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{{Infobox 革命家
 
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|説明=高杉晋作
 
 
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'''高杉 晋作'''(たかすぎ しんさく、[[天保]]10年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]([[1839年]][[9月27日]])- [[慶應]]3年[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]([[1867年]][[5月17日]]))は、[[江戸時代]]後期の[[長州藩]]士。[[幕末]]に長州藩の[[尊王攘夷]]の[[志士]]として活躍した。[[奇兵隊]]など[[長州藩諸隊|諸隊]]を創設し、長州藩を[[倒幕運動|倒幕]]に方向付けた。
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'''高杉 晋作'''(たかすぎ しんさく、[[天保]]10年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]([[1839年]][[9月27日]])- [[慶應]]3年[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]([[1867年]][[5月17日]]))
  
[[]]は'''春風'''(はるかぜ)。[[仮名 (通称)|通称]]は晋作、東一、和助。[[]]は'''暢夫'''(ちょうふ)。[[雅号|号]]は初め楠樹、後に'''東行'''(とうぎょう)と改め、東行狂生、西海一狂生、'''東洋一狂生'''とも名乗った。他に些々などがある。[[変名]]を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、'''谷 潜蔵'''と改名。
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幕末の尊王派志士。長州藩士 150石高杉春樹の息。号は東行。松下村塾に学び,毛利定広の近侍となった。文久2 (1862) 年藩命を帯びて上海に密行し,外圧を意識して帰国。周布 (すふ) 政之助らと尊王攘夷運動の画策にあたり,藩内の百姓,町人をも含めた[[奇兵隊]]を組織し,士族の軍事専権制を打破した。翌年の[[文久三年八月十八日の政変]]で長州藩が京都で失脚し,第1次幕長戦争 ([[長州征伐]] ) で敗れると,蟄居させられた。元治1 (64) 年[[四国艦隊下関砲撃事件]]に際して再び起用され,正義党の中心人物として反幕府の方向に藩論を統一,第2次幕長戦争では大いに幕府軍を破ったが,まもなく病没。
  
[[日本の栄典|栄典]]は[[贈位|贈]][[正四位]]([[1891年]](明治24年)[[4月8日]])。
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== 生涯 ==
 
=== 誕生 ===
 
[[File:Takasugishinsaku kendo.jpg|thumb|[[防具 (剣道)|道着]]姿の高杉晋作と根拠なく言われていたが、これは高杉晋作ではない。氏名不詳の人物。]]
 
[[ファイル:Statue of Takasugi Shinsaku.jpg|thumb|萩市の晋作広場にある高杉晋作立志像]]
 
[[長門国]][[萩城]]下[[菊屋横丁]](現・[[山口県]][[萩市]])に[[長州藩]]士・[[高杉小忠太]](大組・200[[石 (単位)|石]])・みちの長男として生まれる。武(たけ)、栄(はえ)、光(みつ)の三人の妹がいる。
 
 
 
10歳の頃に[[疱瘡]]を患う。[[漢学]]塾(吉松塾)を経て、[[嘉永]]5年([[1852年]])に藩校の[[明倫館]]に入学。[[柳生新陰流]]剣術も学び、のち免許を皆伝される。[[安政]]4年([[1857年]])には[[吉田松陰]]が主宰していた[[松下村塾]]に入り、[[久坂玄瑞]]、[[吉田稔麿]]、[[入江九一]]とともに松下村塾四天王と呼ばれた。安政5年([[1858年]])には藩命で[[江戸]]へ遊学、[[昌平坂学問所]]や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ。安政6年([[1859年]])には師の松陰が[[安政の大獄]]で捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話をするが、藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰は[[10月 (旧暦)|10月]]に処刑される。[[万延]]元年([[1860年]])[[11月 (旧暦)|11月]]に帰郷後、防長一の美人と言われた山口[[町奉行]]井上平右衛門(大組・250石)の次女・[[井上まさ|まさ]]と結婚する。
 
 
 
=== 留学 ===
 
[[文久]]元年([[1861年]])[[3月 (旧暦)|3月]]には[[海軍]]修練のため、藩の所蔵する軍艦「[[丙辰丸]]」に乗船、江戸へ渡る。[[神道無念流]][[練兵館]]道場で剣術稽古。[[8月 (旧暦)|8月]]には[[東北地方|東北]]遊学を行い、[[加藤桜老]]や[[佐久間象山]]、[[横井小楠]]とも交友する。文久2年([[1862年]])[[5月 (旧暦)|5月]]には藩命で、[[五代友厚]]らとともに、幕府使節随行員として[[長崎市|長崎]]から[[中国]]の[[上海市|上海]]へ渡航、[[清]]が[[欧米]]の[[植民地]]となりつつある実情や、[[太平天国の乱]]を見聞して[[7月 (旧暦)|7月]]に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。
 
