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|公式サイト= https://www.hillaryclinton.com/ Official website
 
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}}
 
}}
{{政治家
 
|人名 = ヒラリー・クリントン
 
|各国語表記 = Hillary Clinton
 
|国略称 = {{USA}}
 
|称号・勲章 = [[弁護士]]<br />[[法務博士(専門職)|法務博士]](Juris Doctor)
 
|国旗 = USA
 
|職名 = 第67代 [[アメリカ合衆国国務長官]]
 
|就任日 = [[2009年]][[1月21日]]
 
|退任日 = [[2013年]][[2月1日]]
 
|元首職 = 大統領
 
|元首= [[バラク・オバマ]]
 
|国旗2 = USA
 
|職名2 = [[アメリカ合衆国上院|アメリカ合衆国上院議員]]
 
|就任日2 = [[2001年]][[1月3日]]
 
|退任日2 = 2009年1月21日
 
|選挙区2 = [[ニューヨーク州]]
 
|当選回数2 = 2回
 
}}
 
'''ヒラリー・ローダム・クリントン'''({{lang-en|Hillary Rodham Clinton}}, [[1947年]][[10月26日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]、[[弁護士]]。[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]、[[アメリカ合衆国上院|上院議員]]を歴任。第42代[[アメリカ合衆国大統領]][[ビル・クリントン]]の妻であり、[[1993年]]から[[2001年]]まで[[アメリカ合衆国のファーストレディ]]だった。身長5[[フィート]]6インチ(約168cm)<ref>[https://www.businessinsider.com/us-president-first-lady-height-differences-2018-7 The height differences between all the US presidents and first ladies] [[ビジネス・インサイダー]]</ref>。
 
 
== 生い立ちと教育 ==
 
[[1947年]]、[[イリノイ州]][[シカゴ]]に衣料品店を営む両親のもとに生まれた。一家は[[メソジスト]][[教派]]であり、彼女は[[コーカソイド|白人]][[中産階級]]が多く住むイリノイ州パークリッジで成長する。父親のヒュー・ローダムは[[保守|保守主義者]]であり、繊維業界の大物であった。母親のドロシーは専業主婦であり、ドロシーの両親はドロシーが幼い頃に[[離婚]]、ドロシーは父方の両親に預けられ寂しい子供時代を過ごした。ヒラリーには二人の弟、ヒューとトニーがいる。
 
 
ヒラリーは幼少時からスポーツに興味を持ち、[[テニス]]や[[スケート]]、[[バレーボール]]などを楽しんだ。また早くから政治に興味を持ち、若き共和党員として活動、[[1964年]]の[[アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[バリー・ゴールドウォーター]]候補を応援するゴールドウォーターガールを務めた。
 
 
[[:en:Maine South High School|メイン東高校]]を卒業後、[[1965年]]に[[マサチューセッツ州]]の名門女子大である[[ウェルズリー大学]]に入学、1年生の時、学内青年共和党の党首に選ばれるが、[[ベトナム戦争]]や[[公民権運動|公民権]]に関する共和党の政策に疑問を持ち始め、その後辞任。[[1968年]]の[[アメリカ合衆国大統領予備選挙|大統領予備選]]では、[[ベトナム戦争]]介入反対を掲げる[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ユージーン・マッカーシー]]候補を支持した。その一方で、同年の夏には首都[[ワシントンD.C.|ワシントン]]の[[アメリカ合衆国下院|下院]]共和党議員総会で[[インターンシップ|インターン]]を経験、共和党党大会では[[ニューヨーク州]][[知事]][[ネルソン・ロックフェラー]]のために働いた。その後ウェルズリー校を優秀な成績で卒業、同大学初の卒業生総代として行った[[演説|スピーチ]]が賞賛から非難までさまざまな反響を呼び、地元の[[テレビジョン放送局|テレビ局]]の[[インタビュー]]に出演、[[ライフ (雑誌)|『ライフ』誌]]にも取り上げられた。
 
 
== 弁護士時代 ==
 
[[ファイル:Hrctable.jpg|thumb|left|200px|保育園の子供たちと談笑するヒラリー]]
 
[[1969年]]、ヒラリーは[[イェール・ロー・スクール]]に進み、そこで[[ビル・クリントン]]に出会う。在学中はマリアン・エデルマンが始めた児童擁護のための組織で働き、また[[法律]]が子供に与える影響について特に学んだ。[[1972年]]の大統領選では[[ビル・クリントン]]が参加していた民主党の[[ジョージ・マクガヴァン]]大統領候補の選挙運動に加わった。[[1973年]]のロースクール卒業([[法務博士]](Juris Doctor)の学位を受ける。)後は、エデルマンが新たに始めた児童防衛基金 (Children's Defense Fund) で働いた後、[[1974年]]には[[アメリカ合衆国下院司法委員会|下院司法委員会]]による[[リチャード・ニクソン|ニクソン大統領]]の[[弾劾]]調査団に参加している。
 
 
調査団解散後はビルのいる[[アーカンソー州]]に移り、ビルとともに[[アーカンソー大学]]ファイエットビル校ロースクールで教鞭を取った。この年ビルがアーカンソー州で下院議員選に出馬するが落選、翌[[1975年]]に彼と結婚している。[[1976年]]にはビルがアーカンソー州の司法長官に選出されて州都[[リトルロック (アーカンソー州)|リトルロック]]へ移るのに伴い、アーカンソー大学での職を辞し、[[ビンス・フォスター]]がパートナー(共同経営者)を務めるローズ法律事務所に移った。また同じ年の大統領選では、ビルとともに[[ジミー・カーター]]民主党候補の選挙戦に参加した。[[1978年]]ビルが32歳の若さでアーカンソー州知事に当選するとアーカンソー州の[[ファーストレディ]]となったが、弁護士としての活動も続け、[[1979年]]にはローズ法律事務所の女性初のパートナーとなった。その一方で、アーカンソー州における質の高いヘルスケアの普及を目的とした地方健康諮問委員会 (Rural Health Advisory Committee) の議長を務めるとともに、児童防衛基金の活動にも参加。また[[ジミー・カーター|カーター大統領]]の指名により、[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]が設立した[[非営利団体]]の司法事業推進公社 (Legal Service Corporation) の理事を務めた。
 
 
[[1980年]]ヒラリーは娘の[[チェルシー・クリントン|チェルシー]]を出産。ビルは再選をかけた同年の知事選に破れるが(当時のアーカンソー州知事の任期は2年)、次の[[1982年]]の知事選で当選してカムバックした。この82年の選挙戦を機に、ヒラリーは結婚後も引き続き使っていた「ヒラリー・ローダム」を「ヒラリー・ローダム・クリントン」に替えている(''「[[ヒラリー・クリントン#名前のこだわり|名前のこだわり]]」の節を参照'')。
 
 
この第二期目のクリントン知事のもとで、ヒラリーはアーカンソー州の教育制度改革を目的とした教育水準委員会 (Education Standards Committee) の委員長を務めた。
 
 
[[ファイル:Hillary Clinton 1992.jpg|thumb|160px|ビルの大統領選挙運動中、新しいイメージで登場したヒラリー。ソフトな[[おかっぱ|ボブカット]]が話題になった。]]
 
[[1991年]]にビルは大統領選に出馬。その選挙運動中、ヒラリーが「家にいてクッキーを焼いてお茶を入れることもできたが、自分の職業を全うすることを選んだ」とコメントしたことで、一部から「[[専業主婦]]に対して冷淡」とか「急進的[[フェミニスト]]」などという批判を浴びることになった。こうした批判は選挙運動中収まることはなく、ヒラリーはその対応に苦慮した。この頃、法律事務所や「[[ウォルマート]]」の[[社外取締役]]、児童防衛基金の会長などの職を次々に辞している。
 
 
同年秋、ビルと[[ナイトクラブ|クラブ]][[歌手]][[ジェニファー・フラワーズ]]の[[不倫]]問題が公になり、この両者の間で交わされた電話の会話の一部を録音したテープがマスコミに流出すると、それまで選挙戦を優勢に戦っていたビルの支持率が急落した。
 
