ゲアハルト・シュレーダー
ゲアハルト・フリッツ・クルト・シュレーダー[1](独: Gerhard Fritz Kurt Schröder、1944年4月7日 - )は、ドイツ連邦共和国の政治家。第7代連邦首相(1998年 - 2005年[2])。ドイツ社会民主党 (SPD) の党首(1999年 - 2004年)。
経歴
出自
第二次世界大戦中の1944年、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)政権下のドイツ国のリッペ自由州(現ノルトライン=ヴェストファーレン州の一部)のモッセンベルク(現在のブロムベルク)に、労働者階級の一家に生まれる。出稼ぎ労働者(en:Migrant worker)でドイツ国防軍の下級伍長だった父フリッツは、ゲアハルトが生まれて数週間後に息子に会う事無く、ルーマニアに侵略したドイツ軍とソ連軍との間の戦闘(en)で戦死した(32歳)。ゲアハルトには父親の記憶が無い。母と姉と三人家族で敗戦後の苦しい生活の中育つ。
1958年、国民学校の義務教育を終える。その後、レムゴーの町の金物商で小売商人資格の取れる見習修業を受けると、1961年からゲッティンゲンで建設労働者および商店従業員として働いた。戦死者の一人息子として兵役義務から免除される。シュレーダーは、1962年から1964年にかけて、ジーゲンの夜間学校で中等教育修了資格を取得し、1964年から1966年にビーレフェルトで大学入学資格(アビトゥーア)を取得した後、1966年にゲッティンゲン大学に入学する。法学を専攻した。大学生だった1968年、最初の結婚をする(しかし数年で離婚)。1971年、第一次司法試験に合格し大学を卒業。司法修習生となる。1972年に二度目の結婚をするが、再び数年で離婚する。1976年、国家司法試験に合格し弁護士免許を取得。弁護士としては、ドイツ赤軍テロリストの弁護を担当したこともある。
政治家
1963年、ドイツ社会民主党 (SPD) に入党。1978年にSPDの下部組織・社会主義青年団 (Jusos) の連邦代表に就任し、1980年までその役職を務める。
1980年、ドイツ連邦議会議員に初当選。連邦議会議員時代の1984年に三度目の結婚(その後三度離婚する)。
1986年、ニーダーザクセン州の州議会議員に転じ、1990年までSPDのニーダーザクセン州議会議員団長、および野党代表を務める。1990年に州議会選挙でSPDが勝利し、ニーダーザクセン州の州首相となる。同年、フォルクスワーゲン社の監査役に就任し、1998年までその職にあった。1993年、SPDの党首選挙に出馬するが、ルドルフ・シャーピング(後にシュレーダー政権の国防相)に敗北。1994年、同盟90/緑の党と連立を組み、州首相に再任。1997年、各州政府の代表からなる連邦参議院の議長となる(任期一年)。この年、ジャーナリストだったドリスと四度目の結婚、2016年に離婚。夫妻には夫人の子が一人、2004年と2006年に迎えた養子が二人いたが、シュレーダーに実子はいなかった。
首相
1998年、「新しい中道」をキャッチフレーズに、SPDの連邦首相候補として連邦議会選挙に再出馬して当選。この選挙で社会民主党が議会第一党を獲得、同盟90/緑の党との連立で16年ぶりの政権交代を実現し、ドイツ連邦共和国第7代首相に就任。高級な背広に葉巻というおよそSPDという労働者政党らしからぬ装いで「ボス同志」[3]と揶揄される。
1999年、政策的に対立していた党内左派のオスカー・ラフォンテーヌ党首に代わって、SPD党首となる。この年前半のコソボ紛争でドイツは戦後初めて戦争に参加、激しい議論を呼んだ。また同年、環境税を導入した。