 
 
=== 尊王攘夷運動 ===
 
長州藩では、晋作の渡航中に守旧派の[[長井雅楽]]らが失脚、[[尊王攘夷]](尊攘)派が台頭し、晋作も桂小五郎([[木戸孝允]])や久坂義助(久坂玄瑞)らと共に尊攘運動に加わり、江戸・[[京都]]において[[勤王|勤皇]]・[[破約攘夷]]の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。
 
 
 
文久2年([[1862年]])、晋作は「[[薩摩藩|薩藩]]はすでに[[生麦事件|生麦に於いて夷人を斬殺]]して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、[[公武合体]]を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。折りしも、外国[[公使]]がしばしば武州金澤([[金澤八景]])で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞、[[大和弥八郎]]、[[長嶺内蔵太]]、[[井上馨|志道聞多]]、[[松島剛蔵]]、[[寺島忠三郎]]、[[有吉熊次郎]]、[[赤禰武人|赤禰幹之丞]]、[[山尾庸三]]、[[品川弥二郎]])<ref>[[御楯組]]結成の血盟書に署名のある11名。</ref> が相談した。しかし玄瑞が[[土佐藩]]の[[武市瑞山|武市半平太]]に話したことから、これが前土佐藩主・[[山内容堂]]を通して長州藩世子・[[毛利元徳|毛利定広]]に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に[[謹慎]]を命ぜられる。
 
 
 
この過程で、長州藩と[[朝廷]]や他藩との提携交渉は、専ら桂や久坂が担当することとなる。文久2年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の[[英国公使館焼き討ち事件|英国公使館焼き討ち]]を行う。これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では晋作を江戸から召還する。その後、吉田松陰の生誕地である松本村に草庵を結び、東行(とうぎょう)と名乗って、十年の隠遁に入ると称した。
 
 
 
=== 下関戦争と奇兵隊創設 ===
 
[[画像:Keiheitai.jpg|thumb|奇兵隊所属の兵の写真]]
 
文久3年([[1863年]])[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は[[関門海峡]]において外国船砲撃を行うが、逆に[[アメリカ合衆国|米]][[フランス第二帝政|仏]]の報復に逢い惨敗する([[下関戦争]])。晋作は下関の防衛を任せられ、[[6月 (旧暦)|6月]]には[[船問屋|廻船問屋]]の[[白石正一郎]]邸において身分に因らない[[志願制度|志願兵]]による[[奇兵隊]]を結成し、阿弥陀寺([[赤間神宮]]の隣)を本拠とするが、[[9月 (旧暦)|9月]]には[[教法寺事件]]の責任を問われ総監を罷免された。
 
 
 
京都では[[薩摩藩]]と[[会津藩]]が結託した[[クーデター]]である[[八月十八日の政変]]で長州藩が追放され、文久4年([[1864年]])[[1月 (旧暦)|1月]]、晋作は[[脱藩]]して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で[[2月 (旧暦)|2月]]には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。[[7月 (旧暦)|7月]]、長州藩は[[禁門の変]]で敗北して[[朝敵]]となり、[[来島又兵衛]]は戦死、久坂玄瑞は自害した。
 
 
 
[[8月 (旧暦)|8月]]には、[[イギリス帝国|イギリス]]、[[フランス第二帝政|フランス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[オランダ]]の4カ国連合[[艦隊]]が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。時に晋作、24歳であった。交渉の席で通訳を務めた[[伊藤博文]]の後年の回想によると、この[[平和条約|講和会議]]において、連合国は数多の条件とともに「[[彦島]]の[[租借]]」を要求してきた。晋作はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「[[領土]]の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した([[古事記]]を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)。これは[[清|清国]]の見聞を経た晋作が「領土の期限付租借」の意味するところ([[植民地]]化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば[[日本近代史|日本の歴史]]は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。ただし、このエピソードは当時の記録にはない<ref>古川薫『幕末長州の攘夷戦争』(中央公論社 1996)p198-205 ISBN 4-12-101285-2</ref>。
 
 
 
=== 功山寺挙兵 ===
 
[[画像:Takasugi Shinsaku and others.jpg|thumb|200px|高杉晋作(中央)と伊藤博文(右)(左の少年は従者である三谷国松)]]
 
