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|website=http://nobelprize.org/
 
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}}
'''ノーベル賞'''(ノーベルしょう)は、[[ダイナマイト]]の発明者として知られる[[アルフレッド・ノーベル]]の[[遺言]]に従って[[1901年]]から始まった世界的な賞である<ref>ノーベル賞 オフィシャルサイト[http://www.nobelprize.org/] </ref>。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野+1分野」で顕著な功績を残した人物に贈られる。
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'''ノーベル賞'''(ノーベルしょう)
経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、[[スウェーデン国立銀行]]の設立300周年祝賀の一環としてノーベルの死後70年後にあたる[[1968年]]に設立されたものであり<ref>{{cite web|url=http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/economic-sciences/|title=The Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel|accessdate=2016-05-05}}</ref>、ノーベル財団は「ノーベル賞ではない」としている<ref>{{cite|url=http://www.nobelprize.org/nomination/economic-sciences/|title=Nomination and Selection of Laureates in Economic Sciences|chapter=Not a Nobel Prize|work=Nobelprize.org|date=|accessdate=2016-10-16}}</ref>が、一般にはノーベル賞の一部門として扱われることが多い。
 
  
==沿革==
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ダイナマイトの発明によって富を得た[[アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル]]が遺贈した基金から,毎年 4機関によって授与される賞。最初の授与は,ノーベルの 5回目の命日にあたる 1901年12月10日に行なわれた。ノーベルの遺言に従って,毎年,物理学,化学,生理学・医学,文学,および平和の 5分野において「過去 1年間に人類に対して最大の貢献をした者」に授与される。経済学賞は,1968年スウェーデン国立銀行によって設けられたもので,1969年から授賞されている。賞の授与機関は,ノーベルの遺志によって,物理学部門および化学部門はスウェーデン王立科学アカデミー,生理学・医学部門は王立カロリンスカ医学研究所,文学部門はスウェーデン・アカデミー(以上ストックホルム),平和賞はノルウェー国会ノーベル委員会(オスロ)と定められている。経済学部門については,スウェーデン王立科学アカデミーが賞の授与にあたる。ノーベルの遺言に基づいて設立されたノーベル財団が基金の法的な所有者で,運営管理者でもあるが,四つのノーベル賞授与機関を結びつける管理体としての役割を果たすだけで,賞の審査やその決定には関与せず,選考は授与機関によって行なわれる。受賞者には,金メダル,賞状および賞金が与えられる。賞金額は基金の収益に左右され,基金の前年度の利息の 67.5%が経済学部門を除く 5部門の賞金に割り当てられる。22.5%は選考の基金に,10%は基金に操り込まれる。経済学部門の受賞者にも同じものが与えられるが,スウェーデン国立銀行の献金を基金としている。
[[ファイル:Alfred_Nobels_will-November_25th,_1895.jpg|thumb|ノーベルの遺言]]
 
ノーベル賞は、[[スウェーデン語]]では {{lang|sv|'''Nobelpris'''('''et''')}}(ノベルプリース/ノベルプリーセット)、[[ノルウェー語]]では{{lang|no|'''Nobelpris'''('''en''')}}(ノベルプリース(ン))と言う。[[1895年]]に創設され、1901年に初めて授与式が行われた。一方、ノーベル経済学賞は1968年に設立され、1969年に初めての授与が行われた。
 
  
賞設立の遺言を残したアルフレッド・ノーベル(1833年10月21日 - 1896年12月10日)はスウェーデンの[[発明家]][[企業家]]であり、ダイナマイトをはじめとする様々な[[爆薬]]の開発・生産によって巨万の富を築いた。しかし爆薬や兵器をもとに富を築いたノーベルには一部から批判の声が上がっていた。1888年、兄の[[リュドビック・ノーベル|リュドビック]][[カンヌ]]にて死去するが、この時[[フランス]]のある新聞がアルフレッドが死去したと取り違え、「[[死の商人]]、死す」との見出しとともに報道。自分の死亡記事を読む羽目になったノーベルは困惑し、死後自分がどのように記憶されるかを考えるようになった<ref name="Time">{{cite news
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受賞者の選考は前年の秋,ノーベル財団定款に基づいて選ばれた人々への候補者推薦の依頼状発送に始まる。推薦の基準としては,専門分野で卓越している人を世界中から広く選び,自薦は認められない。推薦状は,毎年 1月31日までに各部門ごとに設けられたノーベル委員会に到着していなければならない。ノーベル委員会は,2月1日以後,寄せられた推薦状を参考に選考作業に入る。委員会は必要に応じて国籍を問わずに専門家を招くこともできる。ほとんどの場合,9月から10月初旬までに,委員会の推挙状がノーベル賞授与機関に提出され,最終決定は 11月15日までに終了する。委員会の推挙は絶対ではないが,ほぼ例外なく尊重され,審議や表決は一切公表されない。賞は個人に対して与えられ,国籍,人種,宗教,イデオロギーにかかわらず,すべての人に門戸を開いている。平和賞のみが組織や機関も対象となる。死後に業績が推薦されることはないが,たとえば[[ダグ・ハマーショルド]](1961平和賞)や[[エリク・アクセル・カルルフェルト]](1931文学賞),[[ラルフ・スタインマン]](2011生理学・医学賞)のように,生前にその業績が推薦されていた場合には,死後でも賞を与えることができる。賞の授与に対する異議は認められない。また,授与機関は国家から独立しており,政治上あるいは外交上の理由で,政府が賞の決定に影響を与えることはできない。賞は1人に全部与えられることも,二つの業績に対して等分されることも,2人もしくはそれ以上(ただし 3人をこえる例はない)の共同研究に一括して与えられることもある。1人が複数回受けることもできる。ノーベルの遺志にかなう候補者がいない場合や,第1次世界大戦,第2次世界大戦の最中のように世界情勢の悪化で選考作業に必要な情報収集が困難な場合には,賞は保留,もしくは授与されない。受賞者が指名されない,あるいは賞が授与されない場合,賞金は基金へ戻される。その場合,翌年には,繰り越された分とその年の分とを合わせ,一つの分野で 1年に二つの賞が授与されることがある。賞が辞退されたり,決められた期限までに受け取られない場合も,賞金は基金へ戻される。これまでにも賞が辞退されたり,受賞者の国の政府が受賞を辞退させた例がある。その場合でも,「受賞を辞退した」という注を付してノーベル賞受賞者リストに加えられる。辞退の理由はいろいろであるが,その多くは政府など外部の圧力である。たとえば 1937年[[アドルフ・ヒトラー]]は,ドイツの平和運動家で 1933年から政治犯収容所にあった[[カール・フォン・オシエツキー]]が 1935年に受けたノーベル平和賞はドイツを侮辱するものだったとして,その後ドイツ人のノーベル賞受賞を禁じた。辞退者は,たとえ何年後であろうと,事情を説明してあらためて受賞を希望すれば,金メダルと賞状を受け取ることができる。しかし,賞金はすでに基金へ戻されているので授与されない。授与式典は毎年12月10日のノーベルの命日に,物理学,化学,生理学・医学,文学,経済学の各部門はスウェーデンのストックホルムで,平和賞はノルウェーのオスロで行なわれる。通常は受賞者本人が出席して賞を受けることになっている。
|first=Frederic
 
