「阪神・淡路大震災」の版間の差分

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[[ファイル:阪神・淡路大震災.png|サムネイル]]
{{Otheruses|地震の被害|地震の概要|兵庫県南部地震}}
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[[ファイル:阪神・淡路大震災2.jpg|サムネイル]]
{{画像提供依頼|阪神高速道路および阪神地区の鉄道等の交通機関の被災写真(具体的に神戸市以外の被害の画像)|date=2015年2月|cat=兵庫県|cat2=大阪府}}
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(はんしん・あわじだいしんさい)
[[File:Hanshin-Awaji earthquake 1995 343.jpg|thumbnail|260px|[[湊川 (兵庫県)|湊川]]熊野橋東側すぐ南・[[トポス (ディスカウントストア)#過去に存在したトポスの店舗|トポス]]東山店前]]
 
[[File:Hanshin-Awaji earthquake 1995 342.jpg|thumbnail|260px|中山手通 [[神戸にしむら珈琲店|にしむら珈琲店]]前]]
 
[[File:Hanshin-Awaji earthquake 1995 337.jpg|thumbnail|260px|生田新道 [[東急ハンズ]]三宮店東側]]
 
[[File:Hanshin-Awaji earthquake 1995 336.jpg|thumbnail|260px|三ノ宮・神戸経理コンピューター専門学校近く]]
 
'''阪神・淡路大震災'''(はんしん・あわじだいしんさい)は、[[1995年]]([[平成]]7年)[[1月17日]]に発生した'''[[兵庫県南部地震]]'''による大規模[[震災|地震災害]]のことである。
 
{{Portal|災害}}
 
[[1995年]]([[平成]]7年)[[1月17日]]5時46分52秒([[日本標準時|日本時間]]=[[UTC+9]])、[[淡路島]]北部(あるいは[[神戸市]][[垂水区]])沖の[[明石海峡]]([[緯度|北緯]]34度35.9分、[[経度|東経]]135度2.1分、深さ16km)を[[震源]]として、[[マグニチュード|Mj]]7.3<ref group="注釈">古いモニュメントや資料の中にはM7.2とするものもあるが、これは、[[2001年]](平成13年)[[4月23日]]に[[気象庁]]が[[マグニチュード]]の算出方法の変更により7.3に修正したためである。</ref>の[[兵庫県南部地震]]が発生した。
 
  
[[近畿]]圏の広域([[兵庫県]]を中心に、[[大阪府]]、[[京都府]]も)が大きな被害を受けた。特に震源に近い神戸市市街地([[東灘区]]・[[灘区]]・[[中央区 (神戸市)|中央区]]([[三宮]]・[[元町 (神戸市)|元町]]・[[ポートアイランド]]など)・[[兵庫区]]・[[長田区]]・[[須磨区]])の被害は甚大で、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた。犠牲者は6,434名に達し、戦後に発生した地震災害としては、[[東日本大震災]]に次ぐ被害規模であり、戦後に発生した自然災害では、犠牲者の数で[[伊勢湾台風]]の5,098人を上回り、[[東日本大震災]]が発生するまでは最悪のものであった。
+
[[1995年]]1月17日午前5時46分頃,[[兵庫県]]南部で発生した[[マグニチュード]](<i>M</i>)7.3(気象庁)の地震。気象庁による正式名称は「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」
  
1995年1月25日の政令により、激甚災害法([[激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律]])に基づく[[激甚災害]]に指定。
+
震源は北緯 34°35.7′,東経 135°02.2′。震源の深さは約 16km。六甲・淡路島断層帯の一部が淡路島北部から阪神地区にかけて活動したために発生した内陸地震。
  
== 概要 ==
+
震源は明石海峡付近にあり,地震波から推定された[[断層]]は震源から北西―南東方向に延びた長さ 40~50kmの横ずれ断層で,その平均的なすべり量は約 2mである。淡路島北部の野島断層では地表に[[地震断層]]が現れた。
=== 特に甚大な被害があった地域 ===
 
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==== 兵庫県(阪神・淡路) ====
+
東北地方南部から九州地方までの広い範囲で有感となった。最大震度は気象庁の現地調査により断層に沿う[[神戸市]][[芦屋市]][[西宮市]][[宝塚市]][[北淡町]]で震度 7に達していたことがわかった。この地域では 1596年に <i>M</i>7規模の慶長伏見地震が発生している。また[[余震]]は断層に沿って長さ約 60kmにわたって分布し,本震の約 3時間後に最大余震(<i>M</i>5.4)が発生した。
*[[淡路島]]
 
*[[阪神]]地区
 
**[[神戸市]]
 
**[[芦屋市]]
 
**[[西宮市]]
 
**[[尼崎市]]
 
**[[宝塚市]]
 
**[[伊丹市]]
 
**[[川西市]]
 
**[[三田市]]
 
**[[猪名川町]] など
 
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==== 兵庫県(東播磨・北播磨・中播磨) ====
+
人的被害は死者 6434人,行方不明者 3人,負傷者 4万3792人(総務省消防庁)。建物の被害も大きく,全壊 10万棟あまりを含む半壊および一部損壊を合わせた被災家屋数は約 64万棟。269件の建物火災が発生し,全焼家屋数は約 7000棟に上った。
*東播磨
 
**[[明石市]]
 
**[[加古川市]]
 
**[[高砂市]]
 
**[[稲美町]]
 
**[[播磨町]]
 
*北播磨
 
**[[三木市]]
 
**[[吉川町 (兵庫県)|旧吉川町]]
 
**[[小野市]] など
 
*中播磨
 
**[[姫路市]](以下の地域を含む)
 
***旧[[飾磨郡]]([[夢前町]]、[[家島町]])
 
***旧[[神崎郡]]([[香寺町]])
 
***旧[[宍粟郡]]([[安富町]])
 
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==== 大阪府 ====
+
鉄道や道路の橋梁および高架橋などの落下,港湾地区での広範囲にわたる[[液状化]]の発生,また断水,停電,ガス供給停止など都市基盤の被害も甚大であった。
*[[豊中市]]
 
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=== 甚大な被害があった地域 ===
+
東海道山陽新幹線の新大阪―姫路間は 1995年4月20日までの約 3ヵ月間不通となった。政府はこの地震災害を「阪神・淡路大震災」と命名した。
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==== 兵庫県(丹波・北播磨・中播磨・西播磨) ====
 
*丹波
 
**[[篠山市]](旧[[篠山町]]・[[丹南町]]など)
 
**[[丹波市]](旧[[山南町]]、[[柏原町]]など)
 
*北播磨
 
**[[加西市]]
 
**[[西脇市]](旧[[黒田庄町]]を含む)
 
**[[加東市]](旧[[社町]]・[[滝野町]]など)
 
**[[多可町]](旧[[中町 (兵庫県)|中町]]など)
 
*中播磨
 
**[[福崎町]]
 
*西播磨
 
**[[たつの市]](旧[[龍野市]]など)
 
**[[太子町 (兵庫県)|太子町]]
 
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==== 大阪府(摂津) ====
 
*[[大阪市]](特に兵庫県境に近い[[西淀川区]]・[[淀川区]]・[[此花区]]・[[東淀川区]]など市内北西部・北部、および地盤の脆弱な[[城東区]]・[[鶴見区 (大阪市)|鶴見区]]などの市内北東部)
 
*[[吹田市]]
 
*[[茨木市]]
 
*[[高槻市]]
 
*[[池田市]]
 
*[[摂津市]]
 
*[[守口市]]
 
*[[箕面市]]
 
*[[豊能町]]
 
*[[能勢町]] など
 
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==== 大阪府(河内・和泉) ====
 
*河内・和泉
 
**[[堺市]]
 
*河内
 
**[[東大阪市]]
 
**[[八尾市]]
 
**[[寝屋川市]]
 
**[[門真市]]
 
**[[枚方市]]
 
など
 
*和泉
 
**[[岸和田市]]
 
**[[和泉市]]
 
**[[泉佐野市]]
 
**[[貝塚市]]
 
**[[泉大津市]]
 
**[[泉南市]]
 
など
 
 
 
==== 京都府 ====
 
*[[京都市]]
 
*[[亀岡市]]<ref group="注釈">地震発生直後の放送各局が被害報道したのが、亀岡市内の住宅全壊・半壊だった。[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]では同市内に住居していた[[辛坊治郎]]に電話取材を試みた。</ref>
 
*[[大山崎町]] など
 
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=== 地震の特徴 ===
 
地震による揺れとして、地震後の気象庁の地震機動観測班による現地調査で阪神間(神戸市・芦屋市・西宮市・宝塚市)および淡路島の一部([[津名町]]・[[北淡町]]・[[一宮町 (兵庫県津名郡)|一宮町]])に[[震度7]]の激震が適用された。神戸海洋気象台(神戸市[[中央区 (神戸市)|中央区]][[中山手通|中山手]])および洲本測候所([[洲本市]]小路谷)では震度6を観測し、地震機動観測班による現地調査で兵庫県南部の広い範囲に加え、大阪府でも大阪市[[西淀川区]]佃、[[豊中市]]庄本町、[[池田市]]住吉において震度6と判定される地域があった<ref name=Jma1997>{{Cite web |author=気象庁 |title=第2章 現地調査 |url=http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/pdf/101.pdf |format=pdf |work=気象庁技術報告, 第119号|publisher= |date=1997 |accessdate=2018-06-20}}</ref>。
 
 
 
ほか、東は[[小名浜]]([[福島県]][[いわき市]])、西は[[長崎県]][[佐世保市]]、北は[[新潟県]][[新潟市]]、南は[[鹿児島県]][[鹿児島市]]までの広い範囲で有感(震度1以上)となった。
 
 
 
[[戦後]]に発生した地震では、[[1946年]](昭和21年)の[[昭和南海地震]]や[[1948年]](昭和23年)の[[福井地震]]を大きく上回り、当時の地震災害としては戦後最大規模の被害を出した。被害の特徴としては、都市の直下で起こった地震による災害であるということが挙げられる。日本での都市型震災としては、大都市を直撃した[[1944年]](昭和19年)の[[昭和東南海地震]]以来となる。
 
 
 
福井地震を契機として新設された「震度7」が適用された初めての事例であり、実地検分(気象庁の地震機動観測班による現地調査)によって震度7が適用された最初の事例であった。しかし、現地調査後に震度7を発表したのでは対応が遅れるとの意見を踏まえ、この震災の翌年から震度7も計測震度によって速報可能な体制に変更された<ref name="Nakamori">中森広道, {{PDFlink|[http://www.showado-kyoto.jp/files/hansin1/113.pdf 1 阪神・淡路大震災における初動情報]}}</ref>。これ以降に発生した、2004年の[[新潟県中越地震]]や2011年の[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])、2016年の[[熊本地震 (2016年)|熊本地震]]における震度7の観測は、[[震度計]]によって実測されたものである。
 
 
 
建造物に対する被害が大きいとされる周期1-2秒程度のキラーパルスを伴った地震動は、数値上でも当時最大級のものとして記録され<ref>[[#Sangawa(2010)|寒川(2010), p259-260.]]</ref>、10秒以上続いた地域もあった(ただし、その後の地震では兵庫県南部地震を超える地震動が観測されている)。[[神戸海洋気象台]](現・神戸地方気象台)では、[[表面最大加速度|最大加速度]]818[[ガル]]<ref>[http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/hanshin_awaji/earthquake/index.html 阪神・淡路大震災の概要] 内閣府</ref>、最大速度105[[メートル毎秒#センチメートル毎秒|カイン]]、最大変位27cmの地震動が襲ったと分析されている<ref name="GSI">{{Cite web |author=神戸大学 |title=第2章 兵庫県南部地震 |url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/book/5-184/pdf/045-047.pdf |format=pdf |work= |publisher=神戸大学 |date= |accessdate=2018-06-21}}</ref>。これらは、[[釧路沖地震]](922ガル、67カイン、変位93cm)、[[ノースリッジ地震]](約800ガル、128カイン)に匹敵するものである。六甲アイランドの地震計では縦揺れ507ガルが記録された(日本で過去最大は[[2008年]](平成20年)[[6月]]に[[一関市]]で観測された4022ガルである<ref>{{Cite news|title=宮城県栗原市で2933ガル=強い揺れ2分強続く-気象庁|newspaper=時事通信|date=2011-03-11|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011031101193|accessdate=2011-03-12}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>)。
 
 
 
=== その他 ===
 
道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などの[[インフラストラクチャー|生活インフラ]](現代社会においては[[ライフライン]]と通称される例が多い)は寸断されて広範囲において全く機能しなくなった。これ以降、都市型災害および、地震対策を語る上で、「ライフライン」の早期の復旧、「[[活断層]]」などへの配慮、建築工法上の留意点、「[[仮設住宅]]」「[[罹災認定]]」等の行政の対策などが注目されるようになった。
 
 
 
もともと[[日本]]は地震大国であり、日本の[[建築物|大型建築物]]は大地震にも耐えられない構造であると分かり、[[1981年]](昭和56年)には大幅な建築基準法の改正が行われた。しかし、日本の建造物が安全であるとする報道に基づいた誤解をしている市民も多く、[[1982年]](昭和57年)以降に建てられた[[ビルディング|ビル]]・[[マンション]]・[[病院]]・[[鉄道]]の駅舎などでも広範囲にわたって倒壊・全半壊が多く見られた。
 
 
 
== 名称 ==
 
1995年1月17日午前5時46分に発生した当地震に対し、同日午前10時(4時間14分後)に政府が「兵庫県南部地震非常災害対策本部」の設置を決定した<ref name="KobeUniv-Awaji">[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/book/1-287/ メモリアル・フォト M7.2の恐怖](淡路町発行。[[神戸大学]]附属図書館「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/eqb/index.html 震災文庫]」)</ref>。同日午前11時、[[気象庁]]は当地震を「'''平成7年(1995年)兵庫県南部地震'''」({{lang-en-short|the 1995 Southern Hyogo Prefecture Earthquake}}<ref>{{PDFlink|[http://www.isc.ac.uk/iscbulletin/agencies/JMA-ops.pdf Operational Procedures of Contributing Agencies]}}(気象庁地震火山部 著。[[イギリス|英国]]国際地震センター 発行)</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.jma.go.jp/jma/en/Activities/jishintsunami/jishintsunami_low1.pdf 地震と津波 ― 防災と減災のために ― Earthquakes and Tsunamis – Disaster prevention and mitigation efforts –]}}(気象庁)</ref>)と[[気象庁が命名した自然現象の一覧|命名]]した<ref name="KobeUniv-Awaji"/>。
 
 
 
一方、当地震によって引き起こされた災害([[震災]])を指す名称は、マスメディア等により任意に命名されていた。{{要出典|範囲=気象庁による地震名発表に先立って[[毎日新聞]]が「'''阪神大震災'''」と呼び始め、他の報道機関の中にもこれに追随する動きが出始めた|date=2017年2月}}。また、[[朝日新聞]]や[[日刊スポーツ]]では「'''関西大震災'''」<ref>1995年(平成7年)1月18日各紙朝刊</ref><ref>『[[週刊朝日]]』1995年2月3日号、『[[アサヒグラフ]]』1995年2月1日号(2月10日号以後は「阪神大震災」の表記を使用)・『[[AERA]]』(1995年1月30日号、2月5日号緊急増刊、2月13日号、2月25日号臨時増刊、3月25日号臨時増刊など)・『[[諸君!]]』(1995年3月号、4月号)などでも「関西大震災」の表記がみられる。また、毎日新聞系のメディアでも『[[サンデー毎日]]』1995年2月5日号にて「関西大震災」の表記を使用したケースがあった。</ref>、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]では「'''関西大地震'''」など、当初は統一されていなかった。
 
 
 
[[2月14日]]、災害名を「'''阪神・淡路大震災'''」とすることが[[閣議]]で口頭了解された<ref name="KobeUniv-Awaji"/><ref name="bosai-HanshinAwaji-Outline">[http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/hanshin_awaji/earthquake/ 阪神・淡路大震災教訓情報資料集阪神・淡路大震災の概要](内閣府「防災情報のページ」)</ref>。これは政府が、神戸市を中心とした阪神地域および淡路島北部において被害が甚大であり、また、災害の規模が大きいことに加え今後の復旧に統一的な名称が必要と考えたためである<ref name="bosai-HanshinAwaji-Outline"/>。[[2月24日]]には、5年間の時限立法として[[阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律]](1995年(平成7年)法律第12号)が制定、即日施行された。
 
 
 
なお、大阪府下では[[豊中市]]を除くと兵庫県ほどの被害でないにも関わらず、「阪」の文字が入っているのは、兵庫県内における地域区分である「[[阪神間]]」(灘区・東灘区・芦屋市・尼崎市・西宮市近辺)における被害が甚大であったためである(なお、豊中市では南部を中心に甚大な被害が出ており、死者9名が出たほか、避難所暮らしを余儀なくされた人も多い)。ただし、上記の用法による「阪神」では神戸市、明石市も豊中市も外れてしまうことになり、大阪市や神戸市も含めた、より広義の「阪神」では大阪府西部・兵庫県南部の順で表現されていることになるため、なお異論は少なくない。そうしたこともあって、「'''南兵庫大震災'''」という表記を用いる書籍もある<ref>渡辺好庸(著)・西脇創一(写真)『検証 南兵庫大震災』[[論創社]]、1995年。ISBN 484600029X</ref>。
 
 
 
また、現在でも[[マスメディア]]などで単に「阪神大震災」と呼ばれることがある。これに対して疑問を持つ被災者もいる。大都市・大工業地帯・観光都市の一つである神戸・阪神地区だけが壊滅的な被害を受けたように表現され、同様に甚大な被害を受けた[[淡路島]]北部のほか、阪神地区の周辺について考慮されていないからである。
 
 
 
