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| |規模 = 両翼 - 91.5 m (約300.2 ft)<br />左中間・右中間 - 109.7 m (約359.9 ft)<br />中堅 - 115.8 m (約379.9 ft)<br />バックネット - 18.3 m (約60.0 ft) | | |規模 = 両翼 - 91.5 m (約300.2 ft)<br />左中間・右中間 - 109.7 m (約359.9 ft)<br />中堅 - 115.8 m (約379.9 ft)<br />バックネット - 18.3 m (約60.0 ft) |
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− | {{Vertical_images_list
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− | | 5=OsakaStudiam.jpg
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− | | 6=1988年当時の大阪球場(ライト側スタンドから撮影)
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− | | 8=レフト側からスコアボードとライトスタンドを望む(1989年撮影)
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− | '''大阪スタヂアム'''(おおさかスタヂアム)は、かつて[[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]][[難波中]]二丁目に存在した[[野球場]]。[[日本野球機構|プロ野球]]の[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄パールス]]、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋松竹ロビンス]]が本拠地として使用していた。通称は「'''大阪球場'''」(おおさかきゅうじょう)<ref>「大阪スタヂアム」および「大阪スタヂアム興業」は大阪球場を運営する事業者の名称であり、球場正面看板および観戦チケットは「大阪球場」表記となっている。また、本球場の跡地に建設された「なんばパークス」のサイト[http://www.nambaparks.com/about_facilities/index.html]や南海球団の後身にあたる[[福岡ソフトバンクホークス]]のサイト[http://www.softbankhawks.co.jp/team/history/vol03.php]においても「大阪球場」の表記となっている。</ref>。[[難波駅 (南海)|南海難波駅]]の南口に面した駅前に存在したため、「'''ナンバ(難波)球場'''」という通称でも親しまれた。 | + | '''大阪スタヂアム'''(おおさかスタヂアム) |
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− | ==歴史==
| + | かつて[[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]][[難波中]]二丁目に存在した[[野球場]]。[[日本野球機構|プロ野球]]の[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄パールス]]、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋松竹ロビンス]]が本拠地として使用していた。通称は「'''大阪球場'''」(おおさかきゅうじょう)<ref>「大阪スタヂアム」および「大阪スタヂアム興業」は大阪球場を運営する事業者の名称であり、球場正面看板および観戦チケットは「大阪球場」表記となっている。また、本球場の跡地に建設された「なんばパークス」のサイト[http://www.nambaparks.com/about_facilities/index.html]や南海球団の後身にあたる[[福岡ソフトバンクホークス]]のサイト[http://www.softbankhawks.co.jp/team/history/vol03.php]においても「大阪球場」の表記となっている。</ref>。[[難波駅 (南海)|南海難波駅]]の南口に面した駅前に存在したため、「'''ナンバ(難波)球場'''」という通称でも親しまれた。 |
− | 南海は戦前、[[堺市]]にあった[[中百舌鳥球場|中百舌鳥(なかもず)球場]]を主本拠にしていたが、グラウンドの立地条件が悪く不便だったことから公式戦での使用機会が少なかった。特に戦後になってからは中百舌鳥での公式戦は1試合も開催されることはなかった。
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− | [[1948年]]の戦後第3回の日本職業野球リーグで優勝した際、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]経済科学局長のウィリアム・フレデリック・マーカット少将([[M資金]]の語源)が南海球団の松浦竹松社長に「ホームタウン・ホームグラウンドはどこか?」と問うと松浦は「大阪府が本拠であるが、自前のグラウンドがないので[[阪神甲子園球場|甲子園]]([[兵庫県]])を使わせていただいている」と答え、マーカットは自前のグラウンドを建設してもいいと提案。そこで、これまで公式戦を開催したことのなかった大阪市に目をつけて、南部の最大の繁華街である南海難波駅の南口に面した南西側駅前の旧[[大蔵省専売局|専売局]](現:[[日本たばこ産業]])の工場跡地に建設した。この地は江戸時代に米蔵(難波御蔵)が置かれていたために、現町名の以前は(難波)蔵前町という町名であった。また、同じ大阪を拠点とする[[松竹ロビンス|大陽ロビンス]]も北区[[玉江橋]]の関西相撲協会の所有地を買収して建設候補地にあげていたが、その案には[[西宮市]](兵庫県)を[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ]]とする[[阪神タイガース|大阪タイガース(阪神)]]や[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]が「ターミナルの[[梅田]]に近く、客を奪われる」ことを恐れて反対した<ref>{{Cite book |和書 |author = [[永井良和 (社会学者)|永井良和]] |author2 = [[橋爪紳也]] |title = 南海ホークスがあったころ 野球ファンとパ・リーグの文化史 |year = 2003 |publisher = [[紀伊國屋書店]] |page = 47 - 48 |isbn = 4314009470 |ref = harv }}。「関西相撲協会」という団体は詳細不明。[[春秋園事件]]で[[日本相撲協会|大日本相撲協会]]を脱退した力士が作った大日本関西'''角力'''協会があるが、1937年に解散している。ここでは出典の記述に従う。</ref>。阪神と阪急は、南海による難波球場建設を支持。[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本野球連盟]]も候補地を視察して難波案を採用したが、大陽のオーナーだった[[田村駒治郎]]が「南海が一年以内に建設できなければ自分の手で球場を作る」と主張したため、南海は一年以内に完成できるよう工事を進めざるを得なくなった<ref>永井良和『ホークスの70年』ソフトバンククリエイティブ、2008年、135頁</ref>。
| + | {{テンプレート:20180815sk}} |
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− | 1950年9月12日、工期わずか8ヶ月の突貫工事(施工:[[竹中工務店]]、[[間組]])で完成。戦災後の復興期にあり、粗末な[[バラック]]ばかりがひしめき合っていた大阪市内の中心部で本格的な[[鉄筋コンクリート]]造りの大規模建築として完成した本球場は、当時「[[昭和]]の[[大阪城]]」と称えられた。建設当初のグラウンドの広さは両翼84メートル、中堅115.8メートル。副収入を得るため、日本の球場では初めて観客席下に多数の[[テナント]]を入居させるスペースを設けた。この空間確保と狭い敷地に極力多くの客席を設けるという2つの目的によって、スタンドを急傾斜に設計したことから「すり鉢球場」と言われた。内野スタンドの傾斜は37度にも達し、打球音が銃撃音にも似た独特の反響を残すことは選手の間でも知られていた。また、酒に酔った客が足を滑らせてスタンド下まで転げ落ちたという逸話まで残っている。
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− | このグラウンドの狭さから、当たり損ねの打球がフラフラと外野フェンスを越えて本塁打になってしまうなど、投手泣かせの球場であった。[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]OBの[[中西太]]は本球場で[[バット (野球)|バット]]を折りながらも打球を外野スタンドへ入れたと言われている。[[杉浦忠]]、[[皆川睦雄]]ら南海黄金時代のエース級[[投手]]の絶妙な制球力はグラウンドの狭さによって培われたとの説もある。
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− | [[1951年]]、関西地区の球場で初めて夜間照明設備を設置。同年に初[[ナイター]]を開催(南海対[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]戦)。内野スタンドに日本初のボックス席を設けたのも本球場である。[[1950年代|1950]] - [[1960年代|60年代]]は[[鶴岡一人]]監督率いる南海の黄金期であり、毎年優勝争いを繰り広げており関西では南海は阪神をしのぐ人気球団であった。南海電鉄も出資者であった[[毎日放送]]は1959年に当球場での南海戦の独占テレビ中継契約を結び、この年に南海が日本一を達成したこともあって社史にこの契約を「一大ヒット」と記した<ref>永井・橋爪(2003)、150頁</ref>。しかし、この成功を背景に翌年南海側が放映権料をつり上げたことで毎日放送は契約範囲を縮小(ホームゲーム35試合の優先放送)、さらに1961年には南海との交渉を断念して、テレビの野球中継自体を大幅に縮小し、テレビでの露出が減少する結果を招いた<ref>永井・橋爪(2003)、152頁</ref>。また、この当時のエピソードとして[[1963年]]8月29日の南海対阪急戦で、雨による2時間14分の中断後、グラウンドに[[ガソリン]]を撒いて火を付け水分を蒸発させ試合を再開させたというものがある<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/photos/20140923/npb14092311480004-p4.html 【追憶のスタジアム(5)】大阪球場 南海ホークス黄金期の舞台(4)]</ref>。これは勝ち試合であることや日本記録ペースで本塁打を量産していた[[野村克也]]がこの試合でも1本打っていたためにそれを生かしたいという南海サイドの思惑によるものだった。なお、現在は[[消防法]]によりこのような行為は禁止されている。
