ロリー・バーン

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ロリー・バーン
Rory Byrne
生誕 (1944-01-10) 1944年1月10日(80歳)
テンプレート:ZAF1928、トランスヴァール州、プレトリア
国籍  南アフリカ共和国
教育 ウィットウォータースランド大学
'業績'
専門分野 レーシングカーデザイナー

ロリー・バーン英語: Rory Byrne 1944年1月10日 - )は、南アフリカ共和国レーシングカーデザイナー

概要

1997年から2006年2月にかけスクーデリア・フェラーリでチーフデザイナー職にあり、同チームの黄金期に多大な貢献をした。現在は同チームのアドバイザーを務めている。

1990年代から2000年代のF1を代表するデザイナーと衆目の見解は一致しており、同時代でバーンに唯一比肩するとみなされているデザイナー、エイドリアン・ニューウェイとは甲乙つけがたく、バーンの車は71勝と6回のコンストラクターズタイトル、5回のドライバーズタイトルを獲得しており、これはエイドリアン・ニューウェイがデザインした車が1992年以降に達成した67勝、6回ずつのコンストラクターズ/ドライバーズタイトルという記録と拮抗するものである。

初期の経歴

バーンは南アフリカ・ヨハネスブルグのウィットウォータースランド大学在学中、最初は競技者としてモータースポーツに興味を抱き始め、後に技術的側面に関わるようになった。1965年に卒業した後、バーンは化学者として働きながらレースへの情熱を保ち続け、1960年代の終わり頃に2人の友人とともに故国南アフリカへ高性能自動車用パーツを輸入する会社を設立した。この頃に彼は初めてレース用車両のデザインを始めた。彼は本格的な工学実習の経験がなかったが、デザインは数学的知識を駆使して行われた。彼の設計した最初の車はフォーミュラ・フォード用のレーシングカーで、競争力があり1972年の選手権では上位に食い込んだ。

1972年の成功を受けて、バーンはレーシングカーのデザインでキャリアを追求すべくイングランドへと移住した。年式の古いロイヤル製フォーミュラ・フォード用車両を購入し、デザインを改善するのに必要な技能の習得を始めた。1973年にはロイヤルの創設者であったボブ・キングがチーム売却の決断をするという幸運に恵まれた。新しいオーナーはデザイナーでもあったキングの代わりとなるエンジニアを必要としており、ロリー・バーンに職を提示したのだった。バーンはその後4年の間、ロイヤルとその顧客のためにさまざまな車両のデザインを行った。

1977年、テッド・トールマンに紹介されたことで、33歳となり英国モータースポーツ界における名士となっていたバーンに次なる機会が訪れた。トールマンは当時F2チームのオーナーであり、バーンをデザイナーとして迎え入れた。数年に渡って右肩上がりに伸びていった成績は、1980年の英国F2選手権における第1位、第2位を占めたことによって頂点に達した。ロリー・バーンをデザイナーに擁したトールマンチームは、まさにF1の世界へと飛び込む準備万端という状態だった。

F1

バーンの手による最初のグランプリ用車両は、ハートエンジンを搭載したTG181だった。遠方で開催された開幕3戦を資金不足のため欠場したトールマンは、サンマリノGPでF1に初出走した。最初の2シーズンはポイントすら獲得できない有様だったが、1983年シーズンにはデレック・ワーウィックブルーノ・ジャコメリによって10ポイントを獲得しコンストラクターズ選手権で9位に食い込んだ。これはピットレーンにおいてバーンが信頼を得るにも十分な数字であった。同シーズン終了後にトールマンはアイルトン・セナと契約し、バーン、セナ、トールマンの3者にとっての初勝利へあと一歩へと近づいた。

グリッド最前列に向けたチームの着実な進歩は、1985年にベネトン一族がトールマンを買収する計画を公式発表したことで強い後押しを得ることになった。ベネトン・フォーミュラと名前を変えたチームは、予算と資源の増加、加えて当時最強と言われたBMW直4ターボエンジンを得たことにより、1986年10月のメキシコGPにおいてゲルハルト・ベルガーが彼自身にとっても、またチームおよびバーンにとっても初となる勝利をB186で記録した。

その後5シーズンにわたって、バーンのデザインした車両はさらに2勝を挙げたものの、ベネトンはフェラーリウィリアムズマクラーレンに挑むようなポジションに立つことは決してなく、これら勝利のほとんどは棚ボタ的なものであった。

1989年末に、ベネトンはフェラーリに在籍していたジョン・バーナードをテクニカルディレクターに据えたため、バーンは1990年にレイナードF1プロジェクトに参画する。しかし、計画はご破算になり、1991年にバーナードの離脱したベネトンへと戻った。この時チームはフラビオ・ブリアトーレの強力な指導下にあり、またチームはミハエル・シューマッハの獲得にも成功していた。すなわち、バーンの加入により、ミハエル・シューマッハ、ロス・ブラウン、そしてロリー・バーンという、1990年代から2000年代のF1を語る上で抜きにできないトリオが完成したことになる。この関係は、後のバーンのF1人生に大きな影響を与えることとなる。

