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シャルル6世 (フランス王)


シャルル6世(Charles VI, 1368年12月3日 - 1422年10月21日)は、フランスヴァロワ朝の第4代国王(在位:1380年 - 1422年)。第3代国王シャルル5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボンの長男。親愛王(le Bienaimé)、狂気王(le Fol, le Fou)と呼ばれた。1385年イザボー・ド・バヴィエールを王妃に迎えている。

生涯

即位

1380年、父が食中毒で急死したため、王位を継承した。若年のため、初めは叔父であるアンジュールイ1世ベリー公ジャン1世ブルゴーニュフィリップ2世(豪胆公)らが摂政となったが、1388年から親政を開始した。しかし母の家系ブルボン家には精神異常を患う者もいて、シャルル6世も早くから精神的な不安定性を示していた。

発狂

1392年に寵臣であったフランス王軍司令官オリヴィエ・ド・クリッソン暗殺未遂事件が起こると、シャルル6世は興奮して首謀者と見られたブルターニュジャン4世の討伐軍を自ら率いた。しかし、ブルターニュ遠征の途中で出会った狂人に「裏切り者がいる」との暗示を受け、ある兵士が槍を取り落とした音に驚いて発狂し、周りの者に斬りかかった。この時、同行していた叔父のフィリップ豪胆公は、後に対立することになる王弟オルレアン公ルイ・ド・ヴァロワに「逃げろ、甥よ」と声をかけたといわれる。その後一旦回復したが、不安定な精神状態が続いた。

1393年1月28日には「燃える人の舞踏会」(Le Bal des ardents)という事件が起こっている。王妃イザボー・ド・バヴィエールは侍女の一人の婚礼を祝して、大規模な仮装舞踏会(モレスコ、morisco)を開催した。シャルル6世と5人の貴族は亜麻松脂で体を覆い、毛むくじゃらの森の野蛮人(ウッドウォード)に扮して互いを鎖で繋いで踊る「野蛮人の踊り」(Bal des sauvages)をしようとしたが、たいまつに近づきすぎて衣裳が燃え上がり、シャルル6世はベリー公夫人ジャンヌ・ド・ブローニュのとっさの機転で助かったものの、4人が焼死するという事件になった[1]。シャルル6世はその後、急速に精神を病むようになった。

ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立

精神異常のため、シャルル6世は事実上政務を執ることが不可能となり、豪胆公や息子のジャン1世(無怖公)を中心とするブルゴーニュ派と、王弟オルレアン公と息子シャルル・ド・ヴァロワを中心としシャルル6世を支持するアルマニャック派に宮廷内部が分裂し、主導権を巡って争うことになった。

このようなフランスの状勢を見て、イングランドヘンリー5世は、アルマニャック派を支援しながらその裏でブルゴーニュ派と提携するなど、両派の争いに巧みに介入した。そして1415年、ヘンリー5世はシャルル6世に対し、支援の見返りとしてフランス王位の継承権譲渡とフランス領土の割譲、さらに多額の賠償金を要求した。あまりのことにアルマニャック派がこれを拒絶すると、ヘンリー5世はすかさずイングランド軍を率いてフランス北部に侵攻する。ヘンリー5世の勢いは凄まじくフランス軍は各地で連戦連敗、10月25日アジャンクールの戦いで大敗したアルマニャック派はオルレアン公らが捕虜となる大打撃を受けた。

その間、王太子ルイ1415年に、ルイに代わる王太子ジャン1417年に、と2人の嗣子が相次いで没するなどの不幸もあった。

このため両派に和解の動きが起こったが、1419年にアルマニャック派を代表する王太子シャルル(後のシャルル7世)が和解交渉の会見においてジャン無怖公を殺害したため、その跡を継いだフィリップ3世(善良公)はイングランドと同盟して王太子シャルルと全面的に対立し、1420年4月にトロワ条約を結んでヘンリー5世のフランス王位継承を支持した。これにより、ヘンリー5世とシャルル6世の娘カトリーヌ(キャサリン)との結婚と、シャルル6世の死後は王太子シャルルではなくヘンリー5世がフランス王位を継承することなどが定められた。ヘンリー5世は現実に王位を継承することなく1422年8月に没したが、シャルル6世も同年10月21日、ヘンリー5世の後を追うように病死した。

シャルル6世の治世は42年の長きにわたったが、精神障害によってその治世のほとんどは家臣団やイングランドに左右される時代となった。

子女

妻イザボーとの間に12人の子女をもうけた。

また、庶出の娘が1人知られている。

シャルル6世のタロット

1392年、精神が不安定なシャルル6世を慰めるため、「シャルル6世のタロット」とよばれるデッキが作成された。「フランス国王シャルル6世の会計帳にある「金色や様々な色で描かれた56枚の遊技札」の記述によれば、3デッキ作成の代金として、1392年に画家ジャクマン・グランゴヌール(Jacquemin Gringonneur)に、6枚のペルシャ硬貨を支払ったとある。パリ国立図書館に所蔵されたタロットが、その「シャルル6世のタロット」と呼ばれ、現存する最古のタロットカードであるとされていた。しかし現在では、このタロットは、推定で1469年から1471年頃、エステ家のボルソ・デ・エステ(Borso d'Este)公爵のために作成されたものだという学説が有力となっている[2]

脚注

  1. 弟のルイが原因を作ったとの伝承あり。 fr:Bal des ardents#Balen:Bal des Ardents#Bal des Ardents and aftermath アメリカの作家エドガー・アラン・ポーは、この事件を基にして小説「跳び蛙」(1849 en:Hop-Frog)を書いたという。
  2. パリ国立図書館HPより「シャルル6世のタロット」一覧


先代:
ジャン
フランスの王太子
1368年 - 1380年
次代:
シャルル