 
== ファーストレディ ==
 
[[ファイル:Hillary Clinton Bill Chelsea on parade.jpg|thumb|left|200px|第2期の大統領就任式に出席するため、夫のビル、娘のチェルシーらと共に行進するヒラリー(1997年1月20日)]]
 
ビルが大統領に当選すると、ヒラリーは翌[[1993年]]から8年間、[[アメリカ合衆国のファーストレディ]]となった。ヒラリーはアメリカでは初の、院卒にして弁護士の[[ファーストレディー]]であり、したがって初の[[キャリアウーマン]]のファーストレディーである。そのため当時アメリカではヒラリーのことを、かつて[[国際連合|国連代表]]を務めた[[エレノア・ルーズベルト]]と並ぶ「最強のファーストレディー」と評していた。
 
 
就任後早々、ビルはヒラリーを医療保険改革問題特別専門委員会 {{en|(Task Force on National Health Care Reform}}) の委員長に任命した。同委員会は、連邦政府主導型の健康保険制度導入を視野に入れた「クリントン医療保険計画」を答申したが(アメリカは[[先進国]]で唯一、[[ユニバーサルヘルスケア|国民皆保険]]が無い)、アメリカ[[医療保険制度改革 (アメリカ)|医療保険制度の抜本的改革]]となりかねないこの計画<ref>{{Cite web |url=http://jp.fujitsu.com/group/fri/column/opinion/200903/2009-3-1.html |title=オバマの医療改革の行方 |work= |publisher=富士通総研 |date=2009-03-02 |accessdate=2012-05-31}}</ref>は、野党共和党や保険会社、製薬会社、中小企業などによる大規模な反対活動にあい、民主党多数議会をもってしても支持を得ることができず、結局翌[[1994年]]に廃案となってしまった。これに勢いを得た共和党は、クリントン政権の政策を「急進的な[[リベラル]]改革」と位置づけて攻撃、同年の中間選挙では大幅に議席を伸ばして両院で多数となり、行政府と立法府のねじれ現象が生じることになった。
 
 
後にヒラリーは著書の中で、医療保険改革の失敗は「すべて自分の政治力が未熟であったせい」だと記している。一方当時の政治評論家は一様にこの失敗が「ファーストレディーを国政に参画させるという前代未聞の人事が国民には不適切だと受け止められたということに他ならない」と評した。しかし、[[1996年]]の著作『{{en|It Takes a Village and Other Lessons Children Teach Us}}』は[[ベストセラー]]本となり、ヒラリーの子供を中心とした政策課題は過半数の女性には好感を持って迎えられ、また大多数のアメリカ国民は「国主導型の健康保険制度導入ということ自体がアメリカにとっては時期尚早だった」と見ていたことが世論調査などで明らかになっている。
 
 
いずれにしても、大統領選挙キャンペーンでビルがヒラリーとのコンビを「ひとつ分のお値段で、ふたつ分のお買い得 ({{en|"get two for the price of one"}})」と言っていたように、ビルがヒラリーを「最大のアドバイザー」と評して全幅の信頼を置いていたのは事実であり、ヒラリーはその後もクリントン政権を通じて閣議に臨席するという特別な存在であった(これは[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ大統領]]が信頼する実弟の[[ロバート・ケネディ]]を司法長官に任命して常に傍らにおいた例を踏襲したものだといわれる)。
 
 
こうした立場のヒラリーは彼女に批判的な人々から「共同大統領 ({{en|co-President}})」や「ビラリー ({{en|Billary}})」と呼ばれた。こうしたあだ名は、彼女のややもすると他者を小ばかにしたかのような話し振りが、鼻持ちならない性格として批判者たちの憎悪を増幅しているためでもある。またヒラリーは、イーストウィングにあるファーストレディーとしてのオフィスとは別に、大統領執務室や閣議室のある[[ウエストウイング]]にも異例のオフィスを構えたが、そうした彼女のスタッフたちを、ヒラリー自身も含めて周囲は「ヒラリーランド ({{en|Hillaryland}})」と呼んだ。
 
 
医療保険改革や中間選挙での敗北と逆風が続いたヒラリーだったが、[[中華人民共和国]]の[[中国共産党]]政府の[[人権]]侵害に反対する人権擁護団体や一部の議員が出席に反対する中、[[1995年]]9月、[[北京市|北京]]で開催された[[国際連合|国連]][[世界女性会議]]に米国代表団の名誉団長として出席、演説の中で「女性の権利とは人権である」と訴えた。[[1996年]]1月には初の著書となる『村中みんなで ({{en|It Takes A Village}})』を出版した。
 
 
同じ頃、「[[ホワイトウォーター疑惑]]」関連で、紛失したとされていたローズ法律事務所時代のヒラリーによるマディソン・ギャランティ貯蓄貸付組合のための法律業務の記録がホワイトハウスで突然見つかった。1月26日ヒラリーは[[ケネス・スター|スター]]独立検察官の召喚により、紛失したとされていた記録について[[陪審制|大陪審]]の前で証言を行った。
 
 
== 上院議員 ==
 
[[ファイル:ClintonSenate.jpg|160px|thumb|left|2001年1月4日、上院議員として初登院し宣誓式に臨むヒラリー。左は夫のクリントン大統領と娘のチェルシー、右は[[アル・ゴア]][[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]] (上院議長)。]]
 
2000年、長年[[ニューヨーク州]]選出上院議員を務めた民主党のダニエル・パトリック・モイナハンが引退を表明すると、[[ニューヨーク|ニューヨーク市]]市長で共和党の[[ルドルフ・ジュリアーニ]]が出馬を表明した。ジュリアーニ市長の高い支持率を危惧した民主党は、冷めることないクリントン人気に期待をかけ、ヒラリーに白羽の矢を立てた。選挙区の住民でもなく、しかもファーストレディーの国政選挙出馬は前代未聞で、現職市長相手の選挙は接戦が予想されたが、ジュリアーニが[[前立腺癌]]治療のため出馬を取り止めると、共和党の後継候補ラヅィオ下院議員では勝負にならず、ヒラリーは得票率で55%を得て当選した(なおこの出馬も[[1964年]]に[[マサチューセッツ州]]出身の[[ロバート・ケネディ]][[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]が民主党に乞われて上院選にニューヨーク州から出馬し当選した例を踏襲したものだと言われる)。
 
 
[[ファイル:Hillary Rodham Clinton.jpg|160px|thumb|上院議員時代のヒラリー]]
 
ファーストレディー時代は[[左派]]色が強く、夫のセックススキャンダルについて「右派の陰謀」とまで言い切ったこともあるが、上院議員になると[[世論]]に同調した柔軟性も見せるようになった。
 
 
一貫して青少年の保護を主張し、「[[グランド・セフト・オート]]」(“Grand Theft Auto”) シリーズなどの[[残酷ゲーム|暴力的な内容のコンピュータゲーム]]に登場する[[セックスシーン]]などを問題視して、[[未成年者]]に対するこれらの販売を禁止する法律の制定に積極的な立場をとっている。
 
 
再選をかけた[[2006年]]の上院選では、共和党候補に得票率で67%対31%という大差をつけて勝利した(このため「ヒラリー当確」は全米一早く出た)。この圧倒的な再選をうけ、かねてより噂になっていたヒラリーの[[2008年]]大統領選への出馬は現実の選択肢として取沙汰されるようになった。また選挙後ビルが複数のインタビューで「ヒラリーが大統領選に出馬するかしないかは分らないが、ヒラリーが大統領になったとしたら素晴らしい大統領になることは間違いない」と彼女の出馬を言外に臭わせたことから、ヒラリー出馬説は一層真実味を帯びるようになった。
 
 
== 大統領選 ==
 
ヒラリーは、元ファーストレディとしての知名度や経歴実績から「女性初の大統領」の有力候補とされた。大統領選挙には2008年と2016年の2度立候補し、有力候補とされていたが、2008年には党内予備選でバラク・オバマに、2016年には本選でドナルド・トランプに破れ大統領就任は至らなかった。
 
