - 漫画『[[地底国の怪人]]』の[[英訳]]版(The Mysterious Underground Men, by Osamu Tezuka (PictureBox))がアイズナー賞の最優秀国際アジア作品部門を受賞。
 
* 2014年7月19日から10月5日 - 湯前まんが美術館(熊本県球磨郡湯前町中央公民館(那須良輔記念館))で「火の鳥連載60周年記念 阿蘇と手塚治虫」展(2014年7月19日 - 10月5日)。
 
* 2014年9月5日から9月14日 - 横浜みなとみらいのブリリアショートショートシアターで、手塚治虫の実験アニメーション特集(2014年9月5日 - 9月14日)。※ 「森の伝説 第二楽章」完成記念。初日に手塚眞のトークショウ。※2014年8月21日に第15回広島国際アニメーションフェスティバルでのワールドプレミア上映に続く一般向け公開。
 
* 2014年11月3日から11月9日 - 東京・吉祥寺の吉祥寺ギャラリー・カイ (GALLERY KAI) で「手塚治虫の美女画展」開催。
 
* 2015年2月28日から5月10日 - 京都国際マンガミュージアムで「医師たちのブラック・ジャック展」開催。
 
* 2015年12月17日から12月23日 - 吉祥寺リベストギャラリー創で「手塚治虫文化祭 〜キチムシ‘15〜」開催 ※ 時間12:00〜18:00(最終日は17:00まで)
 
* 2016年7月30日から8月21日 - 会津若松市歴史資料センター「まなべこ」で特別企画展「手塚治虫と会津」。
 
* 2016年9月10日から11月13日 - さいたま市立漫画会館1階 企画展示室で「手塚治虫とっておきの漫画」展。
 
* 2018年1月25日から3月11日まで - フランス・アングレーム美術館で展覧会「Osamu Tezuka, Manga no Kamisama」。
 
 
== 作品 ==
 
{{see|手塚治虫の作品一覧}}
 
 
== 関連人物 ==
 
=== 家族 ===
 
祖父・[[手塚太郎]]は[[裁判官|司法官]]で、[[1886年]](明治19年)に創立された[[関西法律学校]](現在の[[関西大学]])の創立者の一人である。[[大阪地方裁判所]][[検察官#検察官の職名|検事正]]から[[名古屋市|名古屋]][[控訴院]][[検察官#名称|検事長]]、[[長崎県|長崎]]控訴院長などを歴任した。曾祖父・[[手塚良仙]]は[[適塾]]に学んだ[[蘭方医学|蘭方医]]で、[[1858年]]([[安政]]5年)に[[江戸]]の[[神田 (千代田区)|神田]][[於玉ヶ池|お玉ヶ池]][[種痘所]](現在の[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京大学医学部]]の前身)を設立した人物の一人でもある。その生涯は治虫の晩年の作『陽だまりの樹』で[[フィクション]]を交えつつ描かれており、[[福澤諭吉]]の[[自伝]](『[[福翁自伝]]』)にも記録が残っている。[[先祖|遠祖]]は[[平安時代]]の[[武将]]・[[手塚光盛]]とされる。家系図<ref>[http://kingendaikeizu.net/tezukaosamu.htm 手塚治虫の家系図(深瀬泰旦:「漫画の神様 手塚治虫とその一族」、歴史と旅、秋田書店、2000年2月号より)]</ref> (なお作家活動時には多くの書籍で生年を大正15年([[1926年]])と紹介していた)
 
 
父・粲は[[住友金属工業|住友金属]]に勤める[[サラリーマン|会社員]]であり、[[カメラ]]を愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回しの9.5mmフィルム[[映写]]機([[パテベイビー]])を所有しており、治は[[小学校]]2年生から[[旧制中学校|中学]]にかけて、日曜日には家にいながらにして[[チャールズ・チャップリン|チャップリン]]の[[喜劇]]映画、[[フライシャー・スタジオ|マックス・フライシャー]]や[[ウォルト・ディズニー|ディズニー]]のアニメ映画を観ることができた{{Sfn|手塚|1997|pp=17-19}}。そのため治は幼少時から漫画家よりもむしろアニメ監督になることを夢見ていたという<ref>アニメ雑学おもしろ事典(1984年、白泉社)手塚インタビュー</ref>。なお、父はカメラにはまる前は漫画にも凝っていて、漫画への理解があり、家には[[田河水泡]]の『[[のらくろ]]』シリーズや、中村書店の「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」、「ナカムラ・繪叢書」など、200冊を超える漫画本があったという{{Sfn|手塚|1997|pp=10-12}}。また、後に治虫が父が母に向けて書いたラブレターを発見した際、ラブレターに漫画が描かれてあるのを発見し、「やっぱり自分は父の息子だ」と思ったという<ref>テヅカニアン博物館監修「手塚治虫の真実と謎と秘密と履歴書」p.12</ref>。
 
