ダンプ松本

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ダンプ松本
Dump Matsumoto
ダンプ松本Dump Matsumotoの画像
プロフィール
リングネーム ダンプ松本
本名 松本 香
ニックネーム 極悪女王
身長 163cm
体重 91kg
誕生日 (1960-11-11) 1960年11月11日(63歳)
出身地 埼玉県熊谷市
所属 えりオフィス
デビュー 1980年
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ダンプ松本(ダンプまつもと、1960年11月11日 - )は、日本の女子プロレスラータレント女優。本名・松本 香(まつもと かおる)。

身長163cm、体重91kg、血液型B型。埼玉県熊谷市出身。えりオフィス所属。

「D・松本」と表記されることもある。

人物

大宮開成高校卒業。

幼いころから父親の金銭問題・DV・女性問題等で苦労していた最愛の母のために家を買って建ててあげたいという思いで、ビューティーペアに憧れて女子プロレスラーになることを志す。

1980年全日本女子プロレスで本名の松本香でプロデビュー。1984年にリングネームをダンプ松本と変更すると、クレーン・ユウと共にヒール軍団『極悪同盟』を結成。のちに加わり一番弟子となるブル中野らとヒールのタッグチームを組み、人気沸騰中だった正規軍「クラッシュギャルズ」(ライオネス飛鳥長与千種が当時結成していたコンビ名)との抗争を繰り広げ、女子プロレスを大いに盛り上げた。長与千種とは2度にわたり、敗者髪切りデスマッチを行った。フジテレビ系列で放送されていた『全日本女子プロレス中継』ではヒールにもかかわらず人気を博し、リングネームの「ダンプ」は、本名時代のファイトを観ていた観客が「あいつ、ダンプみてえだ!!」と口走ったことに由来している。全日本女子プロレスの松永高司会長は、このエピソードを引き合いに出して「スターはお客さんがつくってくれるんですよ」と語ったことがある[1]。ダンプは松永会長からは生前には大変に可愛がってもらったとインタビューなどで語っている。

得意技はラリアット。そのパワーを利して喉元にぶち当てる一撃は強烈で、相手が空中で一回転したこともあった。

悪役レスラー当時、ダンプのアンチが実家に押しかけ、「ダンプ出て来い!」と玄関を叩きながら大声で叫ぶ、玄関先にダンプを中傷する張り紙を貼る、窓ガラスを割られる、といった嫌がらせを受けたことが何度もあり、母親に怖い思いをさせてしまったために一時は悪役レスラーを辞めようかとも考えたが、その当時はまだ給料も少なくとても貧しかったので、つらい中でも必死で頑張ったという。努力の甲斐あって、デビューから5年後には、地元に念願だった新築一軒家を購入して母親にプレゼントしている。

母親は、リングでの凶行が演技だと知っていても、自分の娘が人様の娘をいたぶる姿に抵抗を感じており、試合会場へ観戦に訪れていた時には、毎回ケガをさせた対戦相手の元に謝罪に訪れていたといい、ダンプは母親に「試合中のケガの事で親が出てくるのは恥ずかしいから謝りに行かなくてもいいからね」とよく話していたという[2][3]

リング上でダンプがよく手にしていた凶器は当初は金属チェーンや鞭だったが、振り回した時に自分に当たりそれがとても痛かったことや、場外乱闘中にフジテレビ 「全日本女子プロレス中継」 の常連ゲストの一人だった松岡きっこに誤って当てて指を負傷させてしまってからは現在まで愛用の凶器となっている竹刀に変更した。ほかにもフォークやハサミ、一斗缶なども試合中には多用した。中継試合にゲストで招かれたタレントを威嚇して絡むのが定番だった。しかしゲストの一人だったガッツ石松がそれに対して本気で怒り、殴りかからんばかりに向かってきた時には内心怖くて逃げ出したかったが、テレビカメラの前だったので平静を装ったという。また、試合前の入場時や試合後に控え室に引き上げる際、テレビカメラマンを竹刀で頻繁に攻撃するのも定番であった(当時極悪同盟側についていたレフェリーの阿部四郎も、松本に便乗して同じ様にテレビカメラマンを蹴ったり物をぶつける等をして攻撃していた事もあった)。

凶器を多用した試合内容の反面、危険度の高い技の使用を控えている。流血した際は麻酔なしで縫合させられ、ダンプ自身が抜糸を行っていた[4]。プライベイトで仲が良く、飲み仲間でもあったプラム麻里子の試合中の死亡事故の際には、マスコミに対して「最近危険な技が増えてきていて、いつも危ないと思うことがある。いくら体は鍛えられても頭だけは鍛えることができない」と涙ながらにコメントした。

