ドアーズ

提供: miniwiki
移動先:案内検索
ザ・ドアーズ
The Doors
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州ロサンゼルス
ジャンル サイケデリック・ロック
ブルースロック
アシッドロック
アート・ロック
活動期間 1965年 - 1972年
1978年
レーベル エレクトラ・レコード
アサイラム・レコード
ライノ・レコード
公式サイト www.thedoors.com

ドアーズThe Doors)は、アメリカ合衆国出身のロックバンド

カリスマ的ボーカリスト ジム・モリソンが在籍した事で知られ、ロック音楽黎明期のアメリカ西海岸を代表するバンドとして、主に1965年から1972年まで活動した[1]

1993年度『ロックの殿堂』入り。ローリング・ストーン誌選出「歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第41位。

グループの結成

ロサンゼルスUCLA映画科の学生であった、ジム・モリソンレイ・マンザレクが主体となってグループを結成。

その経緯は、1965年にマンザレクに出会ったモリソンは、自作の詩と歌を聴かせた。マンザレクは既に兄と共に「リック・アンド・ザ・レイヴンズ」というバンドで活動し、一方で元々フラメンコギタリストだったロビー・クリーガージャズドラマーだったジョン・デンズモアはザ・サイケデリック・レンジャースというバンドで活動中で、マンザレクは彼らとメディテーション・センターに於いて知り合いであった。モリソンの曲や詩に惹かれたマンザレクは、兄のリックとデンズモアに声をかけデモ・レコードを録音する。リックは、すぐにグループを離れ3人に、クリーガーと女性ベーシストを加えたグループは、ロサンゼルスのロンドン・フォッグやウィスキー・ア・ゴー・ゴーなどでステージ活動を行う。

バンドは、オルダス・ハクスリーが18世紀の詩人ウィリアム・ブレイクの詩の一節から取った書のタイトル『知覚の扉(the doors of perception)』を元に「ドアーズ」という名を付けた。

もし知覚の扉が浄化されるならば、全ての物は人間にとってありのままに現れ、無限に見える。
If the doors of perception were cleansed, everything would appear to man as it truly is, infinite.

1967年 - 1969年

ファイル:The Doors in Copenhagen 1968.jpg
デンマークTV スタジオ・ライブ (1968年9月)

ウィスキー・ア・ゴーゴーで人気を集め始めたバンドに目をつけたプロデューサー、ポール・A・ロスチャイルドによって、ドアーズはエレクトラ・レコード1966年に契約する。それは、ロスチャイルド及びエンジニアのブルース・ボトニックとの長く成功したパートナーシップの始まりであった。ヤング・ラスカルズ同様に敢えてベーシストは置かず、レイ・マンザレクがローズ・ピアノベースを左手で弾くことでベースパートを補った(レコーディングおよび後期のステージではサポートベーシストを起用)。10分にも及ぶ大作「ジ・エンド」を含むデビュー・アルバム『ハートに火をつけて』は、1967年1月にリリースされる。アルバムは数日間で収録され、ほとんどの曲は第一テイクが採用された。モリソンとマンザレクは第一弾シングル「ブレイク・オン・スルー」用のプロモーション・フィルムを監督し、それはミュージック・プロモーションの重要な布石となった。「ブレイク・オン・スルー」では曲中の She gets high, という歌詞がドラッグの影響を表す物として放送禁止になることを恐れたエレクトラが、high の部分を消してリリースし長らくその部分を聞くことが出来なかったが、後にリリースされたリマスター盤で聴くことが出来るようになった。

アルバムはセンセーションを引き起こし、第2弾シングル「ハートに火をつけて(Light My Fire)」は大ヒットした。ビルボード(Billboard)誌では、1967年7月29日に週間ランキング第1位を獲得。1967年の年間ランキングでは第2位となった。バンドは、ジェファーソン・エアプレイングレイトフル・デッドと並び、1967年におけるアメリカのトップ・バンドの一つとなった。

ファイル:The Doors 1969.JPG
1969年のグループショット

モリソンは、そのルックスと身体ラインを浮き立たせる革パンツでのステージ・パフォーマンスで、当時のポップ界におけるセックスシンボルの一人となった。彼はいわゆる「ロックスター」であることに極めて自覚的であり、ステージでは革パンツでセクシャルに立ち振る舞い、雑誌等のインタービューではメディアの飛びつきそうなキャッチーで過激な語句を使用するなど、マスメディアによるグループのイメージ構築を、意図的に、試験的に行っていた。しかし、人気が全米的なものになり、彼はスターとしての地位の中で次第にフラストレーションを感じるようになった。

2ndアルバム『まぼろしの世界』は、1stアルバム同様に強力な作品で、バンドの評判は強固な物となった。3作目『太陽を待ちながら』は、彼らの最初のNo.1アルバムであり、同作からのシングル「ハロー・アイ・ラヴ・ユー」は、2枚目のアメリカでのNo.1シングルであった。

1969年 - 1971年

ファイル:Jim Morrison 1970.jpg
犯罪容疑で収監されたモリソン (1970年9月)