 
母・文子は[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[中将]]服部英男の娘で厳しい[[しつけ]]のもとに育ち、夫には絶対服従であったが、戦中に夫が[[召集]]された際は、[[生活費]]の捻出や[[農作業|畑仕事]]から[[隣組]]の役員まで務める働き振りを示す{{Sfn|桜井|p=37}}一方で、幼少期の治に子守唄代わりに[[絵本]]や漫画を登場人物ごとに声音を使い分けて[[読み聞かせ]]ていた。母もまた漫画好きであり、後に治虫の長男・眞が治虫の[[書斎]]で『のらくろ』を読んでいたところ、ページの隅に[[パラパラマンガ|パラパラ漫画]]を発見した。てっきり治虫によるものだと思っていたが、後になって文子が描いたものだったと判明したという{{Sfn|桜井|p=40}}。
 
 
治虫は初期の[[自伝]]などで父を悪く書き、母を持ち上げるという[[エディプスコンプレックス]]丸出し<ref group="注">なお、治虫の作品に父親の存在が希薄であることはしばしば指摘されている。(桜井、34p)</ref> の行動を取っている。父を強権的で母に無理を押し付ける[[亭主関白]]として、あるいは治虫自身に害のある行動を取ったと回想しているものであり、そのうちの一部は後にエッセイなどで事実上の撤回をしている(初期の自伝などで父は漫画を買ってくれず主に母が漫画を買ってくれたとしていたが、後年のエッセイではむしろ父親が買ってくれていたと変わっている)。実妹・美奈子は治虫没後のインタビューで、父親について決して強権的ではなく家庭サービスにも熱心であったと述べている<ref>『手塚治虫完全解体新書』所収</ref>。この事は「ぼくの漫画期」にも載っている。
 
 
治は長子で、下には2歳下の弟・浩と4歳下の妹・美奈子(結婚後は宇都に改姓)がいる。浩は「子供の頃昆虫の事が元でああじゃね、こうじゃねと話していたら取っ組み合いのケンカになった。殴り合いでね、こっちは軽く勝つと思っていたら兄貴強かったですよ。だから、ヨワムシとかナキムシとか言ってたけどあれはまるで嘘ですよ。」と語っている。[[2009年]][[2月9日]]放送の「BS20周年企画 手塚治虫2009」では手塚の同級生とともに[[宝塚市立手塚治虫記念館|宝塚市の手塚治虫記念館]]に訪れている。美奈子は「[[太平洋戦争|戦争]]が始まって兄はどこか変わった。それまでは[[天国]]のような生活だったけど、戦争が始まって[[学校教練|軍事教練]]などさせられて兄のプライドは傷付いた」と話している。美奈子は手塚のキャラクター・[[ヒョウタンツギ]]の創作者でもある<ref>2009年2月9日放送「BS20周年企画 手塚治虫2009」</ref>。
 
 
妻の悦子(旧姓・岡田)は、血の繋がらない親戚で幼馴染であった。結婚が第1次全盛期と重なっていたため、[[結婚]]前に2回しか[[デート]]ができず{{Sfn|手塚|1999|p=217}}、しかも[[結婚披露宴]]では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったという{{Sfn|桜井|p=122}}。悦子は梅花高女(現在の[[梅花中学校・高等学校]])出身であり、この学校が当時「大阪のひどい方で一流の、つまりすごい学校」だったため、手塚は「鉄火肌のおもしろい子」を期待して悦子と結婚したが、実際に結婚してみるとそうではないことがわかったという{{Sfn|北|p=25}}。
 
 
子供は3人。長男は[[映像作家]]の[[手塚眞]] (本名は「真」、悦子夫人が真実一路という言葉を好んでいたので命名)。長女はプランニングプロデューサー・[[環境運動|地球環境運動]]家の[[手塚るみ子]](少女雑誌の懸賞の当選者に「るみ子」という名前があったので命名)。次女は[[俳優|女優]]の手塚千以子(ちいこ・『[[千夜一夜物語]]』にちなんで命名)。また、[[声優]]の[[松山薫]]は姪。
 