 
=== 2008年 ===
 
{{main|2008年アメリカ合衆国大統領選挙}}
 
[[ファイル:Hillary Clinton at the Senate Armed Services Committee.jpg|thumb|200px|上院軍事委員会で証人の証言を聞くヒラリー(2007年7月31日)]]
 
[[2007年]]1月20日、[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年大統領選]]への出馬を正式に宣言した。元ファースト・レディの知名度に加え、人気や集金力でも民主党内では群を抜いており直後に[[CNN]]が行った世論調査では、民主党大統領候補にはヒラリーがふさわしいとする声が40%にものぼり、[[バラク・オバマ]]上院議員の21%、[[ジョン・エドワーズ]]元上院議員 (2004年の副大統領候補)の11%など、他候補を大きく引き離していた。
 
 
しかし予備選を前に勢いが衰え、[[2008年]][[1月3日]]に[[アイオワ州]]で行われた民主党予備選の開幕戦ではオバマとエドワーズに敗れ3番手に終わった。その後[[1月8日]]に[[ニューハンプシャー州]]で行われた予備選挙ではオバマに僅差ながら勝利し、復活の兆しを見せ、[[スーパー・チューズデー]]ではオバマ候補とほぼ拮抗した。
 
 
しかしその後は次第にオバマ陣営の勢いに押されて劣勢となった。特にスーパー・チューズデー後に行われた予備選では、オバマに9連敗を喫し、民主党大統領候補としての選出は厳しい状況となった。3月のミニ・チューズデーでは大票田のオハイオ州とテキサス州で辛勝し、ロードアイランド州も含め3勝1敗と土俵際で踏ん張り、その後も[[ペンシルベニア州]]といった大規模州では有利に戦いを進めたが、中小州ではオバマ陣営が圧倒的な強さを見せ、テキサス州などの大規模州でもヒラリーに僅差で迫ったオバマが指名獲得を濃厚にした。党内からは撤退論も噴出したが、「最後まで諦めない」として選挙戦を継続する。4月以降の予備選では多少勢いを盛り返し、ウェストバージニア州やケンタッキー州、プエルトリコなどでは圧勝する。
 
 
しかし予備選終盤には、[[ロバート・ケネディ]]が6月に暗殺されたエピソードに言及してオバマ候補の[[暗殺]]を期待するともとられかねない致命的な失言までしてしまい<ref>{{Cite news|author=山本秀也|url=http://sankei.jp.msn.com/world/america/080524/amr0805240954004-n1.htm|title=「オバマ氏暗殺」を期待? ヒラリー氏大失言|newspaper=MSN産経ニュース|publisher=産経デジタル|date=2008-05-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080526094456/http://sankei.jp.msn.com/world/america/080524/amr0805240954004-n1.htm|archivedate=2008年5月26日|deadurldate=2017年9月}}</ref>、オバマ陣営のみならず共和党陣営からも強い批判を受け、オバマやケネディ家に謝罪した。最終的には特別代議員でもオバマに逆転を許し、オバマが全代議員の過半数を獲得して指名を確定させた。ヒラリーは8月の民主党党大会で正式に撤退を表明し、オバマ支持を表明した。オバマ政権には国務長官として加わり、2012年の大統領選挙ではオバマ再選に尽力する。
 
 
なお、ヒラリーはこの指名候補争いで多額の選挙費用を計上し、外部コンサルタントや業者に対し6月の時点で1200万ドル(約10億8000万円)の負債を抱えることになり、大統領選挙直後からその返済に追われることになった<ref>{{Cite news |url=http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200812220009.html |title=クリントン陣営、依然として640万ドルの負債 |newspaper=CNN.co.jp |publisher=[[CNN]] |date=2008-12-22}}{{リンク切れ|date=2013年7月20日}}</ref>。
 
 
=== 2016年 ===
 
{{main|2016年アメリカ合衆国大統領選挙|en:Hillary Clinton email controversy}}
 
[[2015年]]4月12日、[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙|2016年大統領選]]出馬を正式に表明する<ref>[http://www.cnn.co.jp/usa/35063053.html ヒラリー・クリントン氏、米大統領選への出馬を正式表明]</ref>。14日、[[アイオワ州]]で討論会を開催し、「[[ヘッジファンド]]の幹部が低い税率で納税しているのはおかしい」と富裕層優遇政策を批判した<ref>{{Cite news | url = http://jp.reuters.com/article/marketsnews/idjpl4n0xc2ch20150415| title = クリントン氏がヘッジファンド批判、激戦州で中間層支援を強調| newspaper = | publisher = ロイター| date = 2015-04-15| accessdate = 2015-04-18}}</ref>。16日には、オバマ政権で商品先物取引委員長を務めた{{仮リンク|ゲーリー・ゲンスラー|en|Gary Gensler}}を選挙戦最高財務責任者に任命することが報道された<ref>{{Cite news | url = http://jp.reuters.com/article/jpUSpolitics/idJPKBN0N804620150417| title = クリントン氏、選挙財務責任者に前CFTC委員長起用へ| newspaper = | publisher = ロイター| date = 2015-04-17| accessdate = 2015-04-18}}</ref>。[[2015年]][[5月5日]]、[[クリントン財団]]の金の問題を追及した書籍『[[Clinton Cash]]』が発売されたのを受けて反論サイトを立ち上げた。
 
 
2015年4月16日付けで、[[ローレン・パウエル・ジョブズ]]は、TIME誌にヒラリーを支持する内容の寄稿をし<ref>[http://time.com/3823194/hillary-clinton-2015-time-100/ TIME 100 LEADERS - Hillary Clinton By Laurene Powell Jobs] -[[TIME]]</ref>、また最大の献金者となった<ref>[http://forbesjapan.com/articles/detail/7755 第9位:ローレン・パウエル・ジョブズ - IT業界の富豪、世界ランキング 19位楽天・三木谷氏は資産1兆円]</ref>。選挙期間中には、[[エレナ・フェッランテ]]の『{{仮リンク|ナポリの物語|en|Neapolitan Novels}}』シリーズ第1作を愛読していたという<ref name="リラとわたしあとがき">{{cite web|url=https://note.mu/hayakawashobo01/n/n49abdadebf36|title=「いつかの自分をみているよう」世界中の女性の共感をよぶナポリ発人気作『リラとわたし ナポリの物語1』とは?訳者あとがきを公開。|accessdate=2017-08-11|author=[[早川書房]]|date=2017-07-07|publisher=note.mu}}</ref>。
 
 
[[2016年]][[3月16日]]には[[ウィキリークス]]が、2010年6月30日から2014年8月12日までにヒラリーの個人[[サーバ]]が送受信した3万322通の[[電子メール]]および[[添付ファイル]]を公開した。このうちでヒラリー自身の手による記事は7570件にのぼる。これら電子メールは夫のビルが署名した情報公開法によりPDF 形式で入手できるが、最後にPDF 化されたのは2016年2月29日であり、まだ周知されていない事実を相当含むと目される<ref>ウィキリークス [https://wikileaks.org/clinton-emails/ Hillary Clinton Email Archive] On March 16, 2016</ref>。
 
 
選挙戦では[[バーニー・サンダース]]らを破り、2016年7月26日、[[2016年アメリカ合衆国大統領民主党予備選挙|党内予備選挙]]を経て大統領候補となった。しかし秋ごろには、[[HSBC]]などと関連するクリントン財団が先の電子メールを手がかりに様々な媒体から叩かれるようになった。
 
 
また、2016年夏ごろから演説中に咳が出て止まらず、9月に行われた[[アメリカ同時多発テロ]]の追悼式典に出席した際に体調不良で途中退席し車に乗り込む時に卒倒して[[シークレットサービス]]に抱えられる所が撮影される等、健康不安説がささやかれた。
 
 
2016年11月8日の大統領選挙の結果、得票数ではヒラリーが共和党候補の[[ドナルド・トランプ]]を僅差で上回るものの、[[選挙人団|選挙人]]は232人と、306人を獲得したトランプに破れ落選した。一般投票で勝利し、選挙人投票で敗北したのは、[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙|2000年の選挙]]の[[アル・ゴア]](民主党)以来16年ぶりであった。
 