|last=Golden
 
|title=The Worst And The Brightest
 
|date=16 October 2000
 
|publisher=Time Warner
 
|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,998209,00.html
 
|work=[[Time (magazine)|Time]]
 
|accessdate=9 April 2010
 
}}</ref><ref group="注">ノーベルは本来は土木工事の安全性向上を目的としてダイナマイトを発明したのであり、それが戦争に用いられたのはその意志に反していたという風聞があるが、実際にはノーベルにとってダイナマイトが戦争目的で使われることは想定内であった。むしろノーベルは、ダイナマイトのような破壊力の大きい兵器が使われること自体が戦争抑止力となることを期待した。死の商人として糾弾されたことは、ノーベルにとってダイナマイトが戦争抑止力として機能しなかったことに対しての衝撃であった(『当った予言、外れた予言』ジョン・マローン著 [[文春文庫]] ISBN 4167308967)。</ref>。1896年12月10日に63歳でノーベルは死去する{{Sfn|Sohlman|1983|p=13}}が、遺言は死の1年以上前の1895年11月27日に[[パリ]]の[[スウェーデン人]]・[[ノルウェー人]]クラブにおいて署名されていた{{Sfn|Sohlman|1983|p=7}}<ref>{{Cite news
 
|last=von Euler
 
|first=U. S.
 
|title=The Nobel Foundation and its Role for Modern Day Science
 
|url=http://resources.metapress.com/pdf-preview.axd?code=xu7j67w616m06488&size=largest
 
|format=PDF
 
|publisher=[[Springer Science+Business Media|Springer-Verlag]]
 
|work=Die Naturwissenschaften
 
|date=6 June 1981
 
|accessdate=21 January 2010
 
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110714080803/http://resources.metapress.com/pdf-preview.axd?code=xu7j67w616m06488&size=largest
 
|archivedate=2011年7月14日
 
|deadurldate=2017年9月
 
}}</ref>。
 
  
この遺言においてノーベルは、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」と残している。彼がこの遺言のために残した金額は彼の総資産の94%、3100万[[スウェーデン・クローナ]]に及んだ{{Sfn|Abrams|2001|p=7}}。周辺の人々はこの遺言に疑いを持ったため、1897年4月26日までこの遺言はノルウェー国会において承認されなかった{{Sfn|Levinovitz|2001|pp=13-25}}。その後、彼の遺志を継ぐためにラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストが[[ノーベル財団]]設立委員会を結成し、賞設立の準備を行った{{Sfn|Abrams|2001|pp=7-8}}。賞の名前はノーベルを記念してノーベル賞とされた。1897年4月には平和賞を授与するためのノルウェー・ノーベル委員会が設立され、6月7日にはカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、6月9日にはスウェーデン・アカデミーが、6月11日にはスウェーデン王立科学アカデミーが授与機関に選定されて{{Sfn|Crawford|1984|p=1}}選考体制は整った。賞の授与体制が整うと、1900年にノーベル財団の設立法令が[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン国王]][[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]](1905年まで兼[[ノルウェー君主一覧|ノルウェー国王]])によって公布された。1905年にノルウェーとスウェーデンは[[同君連合]]を解消したが、両国分離後も授与機関は変更されなかった{{Sfn|Levinovitz|2001|pp=13-25}}。
+
授賞の原則はノーベルの遺言書に基づいているが,1900年にその解釈と適用に関する補助規則が,遺言執行人,授与機関の代表者およびノーベル家との間で協議・決定され,さらにスウェーデン国王の承認を受けた。この規則はほとんど変更されずに今日にいたっているが,実際の適用にあたってわずかながら修正された点もある。たとえば,「過去 1年間」の業績という授与規定については,長年の業績が考慮されるようになってきたほか,文学賞の条件にある「理想主義的傾向」という曖昧な表現は,当初は非常に狭い意味で解釈されていたが,しだいに弾力的に広く受け取られるようになった。経済学賞の選考基準はかつては科学的な傾向が強く,第1回の受賞者,ノルウェーの[[ラグナル・A.K.フリッシュ]]とオランダの[[ヤン・ティンベルヘン]]は,経済活動の分析に数学的モデルを適用し,計量経済学の発展に寄与した業績で受賞した。ノーベル賞は物理学,化学,生理学・医学などの科学的分野では議論は少ないが,文学や平和部門については,賞の性質上さまざまな論議を呼んできた。特に平和賞は,受賞者が決定しないことがたびたびあった。
 
+
   
ノーベル賞はその歴史と伝統などから権威が高く、不可能に近いことや極めて困難なことの例えに比喩的にノーベル賞が使われることがある(それが出来たらノーベル賞を取れるなど)
 
 
 
==部門==
 
以下の部門から構成される。
 
*[[ノーベル物理学賞]]
 
*[[ノーベル化学賞]]
 
*[[ノーベル生理学・医学賞]]
 
*[[ノーベル文学賞]]
 
*[[ノーベル平和賞]]
 
*[[ノーベル経済学賞|経済学賞]](正式にはアルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞)
 
特に自然科学部門のノーベル物理学賞、化学賞、生理学・医学賞の3部門における受賞は科学分野における世界最高の栄誉であると考えられている。近年は生理学・医学賞と化学賞、物理学賞との境界が曖昧な分野が増えてきている。
 
 
 
経済学賞について、ノーベル財団は同賞をノーベル賞とは認めておらず、この賞を正式名称または「ノーベル」を冠しない「経済学賞」と呼ぶ。
 
 
 
複数人による共同研究や、共同ではないが複数人による業績が受賞理由になる場合は、一度に3人まで同時受賞することができる{{Sfn|ウルフ|2002|pp=29-30}}。ただし、同時受賞者の立場は対等とは限らず、受賞者の貢献度 ('''Prize share''') に応じて賞金が分割される。なお、性質上「複数人による業績」が考えづらい文学賞は例外で、定数は一度に1人と定められている。また、基本的に個人にのみ与えられる賞であるが、平和賞のみ団体の受賞が認められており{{Sfn|ウルフ|2002|pp=29-30}}、過去に[[国境なき医師団]]やICAN([[核兵器廃絶国際キャンペーン]])などが受賞している。
 
 
 
==選考==
 
[[ファイル:Svenskaakademien.JPG|thumb|[[ノーベル文学賞]]の決定機関であるスウェーデン・アカデミー(2005.08)]]
 
