細川護立
細川 護立(ほそかわ もりたつ、1883年(明治16年)10月21日 - 1970年(昭和45年)11月18日)は、日本の宮内官僚、政治家。位階は従二位。勲等は勲二等。爵位は侯爵。号は晴川。
貴族院議員、財団法人日本美術刀剣保存協会会長(初代)、財団法人東洋文庫理事長(第7代)などを歴任した。
概要
肥後熊本藩主を務めた細川家の第16代当主である。爵位は男爵であり、のちに侯爵となって貴族院議員も務めた。また熊本市名誉市民の称号もある。戦後は文部省国宝保存会会長、日本美術刀剣保存協会会長、東洋文庫理事長などに就き、芸術に造詣が深く、美術品収集で著名。「美術の殿様」と呼ばれたが浪費家としても有名であり、借金をしてまでも日本画や刀剣類などを買い求めた。また若き日は『白樺』発足の際の同人で志賀直哉や武者小路実篤に加え、梅原龍三郎や安井曾太郎といった芸術家たちのパトロンとしても知られた。
来歴
生い立ち
細川家15代当主細川護久の四男として東京府東京市小石川区高田老松町(現在の東京都文京区目白台)に生まれる。母宏子(旧姓鍋島)は佐賀藩主鍋島直正の四女。学習院在学中、1898年、護立の実兄で1896年に分家していた細川護晃の養子として細川男爵家の家督を相続した。1906年7月、学習院高等学科を卒業。東京帝国大学を中退後、1914年10月7日、実兄細川護成の死去にともない、細川侯爵家の家督を相続し細川男爵家を廃家とした[1]。同年10月26日、侯爵を襲爵するとともに貴族院侯爵議員に就任した。以降、華族制度廃止以降も隠居はせず、息子に侯爵位を譲ることも無かった[1]。その後、宮内省の内部部局である宗秩寮にて、審議官などを務めた。
文化財保護
1936年、目白台に江戸時代から伝わる細川家下屋敷の、7000坪に及ぶ地所に自邸を再建した。この建物は美術的価値が高く、今日、財団法人和敬塾本館として使用されている。1948年には、日本刀の保護を目的に日本美術刀剣保存協会を設立し、初代会長に就任した[2]。また、1950年には、細川家伝来の美術品や古文書を保存する目的で、永青文庫を設立した。さらに、1951年から、幣原喜重郎の後任として、東洋文庫の理事長も務めた[3]。
栄典
- 外国勲章佩用允許
家族・親族
夫人は池田詮政の長女博子、子は一男三女。男子が近衞文麿の下で内閣総理大臣秘書官を務め、父同様に美術愛好家として知られた細川護貞。内閣総理大臣などを務めた細川護熙と、近衛家当主の近衞忠煇、表千家の千宗左(14代)夫人・明子は護貞の子で、護立の孫にあたる。徳川宗家18代当主である徳川恒孝の夫人幸子は外孫の一人。鍋島直大は伯父、津軽承昭は叔父にあたる。堀田正恒は従兄弟。
実姉の悦子は公爵の一条実輝に、義妹の英子(護成の娘、実の姪)は男爵の長岡護孝(長岡護美の子、いとこにあたる)に嫁した。
出典
- ↑ 1.0 1.1 『官報』第672号、大正3年10月27日。
- ↑ 「歴代会長」『歴代会長 ― 財団法人 日本美術刀剣保存協会 ―』日本美術刀剣保存協会。
- ↑ 「歴代理事長」『沿革・略史 - 財団法人 東洋文庫』東洋文庫。
- ↑ 『官報』第6101号「叙任及辞令」1903年10月31日。
- ↑ 『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。
- ↑ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ↑ 『官報』第3899号「叙任及辞令」1940年1月9日。
関連文献
- 『美に生きた細川護立の眼』 細川護熙編、求龍堂、2010年6月- 第2章に護立自身の「美術随想」がある。
- 『細川家の700年 永青文庫の至宝 <とんぼの本>』 芸術新潮編集部編 (新潮社、2008年)
- 『図録 細川家の至宝 ―珠玉の永青文庫コレクション』、東京国立博物館で2010年春開催。
- 『図録 細川護立コレクション名品展』 熊本県立美術館、1990年
文化 | ||
---|---|---|
先代: 幣原喜重郎 |
東洋文庫理事長 第7代:1951年 - 1970年 |
次代: 辻直四郎 |
先代: (新設) |
日本美術刀剣保存協会会長 初代:1948年 - 1970年 |
次代: 本間順治 |
日本の爵位 | ||
先代: 細川護成 |
侯爵 (肥後)細川家第3代 1914年 - 1947年 |
次代: (華族廃止) |
先代: 細川護晃 |
男爵 (肥後)細川家(分家)第2代 1898年 - 1914年 |
次代: (本家相続のため廃家) |
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