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{{Redirect|大化改新|TVドラマ|大化改新 (テレビドラマ)}}{{出典の明記|date=2017年7月}}
 
'''大化の改新'''(たいかのかいしん)は、[[飛鳥時代]]の[[孝徳天皇]]2年([[大化]]2年)春正月甲子[[朔]](西暦[[646年]])に発布された[[改新の詔]]に基づく政治的改革。[[改新の詔]]は、ヤマト政権の[[屯倉|土地・人民支配]]の体制([[氏姓制度]])を廃止し、天皇を中心とする[[律令制|律令国家]]成立を目指す内容となっている。
 
  
この政治改革は、[[斉明天皇|皇極天皇]]の皇居における[[蘇我入鹿]]暗殺により、当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を滅亡させた'''[[乙巳の変]]'''(いっしのへん、おっしのへん)から始まった。当初、[[飛鳥]]から[[難波]]への形式上の遷都が行われたが、改革そのものは、天皇ではなく、皇極太上天皇とその親友とされる中臣鎌足([[内臣]])の主導のもと、年若い両皇子([[天智天皇|中大兄]]、[[天武天皇|大海人]])の協力によって推進された。
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'''大化の改新'''(たいかのかいしん)
  
この改革によって[[豪族]]を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。また「[[大化]]」は日本最初の[[元号]]である。この改革により、「日本」という国号と「天皇」という称号の使用が始まったとされる。{{wikisource|改新の詔}}
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皇極4(645)年6月12~13日に中大兄皇子([[天智天皇]]),中臣鎌足([[藤原鎌足]])らが[[蘇我入鹿]],[[蘇我蝦夷]]を倒して権力を握ったクーデター(乙巳の変),およびそれに続いて行なわれた政治上の大改革。翌 6月14日には[[孝徳天皇]]が即位し,[[阿倍内麻呂]],[[蘇我倉山田石川麻呂]]が左右大臣に,中臣鎌足が[[内臣]](うちつおみ)に,僧[[旻]],[[高向玄理]]が[[国博士]]に任ぜられ,中大兄皇子が皇太子として実権を握った。6月19日初の[[元号]]「大化」が定められ,12月には難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや。[[難波京]])に遷都。翌大化2(646)年[[改新の詔]]が出され,後年まとめられた『[[日本書紀]]』よると,私地私民の廃止,地方行政組織の整備,戸籍・[[計帳]]の作成と班田収授の実施,[[租・庸・調]]の導入という 4ヵ条の大綱が示されるなど,中国を模した中央集権的官僚支配体制の基礎が築かれた。
  
== 概要 ==
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{{テンプレート:20180815sk}}
大化2年([[646年]])1月に改新の詔を出した。この改新の詔を以て大化の改新の始まりとする。ただし、[[藤原京]]の北面外濠から「[[己亥]]年十月[[上総国|上捄国]][[安房郡|阿波評]]松里□」(己亥年は西暦[[699年]])と書かれた[[木簡]]が1967年12月に掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、改新の詔の文書は『[[日本書紀]]』編纂に際し書き替えられたことが明らかになり、大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明した。この時代に改革に向けた動きがあったことは確かとはされているものの、律令国家建設と天皇への中央集権化は乙巳の変以前の推古天皇、聖徳太子・蘇我馬子の功績であり、書かれていることは史実ではないことに注意する必要がある。<ref>木下正史『藤原京』「藤原京出土の木簡が、郡評論争を決着させる」(中央公論新社、2003年 p64)</ref><ref>市大樹『飛鳥の木簡』「大化改新はあったのか」(中央公論新社、2012年 p49)</ref>。
 
詔として出された主な内容は以下の四条である。
 
 
 
{{main|改新の詔}}
 
 
 
#それまでの天皇の直属民(名代・子代)や直轄地(屯倉)、さらに豪族の私地(田荘)や私民(部民)もすべて廃止し、公のものとする。([[公地公民制]])
 
#初めて首都を定め、畿内の四至を確定させた。また今まであった国(くに)、'[[古代日本の地方官制#地方官制のはじまり|県]](あがた)、[[郡]](こおり)などを整理し、[[令制国]]とそれに付随する郡に整備しなおした。[[国郡里制|国郡制度]]に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、後の令制国の姿に整えられていった。実際にこの変化が始まるのは詔から出されてから数年後であった。
 
#[[古代日本の戸籍制度|戸籍]]と[[計帳]]を作成し、公地を公民に貸し与える。([[班田収授法|班田収授の法]])
 
#公民に税や労役を負担させる制度の改革。([[租庸調|租・庸・調]])
 
 
 