 
===2017年===
 
[[2017年]]9月、敗北した大統領選を振り返る回顧録を執筆し出版。本のプロモーションの一環でCBSの番組に出演し、番組の中で大統領選の敗北を「いまだにすごく苦しい。とてもつらい。」と語り、再び大統領選挙に出馬する意思はないことを表明している<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3142388?cx_position=22 クリントン氏、今後は選挙に出馬しない意向 大統領選敗北にひどく苦悩] AFP(2017年9月11日)2017年9月11日閲覧</ref>。
 
 
== 国務長官 ==
 
[[ファイル:Katsuya Okada and Hillary Rodham Clinton 20090921.jpg|thumb|200px|[[2009年]][[9月21日]]、[[ウォルドルフ=アストリア]]にて[[日本]]の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[岡田克也]](左)と]]
 
[[ファイル:Hillary Rodham Clinton Emperor Akihito and Empress Michiko 20110417.jpg|thumb|200px|[[2011年]][[4月17日]]、[[皇居]]にて[[明仁|今上天皇]](中央)、[[皇后美智子]](右)と]]
 
2008年11月の大統領選挙ではバラク・オバマが当選した。民主党の指名争いで劣勢になった頃から、ヒラリーがオバマの副大統領になる可能性が報じられたが実現せず、オバマが次期大統領として翌年発足する政権の人事に着手した11月ごろからヒラリーは[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]など閣僚候補として名前が取りざたされていた。それに対して、「上院を離れることに気が進まない。国務長官という新しい地位は“困難にして魅力的な冒険”だ」と発言するなど、政権入りには後ろ向きであった。しかし、11月20日には彼女は指名を受諾した<ref>[http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=97327730 Obama Set On Key Cabinet Nominees]</ref>。
 
 
2008年12月1日にオバマ次期大統領はヒラリーを正式に国務長官に指名したことを発表した。ヒラリーは「合衆国にすべてをささげる」と指名を受け入れた<ref>*[http://www.usatoday.com/news/politics/2008-12-01-obama-cabinet-monday_N.htm Obama names Clinton, Gates, Holder to administration roles by Richard Wolf USA Today December 1, 2008]
 
* [http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/7758673.stm Clinton named secretary of state BBC News Online December 1, 2008]
 
* [http://www.guardian.co.uk/world/2008/dec/01/barack-obama-hillary-clinton-white-house Clinton named as Obama's secretary of state The Guardian December 1, 2008]
 
</ref>。
 
 
ヒラリーは上院時代も含め、必ずしも外交に力を入れてきたとは言い難く、外交通とは言い難かったが、大統領選挙においては、ファーストレディとして世界中の要人との人脈を築き上げたことを強くアピールしてきた。オバマが彼女を国務長官に指名した背景には、圧倒的な知名度など彼女の「即戦力になる経験」を重視し、「[[プラグマティズム|実利的]]」な政権であることを示す一方で、大統領選挙で党内に入った亀裂を融和し「超党派」性をアピールしたかったという事情がある。
 
 
上院外交委員会は2009年[[1月13日]]、ヒラリーを召還して国務長官承認のための公聴会を開始し、オバマ大統領就任後の[[1月21日]]に上院の本会議が賛成94反対2でヒラリーの国務長官就任を承認した。これに伴いヒラリーは正式に国務長官に就任した<ref>{{Cite news |url=http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200901220002.html |title=クリントン氏が新国務長官に就任 上院の承認受け |newspaper=CNN.co.jp |publisher=[[CNN]] |date=2009-01-22 |accessdate=2009-01-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090122155843/http://cnn.co.jp/usa/CNN200901220002.html |archivedate=2009年1月22日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
 
 
国務長官としてのヒラリーの最初の外遊先は[[東アジア]]諸国であり、日本、[[インドネシア]]、韓国、中国を順に訪問して無難な外交デビューを飾った<ref group="注">インドネシアではオバマ大統領の母校に訪問。またテレビ番組にも出演した。それにはイスラム社会との冷え切った関係修復があると言われている。</ref>。他方で中東和平・[[対テロ]]など喫緊の課題を多く抱える中近東・西南アジアで、大統領と直接協議する権限を与えられた特使が実務に当たっており、外交経験の少ないヒラリーは大きな懸案の少ない無難な地域で仕事を始めざるを得なかったという事情があった。
 
 
2009年6月にヒラリーは右ひじを骨折したために、オバマ大統領のロシア訪問の同行、さらに主要国(G8)外相会議の出席ができなかった。そして8月にアフリカ7カ国を訪問したときには、夫のビル・クリントン元大統領が北朝鮮を電撃訪問。最初の訪問国[[ケニア]]は夫の訪朝を質問されることになった。
 
 
さらに[[コンゴ]]の[[キンシャサ]]での対話集会の席上「コンゴと中国との金融協定」について「オバマ大統領」はどう考えているのかのと男子学生がフランス語で質問したところ、[[同時通訳]]が「クリントン元大統領」と誤訳した。それを聞いたヒラリーは気色ばみ、「私に夫が何を考えているか話させたいの?国務長官は私よ。夫じゃない(My husband is not secretary general, I am!)」といい「私の考えなら話すけど、私は夫とは交信しない」と返答した。あとで誤訳の事実を知らされるとヒラリーは機嫌を取り戻したが、「元大統領が、妻に向けられるべきスポットライトを奪った」(AP通信)と報じられた<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/world/america/090812/amr0908121155005-n1.htm |title=奪われた主役…ヒラリー氏いらだつ 「不適切な関係」まだ尾を引く? |newspaper=MSN産経ニュース |publisher=産経デジタル |date=2009-08-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090815153155/http://sankei.jp.msn.com/world/america/090812/amr0908121155005-n1.htm |archivedate=2009年8月15日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
 
 
2010年の「最も尊敬に値する」男女に、2010年はバラク・オバマ大統領とヒラリー・クリントン米国務長官が選ばれた。[http://www.afpbb.com/articles/-/2780770 尖閣諸島中国漁船衝突事件]に関しては9月23日、[[日本]]の[[前原誠司]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]との日米外相会談で、「[[尖閣諸島]]は[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]第5条の適用対象範囲内である」との認識を示した<ref>{{cite news |url=http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010092301000741.html |title=尖閣は安保の対象、米国務長官 日米外相が初会談、漁船衝突で |newspaper=47NEWS |agency=共同通信 |publisher=全国新聞ネット |date=2010-09-24 |accessdate=2010-09-24}}</ref><ref>{{cite news |author=酒井充 |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100923/plc1009232313021-n1.htm |title=「尖閣は日米安保適用対象」クリントン長官、明言 日米外相会談で (1/2ページ) |newspaper=MSN産経ニュース |publisher=産経デジタル |date=2010-09-24 |accessdate=2010-09-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100926110217/http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100923/plc1009232313021-n1.htm |archivedate=2010年9月26日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
 
 
同年に一部では二年後の大統領選挙に向けて、副大統領候補としてバイデン副大統領と副大統領職と国務長官職を交代するのではないかという憶測が飛び交ったが、オバマ政権は「全く真実ではない」と否定する声明を出しており、ヒラリー本人もこの時点ではこれを否定していた<ref>{{Cite news |url=http://www.afpbb.com/article/politics/2764310/6137626 |title=クリントン副大統領説、ホワイトハウスが否定 |newspaper=AFPBB News |agency=AFP通信 |publisher=クリエイティヴ・リンク |date=2010-10-07}}</ref>。
 
 
[[2011年]]3月18日、国務長官の職を一期限りで引退する旨を明らかにし、同時に次期大統領選挙出馬も否定した<ref>{{Cite news|author=村山祐介|url=http://www.asahi.com/international/update/0318/TKY201103170575.html|title=クリントン国務長官「1期で引退」 大統領選出馬も否定|newspaper=asahi.com|publisher=朝日新聞社|date=2011-03-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110320204558/http://www.asahi.com/international/update/0318/TKY201103170575.html|archivedate=2011年3月20日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。
 
