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'''小野 妹子'''(おの の いもこ、[[6世紀]] - [[7世紀]]、生没年不詳)は、[[飛鳥時代]]の[[官人]]。[[カバネ|姓]]は[[臣]]。子に[[小野毛人|毛人]]・広人<ref name="a">宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年</ref>がいた。冠位は大徳冠。
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'''小野 妹子'''(おの の いもこ、[[6世紀]] - [[7世紀]]、生没年不詳)
  
[[日本書紀]]』によると大唐に派遣され、大禮([[冠位十二階]]の位)蘇因高(そいもこ)と呼ばれた<ref>『日本書紀』巻第二十二推古天皇十六年には「唐国号妹子臣曰蘇因高」とある。</ref>。日本の通説では『[[隋書]]』が記録する「{{lang|zh|日出処天子}}」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。
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古代 (推古朝頃) の官人。隋では蘇因高と称した。天押帯日子命 (あめおしたらしひこのみこと) の後裔と伝えられる。近江国滋賀郡小野の出といわれる。推古 15 (607) 年[[聖徳太子]]に登用され,最初の[[遣隋使]]として中国に渡った。地位は大礼。翌年隋使[[裴世清]] (はいせいせい) ,下客 12人とともに帰国。朝廷は難波吉士雄成 (なにわのきしのおなり) を筑紫につかわして裴世清を迎え,難波の津の新館に住わせた。妹子は,隋の煬帝 (ようだい) から授かった国書を途中で百済人にかすめ取られた旨を報告。朝廷はその罪をとがめ,妹子を流刑に処そうとしたが,隋使来朝を考慮して特に許した。おそらくその国書は,日本を隋の朝貢国として扱うという内容であったためであろう。同16年裴世清の帰国に際し,再び遣隋大使に任じられた。これには小使吉士雄成,通事鞍作福利 (くらつくりのふくり) のほかに高向玄理 (たかむこのくろまろ) ,南淵請安 (みなぶちのしょうあん) ら学生,学問僧8人が随行した。妹子は翌年帰国。のち大徳冠となる。中国における隋統一帝国の成立に対応した,聖徳太子の新しい外交政策の実践者としてその使命を果し,その業績は遣唐使の派遣として後世に引継がれた。
  
== 生涯 ==
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{{テンプレート:20180815sk}}  
=== 出自 ===
 
[[近江国]][[滋賀郡]]小野村(現在の[[大津市]])の豪族で、[[天足彦国押人命]]を氏祖とする[[小野氏]]の出身。系譜は明らかでないが、春日仲君(または仲若子)の子とする系図がある<ref>鈴木真年『諸系譜』第八冊,人見氏(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年 による)</ref>。一般に流布されている小野氏の系図<ref>「小野氏系図」(『[[群書類従]]』巻第63所収、『[[続群書類従]]』巻第166所収)、『[[尊卑分脈]]』など</ref>では、妹子を[[敏達天皇]]の皇子である[[春日皇子]]の子とするが、『日本書紀』[[雄略天皇|雄略]]紀において「春日小野臣大樹」との人物が登場し、妹子はこの大樹の後裔と考えられることから、敏達天皇裔とするのは仮冒である<ref>[[太田亮]]『姓氏家系大辞典』[[角川書店]]、1963年</ref>。春日仲君の娘老女子が敏達天皇の妃となり春日皇子を産んだことから、小野氏を春日皇子の系統に繋いだものと想定されるが、定かではない。
 
 
 
=== 遣隋使 ===
 
『日本書紀』(巻第22<ref>{{Cite web
 
|url          = http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/syoki/syoki22_1.htm
 
|title        = 日本書紀 卷廿二 推古紀
 
|work        = 日本書紀
 
|archiveurl  = https://web.archive.org/web/20080615030948/http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/syoki/syoki22_1.htm
 
|archivedate  = 2008年6月15日
 
|accessdate  = 2010-07-29
 
|deadlinkdate = 2017年10月
 
}}</ref>)によれば、「十五年…秋七月 戊申朔庚戌 大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事」とあり、[[推古天皇]]15年([[607年]])、[[鞍作福利]]らと大唐(当時の[[中国]]は[[隋]]の時代)に渡る。推古天皇16年([[608年]])に[[裴世清]]を伴って帰国。ただし[[煬帝]]の返書は帰路に[[百済]]において紛失(紛失に関しては古来より議論がある<ref>[http://jairo.nii.ac.jp/0001/00002729 隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって : 遣隋使覚書]</ref>。)、一時は[[流刑]]に処されるが、[[恩赦]]されて大徳に昇進。翌年には返書と裴世清の帰国のため、[[高向玄理]]、[[南淵請安]]、[[旻]]らと再び派遣された。
 
 
 