== 被害 ==
 
{| class="wikitable" style="text-align:right"
 
|+ 都道府県別の被害の内訳(兵庫県および合計は消防庁2006年5月19日確定値<ref name="damage">{{Cite web |author=兵庫県 |title=阪神・淡路大震災の被害確定について(平成18年5月19日消防庁確定) |url=http://web.pref.hyogo.jp/pa20/pa20_000000015.html |format= |work=|publisher= |date= |accessdate=2018-06-20}}</ref>。兵庫県以外は消防庁2000年1月11日時点<ref name="Naikakuhu bousai higai">{{Cite web |author=内閣府 |title=阪神・淡路大震災の概要と被害状況 |url=http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/pdf/101.pdf |format=pdf |work=防災情報のページ|publisher= |date= |accessdate=2018-06-20}}</ref>。)
 
! rowspan="2" | 都道府県 !! colspan="3" | 人的被害 !! colspan="4" | 家屋被害
 
|-
 
! 死者 !! 行方不明者 !! 負傷者 !! 全壊 !! 半壊 !! 全焼 !! 半焼
 
|-
 
| 兵庫県 || 6,402 || 3 || 40,092 || 104,004 || 136,952 || 7,035 || 89
 
|-
 
| 大阪府 || 31 ||  || 3,589 || 895 || 7,232 || 1 || 5
 
|-
 
| 京都府 || 1 ||  || 49 || 3 || 6 ||  ||
 
|-
 
| 徳島県 ||  ||  || 21 || 4 || 84 ||  ||
 
|-
 
| 奈良県 ||  ||  || 12 ||  ||  ||  ||
 
|-
 
| 滋賀県 ||  ||  || 9 ||  ||  ||  ||
 
|-
 
| 和歌山県 ||  ||  || 7 ||  ||  ||  ||
 
|-
 
| 香川県 ||  ||  || 7 ||  ||  ||  ||
 
|-
 
| 岐阜県 ||  ||  || 2 ||  ||  ||  ||
 
|-
 
| 三重県 ||  ||  || 1 ||  ||  ||  ||
 
|-
 
| 高知県 ||  ||  || 1 ||  ||  ||  ||
 
|-
 
| 鳥取県 ||  ||  || 1 ||  ||  ||  ||
 
|-
 
| 岡山県 ||  ||  || 1 ||  ||  ||  ||
 
|-
 
| 計 || 6,434 || 3 || 43,792 || 104,906 || 144,274 || 7,036 || 96<ref group="注釈">兵庫県以外の非住家2棟を含む。</ref>
 
|}
 
*死者
 
**兵庫県内の死者のうち、[[災害関連死]]による死者は919名 (14.3%)<ref>{{Cite news|title=避難の15人死亡、ストレスや疲労原因か|newspaper=読売新聞|date=2011-03-17|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110317-OYT1T00509.htm}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>
 
**2005年(平成17年)に死者数の計上ミスが発覚し、修正された<ref>{{Cite news|title=震災死者数計上ミス問題 名簿確認、宮城単独では困難|newspaper=河北新報|date=2013-02-03|url=http://www.kahoku.co.jp/news/2013/02/20130203t13010.htm}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>。
 
**焼死者数 403人(兵庫県の集計)、558人(各市の合計。神戸市528人など)<ref>{{Cite news|title=阪神・淡路の焼死者、2つの公式数の「謎」|newspaper=神戸新聞|date=2014-08-17|url=http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/20/201408/0007271511.shtml}}</ref>
 
*負傷者
 
**重傷者:県内10,494名 (98.2%)、県外189名 (1.8%)<ref name="damage" />
 
**軽傷者:県内29,598名 (89.4%)、県外3,511名 (10.6%)<ref name="damage" />
 
*避難人数(ピーク時): 316,678人
 
*住家被害:全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟<ref name="damage" />
 
*火災被害:全焼7,036棟、焼損棟数7,574棟、罹災世帯8,969世帯<ref name="damage" />
 
*その他被害:道路7,245箇所、橋梁330箇所、河川774箇所、崖崩れ347箇所<ref name="damage" />
 
*被害総額:約10兆円規模
 
[[関東大震災]]では、木造住宅が密集する地域での火災が被害を大きくしたため、主に[[焼死]]により日本の災害で最悪となる約10万人の死者を出し、[[東日本大震災]]では主に[[津波]]による[[水死]]で1万5千人を超える戦後最悪の死者を出したが、当震災では断層沿いに被害が集中して被災地域が狭かったものの、冬季の早朝に発生し自宅で就寝中の者が多かったため、主に圧死で6千人を超える死者を出した。甚大な被害を伴った震災であったが、その中でもいくつかの被害軽減の要因となった事項が挙げられる。
 
*発生時刻:冬季の早朝であったため、公共交通機関・道路の利用率が少なく([[山陽新幹線]]の下り列車は[[新大阪駅|新大阪]]発6時始発<ref>[[#Shimamura(2014)|島村(2014), p151-153.]]</ref>)、外出者も少なかったことで、市街地・自宅外での被害を抑えた。また、気温が日中10℃前後の低温の季節だったことから、倒壊建屋に閉じ込められた生存者の熱中症、凍傷等の衰弱要因がなかったことも人的被害を抑えた。さらに多くの被災者が就寝時の被災であったことから、本震時は毛布で身体を覆うことで落下物から防護したり、救出までくるまって暖をとっていた救助者もいた。多くの市民が自宅での被災だったため[[帰宅困難者]]などが発生しづらく、安否確認が比較的容易な状況であった。火の使用も少なかった。
 
*気象条件:風が穏やかで、延焼が最小限に抑えられた。降水が少なかった。
 
また、[[西宮市]]仁川では、住宅街に面した造成斜面において大規模な[[地すべり]]が起こり、34名が犠牲になった<ref>{{Cite news|title=埋もれた記憶 西宮・仁川の地滑り|newspaper=神戸新聞|date=|url=http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/09/rensai/P20121001MS00158.shtml}}</ref>。
 
 
 
=== 被災者の死因 ===
 
{{Double image aside|right|柏井ビル倒壊の推移Img335 b.jpg|200|Hanshin-Awaji earthquake 1995 Kashiwai-building 002.jpg|200|柏井ビル倒壊 推移1 傾いていた頃|柏井ビル倒壊 推移2 完全に倒壊}}
 
[[File:15bannkann-collapsed.jpg|thumbnail|220px|全壊した[[旧居留地十五番館]](中央区)]]
 
NHKによる死体検案書の分析によると、地震当日に死亡した5036人の76%に当たる3842人は地震から1時間以内に死亡しており、このうちの9割が圧迫死(圧死、窒息死など)だった<ref>NHKスペシャル取材班『震度7 何が生死を分けたのか -埋もれたデータ21年目の真実- 』、KKベストセラーズ、2016年、44-48頁。</ref>。多くは木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死したとみられる。特に1階で就寝中に圧死した人が多かった。
 
 
 
2階建て木造住宅の場合、「(屋根瓦と2階の重みで)1階の柱が折れて潰れるケース」が多かったが、建物が倒壊しても2階の場合は生存のスペースが残りやすく、死者は少なかった。
 
 
 
死者の10%相当、約600人は「室内家具の転倒による圧死」と推定する調査([[山口大学]]・教授大田らのグループ)があった。
 
 
 
また、死亡に至るまでの時間も短かった。遺体を検案した監察医のまとめでは、神戸市内の死者約2456人のうち、建物倒壊から約15分後までに亡くなった人が2221人と92%にも上り、圧死・窒息死で「即死」した人が大半を占めた<ref>{{Cite news|title=連載<「圧死」を追う>被災地発・問わずにいられない(2)検案書は語る|newspaper=神戸新聞|date=|url=http://www.kobe-np.co.jp/sinsai/96assi/ren-assi02.html}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>。サンデー毎日による調査では、分析対象とした247人のうち、47人が建物の下敷きになる一方、家具の下敷きは2人のみだった<ref>[http://www.ues.tmu.ac.jp/cus/archives/cn17/pdf/62-10.pdf 総合都市研究第61号 1996 阪神・淡路大震災:神戸市における死亡者発生要因分析 熊谷良雄ほか 2016年4月17日閲覧]</ref>。
 
 
 
死者のうち、20代が30代よりも200人近く多く、年齢階層ごとに死者数が増える東日本大震災と異なった様相を呈している<ref>[http://www.bousai.go.jp/kaigirep/hakusho/h23/bousai2011/html/honbun/2b_sanko_siryo_06.htm 内閣府 防災情報の頁参考資料6 東日本大震災と阪神・淡路大震災における死者数(年齢階層別・男女別)2016年4月17日閲覧]</ref>。20代が多かった理由としては大学が多い神戸市灘区などで高齢者と同様、文化住宅など木造アパートに住んでいた学生が、倒壊したアパートの下敷きになったケースが多いとみられている<ref>[http://www.isad.or.jp/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=IB17&ac2=109summer&ac3=6682&Page=hpd_view 一般社団法人 消防防災科学センター 2016年4月17日閲覧]</ref>。31大学111人が死亡し、特に、神戸大学では学生39人、教職員2人の大学関係最多の死者を出した<ref>[http://home.kobe-u.com/top/newsnet/sinsai/tokusyu/tuit_top.htm UNN関西学生報道連盟 2016年4月17日閲覧]</ref><ref>[http://www.kobe-u.ac.jp/NEWS/event/2016_01_15_01.html 神戸大学 神戸大学震災慰霊献花式(兵庫県南部地震犠牲者追悼行事) 2016年01月15日]</ref>。
 
 
 
=== 建造物 ===
 
==== 病院・ビル・マンション ====
 
[[File:Kobe City Medical Center West Hospital f121.jpg|thumbnail|220px|市立西市民病院]]
 
[[File:Hanshin-Awaji earthquake 1995 338.jpg|thumb|200px|right|震災直後の阪急三宮駅北口]]
 
[[超高層建築物]]は概ね無事であった。さらに、[[宮城県沖地震 (1978年)|1978年宮城県沖地震]]の被害を踏まえて[[1981年]](昭和56年)に改正された[[建築基準法]]に従って建築されたビルは被害も少なかった。老朽化したビル・一階が駐車場のビル・マンションの物件では被害も多かったものの、幸いにも死者は少なかった。一部の鉄筋コンクリートのマンションでは火災が発生していたが、隣戸に延焼することはなかった。
 
 
 
古いビルでは、日本ではありえないとされていた中層階の[[パンケーキクラッシュ]]が多数起こり、低層ビルでは1階の崩壊や、今まで日本では見られなかった建物が土台から切り離されて倒壊したりなど、多数の被害があった。傾いた状態だった柏井ビルは、翌朝の余震によって完全にフラワーロードに横倒しになった。そのほか兵庫区の「[[三菱銀行]]兵庫支店」([[1968年]](昭和43年)、鉄筋6階建て)、兵庫県薬剤師会館([[1967年]](昭和42年))、[[第一勧業銀行]]神戸支店([[1926年]]([[大正]]15年)、2階建て、[[長野宇平治]])が崩壊した。
 
 
 
===== 病院 =====
 
[[兵庫県]]内の342病院のうち、全半壊焼失が13であった。診療所を併せた2,926のうち、全壊239、半壊270、全半焼13、インフラの停止による診療停止973となり、約半数が機能を停止した。公式に数えられた負傷者だけでも35,000人である。神戸市内の災害医療機関3つのうち、[[神戸市立医療センター西市民病院|西市民病院]]本館が全壊し、[[神戸市立医療センター中央市民病院|中央市民病院]]が孤立し機能を失った。[[兵庫県立西宮病院|県立西宮病院]]438人、明和病院658人、笹生病院1029人、西宮渡辺病院1200人など負傷者で溢れかえった。逆に西宮市武庫川町の[[兵庫医科大学病院]]では[[救命救急センター]]の22人を含む274人の医師が待機したが、患者は平日の8%の約200人だけだった。
 
 
 
長田区にある[[神戸市立医療センター西市民病院|神戸市立西市民病院]]は本館5階が圧壊して入院中の患者44人と看護婦3人が閉じ込められる状態になったが、生存空間があったため即死することはなかった。後に患者1名が死亡した。他の損壊を免れた病院には多大な数の負傷者が搬送されることとなり、病院は軽度の入院患者については当日中に早期退院、またはほかの病院に転院させるなどして病床をできるだけ確保した。しかしそれでも病床の数が全く足りず、ロビーや待合室にソファーや布団を敷き詰めて病室とするなどの緊急処置を取らざるを得なかった。また、治療を行う医師の数も患者の数に対して圧倒的に不足していたこともあり、治療を待っている間に息絶えた人もいた<ref group="注釈">[[トリアージ]]の重要性が意識されることとなった</ref>。
 
 
 
長田区海運町の高橋病院には87人の入院患者がいたが、熱風や爆発のため鷹取中学校に避難した。
 
 
 
===== ビル =====
 
{{Double image aside|right|Kobe City Hall c136.jpg|200|Kobe City Hall j-f1.jpg|200|神戸市役所2号館}}
 
神戸発祥の[[竹中工務店]]建築では[[神戸国際会館]]7階、[[神戸市役所]]第2庁舎6階、[[ミント神戸|神戸新聞会館]]、[[神戸阪急ビル]]が倒壊し、2,500のビルのうち倒壊17、大破25、解体56、補修217であった。[[大成建設]]施工の[[明治安田生命保険|明治生命]]ビルは、フラワーロードに2.5mせり出した。
 
{{external media
 
|image1 = [http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/12/200610/img/b_05565582.jpg 被災した新聞会館] 神戸新聞
 
}}
 
[[神戸新聞]]は本社を西区の制作センター(印刷工場)に仮移転するとともに編集業務はダイヤニッセイビル(ハーバーランド)で仮構築し、1996年(平成8年)7月に[[神戸情報文化ビル]]へと正式に移転する。ただし、新本社への移転は震災以前からの既定方針で、同ビルも建設中だった。
 
 
 
当時、須磨区にあった[[ラジオ関西]]の本社も被災し、敷地内の仮設スタジオに移転したのち1996年(平成8年)6月に現在のハーバーランドへと移転した。
 
 
 
===== マンション =====
 
[[兵庫県]][[芦屋市]]若葉町・高浜町に位置する、海岸沿いの高級高層マンション群「芦屋浜シーサイドタウン」<ref group="注釈">設計は ASTM(アステム)(芦屋浜・[[新日本製鐵]]・[[竹中工務店]]・[[高砂熱学工業]]・松下電工〈現:[[パナソニック電工]]〉・[[松下興産]])。管理は[[日本住宅公団]]・兵庫県住宅供給公社・兵庫県・民間。14〜29階建て、総戸数3,381。[[1979年]](昭和54年)竣工。階段室と5階毎の共用部分の鉄骨による[[ラーメン (骨組)|ラーメン構造]]。</ref>では、厚さ5cm、幅50cmの極厚ボックス骨が3cm程度の距離で全面破断し、52棟中25棟で57箇所の破断があった。これは、想定通りの被害であったが<ref>日経アーキテクチュア</ref><ref group="注釈">限界以上の力がかかった時の破壊順序が決められており、中核になる部分が最後に壊れるようになっている。その後の余震でも大きな変化は無かった。</ref>、重量[[鉄骨]]造の[[脆性破壊]]の、日本での初めての例であった。マンションの鉄骨はむき出しとなっており、当時の気温(0℃程度)や使用鉄骨の低温特性、[[埋立地]]で増幅された地震動の高層ビルの固有周期との一致などにより、限界を超えたと考えられている。
 
[[File:Hanshin-Awaji earthquake 1995 345.jpg|thumbnail|200px|木造家屋の多い兵庫区・長田区の被害は特に甚大で、火災が多く発生した(兵庫区新湊川商店街)]]
 
 
 
==== 瓦屋根・木造・日本家屋の危険性 ====
 
日本瓦を使い、基礎が石に柱を載せただけで、[[筋交い]]の少ない老朽化した木造住宅でも多くの死者が出たため、神戸地域においては新築の[[瓦]][[屋根]]はほとんど見られなくなった。日本の伝統構法の流れを汲む[[木造軸組構法]]の住宅に被害が集中し、新しい住宅においても[[筋交い]]などが不十分であった物件は大きな被害を受けている<ref>{{PDFlink|[http://www.sharaku.nuac.nagoya-u.ac.jp/fukuwa/lecture-pdf/taishin2013-2.pdf その2(5/14  兵庫県南部地震における地震動と被害概要、5/21  兵庫県南部地震における戸建住宅の被害、5/28  兵庫県南部地震におけるRC・S造建物の被害)] 福和伸夫の耐震工学講義用PDF集}}</ref>。坂本功著の『木造建築を見直す』という書において「死亡者のうち5,000人近くは、軸組構法の住宅の下敷きによって圧死した」と述べている。しかし重要なのは、「構造的に問題のある建築に瓦屋根のものが多かった」にもかかわらず、一般的には「瓦が重いから問題」であると誤解されている<ref>横浜茂之 [http://www.tetras.uitec.ehdo.go.jp/download/GinouGijutu/199504/19950409/19950409_main.html 阪神大震災における木造建築物の被害と対策〈その1〉] 2011年1月17日閲覧{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref><ref>横浜茂之 [http://www.tetras.uitec.ehdo.go.jp/document/GinouGijutu/199505/19950507/19950507_index.html 阪神大震災における木造建築物の被害と対策〈その2〉] 2011年1月17日閲覧{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>。
 
[[File:Kobe34.jpg|thumb|right|200px|倒壊した家屋]]
 
古い木造住宅は年月の経過によって乾燥している点や、耐火材を使っていないなどの理由による火災の被害も多い。これは、神戸地区の木造住宅は、地震よりも[[台風]]に対応した木造住宅であり、振動に弱く瓦部分が重く、なおかつ瓦の固定方法も屋根に土を葺いてその上に瓦を載せる方法が多かったことにも起因している。なお、[[筋交い]]を多く入れてある木造住宅においては耐震性も十分にある。また、同じ木造住宅でも、[[プレハブ]]やツーバイフォー([[木造枠組壁構法]])と呼ばれる構法の住宅が耐震性を示している。3階建住宅の被害もほとんどなかった。
 
 
 
==== 生存空間 ====
 
日本の伝統構法の流れを汲む[[木造軸組構法]]で多くの即死者が出た原因は、ペシャンコになった建物の下敷きになり[[生存空間]]が無くなったためである。分解しやすい構造のため、地震の場合[[瓦屋根]]、屋根土、土壁、床、柱がバラバラになって落下し、下敷きになって人体が潰れるためである。揺れが小さい場合は土壁が建物を守るが、揺れが大きい場合は土壁も破壊され落下し凶器になる場合がある。
 