[[画像:Shinsaku Takasugi Statue (Shimonoseki).JPG|thumb|200px|[[功山寺挙兵]]の銅像]]
 
 
 
[[江戸幕府|幕府]]による第一次[[長州征討|長州征伐]]が迫る中、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した)が台頭し、[[10月 (旧暦)|10月]]には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、再び下関へ帰還。[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]夜半、伊藤俊輔(博文)率いる[[力士隊]]、[[河瀬真孝|石川小五郎]]率いる[[遊撃隊 (長州藩)|遊撃隊]]ら[[長州藩諸隊]]を率いて[[功山寺挙兵|功山寺で挙兵]]。後に奇兵隊ら諸隊も加わり、[[元治]]2年([[1865年]])[[3月 (旧暦)|3月]]には俗論派の首魁・[[椋梨藤太]]らを排斥して藩の実権を握る。
 
 
 
晋作は同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人[[トーマス・ブレーク・グラバー|グラバー]]と接触するが、反対される。[[4月 (旧暦)|4月]]には、下関開港を推し進めたことにより、攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛[[妾]]・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ逃れ、[[日柳燕石]]を頼る。[[6月 (旧暦)|6月]]に桂小五郎の斡旋により帰郷。
 
 
 
[[元治]]2年([[1865年]])[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]付で晋作は高杉家を[[廃嫡]]されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]、藩命により'''谷潜蔵'''と改名する。慶応3年([[1867年]])[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]には新知100[[石高|石]]が与えられ、谷家を創設して初代当主となる(明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名し現在に至る)。高杉本家は義兄の春棋が継いだ。
 
 
 
=== 四境戦争 ===
 
再度の長州征討に備え晋作は防衛態勢の強化を進めた。慶応2年([[1866年]])[[1月21日 (旧暦)|1月21日]](一説には[[1月22日 (旧暦)|1月22日]])、彼が桂小五郎・[[井上馨|井上聞多]]・伊藤俊輔たちと共に進めていた[[薩長同盟|薩長盟約]]が[[土佐藩]]の[[坂本龍馬]]・[[中岡慎太郎]]・[[土方久元]]の仲介によって[[京屋敷|京都薩摩藩邸]]で結ばれた。
 
 
 
[[5月 (旧暦)|5月]]、伊藤俊輔と共に薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「[[丙寅丸]]」(オテントサマ丸)を購入している。
 
 
 
[[6月 (旧暦)|6月]]の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍[[総督]]として「丙寅丸」に乗船し[[指揮 (軍事)|戦闘指揮]]を執った。[[周防大島]]沖で[[幕府海軍|幕府艦隊]]を夜襲してこれを退け、[[林友幸|林半七]]率いる[[第二奇兵隊]]等と連絡して周防大島を奪還している。[[小倉市|小倉]]方面では艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させている。その後[[小倉城]]近くまで進撃したものの[[肥後藩]][[細川家]]の軍勢に撃退され戦況は停滞した。
 
 
 
しかし、[[7月20日 (旧暦)|7月20日]][[征夷大将軍|将軍]][[徳川家茂]]が死去すると、[[7月30日 (旧暦)|7月30日]]には[[肥後藩]]・[[久留米藩]]・[[柳川藩]]・[[唐津藩]]・[[中津藩]]が撤兵、幕府軍総督[[小笠原長行]]も海路で小倉から離脱、残された小倉藩が[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]小倉城に火を放ち逃走したため幕府軍の敗北が決定的となった。幕府の権威は大きく失墜し翌慶応3年(1867年)[[11月 (旧暦)|11月]]の[[大政奉還]]へとつながることとなった。
 
 
 
その後、下関市桜山で[[肺結核]]の療養中の慶応3年[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]([[1867年]][[5月17日]])に死去。[[享年]]29(満27歳没)。臨終には父・母・妻と息子がかけつけ、[[野村望東尼]]・[[山縣有朋|山県狂介]]・[[田中光顕|田中顕助]]が立ち会ったとされる(ただし田中自身は当日は京にいたと日記に記している)。
 
 
 
== 墓所 ==
 
[[画像:Togyo-an (Shimonoseki).JPG|thumb|220px|墓所・[[東行庵]] (下関市)]]
 
[[画像:Tomb of Shinsaku Takasugi (Shimonoseki).JPG|thumb|220px|墓 (東行庵敷地内)]]
 
