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{{Infobox_哲学者
 
  <!-- 分野 -->
 
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  <!-- 画像 -->
 
|image_name = Anderson, Domenico (1854-1938) - n. 23185 - Socrate (Collezione Farnese) - Museo Nazionale di Napoli.jpg
 
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  <!-- 人物情報 -->
 
|名前 = ソクラテス
 
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|学派 = [[ギリシア哲学|古典ギリシア哲学]]
 
|研究分野 = [[認識論]]<br/>[[倫理学]]
 
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'''ソクラテス'''([[ギリシア語|希]]:{{lang|el|'''Σωκράτης'''}}、[[ラテン語]]:Socrates、[[紀元前469年]]頃 - [[紀元前399年]][[4月27日]]{{要検証|date=2017年9月}})は、[[古代ギリシア]]の[[哲学者]]である。長母音を発音するならソークラテース。妻は、[[悪妻]]として知られる、[[クサンティッペ]]。
 
  
ソクラテス自身は著述を行っていないので、その[[思想]]は弟子の哲学者[[プラトン]]や[[クセノポン]]、[[アリストテレス]]などの著作を通じ知られる。
+
'''ソクラテス'''([[ギリシア語|]]{{lang|el|'''Σωκράτης'''}}[[ラテン語]]:Socrates、[[紀元前469年]]- [[紀元前399年]][[4月27日]]{{要検証|date=2017年9月}}
 
 
== 生涯 ==
 
=== 生い立ち ===
 
{{出典の明記|date=2015年10月27日 (火) 02:08 (UTC)|section=1}}
 
父は[[彫刻家]]ないし[[石工]]のソプロニスコス、母は[[助産師|助産婦]]のパイナレテとされる。[[アテナイ]]に生まれ、生涯のほとんどをアテナイに暮らした<ref>{{Cite book|和書 |author = ペーテル・エクベリ |year = 2017 |title = おおきく考えよう 人生に役立つ哲学入門 |publisher = [[晶文社]] |page = 61 |isbn = 978-4-7949-6975-0}}</ref>。彼は[[ペロポネソス戦争]]において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としての[[ポティダイアの戦い|ポテイダイア攻囲戦]]、[[ボイオーティア|ボイオティア連邦]]との大会戦{{仮リンク|デリウムの戦い|en|Battle of Delium|label=デリオンの戦い}}で[[重装歩兵]]として従軍した(アルキビアデスは騎兵として参加、当時の回想が『饗宴』に書かれている)。青年期には[[自然科学]]に興味を持ったとの説もあるが、晩年は[[倫理学|倫理]]や[[徳]]を追求する哲学者としての生活に専念した。
 
 
 
=== 思想形成 ===
 
{{出典の明記|date=2015年10月27日 (火) 02:08 (UTC)|section=1}}
 
プラトンの『[[ソクラテスの弁明]]』においてソクラテスが語ったところによると、彼独特の思想・スタイルが形成されるに至った直接のきっかけは、彼の弟子のカイレフォンが、[[デルポイ]]にある[[アポロン]]の[[神託]]所において、[[巫女]]に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねてみたところ、「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と答えられたことにある。これを聞いて、自分が小事・大事ともに疎くて賢明ではない者であると自覚していたソクラテスは驚き、それが何を意味するのか自問した。さんざん悩んだ挙句、彼はその神託の反証を試みようと考えた。彼は世間で評判の賢者たちに会って[[ソクラテス式問答法|問答]](エレンコス,{{lang|gr|ἔλεγχος}})することで、その人々が自分より賢明であることを明らかにして神託を反証するつもりであった。
 
 
 
しかし、実際に賢者と世評のある[[政治家]]や[[詩人]]などに会って話してみると、彼らは自ら語っていることをよく理解しておらず、そのことを彼らに説明するはめになってしまった。それぞれの技術に熟練した職人達ですら、たしかにその技術については知者ではあるが、そのことを以って他の事柄についても識者であると思い込んでいた。
 
 
 
こうした経験を経て、彼は神託の意味を「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている」ことを指しているのだと理解しつつ、その正しさに確信を深めていくようになり、更には、「神託において神がソクラテスの名を出したのは一例」に過ぎず、その真意は、「人智の価値は僅少もしくは空無に過ぎない」「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」ことを指摘することにあったと解釈するようになる。こうして彼はその「神意」に則り、それを広める「神の助力者」「神への奉仕」として、[[ソフィスト]]達のように報酬を受け取るでもなく、家庭のことも省みず、極貧生活も厭わずに歩き廻っては出会った賢者たちの無知を指摘していくことを[[ライフワーク]]とするようになる{{Sfn|プラトン|2007|pp=21-28}}。
 
 
 
