豊後崩れ

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豊後崩れ(ぶんごくずれ)は、江戸時代前期に豊後国隠れキリシタンが検挙された事件。豊後露顕(ぶんごろけん)、万治露顕とも[1]

豊後のキリシタン

キリシタン大名大友宗麟が支配していた時期、大友氏の政治拠点である府内・臼杵・津久見や、有力豪族の拠点の大野郡野津(のつ)・三重宇目地方、直入郡朽網(くたみ)、速見郡由布院地方などを中心に布教が行われ、豊後の民衆の間にキリスト教は浸透していった[1]

天正18年(1587年)のバテレン追放令の後、大友義統宣教師の退去を命じた。約3万の信者を擁していた豊後でも、教会は非常な苦痛をこうむり、信仰をすてるものもいたという[2]。しかし、宗麟の未亡人や志賀親次らの保護により信仰を維持する者もおり、その中には豪族や武士もいた[1]

慶長17年(1612年)8月に江戸幕府による禁教令が出された際には、豊後高田市や野津の神父が追放されたが、志賀(現・竹田市)の宣教師は追放されなかった[3]臼杵藩ではそれまでキリシタンに好意的だったが、以後弾圧を開始し領内に在住していた宣教師たちを追放し、府内藩でも弾圧をはじめ、小倉藩岡藩でも五人組寺請制度踏み絵が行なわれた。

翌18年(1613年)には各藩は幕府の動向をうかがいながら弾圧を緩和したが、19年(1614年に幕府のキリシタン禁制が本格的になったことから、臼杵藩では弾圧を強化、国東郡速見郡ではキリシタンの転宗が強制され、元和6年(1620年)には禁教に消極的だった岡藩も弾圧を始めた。このような状況を、「小藩分立」の豊後では各領主は改易の恐怖にさらされつつ、幕府への忠誠の証として弾圧に励んでいると書かれた[4]

キリシタンの捕縛

万治3年(1660年[5]5月22日、肥後藩高田でキリシタンの男女70余人が捕えられた[6]。その後も岡藩・臼杵藩・熊本藩・府内藩・天領でキリシタンとみなされた人々が逮捕・拘禁された。中には長崎に送られた者もおり、彼らは転宗を迫られ、拒否した者が死罪に処される場合もあった。

姉崎正治の研究[7]では、万治3年から天和2年(1682年)までに、幕府領の日田、岡・臼杵・肥後・府内藩領、大分郡海部郡・大野郡・中川藩竹田などで517人が召し捕らえられた。豊後国玖珠郡では220人が捕まり、死罪になった者57人、長崎や日田で牢死した者59人、65人が赦免され、江戸送り3人、永牢36人となった[8]マリオ・マレガの『豊後切支丹史料』・『続豊後切支丹史料』では、臼杵藩内だけで578人が捕縛されたとあり、実際の人数は不明であるが、1000人を超えていると推測されている[1]。その多くが長崎や日田の牢送りとなり、109名が赦免された他は、処刑・牢死・江戸送りとなった[7]

キリシタンの摘発は、家族や近隣の者の密告によって行なわれたため、一族・一村内で大勢の逮捕者が出ている。臼杵藩海部郡久土村(現・大分市)では、万治3年から寛文9年(1669年)までに156人が、葛木郡では154人が捕縛され、46人が死罪となった[1]。熊本藩大分郡鵜猟河瀬村(大分市)の喜左衛門は実の母を訴えて懸賞金30枚(銀1貫290匁)を受け取り、臼杵藩海部郡久土村の長熊は1人で12人のキリシタンを訴人したという[9]。葛木村のふりは姉弟4人と母が死罪となり、門田村(大分市)の庄兵衛は8人の兄弟が全員牢死または死罪となった[10]

臼杵藩では、下人・下女を抱えていた有力農民数名が、訴人などによって捕えられた。村井早苗の研究では、これにより藩内の家父長制的大経営の解体が進行し、小農経営の成立を準備する役割が果たされたとしている[11]

幕府の禁教政策

豊後国のキリシタン捕縛は、長崎奉行の命で実施され、その後の処分は幕府の宗門改に報告されるという、江戸幕府の直接的介入によって行われた。

臼杵藩で寛文8年(1668年)に幕府からの命でキリシタンの取り締まりが行われ、73人の信徒が捕らえられた[12]。同年には長崎奉行からの命で領内のキリシタン30人[13]を捕えて入牢させている。翌9年(1669年)正月には、臼杵藩主・稲葉信通は拘禁している65人のキリシタンの住所・氏名・人柄を記した「切支丹宗門之者御預帳」と呼ばれる届書[14]を幕府宗門改役に提出している。

岡藩では、幕府の指示をうけて寛文5年(1665年)に切支丹(宗旨)奉行を設置した[1]

豊後国のキリシタン摘発によって、幕府は各藩に宗門改奉行の設置を義務づけ[15]、大名領のキリシタン禁制政策を「幕府宗門改役 ― 各藩の宗門奉行」というラインで統括することとなった。長崎奉行も、豊後国だけでなく九州全域の禁教政策に介入し、九州支配を強化していった[16]

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 『大分県の歴史』 山川出版社、「豊後崩れ」(同書 200 - 204頁)。
  2. 天正17年(1586年)・19年(1588年)の『イエズス会日本年報』より。
  3. 『日本切支丹宗門史』慶長17年の記述より。
  4. 元和8年(1622年)のイエズス会年報より。
  5. 『日本史小百科 キリシタン』(東京堂出版)では万治2年(1659年)。
  6. 『中川史料集』万治3年5月22日の記事より
  7. 7.0 7.1 『切支丹宗門の迫害と潜伏』241 - 290頁。
  8. 『日本キリシタン迫害史 一村総流罪3,394人』 津山千恵著 三一書房(同書50 - 52頁)。
  9. 『大分市史 中』。
  10. 『大分市史 中』。
  11. 村井早苗『幕藩制成立とキリシタン禁制』490 - 497頁。
  12. 『キリシタン史の謎を歩く』 森禮子著 教文館(197頁、261頁)。
  13. 3人は病死していたので、実際は27人。
  14. マリオ・マレガ『豊後切支丹史料』。
  15. 「御触書寛保集成」一二三五号他。
  16. 『キリシタン』 H・チーリスク監修 太田淑子編 東京堂出版「豊後崩れ」の項(260 - 261頁)。

参考文献

  • 『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆』 大橋幸泰著 講談社選書メチエ ISBN 978-4-06-258577-4
  • 『長崎奉行の歴史 苦悩する官僚エリート』 木村直樹著 角川選書 ISBN 978-4-04-703574-4
  • 『日本キリスト教史』五野井隆史吉川弘文館 ISBN 4-642-07287-X
  • 『キリシタン』 H・チーリスク監修 太田淑子編 東京堂出版 ISBN 4-490-20379-9
  • 『日本キリシタン迫害史 一村総流罪3,394人』 津山千恵著 三一書房 ISBN 4-380-95229-0
  • 『大分県の歴史』 豊田寛三・後藤宗俊・飯沼賢司・末廣利人 山川出版社 ISBN 978-4-634-32441-1
  • 『カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容』 宮崎賢太郎 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-08100-9
  • 『キリシタン史の謎を歩く』 森禮子教文館 ISBN 4-7642-6589-3
  • 『日本宗教事典』 弘文堂 ISBN 4-335-16007-0