選考は「物理学賞」、「化学賞」、「経済学賞」の3部門についてはスウェーデン王立科学アカデミーが、「生理学・医学賞」はカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、「平和賞」はノルウェー・ノーベル委員会<ref>[http://www.norway.or.jp/about/foreign-policy/organizations/prize/ ノーベル平和賞 (Norway - the official site in Japan)]</ref>が、「文学賞」はスウェーデン・アカデミーがそれぞれ行う。
 
 
 
ノーベル賞の選考は秘密裏に行われ、その過程は受賞の50年後に公表される。よって「ノーベル賞の候補」というものは公的には存在しないことになるが、「いつか受賞するだろう」と目される人物が各分野に存在するのも事実である。[[トムソン・ロイター]]は旧[[トムソン (情報サービス業)|トムソン]]時代から毎年独自にノーベル賞候補を選定発表している([[トムソン・ロイター引用栄誉賞]])が、これは近年の論文の引用数などから算出したものである。ただしノーベル賞はアカデミズムにおいて業績の評価がある程度定着してから決定されることが多いので、必ずしもこの基準で賞が決まるわけではない。最終選考は発表日当日に行われることが慣例になっており、マスコミの事前予測が難しい所以である。
 
 
 
==資格==
 
1973年までは、受賞者の候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われることもあった。例としては、1931年の文学賞を受賞した[[エリク・アクセル・カールフェルト]]、1961年の平和賞を受賞した[[ダグ・ハマーショルド]]が授賞決定発表時に故人であった。
 
 
 
1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存していることが授賞の条件とされている。2011年には、医学生理学賞に選ばれた[[ラルフ・スタインマン]]が授賞決定発表の3日前に死去していたことが後に判明し、問題となった<ref>{{Cite news
 
|url=http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20111003-OYT1T01344.htm
 
|title=ノーベル賞受賞のスタインマン氏、死去していた
 
|newspaper=YOMIURI ONLINE
 
|publisher=[[読売新聞社]]
 
|date=2011-10-03
 
|accessdate=2011-10-03
 
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111005025751/http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20111003-OYT1T01344.htm
 
|archivedate=2011年10月5日
 
|deadurldate=2017年9月
 
}}</ref>。ただし、授賞決定発表の後に本人が死去した場合には、その授賞が取り消されることはない。スタインマンの場合はこの規定に準ずる扱いを受けることになり、特別に故人でありながらも正式な受賞者として認定されることが決まった。
 
 
 
==授賞式==
 
[[File:Nobelprize Award Ceremony 2010.jpg|thumb|ストックホルム・コンサートホールでの授賞式(2010年)]]
 
授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、「平和賞」を除く5部門は[[ストックホルム]](スウェーデン)の[[ストックホルム・コンサートホール|コンサートホール]]、「平和賞」は[[オスロ]](ノルウェー)の[[オスロ市庁舎|市庁舎]]で行われ(古くは[[オスロ大学]]の講堂で行われた)、受賞者には、賞金の[[小切手]]、[[賞状]]、[[メダル]]がそれぞれ贈られる<ref>{{cite news
 
|title=DNA構造発見のノーベル賞メダルが競売に、米NYで4月
 
|author=AFP
 
|newspaper=AFPBB News
 
|date=2013-02-26
 
|url=http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2931095/10352120
 
|accessdate=2013-06-15
 
}}</ref><ref>{{Cite web
 
|date=2013-01-15
 
|url=http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/about/
 
|title=About the Nobel Prizes
 
|publisher=Nobelprize.org
 
|accessdate=2013-06-15
 
}}</ref>。
 
 
 
===晩餐会・舞踏会===
 
授賞式終了後、平和賞以外は[[ストックホルム市庁舎]](1930年までは[[グランドホテル (ストックホルム)|ストックホルムのグランドホテル]]の舞踏室)にて、[[スウェーデン王室]]および約1,300人のゲストが参加する晩餐会が行われる。王室の方々、受賞者などが階段を上がり、2階の別室へと退場された後、晩餐会はお開きとなり、そのまま2階のゴールデンホールという大きな部屋で舞踏会が始まる<ref>[http://www.titech.ac.jp/news/2016/036924.html 東工大ニュース]</ref>。平和賞の晩餐会はオスロのグランドホテルで行われ、こちらにはノルウェーの国会、首相および2006年以降はノルウェーの国王夫妻を含めた約250人が招かれる。1979年の平和賞の晩餐会は受賞者の[[マザー・テレサ]]が「貧しい人にお金を使ってください」として出席を辞退、開催を中止させて、晩餐会に使うはずだった7000[[USドル]]の費用は[[インド]]の[[コルカタ]](旧名:カルカッタ)の2000人の[[ホームレス]]への[[クリスマス]]の夕食に使われた。これは現時点で唯一の晩餐会が中止になった例である。
 
 
 
1991年にノーベル賞90周年事業の一環として、晩餐会に使う食器類をすべてスウェーデン製に置き換えようとしたが、[[カトラリー]]だけはその複雑なデザイン故に仕上げ[[研磨]]ができる技術が国内に無く、カトラリーのデザインを担当した[[ゴナ・セリン]]が懇意にしていた[[新潟県]][[燕市]]の[[山崎金属工業]]に依頼した<ref>[http://www.yamacoltd.jp/nobel.html ノーベル賞との関わり - 山崎金属工業株式会社]</ref>。食器類など授賞式に使う調度品は、普段は厳重に鍵のかかった倉庫に保管されており、ノーベル賞の晩餐会にのみ使用される。晩餐会で使用されるカトラリーセットは「ノーベルデザインカトラリー」として一般向けにも販売されている。
 
 
 
===その他のイベント===
 
受賞者は受賞後にノーベル・レクチャーと呼ばれる記念講演を行うのが通例になっている。その後、受賞者は[[ストックホルム大学]]やストックホルム経済大学などの大学の学生有志団体が毎年持ち回りで行うパーティーに出席し、そこで大学生らと希望する受賞者はさらなる躍進を願って一斉に「[[蛙跳び]]」をするのが慣例となっている。
 
 
 
==授与==
 
受賞者へは賞状とメダルと賞金が与えられる。受賞者に与えられる賞金は、ノーベルの遺言に基づき、彼の遺産をノーベル財団が運用して得た利益を原資としている。ただし「経済学賞」は1968年に創設され1969年から授与されたが、その原資はスウェーデン国立銀行の基金による。そのため、この賞は正式名称を「アルフレッド・ノーベルを記念した経済学におけるスウェーデン国立銀行賞」としており、厳密にはノーベル賞には含めない場合も多い。
 
 
 