これらの[[説明]]をそのまま鵜呑みにするならば、後世への影響のあり方はさておき、知恵の探求者、愛知者としての彼の営みそのものは、その旺盛な知識欲や合理的な思考・態度とは裏腹に、「神々(神託)への素朴な畏敬・信仰」と「人智の空虚さの暴露」(悔い改めの奨励、謙虚・節度の回復)を根本動機としつつ、「自他の知見・霊魂を可能な限り善くしていく{{Sfn|プラトン|2007|pp=43-44}}」ことを目指すという。(彼の知の探求と神々への畏敬の関係は動機と手段の関係とも、手段と動機の関係とも言える)
 
 
 
(古代ギリシャの伝統的な世界観・人間観では、例えば[[ヘシオドス]]の『[[神統記]]』に、嘲笑的に「死すべき人間たち」という表現が繰り返し出てくること等からもわかるように、「世界を司り、恒久的な寿命と超人的な能力を持つ」神々に対し、人間は「すぐに死に行くはかなく無知な存在」「神々には決してかなわない卑小な存在」と考えられていた。また、ソクラテスも影響を受けたデルポイのアポロン神託所、その入り口に「[[汝自身を知れ]]」(分をわきまえろ、身の程を知れ)や「度を越すことなかれ」といった言葉が刻まれていることからもわかるように、古代ギリシャ人にとっては、「[[徳#.E5.9B.9B.E5.85.83.E5.BE.B3.EF.BC.88cardinal_virtues.EF.BC.89|節制]]」(節度)がとても重要な徳目であった。ソクラテスの思想・言動は、基本的にはこれら古代ギリシャ当時の伝統的な考え方に則り、それを彼なりに継承・反復したものだったと言える。)
 
 
 
=== 裁判と毒殺 ===
 
[[ファイル:David - The Death of Socrates.jpg|thumb|300px|ソクラテスの最期を描いた『[[ソクラテスの死]]』([[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]画、[[1787年]])]]
 
 
 
ソクラテスは当時、賢人と呼ばれていた政治家や詩人達、さらには手工者をはじめとして、様々な人を次々に訪ね、「[[アポロン]]の宣託の通り自分が最も知恵があるのかどうか」を検証するために対話を行なった。その結果、彼らの無知に対する無自覚ぶりと、無知を自覚している自分の優越性、神託の正しさを確信し、決意と使命感を持ってその活動にのめり込んでいくこととなり、ソクラテスが賢者であるという評判が広まる一方で、無知を指摘された人々やその関係者からは憎まれ、数多くの敵を作ることとなり、誹謗も起こるようになった{{Sfn|プラトン|2007|pp=21-28}}。更に、暇を持て余した富裕市民の息子達はソクラテスを面白がって追い回し、その試問を傍聴し、その中からは影響されて試問を模倣する者達も現れ、そんな青年達の試問の餌食となった人々もまた、ソクラテスへの憎悪を募らせることとなった{{Sfn|プラトン|2007|pp=28-29}}。
 
 
 
又、そんなソクラテスを、[[喜劇]]作家の[[アリストパネス]]が『[[雲 (戯曲)|雲]]』において、「地下ならびに天上の事象を探求し、悪事を曲げて善事となし、かつ他人にもこれらのことを教授する。」といった、自然哲学者とソフィストを混ぜ合わせたような怪しい人物として描いて揶揄し、大衆にその印象を広めたり{{Sfn|プラトン|2007|p=19}}、[[ペロポネソス戦争]]で講和を破って戦争を再開した挙句、敵国[[スパルタ]]に亡命し、アテナイの敗北を招いた[[アルキビアデス]]や、その後の[[三十人政権]]の指導者となった[[クリティアス (三十人僭主)|クリティアス]]などが、ソクラテスに教えを施された弟子であったと見なされていた{{Sfn|プラトン|2007|p=51}}ことも、ソクラテスを攻撃する絶好の口実となった。
 
 
 
このため、ソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられることになった。アテナイの500人の市民がソクラテスの罪は死刑に値すると断じた{{Sfn|ウルフ|2009|p=111}}。原告は詩人の[[メレトス]]で、政界の有力者{{仮リンク|アニュトス|en|Anytus}}らがその後ろ楯となった。しかし、ソクラテスの刑死の後、(ソクラテス自身が最後に予言した通り)アテナイの人々は不当な裁判によってあまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという<ref>ディオドロス, XIV. 37</ref>。告訴の背景には、上記の他にもペロポネソス戦争とその後の暴政([[三十人政権]])など複雑な事情があったと考えられる。
 
 
 
ソクラテスは自身の弁明([[ソクラテスの弁明]])を行い、自説を曲げたり自身の行為を謝罪することを決してせず、追放の手も拒否し、結果的に[[死刑]](毒殺刑)を言い渡される。票決は2回行われ、1回目は比較的小差で有罪。刑量の申し出では常識に反する態度がかえって陪審員らの反感を招き大多数で死刑が可決された。
 