墓所は[[山口県]][[下関市]]吉田の[[東行庵]]にある。2016年4月に晋作の生前の遺言を刻んだ「墓誌碑」が建立された<ref>{{Cite news|url=http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_kitakyushu_keichiku/article/260030|title=高杉晋作の墓誌碑建立 東行庵、生前託した遺言刻む|newspaper =[[西日本新聞]]|date=2016-07-20|accessdate=2016-07-20}}</ref>。
 
 
 
また木戸孝允・[[大村益次郎]]らによって東京招魂社(現在の[[靖国神社]])に[[吉田松陰]]・[[久坂玄瑞]]・[[坂本龍馬]]・[[中岡慎太郎]]たちと共に祀られた。
 
 
 
== 人物 ==
 
* いわゆる[[辞世|辞世の歌]]について、
 
** 「おもしろきこともなき世'''を'''おもしろく」
 
** 「おもしろきこともなき世'''に'''おもしろく」
 
: の両説あるが、晋作直筆になる歌が残されていないため、正確なところは不明。なお東行庵の句碑には「に」とあり、[[防府天満宮]]の歌碑では「を」となっている。[[古川薫]]の著書では「を」が採用されている一方、[[一坂太郎]]は「に」を採用し「『を』は後年の改作であろう」としている。また「に」が正しい場合「を」が広まることはなかっただろうという批判もある。
 
: かつては死の床にあった晋作が詠み、晋作を看病していた[[野村望東尼]]が「'''すみなすものは心なりけり'''」という下の句をつけたと言われていたが、近年の研究によればこの歌は死の前年にすでに詠まれていたという記録があり、正確には辞世ではないという説が有力である。
 
* [[都々逸]]「'''三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい'''」(添寝の部分が『朝寝』とされていることもある)は一般に晋作の作であると言われている([[木戸孝允]]作の説も有り)。この都々逸は、現在でも萩の[[民謡]]である「[[男なら]]」や「[[ヨイショコショ節]]」の歌詞として唄われている。
 
* 晋作は長身ではなく小柄であり本人もそれを気にしていたため直立して撮った写真は現存しない。また小柄ではあったが長い[[日本刀|刀]]を好んで愛用していた。その姿は刀が長いため引きずって歩いているように見えたという。
 
* 師である吉田松陰は晋作の非凡さを逸早く見抜き、剣術ばかりであまり学業に本腰を入れない晋作を奮起させるためあえて、同門で幼馴染でもある優秀な久坂ばかりをべた褒めしたという。晋作は悔しさをバネに自身の非凡さを発揮。玄瑞と肩を並べお互いを切磋琢磨しあうなどとても優秀であったという。
 
* [[公金]]と私金の区別をつけない人物だった。藩の金で軍艦を二度、購入しようとしたこともある。
 
* 一度日本に駐在していた英国人兵に頼まれ刀を見せた事があったが、武士の魂ともいえる刀を物めずらしいと何度も見せてくれと言われその事を遺憾に感じた晋作はそれ以後決して見せる事は無かったという。
 
* 晋作が[[上海市|上海]]で購入した[[スミス&ウェッソン|S&W]]モデル2アーミー 33口径6連発が、坂本龍馬に贈られた。
 
* のちに[[伊藤博文]]は[[彦島]]の前を船で通過した際、「あのとき高杉が租借問題をうやむやにしていなければ、彦島は[[香港島|香港]]になり、下関は[[九龍|九龍半島]]になっていただろう」と語っている。
 
 
 
== 言動 ==
 
「死すべきときに死し、生くべき時に生くるは英雄豪傑のなすところである。両三年は軽挙妄動せずして、専ら学問をするがよい。その中には英雄の死すべき時が必ず来る」<ref>『維新夜話』田中光顕</ref>
 
 
 
 
 
「およそ英雄というものは変なき時は非人乞食となって潜れ。変ある時に及んで龍の如くに振舞はねばならない」<ref>『維新夜話』田中光顕</ref>
 
 
 
 
 
「男子と言うものは困ったと言うことを決して言うものではない。これは自分が父から平生やかましく言われたことであるが、困ったと言う時は死ぬ時である。どんな難局に處しても、何困らぬと言う気概でやっておると、自づと通づるものである。どんな難局にも必ず逃れ路がある。行き当れば曲り路ありと言う訳である。断じて困らぬと言う気概でやっていれば必ず道はつくものである。だから困ったという一言だけは決して口にしてはいけない」<ref>『維新夜話』田中光顕</ref>
 
 
 
== 評価 ==
 
* [[吉田松陰]]
 