 
 
[[鉄筋コンクリート]]造りの場合は、強固な一体構造であり、大破しても柱、屋根、床はバラバラになって潰れることがない。柱は破壊されても、天井が低くなるだけで床や屋根部分はバラバラになることはなく、即死することが少ない。さらに普通のマンションの場合、壁が多く、壁が柱の役目をするので構造的にぺしゃんこになりにくい構造である。マンションは大破した場合でドアが開かない、大きな亀裂が入るなど住むことはできないが、建物の下敷きになって怪我をしたり即死することはない。例外的に低層階に会社、スーパーマーケットなど窓が大きく、柱が少なく、壁の少ない構造のマンションでは一階の柱が破壊され、天井が極端に低くなった例がある。
 
 
 
==== 建築基準法改正前の住宅 ====
 
耐震性を考慮に入れて建築基準法が改正された[[1981年]](昭和56年)以降で1982年頃から建築された物件の被害が少なかったことが報告されている。結果的に、改正された建築基準法の有効性が証明されることになった。倒壊して死者の出た住宅は1982年(昭和57年)以前の建築物件で、当時の建築基準法により設計されていて耐震性が弱かったともいえる。震災後も、1996年(平成8年)・[[2000年]](平成12年)・[[2006年]](平成18年)に建築基準法は改正されている。
 
 
 
危険な合法住宅の問題点としては、古い住宅の場合は耐震性がなく危険であっても違法ではない。違法かどうかは、新築時の建築基準法に対して判断するため、新築時の法規に適合していた建物は、その後老朽化し危険になっても違法ではない([[既存不適格]]と呼ぶ)。たとえば、建築基準法が無い江戸時代の建造物は危険であっても合法である。
 
 
 
3階建て住宅ではほとんど被害が出ていないのは[[1988年]](昭和63年)に建築基準法が改正・施行されるまでは、準防火地域において[[木造3階建て]]の建築は禁止されていたため、耐震性がない合法3階建住宅(古い3階建て)がなかったためである。また、日本では耐震性が不十分な住宅が国土交通省の推計より[[2008年]](平成20年)時点で約1050万戸(日本の住宅総数の約23%に当たる)あるといわれている<ref>{{PDFlink|[http://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/build/taishin/03hou2.pdf 「建築物の耐震改修の促進に関する法律の一部を改正する法律」の施行について(P9)(国土交通省)2011年(平成23年)1月13日閲覧]}}</ref>。
 
 
 
=== 交通 ===
 
[[File:Minatojimanakamachi c184.jpg|thumbnail|220px|液状化が発生した港島中町1丁目周辺]]
 
道路においては、[[中国自動車道]]や[[国道43号]]・[[国道2号]]において、復旧のための車線規制による渋滞が発生。特に、高架が崩落した阪神高速3号神戸線([[第二神明道路]]や[[姫路バイパス]]などと直結し、大阪 - 姫路間の連絡道路となっている)は、長らくの間不通となった。このため、鉄道の不通と相まって単に関西を通過するだけの道路交通にも深刻な影響を及ぼし、復旧までの期間には、[[国道9号]]・[[国道372号]](両国道で、京都 - 姫路間を迂回できる)や[[国道27号]]などの一般道に、長距離トラックや長距離バスが殺到した。当時は被災区間を一般道を通らずに迂回できるルートが一つもなく、京阪神を通らない迂回ルートの貧弱さが浮き彫りとなった。
 
 
 
鉄道においては、兵庫県などを走る[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)・[[阪急電鉄]]・[[阪神電気鉄道]]・[[山陽電気鉄道]]などが、震災による甚大な被害を受けた。(高架構造の駅舎である)ホームに、地震発生時に電車を留置した状態だった[[阪急伊丹線]][[伊丹駅 (阪急)|伊丹駅]]や[[東海道本線]]([[JR神戸線]])[[六甲道駅]]や阪神電鉄[[石屋川車庫]]の崩壊した映像は、阪神高速道路が倒壊した映像とともに、この震災を象徴することとなった。
 
 
 
[[地下]]の[[神戸高速線|神戸高速鉄道東西線]]の[[大開駅]]が崩壊したために、その上の[[国道28号]]において陥没が発生した。直後の[[交通規制]]などが迅速に行われなかったため、国道43号・国道2号・[[山手幹線 (兵庫県)|山手幹線]]などの神戸方面に至る主要幹線道路において、大規模な[[渋滞]]が発生した(規制をしなかった理由としては、この時の警察の方針が「倒壊家屋などからの人命救助」を優先していたためである)。
 
 
 
震災直後からJR・私鉄など各社間で、連携して行われたバスや他社鉄道線による代替輸送は、不通区間の解消とともに順次終了された。4月の段階で、最初に不通区間を全て解消したJRは、新年度の[[定期券]]発行でも優位な状況となり、その結果、利用者のシェアはJRへとシフトする形となった。
 
{{Main2|不通時の鉄道代替バス|バス代行#阪神・淡路大震災時の事例}}
 
収益源である[[神戸港]]も被害を受けて、多くの[[埠頭]]の使用が不可能となった。また、神戸市[[中央区 (神戸市)|中央区]]の[[ポートアイランド]]・[[東灘区]]の[[六甲アイランド]]・芦屋市の芦屋浜・尼崎市の築地地区など[[埋立地]]を中心に、地面が軟弱化する「[[液状化現象]]」が見られた。このために、海からの支援なども難しい状態となってしまった。
 
 
 
当時、建設中であった[[明石海峡大橋]]は、地震による直接的な被害はなかったものの、全長が1m伸びるという事態が発生した。大橋の淡路側の山上に、[[フランス革命]]200周年記念事業として日仏友好[[モニュメント]]が建設予定で、[[1995年]][[1月12日]]に日仏の関係者約220人が参加しくわ入れ式を挙行したが、その5日後に震災が発生し事業を休止していた。しかし、[[2015年]][[11月]]に発足時メンバーの逝去や建設再開の機運醸成が難しいことから、日仏友好のモニュメント日本委員会が事業中止と委員会解散を提唱。関係者がこれに承諾し、このプロジェクトは未完に終わった<ref>{{Cite web|url=http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201601/0008714226.shtml|title=日仏モニュメント未完で幕 主体の日本委解散|publisher=神戸新聞NEXT|accessdate=2016-01-12}}</ref>。
 
 
 
==== 道路 ==== <!-- 節名称変更時は注意:他記事からのリンク有り -->
 
[[File:Hanshin Expressway Nada b059.jpg|thumbnail|220px|崩壊した道43号線バイパス道路(灘区)]]
 
[[File:Hukae Honmachi a070.jpg|thumbnail|220px|阪神高速道路(東灘区)]]
 
 
 
===== 阪神高速道路 =====
 
[[File:阪神・淡路大震災で阪神高速道路が崩壊し、転落しそうになった観光バス。.jpg|thumb|200px|崩壊した高速道路とバス]]
 
[[阪神高速道路]][[阪神高速3号神戸線|3号神戸線]]の倒壊は、震災の甚大な被害を象徴するものとして世界中の[[新聞]]の一面に大きく掲載された。
 
 
 
「倒壊した高速道路が、倒壊する寸前に波打っていた」という目撃談話が報道番組において報じられている。橋脚と道路面の接合部分が地震によって破壊されたことも確認された。そのため、「柱の上にただ乗っかっている板」のような状態になり、耐震性はほぼゼロになったと考えられる。崩落した高速道路と、辛うじて残った部分との境に取り残された高速バスの写真が印象深いが、その部分ではこの事象が発生していたと考えられている<ref>2008年(平成20年)8月放送「[[衝撃の瞬間]]〜神戸を襲った大震災」([[ナショナルジオグラフィックチャンネル]])より</ref>。
 
 
 
被災し破損した構造物の実物や資料などは、1999年より、阪神高速が神戸市東灘区に有する震災資料保管庫にて展示されており、事前予約をすることで誰でも見学することができる<ref>{{Cite web |url=http://www.hanshin-exp.co.jp/company/torikumi/kouken/shinsaishiryoukan.html |title=震災資料保管庫 〜阪神淡路大震災での被災経験を後世に語り継ぐために〜 |accessdate=2017-04-20}}</ref>。
 
 
 
===== 中国自動車道 =====
 
[[中国自動車道]]では、[[吹田ジャンクション|吹田JCT]]と[[西宮北インターチェンジ|西宮北IC]]の間が不通となった。このことから、近畿地方内で[[京阪神]]を経由せずに、[[亀山市|亀山]]([[東海道]]沿線)や[[米原市|米原]]([[中山道]]沿線)から姫路([[山陽道]]沿線)まで行くには、[[北近畿#「迂回路」としての北近畿|北近畿]]の[[敦賀市|敦賀]]から[[和田山町|和田山]]までを通らなければ迂回できないということが指摘されている。また、近年、論議がかまびすしい[[道州制]]においても、この北近畿迂回路の存在から「地域的・交通的問題を解決するには、交通的一体性を重視した枠組みにすべき」という意見が出されている。
 
 
 
===== 交通規制 =====
 
震災直後、被災地の幹線道路で大規模な[[交通規制]]が実施された。当初は[[警察署]]が通行許可標章を発行していたが[[偽造]]が出回り[[渋滞]]の改善が見込めないため、その後[[コピー]]のできない新たな標章「復興標章」「除外標章」への切り替え、標章の交付審査を厳格にした。交通規制は[[阪神高速3号神戸線]]の復旧に合わせ徐々に緩和され1996年(平成8年)[[8月]]には全て解除となった。交通規制実施道路は次の通りである。
 
*復興物資輸送ルート - 国道43号の一部区間・[[名神高速道路]]の一部区間・[[阪神高速5号湾岸線]]の一部区間(復興・除外標章掲示車両・[[バス (交通機関)|バス]]・[[タクシー]]・[[緊急車両]]以外は通行できない。規制時間は[[日曜日]]・[[祝日]]を除く6時 - 19時)
 
*生活・復興関連物資輸送ルート - 国道2号の一部区間・[[阪神高速7号北神戸線]]・[[新神戸トンネル有料道路]]・第二神明道路(復興・除外標章掲示車両・バス・タクシー・[[貨物車]]・[[二輪車]]・緊急車両以外は通行できない。規制時間は道路により異なる)
 
 
 
==== JR ====
 
[[File:Rokkomichi Sta j-k1.jpg|thumbnail|220px|崩壊した六甲道駅]]
 
[[File:Sanyō Shinkansen i003.jpg|thumbnail|220px|山陽新幹線 高架の破損(西区)]]
 
{{main2|東海道・山陽本線|JR神戸線#阪神・淡路大震災からの復旧|播但線|播但線#阪神・淡路大震災の迂回路として|福知山線|福知山線#阪神・淡路大震災の迂回路として|加古川線|加古川線#阪神・淡路大震災の迂回路として}}
 
[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)も私鉄各社同様の被害を受けたが、どの私鉄よりも先に急速な復旧を遂げて、最初に運行を再開した。「資本力の違い」「旧[[日本国有鉄道|国鉄]]線だったため、[[線路 (鉄道)|線路]]脇に比較的余裕があり作業が行いやすかったこと」「旅客列車のほか、貨物列車も往来する物流の大動脈でもあったこと」「全国の[[JR|JRグループ]]から応援を呼んだこと」などが要因とされる。
 
 
 
===== 被害 =====
 
*JR[[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]発[[富山駅|富山]]行き「[[サンダーバード (列車)|スーパー雷鳥]]」1号([[鷹取駅]]まで回送中)…[[住吉駅 (JR西日本・神戸新交通)|住吉駅]]で被災、[[三ノ宮駅]]700m手前で停止。10両中8両が脱線。
 
*JR「[[シュプール号|シュプール白馬・栂池]]」6号・西明石発京都行き普通列車…住吉駅 - 三ノ宮駅間で脱線。
 
*JR六甲道駅…駅舎が倒壊。
 
*JR[[新長田駅]]…駅舎が全壊。
 
*JR鷹取駅…駅舎が半壊。
 
*[[山陽新幹線]]においては、[[橋脚]]の倒壊と倒壊箇所の調査から手抜き工事の痕跡が見つかっている。
 
*[[東海旅客鉄道]](JR東海)でも[[東海道新幹線]]の京阪間の一部で橋脚に亀裂が見つかったため、震災直後は[[京都駅]] - [[新大阪駅]]間で徐行運転(170km/h程度)を行っていた。
 
 
 
===== 不通区間の解消状況 =====
 
*[[東海道本線|東海道]]・[[山陽本線]](JR神戸線)…[[複々線]]であったため、地震発生翌日から[[姫路駅]] - [[西明石駅]]間、[[大阪駅]] - [[甲子園口駅]]間(複線)で順次、運転を再開した。駅舎の半壊した鷹取駅は、[[西日本旅客鉄道鷹取工場|JR鷹取工場]](2000年(平成12年)に廃止)の[[操車場]]に仮設ホームを設置して営業を再開した。また駅舎が全壊した新長田駅は当分の間、通過扱いをすることになった。配線変更などにより部分的に開通し、地震発生から74日後の[[4月1日]]に最後の不通区間である[[灘駅]] - 住吉駅間を復旧して、複々線での運転を再開し、[[新快速]]を朝夕に臨時扱いで増発した<ref group="注釈">この臨時列車は利用の定着に伴い、1996年(平成8年)3月16日の改正で定期列車に格上げされた</ref>。
 
*山陽新幹線…震災が起こった直後に8箇所の橋脚が倒壊し(幸い地震発生が始発前で倒壊による列車への影響はなし)、新大阪駅と姫路駅の間が不通となっていたが、81日後の[[4月8日]]に不通区間を解消した<ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/book/13-24/index.html|title=阪神・淡路大震災 鉄道の被災と復旧の記録|publisher=社団法人/日本鉄道建設業協会 大阪支部|accessdate=2018-1-8}}</ref>。
 
 
 
===== そのほかの対応・影響 =====
 
*復旧に至るまでの間、関西から東海道本線と山陽本線を経由して九州地方へ向かう<!--[[貨物列車]]に詳しい人はフォロー願います-->[[寝台列車|寝台特急]]「[[なは (列車)|なは]]」・「[[あかつき (列車)|あかつき]]」は、大阪駅 - 姫路駅間を[[福知山線]] - [[山陰本線]] - [[播但線]]のルートに迂回して運転されたほか、新大阪駅 - 姫路駅間を同様のルートで運行する「直通快速」が運行された。また、不通区間の迂回乗車客への対応として、[[加古川線]]では普通列車(1時間間隔)の増発、播但線では「ノンストップ快速」などの臨時列車の運行がなされた。
 
*東海道・山陽本線が分断されたために、電車列車(電車の[[パンタグラフ]]を下ろした状態で運行する)を[[ディーゼル機関車]]を使って、電化されていない区間の含まれる播但線・山陰本線を経由して[[福知山駅]]まで回送した。震災後は緊急時の迂回ルートとしての必要性があることから後の早期[[電化]]を求める結果となり、震災から10年後の2004年(平成16年)12月に加古川線の電化が完成した。新幹線は、JR東海・JR西日本ともに車両が他社区間に閉じ込められたために、復旧するまでお互いの車両を使用することとした。
 
 
 
==== 私鉄 ====
 
[[File:Hankyu Kotono c057.jpg|thumbnail|220px|阪急電鉄、琴ノ緒町]]
 
[[File:Ishiyagawa Syako a064.jpg|thumbnail|220px|阪神電鉄 石屋川車庫]]
 
[[File:Daikai Sta d026.jpg|thumb|200px|大開駅の崩壊で陥没した道路]]
 
被災地区を運行する鉄道路線のうち、最も南を走行する[[阪神本線]]は主に、東灘区から[[灘区]]における高架構造である区間に大きな被害を受けている。特に大きな被害を挙げると、[[御影駅 (阪神)|御影駅]]西方の[[留置線]]の車両が横転して大きく損壊した。[[阪神電気鉄道石屋川車庫|石屋川車庫]]も崩壊し、地震の発生が早朝であったために前夜から留置されていた多数の車両が崩壊に巻き込まれて損傷した。これは、この高架構造の区間が[[高度経済成長]]期の[[1967年]](昭和42年)に竣工した物件であり、[[耐震構造]]が十分ではなかったことが原因の一つとして指摘されている。また、この区間においては数箇所で鉄橋が落下し、南北にいたる道路が遮断された。
 
 
 
その後、日本各地の[[橋|橋梁]]において落下を防止するための補強工事が行われる契機ともなっている。三宮付近の地下区間で運行中に被災した車両と合わせて、41両の車両が一挙に廃車され、一度、車庫自体を全て解体撤去した後に、工事を翌年までかけて再建せざるを得なかった。
 
 
 
===== 被害 =====
 
*山陽電鉄運行の[[東二見駅|東二見]]発[[三宮駅|阪急三宮]]行き特急(6両・乗客約30人)…神戸高速鉄道東西線大開駅(地下)から90m時点で被災、時速58kmから130m走行後停止。「10秒遅れていたら潰れたトンネルに挟まれていた」といわれる。
 
*阪神電鉄[[新開地駅|新開地]]発[[梅田駅|梅田]]行き普通列車…[[春日野道駅 (阪神)|春日野道駅]]に停車・乗客降車中。1人負傷。
 
*神戸高速鉄道東西線の大開駅(地下)…崩壊。高速道路と同様、当時「[[地下鉄|地下鉄道]]は地震に強い」という風潮があったが、大開駅周辺は[[軟弱地盤]]かつ[[トンネル#開削工法|開削工法]]であったために、振動に揺さぶられて中間柱が崩壊したと考えられている。
 
 
 
===== 復旧が早かった路線 =====
 
*[[北神急行電鉄]]
 
**[[北神急行電鉄北神線|北神線]]…比較的に被害が少なく、翌[[1月18日]]から運転再開した。
 
*[[神戸市営地下鉄]]
 