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− | 1960年代半ば以降はプロ野球のテレビ中継において在京キー局の発言力が増大し、放送カードが[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]の[[読売ジャイアンツ]](巨人)戦が多くを占めるようになった。その結果、関西では唯一同じセ・リーグ所属の阪神に「巨人の対抗馬」として人気が集中、前記の経緯による南海戦の中継減少もあいまって、[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の人気は長期低落傾向をたどった。さらに[[1970年代]]後半以降の南海の急激な弱体化で本球場の観客動員数は低迷を極めた。[[ミナミ]]のド真ん中、南海本線の終点である難波駅南口の南西側駅前という好立地にも関わらず<ref>本来鉄道会社が球団経営する場合、西武における[[西武ドーム|西武球場(現:メットライフドーム)]]や阪神における阪神甲子園球場のように自社の鉄道沿線に本拠地球場を構えて、自社鉄道の運賃収入に貢献させるのが常策だが、本球場は大阪市営地下鉄や近鉄でも来場可能であり(阪神なんば線は当時未開業)、運賃収入が全く見込めなかったことから、南海電鉄側でも球団の売却が労使闘争で常に槍玉に上がる状況だった。</ref>球場を管理していた大阪スタヂアム興業の社史には、本球場の年間観客動員の実数が[[1965年]]以降、南海最終年の[[1988年]]まで一度も50万人を超えなかったことが記されている(公式発表上では1988年の91万5千人が球団史上最多動員であった)。
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− | 南海の本拠地球場だったが、[[1957年]]までは近鉄パールスも本拠地としていた。これは近鉄の[[専用球場|本来の本拠]]だった[[藤井寺球場]]に当時ナイター設備がなかったためだが、近鉄が[[1979年]]と翌[[1980年]]に[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]に出場した際、主に試合をしていた[[日本生命球場]](日生球場)の最大観客収容人数がシリーズ開催基準の3万人以上に満たず、藤井寺球場もこの当時はナイター設備が依然としてなかったため、近鉄はやむを得ず両年とも本球場を借りて日本シリーズの開催地とした(対戦相手は両年とも[[広島東洋カープ]])<ref>日本シリーズ前の[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]も本球場で開催した(1979、1980年とも)。</ref>。他にも[[1953年]]から[[1954年]]までセ・リーグの大洋松竹ロビンスが本拠地として(1951年から[[1952年]]までも合併前の[[松竹ロビンス]]が準本拠地として使用)、そして阪神も甲子園にナイター照明が設置([[1956年]])されるまで準本拠地としていたため、本球場の正面には南海、近鉄、阪神の球団旗をあしらった看板が掲げられていた。なおこの間、1954年7月25日の阪神対[[中日ドラゴンズ]]戦では判定と退場処分をめぐって二度にわたり紛糾、興奮した観客がそれぞれグラウンドに進入したため[[放棄試合|没収試合]]となる事件が起きた<ref>[[大和球士]]は著書『真説日本野球史7』で「難波事件」、阪神の球団史『阪神タイガース 昭和のあゆみ』では「大阪球場事件」と記している。</ref>。
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− | 南海としての最後の公式戦は1988年10月15日の対近鉄戦。[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]とのし烈な優勝争いをしていた近鉄を相手に互角の白熱戦を展開。[[岸川勝也]]の決勝本塁打で南海が6-4で勝利した。
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− | == 複合娯楽施設として ==
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− | [[1972年]]には隣接する南海難波駅の改修に伴う工事で、両翼を91.4メートルに拡大した。これは近い将来、[[サッカー]]がプロ化され人気が高まるとにらんだ球場側が野球とサッカーの兼用を狙って行ったものであった。また、当時大阪で国際規格を持つサッカー競技施設は[[長居陸上競技場]]しかなく、そこもナイター設備がなかったため([[1996年]]の全面改修で設置)に主として週末や祝日のデーゲームでしか試合を開催できなかったこともあり、大阪の中心部にあって観客動員の見込める本球場に目を付けられた面もある。実際、[[1977年]]に本球場で往年のスーパースター・[[ペレ]]の引退興行「サッカーフェスティバル さよならペレ」が開催されたが、ピッチの端が外野フェンスぎりぎりまで迫るほど狭く、サッカー用グラウンドとしてはいかにもサイズが不適格であった。また、この南海難波駅の拡張工事によって南海電鉄の線路が本球場側にせり出して拡幅されることになり、三塁側内野スタンドの東側を削り、別々だった内野と左翼席をつなぐ形でスタンドを拡大して削った分を増席。結果的に左右非対称のスタンドを持つ球場となった。
