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スペンサー・コンプトン (初代ウィルミントン伯)

初代ウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトン英語: Spencer Compton, 1st Earl of WilmingtonKG, KB, PC1674年 - 1743年7月2日)は、イギリスの政治家、貴族。

ノーサンプトン伯爵家ヤンガーサンとして生まれ、1698年ホイッグ党庶民院議員に初当選して政界入りした。ウォルポール内閣で閣僚職や庶民院議長English版を務めた後、1742年のウォルポール退陣に際して後任の第一大蔵卿首相)となったが、これは名目上のことであり、第2代カートレット男爵ジョン・カートレットが実権を握っていた。翌1743年に首相在職のまま死去した。

1728年ウィルミントン男爵English版1730年にウィルミントン伯爵に叙せられた。

経歴

生い立ち

1674年頃、第3代ノーサンプトン伯爵ジェイムズ・コンプトンEnglish版の第3子として生まれる。母は第3代キャンプデン子爵English版バプティスト・ノエルEnglish版の娘メアリー[1][2]名誉革命の招聘者の1人でロンドン主教ヘンリー・コンプトンは叔父に当たる。

セント・ポールズ・スクールを経てオックスフォード大学トリニティ・カレッジに進学。ミドル・テンプルでも学んだ[2]

政界

1698年7月にアイ選挙区English版から選出されてホイッグ党所属の庶民院議員となる[2][1]。彼の家は代々トーリー党であったが、彼自身は兄ジョージEnglish版(第4代ノーサンプトン伯爵)との個人的確執もあってホイッグ党に転じた[1]

1710年の総選挙では議会に返り咲けなかったものの、1713年8月には東グリンステッド選挙区English版から再当選した。その次の総選挙でもサセックス選挙区English版と東グリンステッド選挙区双方から当選する[1]

1715年3月17日の議会招集に際して全会一致で庶民院議長English版に選出され、1727年7月の庶民院解散まで在職した。1716年には枢密顧問官に列する。1722年から1730年にかけてはロバート・ウォルポール内閣の陸軍支払長官English版を務めた[1]

彼はジョージ1世在位の頃から皇太子ジョージ(後のジョージ2世)と親睦が篤かった[3]。そのため1727年にジョージ2世が即位するやウォルポールに代わる新たな首相に擬された。しかし彼に議会指導能力はなく、王室費増額(シヴィル・リスト)を議会に議決させる手筈を整えることもできなかった。一方ウォルポールはシヴィル・リストを難なく議会通過させた。王妃キャロラインがウォルポールを深く信任していたこともあって、結局ジョージ2世はコンプトンを首相とすることを断念してウォルポールを引き続き首相として重用してくことにした[4]

1728年1月にはグレートブリテン貴族爵位ウィルミントン男爵English版に叙せられ、貴族院議員に転じた。1730年5月8日には王璽尚書に就任した。その6日後にはグレートブリテン貴族爵位ウィルミントン伯爵に叙せられた。さらに1730年12月31日には枢密院議長に任じられ、ウォルポール辞職までこの地位にあった[1][2]

1733年にはガーター勲章を受けた[1][2]

首相就任と死去

1741年の総選挙に敗れて求心力を落としたウォルポールは、1742年2月に辞職した。その後任としてウィルミントン伯爵が第一大蔵卿(首相)に任じられたが、彼は既に健康を害しており、当時名望のあった第2代カートレット男爵ジョン・カートレット(後の第2代グランヴィル伯爵)が内閣の実質的指導者となった[5][3]

ウィルミントン伯爵内閣の最初の問題はウォルポール前首相の不正行為を議会で追及するか否かだった。同内閣には、カートレットやウィリアム・パルトニー(後の初代バース伯爵English版)など反ウォルポール派が入閣していたが、初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズヘンリー・ペラム兄弟らウォルポール旧政権からの閣僚も参加していたため、結局ウォルポールに対する責任追及の機運は高まらなかった[6]

ウォルポール政権末期に発生したオーストリア継承戦争をめぐって国王ジョージ2世とカートレットはハノーファーを重視し、1743年にも軍の直接指揮をとるべく大陸に渡っていったが、ウィルミントン伯爵は二人の不在の間の1743年7月2日に首相在職のまま死去した[7]。首相在職期間は約1年半ほど、重要な政策に取り組むこともなく死去した[3]

結婚しておらず、子供もいなかったのでウィルミントン伯爵位は彼の死とともに廃絶した[8]

後任の第一大蔵卿(首相)にはヘンリー・ペラムが就任した。ペラムは帰国したカートレットとの権力闘争に勝利してその地位を固めることになる[9]

ウィルミントン伯爵の名誉を称えてアメリカ植民地のノースカロライナ州デラウェア州の都市にウィルミントンの名がつけられた。

栄典

爵位

1728年1月8日に以下の爵位に叙せられた[8]

1730年5月14日に以下の爵位に叙せられた[8]

  • 初代ウィルミントン伯爵 1st Earl of Wilmington
    (勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
  • サセックス州におけるペヴァンゼイの初代ペヴァンゼイ子爵 1st Viscount Pevensey, of Pevensey in the County of Sussex
    (勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)

勲章

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 『英米史辞典』 研究社、2000年。ISBN 978-4767430478。
  • 今井宏(編) 『イギリス史〈2〉近世』 山川出版社〈世界歴史大系〉、1990年。ISBN 978-4634460201。

関連項目

公職
先代:
トマス・ハンマーEnglish版
庶民院議長English版
1715年 - 1727年
次代:
アーサー・オンスローEnglish版
先代:
第4代コーンウォリス男爵English版
陸軍支払長官English版
1722年 - 1730年
次代:
ヘンリー・ペラム
先代:
初代トレヴァー男爵English版
王璽尚書
1730年
次代:
第3代デヴォンシャー公爵English版
枢密院議長
1730年 - 1742年
次代:
初代ハリントン伯爵English版
先代:
サー・ロバート・ウォルポール
首相
第一大蔵卿

1742年2月16日 - 1743年7月2日
次代:
ヘンリー・ペラム
無効なパラメータ
先代:
チャールズ・コーンウォリスEnglish版
サー・ジョゼフ・ジキルEnglish版
アイ選挙区English版選出庶民院議員
1698年 - 1710年
同一選挙区同時当選者
サー・ジョゼフ・ジキルEnglish版
次代:
トマス・メイナード
サー・ジョゼフ・ジキルEnglish版
先代:
ジョン・コンヤーズEnglish版
レオナルド・ゲールEnglish版
イースト・グリンステッド選挙区English版選出庶民院議員
1713年 - 1715年
同一選挙区同時当選者
ジョン・コンヤーズEnglish版
次代:
ジョン・コンヤーズEnglish版
第2代シャノン子爵English版
先代:
ヘンリー・キャンピオンEnglish版
ジョン・フラー
サセックス選挙区English版選出庶民院議員
同一選挙区同時当選者
ジェイムズ・バトラーEnglish版 1715年 - 1722年
ヘンリー・ペラム 1722年 - 1728年

1715年 - 1728年
次代:
ヘンリー・ペラム
ジェイムズ・バトラーEnglish版
先代:
ジョン・コンヤーズEnglish版
第2代シャノン子爵English版
イースト・グリンステッド選挙区選出庶民院議員
同一選挙区同時当選者
ジョン・コンヤーズEnglish版

1722年
次代:
ジョン・コンヤーズEnglish版
第2代シャノン子爵English版
グレートブリテンの爵位
新設 初代ウィルミントン伯爵
1730年 - 1743年
廃絶
新設 初代ウィルミントン男爵English版
1728年 - 1743年