ノーベル賞の賞金は、過去幾度も変動してきた。ノーベルは遺産を安全な[[有価証券]]にすることを指定しており、このため得られる利子額は長年にわたって低いものであり、賞金もそれに連動して設立当初より相対的に低い額にとどまっていた。こうした状況は1946年にノーベル財団が免税となったことと、1950年代に株式への投資が解禁されたことによって改善され、1990年代には設立当初の賞金レベルを回復した{{Sfn|ウルフ|2002|pp=29-30}}。2001年から現在まで賞金額は1,000万スウェーデン・クローナ(約1億円)である。しかしスウェーデンのノーベル財団は2012年6月11日の理事会で、過去10年間にわたって運用益が予想を下回ったことなどを理由として、2012年のノーベル賞受賞者に贈る賞金を2割少ない800万スウェーデン・クローナ(約8,900万円)とすることを決めた<ref>{{Cite news
 
  |url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120612-OYT1T00318.htm
 
|title=ノーベル賞の賞金、2割減らします…運用益低迷
 
|newspaper=YOMIURI ONLINE
 
|publisher=読売新聞社
 
|date=2012年6月12日
 
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120615234752/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120612-OYT1T00318.htm
 
|archivedate=2012年6月15日
 
|deadurldate=2017年9月
 
}}</ref>。賞金の配分については、受賞者が2人(団体)の場合は全賞金を折半する。受賞者が3人(団体)の場合は、「1人ずつが単独の研究による受賞」「3人の共同研究による受賞」であれば1/3ずつ分けられ、「1人が単独、2人が共同研究による受賞」であれば単独受賞の人物が1/2、共同受賞の2人が残りの1/2(1人あたり1/4)を得る形になる。
 
 
 
なお、日本においてはノーベル賞の賞金は[[所得税法]]第9条第1項第13号ホにあるように、[[所得税]]は非課税となっている。これは、1949年に[[湯川秀樹]]が日本人として初のノーベル賞を受賞した際に、賞金への課税について論争が起こったのを受けて改正されたものである<ref>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121012/wlf12101213030015-n1.htm 賞金に税金かかる?湯川博士受賞を機に非課税に 五輪メダリストの報奨金も]MSN産経ニュース、2014年10月8日閲覧。</ref>。
 
 
 
==メダル==
 
[[ファイル:1974 Nobel Peace Prize awarded to Eisaku Satō.jpg|thumb|250px|right|1974年のノーベル平和賞の金メダル]]
 
受賞時に渡される[[メダル]]は1902年から使用され、ノーベル財団によって商標登録されている。1901年の第1回受賞時にはメダルが間に合わなかったため、第2回からの授与となっている。
 
 
 
メダルには表面にアルフレッド・ノーベルの肖像(横顔)と生没年が記されている。表面のデザインは物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞では同じであるが、平和賞と経済学賞では若干異なる。裏面のデザインは賞によって異なるが、物理学賞と化学賞では共通のデザインで、自然の女神のベールを科学の女神がそっと外して横顔を覗いているデザインとなっている。1980年以前のメダルは24Kの純金であったが、落としただけで曲がってしまったり、傷がつきやすいということもあって、現在では18Kを基材として、24Kでメッキした金メダルが使用されている。重量は約200g、直径約6.6cm。
 
 
 
メダルの[[レプリカ]]は、受賞者本人が上限を3個として作成してもらうことが許可されている。
 
 
 
2010年までは、スウェーデン政府の機関が制作していたが、予算削減のため2011年からノルウェーの企業に委託されることになった。しかし国内での製造を望む国民の要望が多かったため、2012年からスウェーデンの民間企業で製造されることが決定した。
 
 
 
[[ガムラスタン]]にあるノーベル博物館には、ノーベル賞のメダルを模した「メダルチョコ」が売られており、観光客だけではなく授賞式に訪れた受賞者本人も土産として購入するという。[[益川敏英]]はこの[[チョコレート]]を600個も買い込んで話題となった<ref>[http://www.asahi.com/special/08015/TKY200812090064.html 益川教授「土産はこれだ」 メダルチョコ600個も購入] - [[朝日新聞|asahi.com]] 2008年12月9日</ref>。
 
 
 
==科学史としてのノーベル賞==
 
前述のようにノーベル賞の自然科学分野における受賞者は欧米の研究者を中心としており、1920年代に日本人の[[山極勝三郎]]がノミネートされた際には、選考委員会で「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」との発言があったことも明らかになっている<ref group="注">朝日新聞社編 『100人の20世紀(上)』 朝日文庫 p237-「山極勝三郎」。ただし、科学ジャーナリストの[[馬場錬成]]はその著書『ノーベル賞の100年』(中公新書)の中で、3回にわたるノーベル財団への取材経験から、ノーベル賞選考における日本人差別は「100パーセントないだろう。」と指摘している。また、2004年に(山極が候補となった)1926年の医学生理学賞の選考書類を再調査した文献でもそのような指摘はない(山極の項目を参照)。</ref>。また、元[[国連大使]]の[[国連大使#日本の国連大使|松平康東]]は、1930年代に[[呉建]]がノミネートされた際には[[日本]]が[[枢軸国]]であったことで受賞に至らなかったとしている<ref>[[冲中重雄]]「[http://okiken.tokyo/history/book1/index04.php 4. 呉先生のシゴキ ― 国際神経学会へ随行]」『[[私の履歴書]] 第44集』日本経済新聞社、1971</ref>。欧米以外の国で研究活動を行った非欧米人では、1930年にインド人の[[チャンドラセカール・ラマン]]が物理学賞を受賞したのが最初である。日本人である[[湯川秀樹]](1949年受賞)、[[朝永振一郎]](1965年受賞)らがやはり物理学賞で受賞している。
 
 
 
==受賞条件と辞退==
 
ノーベル賞は受賞者が[[自然人]]の場合、「本人が生存中」が受賞条件だが、かつてはノミネート時点で生存していれば受賞決定時に死亡していてもよいこととされており、そのケースに当てはまる受賞者には、1931年文学賞のエリク・アクセル・カールフェルトと、1961年平和賞のダグ・ハマーショルドがいる。1973年から、10月の各賞受賞者発表時点で生存している必要があるが、その後死亡しても取り消されないことになり、その規定により1996年経済学賞の[[ウィリアム・ヴィックリー]]は授賞式前に亡くなっても受賞が取り消されなかった。2011年生理学・医学賞のラルフ・スタインマンは受賞者発表の直後に当人がほんの3日前に死亡していたことが判明したが、これには受賞決定後に本人が死去した場合と同様の扱いをし、変更なく賞が贈られることになった。
 
 
 
これまでにノーベル賞の受賞を辞退したのは、[[ジャン=ポール・サルトル]](1964年文学賞辞退)、[[レ・ドゥク・ト]](1973年平和賞辞退)、[[ゲルハルト・ドーマク]](1939年生理学・医学賞辞退)、[[ボリス・パステルナーク]](1958年文学賞辞退)の4人であるが、ドーマクはナチス、パステルナークはソ連政府の圧力で強制的に辞退させられたものであり、ドーマクは戦後の1947年、パステルナークは没後に遺族が賞を受け取ったとされているため、最終的に受け取らなかったのは前者2名である。
 