**[[神戸市営地下鉄西神・山手線|山手線・西神線・西神延伸線]]
 
***[[1月18日]]から被害が少なかった[[板宿駅]] - [[西神中央駅]]間で運転を再開。
 
***[[2月16日]]、一部駅を封鎖しながらも北神線直通を含め、神戸市内で最も早く全線で運転を再開。
 
*[[神戸電鉄]]
 
**[[神戸電鉄粟生線|粟生線]](粟生駅で加古川線と接続)…[[1月19日]]に[[鈴蘭台駅]] - [[粟生駅]]間で運転を再開。
 
**[[神戸電鉄有馬線|有馬線]]([[谷上駅]]で[[北神急行電鉄北神線]]と接続)…1月19日に鈴蘭台駅 - [[有馬口駅]]間、[[2月7日]]に[[長田駅 (神戸電鉄)|長田駅]] - 鈴蘭台駅間、[[3月31日]]に有馬口駅 - [[有馬温泉駅]]間が運転再開。
 
**[[神戸電鉄公園都市線|公園都市線]]…1月19日に[[横山駅 (兵庫県)|横山駅]] - [[フラワータウン駅]]間で運転再開。
 
**[[神戸電鉄三田線|三田線]]…1月19日に有馬口駅 - [[三田駅 (兵庫県)|三田駅]]間で運転再開。
 
 
 
===== 鉄道会社ごとの不通区間の解消状況 =====
 
*阪急電鉄…(地震発生から146日後の)[[6月12日]]<ref name="railway">[http://web.pref.hyogo.jp/pa17/pa17_000000002.html 兵庫県/阪神・淡路大震災の支援・復旧状況]</ref>
 
*山陽電気鉄道…(152日後の)[[6月18日]]<ref name="railway" />
 
*神戸電鉄…(156日後の)[[6月22日]]、[[湊川駅]] - 長田駅間が運転再開、同日[[神戸電鉄神戸高速線|神戸高速鉄道南北線]]新開地駅 - 湊川駅間も運転再開し、全線が復旧した<ref>[http://www.rail.ac/kobe/dia/199501e.html 神戸鉄道資料館〜神戸電鉄〜車両とダイヤの歴史]</ref>。
 
*阪神電気鉄道…(160日後の)[[6月26日]]<ref name="railway" />
 
*神戸高速鉄道(阪急・阪神・山陽の各社が相互乗り入れ)…(208日後の)[[8月13日]]<ref name="railway" />
 
 
 
阪神に関しては、三宮駅 - [[高速神戸駅]]間で[[ピストン]]運転をしていた。このピストン運転はすでに運転再開された三ノ宮以東のJR東海道線と連絡することで被災者の大きな足となった。
 
[[File:Kobe port earthquake memorial park.jpg|thumb|right|200px|震災当時の状態が保存されている[[神戸港震災メモリアルパーク]]。[[浜手バイパス]]の奥に見える阪神高速神戸線も倒壊した。2004年(平成16年)2月撮影]]
 
 
 
==== 海上 ====
 
[[神戸港]]には、フェリーなどが[[四国]]・[[九州]]方面を中心に多く発着していたが、各発着所が壊滅的な損害を受けて使用不能に陥ったため、一時的には[[大阪港#南港|大阪南港]]などに発着地を変更して運航されていた。
 
 
 
陸上輸送が麻痺状態に陥っていたため、四国・九州方面とを結ぶメインルートとして、その後機能した。
 
 
 
また、[[ウォーターフロント]]の地盤が陥没した岸壁に仮設の桟橋を設けて、大阪 - 神戸間、神戸 - 西宮間など短距離の臨時航路も設けられ、代替交通機関として疎開する人・復興支援者の負担を少しでも軽減する努力を行った。
 
 
 
残された海岸部分を利用して、医療物資などの搬入も優先的に行っていた。多くの手助けの下、2年後の[[1997年]](平成9年)[[3月31日]]に、全ての埠頭・[[コンテナターミナル|コンテナバース]]が復旧した。そして、同年[[5月19日]]に「神戸港復興宣言」が発表された。
 
 
 
==== 空港 ====
 
揺れの激しかった[[大阪国際空港]]([[豊中市]]・[[池田市]]・[[伊丹市]])では[[滑走路]]・[[誘導路]]に亀裂が生じた。[[空港ターミナルビル]]も外壁などが損傷した。震源から離れた[[関西国際空港]](震災発生前年の[[1994年]]に開港)も空港ターミナルビル・[[関西空港駅]]・[[駐車場]]エリアにて[[建物]]の損傷が確認された。しかし、両空港ともに、[[航空機]]の運航等に影響は出なかった<ref>{{Cite web|url=http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/heisei07/1/71-1-1.HTM|title=平成7年度 運輸白書|publisher=運輸省|accessdate=2013-09-30}}</ref>。特に、被災地の大阪国際空港では、その日のうちに、[[警視庁]]・[[東京消防庁]]・[[自衛隊]]・[[アメリカ軍]]・[[日本国政府|政府]][[チャーター便]]が支援に多数飛来した。さらに、特別措置として、大阪国際空港は通常7時〜21時の運用時間制限を設けているが、運用時間外になる21時台の臨時便を運航させるなどして、復旧・復興に協力した<ref>{{Cite|和書 |author=イカロス出版 |title=関西3空港 |date=2011 |publisher=イカロス出版 |isbn=978-4-86320-445-4 |series=日本のエアポート}}</ref>。
 
 
 
== 消火・救助活動 ==
 
[[File:Taisho-suji market f164.jpg|thumbnail|220px|大正筋商店街]]
 
[[File:Fire of Great Hanshin earthquake Seen from Portisland.jpg|thumb|220px|ポートアイランドから長田区の火災を撮影]]
 
 
 
=== 火災 ===
 
特に神戸市の[[長田区]]においては、木造住宅が密集していた地域を中心に[[火災]]の被害が甚大だった。全体で7,000棟近い建物が焼失している。また、[[火災旋風]]は発生しなかったとされている<ref name="jjmf.9.105">[http://dx.doi.org/10.3811/jjmf.9.105 多発火災の周囲で発生する火災旋風] 混相流 Vol.9 (1995) No.2 P105-115</ref>。消防庁の資料によると<ref>{{Cite web|url=http://www.fdma.go.jp/html/new/syukabousi01.html|title=地震時における出火防止対策のあり方に関する調査検討報告書について|publisher=総務省消防庁|date=1998-07-23|accessdate=2012-11-27}}</ref>、地震後に計285件の火災が発生している。うち7割は地震発生当日の火災だが、6時までの出火件数が87件と、地震発生から一定時間が経過した後の発生が相当数ある。出火原因が判明したのは全体の約半数で、最も多かったのが電気による発熱体の85件で、ガス関係の13件、火種関係の12件と続く。地震翌日以降の出火では、送電の再開に伴うものがかなりあったとされている<ref>2011年に発生した東日本大震災では、送電再開による火災発生が心配され、家を離れる場合等はブレーカーを切るよう、マスコミを通じて注意が喚起された。{{Cite web|url=http://www.tohoku-epco.co.jp/information/1182212_821.html|title=東北電力からのお願い|publisher=東北電力|accessdate=2012-11-29
 
}}</ref>。
 
 
 
消火活動では上水道が断水したため、わずかな[[防火貯水槽]]を探しているうちに炎が延焼して被害が大きくなる結果となった。断水で水が出ないホースを持ったまま炎の近くで立ち尽くす消防士の姿が、報道映像として残されている。また、風によって巻き上げられた火の粉により消火活動が困難になった地域もある<ref name="jjmf.9.105"/>。火の手が大きくなりすぎて消火困難と判断した場合は、火勢に任せるまま消防員の判断で罹災者らの安全誘導を優先する「放任火災」と呼ばれる消防活動に切り替えられた。被災地近辺で放任火災活動が行われたのは、戦時中の明石空襲以来となった。一方、周辺住民が主体となり機械に頼らないバケツリレーによる消火(延焼防止)活動も行われている<ref>[http://www.city.kobe.lg.jp/safety/fire/hanshinawaji/syukihensyuubu3.html 咄嗟のバケツリレーが功を奏して-兵庫県南部地震・市民の防災活動-(1995年4月号掲載)] 阪神・淡路大震災 消防職員手記</ref>。
 
 
 
放任火災活動と併せて国道2号線・28号線などの大通りに消防隊を配備し、鎮火活動より延焼拡大を防ぐ活動が精一杯だった。17日午後からは各地から応援で駆けつけた消防隊員も加わってようやく鎮火活動に動き出した。消防隊は付近の[[新湊川]]、[[兵庫運河]]にホースを伸ばし、徹夜で放水活動を行った結果、完全に鎮火したのは2日後の19日であった。震災後、兵庫県・神戸市では防火貯水槽の整備、消防へのヘリコプターの活用が検討されている。
 
 
 
==== 問題点 ====
 
*当時神戸市市街地の消防団には可搬動力ポンプの配備がほとんどされておらず、消防団独自の消火活動ができなかった。
 
*水道施設が壊滅したためほとんどの消火栓が使えなくなり、消防隊は水利を求めて防火水槽や学校のプールを探して放水したが水は足りず、最後は神戸港から消防車7台を連結して4キロの遠距離送水も行った(最長は神戸市市民プールから神戸市西消防団のポンプ14台を連結して7キロの送水が行われた)。
 
*各地の消防車が応援に来ても消火栓とホースの[[規格]]が合わず(「ねじ込み式」と「マチノ式(差し込み式)」の2つがあり、未だ共通化されていない)、消火できなかったことが問題になった。
 
*走行する自動車によって道路上の消火ホースが踏まれたため、破損送水不能になる事象も多発した。
 
 
 
=== 公的機関による救助活動 ===
 
[[File:Hanshin-Awaji earthquake 1995 346.jpg|thumbnail|200px|消火活動。消防は人員も足らず、ほとんど手の付けようがなかった(兵庫区)。]]
 
地震発生後、[[日本の消防|消防]]・[[日本の警察|警察]]・[[自衛隊]]などの各組織は[[捜索救難|救助活動]]に入っているが、いくつかの問題点も指摘された。
 
 
 
また、この災害で一般にはあまり知られていなかった「[[挫滅症候群]](クラッシュ症候群)」が広く知られることとなった。
 
 
 
==== 消防・警察 ====
 
[[消防庁]]や[[警察庁]]が調整を行って全国の消防・警察から応援が現地に送られていたが、[[渋滞|交通渋滞]]に巻き込まれずに到着した人はほとんどいなかった。到着出来ても、大規模災害に対する技術・知識・装備・機材どれも満足とは言えない状況だったため、活動は難航した。
 
 
 
なお、[[東京消防庁]]は[[東京消防庁航空隊|航空隊]]の[[消防ヘリコプター]]によりいち早く[[特別救助隊]]を被災地に派遣して成果を上げた。当日11時八王子消防署特別救助隊に対しヘリコプターで直接神戸市に出動せよとの指示があり大型ヘリひばりで現地に向かい手持ち可能な器具のみの持ち込みであったが孤軍奮闘した。
 
 
 
都市部の消防・警察においては、自身が被害を受けていることもあり、初期における救助などの活動は円滑とはいえなかった。一方、淡路島においては、「地元の[[消防団]]および近隣住民が中心となった救助活動」が行われた。
 
 
 
特に、[[北淡町]]においては発生から約11時間で捜索救助活動および遺体収容が完了している<ref>{{Cite news|title=連載<「圧死」を追う>被災地発・問わずにいられない(4)地域の力/高めたか淡路の救命率|newspaper=神戸新聞|date=|url=http://www.kobe-np.co.jp/sinsai/96assi/ren-assi04.html}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>。建造物や人口の密度を勘案すれば、神戸市街地とは救助に要する時間を単純に比較はできないが、地震発生直後における近隣住民などの[[地域コミュニティー]]による救助活動の重要性を示している。
 
 
 
瓦礫の下の被災者を救出する車両が不充分であったほか、防災機関の(救急ヘリ)での搬送も少なかった(震災当日のヘリ搬送:西宮市にて1名のみ)。この搬送は大阪市消防局から緊急医薬品輸送に従事した機体が帰りに搬送したものである(62人/1週間(内、17人/3日間))<ref>[http://business3.plala.or.jp/hem-net/index.html HEM-Net]</ref>。ゆえに、負傷者の救出・搬送が遅れることとなった。
 
 
 
消防・警察はこの地震を教訓に全国の応援体制として[[緊急消防援助隊]](消防)と[[広域緊急援助隊]](警察)をそれぞれ創設し、[[東京消防庁]]は[[消防救助機動部隊]](通称:ハイパーレスキュー)を、[[横浜市消防局]]は機動救助隊(現在の[[横浜市消防局特別高度救助部隊|特別高度救助部隊:スーパーレンジャー]])を創設することになる。
 
 
 
==== 自衛隊と県知事 ====
 
自衛隊については、地震発生数分後には行動を始めたものの、阪急[[伊丹駅 (阪急)|伊丹駅]]へ近傍派遣([[災害派遣]])を行った[[第36普通科連隊]]を除き、神戸市中心部への災害派遣は直ちにはなされなかった。第36普通科連隊は、「近傍派遣」(自衛隊法第八十三条三項)によって出動しているが、他の部隊は知事の要請(自衛隊法第八十三条一項)の待機状態になっていた。
 
 
 
これを教訓に、自衛隊への派遣要請を[[都道府県知事]]のほか[[市町村長]]または[[警察署長]]などからも行えるよう、後に制度が改められた。
 
 
 
=== 防衛庁・自衛隊による一部マスコミ報道への反論 ===
 
発生から数か月の間の自衛隊報道については様々な内容のものが存在する。批判もあれば過度の期待をにじませた内容もあるが、一部については事実と異なるとして、[[防衛庁]]広報誌『[[セキュリタリアン]]』にて反論が行われている。下記に、同誌で否定された項目を列挙する。カッコ内は同誌が批判した報道(同誌は紙誌名の特定をしていないため、全て「某〜」といった表記になっている)。
 
*自衛隊のヘリによる消火活動ができたのではないか(各紙・テレビ・複数週刊誌等)<ref group="注釈">[[山火事]]のような事態と違い、都市部の消火活動時はピンポイントでの消火剤散布が要求されるため、低空飛行が求められるが、[[火災旋風]]の中でヘリを低空飛行させることは完全な自殺行為(気流が不安定な上に、高温下では空気の密度が低く、ヘリが飛ぶのに必要な[[揚力]]が得られない)であり二次災害を引き起こす可能性が非常に高い。</ref>
 
*自衛隊のヘリが、被災地上空を戦争気分で飛び回っている(某週刊誌)
 
*初動の段階でヘリコプターにより人員を(実際より)もっと被災地に投入できた(各紙)
 
*複数ヘリの撮影したビデオカメラを机の上に置きっぱなしにした、現地情報が東京六本木の防衛庁中央に全く上がってこなかった(某月刊誌)
 
*[[E-2 (航空機)|E-2C]] [[早期警戒機]]を出動させるべきだ(某月刊誌)
 
*地震発生後、現地部隊が出動できる体制を執りながら、出動命令がついに出ず、防衛庁(および官邸)に部隊の出動命令発出の許可を求めても、「待て」の言葉しか帰って来なかった(某週刊誌)
 
*災害時に自衛隊の「自己完結性」が仇にもなりうる(某月刊誌、筆者は憲法学者)
 
*松島総監が、初動態勢が遅れたとされたことについて釈明会見(某人気キャスター)
 
*約20年前に、消防飛行艇の計画が省庁間の「縄張り争い」によって実現しなかった(某紙)
 
*([[F-4 (戦闘機)|RF-4E]] について)偵察した情報をリアルタイムで電送により伝えられる(某週刊誌他)
 
なお、「指摘した事項はほんの一部」と記事は結ばれている<ref>自衛隊サイドからのマスコミ報道批判の出典は 長官官房広報課報道室「マスコミ報道を糾す」『セキュリタリアン』1995年3月号</ref>。
 
 
 
== 復興 ==
 
全国からさまざまな形の「救援・支援」が寄せられた。救援物資・義援金・ボランティア活動のほか、インフラストラクチャーの復興には他府県の電力会社・ガス会社などの多くの職員が復興応援のために現地入りした。
 
 
 
=== 街の復興 ===
 
[[File:震災後一年を経た阪神青木駅南側.jpg|thumb|震災1年後の青木地区・阪神青木駅南側]]
 
復興事業では、[[ライフライン]]の復旧が最優先とされた。[[送電|電気]]はほとんどの地域で3日から1週間程度で復旧が可能だったが、地下に埋まっている[[水道]]・[[都市ガス|ガス]]の復旧に長期間を要した。また神戸市では、当時水道局があった[[神戸市役所]]2号館6階が7・8階に押し潰されて被災したため、即時に資料が用意できず、水道管の経路情報の把握に時間を要するなど復旧に影響を及ぼしたとされる。その後、2号館は6階〜8階までを撤去し、5階建てとして修復されており、水道局も4号館に移転している。
 
 
 
復興支援物資の輸送も全国各地において受け付けられた。また、交通網も至る所で寸断されていた。大量の復興支援物資を早急に送るため、復旧よりも残された道路を優先的に整備して被災地と[[大阪市]]を結んでいた。
 
 
 
神戸近郊の道路でも、「[[神戸市]]に行く」といえば交通整理などで最優先に通行させてもらえるなど復興活動を支援する場面が見受けられた。
 
 
 
建造物の本格的な復興事業が開始されたのは、翌月に入ってからである。この頃には多くの機材・人材が全国から駆けつけて瓦礫の撤去や再建をサポートしていた<ref group="注釈">神戸市などは、2か月間は住民が無秩序に建物を建てないよう、[[建築基準法]]84条の建築規制をかけていた。読売新聞 2011年4月12日</ref><ref group="注釈">後に、「被災市街地復興特別措置法」も作られた{{Cite news|title=被災地、建築制限8カ月に 特例法案を閣議決定|newspaper=毎日新聞|date=2011-04-23|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110423ddm012040039000c.html}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}。</ref>。
 
 
 
=== 避難所・仮設住宅・復興住宅 ===
 
[[File:Wakinohama house c211.jpg|thumb|脇浜町仮設住宅]]
 
家が全・半壊した住民は学校や公共機関の建物に避難した。
 
 
 