ドアーズのライブ・ステージは挑戦的であり、反抗的だという評判を早々に得ることとなる。1967年の『エド・サリヴァン・ショー』出演時、CBSの担当者は「ハートに火をつけて」の歌詞の一節、"Girl we couldn't get much higher" を、ドラッグを想起させるとして "Girl we couldn't get much better" と変えて歌うよう要求した。しかしながらモリソンはオリジナルの歌詞をそのまま歌い、生放送の番組でそのまま放送された。エド・サリヴァンは非常に怒り、彼らとの握手を拒絶し、ドアーズはその後番組に招かれることはなかった。(激怒したサリヴァンに舞台裏で「二度と出演はないと思え!」と詰め寄られた際、モリソンは「もうエド・サリヴァン・ショウは卒業した…」とサラリと返した、という彼らしいエピソードがある)

1969年3月1日のフロリダ州マイアミでのコンサートで、モリソンはステージ上で性器を露出したとして逮捕される。モリソンは、軽犯罪および重犯罪容疑で起訴され、軽犯罪容疑での裁判は引き続いた。判決前にモリソンは語った。「僕はマイアミ事件での裁判でおよそ1年半の多くの時間を浪費した。しかしそれは価値のある経験だったと思う。なぜなら裁判前僕はアメリカの司法制度に対して非常に非現実的な学生のような態度を取っていたからだ。僕の目は少し開いたよ。」

モリソンの死と余波

ファイル:The Doors (1971).png
残されたメンバー - 左からデンズモア、クリーガー、マンザレク (1971年11月)

肥大化し、すっかり形相の変わってしまったモリソンは『L.A.ウーマン』録音後の1971年に休養することを決め、ガールフレンドのパメラ・カーソンとパリへ渡る。モリソンは、1971年7月3日にパリのアパートで不可解な状況で死亡した。モリソンはペール・ラシェーズ墓地に埋葬されたが、埋葬の前に検死が行われていなかったことが、その後明らかになった。彼の死は、恐らくヘロインの過剰摂取によるものであると考えられた。知己であったマリアンヌ・フェイスフルも、概ねを明らかにしている[2]

モリソンは、スポットライトから逃れるために死を偽装したという噂が長い間語られた。また、実際にはパリのナイトクラブで死亡し、遺体がアパートに運び込まれたという噂も語られた。しかしながら、モリソンの関係者であったダニー・シュガーマンの著書『Wonderland Avenue』によると、カーソンがモリソンに致死量のヘロインを注射したと、彼女自身がヘロインの過剰摂取で死ぬ直前にシュガーマンに語ったという。

ドアーズの残りのメンバーは活動を継続し、当初は新たなヴォーカリストの第1候補にポール・ロジャースを挙げていたが、ロジャースと連絡を取ることができなかったため[3]、結局クリーガーとマンザレクがヴォーカルを担当し、アルバム『アザー・ヴォイセズ』と『フル・サークル』の2作のアルバムを発表した。両アルバムは商業的に失敗し、モリソン抜きではドアーズたり得ないことを証明することになった。1972年の『フル・サークル』発表後、年内でバンドは正式に解散する[4]

その後、旧メンバー3人はジム・モリソンのデモテープを元にアルバムを制作。1978年にラストアルバム『アメリカン・プレイヤー』を発表。

1990年代以降〜現在

ファイル:The Doors of the 21st Century.jpg
The Doors 21st Centuryバンド

オリバー・ストーン監督による1991年の映画『ドアーズ』(原題:The Doors)では、モリソンを演じたヴァル・キルマーの演技が評判となった。しかしながら、映画は事実と異なる描写が多かった。また、マンザレクはストーンがモリソン像を自制の効かない精神病患者のように描いたことに対し、不快感を表した。

1993年、『ロックの殿堂』入りを果たす[5]

2002年には、マンザレクとクリーガーが「21世紀のドアーズ The Doors 21st Century」として活動を始めた。モリソンの代わりのヴォーカリストとして、イギリスのバンド、カルトイアン・アシュベリーを加え、ベーシストにはクリーガーのバンドでベースを担当したアンジェロ・バルベラが参加した。彼らの最初のコンサートでは、ドラマーのデンズモアが参加しないと発表された。後に伝えられたところでは、デンスモアは耳鳴りに苦しみ演奏することができなかったとされる。デンズモアの代わりに元ポリススチュワート・コープランドが加わったが、コープランドは数回のステージの後バンドを離れ、クリーガーのバンドのドラマー、タイ・デニスが後任となった。この時期のライブはDVDとして発売されており、イアン・アシュベリーが歌う「21世紀のドアーズ The Doors 21st Century」は一応の成功を見せた。

デンズモアは、実際には再結成に参加要請が成されなかったと主張した。2003年2月に、デンズモアはマンザレクとクリーガーに対して「ドアーズ」の名称使用差し止めの裁判を起こした。同年5月にその訴えは退けられたが、マンザレクはデンスモアのバンド参加への招待を公に繰り返した。デンスモアのバンド名使用差し止めの訴えにはその後モリソンの遺族とパメラ・カーソンの遺族が加わった。2005年7月22日、ロサンゼルス上級地裁はバンド名使用差し止めの決定を下した。