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− | 球場のスタンド階下部分には[[ウインズ難波]]([[中央競馬]]の場外馬券売場)の他に[[アイススケート]]リンク、[[卓球]]場、文化センターなどが設置されており、野球を核とした複合施設として利用された。テナントとしては古本屋街やスポーツ用品店が入店し、[[JKA|日本自転車振興会]]や[[ユースホステル]]の事務所が措かれていた。文化センターには[[土井勝]]の料理教室や、後に[[K-1]]をプロモートする[[石井和義]]が指導した[[極真空手]]の[[芦原会館|芦原道場]]などが開校されていた(この道場には俳優の[[新藤栄作]]や天才空手家の中山猛夫も在籍していた)。特にアイススケートリンクは、1966年にスタートした[[日本アイスホッケーリーグ]]に1972年まで所属していた[[福徳相互銀行アイスホッケー部]]が練習や試合に使用していた。
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− | また、交通至便な立地から関西では人気スターの公演会場や大規模興行の開催地として定着した。[[1974年]]より(10年間)[[西城秀樹]]がソロ歌手としては日本で初めてとなるスタジアム・[[コンサート]]を真夏に開催し<ref>この経緯もあり、[[2018年]]5月の西城の[[通夜]]ならびに[[告別式]]の祭壇は大阪スタヂアムをイメージしたものとされた。</ref>、[[サイモン&ガーファンクル]]、[[マイケル・ジャクソン]]、[[マドンナ (歌手)|マドンナ]]、[[エリック・クラプトン]]、[[ボズ・スキャッグス]]、[[マイケル・マクドナルド (ミュージシャン)|マイケル・マクドナルド]]、[[ジョー・ウォルシュ]]などの欧米のスーパースターや、日本のアーティストでは[[尾崎豊]]、[[渡辺美里]]、[[チェッカーズ]]、[[サザンオールスターズ]]、[[TUBE]]らも大規模コンサートを行った。[[1982年]]には[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]のクイズ番組「[[アメリカ横断ウルトラクイズ#史上最大の敗者復活戦|ウルトラクイズ 史上最大の敗者復活戦]]」、[[1983年]]には「[[全国高等学校クイズ選手権]]」第1回大会の関西地区予選会場として使われたこともある。
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− | 1960年代には[[プロレス]]の試合会場としても使用され、[[ジャイアント馬場]]対[[ジン・キニスキー]]、[[アントニオ猪木]]対[[ジョニー・バレンタイン]]戦などの伝説的な名勝負の舞台となった。1950年代には[[ボクシング|プロボクシング]]の試合会場として[[白井義男]]のノンタイトルなどが行われた。
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− | == ホークス売却・福岡移転後 ==
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− | [[file:Namba parks04s3872.jpg|250px|thumb|なんばパークス(大阪球場跡地)]]
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− | 1988年、南海ホークスが[[ダイエー]]に売却され[[福岡市]]に移転した後、[[1989年]]と[[1990年]]に[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]が準本拠地として年間10試合程度の主催試合を開催した。1990年6月の近鉄対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]戦では、当時近鉄の新人だった[[野茂英雄]]が先発登板して完投勝利をあげ、100奪三振到達のシーズン最速記録を打ち立てた(従来の最速は[[江夏豊]])。最後のプロ野球公式戦は1990年8月2日の近鉄対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブレーブス]]戦で、最後の本塁打は延長10回表に[[ブーマー・ウェルズ]]が放った勝ち越し3ランホームランだった。なお、この時点では同年限りでの閉鎖は決定していなかったが、将来的な取り壊しは既定路線だったため、この試合が最後のプロ野球公式戦になるとの噂が広がり、平日の同カードとしては異例の29,000人が詰めかけた。
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− | 本球場は既に球団売却前の[[1986年]]頃から[[関西国際空港]]の建設開始に伴う難波地区再開発計画によって数年以内に解体撤去することで決まっていたが、後のバブル崩壊などにより計画が次々に凍結。長年放置状態が続き、末期はグラウンド部を使って[[住宅展示場]]「なんば大阪球場住宅博」として利用されていた。グラウンド内にモデルハウスが建ち並んでいた一方、観客席やスコアボードもそのまま残され<ref>{{Cite news | url = https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180606-00221430-toyo-soci | title = 閑古鳥の住宅展示場、それでも変わらぬ体質 | newspaper = [[東洋経済新報社|東洋経済ONLINE]] | publisher = 東洋経済新報社 | date = 2018-06-06 |accessdate=2018-06-08}}</ref>、これは野球場としては非常に珍しい使用例として海外の建築専門誌にも紹介された。