 
 
神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「'''単に生きるのではなく、善く生きる'''」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正を行なうよりも、死と共に殉ずる道を選んだとされる。
 
 
 
[[紀元前399年]]、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わして[[ドクニンジン]]の杯をあおり、従容として死に臨んだ。この顛末は、弟子であるプラトンの著作『[[ソクラテスの弁明]]』『[[クリトン]]』『[[パイドン]]』にくわしく書かれている。(ただし『パイドン』は、中期の作品であり、プラトン自身の思想がかなり強く反映されている。)
 
 
 
=== 弟子について ===
 
ソクラテスには、カイレフォン、クリトン、プラトン、アリスティッポス、アンティステネス、エウクレイデス、クセノポン、アルキビアデス、クリティアス等々、「弟子」と看做されている人々が数多くいるが『ソクラテスの弁明』によると、ソクラテス自身は「使命を果たさんとして語るとき、誰かそれを聴くことを望む者があれば、青年であれ老人であれ、何人に対してもそれを拒むことはなかった」「(報酬を貰って教えるソフィスト達とは違い)貧富の差別なく何人の質問にも応じ、問答してきた」だけであって「かつて何人にも授業を約束したことも授けたこともなく」「いまだかつて何人の師にもなりはしなかった」と考えていた{{Sfn|プラトン|2007|p=51}}。
 
 
 
== 思想 ==
 
ソクラテスの思想は、内容的には[[ミレトス学派]]([[イオニア学派]])の自然哲学者たちに見られるような、[[唯物論]]的な革新なものではなく、「神のみぞ知る」という彼の決まり文句からもわかるように、むしろ神々への崇敬と人間の知性の限界([[不可知論]])を前提とする、極めて伝統的・保守的な部類のものだと言える{{要出典|date=2012年6月}}。「はかない人間ごときが世界の根源・究極性を知ることなどなく、神々のみがそれを知る、人間はその身の丈に合わせて節度を持って生きるべき」という当時の伝統的な考え方の延長線上に彼の思想はある{{要出典|date=2012年6月}}。
 
 
 
それにも拘らず、彼が特筆される理由は、むしろその保守性を過激に推し進めた結果としての{{要出典|date=2012年8月}}、「無知の知」を背景とした、「知っていることと知らないこと」「知り得ることと知り得ないこと」の境界を巡る、当時としては異常なまでの探究心・執着心 、節制した態度 にある{{要出典|date=2012年8月}}。「人間には限界があるが、限界があるなりに知の境界を徹底的に見極め、人間として分をわきまえつつ最大限善く生きようと努める」、そういった彼の姿勢が、その数多くの内容的な欠陥・不備・素朴さ{{要出典|date=2012年8月}}にもかかわらず、半端な独断論に陥っている人々よりは思慮深く{{要出典|date=2012年8月}}、卓越した人物であると看做される要因となり、[[哲学者]]の祖の一人としての地位に彼を押し上げることとなった。
 
 
 
(ソクラテスが後世に名をはせることになった理由としては、彼の弟子の中に、古代ギリシャの哲学者にして著述家であり、[[アカデメイア]]の創設者でもあるプラトンがいたこと、そして、そのプラトンが自身の著作の中心的な登場人物として、師であるソクラテスを用いたことを、あげることができる。)
 
 
 
また彼の弟子達の多種多様な思想展開からもわかるように、着眼点によって様々な解釈が可能な、多面的な性格を持ち合わせていた思想家であったとも言える。ちなみに、相当皮肉屋な人物であったようで、死刑が確定し、妻のクサンティッペが「無実の罪で死ぬなんて!」と嘆いた時も、「じゃあ僕が有罪で死んだほうがよかったのかい?」といったといわれる。
 
 
 
なお本項目の内容はすべて執筆者による主観的な意見に過ぎないので注意するように。
 
 
 
=== 環境・時代背景 ===
 
{{独自研究|section=1|date=2015年10月27日 (火) 02:08 (UTC)}}
 
ソクラテスの一見わかりづらい思想態度を理解するには、彼の生きた当時の時代背景や、ギリシャ世界におけるアテナイの立ち位置を知ることが、いくらか助けになる。
 
 
 
まず、彼に先行する哲学者やソフィスト達は、ほとんどが[[アナトリア半島]]([[小アジア半島]])沿岸や[[黒海]]周辺、あるいは[[イタリア半島]]の出身であり、ギリシャ世界における知的活動は、こういった植民市・辺境地によって先導されてきたものであり、アテナイを含むギリシャ中心地域は、それと比べると、古くからの神話や伝統に依存した保守的な土地柄であったという全体像を確認しておく必要がある。
 
 
 