 
妻、長男、長女の3人が手塚治虫に関する本を刊行している。
 
 
=== アシスタント経験者 ===
 
日本で漫画制作作業の専業アシスタント制度(プロダクション制作システム)を最初に始めたのは手塚治虫であるといわれている。
 
なお以下のリストは完全なものではない。手塚治虫は、アシスタントは通例2-3年程度で独り立ちすることを良しと考えていた。
 
{{段組|width=18em|count=auto|1=
 
* [[笹川ひろし]] - [[竜の子プロダクション]]の創業メンバーの一人で、アニメ演出家である。
 
* [[古谷三敏]]
 
* [[月岡貞夫]]
 
* [[しのだひでお]]
 
* [[久松文雄]]
 
* [[高須れいじ]]
 
* [[小室孝太郎]]
 
* [[北野英明]]
 
* [[三浦みつる]]
 
* [[寺沢武一]]
 
* [[成田アキラ]]
 
* 小谷憲一
 
* [[岩田廉太郎]]
 
* [[池原しげと]]
 
* [[石坂啓]]
 
* [[高見まこ]]
 
* [[喜国雅彦]]
 
* [[わたべ淳]]
 
* [[吉住純]]
 
* [[大和田夏希]]
 
* [[みやぞえ郁雄]]
 
* [[井上智]]
 
* [[馬場秀夫]]
 
* [[林ひさお]]
 
* [[井上大助]]
 
* [[井上英沖]]
 
* [[きりえれいこ]]
 
* [[大野豊 (漫画家)|大野豊]]
 
* [[堀田あきお]]
 
* [[高井研一郎]]
 
* [[宮腰義勝]]
 
* [[鈴木光明]]
 
* [[村野守美]]
 
* [[はらだ蘭|はらだ蘭(原田千代子)]]
 
* [[浜口渉]] 虫プロ時代のアシスタントの後に手塚プロの資料室長
 
* [[阿部高明]]
 
* [[上野義幸]]
 
* [[きよみずあや]]
 
* [[小杉あきら]]
 
* [[すみちあき]]
 
* [[坪田文太]]
 
* [[杜町かなえ]]
 
* [[七瀬カイ]]
 
* [[成田マキホ]]
 
* [[平田昭吾]]
 
* [[平松修]]
 
* [[広井てつお]]
 
* [[やまだ三平]]
 
* [[福元一義]]
 
* [[斉藤あきら (漫画家)|斉藤あきら]]
 
* [[はっとりかずお]]
 
* [[甲斐謙二]]
 
* [[福永ヒロ]]
 
* [[伴俊男 (漫画家)|伴俊男]]
 
* あべこうじ
 
* [[森晴路]] - 講談社手塚治虫全集の製作作業、後に手塚プロダクション資料室長。
 
* 星城朗二(田中英二)
 
* 谷川一彦
 
* 島崎朝子
 
* 野村正([[1982年]]手塚プロ入社)
 
* 山下雄平
 
}}
 
 
==== トキワ荘・初台時代 ====
 
* [[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]](安孫子素雄) - 「漫画少年」連載の『ジャングル大帝』の最終回等をアシスト
 
* [[藤子・F・不二雄]](藤本弘) - トキワ荘メンバーと共に雑誌未掲載の「ぼくのそんごくう」をアシスト
 
* 石森章太郎([[石ノ森章太郎]]) - 高校時代に光文社「少年」連載の『鉄腕アトム』「電光人間の巻」など複数をアシスト
 
* [[赤塚不二夫]] - 石森と共に「少女クラブ」掲載の『火の鳥(ギリシャ編)』をアシスト(ペン入れ)
 
* [[横山光輝]] - 「少年」連載の『鉄腕アトム』をアシスト
 
* [[桑田二郎]] - 「少年」連載の『鉄腕アトム』をアシスト
 
* [[永島慎二]] - 『[[丹下左膳]]』をアシスト
 
* [[松本零士]] - 『複眼魔人』をアシスト
 
 
==== アニメーション制作のスタッフ ====
 
以下のリストは完全なものではない。なお虫プロダクションの最盛期には従業員が400人以上もいたといわれる。
 
{{段組|width=18em|count=auto|1=
 
* [[中村和子]](穴見和子) - 虫プロ立ち上げ時から多くの商業・実験作品にアニメーターとして
 
* [[杉井儀三郎]]
 
* [[坂本雄作]]
 
* [[紺野修司]]
 
* 北野英明
 
* [[勝井千賀雄]]
 
* [[出崎統]] - 虫プロ
 
* [[山本暎一]] - 動画、演出、監督
 
* [[りんたろう|林重行(りんたろう)]]
 