また、全面的な解体工事が始まる直前までは一部分を改装してウインズ難波が入居していた。この当時の本球場の状態は[[宮部みゆき]]の小説「[[火車 (小説)|火車]]」にも登場する。球場としての役目を終えた後はグランドも舗装され、駐車場としても利用されていたが、[[エンターテインメント]]としての活用は[[劇団四季]]が常設小屋としてキャッツシアターを設置し、[[ミュージカル]]「[[キャッツ]]」の[[ロングラン]]公演を行なった。また、[[阪本順治]]監督・[[赤井英和]]主演の映画「王手」も特設テントが組まれ上映された。
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− | [[全国高等学校野球選手権大阪大会]]でも1990年の72回大会まで使われたが、本球場の野球場機能の廃止に伴い大阪府内での球場が不足していたことから、一部の試合を兵庫県の[[阪急西宮スタジアム]]と[[奈良県]]の[[奈良市鴻ノ池球場]]で[[1991年]]の73回大会から[[1993年]]の75回記念大会の期間に越県開催している。
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− | [[1998年]]10月18日、さよならイベント「野球フェスタ」が南海OBや少年野球選手らを招待して開催された。このイベントの最後の挨拶は杉浦忠が務め、杉浦の挨拶が終わると同時に照明の灯が落とされた。その後解体撤去され、[[2003年]]10月に大規模な複合商業施設「[[なんばパークス]]」として生まれ変わった。なんばパークスの広場内にはかつて本球場のピッチャーズプレートと[[本塁|ホームプレート]]があった位置に記念のモニュメントとプレートが置かれ、8階に設けられた屋外イベントスペース「円形劇場」の客席部分は大阪球場の外野席の形状そのままにデザインされている。上階には「南海ホークスメモリアルギャラリー」という球団の沿革を示す展示コーナーも設置されており、展示の前では年配層を中心に立ち止まる人の姿が絶えず、未だ関西でホークスが根強い人気を持つことを示している(但し、野村克也関連の展示は[[野村沙知代|沙知代夫人]]が管理する[[肖像権]]の関係で名前の記述を含めて一切されず、野村が監督に就任した1970年については、代わりに[[ドン・ブレイザー]]のヘッドコーチ就任を紹介している<ref>野村沙知代は南海からの打診を独断で拒否し「20数年ぶりで、やっとあなたたちにカタキが取れます。主人の名前は入れないで結構です。優勝当時の写真があったら、そこから主人の顔を消してください。それが、あなたたちに対する私の長年の思いですから」と言い、夫も文句を言わなかったと述べている。野村沙知代・野村克也『野村セオリー―絆』(ISBN 978-4759309539)</ref>)。このなんばパークスの地下には、球場のテナントから移転したウインズ難波がある([[2001年]]に先行オープン)。
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− | == 運営会社 ==
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− | {{基礎情報 会社
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− | |社名 = 大阪スタヂアム興業株式会社
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− | |英文社名 =
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− | |ロゴ =
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− | |種類 = [[株式会社]]
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− | |市場情報 = 大証2部
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− | |略称 = 大スタ
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− | |国籍 = {{JPN}}
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− | |本社郵便番号 =
| |
− | |本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]]日本橋西1
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− | |設立 = [[1949年]]10月31日
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− | |業種 = サービス業
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− | |統一金融機関コード =
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− | |SWIFTコード =
| |
− | |事業内容 = 大阪球場における野球興業、売店、遊技場、貸室経営