裁判によりバンド名使用の禁止令が出た事を受け、「21世紀のドアーズ The Doors 21st Century」は「ライダーズ・オン・ザ・ストーム Riders on the Storm」へと改名。このバンド名は1971年に全米で最高9位を獲得したアルバム「L.A. Woman」に収録されていた曲のタイトルであり、また新生ドアーズに参加していなかったジョン・デンズモアの自伝のタイトルでもある。後に「マンザレク・クリーガー」とさらに名前を変えた。

新生ドアーズにヴォーカリストとして参加したイアン・アシュベリーは、旧友ビリー・ダフィーとカルトの再結成を企画。2人揃ってトム・ヴィトリーノとマネジメント契約を結んだ。彼は「ライダーズ・オン・ザ・ストーム Riders on the Storm」のマネージメントもしている。現在カルトはツアーも行い、活動を再開。

また、2007年はバンド結成40周年を迎え、それを記念して既存の曲に新たなミックスを施したアルバム「ザ・ヴェリー・ベスト・オヴ・ザ・ドアーズ The Very Best Of The Doors」がリリースされた。この作品の限定版には、1968年のヨーロッパツアーの映像がDVDとして収録されている。日本でも、楽曲のダウンロード販売が開始された。

ファイル:Theatertour TOUCH ME AGAIN.jpg
ドアーズ・トリビュートバンド (2014年11月)

2009年には、トム・ディチロ監督による、ドアーズを題材にした初の劇場用長編ドキュメンタリー映画『ドアーズ/まぼろしの世界』(原題:When You're Strange)が公開された。同作は、新たな撮影は一切行わず、当時のオリジナル映像とジョニー・デップによるナレーションのみで構成されている。

2012年、アルバム『L.A.ウーマン』の40周年記念盤をリリース[6]

2013年、バンド結成の中心人物でもあったメンバー、レイ・マンザレクが他界[7]

2014年には70年代ハード・ロック、プログレッシヴ・ロックのアーティストが多数参加したトリビュート企画盤「LIGHT MY FIRE A CLASSIC ROCK SALUTE TO THE DOORS」が発表されている。

2017年、デビュー・アルバム『ハートに火をつけて』の50周年記念盤をリリース[8]

ドアーズに影響を受けたロック・ミュージシャンとしては、パティ・スミステレヴィジョンストラングラーズマジー・スターザ・キュアーブルー・オイスター・カルトなどがあげられる。

メンバー

作品

アルバム

現在Bright Midnightレーベルから未発表ライブ、インタヴューなどをWeb通販のみで販売している。

  • Boot Yer Butt
  • Bright Midnight: Live in America
  • Live in Detroit
  • No One Here Gets Out Alive
  • The Lost Interview Tapes Featuring Jim Morrison Volume One
  • Live in Hollywood: Highlights from the Aquarius Theatre Performances
  • Live at the Aquarius Theatre: The First Performance
  • Live at the Aquarius Theatre: The Second Performance
  • Backstage and Dangerous: The Private Rehearsal
  • The Lost Interview Tapes Featuring Jim Morrison Volume Two: The Circus Magazine Interview
  • Live In New York
  • Live At The Bowl '68

シングル

米国盤

  • Break on Through/End of the Night
  • Light My Fire/The Crystqal Ship
  • People are Strange/Unhappy Girl
  • Love Me Two Time/MoonLight Drive
  • The Unknown Soldier/We Could Be Good Together
  • Hello,I Love You/Love Street
  • Touch Me/Wild Child
  • Wishul Sinful/Who Scared You
  • Tell All the People/Easy Ride
  • Runnin'Blue/Do It
  • You Make Me Real/Roadhouse Bluse
  • Love Her Madly/Don't Go No Furher
  • Rider on the Storm/The Changeling
  • Tighrope Ride/Variety is Spice Life
  • Get Up Dance/Treetrunk
  • The Mosquito/It Slipped My Mind
  • The Piano Bird/Good Rockin'
  • Roadhouse Bluse(live)/Albinoni Adagio
  • The End/Delta
  • Gloria/MoonLight Drive

日本盤

  • ハートに火をつけて/水晶の舟
  • まぼろしの世界/アンハッピー・ガール
  • ラヴ・ミー・トゥー・タイムズ/月光のドライヴ
  • 名もなき兵士/君のそばにいたい
  • ハロー・アイ・ラヴ・ユー/ラヴ・ストリート
  • タッチ・ミー/ワイルド・チャイルド
  • テル・オール・ザ・ピープル/イージー・ライド
  • ラニン・ブルー/ドゥ・イット
  • ラン・ホー!/ユー・メイク・ミー・リアル
  • あの娘に狂って/ドント・ゴー・ノー・ファーザー
  • 嵐をこえて/輪廻
  • タイト・ロープ・ライド/激動の人生
  • ゲット・アップ/トリートランク
  • 蚊/イット・スリップ・マイ・マインド
  • ジ・エンド/デルタ

関連項目

脚注

外部リンク

テンプレート:ドアーズ