2000年2月、IT技術者確保のためにグリーンカード制度を導入。首相お膝元のハノーファーで万国博覧会(ハノーファー万国博覧会)を開催するが、大失敗に終わる。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を受け、「アメリカ合衆国との無制限の連帯」を表明。ドイツ連邦軍の「不朽の自由作戦」参加を決定。ドイツ軍はアフガニスタンでの国際治安支援部隊 (ISAF) の活動に、NATOの一員として現在も参加している。11月、年金改革法案可決。12月、将来の原子力発電所全廃を決定。
2002年6月のサミット終了後、サッカーワールドカップ決勝戦を観戦するために、日本の政府専用機に搭乗し、日本を訪問[4]。8月にエルベ川が大洪水を起こし、現地に乗り込んで対策を指示。経済不振の続く旧東ドイツの開発重視は政策の一つでもあった。同月の連邦議会選挙で「ドイツの道」を提唱し、アメリカによるイラクへの攻撃反対を訴えて辛勝。首相に再任。12月、中国の同済大学より、名誉博士号が授与される。この年、シュレーダー政権の改革政策を風刺した「税金ソング」が7週間にわたりシングルのヒットチャート1位となる。良くも悪くも、前例のない「メディアの宰相」だった。
2003年3月、経済のグローバル化や成長戦略を視野に入れた改革プロジェクト「アゲンダ2010」を発表。その内容が新自由主義的であるとしてSPDの伝統的な支持基盤である労働組合から批判される。この年3月に起きたイラク戦争にはフランスと共に国連決議抜きでの開戦に反対し、派兵しなかった。
2004年、高い失業率や保険制度改革(削減)が不評で政権への不満からデモが頻発。SPDの支持率が低下したことを受け、3月にSPD党首を辞任。後任は幹事長のフランツ・ミュンテフェーリング。5月にEUが東欧までの25ヶ国に拡大し、EUの地理的・経済的中心国としてのドイツの役割が大きくなる。地方議会選挙の連敗で連邦参議院で与野党逆転を許し、野党が擁立したホルスト・ケーラー大統領の当選を許す。7月、移民受け入れに関する新法を可決。
2005年、失業者が戦後最多500万人を突破した。ロシアからバルト海を通ってドイツに天然ガスを送という物議をあったノルド・ストリーム建設についてロシアとパイプライン計画の合意した。パイプラインによりドイツのエネルギー供給は、ロシア国営企業への依存することになる[5][6]。地方議会選挙での連敗を受けて、7月に内閣信任案を与党に否決させ、連邦議会を解散[7]。これによって9月18日に総選挙の投票が実施される。SPDは圧倒的に不利という事前の予想を覆して善戦したが、野党キリスト教民主同盟 (CDU) 側に4議席及ばず議会第二党へ転落。長い協議の末首相の座を退き、CDU党首アンゲラ・メルケルに譲ることになった。ドイツ民主共和国(東ドイツ)で育ったメルケル新首相は東欧諸国を重視しているためロシア語も[8]話せるが[9]、シュレーダーの「パリ・ベルリン・モスクワ枢軸」を外交政策の方針から削除した[6]。
11月29日には議員職も辞職し政界から離れる。首相退任直前の10月、トルコのエルドアン首相と共に、キリスト教圏の首脳として初めてイスラム教の断食開けの祭に参加。イラク戦争への反対姿勢と共に、イスラム圏には好意的に受け取られた。トルコのEU加盟にも賛成していた。
首相退任後
2006年3月、ロシア国営天然ガス会社ガスプロムの子会社「ノルド・ストリームAG」の役員に就任。バルト海底を経由してロシア・ドイツ間をつないだ天然ガスのパイプラインであるノルド・ストリームやノルド・ストリーム2の取締役を2017年時点でも長期に渡って利益を得ていることに批判の声がある[10]。そのほかにスイスにあるロスチャイルド投資銀行のヨーロッパ支部相談役、スイスのRingier出版相談役を務める。2006年に自伝を出版したが、在任中からロシアとの癒着が疑われ批判された。ロシアでビジネスキャリアを積み、ノルド・ストリーム社の株主委員会の会長を務めている[5]。