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− | |代表者 =
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− | |資本金 =
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− | |売上高 =
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− | |総資産 =
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− | |従業員数 =109名(1990年)
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− | |決算期 =11月
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− | |主要株主 =[[南海電気鉄道]]、野村土地建物、大阪魚市場など(1990年)
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− | |主要子会社 =
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− | |関係する人物 =
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− | |外部リンク =
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− | |特記事項 =
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− | }}
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− | '''沿革'''
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− | * 1949年10月31日 - '''大阪スタヂアム株式会社'''設立。
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− | * 1952年 - '''大阪アイス興業株式会社'''設立。
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− | * 1977年 - 大阪スタヂアム株式会社と大阪アイス興業株式会社が合併し、'''大阪スタヂアム興業株式会社'''となる。
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− | * 1998年10月 - 大阪スタヂアム興業株式会社が南海電気鉄道株式会社と合併。
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− | {{-}}
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− | == 施設 ==
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− | * 敷地面積:35,674[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]
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− | ** グラウンド面積:12,213m<sup>2</sup>
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− | ** スタンド面積:13,653m<sup>2</sup>
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− | * スコアボード:一貫して手書きパネル方式だった。
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− | ** 初代は[[後楽園球場]]の2代目と同じ形で中央にスコア(15回まで)、下部にその日の試合結果(または他球場の速報 最大3試合。後述のサブボード完成後は広告スペースとなる)、両サイド縦スクロール・横書きで選手名を表記)1950年から1974年ごろまで使用。ホームランを放つと側部広告部分に「HOMERUN」と書かれた[[ネオンサイン]]が点灯するなどの仕掛けもあった。また、[[1961年]]に一塁側内野スタンド上方に他球場の結果、経過を表示する専用の掲示板(メインのスコアボードよりはかなり小さいサイズ)が設置された。このボードは「[[スポーツニッポン]]速報」と銘打っていた。なおこのサブボードは2代目スコアボードの設置工事時にメインボードとして使われたこともある。
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− | ** 2代目は隣接するビルの側壁に取り付ける形で登場した。スコアボードの上部にスコア(12回まで、合計得点・ヒット・エラーも)、下部に横スクロール・縦書きで選手名表記。(チーム名は球団のカラー、守備番号とチーム名の南海は緑色、DHは白色で掲示)中央部に回転広告看板([[三菱東京UFJ銀行|東京銀行]]→[[なんばCITY]]。本塁打が出た場合、外周にある電球が点滅するとともに、広告の部分がホームラン用のイラスト<2枚>に替わるというもの)を設けていた。[[1975年]]から閉鎖まで使用。そのスコアボード自体はセンターのバックスクリーンよりは少しライトスタンドに寄りに設置された。スコアボードは球場裏のビル(旧ウインズ難波・A館)に貼り付けられる形で設置されていたため、スタンド取り壊し時にはそのまま手付かずの状態になっていた(スコアボード自体は[[2002年]]11月1日に解体)。