被災地の学校の多くは休校。被災者は、体育館・教室などで寝起きした。また、公園にテントを張ったり、自家用車において寝起きしたりする人もいた。震災当初は、公的な避難所として学校等の公共施設を避難所として認めて食料・飲料水の配布がされていたが、その後、公園への避難者が形成していたテント村についても食料等の配布が行われるようになった。
 
 
 
震災発生後1か月を経て、[[プレハブ工法]]による[[仮設住宅]]が建設されて、入居が始まった。しかし、その多くが被災地を離れた郊外や周辺の自治体に建設されたために避難所から仮設住宅への移行が進まなかった。学校等の避難所は、4月以降の授業開始に合わせて解消するために、都心部での仮設住宅の建設や学校等避難所から待機所への移行を促す措置がとられたり、民間の住宅を借り上げて被災した住人への提供などが行われた。
 
 
 
その後、復興支援住宅(災害復興住宅)と呼ばれる高層の恒久住宅の建設が、兵庫県によって行われた。仮設住宅よりもプライバシーが守られる反面、近所付き合いの[[共同体|コミュニティ]]が形成しづらいこともあり、[[孤独死]]の問題も増えた。水道が長時間使われない場合に自動で警告を知らせるシステムなどで、防ごうと対応している所もある<ref>{{Cite news|title=〈伝えたい―阪神から〉孤独死防ぐ「つながり」を|newspaper=朝日新聞|date=2011-04-04|url=http://www.asahi.com/national/update/0404/OSK201104030141.html}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>。
 
 
 
これらの被災者向けの住宅の供給については、各市町村によって発行された罹災証明書が入居の根拠とされた。その証明を行うための調査が短期間のうちに少人数によって行われたこともあり、その精度の荒さが指摘されている。<!--食料、飲料水、トイレ問題、風邪、風呂/銭湯・自衛隊風呂、仮設住宅、復興支援住宅-->
 
 
 
=== 民間企業・組織による支援活動 ===
 
政府側の対応が遅れる一方で、民間企業からの支援活動が目立った。
 
* 神戸市に本社を構えていた[[スーパーマーケット]]大手の[[ダイエー]]以下、当時のダイエーグループ企業([[ローソン]]など)は、震災の一報を東京都内の自宅で知った[[中内功]]社長(当時)の指揮により、建物が半壊状態であっても兵庫県内を中心に関西圏の営業可能な状態の店をすぐに開け、在庫のある商品、空輸で届いた商品(食料品以外の毛布、[[懐炉]]なども含む)などを破格([[菓子パン]]や[[おにぎり]]一個10円等)で提供した。
 
* [[セブン-イレブン|セブン-イレブン・ジャパン]]も、地震発生3時間以内に救援物資や食料などを他地域からヘリ空輸するなど、非常に早い対応を行った。地震当時神戸市内に店舗がなかったセブン-イレブンは震災後素早く[[ヘリコプター]]6機を自社で借り、京都府の弁当製造工場で緊急製造した[[弁当]]・おにぎり等約6000人分を神戸市へ空輸し無償で提供した。
 
* 生協([[生活協同組合コープこうべ]])は、「災害時に食料等を放出する」という契約に基づき、食料の配給を行った。
 
* [[任天堂]]は[[ゲームボーイ]]を5000台と[[ヘッドホン]]、[[トランプ]]3000個を、[[セガゲームス|セガ]]は[[リコーダー]]20000本を被災児童に提供した<ref>[http://fami.tamahobby.com/?month=199503 さよならファミコン通信 199503]{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>。
 
* 神戸市に本社を置く淡路屋(駅弁製造大手)は震災直後本社工場の損害が軽微だったため在庫の材料を使用して製造した弁当を避難所に配布し、その後各事業者の支援のもと工場設備を回復させ避難所への食料支援拠点として活躍した。
 
 
 
企業以外の団体による支援活動としては、[[救世軍]]、神戸に総本部を置く日本最大の[[暴力団]]組織・[[山口組]]、阪神地域で強い影響力を有する[[宗教団体]]の[[崇教真光]]・[[パーフェクト リバティー教団|PL教団]]・[[天理教]]・[[創価学会]]・[[金光教]]・[[ワールドメイト]]<ref name="chugai">{{Cite news|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/serial/chugai/html/0701/0126/07-01-26_12-17.html#219|title=深見教祖現地入り 盲人救援へ ワールドメイト|newspaper=中外日報|pp=12-17|date=2005-01-26|accessdate=2017-04-07}}</ref>・2か月後に[[地下鉄サリン事件]]を起こす[[オウム真理教]]といった組織・団体が、食料や飲用水の供給・[[便所]]・[[風呂]]・避難場所の提供などの積極的な支援を行った。
 
 
 
その他、[[渡哲也]]・[[渡瀬恒彦]]兄弟や、[[河島英五]]・[[嘉門達夫]]・[[ジャイアント馬場]]・[[田中康夫]]<ref>1994年に発表した小説『オン・ハッピネス(新潮社 のち文庫)』は神戸を舞台とした作品である。</ref>、そして、当時は[[阪神タイガース]]の現役選手だった[[南牟礼豊蔵]]・[[弓長起浩]]といった関西にゆかりがある芸能人・タレント・文化人も現地入りし、炊き出しや支援を個人単位で行っている。
 
 
 
=== メディア等による復興支援 ===
 
==== テレビ・ラジオ ====
 
[[日本放送協会|NHK]]や[[民間放送]]各局は、震災発生1週間前後の時期から、全国の視聴者に募金を呼びかけるようになった。NHKと在阪民放局の[[毎日放送]]などは、[[日本赤十字社]]の義援金受付口座を震災報道番組の中で連日紹介し、募金を呼びかけた。そして、その集積を地元自治体に寄付するなどして、被災者支援を側面から支えた。
 
* 東京の[[TBSテレビ|TBS]] - [[ダイヤルQ2]]の技術を使った指定の電話番号に通話すると1通話=100円が自動的に寄付される「100円募金」を実施。
 
* [[テレビ朝日]] - 「ドラえもん募金」を実施。
 
* [[関西テレビ放送|関西テレビ]] - 番組発足直後だった『[[とんねるずのハンマープライス]]』(全国ネット)が、番組のコンセプトである落札で得た収益を「震災復興支援資金」として日本赤十字社等を通じて寄贈した。チャリティーオークションの盛んな欧米の著名人からも出品の協力を得、日本にチャリティーオークションが広く知られる機会にもなった。
 
 
 
==== 音楽 ====
 
3月7〜9日には、[[東京都|東京]]の[[日本武道館]]にて有志の[[ミュージシャン]]による[[チャリティー]]コンサート「MARCH OF THE MUSIC」が開催されて収益が全額寄附された。公演に参加しなかった多くのミュージシャンも、自らのコンサートやラジオ番組での募金などの取り組みがなされた。復興と重なり合って日本の[[ジャズ]]教育が活発化する拠点ともなっている(神戸はジャズが日本での第一歩を記した地として知られる)。
 
 
 
==== スポーツ ====
 
[[中央競馬]]では[[6月3日]]、4日の[[京都競馬場|京都競馬]]([[1月21日]]、22日中止分の代替開催。4日にはGI[[宝塚記念]]が行われた)、翌1996年(平成8年)[[7月7日]]の[[中山競馬場|中山]]、[[阪神競馬場|阪神]](前年同様宝塚記念が組み入れられた)、[[札幌競馬場|札幌]][[競馬]]が復興支援開催として催されて[[投票券 (公営競技)|馬券]]の売り上げの一部が寄付された。
 
 
 
==== 寄付金付切手 ====
 
日本国[[郵政省]](現在の[[日本郵便]])が、1995年(平成7年)4月20日に阪神・淡路大震災[[寄附金付切手]]を発売した。これは額面80円の切手を100円で販売し、差額の20円を震災支援の寄付金としたもので額面は「80+20」と表記されていた。ただしデザインは準備が間に合わなかったため、例年発行されている「[[切手趣味週間]]」の切手に便乗する形になった。そのため、デザインは[[金島桂華]]の絵画『画室の客』<ref>[http://kitte.com/catalogue/jpn19950420_01/ 切手趣味週間「阪神・淡路大震災」(1995年)] キッテコム</ref>であり、被災地に全く関係ないものとなった。印刷数5000万枚のうち約4728万8000枚が販売され、諸経費を除いた9億4000万円が地元に配分された。その後、郵政省は2000年(平成12年)[[12月22日]]発行の「20世紀デザイン切手」の17集の中で、同震災のことを題材にした切手<ref>[http://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/design_stamp/2000/17.html 2000年(平成12年)12月22日発行切手「20世紀デザイン切手」シリーズ第17集(最終)の発行 〜20世紀最後に発行する郵便切手〜] 日本郵便</ref>を発行している。デザインは復興のシンボルとされた[[手塚治虫]]の「火の鳥」と阪神・淡路地区の地図と倒壊した高速高架道路をイメージしたものであった。
 
 
 
=== ボランティア活動 ===
 
地震直後に現地において、被災者支援の[[ボランティア]]活動に参加した人の数は1日平均2万人超、3か月間で延べ117万人ともいわれる。被災地でのボランティア活動(専門ボランティア・情報ボランティアを含む)の重要度に対する一般の認識も飛躍的に高まった。現地には行かずに被災負傷者のための[[献血]]・[[義捐金]]拠出・物資提供などの後方支援に携わった人々も含めると参加人数はさらに増えるものとみられる。
 
 
 
このために、この年は日本における「ボランティア元年」ともいわれる。後に、[[内閣]]は1月17日を「[[防災とボランティアの日]]」、17日を中心とした前後3日の計7日間を「[[防災とボランティア週間]]」と定めた。
 
 
 
この震災で、ボランティアに関わった人々の中には、精神的に大きなダメージを負ってしまった人も多かった。被災した人々のケアだけでなく、ボランティアの[[メンタルケア|心のケア]]も、とても重要なことであることが明らかになった初めてのケースになった。
 
 
 
=== 復興組織 ===
 
関東大震災が起こった際の[[帝都復興院]]に相当する組織となる「[[阪神・淡路復興対策本部]]」(初代本部長は当時の首相・[[村山富市]])が、2000年(平成12年)までの5年間[[総理府]]に置かれた。
 
 
 
また、「阪神・淡路復興委員会」(委員長は[[下河辺淳]])も設置され、前述の対策本部への提言などで連携した。
 
 
 
[[戦災復興都市計画]]による[[土地区画整理事業]]が完了しようとしていた時期に震災が起こり、また、戦災を免れたことによって戦前からの老朽木造住宅が密集して残っていた地域に特に甚大な被害が見られたため、神戸市は戦災復興の延長線として震災復興を捉えた<ref>{{Cite news|title=一卵性双生児/「戦後」と重なる神戸復興|newspaper=神戸新聞|date=|url=http://www.kobe-np.co.jp/sinsai/95kessan/950810kessan1.html}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>。復興に当たっては、[[1976年]](昭和51年)10月29日に発生した[[酒田大火]]の復興事例が短期間での都市復興の事例として参考にされた。
 
* 単なる災害前の街への復旧ではなく、道路幅の拡幅など大掛かりに区画変更を行い、緑地を多く取って緩衝地帯を設定すること
 
* その実施に当たっては、単なる上意下達ではなくアウトラインのみを地元に提示して細部については地域住民の声を聞いて合意を形成をしながら、街全体を短期間のうちに、一気に防災型の都市に変えること
 
 
 
== 政府・県の対応 ==
 
=== 政府の対応 ===
 
政府が「[[災害対策本部#非常災害対策本部|非常災害対策本部]]」の設置を決定したのは、午前10時(地震発生から4時間14分後)からの閣議中であった。村山首相は地震発生直後にテレビ(6時のNHKニュース)で大地震を知っていたが、国土庁からの初報は7時30分頃になった。村山首相は、開会が迫っていた通常国会への対応や予定通りの公務をこなしながら、災害対応を行った。
 
 
 
当時、[[首相官邸]]をはじめとする政府および国の機関が、直接に被災地域の情報を収集する手段は整備されておらず、地方自治体や各省庁の[[地方支分部局]]、自衛隊の部隊などから本省等へ上げられた情報を迅速に集約する体制も、収集した情報を内閣総理大臣等へ通報する体制も整っていなかった。そのため、テレビやラジオなどの報道機関が最大の情報源となり、集約整理されていない情報を基に、各機関が行動する体制となっていた。災害対策の所管官庁とされていた[[国土庁]]にも独自の情報収集手段はなく、関係省庁に上げられた情報を集約することも十分にはできなかった<ref>2011年(平成23年)現在は、[[防災担当大臣]]と[[内閣危機管理監]]が対応することになっている。</ref>。
 
{{quotation|「官邸をはじめとする政府、国の機関はもとより、地元の行政機関、防災関連機関にとってもテレビ・ラジオが最大の情報源であった。国土庁が独自に情報収集手段を持たず、また関係省庁からの情報の集約を十分に行えなかったことから情報が官邸に十分伝わらなかったという制度上の問題点が指摘された。」|阪神・淡路大震災教訓情報資料集<ref>阪神・淡路大震災教訓情報資料集『内閣府・(財)ひょうご震災記念21世紀研究機構』より</ref>}}
 
[[内閣総理大臣]]であった[[村山富市]]首相には地震の一報がかなり早い時点で入ったものの、これは村山首相が地震発生直後にテレビでニュースをたまたま見ていたこと(6時のNHKニュース)によるもので、秘書官等から詳細な情報を上げることは遅くなった(首相への第一報は7時30分とされる)。村山首相は総理公邸<ref group="注釈">官邸とは渡り廊下でつながっていた。</ref>におり、8時26分に首相官邸に歩いて様子を見に行き待機したが、誰もおらず特に情報も入らず、また公邸に戻った<ref>麻生 幾『情報、官邸に達せず』新潮社(現在は文庫) ISBN 4101219311、ISBN 978-4101219318 文庫発売日: 2001/07</ref>。その後、不完全ながらも随時上げられる情報により未曾有の大災害であることが明らかになりつつある中でも、村山首相は開会が差し迫った通常国会への対応や懸案となっていた新党問題、財界首脳との食事会など予定通りの公務をこなす傍ら災害対応を行ったため、十分な対応を行わなかったのではないかという疑念を生んだ。
 
 
 
兵庫県庁の屋上にある衛星通信設備<ref group="注釈">「兵庫衛星通信ネットワーク」平成3年(1991年)に82億円を使い構築された。県内全域や国土庁、消防庁などと「スーパーバードB」衛星で通信できたはずだったが、非常用発電機の停止、送水管の破損に加え、担当専門家4人全員が出勤できなかったため情報を発信・受信できなかった。</ref>が十分に作動しなかったこと、最大震度(震度6、818ガル)を記録した[[神戸海洋気象台]]<ref group="注釈">当時は兵庫区山手通に位置。</ref>の記録が送信されなかった<ref group="注釈">原因は「L-アデス」と呼ばれる大阪管区気象台と結ぶNTT専用回線の故障である。洲本測候所の記録も送信されなかった。</ref>ということがあったが、この「震度空白域」への対応は十分なものではなかった<ref group="注釈">震度空白域の発生による初期対応の遅れは[[新潟県中越地震]]でも起こり、その後比較的大きな余震の度に自衛隊のヘリコプターで通信途絶地域の被害状況の確認が行われた。</ref>。震度6の情報が[[国土庁]]や[[消防庁]]に入ったのは6時19分であった。
 
 
 
気象庁のデータ回線が途絶し神戸海洋気象台と津名測候所の震度情報が自動的に送信されず、津名測候所の震度情報は機器が故障していたため職員の体感で震度6を判定用の無線回線を通じて大阪管区気象台へ通報され、神戸海洋気象台の情報は[[気象衛星]]を利用した衛星電話で通報された(気象衛星の中に気象庁専用の衛星通信回線が用意されている<ref>[http://www.jma-net.go.jp/sat/himawari/role.html 気象衛星の役割]気象庁ホームページ</ref>)。
 
{{quotation|[[二階俊博]]衆議院議員「(略)最初にお尋ねしますが、国家の最高責任者である村山総理は、17日の5時46分ごろ兵庫県南部で発生した震災を、いつごろ、どこで、だれから報告を受けられ、どのような対策を指示されたのかをお伺いいたします。なお、災害発生当日の総理御自身の御日程についても明らかにしていただきたいのであります。この際、この最初の総理への報告内容がいかなるものであったのかが重大な問題であります。当初これほど大きな災害に及ぶという認識に欠けていたのではないかとの疑問を抱くものであります(後略)。」<br />
 
 
 
村山富市内閣総理大臣「(略)私は、この地震災害の発生直後の6時過ぎのテレビでまず第一に知りました。直ちに秘書官に連絡をいたしまして国土庁等からの情報収集を命じながら、7時30分ごろには第一回目の報告がございまして、甚大な被害に大きく発展をする可能性があるということを承りました。この報告を受けまして、さらにその被害状況の的確な把握をして連絡をしてほしいということを要請するとともに、何よりも人命救助を最優先に取り組んでくれ、同時に、火災も起こっておりますから、消火に全力を尽くせということも指示をいたしたところでございます。10時からの閣議におきまして非常災害対策本部を設置いたしまして、政府調査団の派遣を決めるなど、万全の対応をとってきたつもりでございます。(後略)」|1995年(平成7年)1月20日衆議院本会議(代表質問及び答弁)}}
 
さらに、村山首相は、地震発生3日後に開かれた衆議院本会議の代表質問に対する答弁の中で、政府の情報収集の遅れと危機管理体制の不備を問われ、「何分初めての経験でもございますし、早朝の出来事でもございますから、幾多の混乱があったと思われまする」と答えたため、強く批判された。
 
