英照皇太后

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英照皇太后
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第122代明治天皇嫡母
立后 慶応4年(1868年3月18日

誕生 1835年1月11日
天保5年12月13日
日本の旗 日本 山城国愛宕郡下鴨村 南大路家
崩御 (1897-01-11) 1897年1月11日(62歳没)
日本の旗 日本 東京府東京市赤坂区 青山御所

入内 弘化2年(1845年9月14日
皇太后 慶応4年(1868年3月18日
陵所 京都市東山区 後月輪東北陵
身位 女御→(准三宮)→皇太后
敬称 陛下
夙子(あさこ)
氏族 九条家藤原氏
旧名 九条夙子
追号 英照皇太后
幼称 基君(のりきみ)
父親 九条尚忠
母親 菅山(南大路長尹の娘)
配偶者 孝明天皇
子女 順子内親王・富貴宮
養子女 明治天皇
栄典 宝冠大綬章
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英照皇太后(えいしょうこうたいごう、天保5年12月13日1835年1月11日[注釈 1] - 明治30年(1897年1月11日)は、孝明天皇女御にして明治天皇の嫡母(実母ではない)。旧名、九条 夙子(くじょう あさこ)。

生涯

父は九条尚忠、母は賀茂神社氏人・南大路長尹の娘・菅山。九条道孝の実姉、貞明皇后の伯母にあたる。名は初め「基君(のりきみ)」。

山城国愛宕郡下鴨村(現京都市左京区下鴨)の南大路家で誕生し、弘化2年(1845年9月14日、12歳の時に、3歳年上の東宮・統仁親王(のちの孝明天皇)の妃となる。結婚翌年には孝明天皇が即位し、嘉永元年(1848年12月7日従三位に叙され、同月15日に入内して女御宣下を被る。孝明天皇は夙子の立后を望んだが、先ず准三宮に叙すべしという幕府の反対にあい、嘉永6年(1853年5月7日、夙子は正三位・准三宮に上る。

嘉永3年(1850年)に第一皇女順子内親王(1850年 - 1852年)、安政5年(1858年)に第二皇女・富貴宮1858年 - 1859年)を生んだが、いずれも幼児期に夭折したため、万延元年(1860年7月10日勅令により中山慶子の生んだ第二皇子・祐宮睦仁親王(当時9歳、後の明治天皇)を「実子」と称した。

33歳で夫孝明天皇の急逝に遭い、明治天皇即位後の慶応4年(1868年3月18日皇太后に冊立。皇后を経ずして皇太后となった。東京奠都後、明治5年(1872年)、赤坂離宮に遷御、明治7年(1874年)に赤坂御用地に移る。

明治30年(1897年1月11日崩御享年64(満62歳没)。1月30日に「英照皇太后」の追号を奉られた。同年に大喪の記録として和装本『英照皇太后大喪記事』、『英照皇太后之御盛徳』、『英照皇太后陛下御大葬写真帖』が出されている。

御陵は京都市東山区今熊野の後月輪東北陵(のちのつきのわのとうほくのみささぎ)で、孝明帝と同所である。

なお、京都大宮御所は、彼女のために慶応3年(1867年)造営されたものである。

人物

孝明天皇の影響からかを好み、明治11年(1878年)には青山御所に能舞台が建てられている[1]。 明治14年(1881年)に誕生した日本最初の能楽堂「芝能楽堂」も、皇太后の鑑賞に供することが設立目的の一つだった[2]。 皇太后からの注文は時に本職の能楽師をすらたじろがせるほど「渋い」もので[3]、当時名人と併称された梅若実宝生九郎の2人にそれぞれ同じ曲を舞わせ、その芸の違いを楽しんだこともあった[4]

栄典

出典

  1. 古川久『明治能楽史序説』わんや書店、1969年、p.23
  2. 池内信嘉『能楽盛衰記』(増補・復刻版)東京創元社、1992年(初版:1925〜1926年)、p.109
  3. 池内信嘉『能楽盛衰記』(増補・復刻版)東京創元社、1992年(初版:1925〜1926年)、p.191
  4. 古川久『明治能楽史序説』わんや書店、1969年、p.33
  5. 『官報』第1605号「宮廷録事」1888年11月2日。

注釈

  1. 天保4年11月13日1833年12月23日)誕生とする資料もあるが、これは誤り。皇太子統仁親王との婚姻時、親王との年齢差「中四つ」(3歳違い)を忌み嫌う風習があったので、一年早い天保4年を公式の生年としたのが真相である(小学館日本大百科全書:ニッポニカ』「英照皇太后」の項目、河内八郎執筆)。

関連項目

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