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− | == 交通アクセス ==
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− | * [[南海電鉄]][[南海本線|本線]] [[難波駅 (南海)|難波駅]]西 徒歩すぐ
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− | * [[近鉄難波線]]・[[阪神なんば線]] [[大阪難波駅]] (元近鉄難波駅)
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− | * [[大阪市営地下鉄]](現:[[大阪市高速電気軌道]])[[大阪市高速電気軌道御堂筋線|御堂筋線]]・[[大阪市高速電気軌道千日前線|千日前線]]・[[大阪市高速電気軌道四つ橋線|四つ橋線]] [[難波駅 (大阪市高速電気軌道)|難波駅]]、[[大阪市営バス]]なんば停留所
| |
− | * [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[関西本線]]([[大和路線]]) [[JR難波駅]] (旧湊町駅)
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− | * [[大阪空港交通]] 空港リムジンバス 伊丹空港路線 なんば
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− | == エピソード ==
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− | {{複数の問題
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− | |雑多な内容の箇条書き=2012-10
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− | |出典の明記=2012-10
| |
− | |section=1}}
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− | [[File:Osaka-Stadium naiya.jpg|250px|thumb|大阪球場の一塁側内野スタンド、傾斜が急になっている(1990年)]]
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− | * 前述の通り「すり鉢球場」と呼ばれたその形状から野次がよく通る球場としても知られていた。大阪の歓楽街であるミナミのど真ん中にあったことから、飲酒してから観戦に来る客が多かったこと、[[吉本興業]]・[[松竹]]等の[[寄席]]の本場という土地柄もあり、愉快な野次が飛び交う「野次の聖地」であった。
| |
− | * 南海ファンと他球団のファンとの野次合戦を楽しみに球場に足を運ぶファンも多かったが、特に阪急や近鉄といった関西勢とのやり取りは一種の伝統芸能の域であった。南海ファンに比して少数であることが多かった阪急や近鉄の各応援団が野次合戦において[[数の論理]]で劣勢に立った際に発する「おい貧乏人(南海ファン)、悔しかったら阪急沿線に(関西では高級住宅地のイメージが強い)住んでみぃ!」、「南海電車はボロ電車、[[近畿日本鉄道|近鉄電車]]は2階建て([[ビスタカー]])!」といった野球とは全く関係のない逆切れフレーズはファンの笑いを誘ったものである。
| |
− | [[File:Osakastudiam198810yamauchikazu.jpg|250px|thumb|大阪球場の一塁側スタンドからは投球練習中の投手が間近に見えた(1988年10月)]]
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− | * 現在はどの球場でも勝利チームのファンが行っている二次会(試合後に余韻を楽しみながら球場内外で行う応援集会)が最初に定着したのも本球場であると言われている。試合中、内外野それぞれの席で声援を送っていた南海ファンがチームの勝利後に球場隣接の駐車場に一堂に集い「試合後の宴」を繰り広げるのが常であった。
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− | * なお、ホークスが福岡に移転してから20年以上経った現在においても[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]や[[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]]のホークス応援席では、オリックスの投手交代時には「さよなら、さよなら○○、さよなら、さよなら○○、近鉄電車で、はよ帰れー」、エラー時には「やった、やったー、またやったー、○○やったー、またやった、近鉄電車ではよ帰れー」等のコールが起こっている。また、[[セ・パ交流戦]]の阪神戦でも行う場合があるが、この時はコールが「[[阪神電気鉄道|阪神電車]]」に差し替えられている。ヤジ合戦においては『[[プロ野球ニュース]]』でもこの様子が放送された。