* [[坂口尚]] - アニメ関係で手塚治虫の片腕として活躍
 
* [[西崎義展]](虫プロ商事にも在籍していた事もある。また『海のトリトン』『ワンサくん』のプロデューサー)
 
* [[富野由悠季]](『鉄腕アトム』で多数の脚本と演出。また『海のトリトン』の監督)
 
* [[宮本貞雄]]
 
* [[赤堀幹治]]
 
* [[石郷岡豪]]
 
* [[柴山達雄]]
 
* [[高橋良輔 (アニメ監督)|高橋良輔]]
 
* [[安東穂夫]]
 
* [[五味明]]
 
* [[永島慎二]]
 
* [[平田敏夫]]
 
* [[杉野昭夫]]
 
* [[川尻善昭]]
 
* [[正延宏三]]
 
* [[瀬山義文]]
 
* [[石井元明]]
 
* [[山本繁]]
 
* [[片岡忠三]]
 
* [[渡辺恒光]]
 
* [[永樹凡人]]
 
* [[香西隆男]]
 
* [[宇田八郎]]
 
* [[青木茂 (アニメーター)|青木茂]]
 
* [[岡迫亘弘]]
 
* [[田中英二]] - 作画・原画
 
* [[大島やすいち]]
 
* [[河井竜]]
 
* [[古川雅士]]
 
* [[尾形治敏]]
 
* [[小林準治]] - 後期の実験アニメの作画を担当
 
* [[豊田有恒]](虫プロ文芸部)
 
* [[石津嵐]](虫プロ文芸部)。[[磐紀一郎]]と同一人物
 
* [[下崎闊]](本名:下関闊(しもぜきひろし)、別名:下崎潤、真佐美ジュン、正佐美ジュン)
 
* [[雪室俊一]] - 脚本
 
* [[鈴木伸一]] - テレビシリーズや劇場作品など
 
* [[星新一]] - 文芸部
 
* [[辻真先]](桂真佐喜名義で多くのアニメ作品に脚本家として参加)
 
* [[やなせたかし]] - 虫プロ「千夜一夜物語」の美術担当、自絵本作品の劇場アニメ化版「やさしいライオン」の製作。
 
* [[高井達雄]] - [[作曲家]](ある街角の物語、虫プロ鉄腕アトム)
 
* [[冨田勲]] - 作曲家(東映動画『シンドバットの冒険』、虫プロ『新宝島』、虫プロ『[[ジャングル大帝]]』、『リボンの騎士』、『どろろ』、『千夜一夜物語』、『クレオパトラ』、『展覧会の絵』など)
 
* [[宇野誠一郎]] - 作曲家(『W3』、『悟空の大冒険』、『不思議なメルモ』(オリジナル版)、虫プロ『アンデルセン物語』)
 
* [[大野雄二]] - 作曲家(『バンダーブック』、『海底超特急マリン・エクスプレス』、『フウムーン』、『プライム・ローズ』)
 
* [[大野松雄]] - 『虫プロアトム』の音響効果、音楽監督
 
* [[鈴木清司]] - 手塚プロ作品の選曲、音楽監督
 
* [[倉橋静男]] - 手塚プロ作品の音響効果
 
* [[田代敦巳]] - 音響ディレクター
 
* [[明田川進]] - 音響ディレクター
 
* 谷川一彦 - 作画
 
* 吉村昌輝
 
* 横山菁児 - 虫プロのアニメ「リボンの騎士」などの画の動きに合わせるオーケストラの演奏の指揮者(音楽団:フールサウンズ)。
 
}}
 
 
=== 手塚治虫を演じた俳優 ===
 
* 手塚治虫 - 『バンパイヤ』等、多数。
 
* [[江守徹]] - [[銀河テレビ小説]]『まんが道』([[1987年]])『まんが道 青春編』([[1988年]])
 
* [[手塚眞]] - 『NHKスペシャル いのち わが父・手塚治虫』([[1989年]])
 
* [[古谷一行]]・[[工藤彰吾]] - 『[[水曜グランドロマン]] 手塚治虫物語 いとしき生命のために』([[1990年]][[2月]]、日本テレビ系列)※ DVD化あり(東映ビデオ、カラー、本編90分、品番:DSTD03488)
 
* [[中井貴一]] - 『陽だまりの樹』(舞台)([[1992年]]、[[1995年]]、[[1998年]])
 
* [[北村想]] - 映画『[[トキワ荘の青春]]』([[1996年]])※DVD化あり(カルチュア・パブリッシャーズ (バップ)、2009年[[10月28日]]、品番VPBT-15461)
 