ソクラテスが生きた紀元前5世紀当時のアテナイは、[[ペルシャ戦争]]を経てギリシャ世界の中心地としての地位を確立し、最盛期を迎えると共に、徹底した民主政が確立された時代から、[[ペロポネソス戦争]]の敗戦後状況による社会的、政治的混乱を経て没落していく時代にまたがっている。当然そこには、辺境地の哲学者達の知識や、優秀なソフィスト達が集まってくるし、民主政における処世術や弁論術を学ぶべく、彼らは歓迎されることになる。こうして古くからの神話・伝統に寄りかかった旧秩序が崩れ、徳・弁論術の講釈に長けたソフィスト達、唯物論・無神論的な自然哲学者(『ソクラテスの弁明』においては、[[アナクサゴラス]]がその代表として持ち出される{{Sfn|プラトン|2007|p=36}})の知識などが新旧入り乱れ、アテナイの知的環境は混乱する。
 
 
 
ソクラテスの思想は、こういった引き裂かれた知的混乱状況の中、アテナイ人としての保守性と知的好奇心・合理的思考の狭間で揺れ動きつつ、どれにも与し得ないまま、誰の意見もが無知・思い込みを孕んだ怪しいものである{{要出典|date=2012年8月}}ことの経験的発見と、神々への信仰心が独特な形で結びつくことで成立したものだと言える。そのため、彼の思想的立場は、アテナイの保守層とも、外来・辺境のソフィスト・哲学者とも合致せず、そのどれに対しても相対的で、「無知の知」を投げかける特殊なものとなっている。
 
 
 
しかし、[[ペロポネソス戦争]]の敗戦とその後の[[三十人政権]]による恐怖政治に対する怨念が渦巻くアテナイでは、ソクラテスは他のソフィストや唯物論・無神論哲学者達と同類の、アテナイを堕落させた危険思想家の一人と看做され、政治的に敵視されることとなり、ソクラテスは裁判にかけられ、(死を恐れないと豪語し自説を決して曲げない姿勢が心象を悪くしたこともあって)死刑となる。
 
 
 
=== 無知の知 ===
 
ソクラテスは[[アポロン]]の[[託宣]]を通じてもっとも知恵のある者とされた。ソクラテスはこれを、自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだと考えたとされる。その結果、彼は知者を僭称する[[独断論]]者たちの無知を暴くための論争に明け暮れることになる。
 
 
 
彼の「無知の知」を背景とした知・無知に対するこだわり(とその効用)は、『ソクラテスの弁明』の終盤、死刑が確定した後の、死についての自身の見解を聴衆に語るくだりにおいて鮮明かつ象徴的に見て取ることができる。彼はそこで、(後に弟子のプラトンが[[オルペウス教]]([[ピタゴラス教団]])的な[[輪廻転生]]説に嵌っていくのとは対照的に)死後のことについては一切わからないという不可知論の立場を採る (死刑確定前の弁明においても、「死後のことを知っている者など誰もいないのに、人々はそれを最大の悪であるかのように恐れる。それは自ら知らざることを知れりと信ずる無知であり、賢くないのに賢人を気取ることに他ならない。私は死後のことについては何も知らない代わりに、知っていると妄信もしない。」といった趣旨の発言をしており{{Sfn|プラトン|2007|p=42}}、ソクラテスがここに相当のこだわりを持っていたことがうかがえる)。しかし一方で、彼は死は自身にとって、禍ではなく、一種の幸福であると言う。なぜなら、死後については二説あって、唯物論者たちの言うように、死が虚無に帰することであり、全ての感覚の消失であるならば、それは人生において他の昼夜より快適だった夢一つ見ない熟睡した夜のごときものであろうし、他方で冥府(ハデス)があるとしたならば、そこで真誠な半神たちによる裁判を受けることができるし、[[ホメロス]]や[[ヘシオドス]]と交わったり、[[オデュッセウス]]や[[シシュフォス]]と問答することもできる、どちらにしろ幸福である、というわけである{{Sfn|プラトン|2007|pp=66-68}}。であるがゆえに、死を恐れて不正な裁判に屈することなどなく、善き生を貫徹できるし、善き生を貫徹した者は、死に際しても幸福である。
 
 
 
このように、死後については「知らない」が、それを自覚しているがゆえに、それについての諸説を冷静に「知る」ことができるし、ひいてはどちらに転んでも自分や善き生を送った者にとって幸福であることも「知る」ことができ、だから死を恐れずに善き生をまっとうできる、対照的に、知に対する節度をわきまえない独断論者たちは、どこかでつまずき、知りもしないことに踊らされ、翻弄され、そうはならない、といった具合に、「善き生」と「無知の知」はひとつの円環を成し、「無知の知」は「善き生」にとっての必須条件となっている。
 
 
 