 
[[福島原発事故]]を受けて、東南アジア訪問の途中に日本へ立ち寄ることとなった。日本での滞在予定時間は5時間だったが、ヒラリーは元大統領夫人として天皇陛下への面会を求めた<ref name="rfi">[http://www.rfi.fr/asie-pacifique/20110417-etats-unis-participeront-reconstruction-japon/ Les Etats-Unis participeront à la reconstruction du Japon] 2011年4月17日 RFI EN 15 LANGUES。</ref><ref name="wsj">[https://blogs.wsj.com/japanrealtime/2011/04/18/u-s-secretary-clintons-social-diplomacy/ U.S. Secretary Clinton’s Social Diplomacy] 2011年4月18日 THE WALL STREET JOURNAL。</ref>。[[菅直人内閣]]はこれを受け入れ、ヒラリーは2011年4月17日に天皇・皇后両陛下と面会した。民主党政権下では、[[鳩山由紀夫内閣]]のときの中国・[[習近平]]政治局常務委員(当時)訪日の際に次いで、皇室への[[国事行為]]の依頼は1か月以上前に行うという慣行(1か月ルール)を破る2度目の事案となった<ref>(参考)[http://maiko.cocolog-nifty.com/kuma/2011/05/post-4825.html May 05, 2011 in 経済・政治・国際] もりのくま。</ref>。なお、ヒラリーは2009年2月に訪日した際にも、国務長官として皇后陛下と面会している<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/4030909/ “報道の女王”安藤優子アナが大絶賛する巨乳アナとは!?] 2009年2月23日(リアルライブ) ライブドアNEWS。</ref>。
 
 
2012年12月、ウイルス性の胃腸炎に伴う脱水症状で倒れた際に脳振盪を起こし検査で頭部の静脈に[[血栓]]が見つかり、30日から入院して治療し、2013年1月2日、ニューヨーク市内の病院を退院した<ref>{{cite news |url=http://www.asahi.com/international/update/0103/TKY201301030228.html| title =クリントン米国務長官が退院 頭部血栓、全快の見通し |newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2013-01-03 |accessdate=2013-01-04}}</ref>。
 
 
2013年1月25日、オバマ大統領と初めて二人だけで[[CBS]]テレビに出演し、大統領からは「彼女は最高の国務長官の1人として政権を去る。公の場で感謝を伝えたかった」と称賛された<ref>{{cite news |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301/2013012600190&rel=y&g=int |title=最高の国務長官」と絶賛=米大統領、クリントン氏とTV初共演 |newspaper=時事ドットコム |publisher=時事通信社 |date=2013-01-26 |accessdate=2013-02-02 |archiveurl=https://archive.is/20130426210140/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301/2013012600190&rel=y&g=int |archivedate=2013年4月26日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。翌日にCBSで放送された単独インタビューでは2016年の大統領選挙について訊かれ、「あす、あるいは来年のことは予測できない」と立候補に含みを持たせたともとれる発言をしている<ref>{{cite news |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301/2013012800193&rel=y&g=int |title=米大統領選出馬に含み=待望論拡大も-クリントン長官 |newspaper=時事ドットコム |publisher=時事通信社 |date=2013-01-28 |accessdate=2013-02-02 |archiveurl=https://archive.is/20130426190806/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301/2013012800193&rel=y&g=int |archivedate=2013年4月26日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。任期の終わり頃には国民の人気は高くなっており、退任直前の2013年1月に[[ワシントン・ポスト]]と[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]が共同で行った[[世論調査]]では支持率65%だった<ref>{{cite news |url=http://www.afpbb.com/article/politics/2923928/10183002 |title=クリントン国務長官、2016年大統領選出馬に含み |newspaper=AFPBB News |agency=AFP通信 |publisher=クリエイティヴ・リンク |date=2013-01-28 |accessdate=2013-02-16}}</ref>。
 
 
2月1日、「皆とともに米国を安全にし、国益を促進し、われわれの価値が敬われるよう努めてきたことを誇りに思う」と挨拶をし、国務省を後にした。直前に[[トルコ]]の首都[[アンカラ]]のアメリカ大使館で[[自爆テロ]]が発生したため、最後までその対応に追われての退任だった<ref>{{cite news |url=http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2013020200076 |title=最後までテロ対応=クリントン米国務長官が退任 |newspaper=時事ドットコム |publisher=時事通信社 |date=2013-02-02 |accessdate=2013-02-02 |archiveurl=https://archive.is/20130426201447/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201302/2013020200076 |archivedate=2013年4月26日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
 
 
ヒラリーは雑誌のインタビューで、2014年に入り[[イスラーム過激派|過激派組織]][[ISIL]]の勢力が増していることについて、[[シリア]]での穏健な反[[バッシャール・アル=アサド|アサド]]勢力を支援しなかったことが原因と、[[バラク・オバマ|オバマ]]大統領の政策を失敗と批判した<ref>{{cite web |title=オバマ氏とヒラリー氏すきま風 大統領選を意識し距離? |newspaper=[[朝日新聞]] |url=http://www.asahi.com/articles/ASG8J4F2HG8JUHBI00Q.html |date=2014-8-17 |accessdate=2014-8-17|author=大島隆 }}</ref>。
 
 
== 政治的立場 ==
 
[[ファイル:Hillary_Clinton_and_Kevin_Rudd.jpg|thumb|205px|[[オーストラリア]]の[[ケビン・ラッド]][[オーストラリアの首相|首相]]とともに(2008年3月)]]
 
ヒラリーは従来民主党の中でも[[リベラル]]な立場をとっており、そのため主に女性層や都市部の非白人層から強い支持を得ていた。アメリカで常に論争となる[[人工妊娠中絶]]についても女性の権利としてこれを支持していた。<ref>{{cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=vf9dwdJTB0Q|title = Hillary Clinton: Abortions Are a Constitutional Right, But The Right To Bear Arms Isn't |publisher =abc|accessdate = 2016-10-22}}</ref>
 
 
しかし、上院議員に当選後は[[銃規制]]に反対した他、[[イラク戦争]]の開戦に賛成するなど、アメリカにおいて根強い勢力を誇っている[[キリスト教右派]]層や保守層の支持を得る為に、一定の[[中道政治|中道]]ないし[[保守]]的な立場も見せ、これによって民主党内の「ヒラリーだけは絶対にダメ」という反ヒラリー派の懐柔にある程度の成功をみたが、一方でそうした日和見的な姿勢によって、かつての支持層の一部が離反していくという[[ジレンマ]]を経験している。
 
 
== 外交政策 ==
 
外交的には民主党内では共和党タカ派の[[新保守主義 (アメリカ合衆国)|ネオコン]]に近い[[リベラルホーク]]の立ち位置に属しており、[[NATO]]を中心としたアメリカの強い軍事力によって、アメリカの[[自由主義]]的価値観を、時には軍事力を使ったり[[クーデター]]を画策することもためらわずに、世界に広めて世界の秩序を安定させる方針を主張している。ヒラリーの外交政策は民主党内では最もタカ派とされ、実際にネオコンの論客である[[ロバート・ケーガン]]はその顧問だったことからヒラリー支持を表明している<ref>{{cite news |title= ついにネオコンまで、共和党からヒラリー支持続々|author= |newspaper= [[日本ビジネスプレス]]|date= 2016-3-31|url= http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46483 |accessdate=2016-6-11}}</ref>。また、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[知日派]]重鎮の[[リチャード・アーミテージ]]もヒラリー支持を公言している<ref>{{cite news |title= 共和・アーミテージ氏、クリントン氏へ投票表明|author= |newspaper= [[毎日新聞]]|date= 2016-6-17|url= http://mainichi.jp/articles/20160617/dde/007/030/063000c |accessdate=2016-6-17}}</ref>。その[[安全保障]]政策への信頼から[[軍需産業]]の献金を最も受けてるのも共和党候補ではなく、ヒラリーである<ref>{{cite news |title= Defense contractor employees give the most money to Hillary Clinton|author= |newspaper= [[センター・フォー・パブリック・インテグリティ]]|date= 2016-4-1|url= https://www.publicintegrity.org/2016/04/01/19496/defense-contractor-employees-give-most-money-hillary-clinton |accessdate=2016-7-27}}</ref>。このように、ヒラリーの外交政策は民主党の中でも最も共和党に近いとされる。
 