* [[吉澤拓真]] - 『天空に夢輝き 手塚治虫の夏休み』(1996年)※DVD化あり。
 
* [[奥田瑛二]] - 『永遠のアトム 手塚治虫物語』([[1999年]])
 
* [[久野雅弘]]・[[立澤真明]] - 『[[愛と青春の宝塚]]』([[2002年]])
 
* [[春風亭昇太]] - 『[[超大型歴史アカデミー史上初!1億3000万人が選ぶニッポン人が好きな偉人ベスト100|超大型歴史アカデミー100人の 偉人・天才編]]』([[2007年]][[1月5日]])
 
* [[上地雄輔]] - [[未来創造堂]]『シアター創造堂 日本漫画 [[加藤謙一]]』(2007年[[1月26日]])
 
* [[藤原竜也]] - フジテレビ開局50周年特別企画 『[[わが家の歴史]]』([[2010年]])※ BD-BOX(2010年[[10月20日]]発売)あり。
 
* [[田中れいな]] - 『[[リボーン〜命のオーディション〜]]』([[2011年]])
 
* [[草なぎ剛|草彅剛]] - 『[[ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜|神様のベレー帽〜手塚治虫のブラック・ジャック創作秘話〜]]』([[2013年]][[9月24日]])※DVD/BD化あり。
 
* [[岡田斗司夫]] - テレビドラマ『[[アオイホノオ]]』([[2014年]])・ただし、岡田はいわゆる[[カメオ出演]]であり、厳密な意味での俳優ではない。
 
 
=== 掲載誌の編集者 ===
 
これはまだ不完全なリストです。
 
* 新井善久(講談社「少女クラブ」担当編集者、『火の鳥』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。
 
* [[青木和夫]](秋田書店「週刊少年チャンピオン」担当編集者)
 
* 阿久津信道(秋田書店「冒険王」と「漫画王」担当編集長で『冒険狂時代』『ぼくのそんごくう』。元秋田書店取締役編集局長、2007年9月12日死去) ※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。
 
* [[阿久津邦彦]](秋田書店「少年チャンピオン」編集者)
 
* [[井岡秀次]](講談社「週刊少年マガジン」)
 
* 伊藤嘉彦(秋田書店「週刊少年チャンピオン」担当編集者(ブラックジャック4代目担当編集者)、現・幻冬舎コミックス代表取締役社長)
 
* 内田勝(講談社「週刊少年マガジン」)※ 少年マガジン編集長。[[W3事件]]参照。
 
* 大浦静雄(潮出版社、7年間『ブッダ』の連載を担当)
 
* [[二階堂卓也|大塚公平]](秋田書店「週刊少年チャンピオン」副編集長、映画評論家)
 
* 大和田俊司(秋田書店「週刊少年チャンピオン」編集者)
 
* 岡本三司(秋田書店「週刊少年チャンピオン」編集者)※『ブラック・ジャック』初代担当
 
* 加藤謙一([[学童社]]「漫画少年」)※ 戦前に小学校教師から講談社に転職して「少年倶楽部」編集長になる。敗戦で公職追放を受けて個人で学童社を興していた。偶然そこを訪問した手塚が携行していた赤本用原稿を見て掲載を決めた結果が長編連載漫画『ジャングル大帝』となった。
 
* [[壁村耐三]](秋田書店「少年チャンピオン」)※ 『ぼくのそんごくう』(秋田書店「冒険王」)連載時の編集部員で、後に『ブラックジャック』連載開始時の少年チャンピオンの編集長。
 
* 刈谷政則(大和書房)
 
* 河野安廣(秋田書店「週刊少年チャンピオン」編集者)
 
* 熊藤男(秋田書店「週刊少年チャンピオン」副編集長)
 
* 桑田裕(光文社「少年」担当編集者)
 
* 小林鉦明(かねあき)(少年画報社、秋田書店)
 
* 志波秀宇(ひでたか)(小学館「ビッグコミック」)『地球を呑む』『きりひと賛歌』※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。
 
* 篠田修一(大都社)※手塚治虫ファンクラブ顧問も務めた。
 
* 戸田利吉郎(少年画報社)
 
* 豊田亀市 (小学館「週刊少年サンデー」の初代編集長)
 
* 牧野武朗(講談社「なかよし」初代編集長、「週刊少年マガジン」の初代編集長)
 
* 松岡博治(朝日ソノラマ単行本「サンコミックス」、雑誌「マンガ少年」担当編集者で、『鉄腕アトム』『火の鳥』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。※ 現・メディアファクトリーコミック出版事業部エグゼクティブプロデューサー。
 