(ただし、ここでもその前後で「ダイモニオン」による諫止がなかったからこの死は善いことであるとか{{Sfn|プラトン|2007|p=66}}、「善人に対しては生前にも死後にもいかなる禍害も起こりえない、また神々も決して彼の事を忘れない」ことを真理と認める必要があるとか{{Sfn|プラトン|2007|p=68}}付言していることからもわかるように、ソクラテスの「無知の知」を背景とした抑制した態度は、単なる不可知論や相対主義に終始するものではなく、また論理的帰結のみに頼るものでもなく、常にそこを補う神々への素朴で楽観的な信仰などの「独断」と抱き合わせで成り立っていることに注意が必要と言える。ソクラテスの思想には全般にわたってこういった二面性が孕まれている。)
 
 
 
また一般に、ソクラテスは対話を通じて相手の持つ考え方に疑問を投げかける[[問答法]]により哲学を展開する。その方法は自分ではなく相手が知識を作り出すことを助けるということで「'''産婆術'''(助産術)」と呼ばれている。ソクラテスのもちいた問答法は、相手の[[矛盾]]や行き詰まりを自覚させて、相手自身で[[真理]]を発見させた。こうして知者と自認する者の無知を晒させた。こういった、意図を隠したとぼけた態度は、'''エイロネイア'''('''[[イロニー]]''')と呼ばれる。
 
 
 
=== 抽象概念の明確化 ===
 
{{see also|問答法|弁証法}}
 
 
 
プラトンが描くソクラテス像に則るならば、ソクラテスの業績・営みの特徴は、人生や社会に関わる抽象概念や曖昧な事柄を明確化しようとしたことにあると言える。ポリスの自由市民達が尊ぶ徳・正義・善・敬虔・節制(分別)・勇気……とは一体何なのか、あるいは、それを教えると称するソフィスト達、彼らが駆使する社会操縦術(説得術)である[[弁論術]](レトリケー)等は、一体何であるのか、そういった曖昧なまま放置されている物事を、再度入念に吟味・検証することを彼は要求する。そして、そのためには、一方通行のまま疑問に答えてくれない弁論や書物では役に立たず、しっかりと質疑応答を経て合意を重ねながら対象を深く探求していける問答が必要になる。
 
 
 
なお、話をわかりやすくするために、そういった抽象概念や曖昧な事柄を、具体的・実用的な事柄に置き換えつつ問うのも、彼の特徴の一つだと言える。例えば、「医者は医術を教え、彫刻家は〜、建築家は〜、大工は〜、鍛冶屋は〜、靴屋は〜、ではソフィストは何を教えるのか?」などが典型である。また、抽象概念同士の関係性や数、一致性・不一致性、範疇・所属なども執拗に問うていく。こういった飽くなき概念の明晰化の追求、知識・人間の吟味と向上、これが彼の考えた愛知(哲学)の営みだと推察できる。
 
 
 
こういった一見現実社会に直接役立ちそうもない重箱の隅をつつくような思索{{要出典|date=2012年8月}}を、青年期を過ぎてなお延々と続ける「子供じみた」{{要出典|date=2012年8月}}営みと断定する人々、特に目の前の社会運営を優先する穏健で「大人な」人々や、弱肉強食な自然観・社会観を持っている「諦念的な」人々を苛立たせる。そして、『[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]]』に登場するカルリクレスや、『[[国家 (対話篇)|国家]]』に登場するトラシュマコスなどのように、公然とソクラテスを非難する人々も出てくることになる。しかしながら、そうしてソクラテスを非難する人々が拠って立っている考えの曖昧さですら、ソクラテスにとっては明確化の対象であり、そういった人々もまた、格好のカモ{{要出典|date=2012年8月}}として、ソクラテスの明確化の渦の中に巻き込まれていくことになる。
 
 
 
こうして、[[タレース]]など[[ミレトス学派]]([[イオニア学派]])に始まる自然哲学とは対照的な、人間・社会にまつわる概念を執拗に吟味・探求する哲学がソクラテスによって開始され、後にその弟子である[[プラトン]]、更にその弟子である[[アリストテレス]]が、([[ピタゴラス教団]]や[[エレア派]]の影響を受けつつ)[[形而上学]]をそこに持ち込むことによって、その両者(「自然」と「人間・社会」)のあり方の説明を、包括的に一つの枠組みに統合・合理化したという見解が、一般的に広く受け入れられている。
 
 
 
=== アレテー(徳/卓越性/有能性/優秀性) ===
 
彼の最も重視した概念はよい生き方としてのアレテー(αρετη、arete[[徳]])である。「人間としての善=徳」という意味で、人間のアレテーは魂をよりよくすることであり、刑罰もそのために有効だとする{{要出典|date=2012年6月}}。また、アレテーを実践する者の人生は幸福であるとも主張した。しかし、これはプラトンの考えという説もある。なぜなら、ソクラテスは著書を残していないからである。
 
 
 