 
*'''対イラク'''…2003年の[[イラク戦争|イラクへの軍事侵攻]]を支持した<ref>{{cite news |title= "U.S. Senate: Legislation & Records Home > Votes > Roll Call Vote"|author= |newspaper= [[アメリカ合衆国上院]]|date= 2002-10-11|url= http://www.senate.gov/legislative/LIS/roll_call_lists/roll_call_vote_cfm.cfm?congress=107&session=2&vote=00237 |accessdate=2016-6-11}}</ref>。
 
 
*'''対イラン'''…[[イラン]]は[[NATO]]と[[イスラエル]]にとっての最大の脅威であり、イランへの軍事侵攻も辞さないと発言している<ref>{{cite news|title= Hillary shifts right with talk of military strike on Iran|author= |newspaper= WASHINGTON BUREAU|date= 2006-1-19|url= http://www.newsday.com/news/nationworld/nation/ny-ushill194593036jan19,0,5773049.story|accessdate= 2016-6-11|archiveurl= https://web.archive.org/web/20070608194747/http://www.newsday.com/news/nationworld/nation/ny-ushill194593036jan19,0,5773049.story|archivedate= 2007年6月8日}}</ref>。
 
 
*'''対イスラエル'''…親イスラエルの立場を一貫して取っており、2005年には[[ヨルダン川西岸地区]]の[[イスラエル西岸地区の分離壁|分離壁]]の建設を支持しており、[[エルサレム]]をイスラエルの永遠の首都であるとして、米国大使館のテルアビブからエルサレムへの移転運動を支持している<ref>{{cite news |title= First lady supports Jerusalem as capital of Israel|author= |newspaper= [[CNN]]  |date= 1999-7-9|url= http://edition.cnn.com/ALLPOLITICS/stories/1999/07/09/senate.2000/hrc.jerusalem/|accessdate=2016-6-11}}</ref>。イスラエル軍による[[ガザ侵攻 (2014年)|ガザ侵攻]]に関しても双方に停戦を求めるとしながらも、イスラエル側に対する[[ハマス]]による挑発行為の結果であるとしている<ref>{{cite news |title= Hillary Clinton Not Afraid to Fly to Israel, Says Hamas 'Intended to Provoke Israel'|author= |newspaper= Fusion net |date= 2014-7-26|url= http://fusion.net/video/3254/hillary-clinton-not-afraid-to-fly-to-israel-says-hamas-intended-to-provoke-israel/ |accessdate=2016-6-12}}</ref>。2016年9月25日、イスラエルの首相[[ベンヤミン・ネタニヤフ]]と会談して「強くて安全なイスラエル」は米国に不可欠であるとして軍事援助を約束している<ref>{{cite news |title= Clinton Tells Netanyahu She's Against UN Imposing Solution to Israeli-Palestinian Conflict|author= |newspaper= [[ハアレツ]] |date= 2016-09-26|url= http://www.haaretz.com/israel-news/1.744299 |accessdate=2016-9-27}}</ref>。
 
*'''対シリア'''…アサド政権の打倒を目指す反政府武装勢力にアメリカ軍の最新鋭の武器付与や[[アメリカ特殊作戦軍]]の派遣を行って[[シリア騒乱|シリア戦争]]に軍事攻撃を行うことべきと主張しており、リビア内戦時に行ったような[[飛行禁止空域]]の設定をしアサド政権打倒のための空爆を強化すべきである主張している。このように、シリア政策ではオバマ政権、ケリー国務長官の路線とは大きく異なっている。
 
*'''対キューバ'''…[[キューバ]]との国交正常化を支持している。
 
*'''対リビア'''…2011年にはオバマ政権の国務長官として、[[2011年リビア内戦|リビア内戦]]を解決するための[[リビア飛行禁止空域|リビアへの軍事攻撃]]を行う様に、オバマ大統領を強く説得した。[[ムアンマル・アル=カッザーフィー|カダフィ]]の殺害を聞いて『[[来た、見た、勝った]]』をもじった ”来た、見た、死んだ”({{en|”We came, we saw, he died”}})と歓喜していたことが報じられている<ref>{{cite news |title= Clinton on Qaddafi: "We came, we saw, he died"|author= |newspaper= [[CBS]] |date= 2011-10-20|url= http://www.cbsnews.com/news/clinton-on-qaddafi-we-came-we-saw-he-died/|accessdate=2016-6-12}}</ref>。鉱産資源を目標に[[デーヴィッド・キャメロン]]と[[ニコラ・サルコジ]]を作戦に関係させ、また攻撃に最終的発言権をもったことが、ヒラリーの送受信したメールで示唆されている<ref>合衆国のメディアで引用が特に多いものは次の二通
 
:[https://wikileaks.org/clinton-emails/emailid/23898 "TICK TOCK ON LIBYA"] From: Hillary Clinton To: Oscar Flores Date: 2011-09-02 15:28
 
:[https://wikileaks.org/clinton-emails/emailid/12900 "FRANCE, UK, ET AL, JOCKEYING IN LIBYA/OIL"] From: [[:en:Sidney Blumenthal|Sidney Blumenthal]] To: Hillary Clinton Date: 2011-09-16 02:00</ref>。
 
*'''対ユーゴスラビア'''…1999年にアフリカ滞在中に[[ビル・クリントン]]大統領に電話で、早急に[[ユーゴスラビア]]([[セルビア人]]勢力)へ空爆([[コソボ紛争]])するよう伝えている<ref>{{cite news |title= Hillary Clinton on Kosovo|author= |newspaper= www.ontheissues.org.  |date= 1999-12-9|url= http://www.ontheissues.org/Senate/Hillary_Clinton_Kosovo.htm|accessdate=2016-6-12}}</ref>。
 
*'''対ロシア'''…2014年の[[ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入|ロシアによるクリミア編入]]を受けて[[ロシア]]の[[プーチン]]大統領を[[ヒトラー]]と同じであると激しく非難するなど<ref>{{cite news |title= ヒラリー氏、ロシア大統領のクリミア介入は「ヒトラーと同じ」|author= |newspaper= [[ロイター通信]]  |date= 2014-3-6|url= http://jp.reuters.com/article/l3n0m25ru-hilary-putin-idJPTYEA2500620140306|accessdate=2016-6-12}}</ref>ロシアとの[[新冷戦]]に対しては[[冷戦]]時代の反露的な{{仮リンク|冷戦リベラル|en|Cold War liberal}}を継承した対露強硬路線を取っている。経済制裁の継続も支持している。
 
*'''対中華人民共和国'''…中国の民主化運動への人権侵害を非難しつつ、米国の友人であると共に、良きライバルであると表現している。
 
 
== プロチョイス(中絶権利擁護派) ==
 
ヒラリーは、中絶病院チェーンであり[[プロチョイス]]([[人工妊娠中絶]]権利擁護派)の団体である[[プランド・ペアレントフッド]](全米家族計画連盟)からの支援を受けており、[[プランド・ペアレントフッド]]の会議に出席し、演説している。中絶は憲法で保障された権利であるとしている。<ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=6HV1_3NH9Lo|title=Planned Parenthood Action Fund endorses Hillary Clinton  |work= |publisher=WMURg|date=2015-07-28 |accessdate=2016-10-20}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=D-5ZVHcm-2M|title=
 
 
Hillary Clinton's entire Planned Parenthood speech  |work= |publisher=CNN|date=2015-07-28 |accessdate=2016-10-20}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=vf9dwdJTB0Q|title = Hillary Clinton: Abortions Are a Constitutional Right, But The Right To Bear Arms Isn't |publisher =abc|accessdate = 2016-10-22}}</ref>
 