 
 
==評価と論争==<!--
 
{{要出典|範囲=ノーベル数学賞有無については、ノーベルは数学も好み、友人の数学者についても好意的だったのだが、ノーベルの死後そのことについては有耶無耶になったためと言われている|date=2013年10月}}-->
 
 
 
ノーベルの遺言により、平和賞の選定はスウェーデンの機関ではなくノルウェー国会に委任されている。理由は諸説ありはっきりしないが、当時のスウェーデンとノルウェーは同君連合を組んでいたこと、そして当時のノルウェーには自主的外交権がなかったために平和賞の選考には常に中立性が期待できたことなどが理由と考えられている<ref>[http://www.norway.or.jp/about/foreign-policy/organizations/prize/ ノーベル平和賞(Norway - The official site in Japan)]</ref>。
 
 
 
1929年の生理学・医学賞は[[チアミン|ビタミンB<sub>1</sub>]]の発見により[[オランダ]]の[[クリスティアーン・エイクマン]]に贈られているが、エイクマンは米ぬかの中に脚気の治癒に効果のある栄養素([[ビタミン]])が存在することを示唆したにすぎず、実際にその栄養素をオリザニンとして分離・抽出したのは日本の[[鈴木梅太郎]]である。
 
 
 
1926年の生理学・医学賞は[[寄生虫]]によるガン発生を唱えた[[デンマーク]]の[[ヨハネス・フィビゲル]]に贈られ、同時期に刺激説を唱えていた山極勝三郎が受賞を逃している。後年フィビゲルの説は限定的なものであるとして覆されている。
 
 
 
[[ポルトガル]]の[[エガス・モニス]]は[[精神外科#ロボトミー|ロボトミー手術]]を確立したことで1949年の生理学・医学賞を受賞しているが、ロボトミーは効果が限定的であるにも関わらず副作用や事故が多く、またその後[[向精神薬]]が発達したこともあり、現在では臨床で使われることはない。モニス自身も実験的な手術を行っただけで、臨床に導入してはいなかった。
 
 
 
文学賞は、過去には歴史書や哲学書の著者にも贈られたことがあったが、1953年に[[イギリス]]首相の[[ウィンストン・チャーチル]]が自著『第二次世界大戦回顧録』を理由に文学賞を受賞したことで選考対象の定義をめぐる論争が起った。結局これ以降、2016年にアメリカのシンガーソングライター・ミュージシャンの[[ボブ・ディラン]]が受賞するまで純文学の著者による受賞が続くことになる。
 
 
 
戦争を起こした当事者が平和賞を受賞したこともある。[[キャンプ・デービッド合意]]により[[エジプト]]と[[イスラエル]]の間に和平をもたらしたことが評価されて1978年の平和賞はエジプトの[[アンワル・アッ=サーダート|アンワル・サダト]]大統領とイスラエル首相の[[メナヘム・ベギン]]首相に贈られたが、そもそもその仲介役としてアメリカの重い腰を上げさせるために[[第四次中東戦争]]を企画し、イスラエルへの奇襲作戦を主導したのはそのサダト自身だった。結果的にサダトの狙いは的中したが、これは外交手段の一環として引き起こした戦争を恒久的平和にまで持ち込むことに成功した稀な例となった。一方、サダトとベギン両首脳に実に12日間にもわたって[[ワシントンD.C.]]郊外の大統領保養地[[キャンプ・デービッド]]を自由に使わせ、難航する和平会談の成功に奔走したアメリカの[[ジミー・カーター]]大統領が、この両首脳とともに平和賞を受賞しなかったことに対しては疑問を唱える声が各方面から上がった。そのカーターには2002年になって「数十年間にわたり国際紛争の平和的解決への努力を続けた」ことなどを理由に遅ればせながらの平和賞が贈られている。
 
 
 
平和賞は圧政下における反体制派のリーダーに贈られることがあることから、受賞者の国の政府から反発を受けることがよくある。その例として、[[ナチス・ドイツ]]の再軍備を批判した[[カール・フォン・オシエツキー]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]の際限ない核武装を批判した[[アンドレイ・サハロフ]]、[[ガンデンポタン|中国に軍事占領されたチベットの亡命政権]]を代表する[[ダライ・ラマ14世]]、[[ポーランド民主化運動]]を主導した「[[独立自主管理労働組合「連帯」|連帯]]」の[[レフ・ヴァウェンサ|レフ・ワレサ]]、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の[[アパルトヘイト|人種隔離政策]]を批判した[[デズモンド・ムピロ・ツツ|デズモンド・ツツ]]主教、[[ミャンマー|ミャンマー軍事政権]]の圧政と[[ビルマ]]民主化を訴えた[[アウンサンスーチー]]、[[中華人民共和国|中国]]の[[人権侵害]]を批判し[[民主主義|民主化]]を訴えた[[劉暁波]]などが挙げられる。
 
 
 
1958年にノーベル文学賞を受賞したボリス・パステルナークは、ソ連政府の圧力により授賞辞退を余儀なくされた。それでもノーベル委員会は彼に一方的に賞を贈っている。
 
 
 
[[ジョージ・バーナード・ショー|バーナード・ショー]]は、ノーベル賞について「殺生と破壊の手段であるダイナマイトを発明して金を儲けたノーベルの罪も大きいが、世界の人材を序列化するノーベル賞を作ったのは最もゆるせない罪」と批判した<ref>{{cite news |title=[寄稿]英語熱が広がる中での韓国文学|newspaper=[[ハンギョレ]] |date=2016-5-27 |url=http://japan.hani.co.kr/arti/culture/24252.html |accessdate=2016-12-3 }}</ref>。
 
 
 
==3通の遺言==
 
ノーベルの遺言は3通ある<ref>ケンネ・ファント 服部まこと訳 『アルフレッド・ノーベル伝』 新評論 1996年 68章</ref>。書かれた年次は、順に1889年、1893年、1895年である。1889年の初めて書かれた遺言は破棄されている。
 
 
 
1893年に書かれた2通目は、最も形式が整ったものである。具体的な金額が盛り込まれておらず、遺産分配の割合が記されていた。親類・仕事仲間・友人らへ20%を与え、協会や研究所などに16%を寄付し、残りの64%を基金の設立のためにストックホルムの科学アカデミーに移譲するという内容であった。
 
*16%枠に[[オーストリア平和協会]]が入っていて、「平和運動推進のため」使うよう明記されていた。[[ベルタ・フォン・ズットナー]]に宛てた言葉と考えられている。
 