{{quotation|二階俊博衆議院議員「(略)災害発生時の事態の掌握のおくれが自衛隊の出動に大きな影響を及ぼしていると考えますが、県からの要請があろうがなかろうが、国土と国民の安全を守る崇高な任務を持つ自衛隊の出動について、タイミングや規模等について判断に重大な誤りがなかったのか、大いに反省の必要があります。と申し上げるのは、生き埋めの人が200名ばかりおるので直ちに自衛隊の出動をという新進党の国会議員の要請に対し、地震当日の朝、…の段階においては防衛庁幹部はこの事態を承知していなかったという重大な事実があるからであります。自衛隊の最高指揮官としての村山総理は、救援の初動活動において、人命救助最優先の立場からもう少し積極的なしかも迅速な指揮がとれなかったのか、悔やまれてならないのであります。(拍手)政治責任もあわせて、この際、総理の御見解を伺いたいのであります。高秀横浜市長は、…大都市の首長の立場から政府の危機管理体制の不備を指摘しておられますが、国民のだれもが同じ思いであります。村山総理はこれらの声をどのように受けとめ、みずからの責任の重大さをいかに感じておられるか、重ねてお尋ねをいたします。(後略)」<br />
 
 
 
村山富市内閣総理大臣「(略)次に、政府の危機管理体制についての御質問でありますが、災害発生時におきましては、関係機関に対する迅速かつ的確な指示が実施できるよう政府の防災体制をとっているところでございまして、自衛隊等の対応につきましても、発生後直ちに伊丹で第36普通科連隊が災害派遣を実施してきたところでございます。また、災害対策を円滑に実施するため、地方公共団体に対しましても必要な指示や要請を行ってきたところでございます。しかし、今から振り返って考えてみますると、何分初めての経験でもございますし、早朝の出来事でもございますから、幾多の混乱があったと思われまするけれども、いずれにいたしましても、防災上の危機管理体制の充実は極めて重要な課題であると認識をしておりまして、今回の経験にかんがみながら、今後見直すべき点は見直すこととして、危機管理体制の強化に努力をしてまいりたいと考えているところでございます。(後略)」|平成7年(1995年)1月20日衆議院本会議(代表質問及び答弁)}}
 
 
 
=== 兵庫県の対応 ===
 
[[貝原俊民]]・兵庫県知事(当時)からの災害派遣要請はすぐに行われなかった。これは、「貝原知事が情報を座して待っていたこと」「(各所轄の警察署単位で調査した被害情報を取りまとめる立場の)[[兵庫県警察]]本部[[警備部]]から貝原知事への報告も少なかったこと」が原因だった。
 
 
 
例えば、[[東灘警察署]]だけでも8時に「死者100名以上、行方不明者数百名」という情報を把握していたにもかかわらず、本部警備部が知事への報告を地震発生後2回しか行わなかったため、10時の段階で知事に伝わっていた兵庫県全体の被害情報は「死者4名」というあまりに現実とかけ離れたものだった<ref name="JNN">[[Japan News Network|JNN]]報道特別番組「失われた街で〜阪神大震災から1ヵ月」 1995年(平成7年)2月17日放送</ref>。
 
 
 
貝原知事は、「被害情報が正しく伝えられていれば、即座に自衛隊派遣要請を出来ていた」と答えている<ref name="JNN"/>。逆に、知事が即座に派遣要請を出していれば、建物の下敷きとなり圧死した犠牲者の数はさらに減っていたという意見もある。また、知事以外の[[首長]]が要請を出すことは許されないという、当時の法制の不備も原因している。
 
 
 
一方で貝原は、後年、「自衛隊と交信ができなかった。8時の段階で、姫路の連隊からこちらの係員にやっと通じた。『大災害だから、準備を。すぐ要請するから』と言ったところで切れて、それ以降、連絡が取れなかった。いまだから言ってもいいと思うけど、出動要請が遅かったというのは、自衛隊の責任逃れですよ」と述べ、出動要請遅延の責任は自分ではなく自衛隊にあると発言した<ref>「阪神大震災。なぜ自衛隊出動が遅れたか」『PRESIDENT』、2011年5月30日号。</ref>。
 
 
 
こうした状況把握の混乱の中、派遣要請は、地震発生から4時間後に自衛隊との電話が偶然繋がった野口一行・兵庫県消防交通安全課課長補佐(当時)の機転で行われ、知事へは事後承諾となった<ref group="注釈">課長からの連絡に対して「この電話を災害派遣要請とみなしてよろしいですね」「お願いします」、報告を受けた知事が「よし、それで行け」のやり取りがあったという。</ref>。
 
 
 
これを教訓として、自衛隊への派遣要請を[[都道府県知事]]のほか[[市町村長]]または[[警察署長]]などからも行えるよう、後に制度が改められた。
 
 
 
=== 初動対処の遅れ ===
 
兵庫県からの自衛隊への災害派遣要請が、発生後4時間以上も後であったことは前述の通りであるが、地元選出衆議院議員・[[高見裕一]]([[新党さきがけ]]議員)も神戸市東灘区住吉山手にいて、JR住吉駅まで歩いて行き被災状況を直接目にしていた。県知事からの派遣要請がなされていないことを知った高見議員は、[[携帯電話]]で東京の議員会館にいる秘書を通じ、8時40分に防衛庁に緊急要請を行ったが、東京では「“大げさだ”」「非公式」「未確認情報」との認識しかされていなかった<ref>『官邸応答せよ』から「クビを賭ける、自衛隊を呼べ!」より</ref>。高見議員は、さきがけ代表・[[武村正義]][[大蔵大臣]]、社会党の[[五島正規]][[衆議院議員]]にも8時30分に電話で連絡し、社会党の[[土井たか子]]衆議院議長に連絡をとろうとしたが、不在で秘書に連絡した。折り返しの連絡はなかった。
 
 
 
初動対処が遅れた原因として左翼的思想の影響を指摘する論評もあった。批判で指摘されたのは、社会党の反自衛隊思想、被災地である兵庫県をはじめ京阪神地域が革新勢力の票田であること、社会党を支持している[[全日本自治団体労働組合]]の影響などといった主張だが、憶測やこじつけも多い<ref>『Asahi Evening News』1995年1月25日<br />「社会党は伝統的に自衛隊の存在を違憲なものとしてきた。(中略)自治体側から要請が出されない限り、(実際重要な役割と責任を負う自衛隊の地域防災訓練への参加は認められてこなかった」などと書かれている。</ref><ref>[[田中伯知]]「阪神大震災と自衛隊の出動」『[[自由社|自由]]』1996年6月号<br />「(関西地区の自治体の中には)面会を断る対象者リストを作り、そこに自衛隊の名前を挙げている所さえある」「5300名を超える死亡者の中で、「焼死」した人々が10%にも達した(2月16日現在)陰には、計画的、組織的救援活動の遅れがある」「一般に、戦後における災害観や災害文化 (Disaster Culture) の形成には、「進歩的」知識人が唱えた太平洋戦争観が大きく影響してたといえないであろうか。その結果、「イデオロギー」を優先させるあまり、国民のかけがえのない歴史的遺産の数々が忘れ去られ、人命をかした貴重な(地政学的・外交的教訓ばかりか)戦災「体験」を風化させてしまったのではあるまいか」「社会党や共産党などの革新政党の強い阪神地区では、実際に災害訓練においても自衛隊の参加は、政治的理由により拒まれ続けてきた。」などと述べられ、自治労の存在を背景に挙げている。さらに、自治労大阪が震災後自衛艦の入港に反対するため街宣車を埠頭に派遣し、著者が災害のとき位は入港を認めるべきではないかという疑問を投げかけたところ、誰もこの質問に答えることはできなかったエピソードや、『[[週刊現代]]』1996年4月6日号で神戸大学名誉教授の[[早川和男]]等が仮設住宅設置の問題点や、避難所の強行閉鎖などを挙げて、復旧過程での神戸市の対応が冷淡であると批判していたことも引用して、批判的に書かれている。</ref>。[[産経新聞]]は1月28日、1面コラムにて社会党が野党時代に自衛隊の廃止を誓ったことを挙げて批判した。国内の批判は日系資本の英字紙<ref>『デイリーヨミウリ』1995年1月28日での読売新聞調査研究本部主任研究員、高浜賛による社会・共産・革新系政党からの支持を受けた自治体首長への批判など</ref>や海外メディアでも伝えられた<ref>例:ポール・ブルスタイン「対策の混乱は反自衛隊感情」『[[ワシントン・ポスト]]』1995年1月27日<br />ホバート・ローエン「地震が日本に関して示したこと」『ワシントン・ポスト』1995年2月2日<br />ホバート・ローエンを例にとると、救援の遅れについて官僚機構の硬直性と並んで、村山政権の「左翼的政治体質」を理由に挙げている。</ref>。内容的には初動期を通り越して復旧に着手するまでの期間全体を対象としたもの<ref>[[山崎太喜男]]「国民の安全忘れた村山政権」『[[自由社|自由]]』1995年5月号<br />「「自衛隊を違憲」と決めつける勢力が「反自衛隊闘争」を繰り広げてきた」「災害救助に出動しても「自衛隊帰れ」の叫びが被災地に充満することもあった」「そうした反自衛隊闘争の先頭に立っていたのが社会党」「社会党が過去に行った誤った政策による影響力の責任は極めて重大」などと書かれている。</ref>もあれば、自衛隊への出動命令や発生から数日間の首相のリーダーシップの問題に重きを置いた内容もある<ref>「記者の目」『毎日新聞』1995年5月9日朝刊4面<br />[[大下英治]]「戦慄。総理官邸の一〇〇時間」『潮』1995年4月<br />[[佐々淳行]]「村山政府『危機管理』の無策を告発する」『文芸春秋』1995年8月<br />[[田中伯知]]「阪神大震災と自衛隊の出動」『[[自由社|自由]]』1996年6月号</ref>。ただし地震発生当時の内閣は[[自社さ連立政権]]下にあり、[[日本社会党]]は自衛隊を合憲と認めていた。また[[小沢潔]][[国土庁長官]]と後に震災対策担当相に任命された[[小里貞利]]はいずれも[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]所属の国会議員であった。
 
 
 
一方、村山元首相は1997年(平成9年)8月に行われたインタビューにて次のように述べている。
 
{{quotation|'''山川'''「たとえばアメリカの市会議員や神戸市の市会議員の場合、私たちの調査によると、かれらが選挙のことをかなり強く意識して行動したことが明らかになっています。それは政治家としては当然だと言えようかと思いますが、先生の場合は、いかがでしたか?」<br />
 
 
 
'''村山首相'''「私は選挙のことを全く考えなかった。また考えるべきではないと考えていた。首相としての仕事に全力を投入するべきだと信じていました」<br />
 
 
 
'''山川'''「(中略)たしかに危機管理の目的は、第一義的には、たしかに住民・市民を救済することで、政治的な目的とは区別されなければならないでしょう。しかし、言葉は熟しませんが、シンボリック・ユース・オブ・パワーといったようなことがあるのではないでしょうか。つまり、首相のような、権力を持った高い地位の人の行動が、国民に印象深い、象徴的で暗示的な作用をおよぼすということ。その行動から、被災者のことを親身に心配してくれているのだな、と国民が直感的に理解するような行動。そこから生まれる首相と政府への信頼感。その信頼感が首相をささえる与党の選挙における支持につながり、得票数を増やす、ということがあっても構わない、と思うのですが……」<br />
 
 
 
'''村山首相'''「まあ、そういうこともあったかも知れません……。被災地での両陛下のお見舞いの態度のご立派なことに本当に感服しましたが、私の場合は、現地に行って被災者をお見舞いしたとき、どうもマスコミ関係者たちの雰囲気がよくなくて、なんだか苛々した感じを味わったことを思い出します……。訪れた避難所が板敷きで、被災者の皆さんが椅子に腰をかけておられたので、中腰でお見舞いの言葉をかけたところが、新聞などで『高い姿勢だった』と報道されたりして、難しいものだと感じた、というようなこともありました……」|[[山川雄巳]]「阪神・淡路大震災における村山首相の危機管理リーダーシップ」『関西大学法学論集』47巻5号 1997年12月}}
 
また、2006年(平成18年)に[[大分合同新聞]]が[[大分大学]]と共同で行った連載企画「明日を守る―防災立県めざして―」では責任について次のように語っている。
 
{{quotation|被災地との通信網が途絶え、誰も情報をつかめなかった。当時、官邸には二十四時間体制で、災害や事故に対応する機能もシステムもなかった。アメリカのように、人口や地形、産業の分布などからコンピューターで地震被害を想定し、対応する仕組みもなかった。<br />国の行政としては人命の救助が第一。官邸がいち早く被害を把握し、手を打っていかねばならないが、あのような大地震が起きることは想定してもいなかった。突発的な大災害に、緊急対応できる行政の仕組みそのものがなかった。初動対応が遅れた、と責められても弁明の余地がない|「明日を守る-防災立県めざして- 第5部 行政の役割 当時首相 村山氏に聞く」『大分合同新聞』<ref>{{Cite news|title=明日を守る-防災立県めざして- 第5部 行政の役割 当時首相 村山氏に聞く|newspaper=大分合同新聞|date=2006年|url=http://www.oita-press.co.jp/bousai/115571833418053.html}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>}}
 
厚生省(当時)は、2月上旬から、国立病院の医師、看護師、ケースワーカーなどを現地に派遣し、災害地の医療を側面から支援する対策を行った。ただし、これについては、各地の国立病院職員(医師、看護師、他)たちが、震災直後からボランティアとして現地に急行する希望を出していたにも関わらず、厚生省が直ちにはこれを認めず、派遣が大幅に遅れたことへの批判がある。
 
 
 
日本が地震多発地帯であるにもかかわらず、前述の被害地域の惨状を把握する手段が十分に講じられていなかったこと、危機管理体制の欠如・[[縦割り行政]]といった行政上の様々な弊害が現れた。
 
 
 
=== 自衛隊と米海軍の援助 ===
 
出動した自衛隊も、交通渋滞や被災者がひしめく中で、部隊の移動・集結・宿営地の造営に手間取り、現地に到着したLO(Liaison Officer、連絡幹部)が状況を把握してから大規模な災害派遣部隊が現地に展開されて救助活動を開始するまでに3日間を要した(政治判断に3日を要したわけではない)。
 
 
 
最も早く救援体制を敷いた米海軍[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]](横須賀)が、「艦艇を神戸港に入港させての[[ヘリコプター]]による負傷者の救援」を政府に申し入れたところ、神戸市の受け入れ体制の未整備・政治的理由・接岸施設の被災による危険性などの要因により、拒否する事態を発生することとなった。しかし、この対応が特別であったわけではなく、当初から、各国からの支援の申し出にも政府として対応できていなかった。アメリカ政府は空母[[インディペンデンス (CV-62)|インディペンデンス]]の提供を申し出たが、「あの時点では毛布であり水であり、そういうものが緊急である」との判断から日本政府はこの申し出を拒否した<ref>衆議院会議録情報 第134回国会 災害対策特別委員会 第4号より</ref>。
 
 
 
== 震災の影響 ==
 
=== 報道・ネット・通信 ===
 
==== テレビ・ラジオ ====
 
震災の情報は報道に大きく取り扱われ、発生後約3日間、テレビ・ラジオはほぼ全てのチャンネルが全日にわたって震災関連の[[特別番組]]となり、[[コマーシャルメッセージ|CM]] もほとんど放送されなかった。ただし地震発生後2-3時間は各社とも全容がなかなかつかめず、行政の初動の遅れの一因となった。[[広域放送|近畿広域圏]]以外のテレビにおいては、顕著な被害が明らかになった17日午後以降になってより大きく扱われた傾向が見られ、報道特別番組が放送された。
 
* 大阪の[[MBSラジオ|毎日放送]]で当時早朝に放送されていたラジオ番組「[[おはよう川村龍一です]]」では、[[芦屋市]]に住んでいた番組パーソナリティの[[川村龍一]]が毎日放送へタクシーで向かいながら現場をレポート。その中での「[[阪神高速道路|阪神高速]]([[阪神高速3号神戸線|3号神戸線]])は、落ちました」という発言は、非常に重い意味を持つこととなった。このレポートはどのメディアよりも早く高速道路の橋脚倒壊を伝えたものである([[日本放送協会|NHK]]のニュースでは、8時49分にヘリコプターで上空からの神戸の現状が映し出された。民放も同時間帯にヘリ映像が入った)。[[おはよう川村龍一です#阪神・淡路大震災当日の放送]]も参照。
 
* 大阪の[[朝日放送テレビ|朝日放送(現:朝日放送テレビ)]]では、地震発生当時にテレビ番組「[[おはよう天気です]]」の[[生放送]]が行われていたため、地震の発生の瞬間が捉えられている。地震の規模を伝える貴重な情報として[[テレビ朝日]]系列の放送局ではこの番組内で地震が発生した様子を収めた録画テープが地震から1週間ほど頻繁に報道特別番組内で流された。
 
* [[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]と[[NHK-FM放送]]では、数日間にわたって(特に、近畿圏向けには136時間の連続放送を含む)被災地域の視聴者に向けた[[安否情報|安否確認情報放送]]が初めて適用された。これらは現在でも、各地域で災害が起きた際に放送されている。
 
* [[大阪市]]に本社を置く近畿広域圏の民放テレビ各局は自身も被害を受けたが<ref group="注釈">[[MBSテレビ|毎日放送]]ではニューススタジオにあったセットが倒壊、朝日放送(現:朝日放送テレビ)では『おはよう天気です』冒頭に地震に襲われた。[[関西テレビ放送|関西テレビ]]ではスタジオの天井にあったスポットライトが落下し、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]では[[エレベーター]]が止まる被害を受けた。</ref>、地震発生から数日間は完全にCM枠を抜いて震災報道を全国に発信し続け、近畿圏以外でCMの放送が復活してからも近畿圏では一定期間CMを流さず、他地域でCMを放送している時間は[[ライフライン]]情報を放送していた。
 
*神戸に本社を置く [[独立局]](当時は独立UHF局)・[[サンテレビジョン|サンテレビ]]<ref group="注釈" name="ぐちゃぐちゃ">特にサンテレビは、社屋内が「ぐちゃぐちゃになるほどの被害」を受けた。詳しくは[[サンテレビ#阪神・淡路大震災当時の放送体制]]を参照。</ref>は、1月17日から[[1月22日]]まで106時間28分、[[独立ラジオ局]]である[[ラジオ関西]]は<ref>放送が6時まで停止したあげく、社屋そのものも全壊する被害を受けた。詳細は[[シェルタースタジオ117]]を参照。</ref>当時は24時間放送は行っていなかったが、1月17日から[[1月20日]]まで69時間連続で放送を続けた。
 