『[[隋書]]』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には、[[大業]]三年(607年)、[[隋]]の皇帝[[煬帝]]が激怒したことで有名な 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言がある<ref>『日本書紀』は隋を大唐国と記し、国書の内容を記録していない。</ref>。『隋書』には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみである。
 
 
 
小野妹子は「華道の祖」とされることがある<ref>京都市の紫雲山[[頂法寺]](本堂の名から通称「[[頂法寺|六角堂]]」)の本尊[[如意輪観音]]に、頂法寺の本坊にあたる[[池坊]](聖徳太子が沐浴した池(泉)にちなんだ名)の僧侶は花を供えていた。池坊の始祖は小野妹子と伝えられることから、小野妹子は華道の祖とされることがある。[http://www.ikenobo.jp/event/2008/ononoimoko/syosai080515.html いけばなの根源 池坊 : 花展・イベント情報]</ref>。
 
 
 
== 墓 ==
 
[[Image:Grave of Onono Imoko1.jpg|thumb|right|小野妹子墓]]
 
小野妹子墓は[[大阪府]][[南河内郡]][[太子町 (大阪府)|太子町]]の[[科長神社]]南側にある小高い丘の上にある。[[大阪みどりの百選]]に選定されている<ref>{{citeweb|url= http://www.pref.osaka.lg.jp/midorikikaku/toshiryokka/hyakusenn.html|title= 大阪みどりの百選|publisher=大阪府 |accessdate=2016-12-23}}</ref>。
 
 
 
一方、小野妹子公園(滋賀県大津市小野)そばの唐臼山古墳(からうすやまこふん)<ref>[http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2013/index.html 埋蔵文化財学習シート 唐臼山古墳(からうすやまこふん)] - 滋賀県</ref>を小野妹子の墓とする説があり、あわせて同古墳の南側にある古墳が妹子の父<ref>『[[尊卑分脉]]』『[[諸家系図]]』は小野妹子の父を[[敏達天皇]]の息子、春日皇子としている。『[[新撰姓氏録]]』は小野朝臣を[[皇別]]とする。</ref>の墓である可能性が指摘されている。なお、後者は大津市教育委員会による事前調査が行われたのち破却され現存しない。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[小野氏]]
 
* [[遣隋使]]
 
* [[太子町 (大阪府)|太子町]](大阪府南河内郡)
 
* [[ギャグマンガ日和|増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和]]』 - [[増田こうすけ]]の漫画。
 
* [[聖徳太子 (テレビドラマ)]] -  演:[[今田耕司]]。
 
* [[和迩インターチェンジ]] - 滋賀県大津市に所在し、[[道の駅]]「妹子の郷」を併設。
 
* [[酒井若菜]] - [[東京ガス]]の[[TVコマーシャル]]「女の小野妹子」篇で小野妹子に扮した。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
[http://www.ononoimoko.org 小野妹子 日出づる処の天使]
 
{{大阪みどりの百選}}
 
{{Normdaten}}
 
{{Japanese-history-stub}}
 
 
{{DEFAULTSORT:おの の いもこ}}
 
{{DEFAULTSORT:おの の いもこ}}
 
[[Category:小野氏|いもこ]]
 
[[Category:小野氏|いもこ]]

2019/4/26/ (金) 09:42時点における最新版

小野 妹子(おの の いもこ、6世紀 - 7世紀、生没年不詳)

古代 (推古朝頃) の官人。隋では蘇因高と称した。天押帯日子命 (あめおしたらしひこのみこと) の後裔と伝えられる。近江国滋賀郡小野の出といわれる。推古 15 (607) 年聖徳太子に登用され,最初の遣隋使として中国に渡った。地位は大礼。翌年隋使裴世清 (はいせいせい) ,下客 12人とともに帰国。朝廷は難波吉士雄成 (なにわのきしのおなり) を筑紫につかわして裴世清を迎え,難波の津の新館に住わせた。妹子は,隋の煬帝 (ようだい) から授かった国書を途中で百済人にかすめ取られた旨を報告。朝廷はその罪をとがめ,妹子を流刑に処そうとしたが,隋使来朝を考慮して特に許した。おそらくその国書は,日本を隋の朝貢国として扱うという内容であったためであろう。同16年裴世清の帰国に際し,再び遣隋大使に任じられた。これには小使吉士雄成,通事鞍作福利 (くらつくりのふくり) のほかに高向玄理 (たかむこのくろまろ) ,南淵請安 (みなぶちのしょうあん) ら学生,学問僧8人が随行した。妹子は翌年帰国。のち大徳冠となる。中国における隋統一帝国の成立に対応した,聖徳太子の新しい外交政策の実践者としてその使命を果し,その業績は遣唐使の派遣として後世に引継がれた。



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