**「有識の士なり。しかし、学問をつとめず。またすこぶる意に任せ自ら用うるの癖あり。余かつて玄瑞を挙げ以て晋作を抑ゆ。晋作の心、甚だ服せず。未だ幾ばくならず。晋作の学業にわかに長じ、議論益々たかし。同志皆為に衽を斂む。余事を議するごとに多く晋作を引き之を断ず。その言往々、あなどるべからざる也」<ref>『松陰とその門下』</ref>
 
**「その精識に至っては余の及ぶところではない」
 
* [[久坂玄瑞]] 「思慮周密、その才は当世無比」 
 
* [[伊藤博文]] 
 
**「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」
 
**「中々勇悍の人であった。創業的才藻には余程富んで居った」<ref>『伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談』近代デジタルライブラリー</ref>
 
* [[中岡慎太郎]] 「胆略有り、兵に臨みて惑わず、機を見て動き、奇を以って人に打ち勝つものは高杉東行(晋作)、是れ亦洛西の一奇才」
 
* [[勝海舟]] 「年は若し、時が時だったから、充分器量を出さずにしまったが、なかなか活気の強かった男さ」<ref>『海舟言行録』</ref>
 
*[[田中光顕]] 「奇策縦横、神出鬼没、その一挙手一投足がすべて天下の魁となって闔藩の意気を鼓舞したのみならず、全国勤王運動運動家の指導者の役を務めている」<ref>『海援隊長坂本竜馬』</ref>
 
*[[三浦梧楼]]
 
**「高杉晋作と云う人は全く偉人であったよ。我輩が是れまで偉い人だと思ったのは、この高杉一人だ。実に目先の早い、機敏な人で、臨機応変、奇智沸くが如くであった。(中略)その鬼謀神算、到底常人の遠く及ぶべき所でない」<ref>『観樹将軍縦横談』近代デジタルライブラリー</ref>
 
**「今日までいろんな人にも接したが、あれ位感服し信頼した人もなかった。丈のすらりとした、男前も立派だった。平生は優しい目をしておられたが、それがどうかすると、ギロリと光ったものだ。その時は怖ろしさが、ぞっと身に染みるようだったよ。総てが親とは反対でな。先生の親は小心な謹直一方の人で、高杉小忠太といえば、真面目なおとなしい人で通っておったものだ。父母の教訓、家庭の修養もあろうが、それ以外ああいう男が生まれたのは、天ぢゃノウ。それで高杉は『鴉の白糞』で、長州の評判になったものぢゃ」<ref>『観樹将軍豪快録』近代デジタルライブラリー</ref>
 
**「一方は血気旺盛な国士の典型、言わば蓋世の英雄であるが、他方は風流韻事を事とする、既に世故に長けた老成の風があった」<ref>『観樹将軍豪快録』近代デジタルライブラリー</ref>
 
* [[渡邊嵩蔵]] 「久坂と高杉の差は、久坂には誰も附いて往きたいが、高杉にはどうにもならぬと皆言う程に、高杉の乱暴なり易きには人望少なく、久坂の方人望多し」<ref>『吉田松陰全集 第12巻』</ref>
 
 
 
== 系譜 ==
 
高杉氏のルーツは諸説あり、[[備後国]][[三谿郡]]高杉村(現在の広島県[[三次市]]高杉町)に所在した[[高杉城]]を指摘する説と、 [[安芸国]][[高田郡]]西浦村(現在の広島県[[安芸高田市]]吉田町西浦)に所在した[[高杉山城]]を指摘する説がある。こちらの城跡には高杉晋作が高杉氏の13代目の子孫であることを示す碑が晋作の子孫により[[昭和]]10年([[1935年]])に建立された。
 
どちらの高杉城も晋作の先祖と関わりがあると思われるが、詳細は不明である。
 
<pre>小四郎春時 ─ 春光 ─ 春貞 ─ 就春 ─ 春俊 ─ 春信 ─ 春善 ─ 春明 ─ 小左衛門春豊 ─ 小忠太春樹 ─ 晋作春風 ─ 東一 ─ 春太郎 ─ 勝 ─ 力─ 夏美</pre>
 
 
 
== 著作物 ==
 
* 『遊清五録』 高杉晋作(著)
 
* 『東行先生遺文』 高杉晋作(著)、 東行先生五十年祭記念会(編纂)、 [[民友社]](出版)
 
 
 
== 関連作品 ==
 
=== 小説 ===
 
* [[司馬遼太郎]]『[[世に棲む日日]]』([[文春文庫]])
 