1992年に誕生したB192は、レイナードでの計画で設計されたものを基にしたもので(この時レイナードの計画で設計されたマシンは1994年にパシフィックが参戦時に使用したPR01にも流用されていたが、B192とそっくりであった)、側面がバナナのような形状(色もキャメルイエローだったため)で非常に高いノーズと、同じく高くせりあがったサイドポンツーンを持つマシンで、ベルギーGPでミハエル・シューマッハに初勝利をもたらしている。この形状は、その後のベネトンのマシンデザインのコンセプトとして長く使用される。

1993年に投入されたマシンB193Bは序盤に投入されたB193Aの改良版でセミオートマチック・ギアボックス4WSアクティブサスペンショントラクションコントロールシステムといった先端技術を導入し、長足の進化を遂げていた。この車はシューマッハの手によってわずか1勝を挙げるに留まったが、翌年にはタイトルの獲得に向けて全てが万全であると言えた。

1994年の最初のレースにおいて、バーンのB194シャシーが最強の車であることはすぐ明らかになった。批評家は、ベネトンが優位となった理由をむしろウィリアムズの天才デザイナー、エイドリアン・ニューウェイの攻め過ぎた空力デザインによるものと指摘し、またベネトンの不正行為に関する告発がシーズンを通してチームにつきまとった。シーズン終盤のウィリアムズの猛追はバーンから初のコンストラクターズ・タイトルをかすめ取ってしまったが、彼のモットーである「変化でなく進化」によって、1995年にはさらなる成功に向けて全てが整っていると言えた。1995年、不正行為に関する告発を受けながらもベネトンはシーズン終了を待たずに両方のタイトルを確定させ、バーンのデザインしたマシンはF1のコンストラクターズチャンピオンを獲得した。

しかし、多大な影響力を持っていたシューマッハがシーズン終了とともにベネトンからフェラーリに移籍したことにより、チームは崩れ始めた。最高の結果を得たと感じたバーンは、1996年に引退を公表した。

フェラーリ

1996年シーズンの結果を受けて、ミハエル・シューマッハは長く低迷し続けるフェラーリを頂点へと引き戻せるエンジニアリングチームを構築するために、無条件の統率権を与えられた。ベネトンのテクニカル・ディレクターであったロス・ブラウンが引き抜かれ、さらにフェラーリはイタリアへの移住を拒んで、イギリスにある自身のデザイン事務所で仕事をしていたジョン・バーナードに代わるチーフ・デザイナーとしてロリー・バーンに白羽の矢を立てた。シューマッハの熱心な説得を経て、バーンはタイでの隠居生活から欧州へと引き戻され、マラネロのフェラーリ本社にデザインオフィスを作ることになった。

2000年までにフェラーリはタイトルに挑戦する準備を完了し、さらに続くシーズンに勢いをつけるための仕事を続けた。2004年シーズン終了時点で、バーンのデザインしたフェラーリは71勝、6回連続のコンストラクターズタイトルを挙げ、さらにミハエル・シューマッハによる過去に類を見ないほど安定かつ圧倒的な力により、2000年から5年連続でドライバーズ・コンストラクターズの両タイトルを獲得している。

2004年、バーンは2006年シーズン終了を以ってF1を引退し、1998年以来彼の補佐をしているアルド・コスタにチーフ・デザイナー職を委譲すると発表した。

2005年はチーフデザイナーの肩書きを形の上は保持して、実質的な指揮はコスタに任せていたが、2006年3月からはデザイン・開発部門の責任者を正式に退き、責任者の職(テクニカル・ディレクター)はアルド・コスタに、チーフデザイナーの職はニコラス・トンバジスにそれぞれ譲った。また、2009年まで同部門のアドバイザーとしての契約をフェラーリと結んでいた[1]

2008-2009年A1グランプリからフェラーリがシャーシ及びエンジンを提供することになったことからバーンの最終作であるF2004の改良版が使用されることになりA1グランプリカーの開発のコンサルタントを担当した。

2006年以降は住居を再びタイに移し隠居生活に入ったものの、以後もフェラーリの市販車部門との関係は続き、2012年に発表されたニュー・エンツォの開発ではプロジェクトリーダーを務めた[2]。この間もF1部門への復帰が何度となく噂されたが、2013年2月にF1部門への復帰を正式に発表した[3]。ただF1部門専任ではなく、2014年用F1マシンのデザインに関わる一方で、引き続き市販ロードカーのプロジェクトにも関与するとしている。2015年マシンのSF15-Tの開発にも一役買っている[4]

脚注