*64%枠について、(生理学と医学を除く分野で)業績を残した者に利子を与えること、そして、受賞要件とはしないが、欧州平和裁判所の設立に関して、政府や国家の偏見と、著作や行動で果敢に戦う者は、候補として推挙すること、なお、選考で国籍や性別を問わないことが記されている。
 
1895年に書かれた3通目は、ノーベルが翌年夏、ストックホルム・エンシルダ銀行に保管した。2通目以前を無効とする旨が明記されているが、2通目との違いは大きく分けて2点ある。1つは個人相続分が具体的な金額で示され、結果として2通目と比べた総額は実質的に1/3程度に縮小された点である。内訳は次の通り。なお、兄ロベルトの子供たち4人その他には生前にそれぞれ2万クローナが振り込まれた。
 
*甥ヤルマル 20万クローナ
 
*甥ルードヴィ 20万クローナ
 
*甥エマヌエル 30万クローナ
 
*ゾフィー・ヘス 年金として26000フローリン
 
*オルガ・ボットゲァー嬢(ゾフィーの妹) 10万クローナ
 
*アラリック・リードベック 10万クローナ
 
*エリーセ・アンツン嬢 年金として2500フラン
 
*アルフレッド・ハモンド 1万ドル
 
*エミー・ウィンケルマン嬢 15万マルク
 
*マリエ・ウィンケルマン嬢 15万マルク
 
*家政婦のゴーシャー婦人 10万フラン
 
*召使アウグスト・オスワルド 年金として1000フラン
 
*アウグストの妻アルフォンセ・オスワルド 1000フラン
 
*元庭師ジャン・レコツ 年金として300フラン
 
*郵便局員デッソル夫人 年金として300フラン
 
*ジョルジュ・ファーレンバック 1899年1月まで毎年5000フラン
 
2通目との相違における第2点は、文学賞、医学賞、平和賞の選考主体を新たに指定した点である。これらの選考がスウェーデン王立科学アカデミーには難しいとノーベルが考えていたことが推測されている。
 
 
 
なお、3通目の終わりで指名された遺言執行人は、ラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストの2人である。
 
 
 
==候補者の予想==
 
トムソン・ロイターは、同社が運営する代表的な[[サイテーションインデックス]](学術文献引用データベース)の[[Web of Science]]の情報に基づいて、ノーベル賞の有力候補者の予想としてトムソン・ロイター引用栄誉賞を発表している。2011年のノーベル賞においては、自然科学系の3賞と経済学賞の受賞者9人全員が、過去にトムソン・ロイター引用栄誉賞で候補に挙げられていた<ref>[http://science.thomsonreuters.jp/press/release/2011/Nobel-Success/ トムソン・ロイターのノーベル賞予測:今年のノーベル賞受賞者9名すべてを過去に予測、2011年10月]</ref>。
 
 
 
==賞に関する記録==
 
*ノーベル賞を2度受賞した人・団体
 
**[[マリ・キュリー]](1903年に物理学賞、1911年に化学賞)
 
**[[ジョン・バーディーン]](1956年と1972年に物理学賞)
 
**[[フレデリック・サンガー]](1958年と1980年に化学賞)
 
**[[ライナス・ポーリング]](1954年に化学賞、1962年に平和賞)
 
**[[国際連合難民高等弁務官事務所]](1954年と1981年)
 
*ノーベル平和賞を3度受賞した団体
 
**[[赤十字国際委員会]](1917年と1944年、および1963年)
 
*夫婦でノーベル賞を受賞した組
 
**[[ピエール・キュリー]]とマリ・キュリー
 
**[[フレデリック・ジョリオ=キュリー]]と[[イレーヌ・ジョリオ=キュリー]]
 
**[[カール・コリ]]と[[ゲルティー・コリ]]
 
**[[グンナー・ミュルダール]]と[[アルバ・ライマル・ミュルダール]]
 
**[[マイブリット・モーセル]]と[[エドバルド・モーセル]]
 
*親子でノーベル賞を受賞した組
 
**ピエール・キュリー、マリ・キュリーとイレーヌ・ジョリオ=キュリーの親子
 
**[[ジョゼフ・ジョン・トムソン]]と[[ジョージ・パジェット・トムソン]]の父子
 
**[[ヘンリー・ブラッグ]]と[[ローレンス・ブラッグ]]の父子
 
**[[ニールス・ボーア]]と[[オーゲ・ニールス・ボーア]]の父子
 
**[[マンネ・シーグバーン]]と[[カイ・シーグバーン]]の父子
 
**[[アーサー・コーンバーグ]]と[[ロジャー・コーンバーグ]]の父子
 
**[[ハンス・フォン・オイラー=ケルピン]]と[[ウルフ・スファンテ・フォン・オイラー]]の父子
 
*兄弟でのノーベル賞を受賞した組
 
**[[ヤン・ティンバーゲン]]と[[ニコ・ティンバーゲン]]の兄弟
 
*叔父-甥の関係でノーベル賞受賞
 
**チャンドラセカール・ラマンと[[スブラマニアン・チャンドラセカール]]
 
*夫婦で共同受賞した組
 
**ピエール・キュリーとマリ・キュリー(1903年物理学賞)
 
**フレデリック・ジョリオ=キュリーとイレーヌ・ジョリオ=キュリー(1935年化学賞)
 
**カール・コリとゲルティー・コリ(1947年生理学・医学賞)
 
**マイブリット・モーセルとエドバルド・モーセル(2014年生理学・医学賞)
 
*親子で共同受賞した組
 
**ヘンリー・ブラッグとローレンス・ブラッグ(1915年物理学賞)
 
*最年少ノーベル賞受賞者
 
**[[マララ・ユスフザイ]](2014年に17歳で平和賞受賞)
 
**ローレンス・ブラッグ(1915年に25歳で物理学賞受賞)
 
**[[フレデリック・バンティング]](1923年に32歳で生理学・医学賞受賞)
 
**フレデリック・ジョリオ=キュリー(1935年に35歳で化学賞受賞)
 
**[[ラドヤード・キップリング]](1907年に42歳で文学賞受賞)
 
**[[ケネス・アロー]](1972年に51歳で経済学賞受賞)
 
*最年長ノーベル賞受賞者
 
**[[レオニード・ハーヴィッツ]](2007年に90歳で経済学賞受賞)
 
**[[レイモンド・デービス]](2002年に88歳で物理学賞受賞)
 
**[[ドリス・レッシング]](2007年に88歳で文学賞受賞)
 
**[[ペイトン・ラウス]](1966年に87歳で生理・医学賞受賞)
 
**[[カール・フォン・フリッシュ]](1973年に87歳で生理学・医学賞受賞)
 
**[[ジョセフ・ロートブラット]](1995年に87歳で平和賞受賞)
 
**[[ジョン・フェン]](2002年に85歳で化学賞受賞)
 
*(受賞の決め手となる功績から)最短記録
 
**[[バラク・オバマ]] - 2009年4月に[[プラハ]]で行った「核のない世界」への包括的構想の発表から約半年後の2009年に受賞<ref group="注">自然科学分野では、[[ヨハネス・ベドノルツ]]と[[カール・アレクサンダー・ミュラー]]が、酸化物高温超伝導体の発見の論文発表から約1年後の1987年に受賞したのが最短記録。</ref>
 