 
2009年には、マーガレット・サンガー賞を[[プランド・ペアレントフッド]]から授与されている。[[プランド・ペアレントフッド]]の創設者であり、[[優生学]]者であり、白人至上主義団体[[クー・クラックス・クラン]]に参加していた人種差別主義者で黒人虐殺計画[[ニグロ・プロジェクト]]の主導者であったとされる[[マーガレット・サンガー]]について、「私は、マーガレット・サンガーをとても称賛する」と言っている。<ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=dBFEyN0sAqQ|title=Hillary Clinton honors Margaret Sanger |work= |publisher=|date= |accessdate=2016-10-20}}</ref>
 
 
== 名前のこだわり ==
 
[[ファイル:HRClintonSignature.png|thumb|left|200px|ヒラリーの[[署名]]。常に “Rodham” が入る。]]
 
アメリカでは、[[夫婦別姓]]も可能で、近年では多くの女性が夫婦別姓を実践するようになっており、また、それ以外の場合でも[[人名#姓の継承と変更|旧姓]]のあとに夫の姓をつけたものを正式な名前とすることも多く、伝統的な夫の姓を使用する女性は減少しつつある。しかしながら、ヒラリー以前のファーストレディーは伝統的な夫の姓を用いることが多かった。ヒラリーは、アーカンソー時代に「ヒラリー・ローダム・クリントン」を名乗り始めて以来、一貫してこの「[[旧姓]]込み」の名前を使用している。ホワイトハウス時代にもファーストレディーとしては異例の「The First Lady Hillary Rodham Clinton」と呼ばれることが多く、ここでもヒラリーは他の保守的なファーストレディーとは一線を画していた。このヒラリーの旧姓へのこだわりは、保守派には「典型的なリベラル」とか「[[1970年代|70年代]]の[[ウーマン・リブ]]を思わせる」などと評判が悪かったが、一般には「いかにも自己を埋没させようとはしないヒラリーらしい」と肯定的に受け止められていた。
 
 
2000年の上院選に出馬を表明した頃には、これを機会にまた元の「Hillary Rodham」に戻すのではないか、という憶測も流れたが、ヒラリーはためらうことなく「Hillary Rodham Clinton」を維持した。ただし選挙戦では、[[ポスター]]から[[広告|テレビ広告]]に至るまで、ありとあらゆる媒体に'''「Hillary」'''の一語のみを使用した。「Clinton」はビルを連想させて余りある、というイメージ戦略が公の理由だが、これもヒラリーの「自己へのこだわり」なのだと一般には解釈された。
 
 
このようにファーストネームで選挙戦を戦うというのは極めて異例である。今日では[[マスメディア]]の多くが彼女のことを一般に「Hillary」と呼ぶようになっている。上院議員としての呼称や敬称をつけた名称こそ「Senator Clinton」だが、彼女が「Hillary Clinton」と呼ばれることが比較的稀であることに変わりはなかった。ところが2007年1月に大統領戦に正式に立候補すると、ヒラリー陣営では今度は意識的に「Rodham」を抜いた「Hillary Clinton」を前面に打ち出すようになった。メディアではこれを一様に「保守層への気兼ね」などと分析しているが、これが「ローダム色」の払拭を狙ったものなのか、あるいは「クリントン色」の上塗りを意図したものなのか、その辺の事情については依然として推測の域を出ていない。
 
 
== 受賞歴 ==
 
[[1997年]]:第39回[[グラミー賞]]最優秀ポエトリー・アルバム (Best Spoken Word Album) 受賞。
 
 
[[ファイル:Hillary Clinton 2005 10 19 National Care Package Day IMG 5170.jpg|200px|thumb|right|イベントで支援者と(2005年10月19日)]]
 
[[ファイル:2006 04 13 Chicago Speech.jpg|200px|thumb|right|シカゴ経済の展望についてスピーチ(2006年4月11日) [http://clinton.senate.gov/news/statements/details.cfm?id=253790&&]]]
 
[[ファイル:Hillary Clinton speaking at Families USA.jpg|thumb|200px|Families USA の集会で演説(2006年)]]
 
[[ファイル:Hillary Clinton 2007-2 cropped.jpg|thumb|200px|アーカンソー州のマイク・ビーブ州知事夫妻と(2007年8月20日)]]
 
 
== 著書 ==
 
* 繁多進、向田久美子(訳)『村中みんなで 子どもたちから学ぶ教訓』 [[あすなろ書房]] 1996年4月 ISBN 475150181X
 
** 原著: Hillary Rodham Clinton, ''It Takes A Village: And Other Lessons Children Teach Us'', Simon & Schuster Published, Jan 1996, ISBN 0684818612, ISBN 0684825457
 
* 酒井洋子(訳)『リビング・ヒストリー ヒラリー・ロダム・クリントン自伝』 [[早川書房]] 2003年12月23日 ISBN 4152085274
 
** 原著: Hillary Rodham Clinton, ''Living History'' , Simon & Schuster, 2003, ISBN 0743222245; Scribner, 2004, ISBN 0743222253
 
 
== 関連文献 ==
 
* ジュディス・ウォーナー(著)、河合伸(訳)『ヒラリー・クリントン 最強のファーストレディ』 [[朝日新聞社]] 1993年7月 ISBN 4022566426
 
** 原著: Judith Warner, ''Hillary Clinton: The Inside Story'', Signet, January 1993, ISBN 0451178084, Aug 1999, ISBN 0451198956
 
* ノーマン・キング(著)、武者圭子(訳)『ヒラリー・R.クリントンの歩み 大統領の最強のパートナー』 [[小学館]] 1994年1月 ISBN 4093871078
 
** 原著: Norman King, ''Hillary: her true story'', Birch Lane, Jul 1993, ISBN 1559721871
 
* リチャード・コーザー(著)、[[鳥居千代香]](訳)『ヒラリー・クリントン 素顔のファースト・レディ』 [[東洋書林]] 1999年12月 ISBN 488721376X
 
** 原著: Richard Kozar, ''Hillary Rodham Clinton: Women of Achievement'', Chelsea House Pub Published, April 1998, ISBN 079104713X, Bt Bound Published, Oct 1999, ISBN 0613116305, Apr 2003, ISBN 0791047121
 
* ゲイル・シーヒー(著)、[[櫻井よしこ]](訳)『ヒラリーとビルの物語』 [[飛鳥新社]] 2000年9月 ISBN 4870314371
 
** 原著: Gail Sheehy, ''Hillary's choice'', Random House, Nov 1999, ISBN 0375503447, Aug 2000, ISBN 0345436563
 
* [[角間隆]] 『ヒラリーが大統領になる日 スキャンダルとアメリカ国民の政治意識』(『小学館文庫』)、[[小学館]] 2001年4月 ISBN 4094036954
 
* クリスチヌ・オックラン(著)、鳥取絹子(訳)『ヒラリーという生き方 女性が夢を実現する方法』 [[ベストセラーズ]] 2003年10月 ISBN 4584159718
 
** 原著: Christine Ockrent, ''La double vie de Hillary Clinton'', French & European Pubns, 1st Jan 2001, ISBN 2221093380, 17 Jan 2002, ISBN 226611879X
 
* 岸本裕紀子 『ヒラリーとライス アメリカを動かす女たちの素顔』 [[PHP新書]] 2006年11月 ISBN 4569657737
 
* ディック・モリス+アイリーン・マクガン(著)、大須賀典子(訳)『ヒラリー vs ライス 次期アメリカ合衆国大統領をめぐる闘い』 [[アスペクト (企業)|アスペクト]] 2007年3月 ISBN 9784757213456
 
  
== 脚注 ==
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'''ヒラリー・ローダム・クリントン'''({{lang-en|Hillary Rodham Clinton}}, [[1947年]][[10月26日]] - )
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
  
== 関連項目 ==
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 アメリカ合衆国の政治家、弁護士。1947年、イリノイ州シカゴにて、繊維品卸売業を営む中流家庭の長女ヒラリー・ロダムとして生まれ、近郊のパーク・リッジで育つ。
{{Commonscat|Hillary Rodham Clinton}}
 
{{Wikinewspar2|:en:Hillary Clinton nominated as US Secretary of State|ヒラリー氏を国務長官に指名}}
 
* [[アメリカ合衆国大統領選挙]]
 
* [[2008年アメリカ合衆国大統領選挙]]
 
* [[女性政治家の一覧]]
 