=== 社会契約論 ===
 
『ソクラテスの弁明』の続編である『[[クリトン]]』において、死刑を待ち、拘留されているソクラテスに逃亡を促しに来た弟子のクリトンに対して、彼は「国家」「国法」という架空の対話者を持ち出し、「我々の庇護の下でおまえの父母が結婚し、おまえが生まれ、扶養され、教育された。祖国とは、父母や祖先よりも貴く、畏怖され、神聖なものである。また、この国家(アテナイ) が気に入らなければ、いつでも財産を持って外国や植民地に移住することが認められているのにもかかわらず、おまえは70歳の老人になるまで、ここに留まり、家庭をもうけ、ほとんど外国に行くことすらなかった。したがって、我々とおまえの間には合意と契約が成立しているのにもかかわらず、今さらそれを一方的に破棄して、逃亡を企てようというのか?そのような不正が許されるのか?」と彼自身を非難させ、クリトンに逃亡の説得を諦めさせた{{Sfn|プラトン|2007|pp=91-102}}。
 
 
 
これは、中世・近代に様々に展開していくことになる[[社会契約]]論の原型とも言える。彼の弟子であるプラトンや、その弟子であるアリストテレスも、徳の概念と関連させつつ、様々な国家論を論じていくことになる。
 
 
 
=== 自立(自律) ===
 
{{出典の明記|date=2015年10月27日 (火) 02:08 (UTC)|section=1}}
 
ソクラテスは、徳(善き生)などについての考えの形成(魂の世話)を、[[ソフィスト]]のような他者の手に納得しないまま安易に委ねることを嫌った。そして、自身の考え(あるいは、「ダイモニオン」)に従い、おかしいと思うことは相手が誰であろうと忌憚無く問い、正しいと思うことは誰に反対されようとも実践すべきであることを身を以て示した。その結果、彼は自ら死刑を受け入れることになる。
 
 
 
=== ダイモニオン ===
 
ソクラテスは時折「ダイモニオン」(超自然的・神的な合図・徴(しるし))を受け取ることがあったという。そして、それが彼の考えや行動の重要な指針にもなっている。彼によると、それは幼年時代からあらわれるようになった、一種の声(幻聴)であり、常に何事かを諫止・禁止する形であらわれ、何かを薦める形ではあらわれない{{Sfn|プラトン|2007|p=48}}。なお、こういったことを放言していたことが、「国家の信ずる神々を信ぜずして他の新しき神霊(ダイモニア)を信ずる{{Sfn|プラトン|2007|p=29}}」といった訴状の内容にも影響を与えたと考えられる。
 
 
 
== 著作をおこなわなかった理由 ==
 
ソクラテスは、書記言語が野放しの状態で広まることを激しく非難していた{{Sfn|ウルフ|2009|p=110}}。
 
 
 
ソクラテスは、話し言葉、つまり「生きている言葉」は、書き留められた言葉の「死んだ会話」とは違って、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって1枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。書き留められた言葉は反論を許さず、柔軟性に欠けた沈黙であったので、ソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスにはそぐわなかったのである{{Sfn|ウルフ|2009|p=114}}。
 
 
 
ソクラテスは、書き言葉が記憶を破壊すると考えた。個人的知識の基盤を形成するにふさわしい厳密さを期待できるのは暗記するという非常な努力を要するプロセスのみであり、そうして形成した知識基盤は教師との対話の中で磨いていくことができるという信念を抱いていたからである{{Sfn|ウルフ|2009|p=117}}。
 
 
 
ソクラテスは、読字を恐れていたわけではないが、過剰な知識が必然的にもたらす結果、表面的な理解しかできないことを恐れていた{{Sfn|ウルフ|2009|p=120}}。
 
 
 
== ソクラテス問題 ==
 
ソクラテスは自説を著作として残さなかったため、今日ではその生涯・思想共に他の著作家の作品を通してうかがい知ることができるのみである。これは「'''ソクラテス問題'''」として知られる一連の問題を発生させている。
 
 
 
同時代の作家の内、劇作家・詩人の[[アリストパネス]]は戯曲『[[雲 (戯曲)|雲]]』においてギリシャの[[ソフィスト]]たちを揶揄し、その筆頭としてソクラテスを挙げている。ここではソクラテスの言動は揶揄のために誇張されていると考えられる{{efn|同時にそれがまったくのでっちあげであれば揶揄としての効果を持たないことから、何らかの真実を含んでいるとも考えられる。}}。
 
 
 
同じくソクラテスの弟子である[[プラトン]]の記した一連の対話篇にはソクラテスが頻繁に登場する。しかしながら、特に『[[メノン (対話篇)|メノン]]』以降のソクラテスはプラトンの思想を表現するための人物として利用されている感がある。
 
 
 
他の弟子による文章の一部やプラトンの弟子にあたる[[アリストテレス]]による記述をはじめ、後世の著作家による記述も残っている。
 
 
 