* [[松谷孝征]](たかゆき)(実業之日本社「漫画サンデー」編集者)※ その後1973年から16年間手塚治虫のマネージャーを勤め、請われて1985年4月から手塚プロダクション代表取締役社長。※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。
 
* [[丸山昭]](講談社「少女クラブ」担当編集者で『リボンの騎士』『火の鳥』(共に少女クラブ版))※ 著書やインタビュー記事のほか、「神様の伴走者13+2」にも寄稿あり。
 
* [[峯島正行]](実業之日本社の編集者)- 『週刊漫画サンデー』の初代編集長
 
* 宮原照夫(講談社「週刊少年マガジン」編集長(4代目)、『W3(少年マガジン版)』『三つ目がとおる』『手塚治虫漫画全集』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。
 
* 西村繁男(集英社「週刊少年ジャンプ」)
 
* 野口勲(虫プロ商事の編集者)
 
* 橋本一郎(朝日ソノプレス社、朝日ソノラマの編集部、元少年画報社編集者、「サンコミックス」創刊編集長)
 
* 福島健夫(編集長、実業之日本社「漫画サンデー」の編集者)
 
* 鈴木敏夫(徳間書店「コミックアンドコミック」、「アニメージュ」の編集)
 
* 上野明雄(小学館「小学一年生」、「小学三年生」の担当編集者を経て編集長)
 
* 吉倉英雄(集英社「月刊少年ジャンプ」編集者)
 
* 長野規(集英社の月刊「おもしろブック」編集員、後に週刊少年ジャンプ初代編集長)
 
* 黒川拓二(元少年キング編集長で『ノーマン』『鬼丸大将』『紙の砦』『アポロの歌』を担当)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。
 
* 豊田亀市(小学館「少年サンデー」で『スリル博士』『0マン』『キャプテンKen』『白いパイロット』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。
 
* 鈴木五郎(小学館「中学生の友」で『流星王子』『おお!われら三人』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。
 
* 池田幹生(文藝春秋「週刊文春」で『アドルフに告ぐ』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。
 
* 石井文男(虫プロ商事「COM」二代目編集長で『火の鳥』(COM版))※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。
 
* 鈴木俊彦(小学館「ビッグコミック」創刊時の編集長『地球を呑む』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。
 
* 竹尾修(潮出版社「希望の友」「少年ワールド」「コミックトム」の編集者。『ブッダ』と絶筆『ルードウィヒ・B』の担当)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。
 
* 山崎邦保(虫プロ商事「COM」創刊編集長(1969年3月号まで)で『火の鳥』(COM版))
 
* 山本順也(小学館)
 
 
=== 海外に手塚作品を紹介した人 ===
 
; {{仮リンク|フレデリック・L・ショット}} (Frederik L. Schodt)
 
:手塚治虫の作品を多数翻訳したほか、手塚治虫を含めて日本の漫画を海外に紹介する書籍を多数書いた。日本に留学で居住していたことがあり、火の鳥の翻訳作業を最初として手塚と親交関係にあった。
 
:2017年に長年の漫画を通じた国際文化交流への功績により2017年度国際交流基金賞受賞者。
 
 
=== 海外の作者 ===
 
; [[マウリシオ・デ・ソウザ]]
 
: [[ブラジル]]の漫画家。
 
: [[1984年]]に手塚が[[国際交流基金]]の文化専門家派遣事業でブラジルを訪れて以来、親交を持ち、手塚がブラジルに行く際には必ず彼と会い、その逆もまた然りであった。ソウザによると、手塚は暴力を作品に導入したことを大変後悔していたらしく、比較的平和的なソウザの作風を「漫画はこうあるべきだ」と称していた<ref>[https://web.archive.org/web/20100907011749/http://henshin.uol.com.br/2010/09/03/e-o-projeto-continua/ E o projeto continua!:Henshin!](2010年9月7日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])(ポルトガル語)参照。</ref>。お互いのキャラを一つの作品に[[クロスオーバー作品|クロスオーバー]]として登場させようとの計画があったが、手塚の死で一時断念。しかし、ブラジルでも日本の漫画が出版され、ソウザのキャラも日本の漫画風にアレンジされた本も出されたことによって、計画が再度発動、そして実現する運びとなった<ref>[http://www.meujornal.com.br/panini/Jornal/materias/integra.aspx?id=1025503 Panini lança edição especial que reúne Turma da Mônica Jovem com personagens do japonês Osamu Tezuka、 o pai do mangá、 em aventura na Amazônia]{{リンク切れ|date=2015年6月}} (ポルトガル語)参照。</ref>。[[パロディ]]や[[オマージュ]]、リメイクなどではなく、手塚のキャラが公式として他人の作品に登場するのは史上初だといわれる。アマゾンの保護を巡るストーリーは[[2012年]]2月、[[3月]]に上下巻で発行された。
 