試合中の奇抜なメイクは、ダンプの素顔が童顔で笑うとえくぼが出てしまい、ヒールレスラーでありながら可愛く見えてしまうことを避けるためにハードロックバンドKISS」のフェイスメイクを参考にした。コスチューム代は自己負担だった[4]

ピーク時の1試合当たりのギャラは3万5千円で、月収は100万〜200万円であった。ヒールキャラが大衆受けしバラエティ番組に多く出演するようになると、月収500万円の時もあったという[4]

リング上ではヒールに徹するが、リングを降りれば涙もろく人情に篤い性格で後輩達の悩み事や相談などを親身になって聞いてアドバイスしたり、引率して飲食に連れて行く等と親分肌で面倒見がとてもよかったために極悪メンバー以外に多数のベビーフェイスの後輩から今でも慕われている。またレスラー以外にも広く人望があり、多くの芸能人などとも幅広い交際範囲を持っている。

ダンプの人柄を示すエピソードとして、1987年春にブル中野や小松美加コンドル斉藤北斗晶が年長の先輩からの理不尽ないじめやシゴキに対する不満を抑えきれず地方興行中に集団脱走して翌日全女の寮へ戻り、先輩たちに見つからないように隠れていたところをダンプに見つかってしまい、叱られると思い言葉を失っていたところ、ダンプは「おかえり。心配しなくても大丈夫だからね」と優しく声をかけ、みんなで思わず抱き合って泣いてしまったという逸話がある。ダンプ自身もデビュー前や新人時代には先輩・同期・フロントの各方面から理不尽なシゴキ・いじめに耐えていたことを明らかにしており、後輩には自分がされてきたような理不尽なシゴキ・いじめなどは絶対にしなかったという。

ただし、同じヒール軍団の一員であった新人時代のアジャ・コングはダンプに余り可愛がられず(アジャがプロレスデビュー前から熱狂的な長与千種ファンであったことは周囲に知られており、アジャ本人はベビーフェイス志望だった)、ヒール役に対してやる気がなかったアジャは、ダンプのセコンドに付いていた新人時代に試合中凶器を手渡す際にミスをし、殴られたりしたこともあった。2011年のり、インタビューにてアジャは「自分の中ではダンプさんとは合わなかった」と語った[5]。ブル中野もアジャとの対談で、アジャと距離を縮めたいためにダンプからわざとからかわれたり弄られていた事を証言しているが、その際アジャ自身は、自分がベビーフェイス志望で、極悪同盟はイヤイヤやっていたのが普段の態度から完全にバレていた事に理由があるとしており、「自分から嫌われる原因を作ってしまっていたから」と述懐している。アジャも大ベテランとなった2016年に受けたインタビューでは「自分はダンプさんも極悪同盟も嫌いだったため露骨に嫌な態度を取り続けていて嫌われていた。それでもダンプさんは、そんな態度を取っていた自分を気遣っていつも歩み寄ろうとしてくれていたし、陰ながら見守っていてくれていた。1988年にダンプさんが引退した後、その事に気付いてからはとても偉大な人物だと自覚した」と、ダンプをリスペクトする発言を述べた。

ダンプと抗争を繰り広げたクラッシュギャルズの二人はダンプと同期であり、長与とはデビュー当時は落ちこぼれコンビでもあり、飛鳥とは全女の寮で新人時代からルームメイトだったためにデビュー前から現在まで実際には仲が良いが、抗争当時の全女ではベビーフェイスとヒールが公の場で話をしたり仲良くすることは厳禁であったため、クラッシュギャルズファンに仲の良い場面を決して見られないようプライベートでも徹底してヒールを演じ、引退までは自分からクラッシュの2人とはあえて口を利かなかったと語っている。また全女時代は自身のファンに対してもヒールを演じ切り、本心ではファンに応援される事がとても嬉しかったが、サインや握手を求められても一切応じず、断る時も「暇じゃねぇんだよ!」などとあえてきつい言い方をして断っていたという。極悪内ではクレーン・ユウも本来優しい性格で、ファンから声を掛けられると手を振って反応するなどしてしまうためにダンプは「ヒールなんだからそういうのはダメ」と注意していたという。現在は極悪支部というファングループも全国各地にあり、1980年代当時とは違ってファンサービスも喜んで応じますとインタビューで語っている。