ソクラテスの弟子の一人とされる[[クセノポン]]は『[[ソクラテスの思い出]]』などソクラテスに関する文章を記しており、今日まで比較的よく保存されている。ただし、西洋哲学の場においては「一切の哲学はプラトンの注釈である」と言われるように、ソクラテスについての理解もプラトンの著作と思想([[プラトン主義]])を通じて行われる厚い伝統があり、クセノポンの描くソクラテスは通俗的で哲学者としての力量をとらえきれていないとする風潮がある{{Sfn|プラトン|2007|pp=119-120}}。
 
 
 
また、ソクラテスは容姿はグロテスクで弟子のプラトンに「我が師ソクラテスは世界で1番醜い。しかし1番賢い。」と言われていた。
 
 
 
== クセノポンのソクラテス像 ==
 
『ソクラテスの思い出』(以下『思い出』と略)でクセノポンが繰り返し強調しているのは、ソクラテスは「神々が目に見えないと言う理由で信じない者は、自分の心も目に見えないものであるということを忘れている」としている。クセノポンのソクラテスの態度はキリスト教の伝統的神秘主義に近い。
 
 
 
この書でのダイモニオンについてのソクラテスの解説は[[キリスト教]][[聖霊]]論に非常に類似している。また、「最高善」というものについては、ソクラテスが「人間は結局のところ何が最善なのか知り得ないのだから」と言って、神々にただ「善きものを与えたまえ」と祈るように勧めたという逸話{{efn|伝統的にプラトンの著作と見なされ、時々、真筆性に疑問を投げかけられているものに『クレイトポン』がある。この対話篇では、ソクラテスは登場するものも影は薄く、「善とは何か?」という極限的な問題について何ら積極的な解答を与えないソクラテスへのクレイトポンの非難が主な内容を成している。ただし、これを『国家』の習作と見なす態度もある<ref>田中美知太郎 『世界の名著 プラトンI』 中央公論社{{Full citation needed|date=2018-08-03}}</ref>}}もキリスト教の主祷文に通じる。根本的に違うのは、「敵を愛せよ」という[[イエス・キリスト|ナザレのイエス]]の教えがソクラテスにおいては、あたかも意図的であるかのように全く逆さまに書かれている点である(イエスの時代はソクラテスの時代の約四百年後)。これは、戦争に参加もしたソクラテスの根本姿勢がアテナイ民主制の伝統的価値観に依拠していることによるのであり、この点においてソクラテスをナザレのイエスよりも[[孔子]]に引き寄せて評価する立場もある。概して『思い出』におけるソクラテスはプラトンの登場人物としてのソクラテスよりも明瞭に宗教的人物である{{efn|イギリスの哲学者[[バートランド・ラッセル]]は『西洋哲学史』においてソクラテスを「[[オルペウス教|オルフィック教]]の聖者」と呼んだ。}}。
 
 
 
クセノポンは、ソクラテスは自分が裁判に訴えられたと知るとすぐさま反論を組み立て始めたが、ダイモニオンがそれを制止したと書いている。
 
 
 
[[ストア派]]の創始者である[[キティオンのゼノン]]は商人時代に書店で『思い出』に出会ったことから哲学の道に入った。一般にストア派におけるソクラテスの影響はプラトンではなく、クセノポンを通じてのものである。
 
 
 
== 弟子 ==
 
* [[プラトン]]
 
* [[クセノポン]](軍人・著述家)
 
* [[アリスティッポス]]([[キュレネ派|キュレネ学派]]の開祖)
 
* [[エリスのパイドン]]([[エリス学派]]の開祖)
 
* [[アルキビアデス]](軍人・政治家)
 
* [[アンティステネス]]([[キュニコス派]](犬儒学派)の開祖)
 
* [[メガラのエウクレイデス]]([[メガラ学派]]の開祖)
 
* [[アンブラキアのクレオンブロトス]](哲学者)
 
* [[クリティアス (三十人僭主)]](政治家) など
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{notelist}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{参照方法|date=2018年8月3日 (金) 03:31 (UTC)|section=1}}
 
* {{Cite book |和書 |title=ソクラテスの弁明・クリトン |others=久保勉(訳) |date=2007-04 |author=プラトン |edition=第92刷改版 |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫 |ref={{SfnRef|プラトン|2007}} }}
 
* {{Cite book|和書|author=メアリアン・ウルフ|translator=小松淳子|title=プルーストとイカ…読書は脳をどのように変えるのか?|origdate=2008-10-15|accessdate=2009-04-29|edition=初版|publisher=インターシフト|isbn=9784772695138 |ref={{SfnRef|ウルフ|2009}}}}
 