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− | ** この「○○電車ではよ帰れ」コールはほかの在阪パ・リーグ球団のファン・応援団でも同様に行われており、「阪急電車ではよ帰れ」「南海電車ではよ帰れ」というコールも起こっていたほか、オリックスの本拠地が神戸に置かれていた時代は「[[山陽電気鉄道|山陽電車]]ではよ帰れ」というコールも上がっていたことがある。
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− | *試合中の表裏のチェンジのインターバルの間は場内に[[運動会]]さながらの[[行進曲]](マーチ)が流れ(国民の象徴 バグリー作曲など)、古き良き風習はラストイヤーまで続いた。ちなみに試合終了後のファンファーレは「[[軽騎兵]]序曲」([[フランツ・フォン・スッペ]]作曲。これは[[広島市民球場 (初代)|初代広島市民球場]]での試合開始を告げるファンファーレとしても有名)だった。
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− | * 解体直前には[[朝日放送]](ABC)のバラエティ番組『[[探偵!ナイトスクープ]]』に「大阪球場のスタンドの椅子が欲しい」という依頼があり、グラウンド内で依頼者と南海として最後の監督だった杉浦忠とで椅子を懸けて[[野球盤]]対決をした。
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− | * 球場外壁に設置されていた「大阪球場」の看板(ネオンサイン)は解体後、ホークスファンが個人で所有している。[[2008年]]にソフトバンクが南海時代のユニホームを着て行なった際、京セラドーム大阪のスコアボード下にこの看板が特別に設置された<ref>[http://www.asahi.com/kansai/sports/news/OSK200808030189.html 京セラドームに「大阪球場」が復活] - asahi.com、2008年8月3日配信、[[2010年]]6月20日閲覧</ref>。
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− | * 本球場北側の蔵前通りと新川筋が交わるT字路にはかつて「大阪球場前」という標識が掲げられていたが、現在は「難波中」に変更された。このT字路の西側にある[[マクドナルド]]は、以前は大阪球場前店という支店名であった。また、同東側には[[ハードロックカフェ]]が在って多くの外国人が訪れていた。
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− | ==脚注==
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− | {{脚注ヘルプ}}
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− | {{Reflist}}
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− | ==関連項目==
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− | {{Commonscat|Osaka Stadium}}
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− | *[[鶴岡一人]]
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− | *[[野村克也]]
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− | *[[杉浦忠]]
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− | *[[広瀬叔功]]
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− | *[[江夏の21球]]
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− | *[[あぶさん]](本球場のレフトスタンドに看板が掲げられていた。)
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− | *[[火車 (小説)|火車]]([[宮部みゆき]])
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− | *[[西城秀樹]]
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− | {{大阪近鉄バファローズの本拠地}}
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− | {{横浜DeNAベイスターズの本拠地}}
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− | {{福岡ソフトバンクホークスの本拠地}}
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− | {{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect=大阪スタヂアム興業|かつて存在した大阪府の企業|スポーツ関連企業|南海電気鉄道}}
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| [[Category:現存しない日本の野球場]] | | [[Category:現存しない日本の野球場]] |