所属

経歴

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素顔のダンプ松本

1980年 - 前年の全日本女子プロレス新人オーディションに合格していたが、プロテストに通らず、一時は全女の営業車の運転手をしていた。トレーニングは過酷で、先輩の指示で道場に飾ってあったの甲羅を背負って這いずり回わったり、地方巡業中に移動バスの座席へ座ることも許されず長時間立ちっぱなしだったり、サービスエリアなどの休憩中にわざと置いて行かれてバスを走って追いかけるなど多くの壮絶なしごきを受けたこともあったという[4]。その後、8月8日田園コロシアム大会に於いてvs新国純子戦でようやくプロデビュー。デビュー前から元々体格が良かったために、『太っていたからベビーフェイスよりもヒールが自分には似合っているし、ヒールでやるならベビーフェイスのファンからとことん嫌われるようなヒールのトップになりたい。』と本人は当時から思っていたそうで、そういった意向を会社に伝えてすぐにヒール軍団入りする。本人はファン時代、ビューティ・ペアジャッキー佐藤の追っかけをしていた熱狂的な信者だった。ジャッキーが闘病中には頻繁に見舞いに訪れていたそうで、ジャッキー佐藤逝去後には『ダンプは泣き虫で、すぐに大泣きしてうるさいから私の見舞いに来るな!!とよく冗談ながらにジャッキーさんに言われました』と涙ながらにインタビューで話す姿がワイドショー番組などで放映された。

1983年 - デビル雅美率いるヒール軍『ブラック・デビル』の一員として(他のメンバーはデビル雅美、タランチェラマスクド・ユウ山崎五紀など)、数年間全く芽の出ない、前座のヒールの地位に甘んじていたが、1月、地元の熊谷市民体育館でライオネス飛鳥の持つ全日本選手権に挑戦。飛鳥の負傷箇所であるヒザを徹底的にいじめ抜き、TKO勝ち。ベルトを強奪する。その後立野記代、山崎五紀を相手に2度の王座防衛に成功するが、6月、大宮スケートセンター大会でリターン・マッチに臨んだライオネス飛鳥にベルトを奪い返される。暮れのフジテレビ杯争奪タッグトーナメントでは、新人の小倉由美と組んで出場。1回戦で敗退。

1984年 - タランチェラの引退、デビル雅美・山崎五紀のヒールからの離脱を機にデビル軍団とたもとを分かち、マスクド・ユウ(のちのクレーン・ユウ)と極悪同盟を結成。その直前に本名の松本香から、ダンプ松本へと改名し、髪を金に染め上げ、顔面に派手なペイントを施すスタイルを確立。前年から人気・実力が急上昇していたクラッシュギャルズの対抗馬として名乗りを上げる。レフェリーの阿部四郎と結託し、反則攻撃の「黙認」やクラッシュギャルズに対する超高速フォールカウントなどの、ひいきレフェリングのもとに凶器攻撃を多用する徹底的なヒールファイトを展開し、クラッシュファンの少女たちから、憎悪を一身に浴びる存在に。両チームのわかりやすい戦いの図式が熱狂を呼び、女子プロレスは全国的なブームへと発展していく。極悪同盟のメンバーは、ブル中野コンドル斉藤ドリル仲前影かほるなど。

1986年 - WWF(現WWE)に短期間の参戦。現地でもブル中野とタッグを組み3月8日にボストンのボストン・ガーデンベルベット・マッキンタイヤードーン・マリー組と、同月16日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでマッキンタイヤー&リンダ・ゴンザレス組と対戦している。ビクターエンタテインメントからミニアルバム『極悪』を発表して歌手デビューし、芸能人水泳大会に長与千種と出演したり、月刊明星では読者のお悩み相談コーナーもレギュラー担当するなど本業のプロレスと並行して芸能活動をしていた。

1988年 - 2月22日に大田区体育館で「ダンプ大森引退特別試合」を開催。最初は親友の大森ゆかりと組んで、クラッシュギャルズを相手に対戦したが、4人全員が場外で流血した上、ダンプが味方の大森に凶器攻撃を見舞うなど収拾がつかなくなり決着つかず。しかし、ダンプのマイクアピールに他の3人が呼応し、パートナーを交換してダンプ&長与組と大森&飛鳥組による5分間のエキシビションマッチが組まれた。そして、2月28日に地元・熊谷市体育館でダンプの両親、妹に見守られながら一番弟子のブル、コンドルを相手に変則ラストマッチを行ってプロレスを引退した。引退試合の後には、「クラッシュギャルズのファンの皆さん、今までチーちゃん(長与)や智ちゃん(飛鳥)のことをいじめてすいませんでした」と号泣ながら謝罪して、最後のマイクパフォーマンスを行った。引退後はダンプの元気で明るくユニークなキャラクターを生かして本格的にタレント、女優として芸能活動を始めた。大森ゆかりと、桃色豚隊(ピンクトントン)というユニットを組み、シングルCD「赤いウィンナー逃げた」を発売。後年のインタビューで引退理由は「私はその当時、他の選手のような会社から露骨な肩たたきとかはまだされていなかったけど、私の全盛期に引退すれば興行収入などの売り上げがガクンと落ちると思ったから少し全女を困らせてやりたかったんで引退を決意した」と語っている。彼女の思惑通り、ダンプ引退後は一気に観客動員数が激減したとアジャ・コングなども語っている。