また詔の四か条に無いが、その他の制度に対しても大きな改革が行われている。
 
;薄葬令
 
:今まで陵墓は自由に作ることができたが、作ることの出来る陵墓を身分に合わせて規定し直した。[[殉死]]の禁止や、天皇陵の造営に費やす時間を7日以内に制限するなど、さまざまな合理化・簡素化が進められた。この薄葬令によって事実上、[[古墳時代]]は終わりを告げることになる。
 
;習俗の改革
 
:男女の法の整理
 
:交通問題の解決
 
;伴造、品部の廃止と[[八省百官]]の制定
 
:従来の世襲制の役職であった[[伴造]]や[[品部]]を廃止し、特定の氏族が特定の役職を世襲する制度を廃止した(たとえば、[[物部氏]]であれば軍事を司り、[[中臣氏]]であれば祭祀を司る、など)。これと[[八省百官]]の制定によって、より能力主義的な官僚制への移行が行われた(しかし祭祀などの面では、中臣氏がこれを行うというように世襲制が残った役職もあったようである)。
 
;[[大臣 (古代日本)|大臣]]、[[大連 (古代日本)|大連]]の廃止
 
:大臣・大連は、廃止になり、代わりに[[太政官]]が置かれ、[[左大臣]]・[[右大臣]]に置き換わった。大臣は[[臣]]の[[カバネ|姓]](かばね)から、大連は[[連]]の姓から出されることになっていたが、左大臣・右大臣(後に付け加わる[[太政大臣]])などでは、臣・連の制約が無くなった。
 
;冠位制度の改訂
 
:[[聖徳太子]]の制定した[[冠位十二階]]を改定し、大化3年(647年)冠位十三階→大化5年(649年)十九階→天智3年(664年)二十六階へと改めた。これは従来、冠位十二階に含まれなかった、大臣・大連などを輩出する有力氏族を冠位制度へ組み込み、天皇を頂点とした中央集権的な序列をつける為の改革だと思われる。冠位の数が年々増加していったのは、膨大な人員を必要とする官僚制への切り替えにより、行政実務を担う下級官僚に与える冠位が不足したからと推測できる。([[冠位・位階制度の変遷]])
 
;礼法の策定
 
:職位に応じた冠、衣服、礼儀作法を制定した。冠位により身につけることの出来る衣服や礼法が決められた。冠位のない一般の良民は白い衣を身につける事とされ、これは[[白丁]]と呼ばれた。
 
 
 
大化の改新には、[[遣唐使]]の持ってきた情報をもとに唐の官僚制と[[儒教]]を積極的に受容した部分が見られる。しかしながら、従来の氏族制度を一挙に改変することは現実的ではないため、日本流にかなり変更されている部分が見受けられる。
 
 
 
政治制度の改革が進められる一方で、外交面では高向玄理を[[新羅]]へ派遣して人質を取る代わりに、すでに形骸化していた[[任那の調]]を廃止して[[朝鮮]]三国([[高句麗]]、[[百済]]、新羅)との外交問題を整理して緊張を和らげた。唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ、中華文明の先進的な法制度や文化の輸入に努めた。また、[[越後国|越]]に[[渟足柵]]と[[磐舟柵]]を設けて、[[東北地方]]の[[蝦夷]]に備えた。
 
 
 
ただ、改革は決して順調とは言えなかった。大化4年([[648年]])の冠位十三階の施行の際に左右両大臣が新制の冠の着用を拒んだと『日本書紀』にあることがそれを物語っている。翌大化5年([[649年]])左大臣阿倍内麻呂が死去し、その直後に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が謀反の嫌疑がかけられ、[[山田寺]]で自殺する。後に無実であることが明らかとなるが、政情は不安定化し、このころから大胆な政治改革の動きは少なくなる。[[650年]]に年号が[[白雉]]と改められ、この改元をもって大化の改新の終わりとされた。
 
 
 
== 乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん) ==
 
[[画像:Irukaansatsuzu.jpg|thumb|240px|right|乙巳の変<br>[[江戸時代]]、[[住吉如慶]]・[[住吉具慶|具慶]]の合作によって描かれたもの。左上は皇極女帝。<br> [[談山神社]]所蔵『多武峰縁起絵巻』([[奈良県]][[桜井市]])]]
 
{{main|乙巳の変}}
 
 
 
蘇我氏は[[蘇我稲目]]、[[蘇我馬子|馬子]]、[[蘇我蝦夷|蝦夷]]、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。中臣鎌足(後の[[藤原鎌足]])は、蘇我氏による専横に憤り、大王家([[皇室]])へ権力を取り戻すため、まず軽皇子(後の[[孝徳天皇]])と接触するも、その器ではないとあきらめる。
 
 
 