2007年5月、中華人民共和国外務省顧問に任命。伝統的中国医学を世界に宣伝する役割を負う。成長著しい中国市場を重視し、首相在任中は毎年訪問してリニアモーターカーの売り込みなどをしていた。同年9月にダライ・ラマ14世を首相官邸に招いて会見したメルケル首相を「中国国民の感情を傷つけ、両国の友好を損ねた」と講演で批判している。
2014年4月28日にウクライナのクリミア危機でロシアがクリミア半島併合した中、ロシアのかつての首都であったサンクトペテルブルクの宮殿で70歳の誕生日をウラジーミル・プーチン大統領と抱擁して祝った。クリミア半島併合が原因でロシアの国営石油会社ロスネフチに科された経済制裁などロシアへの経済制裁自体に反対を表明してきたことでも物議を醸した[5][11][12]。
2017年8月11日に欧米による経済制裁の対象になっているのロスネフチ取締役にドミトリー・メドベージェフ首相が署名指名されていたことロシアで公開された文書により発覚した[5]。ドイツのメディアはシュレダーの行為を一斉に批判した。同月30日にシュレダーはロシアの国営石油会社 ロスネフチの取締役に就任することを認めたが、所属するドイツ社会民主党で2014年の欧州議会選挙の結果、欧州議会議長に就任後に2017年に党首になったマルティン・シュルツに9月24日投票のドイツ連邦議会[13]選挙に打撃を与えた。メルケル首相引きいるドイツキリスト教民主同盟打倒を目指しているショルツ党首は取締役候補に指名された時点でシュレダーとは距離を置き、「自分ならそのようなことはしない」と批判した。ロシアのインテルファクス通信によるとロスネフチの取締役会長なると報道された。ジョンズ・ホプキンズ大学米国現代ドイツ研究所のジャック・ジェーンズ所長はヨーロッパへ悪影響だと懸念を示した[9][10]。メルケル首相も大衆誌ビルトによる生中継インタビューにて自身は政界引退後に民間企業の職に就くことは考えていないことやシュレダーのロスネフチ取締役就任は不適切だと批判した[12]。
2017年9月11日、大韓民国のソウル市にある「ナヌムの家」を訪れたシュレーダーは、自伝の韓国語版の売り上げのうち1000万ウォン(96万円)を寄付し、「日本政府が慰安婦に対して謝罪する勇気を持てないでいる」と述べ[14]、元日本軍慰安婦をノーベル平和賞候補に推薦する事に支持を表明した。シュレーダーは現職前職を含め外国の元首級の人物がナヌムの家を訪れた初のケースだった[15][16][17]。しかし、在ウィーンジャーナリストである長谷川良に韓国側が「この問題が最終的、不可逆的に解決することを確認する」という日韓合意を未履行なことや日韓基本条約の日韓請求権協定で解決済みの問題を韓国が政権交代ごとに蒸し返してきたことの無知を批判された。トロント大学助教授を務める3人の娘と姪をイスラエルの砲撃で失ったパレスチナ人医師イゼルディン・アブエライシュの会見時で、憎悪は体内で繁殖し、最後には身を滅ぼすがん細胞のようなもの、「過去の囚人となってはならない」との主張と比較して、憎悪を輸出する慰安婦像設置運動は平和賞から最も遠い活動と糾弾された。さらに、長谷川に韓国がシュレダーにドイツは真の謝罪賠償をしたと言ったことに対して、ポーランドやギリシャからの賠償要求に「賠償問題は戦後直後、解決済み」とのドイツ政府の姿勢を知らないという無知を批判されている[18]。
2017年9月11日から2泊3日で自叙伝の韓国語版出版に合わせて韓国を訪れたが、この自叙伝の韓国語版の監修を行い、通訳として同行もした25歳年下の韓国人女性キム・ソヨンと、5度目の結婚をすると報じられた。2016年に離婚したドリス元夫人がフェイスブックで離婚原因としてキム・ソヨンをあげている[19]。金の前夫はキムと「シュレッダーと別れるなら離婚する」と約束して離婚したがキムは鼻からシュレーダーと別れるつもりも約束を守る意志もなかったのに離婚のために自分を欺いたこと、シュレッダーも家庭を持つ人妻という事実を知っていたのに不倫して自分に耐えがたい精神的苦痛を与える違法行為を行ったとして提訴した[20]。
脚注