*(受賞の決め手となる功績から)最長記録
 
**ペイトン・ラウス - 発がん性ウイルスの発見の約55年後の1966年に受賞
 
**[[エルンスト・ルスカ]] - 電子顕微鏡の開発の約55年後の1986年に受賞
 
*ノーベル賞と[[オリンピック]]のメダルを両方受賞した人
 
**[[フィリップ・ノエル=ベーカー]](1920年[[アントワープオリンピック]]の[[陸上競技]]1500m走で銀メダル受賞、1959年平和賞受賞)
 
*ノーベル賞と[[イグノーベル賞]]を両方受賞した人
 
**[[アンドレ・ガイム]](2000年イグノーベル物理学賞受賞、2010年ノーベル物理学賞受賞)
 
 
 
==ノーベル数学賞==
 
{{単一の出典|date=2016年5月|section=1}}
 
ノーベル賞に数学部門が存在しない理由として、スウェーデンの著名な数学者[[ヨースタ・ミッタク=レフラー]]がノーベルの妻を奪ったことを根に持ったためだとする俗説があるが<ref name="fie">[https://www.fields.utoronto.ca/aboutus/jcfields/fieldsnobel.html Fields Institute "Mittag-Leffler and Nobel"]</ref>、そもそもノーベルは生涯独身であった。
 
 
 
しかし、数学賞がない原因がミッタク=レフラーとの確執にあるという噂は、文献による証拠がないものの事実かもしれない<ref name="fie" />。
 
 
 
実際、1890年にミッタク=レフラーが[[ソーニャ・コワレフスカヤ]]への資金的援助をノーベルに頼んだとき、ノーベルはこれを断っている<ref name="fie" />。またノーベルの1883年の遺書には自身の遺産の一部をミッタク=レフラーのいたStockholms Högskola(後のストックホルム大学)にも渡すように書いていたが、1896年に最終版の遺書を書いたときにはこの記述を削除した<ref name="fie" />。Högskolaの学長を勤めた[[オットー・ペテルソン]]と[[スヴァンテ・アレニウス]]の推測によれば、ノーベルの遺書からこの記述が削除されたのは、ノーベルがミッタク=レフラーを嫌っていたためである<ref name="fie" />。
 
 
 
当時の人々によるミッタク=レフラーの性格に関する評価は肯定的なものではない<ref name="fie" />。
 
 
 
数学者の[[ジョン・チャールズ・フィールズ|フィールズ]]も二人の確執はありそうな話だとしている<ref name="fie" />が、フィールズ自身はミッタク=レフラーと親しく、この事が[[フィールズ賞]]の設立に繋がったのではないかとする意見もある<ref name="fie" />。
 
 
 
このような経緯があったにも関わらず、ミッタク=レフラーはマリ・キュリーのノーベル物理学賞受賞に貢献している。女性への偏見が強かったフランス科学アカデミーは彼女のノーベル賞への推薦を意図的に削除したのだが、ミッタク=レフラーが彼女を強く推したため、彼女はノーベル賞を受賞する運びとなったのである。詳細はマリ・キュリーの項目を参照。
 
 
 
==脚注==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
 
 
===注釈===
 
{{Reflist|group="注"}}
 
 
 
===出典===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
==参考文献==
 
*{{Cite book|last=Abrams |first=Irwin |title=The Nobel Peace Prize and the Laureates |url=https://books.google.com/?id=ny77bPwKxaUC&printsec=frontcover |year=2001 |publisher=Watson Publishing International |isbn=0-88135-388-4 |ref=harv }}
 
*{{Cite book|last=Crawford |first=Elizabeth T |title=The Beginnings of the Nobel Institution – The Science Prizes, 1901–1915 |url=https://books.google.com/?id=EGfhs_tvjVYC |year=1984 |publisher=Maison des Sciences de l'Homme & [[ケンブリッジ大学出版局|Cambridge University Press]] |edition=First |isbn=0-521-26584-3 |ref=harv }}
 
*{{Cite book|last=Levinovitz |first=Agneta Wallin |title=The Nobel Prize:The First 100 Years |url=https://books.google.com/?id=QMSg5mRJiukC&printsec=frontcover |editor=Nils Ringertz |year=2001 |publisher=Imperial College Press and World Scientific Publishing |isbn=981-02-4664-1 |ref=harv }}
 
*{{Cite book|last=Sohlman |first=Ragnar |title=The Legacy of Alfred Nobel – The Story Behind the Nobel Prizes |year=1983 |publisher=The Nobel Foundation |authorlink=:en:Ragnar Sohlman |ref=harv }}
 
*{{Cite book|和書|title=ノーベル賞の百年 創造性の素顔 |author=ウルフ・ラーショーン編 |editor=津金・レイニウス・豊子訳 |publisher=株式会社ユニバーサル・アカデミー・プレス |date=2002-03-19 |isbn=4946443681 |ref={{Sfnref|ウルフ|2002}} }}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Nobel Prize}}
 
{{wikinewscat}}
 
* [[ノーベル賞受賞者の一覧]]
 
* [[:en:Nobel laureates by university affiliation]] - 出身大学別の受賞者一覧
 
* [[ノーベル財団]]
 
* [[ストックホルム国際青年科学セミナー]]
 
* [[:en:Lindau Nobel Laureate Meetings]] - ドイツの[[リンダウ]]で毎年催されるノーベル賞受賞者による会議。
 
* [[ノーベル物理学賞への第一歩]] - ポーランド発祥で、世界中の高校生を対象とした教育シンポジウム。
 
* [[賞の一覧]]
 
* [[イグノーベル賞]] - ノーベル賞のパロディ版。
 
* [[京都賞]](先端技術部門、基礎科学部門、思想・芸術部門) - ノーベル賞を相補するような選出がなされている。稲盛財団主催。
 
* [[トムソン・ロイター引用栄誉賞]] - ノーベル賞受賞の可能性が高い人に[[トムソン・ロイター|トムソン・ロイター社]]が授与していた賞。
 
* [[ハッセルブラッド国際写真賞]] - 「[[写真]]界のノーベル賞」と言われている。
 
* [[フィールズ賞]] - 「[[数学]]のノーベル賞」と言われている。
 
* [[プリツカー賞]] - 「[[建築]]界のノーベル賞」と言われている。
 
* [[孔子平和賞]] - [[劉暁波]]への平和賞授与に反発した中国によって創設された賞。
 
* [[スターリン平和賞]] - ソビエト連邦がノーベル平和賞に対抗して創設した賞。後に[[レーニン平和賞]]と改められる。
 
* [[ドイツ芸術科学国家賞]] - [[カール・フォン・オシエツキー]]への平和賞授与に反発した[[ナチス・ドイツ]]によって創設された賞。
 
  
 