* [[エイミー・ポーラー]]([[サタデー・ナイト・ライブ]]で、ヒラリー・クリントン役を演じる)
 
* [[ジョージ・クルーニー#その他|ジョージ・クルーニー]](第80回アカデミー賞授与式での発言)
 
  
== 外部リンク ==
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 1969年にマサチューセッツ州のウェルズリー大学を卒業。1973年にエール大学ロースクールで法学博士号を取得後、下院ウォーターゲート委員会のスタッフに加わる。1974年、ロースクール在学中からの交際相手ビル・クリントンの故郷アーカンソー州へ移り、アーカンソー大学ロースクールで教鞭(きょうべん)をとった。弁護士としては、子どもの権利を専門分野とした。1975年ビルと結婚。法曹活動と並行して、ビルの政治活動を支え、その州知事時代(1979~1981、1983~1992)には農村部健康諮問委員会委員長、教育水準委員会委員長を務めた。1987年、アメリカ法曹協会において「法曹界における女性の地位向上委員会」の初代委員長につく。
=== 公式 ===
 
* [https://www.whitehouse.gov/1600/first-ladies/hillaryclinton White House: Hillary Rodham Clinton] (ホワイトハウスによるファーストレディ時代の紹介ページ)
 
* [https://twitter.com/hillaryclinton Hillary Clinton (@HillaryClinton) | Twitterr]
 
* Hillary Clinton (@hillaryclinton) • Instagram photos and [https://www.instagram.com/hillaryclinton/ videos]
 
* [http://www.hillaryclinton.com Hillary for America] (2016年大統領選の公式サイト)
 
* [https://www.onwardtogether.org/ Onward Together] (2017年5月に発足された“進歩的価値観の推進”を目指す所属政治団体)[https://www.cnn.co.jp/usa/35101255.html][http://www.afpbb.com/articles/-/3128336]
 
  
=== 2000年上院選挙関連 ===
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 ビル・クリントン政権第1期(1993~1997)では、国民皆保険制度実現のために「医療保険改革に関するタスクフォース」の座長となったが、ヒラリーケアとも別称された改革案は民主党内にも反対が強く頓挫(とんざ)。個人の責任を強調する新自由主義的な1996年の「個人責任および就労機会調停法」を支持。ビルの退任が近づいた2000年の連邦議会上院議員選挙において、引退を表明した民主党の長老上院議員モイニハンDaniel Patrick Moynihan(1927―2003)の地盤であったニューヨーク州から初出馬し当選。2006年再選。保健・教育・労働・年金委員会のほか、高齢化問題特別委員会、軍事委員会、環境・公共事業委員会、予算委員会に所属。2001年のアメリカ同時多発テロ後、ブッシュ政権が主導したイラク侵攻を支持したが、のちに判断を誤りと認める。イラク戦争への支持は、上院議員2期目途中に出馬した2008年の大統領選挙の民主党予備選挙でB・オバマに敗れる一因となった。オバマ政権第1期(2009~2013)の国務長官として、イランへの制裁、アフガニスタンへの増派、シリアのアサド政権転覆を主唱するなど、外交的にはタカ派である。
* [http://www.ontheissues.org/NY_Senate_NBC.htm Clinton's positions in 2000 Senate Race]
 
* [http://www.cnn.com/2000/LOCAL/northeast/07/21/mny.hillary.jews/ Clinton enjoys strong support from Jewish voters]
 
* [http://dir.salon.com/politics/feature/2000/11/02/news/index.html Allegations during the Senate Race]
 
* [http://www.jewishworldreview.com/0700/hillary.slur.asp Jewish Vote Crucial]
 
* [http://www.cbsnews.com/stories/2000/11/03/politics/main246677.shtml Results & Demographic Breakdown of Votes]
 
  
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 2016年の大統領選挙では民主党候補者指名を獲得したものの、無名の左派上院議員サンダースBernie Sanders(1941― )に対する苦戦は、ビル・クリントン政権以来のヒラリーの新自由主義志向やエスタブリッシュメント(既存体制)へのリベラル内部の不満の強さを示していた。おもな政策として、富裕層への課税強化、銃規制の強化、非合法移民への正規居住資格付与を掲げた。大統領選挙本選では、東海岸や西海岸諸州、大都市部で支持を集め、共和党候補のD・J・トランプをアメリカ全体での一般得票総数では上回りながらも、獲得した選挙人数で水を開けられ敗北した。
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2018/8/27/ (月) 23:51時点における最新版

ヒラリー・クリントン
Hillary Clinton

アメリカ合衆国のファーストレディ
任期 1993年1月20日 - 2001年1月20日
先代 バーバラ・ブッシュ
次代 ローラ・ブッシュ
個人情報
出生名 ヒラリー・ローダム(旧姓)
生年月日 (1947-10-26) 1947年10月26日(76歳)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
Flag of Illinois.svg イリノイ州 Flag of Chicago, Illinois.svg シカゴ
配偶者 ビル・クリントン
子女 チェルシー・クリントン
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身校 ウェルズリー大学
イェール・ロー・スクール
職業 アメリカ合衆国大統領夫人
弁護士
法務博士
政党 共和党(1968年以前)
民主党(1968年 - )
テンプレートを表示

ヒラリー・ローダム・クリントン英語: Hillary Rodham Clinton, 1947年10月26日 - )

 アメリカ合衆国の政治家、弁護士。1947年、イリノイ州シカゴにて、繊維品卸売業を営む中流家庭の長女ヒラリー・ロダムとして生まれ、近郊のパーク・リッジで育つ。

 1969年にマサチューセッツ州のウェルズリー大学を卒業。1973年にエール大学ロースクールで法学博士号を取得後、下院ウォーターゲート委員会のスタッフに加わる。1974年、ロースクール在学中からの交際相手ビル・クリントンの故郷アーカンソー州へ移り、アーカンソー大学ロースクールで教鞭(きょうべん)をとった。弁護士としては、子どもの権利を専門分野とした。1975年ビルと結婚。法曹活動と並行して、ビルの政治活動を支え、その州知事時代(1979~1981、1983~1992)には農村部健康諮問委員会委員長、教育水準委員会委員長を務めた。1987年、アメリカ法曹協会において「法曹界における女性の地位向上委員会」の初代委員長につく。

 ビル・クリントン政権第1期(1993~1997)では、国民皆保険制度実現のために「医療保険改革に関するタスクフォース」の座長となったが、ヒラリーケアとも別称された改革案は民主党内にも反対が強く頓挫(とんざ)。個人の責任を強調する新自由主義的な1996年の「個人責任および就労機会調停法」を支持。ビルの退任が近づいた2000年の連邦議会上院議員選挙において、引退を表明した民主党の長老上院議員モイニハンDaniel Patrick Moynihan(1927―2003)の地盤であったニューヨーク州から初出馬し当選。2006年再選。保健・教育・労働・年金委員会のほか、高齢化問題特別委員会、軍事委員会、環境・公共事業委員会、予算委員会に所属。2001年のアメリカ同時多発テロ後、ブッシュ政権が主導したイラク侵攻を支持したが、のちに判断を誤りと認める。イラク戦争への支持は、上院議員2期目途中に出馬した2008年の大統領選挙の民主党予備選挙でB・オバマに敗れる一因となった。オバマ政権第1期(2009~2013)の国務長官として、イランへの制裁、アフガニスタンへの増派、シリアのアサド政権転覆を主唱するなど、外交的にはタカ派である。

 2016年の大統領選挙では民主党候補者指名を獲得したものの、無名の左派上院議員サンダースBernie Sanders(1941― )に対する苦戦は、ビル・クリントン政権以来のヒラリーの新自由主義志向やエスタブリッシュメント(既存体制)へのリベラル内部の不満の強さを示していた。おもな政策として、富裕層への課税強化、銃規制の強化、非合法移民への正規居住資格付与を掲げた。大統領選挙本選では、東海岸や西海岸諸州、大都市部で支持を集め、共和党候補のD・J・トランプをアメリカ全体での一般得票総数では上回りながらも、獲得した選挙人数で水を開けられ敗北した。




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