: 手塚側のキャラは「リボンの騎士」のサファイア、「[[ジャングル大帝]]」のレオ、そして「鉄腕アトム」のアトムなどである。
 
:*{{cite book|title=Turma da Monica Jovem: Tesouro Verde|author=Mauricio de Sousa|publisher=Panini|year=2012|isbn=9788573518764}}
 
 
== 参照文献 ==
 
<!--脚注と対応しているので追加の際は注意。-->
 
=== 手塚治虫の自著 ===
 
*{{Cite book |和書 |author='''手塚治虫''' |title=観たり撮ったり映したり |date=1987年 |publisher=[[キネマ旬報社]] |ref={{SfnRef|手塚1987}} }}
 
*{{Cite book |和書 |author='''手塚治虫''' |title=ぼくのマンガ人生 |date=1997年5月20日 |publisher=[[岩波新書]] |ref={{SfnRef|手塚1997}} }}
 
*{{Cite book |和書 |author='''手塚治虫''' |title=ぼくはマンガ家 |date=1999年2月25日 |publisher=[[毎日新聞社]] |isbn=978-4820543466 |ref={{SfnRef|手塚1999}} }}
 
*{{Cite book |和書 |author='''手塚治虫''' |title=ぼくはマンガ家 |date=2009年2月25日 |publisher=[[毎日ワンズ]] |isbn=978-4-901622-37-0 |ref={{SfnRef|手塚2009}} }}
 
 
=== それ以外 ===
 
*{{Cite book |和書 |author=[[石津嵐]] |title=秘密の手塚治虫 |date=1980年3月20日 |publisher=[[太陽企画出版]] |ref={{SfnRef|石津}} }}
 
*{{Cite book |和書 |author=[[北杜夫]] |title=マンボウぱじゃま対談:男性かいぼう編 |date=1978年 |publisher=[[集英社]] |ref={{SfnRef|北}} }}
 
*{{Cite book |和書 |author=[[呉智英]] |title=現代マンガの全体像 |date=1986年 |publisher=[[情報センター出版局]] |ref={{SfnRef|呉}} }}
 
*{{Cite book |和書 |author=[[桜井哲夫 (社会学者)|桜井哲夫]] |title=手塚治虫―時代と切り結ぶ表現者 |date=1990年6月 |publisher=[[講談社現代新書]] |isbn=978-4-06-149004-8 |ref={{SfnRef|桜井}} }}
 
*{{Cite book |和書 |author=[[辰巳ヨシヒロ]] |title=劇画暮らし |date=2010年10月21日 |publisher=[[本の雑誌社]] |isbn=978-4860112103 |ref={{SfnRef|辰巳}} }}
 
*{{Cite book |和書 |author=[[手塚プロダクション]] |title=手塚治虫とキャラクターの世界 |date=2013年6月14日 |publisher=[[三栄書房]] |isbn=978-4779618376 |ref={{SfnRef|手塚プロダクション}} }}
 
*{{Cite book |和書 |author=[[豊田亀市]] |editor=佐藤敏章 |title=神様の伴走者 手塚番13+2 |chapter=神様独占を志した男 |date=2010年9月30日 |publisher=[[小学館]] |isbn=978-4093881494 |ref={{SfnRef|豊田}} }}
 
*{{Cite book |和書 |author=[[夏目房之介]] |title=手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々 |date=1995年 |publisher=[[筑摩書房]] |isbn=978-4-480-81380-0 |ref={{SfnRef|夏目}} }}
 
*{{Cite book |和書 |author=[[山本暎一]] |title=虫プロ興亡記 安仁明太の青春 |date=1989年4月15日 |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4-10-3733010 |ref={{SfnRef|山本}} }}
 
*{{Cite book |和書 |author=[[米澤嘉博]] |title=手塚治虫マンガ論 |date=2007年7月 |publisher=[[河出書房新社]] |isbn=978-4-309-26959-7 |ref={{SfnRef|米澤}} }}
 
 
== 関連項目 ==
 
{{ウィキポータルリンク|手塚治虫}}
 
{{Commons|Osamu Tezuka}}
 
* [[宝塚市立手塚治虫記念館]]
 
* [[手塚賞]]
 
* [[手塚治虫文化賞]]
 
* [[Earth Dreaming〜ガラスの地球を救え!]]
 