そこで鎌足は、中大兄皇子に近づく。[[蹴鞠]]の会で出会う話は有名。共に[[南淵請安]]に学び、蘇我氏打倒の計画を練ることになった。中大兄皇子は、蝦夷・入鹿に批判的な[[蘇我倉山田石川麻呂]](蘇我石川麻呂)の娘と結婚。石川麻呂を味方にし、[[佐伯子麻呂]]、[[葛城稚犬養網田]]らも引き入れる。
 
 
 
そして、皇極天皇4年([[645年]])[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]、[[板蓋宮|飛鳥板蓋宮]]にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自害。蘇我体制に終止符を打った。
 
 
 
この蘇我氏本宗家滅亡事件をこの年の[[干支]]にちなんで'''乙巳の変'''という。
 
 
 
== 新政権の発足 ==
 
皇極4年([[645年]])6月14日、乙巳の変の直後、[[皇極天皇]]は[[退位]]し、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしたが、それでは天皇になりたいがためにクーデターをおこしたのかと思われるので中大兄と鎌足との相談の結果、皇弟・軽皇子が即位し孝徳天皇となり、中大兄皇子が[[皇太子]]になった。これは、[[推古天皇]]の時、[[聖徳太子]]が[[皇太子]]でありながら政治の実権を握っていたことに習おうとしたと推定されている。新たに左右の大臣2人と[[内臣]]を置いた。さらに唐の[[律令制度]]を実際に運営する知識として国博士を置いた。この政権交替は、蘇我氏に変わって権力を握ることではなく、東アジア情勢の流れに即応できる権力の集中と国政の改革であったと考えられている。
 
*天皇 [[孝徳天皇]]、皇太子 [[天智天皇|中大兄皇子]]
 
*[[左大臣]] [[阿倍内麻呂|阿部内麻呂臣]](あべのうちまろのおみ)、[[右大臣]] [[蘇我倉山田石川麻呂]]、[[内臣]] [[藤原鎌足|中臣鎌足]]
 
*国博士 [[高向玄理]]、国博士 [[旻]]
 
6月19日、孝徳天皇と中大兄皇子は群臣を大槻の樹に集めて「帝道は唯一である」「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」と神々に誓った。そして、[[大化]]元年と初めて[[元号]]を定めた。
 
 
 
8月5日、[[穂積咋]]を東国に[[国司]]として遣わし、新政権の目指す政治改革を開始した。これらの国司は臨時官であり、後の国司とは同じではない。それは8組からなっていたが、どの地域に遣わされたかは定かではないが、第3組は毛野方面に、第5組は東海方面に遣わされたと、後の復命の論功行賞から推定できる。新政権は、このような広さを単位区域にして8組の国司を東国に派遣した。
 
 
 
鐘櫃(かねひつ)の制を定める。また、男女の法を定め、良民・奴婢の子の帰属を決める。
 
 
 
9月には、[[古人大兄皇子]]を謀反の罪で処刑した。皇子は蘇我氏の血を引いていて、入鹿によって次期天皇と期待されていたが、乙巳の変の後に[[出家]]し[[吉野]]へ逃れていた。
 
 
 
12月に都を飛鳥から[[摂津国|摂津]]の[[難波長柄豊崎宮|難波長柄豊碕宮]]へ遷都。
 
 
 
== その後 ==
 
孝徳天皇と中大兄皇子は不和となり、白雉4年([[653年]])に中大兄皇子が難波宮を引き払って[[飛鳥]]へ戻り、群臣もこれに従い、孝徳天皇は全く孤立して翌年に憤死する事件が起きた。この不和の背景には、孝徳天皇と中大兄皇子の間の権力闘争とも外交政策の対立とも言われているが不明な点が多い。皇太子の中大兄皇子は即位せず、母にあたる皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。
 
 
 
斉明天皇時代は[[阿倍比羅夫]]を[[東北地方]]へ派遣して[[蝦夷]]を討ち、朝廷の支配権を拡大させた。一方で政情不安は続き、[[658年]]に[[有間皇子]]が謀反を起こそうとしたとして処刑された。
 
 
 
[[660年]]、伝統的な友好国だった[[百済]]が[[唐]]・新羅の連合軍([[唐・新羅の同盟]])に攻められて滅びた。[[661年]]、百済の遺臣の要請に応じて中大兄皇子は救援の兵を派遣することを決め、斉明天皇と共に自ら朝鮮半島に近い[[筑紫]]へ赴くが、天皇はこの地で[[崩御]]する。[[662年]]、百済再興の遠征軍は[[白村江の戦い]]で唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、百済は名実ともに滅亡する。
 
 
 