* [[加来彰俊]]『ソクラテスはなぜ死んだのか』岩波書店 2004年。
 
* F・M・コーンフォード 山田道夫訳『ソクラテス以前以後』岩波文庫、1995年
 
* [[斎藤忍随]]『知者たちの言葉 ソクラテス以前』岩波新書青版1976年
 
* [[田中美知太郎]] 『ソクラテス』 [[岩波新書]]、初版1957年。ISBN 4004120195
 
* {{Cite book|和書|author=西部邁|authorlink=西部邁|year=2004|title=学問|chapter=98 ソクラテス|publisher=講談社|pages=318-320|isbn=4-06-212369-X}}
 
* [[納富信留]]『哲学者の誕生 ソクラテスをめぐる人々』[[ちくま新書]]2005年
 
* [[ディオゲネス・ラエルティオス]]・加来彰俊訳 『ギリシア哲学者列伝(上)』 [[岩波文庫]]、初版1984年10月。ISBN 400336631X
 
* Coppens, Philip, [http://www.philipcoppens.com/socrates.html "Socrates, that’s the question"] Feature Articles– Biographies, PhilipCoppens.com.
 
* {{cite book | last = May | first = Hope | title = On Socrates | publisher = Wadsworth | location = Belmont, CA | year = 2000 | isbn = 0-534-57604-4}}
 
* {{cite book | last = Ong | first = Walter | title = Orality and Literacy | publisher = Routledge | location = New York | year = 2002 | isbn = 0-415-28129-6 }}
 
* Kagan, Donald. The Fall of the Athenian Empire. First. Ithaca, New York: Cornell University Press, 1987.
 
* Pausanias, ''[http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/ptext?lookup=Paus.+1.1.1 Description of Greece]''. W. H. S. Jones (translator). Loeb Classical Library. Cambridge, MA: Harvard University Press; London, William Heinemann Ltd. (1918). Vol. 1. Books I–II: ISBN 0-674-99104-4. Vol. 4. Books VIII.22–X: ISBN 0-674-99328-4.
 
* Thucydides; ''The Peloponnesian War''. London, J. M. Dent; New York, E. P. Dutton. 1910.[http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/ptext?lookup=Thuc.+toc]
 
* {{cite book | last = Vlastos | first = Gregory | title = Socrates, Ironist and Moral Philosopher | publisher = Cornell University Press | location = Ithaca | year = 1991 | isbn = 0-8014-9787-6 }}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Wikiquote|ソクラテス}}
 
{{Commons|Socrates}}
 
* [[ソクラテス以前の哲学者]]
 
* [[ソクラテス式問答法]]
 
* [[無知の知]]
 
* [[産婆術]]
 
* [[エウテュプローンのジレンマ]]
 
* [[ソクラテスの弁明]]
 
* [[民衆裁判所]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
 
 
{{Normdaten}}
 
{{古代ギリシア学派}}
 
  
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ギリシアの哲学者。彫刻家ソフロニスコスと助産師ファイナレテの子。前半生はほとんど不明であるが,後半生,特に晩年は[[プラトン]],[[クセノフォン]],[[アリストテレス]],[[アリストファネス]]の著作から知られる。著作を残さなかったのでその学説は主としてプラトンの[[対話篇]]によるほかはなく,それ自体哲学史上の大きな問題となっている。ソクラテスは「[[汝自身を知れ]]」というデルフォイの神託をあらゆる哲学的思考の出発点におき,人間の自己とは身体ではなく霊魂であり,この霊魂をよい状態に保つことに人間としての幸福が存するとの立場から,善や他の諸価値を[[ロゴス]]によって吟味することを試みた。その方法としては対話におけるエイロネイア ([[アイロニー]] ) と[[産婆術]]が有名である。アリストテレスは学の基礎としての帰納法と概念的定義をソクラテスの二つの功績として認めている。 70歳のときメレトスや[[アニュトス]]らに告訴され死刑宣告を受け,毒杯を仰いで死んだ。
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ソクラテスΣωκράτηςラテン語:Socrates、紀元前469年頃 - 紀元前399年4月27日

ギリシアの哲学者。彫刻家ソフロニスコスと助産師ファイナレテの子。前半生はほとんど不明であるが,後半生,特に晩年はプラトンクセノフォンアリストテレスアリストファネスの著作から知られる。著作を残さなかったのでその学説は主としてプラトンの対話篇によるほかはなく,それ自体哲学史上の大きな問題となっている。ソクラテスは「汝自身を知れ」というデルフォイの神託をあらゆる哲学的思考の出発点におき,人間の自己とは身体ではなく霊魂であり,この霊魂をよい状態に保つことに人間としての幸福が存するとの立場から,善や他の諸価値をロゴスによって吟味することを試みた。その方法としては対話におけるエイロネイア (アイロニー ) と産婆術が有名である。アリストテレスは学の基礎としての帰納法と概念的定義をソクラテスの二つの功績として認めている。 70歳のときメレトスやアニュトスらに告訴され死刑宣告を受け,毒杯を仰いで死んだ。



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