- ↑ ゲアハルト・シュレーダー元ドイツ連邦共和国内務大臣(1953年 - 1969年、キリスト教民主同盟)とは別人である。
- ↑ 明石和康 『ヨーロッパがわかる 起源から統合への道のり』 岩波書店、2013年。ISBN 978-4-00-500761-5。
- ↑ 「同志」(独: Genosse)は社会主義・共産主義者が互いを呼ぶ時の尊称。
- ↑ 横浜で行われたこの決勝戦にはヨハネス・ラウ大統領、オットー・シリー内相、果ては野党領袖でこの年の総選挙でシュレーダー首相と激突するエドムント・シュトイバー・バイエルン州首相までが来日して皆で観戦し、あたかもドイツの首脳が丸ごと日本に来たかのような観を呈した。ラウ大統領以外は、全員ドイツ代表の決勝進出を受けて急遽来日を決めた(ラウ大統領は次回ワールドカップ開催国の元首として、ドイツ代表の結果に関係なく来日する予定になっていた)のだが、ドイツはブラジルに 0 - 2 で敗れ、準優勝に終わった。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 シュレーダー前ドイツ首相、ロシア国営石油会社の取締役候補に,AFP通信,2017年08月13日
- ↑ 6.0 6.1 ドイツとロシアの恋の行方 The New Ostpolitik 新たに生まれた意外な「大物カップル」の微妙なパワーバランス,ニューズウィーク,2009年8月31日
- ↑ ドイツではこの方法以外での連邦議会の解散はできない。詳しくはドイツの政治を参照すること。
- ↑ ドイツ語、英語、ロシア語
- ↑ 9.0 9.1 ドイツ連邦議会選挙 いよいよ9月24日に投開票!,ニュースダイジェスト,2017年9月15日
- ↑ 10.0 10.1 ドイツ前首相「ロスネフチ取締役」、総選挙に波紋,ウォール・ストリート・ジャーナル,2017年8月31日
- ↑ シュレーダーとプーチン「熊の抱擁」「特別な友情」関係のドイツ前首相は、ウクライナ危機でもロシアを弁護、批判浴びる。FACTA2014年6月号 GLOBAL
- ↑ 12.0 12.1 シュレーダー前独首相のロスネフチ取締役就任、メルケル首相が批判,ロイター通信,2017年8月22日
- ↑ 日本の衆議院に相当で630人の連邦議員。連邦参議院(Bundestrat)の定員は69人で、州の代表によって構成されているので直接選挙は実施されない。
- ↑ 韓国で新たな大統領就任の度に日本の歴代首相は謝罪を強いられてきた歴史を知らないと批判されている。
- ↑ 「慰安婦被害者と面会の元独首相、涙で『日本は責任意識ない』」(朝鮮日報日本語版) 2017年09月11日
- ↑ 「シュレーダー前独首相、慰安婦問題で『日本は謝罪の勇気ない』」(産経) 2017年09月12日
- ↑ 「シュレーダー元独首相『慰安婦被害者の苦痛、ホロコーストと同じ』」(ハンギョレ日本語版) 2017年09月12日
- ↑ 訪韓した独前首相の「反日」発言,アゴラ,2017年09月14日
- ↑ シュレーダー元独首相、25歳下の韓国人女性と5度目の結婚 朝鮮日報日本語版 2017年9月21日
- ↑ [1]シュレーダー元独首相パートーナーの韓国人前夫が1億ウォン求める訴訟「婚姻破綻に責任」
関連項目
外部リンク
- ドイツ連邦首相府による経歴紹介(英語)
- ドイツ歴史博物館 経歴紹介(ドイツ語)
公職 | ||
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先代: ヘルムート・コール |
ドイツ連邦共和国首相 1998年 - 2005年 |
次代: アンゲラ・メルケル |
先代: エルンスト・アルプレヒト |
ニーダーザクセン州首相 1990年 - 1998年 |
次代: ゲアハルト・グロコフスキー |
党職 | ||
先代: オスカー・ラフォンテーヌ |
ドイツ社会民主党党首 1999年 - 2004年 |
次代: フランツ・ミュンテフェーリング |