日本は[[朝鮮半島]]への足掛かりを失うばかりでなく、逆に大国である唐の脅威にさらされることとなった([[668年]]には新羅によって[[高句麗]]も滅亡する)。中大兄皇子は[[筑前国|筑前]]や[[対馬島|対馬]]など各地に[[水城]]を築いて[[防人]]や[[烽]]を設置し、大陸勢力の侵攻に備えて東の[[大津宮]]に遷都する一方、部曲を復活させて地方豪族との融和を図るなど、国土防衛を中心とした国内制度の整備に注力することになる。中大兄皇子は数年間[[称制]]を続けた後に、668年に即位した(天智天皇)。[[670年]]に新たな戸籍([[庚午年籍]])を作り、[[671年]]には初めての律令法典である[[近江令]]を施行している。
 
 
 
[[671年]]に天智天皇が[[崩御]]すると、天智天皇の同母弟である大海人皇子(後の[[天武天皇]])と天智天皇の庶長子である[[弘文天皇|大友皇子]]とが不和となり、[[672年]]に[[壬申の乱]]が起こる。大海人皇子が皇位継承権争奪戦に勝利し、大津宮から[[飛鳥浄御原宮]]に遷都して即位した。天武天皇は改革をさらに進めて、より強力な中央集権体制を築くことになる。
 
 
 
== 後世の潤色について ==
 
この大化の改新が[[歴史家]]によって評価の対象にされたのは、[[幕末]]の[[紀州藩]]重臣であった[[伊達千広]]([[陸奥宗光]]の実父)が『[[大勢三転考]]』を著して、初めて歴史的価値を見出し、それが明治期に広まったとされている。<ref>歴史とは何か: 世界を俯瞰する力 著者: 山内昌之</ref>後世の潤色については、[[1967年]]12月、[[藤原京]]の北面外濠から「[[己亥]]年十月[[上総国|上捄国]][[安房郡|阿波評]]松里□」(己亥年は西暦[[699年]])と書かれた[[木簡]]が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』のこの部分は編纂に際し書き替えられていることが明確となったとされている<ref>木下正史『藤原京―よみがえる日本最初の都城』中公新書、2003年、ISBN 4121016815、p64</ref><ref>市大樹『飛鳥の木簡―古代史の新たな解明』中公新書、2012年、ISBN 9784121021687、p49</ref>。
 
 
 
=== 論議 ===
 
*蘇我入鹿暗殺のタイミングが三韓朝貢の儀の最中である点。当時の常識として外交儀式の最中に[[クーデター]]は起こさない(外交儀式中にクーデターを起こすことは外交使節に対して国が内紛中で攻め込むに絶好の機会だと宣伝することと同義である)。また、仮に三韓朝貢が暗殺者の虚構だったとすれば外交政策の中心人物である入鹿が気付かないはずがない。いずれにしても疑問があるとの指摘がある<ref>中村修也 『偽りの大化改新』(講談社、2006年)</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
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== 関連作品 ==
 
; 小説
 
* [[倉田百三]]『大化の改新』
 
; テレビドラマ
 
* 古代史ドラマスペシャル『[[大化改新 (テレビドラマ)|大化改新]]』([[日本放送協会|NHK]]、[[2005年]][[1月3日]]放送)
 
 
 
== 関連資料 ==
 
* 木下正史 『藤原京』 [[中央公論新社]]、2003年、ISBN 4-12-101681-5
 
* 市大樹 『飛鳥の木簡』 中央公論新社、2012年、ISBN 978-4-12-102168-7
 
* 中村修也 『偽りの大化改新』 [[講談社]]、2006年、ISBN 4-06-149843-6
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[治天下大王]]
 
* [[九州王朝説#大化の改新]]
 
* [[倭の六県]]
 
  
 
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2018/12/30/ (日) 12:52時点における最新版

大化の改新(たいかのかいしん)

皇極4(645)年6月12~13日に中大兄皇子(天智天皇),中臣鎌足(藤原鎌足)らが蘇我入鹿蘇我蝦夷を倒して権力を握ったクーデター(乙巳の変),およびそれに続いて行なわれた政治上の大改革。翌 6月14日には孝徳天皇が即位し,阿倍内麻呂蘇我倉山田石川麻呂が左右大臣に,中臣鎌足が内臣(うちつおみ)に,僧高向玄理国博士に任ぜられ,中大兄皇子が皇太子として実権を握った。6月19日初の元号「大化」が定められ,12月には難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや。難波京)に遷都。翌大化2(646)年改新の詔が出され,後年まとめられた『日本書紀』よると,私地私民の廃止,地方行政組織の整備,戸籍・計帳の作成と班田収授の実施,租・庸・調の導入という 4ヵ条の大綱が示されるなど,中国を模した中央集権的官僚支配体制の基礎が築かれた。



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