*[[NHK神戸放送局]]は局舎が全壊する被害を受けた。一方で、当時の神戸放送局はテレビによる県域ローカル放送は行っていなかったため<ref>かつて午前や夕方帯などにローカル編成を行っていたが、1988年に休止、その後は全て大阪発の関西広域放送に充てられていた。その後2000年代に入って県域放送が復活する。</ref>、取材拠点が被害を受けたことによる影響はあったが、放送そのものへの影響は大きくなかった。
 
* 当時独立FM局であった[[兵庫エフエム放送|Kiss-FM KOBE]]<ref group="注釈" name="ぐちゃぐちゃ"/>は、1月17日から3月頃までCMを抜いて震災放送を行い、英語の話せるサウンドクルー (DJ) による外国人被災者向けの情報発信や、地域の被災情報発信する [[臨時災害放送局]]として[[FM796 フェニックス]]も設けられた。震災は外国人向けの情報の必要性が認識されたことで[[FM COCOLO|FM CO-CO-LO]]、[[エフエムわいわい]]をはじめとする外国語放送設立のきっかけとなり、また市町村単位の情報が課題とされ、3年前に制度が整備されていた[[コミュニティ放送]]制度が全国的に脚光を浴びることとなった。「[[臨時災害放送局#阪神・淡路大震災]]」も参照。
 
* 近畿広域圏では、約7日後から一部通常番組を流し始めたが、お笑いなどの娯楽番組は放送されなかった。例外として発生3日後の1月20日の夜に、『[[探偵!ナイトスクープ]]』(朝日放送〈現:朝日放送テレビ〉)が放送された。また『[[鶴瓶上岡パペポTV]]』([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])では、震災の翌週の放送で、通常の客席を入れたトークではなく、[[笑福亭鶴瓶]]と[[上岡龍太郎]]による、2人が実際に見聞きした震災に関する話題や救助活動を妨げかねないマスコミの報道姿勢に対する疑問を呈したトークを行った(詳しくは、[[鶴瓶上岡パペポTV]]を参照)。
 
* [[筑紫哲也]]が上空からヘリコプターでリポートし、各地で立ち昇る火事の煙を「(出身地の)別府の温泉街のようだ」と発言し、批判を浴びた。
 
* 日本テレビのニュースキャスター[[木村優子]]は、高級毛皮のコート姿で、神戸市内の被災地からリポートをして、ひんしゅくを買った。
 
* [[キー局]]となる関東広域圏各局の対応は、上記の時間が過ぎてから概ね通常の放送体制に戻っていったが、それでも、[[ニュース]]や[[ワイドショー]]といった多くの[[生放送]]番組など日常の番組や、「地震から2週間」「1か月」「2か月」といった節目では、被災地の状況を伝えるルポを数多く伝え、被災者への応援や義援金の呼びかけなどを行っていた。しかし、それ以外の局面では地震関連情報は全国放送から近畿広域圏のみに徐々に絞られていき、特に、約2か月後の地下鉄サリン事件が発生して以降はこの傾向が顕著となった。
 
 
 
==== 新聞 ====
 
[[神戸新聞社]]は地震により本社社屋が全壊。新聞編集用コンピュータシステム(CTS、社では「ホストコンピュータ」と呼んでいた)の機器および専用高圧電源が損傷し、新聞編集が不可能になったものの、前年に[[京都新聞社]]と締結していた災害時相互援助協定を発動。8時半にようやくつながった電話(同日夕方に途絶)で情報を送ったほか社員を京都へ派遣<ref name="zenkiroku">『「阪神大震災」全記録』収録「余震のまちに新聞を」p.173 神戸新聞社 1995年3月発行 ISBN 4-87521-089-2</ref>し、同社社員とともに見開き4ページの夕刊を編集し制作した。印刷用原版のフィルムは京都新聞の下請け運送会社の社員がオートバイで6時間かけて[[西区 (神戸市)|神戸市西区]]の印刷工場まで輸送し、当日19時31分、夕刊発行に成功した(20時頃に刷了<ref name="zenkiroku"/>)。その後、しばらくは京都へ社員を派遣しての制作が続いたが、全国の新聞社からの機材支援や取引先の全面協力により、10日後に一部のシステム再稼働に成功している。
 
{{main|神戸新聞の7日間}}
 
デイリースポーツは[[日本経済新聞]]および関連会社の全面協力を受けて東京で紙面を作成し発行を継続した。
 
 
 
==== ネット・パソコン通信・携帯電話 ====
 
震災当時、[[日本のインターネット]]において商用利用、個人利用はまだ始まったばかり<ref>『震災とインターネット「神戸からの提言」』 田中克己著 NECクリエイティブ(ISBN 978-4872690439)</ref>であったが、[[パソコン通信]]ネットワーク(「[[ニフティサーブ|NIFTY-Serve]]」(現在の[[ニフティ|@nifty]])など)の掲示板や電子会議室が、被災者情報や大学の休講状況などの情報交換に役立った。以後、[[コンピュータネットワーク]]の商用利用、個人利用に、マニア以外からも目が向けられるようになっていくこととなった。普及期であり、サービス内容や機能の少なかった携帯電話は一部で[[輻輳]]状態となった。
 
 
 
==== 暴力団関連の報道 ====
 
行政による救援、救助活動が後手に回った一方、前述の組織・団体、特に[[宗教団体]]や[[暴力団]]などによる現場での救助・支援活動は、日本のマスメディアで報道されることは少なかった。諸団体の宣伝につながりかねないとの懸念からであった。その中で、[[Japan News Network|JNN]]([[TBSテレビ|TBS]])系が、地震から3日目の1月19日に放送したJNNニュースの中で、神戸市内に本拠を置く日本最大の広域指定暴力団である[[山口組]]の総本部が備蓄していた大量の食料を地元住民に供出する様子を、「住民の苦渋の選択」として報道した。このとき山口組は石油暖房機を積んだトラックを用意し毎日手際よく食事を提供するなどの援助を行っていたため、多くの被災者が集まっていた。
 
 
 
報道機関としては、山口組の宣伝にならないよう決して与しない慎重な扱いであったが([[大谷昭宏]]が『[[こちら大阪社会部]] 阪神大震災編』の中で触れ、大谷とデスクが採り上げるべきか否かで議論する様子を描写している)、無数の[[ヤクザ]]に頭を下げながら一般市民が列をなして食料をもらう姿は、震災の過酷な現実の一断面を描くものであった。
 
 
 
[[イギリス|英]]・[[アメリカ合衆国|米]]など日本国外のマスメディアも追随し、[[英国放送協会|BBC]]は「政府の救助活動は遅々として進まないのに、現地の[[マフィア]](ここでは山口組を指す)が救助活動を行っている」と報道した。なお、一部雑誌<ref>[[三和出版]]『実話時代』2008年2月号</ref>に掲載された「外国メディアの方が日本のメディアに先んじて報じた」という指摘は、誤報ないしは虚報である。
 
 
 
=== 文化・スポーツ ===
 
[[宝塚歌劇団]]の本拠地・[[宝塚市]]の[[宝塚大劇場]]も大きな被害を受けた。竣工して数年であったが壁に亀裂が入ったほか、大劇場内の消火用スプリンクラーが誤作動し座席が濡れるなどした。およそ2か月半の間公演不能の状態になり、[[安寿ミラ]]の退団公演を上演していたが公演中止を余儀なくされた。3月、「[[国境のない地図]]」において公演を再開。
 
 
 
[[神戸国際会館]]も全壊し、予定されていた公演を中止したり会場を移しての公演になった。1995年(平成7年)12月に神戸ハーバーランドの空き地を借用して建設した仮設公演施設「神戸国際会館ハーバーランドプラザホール」が完成し、神戸での公演が本格的に再開された。
 
 
 
[[阪神競馬場]]や[[阪神甲子園球場]]の一部が損壊。[[桜花賞]]や[[宝塚記念]]は[[京都競馬場]]で開催されるなど代替競馬が開催された。またこの年の「[[大阪国際女子マラソン]]」や「[[泉州国際市民マラソン]]」も中止を余儀なくされた。また、4月にTIサーキット英田(現・[[岡山国際サーキット]])で開催予定だった[[フォーミュラ1|F1]][[パシフィックグランプリ (4輪)|パシフィックグランプリ]]も10月に延期された。この年に予定されていた[[全国知的障害者スポーツ大会|ゆうあいピック兵庫・神戸大会]]も中止になった。
 
 
 
プロレスの[[全日本プロレス]]は発生当日からわずか2日後の1月19日に[[大阪府立体育会館]]での興行を予定しており、慎重を期しながらも当日会場を開放し、なおかつ当日予定していた『[[全日本プロレス中継|全日本プロレス中継30]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])の番組収録を中止する形で無料興行を行った。
 
 
 
[[六甲アイランド]]で1月21日に開催予定だった[[日本陸上競技選手権大会男子20キロ 女子20キロ競歩]]が中止され、翌2月に千葉市で代替開催された。その12年後の2007年(平成19年)[[4月]]、このときの恩返しとして、同年3月の[[能登半島地震]]で被災した[[石川県]][[輪島市]]で行われる予定だった別の[[競歩]]大会を[[六甲アイランド]]にて代替開催した。
 
 
 
[[第67回選抜高等学校野球大会]](春の甲子園)については、「中止すべき」という意見があったものの、[[吹奏楽]]などによる鳴り物演奏を自粛して予定通りに実施された。
 
 
 
[[プロ野球]]の[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]は『がんばろうKOBE』をスローガンに1995年(平成7年)、1996年(平成8年)とパ・リーグ連覇(1996年(平成8年)は日本一)を成し遂げ、被災者を勇気付けた。また、毎年恒例だった正月映画・[[男はつらいよ|男はつらいよシリーズ]]の、12月に公開された第48作『[[男はつらいよ 寅次郎紅の花]]』では、神戸市側から[[松竹]]へロケの要請があったことや、[[山田洋次]]監督の元に、復興に努めていた夫妻からファンレターが届いたことがきっかけで、当時市民による復興が行われていた神戸市長田区が舞台となり、神戸の復興とボランティアがテーマとなった。
 
 
 
[[ジャパンフットボールリーグ|JFL]](当時)の[[ヴィッセル神戸]]は1995年(平成7年)1月1日に正式にヴィッセル神戸として始動。[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]昇格を目指し、1月17日に初練習をする予定だった。だが、震災により[[岡山県]][[倉敷市]]での練習開始を余儀なくされ、神戸では練習場の確保が困難であるため、練習場を転々とせざるを得なかった。また、このように震災の日にチームが生まれたことを祈念するため、ホームスタジアムでの試合では[[サポーター (サッカー)|サポーター]]達により、試合前に「神戸讃歌」(「[[愛の讃歌]]」の替え歌)が歌われ続けている。
 
 
 
サントリーはこの年の[[宮里藍 サントリーレディスオープンゴルフトーナメント|サントリーレディスオープン]]を中止しその開催費用を原資として神戸市消防団に対して手引き消防ポンプ・可搬動力ポンプ積載車を全分団に配置可能な数量を寄贈。その後も毎年4台程度を寄贈している。<!--また、同じサントリーの「[[モルツ]]」から生まれた「新球団モルツ」による第1回・ドリームマッチで、神戸市消防局の野球部が優勝している。-->
 
 
 
=== デパート ===
 
[[そごう神戸店]]も本館が半壊した部分の解体撤去(この撤去した部分が現在のサンファーレ広場となっている)を含めた復旧工事の末、1996年(平成8年)4月28日に全館オープンした(新館と本館地階はそれ以前から再開していた)。[[大丸]]神戸店は、本館の3階部分が倒壊したために取り壊して新館として再建。西館についても全面改装を施して1997年(平成9年)3月に復興グランドオープンした。
 
 
 
[[阪急百貨店|三宮阪急]]は、入居していた[[神戸阪急ビル]]東館の上層階が崩落する全壊のため解体撤去することとなり震災5日後に閉店した(ただし、震災前の1992年(平成4年)に[[神戸ハーバーランド]]に[[神戸阪急]]が開店していたが、[[2012年]]に閉店)。[[神戸デパート]]も、被災をきっかけに閉店した。
 
 
 
やや離れた大阪市でも北浜の[[三越]]大阪店の本館が被災して解体され、売場面積を大きく減らした。これが10年後の2005年(平成17年)に閉店する一因となった<ref>{{Cite news|title=三越大阪店、5日閉店…315年の歴史に幕|newspaper=|date=|url=http://www.sponichi.co.jp/osaka/soci/200505/04/soci180018.html}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>。
 
 
 
=== 人口 ===
 
神戸市は、震災直前の1995年(平成7年)[[1月1日]]の[[推計人口]]が152万0365人だった<ref name="KobeStatisticsEQ">{{PDFlink|[http://www.city.kobe.lg.jp/information/data/statistics/toukei/img/sinsaimaekoeru.pdf 神戸市統計報告 特別号]}} 神戸市 2004年11月9日</ref>。同年[[10月1日]]に実施された震災後初の[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]では142万3792人となり、震災による市内の死亡者数4571人を大幅に超える、約10万人もの人口が減少し<ref name="KobeStatisticsEQ"/>、京都市の人口を下回った。2004年(平成16年)[[11月1日]]に推計人口が152万0581人となり、震災前の人口を9年10か月ぶりに超えた<ref name="KobeStatisticsEQ"/>。しかし、区ごとにみると、震災前より人口が増えたのは[[六甲山地]]2区([[北区 (神戸市)|北区]]・[[西区 (神戸市)|西区]])と沿岸東部3区([[東灘区]]・[[灘区]]・[[中央区 (神戸市)|中央区]])だけであり、沿岸西部4区([[兵庫区]]・[[長田区]]・[[須磨区]]・[[垂水区]])では現在でも震災前の人口に戻っていない<ref name="KobeStatisticsEQ"/><ref name="KobeStatistics">[http://www.city.kobe.lg.jp/information/data/statistics/toukei/jinkou/index.html 人口統計] 神戸市</ref>。特に長田区は3万人近く少ないままであり<ref name="KobeStatistics"/>、地域によって復興に格差が生じていることが見受けられる。
 
 
 
また、加古川市などの東播磨地域に転居した人も多い。
 
 
 
=== アスベスト・がれき ===
 
震災で被害を受けた建物に使用されていた[[アスベスト]]を、住民・作業員・ボランティアなど作業に当たった多数の人が吸い込んでいるため、影響が懸念されている<ref>『終わりなきアスベスト』岩波ブックレット</ref>。
 
 
 
解体を要した損壊建物は約11.6万棟、生じた[[産業廃棄物|がれき]]の量は約1450万トン(1995年(平成7年)12月31日時点)となった<ref>厚生白書(平成8年版)</ref>。
 
 
 
1987年から「[[大阪湾広域臨海環境整備センター|大阪湾フェニックス計画]]」(海面埋め立て)が始まっており、その海面に造成していた広域処分場では、約262万トン分の災害廃棄物を受け入れた<ref>[http://www.env.go.jp/recycle/kosei_press/h970331a.html 97/03/31 大阪湾フェニックス計画の変更の認可について]</ref>。
 
 
 
=== 犯罪・問題行為 ===
 
暴力団が救援活動に当たっていた一方で、震災に乗じて災害援護資金を不正に受けたり、建設会社に対し工事の受注を要求する等の触法行為を犯していたことも事実である。警察は暴力団のこういった問題行為を見越して、移動暴力相談車を利用した「巡回暴力相談所」を開設するなどの臨時対策を採っていた<ref>[http://www.npa.go.jp/hakusyo/h07/h070103.html 平成7年 警察白書] 阪神・淡路大震災に便乗し、暴力団員が違法、不当な行為によって資金の獲得を図っている実態が明らかとなったため、警察では、暴力団対策法を活用するなどして、これら違法行為に対する取り締りを徹底している。</ref>。また、暴力団関係者による手抜き工事も存在もしたという<ref>{{Cite news|title=宮城県、復興工事からの暴力団排除を要請|newspaper=日刊スポーツ|date=2011-03-31|url=http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20110331-755115.html}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>。
 
 
 
「性犯罪が増加した」という情報も流れたが、それをデマだとする動きがあった。確かに兵庫県内の強姦の事件数自体は前年と変わらず、逆に強制わいせつ事件は減少していた。また、窃盗・強盗の件数も同様に減っていた。ただ、性犯罪は申告すること自体が憚られ、申告したとしても「なぜ自衛しなかったのか」「我慢すればよい」などの二次加害にあいやすく、被害者は口を閉ざしてしまうことが多い。そのため、事件数だけでは一概に語れない部分が大きいといえる。また、避難所での強姦、痴漢、覗きなど性被害情報は表沙汰にこそされなかったが、実際に多数寄せられている。<ref>{{Cite news|title=ネットに震災デマ許すな 警察が対策強化|newspaper=デイリースポーツ|date=2011-04-02|url=http://www.daily.co.jp/gossip/article/2011/04/02/0003914377.shtml}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>。
 
 
 
また、震災発生直後の[[1月19日]]前後及び1か月半後の[[2月26日]]、関西で[[京都府]][[亀岡市]]の[[亀岡断層]]を震源地とする震度7の余震が起こるとの噂が発生した。2度目の噂では、亀岡市周辺の企業で臨時休業や食品スーパーで商品の買い占めが発生した。
 
 
 
2003年には、大学生らが「希望の灯」のガラスケースを壊す事件があった。また、[[2013年]][[1月17日]]開催の慰霊行事でライトアップする目的で灘区の[[六甲道南公園]]の慰霊碑に設置された照明器具が破壊されたと兵庫県警に届けられ、器物損壊事件として扱われた<ref>{{Cite news|title=器物損壊:震災慰霊碑の照明壊される−−神戸の公園|newspaper=毎日新聞|date=2013-07-17|url=http://mainichi.jp/select/news/20130118ddm041040110000c.html}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>。[[2017年]][[12月22日]]には、[[東遊園地]]にある震災犠牲者の氏名などを刻んだ「慰霊と復興のモニュメント」に[[落書き]]がされているのが見付かった<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20171222/k10011268801000.html?utm_int=news-social_contents_list-items_013 阪神・淡路大震災のモニュメントに落書き 神戸] NHKニュース 2017年12月22日</ref>。また、[[六甲山]]の山頂付近に、同震災と[[東日本大震災]]の犠牲者の鎮魂のため[[兵庫県勤労者山岳連盟]]が設置した木柱に、黒[[ペンキ]]がかけられているのが[[2017年]][[6月]]に見つかった<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20171225/k10011270681000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_001 六甲山の震災慰霊の木柱にペンキ 神戸]NHKニュース 2017年12月25日</ref>。
 