1998年 - 全日本女子OG興行(「メモリアル・オールスター戦〜あの時、君は強かった!!」 1998年8月14日 川崎市体育館)におけるエキシビションマッチで、一日限りの限定復帰。一緒に発起人で参加した大森ゆかりやジャンボ堀とは全女時代から現在まで仲良しの親友である。

2003年 - 本物のヒールを復活させるためとして、新日本プロレスの「魔界倶楽部」に共鳴するかたちで「極悪倶楽部」を結成。吉本女子プロレスJd'でマネージャーとして現場復帰。横浜アリーナにおける全日本女子35周年記念興行での限定復帰の直後に、低迷した女子プロレス人気を自分が復帰して少しでも盛り上げられればと思い、古巣である全日本女子の松永高司会長にサーキット参戦を直訴し、サソリと「極悪同盟」を再結成して全日本女子のサーキットに参戦。一時期プロレスに専念するため、芸能活動を休止した。

2004年 - シャーク土屋の呼びかけに応えてGAEA JAPANに出現し、タッグ戦にてクラッシュ2000(元・クラッシュギャルズ)と対戦。

2006年 - 初の自主興行「極悪血祭り」を新宿FACEで開催。毎回好評で、現在まで不定期に開催されている。

2015年 - 5月23日大田区総合体育館で大仁田厚&長与千種を相手にTARUをパートナーに迎えて史上初の男女混合電流爆破タッグデスマッチ「大江戸超花火」を開催した。

現在も多くのファンに試合会場へ足を運んで楽しく観覧してもらえるように女子プロレス界を再び盛り上げたいという強い思いでレスラーと芸能活動を両立しながら活躍している。レスラーとしてはマーベラスが主戦場としつつ、プライベートでも可愛がっている後輩堀田祐美子率いる「堀田暴走軍」にも参加。また近年はボディプレスをフィニッシュムーブにもしている。

獲得タイトル

テレビ

ラジオ

テレビドラマ

舞台出演

CM

ラーメンの具として、たこ焼き3個が入っている。CM中でのセリフ「みんな最初は分かってくれないんだ」「マジだぜ!」が話題になる。CMは複数のバージョンが作られたが、その1本では冒頭で、ノーメイクの素顔で明るく「たこやきが、ラーメンになったのよ!」と商品をアピールする場面もあった。

ゲーム

音楽

  • 極悪(1985年)
坂本龍一44MAGNUM白井良明タケカワユキヒデと言った面々が楽曲を提供している。
  • 赤いウィンナー逃げた
大森ゆかりとのユニット「PINK TONTON」名義

書籍

  • 「ダンプ松本のマジだぜ!」集英社(1986年1月)
  • 「なんたって乙女の底力」スコラ(1988年4月)大森友伽里との共著
  • 「私じゃダメかい!!」ビクター音楽産業(1988年7月)
  • 「どんとこい芸能界!―極悪ダンプの芸能界毒舌言いたい放題! 」日本文芸社(1989年5月)
  • 「おかあちゃん!」主婦と生活社(1991年5月)
  • 「長女はつらいよ―だけど、元気もりもり」同文書院(1994年2月)

関連人物

脚注

  1. 雑誌『Sports Graphic Number』のミニインタビューにて。
  2. スポーツニッポンのコラム「母」でダンプ自身が著述。他にテレビ番組でのトークや週刊FLASHの取材でも事実と認めている。
  3. ダンプ松本 Wikipedia「怪我をさせた対戦相手に母が謝罪」真相を本人直撃-光文社・週刊FLASH 2012年5月8日・15日合併号
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 ダンプ松本 1試合3万5千円だったデイリースポーツ 2015年12月20日
  5. 柳澤健『1993年の女子プロレス』(2011年 双葉社 ISBN 9784575303261 P68)

関連項目

外部リンク

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