==外部リンク==
 
==外部リンク==
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2018/8/24/ (金) 08:03時点における最新版

ノーベル賞
the Nobel Prize
受賞対象 物理学への貢献
化学への貢献
生理学・医学への貢献
文学への貢献
平和への貢献
経済学への貢献)
主催 スウェーデン・アカデミー
スウェーデン王立科学アカデミー
カロリンスカ研究所(スウェーデン)
ノルウェー・ノーベル委員会
スウェーデンノルウェー
初回 1901年
公式サイト nobelprize.org
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ノーベル賞(ノーベルしょう)

ダイナマイトの発明によって富を得たアルフレッド・ベルンハルド・ノーベルが遺贈した基金から,毎年 4機関によって授与される賞。最初の授与は,ノーベルの 5回目の命日にあたる 1901年12月10日に行なわれた。ノーベルの遺言に従って,毎年,物理学,化学,生理学・医学,文学,および平和の 5分野において「過去 1年間に人類に対して最大の貢献をした者」に授与される。経済学賞は,1968年スウェーデン国立銀行によって設けられたもので,1969年から授賞されている。賞の授与機関は,ノーベルの遺志によって,物理学部門および化学部門はスウェーデン王立科学アカデミー,生理学・医学部門は王立カロリンスカ医学研究所,文学部門はスウェーデン・アカデミー(以上ストックホルム),平和賞はノルウェー国会ノーベル委員会(オスロ)と定められている。経済学部門については,スウェーデン王立科学アカデミーが賞の授与にあたる。ノーベルの遺言に基づいて設立されたノーベル財団が基金の法的な所有者で,運営管理者でもあるが,四つのノーベル賞授与機関を結びつける管理体としての役割を果たすだけで,賞の審査やその決定には関与せず,選考は授与機関によって行なわれる。受賞者には,金メダル,賞状および賞金が与えられる。賞金額は基金の収益に左右され,基金の前年度の利息の 67.5%が経済学部門を除く 5部門の賞金に割り当てられる。22.5%は選考の基金に,10%は基金に操り込まれる。経済学部門の受賞者にも同じものが与えられるが,スウェーデン国立銀行の献金を基金としている。

受賞者の選考は前年の秋,ノーベル財団定款に基づいて選ばれた人々への候補者推薦の依頼状発送に始まる。推薦の基準としては,専門分野で卓越している人を世界中から広く選び,自薦は認められない。推薦状は,毎年 1月31日までに各部門ごとに設けられたノーベル委員会に到着していなければならない。ノーベル委員会は,2月1日以後,寄せられた推薦状を参考に選考作業に入る。委員会は必要に応じて国籍を問わずに専門家を招くこともできる。ほとんどの場合,9月から10月初旬までに,委員会の推挙状がノーベル賞授与機関に提出され,最終決定は 11月15日までに終了する。委員会の推挙は絶対ではないが,ほぼ例外なく尊重され,審議や表決は一切公表されない。賞は個人に対して与えられ,国籍,人種,宗教,イデオロギーにかかわらず,すべての人に門戸を開いている。平和賞のみが組織や機関も対象となる。死後に業績が推薦されることはないが,たとえばダグ・ハマーショルド(1961平和賞)やエリク・アクセル・カルルフェルト(1931文学賞),ラルフ・スタインマン(2011生理学・医学賞)のように,生前にその業績が推薦されていた場合には,死後でも賞を与えることができる。賞の授与に対する異議は認められない。また,授与機関は国家から独立しており,政治上あるいは外交上の理由で,政府が賞の決定に影響を与えることはできない。賞は1人に全部与えられることも,二つの業績に対して等分されることも,2人もしくはそれ以上(ただし 3人をこえる例はない)の共同研究に一括して与えられることもある。1人が複数回受けることもできる。ノーベルの遺志にかなう候補者がいない場合や,第1次世界大戦,第2次世界大戦の最中のように世界情勢の悪化で選考作業に必要な情報収集が困難な場合には,賞は保留,もしくは授与されない。受賞者が指名されない,あるいは賞が授与されない場合,賞金は基金へ戻される。その場合,翌年には,繰り越された分とその年の分とを合わせ,一つの分野で 1年に二つの賞が授与されることがある。賞が辞退されたり,決められた期限までに受け取られない場合も,賞金は基金へ戻される。これまでにも賞が辞退されたり,受賞者の国の政府が受賞を辞退させた例がある。その場合でも,「受賞を辞退した」という注を付してノーベル賞受賞者リストに加えられる。辞退の理由はいろいろであるが,その多くは政府など外部の圧力である。たとえば 1937年アドルフ・ヒトラーは,ドイツの平和運動家で 1933年から政治犯収容所にあったカール・フォン・オシエツキーが 1935年に受けたノーベル平和賞はドイツを侮辱するものだったとして,その後ドイツ人のノーベル賞受賞を禁じた。辞退者は,たとえ何年後であろうと,事情を説明してあらためて受賞を希望すれば,金メダルと賞状を受け取ることができる。しかし,賞金はすでに基金へ戻されているので授与されない。授与式典は毎年12月10日のノーベルの命日に,物理学,化学,生理学・医学,文学,経済学の各部門はスウェーデンのストックホルムで,平和賞はノルウェーのオスロで行なわれる。通常は受賞者本人が出席して賞を受けることになっている。

授賞の原則はノーベルの遺言書に基づいているが,1900年にその解釈と適用に関する補助規則が,遺言執行人,授与機関の代表者およびノーベル家との間で協議・決定され,さらにスウェーデン国王の承認を受けた。この規則はほとんど変更されずに今日にいたっているが,実際の適用にあたってわずかながら修正された点もある。たとえば,「過去 1年間」の業績という授与規定については,長年の業績が考慮されるようになってきたほか,文学賞の条件にある「理想主義的傾向」という曖昧な表現は,当初は非常に狭い意味で解釈されていたが,しだいに弾力的に広く受け取られるようになった。経済学賞の選考基準はかつては科学的な傾向が強く,第1回の受賞者,ノルウェーのラグナル・A.K.フリッシュとオランダのヤン・ティンベルヘンは,経済活動の分析に数学的モデルを適用し,計量経済学の発展に寄与した業績で受賞した。ノーベル賞は物理学,化学,生理学・医学などの科学的分野では議論は少ないが,文学や平和部門については,賞の性質上さまざまな論議を呼んできた。特に平和賞は,受賞者が決定しないことがたびたびあった。


外部リンク




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