* 司馬遼太郎『[[十一番目の志士]]』(文春文庫)
 
* [[山岡荘八]]『高杉晋作』([[講談社文庫]])
 
* [[三好徹]]『高杉晋作』([[学習研究社]]、のち[[学陽書房]]人物文庫、[[学研M文庫]])
 
* [[秋山香乃]]『晋作 蒼き烈日』([[日本放送出版協会]])
 
* [[池宮彰一郎]]『高杉晋作』(講談社文庫)
 
* [[林房雄]]『青年』([[中央公論社]])
 
* [[古川薫]]『高杉晋作奔る』(講談社文庫)
 
* 古川薫『高杉晋作 -戦闘者の愛と死-』([[新潮文庫]])
 
* [[今江祥智]]『マイ・ディア・シンサク』([[新潮社]])
 
 
 
=== 映画 ===
 
* 『[[高杉晋作 (1925年の映画)|高杉晋作]]』([[1925年]]、[[帝国キネマ]]、[[映画監督|監督]]:[[広瀬五郎]])
 
* 『[[高杉晋作 (1928年の若山治監督の映画)|高杉晋作]]』([[1928年]]、[[日活]]、監督:[[若山治]])
 
* 『[[高杉晋作 (1928年の広瀬五郎監督の映画)|高杉晋作]]』(1928年、[[東亜キネマ]]、監督:広瀬五郎)
 
* 『[[高杉晋作 (1928年の長尾史録監督の映画)|高杉晋作]]』(1928年、[[市川右太衛門プロダクション]]、監督:[[長尾史録]])
 
* 『[[高杉晋作 (1937年の映画)|高杉晋作]]』([[1937年]]、[[今井映画製作所]]、監督:[[下村健二]])
 
* 『[[海峡の風雲児]]』([[1943年]]、[[大映]]、監督:[[仁科熊彦]]、演:[[嵐寛寿郎]])
 
* 『[[狼火は上海に揚る]]』([[1944年]]、[[大映]]・[[中華電影]]、監督:[[稲垣浩]]・[[岳楓]]・[[胡心霊]]、演:[[阪東妻三郎]])
 
* 『[[幕末太陽伝]]』([[1957年]]、日活、監督:[[川島雄三]]、演:[[石原裕次郎]])
 
* 『[[幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬]]』([[1986年]]、[[東宝]]、監督:[[河合義隆]]、演:[[吉田拓郎]])
 
* 『[[長州ファイブ]]』([[2006年]]、リベロ映画、監督:[[五十嵐匠]]、演:[[寺島進]])
 
 
 
=== テレビドラマ ===
 
;高杉晋作が主人公のテレビドラマ
 
:* 『[[高杉晋作 (テレビドラマ)|高杉晋作]]』([[1963年]]、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]、演:[[宗方勝巳]])
 
:* 『[[奇兵隊 (テレビドラマ)|奇兵隊]]』(1989年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[年末時代劇スペシャル]]、演:[[松平健]])
 
:* 『[[蒼天の夢 松陰と晋作・新世紀への挑戦]]』([[2000年]]、[[日本放送協会|NHK]]、演:[[野村萬斎#二世野村萬斎|野村萬斎]])
 
;その他のテレビドラマ
 
:* 『[[三姉妹]]』([[1967年]][[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、演:[[山本學]])
 
:* 『[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]』([[1968年]]NHK大河ドラマ、演:[[和田浩治]])
 
:* 『[[天皇の世紀]]』([[1971年]]、朝日放送、演:[[原田大二郎]])
 
:* 『[[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]』([[1977年]]NHK大河ドラマ、演:[[中村雅俊]])
 
:* 『[[竜馬がゆく#1982年版|竜馬がゆく]]』([[1982年]]、[[テレビ東京]]、演:[[田村亮 (俳優)|田村亮]])
 
:* 『[[幕末青春グラフィティ 坂本竜馬]]』([[1982年]]、日本テレビ[[サントリー]]ドラマスペシャル、演:[[吉田拓郎]])
 
:* 『[[大奥 (1983年のテレビドラマ)|大奥]]』([[1983年]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、演:[[大橋吾郎]])
 
:* 『[[坂本龍馬 (テレビドラマ)|坂本龍馬]]』([[1989年]]、[[TBS大型時代劇スペシャル]]、演:[[井上純一 (俳優)|井上純一]])
 
:* 『[[野望の国]]』([[1989年]]、日本テレビ、演:[[陣内孝則]])
 
