宮田光雄 (内務官僚)
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宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月25日 - 1956年(昭和31年)3月8日[1])は、日本の官僚、政治家。内閣書記官長、衆議院議員、貴族院議員
来歴・人物
三重県一志郡出身。村長宮田宇吉の長男として生まれる。愛知一中、三高、帝国大学法科大学卒(のちの東京帝国大学法学部)。
貴族院官僚として奉職するも、衆議院議員として三重県より立候補、その後は勅撰貴族院議員として活躍。原敬首相の目にとまり福島県知事として赴任。1922年(大正11年)6月12日に加藤友三郎内閣で内閣書記官長として抜擢され、大腸癌を患う加藤友三郎首相にかわり国政を取り仕切る。
1927年(昭和2年)4月20日警視総監。1928年(昭和3年)12月28日従三位勲一等瑞宝章受章。
大政翼賛会興亜総本部長を経て、終戦時の陸軍参謀総長梅津美治郎の東京裁判での弁護人も勤める。戦後公職追放となる。
1936年にプロ野球の大東京軍が発足した際には、球団の出資元の國民新聞からの依頼を受けて、取締役会長に就任した。
1938年2月21日、大日本運動の結成式で、発起人として式辞を述べる。
1946年(昭和21年)5月14日、貴族院議員を辞職した[2]。
親族
- 相浦多三郎 - 妻の父。陸軍少将。
栄典
- 外国勲章佩用允許
脚注
参考文献
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
典拠レコード: