リヴォニア

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1619年当時のポーランド・リトアニア連合とリヴォニア。濃い灰色の部分がリヴォニア公国
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17世紀後半のリヴォニア。中・北部がスウェーデン・バルト帝国、南部がポーランド・リトアニア連合

テンプレート:ラトビアの歴史

リヴォニア (Livonia) は、現在のラトビアの東北部(ヴィドゼメ地方)からエストニアの南部にかけての地域の名称。また、リボニア[1]ドイツ語風にリーフラント (Livland) ともいう。

この地にはフィン・ウゴル系ウラル語系)とされるリヴォニア語を話すリーヴ人が住んでいたが、現在では人口数百人程度の少数民族となっている。ドイツ騎士団植民バルト人フィン人等との混血により、激減したとされる。現在、住民はほぼバルト系ラトビア人ロシア人で占める。

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中世リヴォニア:テッラ・マリアナ

リヴォニア十字軍の間に、リヴォニア帯剣騎士団(後にリヴォニア騎士団と呼ばれる)に植民地化された。テッラ・マリアナはバルト海の東海に位置し、現在のエストニア南部とラトビア北部からなる領域。リヴォニア十字軍の結果作られた。

中世北方十字軍東方植民の影響でドイツ系の住民バルト・ドイツ人が多数を占め統治された。リーヴ人の影響は残り、この地はリーヴ人の土地、リヴォニアとして名を残す事になる。

ドイツ騎士団国(1224年–1237年)と支部のリヴォニア騎士団(1237年–1561年)、リヴォニア公国(ポーランド王国ポーランド・リトアニア共和国 1561年-1621年)、スウェーデンバルト帝国1629年–1721年)と支配者を変えた後、最終的に18世紀初頭に始まった大北方戦争によりロシア帝国(1721年–1918年)に帰した。20世紀には、リヴォニアの北部をエストニア、南部をラトビアとして国家が成立した。

脚注

  1. 世界大百科事典 第2版の解説”. コトバンク. . 2018閲覧.

関連項目


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