:* 『[[竜馬におまかせ!]]』([[1996年]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、演:[[寺脇康文]])
 
:* 『[[竜馬がゆく#1997年版|竜馬がゆく]]』([[1997年]]、[[TBSテレビ|TBS]]、演:[[西村和彦]])
 
:* 『[[竜馬がゆく#2004年版|竜馬がゆく]]』([[2004年]]、テレビ東京、演:[[葛山信吾]])
 
:* 『[[龍馬伝]]』([[2010年]]NHK大河ドラマ、演:[[伊勢谷友介]])
 
:* 『[[知られざる幕末の志士 山田顕義物語]]』([[2012年]]、毎日放送、演:[[桐山照史]])
 
:* 『[[花燃ゆ]]』([[2015年]]NHK大河ドラマ、演:[[高良健吾]])
 
 
 
=== テレビ番組 ===
 
* 『[[天皇の世紀]] 第二部 7 馬関の戦い』(1973年、朝日放送、演:[[岸田森]])
 
* 『[[時代劇法廷|時代劇法廷スペシャル 被告人は坂本龍馬]]』(2015年、[[時代劇専門チャンネル]]、演:[[上山竜治]])
 
 
 
=== 漫画 ===
 
;高杉晋作が主人公の漫画
 
:* [[はしもとみつお]]『走れ晋作』(角川書店)
 
;その他の漫画
 
:* [[武田鉄矢]]・[[小山ゆう]]『[[お〜い!竜馬]]』([[小学館]])
 
:* [[高橋ツトム|髙橋ツトム]]『[[SIDOOH/士道]]』([[集英社]])
 
:* [[和月伸宏]]『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』(集英社)
 
:* [[村上もとか]]『[[JIN-仁-]]』(集英社)
 
:* [[青池保子]]『[[イブの息子たち]]』(6巻・7巻に登場)([[秋田書店]])
 
:* [[杉本亜未]]『夕凪』(『春やきぬらん』に収録)([[角川書店]])
 
:* [[むつ利之]]『龍馬へ』([[講談社]])
 
:* [[奈々巻かなこ]]『声音師2(『狐宿』の回)』(小学館)
 
:* [[真船一雄]]『[[スーパードクターK]](『カルテ224 幕末蘭方医外伝』に登場)』(講談社)
 
:* 『日本の歴史15 ゆきづまる幕府』(小学館)
 
:* 『日本の歴史16 幕末の風雲』(小学館)
 
:* [[斉藤栄一]]『萩が生んだ若き志士 吉田松陰とその門下生』
 
:* [[加瀬あつし]]『[[ばくだん!幕末男子]]』(4巻から登場)(講談社)
 
 
 
=== 舞台 ===
 
* 『彦馬がゆく』[[本間憲一]]-高杉晋作役(2002年1月8日 - 2月3日渋谷PARCO劇場 2002年2月9日 - 3月3日大阪シアタードラマシティ 2002年3月9日 - 3月31日ル テアトル銀座)
 
* 『維新回天竜馬伝』[[十輝いりす]]-高杉晋作役(2006年11月 - 12月宝塚大劇場 2007年1月 - 2月東京宝塚劇場)
 
* 『上海大冒険』[[小市慢太郎]]-高杉晋作役 1990年4月28日(土)~30日(月)扇町ミュージアムスクエア
 
 
 
=== ゲーム ===
 
* 『[[明治維新 (ゲーム)|明治維新]]』([[ユース]])
 
* 『[[維新の嵐]]』シリーズ([[コーエー]])
 
* 『[[坂本龍馬・維新開国]]』([[KID (ゲームブランド)|KID]])
 
* 『[[風雲 幕末伝]]』([[元気 (ゲーム会社)|元気]])
 
 
 
=== フィギュア ===
 
* 『歴史英雄シリーズ 高杉晋作』([[トレジャーワークス]])原型制作 高橋渉 samuraidoll
 
* 『幕末維新 胸像シリーズ 高杉晋作』(samuraidoll)原型制作 高橋渉
 
 
 
=== 歌謡曲 ===
 
* 高杉晋作([[三波春夫]])
 
* [[あゝ高杉晋作]]([[三橋美智也]])
 
* [[MUCH BETTER (吉田拓郎のアルバム)|「うの」ひと夏 by 高杉]]([[吉田拓郎]])
 
 
 
=== CM ===
 
* [[ACジャパン]]2015年度の[[結核予防会]]支援キャンペーン「[[JOY (ファッションモデル)|JOY]]と偉人」(肖像で出演)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 東行詩集([[東行庵]])
 