* [[osamu moet moso]]
 
* [[手塚 (小惑星)]] - 手塚治虫に因んで命名された。
 
* [[手塚光盛]] - [[源義仲|木曾義仲]]の[[家臣]]、[[信濃国]][[諏訪地域|諏訪]][[手塚城]]主。光盛の後裔を自称している者に、手塚良仙や手塚治虫を始めとした手塚家の一族がいる<ref>[http://tzk.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_79fb.html Tezka Macoto' 6D -手塚眞ブログ-:SUWA] 及び [http://tzk.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_80ee.html Tezka Macoto' 6D -手塚眞ブログ-:DALI] 参照。</ref>。
 
* 手塚良運 - 手塚良庵の従兄弟で、墓が曹洞宗興国山"清凉寺"(茨城県石岡市)にある(黒沢哲哉「虫ん坊」2014年2月号のコラム虫さんぽより)。
 
* [[山吹御前]] - 手塚光盛の兄・盛澄の娘であるという説がある。詳細は当該項目参照。
 
* Google Cultural Institute 「Osamu Tezuka」(米グーグル歴史アーカイブ「手塚治虫」)<ref>[http://www.google.com/culturalinstitute/browse/Osamu%20Tezuka]</ref>。
 
  
 
== 脚注 ==
 
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== 外部リンク ==
 
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* [http://tezukaosamu.net/jp/ 手塚治虫公式Web]
 
* [http://tezukaosamu.net/jp/ 手塚治虫公式Web]
* [https://www.facebook.com/tezukaosamu.net 手塚治虫公式facebook]
 
* [http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/tezuka/ 宝塚市立手塚治虫記念館]  (開館1994年4月25日)
 
* [http://www.google.com/culturalinstitute/browse/Osamu%20Tezuka Google歴史アーカイブ 手塚治虫]
 
* [http://www.kurata-wataru.com/t-osamu/t-osamu.html 「倉田わたるのミクロコスモス」“手塚治虫漫画全集”解説総目録]
 
* [http://www.phoenix.to 手塚治虫のすべて]
 
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手塚 治虫
本名 手塚 治
生誕 1928年11月3日
日本の旗 日本大阪府豊能郡豊中町
死没 (1989-02-09) 1989年2月9日(60歳没)
日本の旗 日本東京都千代田区麹町
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
アニメーター
アニメーション監督
称号 勲三等瑞宝章
活動期間 1946年 - 1988年
ジャンル 少年漫画
少女漫画
青年漫画
代表作
受賞
公式サイト 手塚治虫公式web
手塚治虫公式facebook
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手塚 治虫(てづか おさむ、本名:手塚 治(読み同じ)、1928年[注 1]昭和3年)11月3日 - 1989年平成元年)2月9日)は、日本漫画家アニメーター、アニメーション監督。 大阪帝国大学附属医学専門部を卒業、医師免許取得、のち医学博士奈良県立医科大学1961年)。血液型A型[1]戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画の草分け存在として活躍した。兵庫県宝塚市出身(出生は 大阪府豊能郡豊中町、現在の豊中市)、同市名誉市民。

概要

大阪帝国大学附属医学専門部[注 2] 在学中の1946年1月1日4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年酒井七馬原案の描き下ろし単行本新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。

1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ[注 3]鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。[注 4]

藤子不二雄藤子・F・不二雄藤子不二雄A)、石ノ森章太郎赤塚不二夫横山光輝水野英子矢代まさこ萩尾望都などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。

脚注

  1. 生前は1926年生まれと自称していた「現代漫画6巻 手塚治虫集」(筑摩書房)著者紹介など。
  2. 大阪帝国大学附属医学専門部は、手塚が在学中の1947年10月に大阪帝国大学が大阪大学へ改称されたことに伴い大阪大学附属医学専門部と改称した。
  3. テレビアニメとしてはそれ以前に『もぐらのアバンチュール』『新しい動画 3つのはなし』『インスタントヒストリー』『おとぎマンガカレンダー』などが放映されている。
  4. 起源は開高健「マンガの神様・手塚治虫」(週刊朝日1964年2月21日号)。生前手塚治虫は著書『ぼくはマンガ家』のように、「漫画」より「マンガ」という表記を好んで使っており、それに習う。

  1. 元はB型と言われていたが、改めて検査をしたらA型だった。(『小池一夫対談集 ~キャラクター60年~』対談:手塚治虫)

外部リンク