* 東行生誕150年記念 高杉晋作と奇兵隊([[東行庵]])
 
* [[一坂太郎]]『晋作語録』([[山口新聞社]])
 
* 一坂太郎 ・ [[吉岡一生]]『高杉晋作を歩く』([[山と渓谷社]]) ISBN 4-635-60061-0
 
* 一坂太郎『高杉晋作』([[文春新書]]) ISBN 4-16-660236-5
 
* 一坂太郎『長州奇兵隊』([[中公新書]]) ISBN 4-12-101666-1
 
* 一坂太郎『松陰と晋作の志』([[ベスト新書]]) ISBN 4-584-12076-5
 
* 一坂太郎『クロニクル高杉晋作の29年』([[新人物往来社]]) ISBN 978-4404035608
 
* 一坂太郎『漢詩改作の謎』([[世論時報社]])
 
* 一坂太郎『高杉晋作探求』([[春風文庫]])
 
* [[童門冬二]]『疾走の志士 高杉晋作』([[ベストセラーズ]]) ISBN 978-4584186817
 
* [[古川薫]]『高杉晋作』([[創元社]]) ISBN 4-422-20406-8
 
* 古川薫『長州奇兵隊』(創元社)
 
* 『別冊[[歴史読本]]10 長州の革命児 高杉晋作』(新人物往来社)
 
* 『しものせき・人・物語三』([[山口新聞社]])
 
* [[八尋舜右]]『歴史と史蹟をたずねて 高杉晋作』([[成美堂出版]]) ISBN 978-4415064161
 
* 『歴史読本臨時増刊クロニクル2 高杉晋作の29年』(新人物往来社)
 
* 『幕末維新百人一話3 高杉晋作をめぐる群像』([[青人社]])
 
* 『[[歴史群像]]シリーズ46 高杉晋作』([[学研ホールディングス|学研]])
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[萩循環まぁーるバス]] - 萩市で運営されている[[コミュニティバス]]。運用している2台のバスの内、1台を「晋作くん」と呼称している。なお、もう1台のバスの名前は[[吉田松陰|松陰先生]]である。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commons|Category:Takasugi_Shinsaku}}
 
{{wikiquote|高杉晋作}}
 
* [http://www.tougyouan.jp/ 史跡・高杉晋作墓所 花の寺 宗教法人 東行庵]
 
* [http://8.health-life.net/~susa26/zakkityo/sinsaku/index.htm 高杉晋作漢詩集]
 
* [http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/jinmei/Takasugi.html 京都大学附属図書館 維新資料画像データベース]
 
 
 
{{Normdaten}}
 
  
 
{{デフォルトソート:たかすき しんさく}}
 
{{デフォルトソート:たかすき しんさく}}
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[[Category:神道無念流剣術]]
 
[[Category:神道無念流剣術]]
 
[[Category:結核で死亡した日本の人物]]
 
[[Category:結核で死亡した日本の人物]]
[[Category:日本の神 (人物神 松門神社)]]
 
 
[[Category:1839年生]]
 
[[Category:1839年生]]
 
[[Category:1867年没]]
 
[[Category:1867年没]]

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高杉晋作.jpg
高杉 晋作
通称: 東行
生年: 天保10年8月20日1839年9月27日
生地: 日本の旗 長門国
没年: 慶応3年4月14日1867年5月17日
(満27歳没)
没地: 日本の旗 長門国 下関
活動: 尊王攘夷倒幕運動
藩: 長州藩
所属: 奇兵隊
受賞: 正四位
母校: 明倫館松下村塾
廟: 靖国神社

高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日1839年9月27日)- 慶應3年4月14日1867年5月17日))

幕末の尊王派志士。長州藩士 150石高杉春樹の息。号は東行。松下村塾に学び,毛利定広の近侍となった。文久2 (1862) 年藩命を帯びて上海に密行し,外圧を意識して帰国。周布 (すふ) 政之助らと尊王攘夷運動の画策にあたり,藩内の百姓,町人をも含めた奇兵隊を組織し,士族の軍事専権制を打破した。翌年の文久三年八月十八日の政変で長州藩が京都で失脚し,第1次幕長戦争 (長州征伐 ) で敗れると,蟄居させられた。元治1 (64) 年四国艦隊下関砲撃事件に際して再び起用され,正義党の中心人物として反幕府の方向に藩論を統一,第2次幕長戦争では大いに幕府軍を破ったが,まもなく病没。



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