 
 
震災で被災した[[地蔵]]などを盗み、[[質屋|質店]]に持ち込み換金していた人物が、兵庫県警から[[窃盗罪|窃盗]]容疑で[[書類送検]]されている<ref>{{Cite news|title=窃盗容疑:地蔵7体を盗む…22歳男を書類送検 兵庫県警|newspaper=毎日新聞|date=2014-01-07|url=http://mainichi.jp/select/news/20140107k0000e040216000c.html}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>。
 
 
 
問題発言としては、[[井戸敏三]]兵庫県知事が2008年(平成20年)11月11日に行われた近畿ブロックの知事会議において「[[東京一極集中]]を打破するための旗を揚げなければならない。関東で震災が起きれば東京は相当なダメージを受ける。これはチャンスですね」と発言したものがある。当初は謝罪を渋ったものの、猛抗議を受けた後謝罪した。
 
 
 
==== 報道倫理に関わる問題 ====
 
{{出典の明記|section=1|date=2013年1月}}
 
===== 過剰な取材 =====
 
[[報道倫理]]に関わる問題として過剰な取材活動が挙げられる。地震発生直後、マスメディア各社が航空取材活動を開始しているが、地震直後から始まった航空映像によって首相官邸など被災地外の人々が地震の被害状況を素早くつかむことができた反面、この[[ヘリコプター]]の[[騒音]]によって、家屋の下敷きとなった被災者の声を聞き取れずに救助隊の初期活動の大きな妨げとなったとする指摘がある。
 
 
 
1995年(平成7年)2月7日、衆議院地方行政委員会において、伝聞情報をもとに、この問題が取り上げられている。その後、関西の放送局間では、大災害発生時にはヘリコプターの飛行数を相互制限し、映像を各社で共有する方法(一種の代表取材)などが検討されている。ただし、震災で具体的にどの程度の騒音被害があったのかは明確でない。騒音の元が自衛隊や消防のヘリでないのか(どうやって上空のヘリを見分けたのか)、自衛隊や消防や警察や海上保安庁のヘリならば音は問題ないのかなど、主張に曖昧な点も多い。
 
===== 被災者への配慮 =====
 
東京を[[キー局]]とする報道局では震災直後から「東京で同様の地震が起きたらどうなるか」「東京でなくて良かった」というような報道も一部でなされ、被災地からの苦情が相次いだ。また震災直後、一部マスメディアは震災で崩れ去ったがれきの山と、数十メートル先で震災で崩れず問題なく震災直後も営業しているパチンコ店の映像を放送した<ref>おはようナイスディ1995年(平成7年)1月19日放送分</ref>。
 
 
 
=== その他 ===
 
* [[日本銀行]]神戸支店は震災による金融パニックを防止のため、大蔵省神戸財務事務所長と神戸支店で緊急協議し、大蔵省および日本銀行本店に対して金融特別措置発令を要請。本人確認が取れれば、通帳や印鑑なしでの預金引き出しを可能にしたほか、支店の2階に被災した銀行窓口を開設し、破損したり燃えた紙幣の交換等の業務を行い、パニックを防止した。この際神戸支店長はNHKラジオに生出演し、これらの措置に関して説明した。
 
* 前[[日本社会党委員長]][[山花貞夫]]、前社会党書記長[[赤松広隆]]、[[日本新党]]を離党して無所属の[[海江田万里]]、[[民社党]]から[[新進党]]の結党に参加した[[川端達夫]]らは、[[1月17日]]に新党の結成を予定していたが断念せざるを得なくなった。
 
* 当初4月9日と4月23日に行われる予定であった[[第13回統一地方選挙|統一地方選挙]]が、震災の影響により被災自治体では[[6月10日]]に延期された。
 
* 当時[[阪神タイガース]]に所属していた[[新庄剛志]]は震災を目の当たりにしたほか、[[ニューヨーク・メッツ]]に移籍した[[2001年]](平成13年)にも[[アメリカ同時多発テロ事件]]を目の当たりにすることとなった。
 
* [[神田うの]]は雑誌『uno!』(1997年11月号)での対談にて番組スタッフの誘いで震災での死者数を賭けにしていたと語り、このことへの反省として50万円を被災地に義援金として寄付したことを明かしている。なお、その一方でうの本人はそのことを「悲しすぎるネット被害」として2011年3月23日のブログにて否定している。当時の神田はこのような非常識と言われかねないような言動・行動を繰り返しており、それをスタッフ・身内などの周囲が面白がっていたこともあり、それらがエスカレートしていったことも考えられる。これに関しては[[神田うの#言動癖〜反省]]を参照のこと。
 
* [[桃太郎電鉄シリーズ]]に登場していた「大地震カード」が、本震災の発生を受け、[[スーパー桃太郎電鉄DX]]から廃止された。
 
* 震災当時、[[川崎重工業]]兵庫工場で製造中であった鉄道車両([[JR東日本E127系電車]]など)も被害を受け、営業入りが遅れるという影響が出た。また、陸路が寸断されたため、[[京阪7200系電車]](7201Fのうち4両および7202Fの全車両)は京阪電鉄の車両として唯一海上輸送され、[[堺泉北港]]経由で[[寝屋川車庫]]まで搬送された(通常は寝屋川車庫まで直接陸送)。このほか、JR東海向け新幹線車両も陸送が不可能になり、京阪の車両と同様に堺泉北港経由で[[鳥飼車両基地]]まで搬送された。
 
 
 
=== 被災した著名人 ===
 
* [[筒井康隆]] …神戸市垂水区の自宅で就寝中に被災<ref>震災当時、筒井は断筆中だったため、1997年に断筆を解除してからこの震災に関する執筆文をいくつか発表している(筒井康隆『笑犬樓の逆襲(2004年[[新潮社]] 2006年新潮文庫)』収録『阪神大震災はいまだ終わらず』など)。また、1995年4月25日付[[読売新聞]]夕刊掲載のインタビューで『今回の震災で五千五百もの人が死に、自分がその一人ではないという不思議さを感じる時、もう小説なんてどうでもよくなった。』と答えている。</ref>。
 
* [[小松左京]]…大阪府箕面市の自宅で就寝中に被災。小松は翌年の1996年6月に『小松左京の大震災'95』を刊行。
 
* [[陳舜臣]]…神戸市灘区の自宅で被災。退院から4日後のことだった<ref>[http://withnews.jp/article/f0150121003qq000000000000000G0010401qq000011425A 陳舜臣さん死去 阪神大震災経験、「神戸の笑顔をみたい」復興見守る]、withnews(朝日新聞)、2015年1月21日。</ref>。震災後、『[[神戸新聞]]』は「悲しみを超えて」という陳からの寄稿文を掲載した<ref>陳舜臣「悲しみを超えて 阪神大震災 神戸よ」『神戸新聞』1995年1月25日付朝刊、1面。この寄稿文は
 
 
 
* 神戸新聞社(編)『「阪神大震災」全記録 M7.2直撃 史上初の震度7 兵庫県南部被災地からの報告』神戸新聞総合出版センター、1995年、1頁。ISBN 4-87521-089-2。
 
* [http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201501/0007678240.shtml 陳舜臣さん寄稿「悲しみを超えて」 阪神・淡路大震災直後に]、神戸新聞NEXT、2015年1月21日 20:31。<br />にも転載されている。</ref>。
 
* [[村山実]]…兵庫県芦屋市の自宅マンションで被災。自宅が被災したため、自家用車での避難生活を強いられた。
 
* [[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]の選手達…[[神戸市]][[西区 (神戸市)|西区]]の選手寮・青濤館にて被災。選手寮の壁面に亀裂が入った。
 
* [[桂文珍]]…大阪[[ミナミ]]の繁華街を歩いているときに被災し、神戸の自宅が半壊した。ガレージに家族が住み本人は震災のトラウマでコンテナ暮らしをした<ref>「時代の証言者 桂文珍⑳震災 芸道の転機に」2014年1月6日読売新聞朝刊10面</ref>。
 
* [[間寛平]]…兵庫県宝塚市の自宅で就寝中に被災、自宅全壊。近くの中学校で避難生活を送る<ref>{{Cite news|title=間寛平 真冬の中学校で避難生活送った|newspaper=デイリースポーツ|date=2015-01-08|url=http://www.daily.co.jp/gossip/2015/01/08/0007640903.shtml}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref>。
 
* [[安寿ミラ]]…兵庫県宝塚市の自宅で遭遇。
 
* [[嘉門達夫]]…神戸市内のホテルで宿泊中に被災<ref>震災後に発売したシングルCD『怒りのグルーブ 〜震災編〜』のジャケットに表記されている。</ref>。
 
* [[松岡由貴]]…タレントとして、[[朝日放送テレビ|朝日放送(現:朝日放送テレビ)]]制作『[[おはよう天気です]]』のコーナー紹介中にスタジオ内で遭遇。
 
* [[毛利千代子]]…ラジオパーソナリティとして、[[朝日放送ラジオ|朝日放送(現:朝日放送ラジオ)]]制作『毛利千代子のおはようパートナー』の生放送中に遭遇。
 
* [[相武紗季]]…小学校3年生(9歳)のとき、兵庫県宝塚市の実家で被災。
 
* [[佐藤江梨子]]…中学校1年生(13歳)のとき、兵庫県神戸市の実家で被災。
 
* [[藤田平]]…当時、阪神タイガース二軍監督。西宮の自宅が半壊する被害を被って、阪神タイガース寮「虎風荘」に身を寄せた<ref>矢崎良一編『元・阪神 そしてミスタータイガースは去った』廣済堂、2006年。52〜53ページ</ref>。
 
* [[真弓明信]]…当時、阪神タイガースの選手。自宅には被害がなかったが、[[阪神甲子園球場]]までの移動が困難になったため、「虎風荘」に寝泊まりしていたことがあった。
 
* [[大森一樹]]…兵庫県芦屋市の自宅マンションで被災。同市内にあった実家は地震で全壊した。被災直後とその後の経緯については自著「震災ファミリー」(平凡社)に記されている。
 
* [[津高和一]]…兵庫県西宮市の自宅が倒壊し、その下敷きになり死亡。著名人では数少ないこの震災での犠牲者となった<ref>[http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10621.html 東京文化財研究所「東文研アーカイブス」津高和一記事]</ref>。
 
* [[辰巳琢郎]]…大阪市のホテルで宿泊中に遭遇。
 
* [[杉良太郎]]…大阪市のホテルで宿泊中に遭遇。
 
* [[藤本綾]]…小学校6年生(11歳)のとき、大阪市の実家で被災。
 
* [[釜本邦茂]]…大阪府豊中市の自宅で遭遇。
 
* [[ビリー・ジョエル]]…来日公演中、大阪市の[[ホテルプラザ]]で宿泊中に遭遇。大阪公演は震災当日の1月17日と翌日18日の2日間[[大阪城ホール]]で行われる予定であり、公演の中止も検討されたが、17日の公演を19日に順延した上で予定通り2日間公演を行った。なお、この公演の収益の一部を義援金として被災者に寄付している。
 
* [[渡辺徹 (俳優)|渡辺徹]]…兵庫県神戸市のホテルで宿泊中に遭遇。
 
* [[佐渡裕]]…京都府京都市のホテルで宿泊中に遭遇。
 
* [[森脇健児]]…京都府京都市のホテルで宿泊中に遭遇。
 
 
 
== 震災の教訓と変化 ==
 
[[File:Hanshin-Awaji earthquake 1995 339.jpg|thumbnail|200px|三宮 [[生田東門商店街|東門]]辺り]]
 
[[File:Hanshin-Awaji earthquake 1995 Chuo-ku Kobe city Hyogo prefecture 353.jpg|thumb|200px|中央区[[加納町 (神戸市)|加納町]]4丁目[[ニッセイ三宮ビル|三宮日本生命ビル]]]]
 
=== 消防・レスキュー・医療 ===
 
この災害によって消防・レスキューの得た経験は、消防無線における全国共通波の増波や、[[東京消防庁]]の[[消防救助機動部隊]](ハイパーレスキュー)と横浜市消防局の救助機動中隊(現在の[[横浜市消防局特別高度救助部隊|特別高度救助部隊]])の創設、全国の応援体制として[[緊急消防援助隊]](消防)と[[広域緊急援助隊]](警察)の整備につながる。
 
 
 
消防組織はもともと市町村単位であり、この震災によって、消防の広域動員における指揮・通信・装備などで多くの問題が露呈し、改善が進められている。
 
 
 
しかし2009年現在、道州レベルの広域大災害の消防・救命活動指揮組織がようやく作られつつあるものの、これはあくまでも事が起こってから臨時で設置される組織であって、常設組織を設けて平時から大規模災害対処計画を研究立案する段階にはなっていない。
 
 
 
医療としては[[2005年]]4月に、阪神・淡路大震災を教訓・反省として、[[災害派遣医療チーム]] (DMAT) が発足した。
 
 
 
=== 自衛隊 ===
 
一方、1995年(平成7年)3月の[[地下鉄サリン事件]]と合わせ、[[自衛隊]]の危機管理における機能が注目され、国民の自衛隊に対する好感が震災以前と比べて格段に高まり、自衛隊が必要であるという世論も大きくなった。
 
 
 
しかし、防衛庁(現防衛省)はもともと平時にあって有事に備える広域危機管理官庁であり、震災対処計画機能はあるものの、道州レベルでの協議における消防側の対応相手が消防庁しか存在しないのが実情であるなど、災害援助においては装備や組織の問題によって充分に機能し得ないので、「大規模災害に十分対応するためには、装備のほとんどが武器・兵器で占められる自衛隊を用いるのではなく、充実した専門装備を持つ災害救助隊を別に設立すべきだ」とする意見がある。これについては、「蓋然性の低い大災害に対応する官僚組織を戦争と別建てで設立するのは予算の無駄であり、自衛隊の災害救助に関する装備・機能をもっと充実させて当たるべきだ」という意見も出されている。
 
 
 
道路が寸断されている場合、消防車両が現地に容易に近づけない場合も多いので、ヘリによる瓦礫除去車・消防車の吊下空輸が手法としては有効である。また、消火水道断裂に備え数億円する防火水槽を全国各自治体に数千基整備することは予算面から進んでいないが、既にある自衛隊の大型輸送ヘリ約40機で水コンテナを校庭に吊下空輸すれば大幅に補完する事ができる。
 
 
 
しかし、[[CH-47 (航空機)|CH-47]]などの大型輸送ヘリは1機で数十億円と高価なため、自衛隊のCH-47が大型輸送ヘリを購入できない途上国の震災等の災害救援にも派遣されて役立っている一方、市町村消防局で重複購入するのは財政難のため困難である。消防側は、自衛隊にヘリ空輸を依頼せず、瓦礫除去車/重機で進路の瓦礫/土砂を除去しながら数時間かけて現場に到着する計画である(2009年現在)。
 
 
 
==== 自治体と自衛隊の連係 ====
 
報道陣に([[関東大震災]]等の前例があるのに)震災を杞憂扱いして危機管理計画を定めていなかった怠慢を指摘された自治体<ref group="注釈">たとえば、大阪府は1971年(昭和46年)までは自衛隊と共同して防災訓練を行っていたが、[[黒田了一]]の知事就任以降、「自衛隊に頼らない防災訓練」を目指した。その理由には「関西には地震が来ない」ということも挙げられていた。また、淀川の水害で自衛隊が出動した際には自衛隊に抗議を行っていた。黒田の退任後も、阪神大震災までそのままの関係であった。震災後、大阪府でも自衛隊との連携が再度模索され始め、大阪市も1995年(平成7年)、22年振りに防災訓練を自衛隊と共同実施することを決定した。(田中伯知「阪神大震災と自衛隊の出動」『自由』1996年6月)</ref>等が、「まさか、関西で大地震が起こるとは思わなかった」という(「まさかの大災害」への平時からの準備が重要という危機管理の初歩を理解していない)釈明を行ったため、マスコミによって激しく批判された。
 
 
 
これは災害対策基本法の制定された1961年(昭和36年)が安保条約更新の直後であり、反自衛隊感情を刺激しないように立法されたからだとされる<ref>「鼎談 危機管理と自衛隊」『セキュリタリアン』1995年3月<br />田中伯知「阪神大震災と自衛隊の出動」『自由』1996年6月等<br />セキュリタリアンの鼎談では佐々淳行により災害対策基本法とともに、自衛隊法83条の問題点なども挙げられている。</ref>。そうした背景もあり当時の自治省の指導にも不備があり、現在においても自治体の防災規定に対する総務省の指導は不徹底で、同様の事態が別の自治体でも起こりうるとの指摘もある。
 
 
 
村山首相は上述のように、自衛隊出動命令の遅れを責められて「なにぶん初めての事ですので」と釈明したため、一部から「前例ある有事を杞憂扱いして備えを怠り、危機管理官庁の自衛隊を感情的に毛嫌いして有効活用せず国民被害を拡大した」といった批判も受けたが、[[竹下内閣]]から[[村山内閣]]まで7人の首相に仕えた[[石原信雄]]元内閣官房副長官の「前例のない未曾有の災害で、かつ法制度の未整備な状態では、村山首相以外の誰が内閣総理大臣であっても迅速な対応は不可能であった」<ref>『官かくあるべし―7人の首相に仕えて』より</ref>という証言に代表されるように行政機構全般の危機管理の不備が明らかになり、その後も村山首相は首相職を担うこととなったが、7月の参議院選挙で社会党の議席は激減した。
 
 
 
震災から12年経過した2007年(平成19年)の政府・[[官房長官]]の記者会見においても「多くの犠牲になられた方々に改めてご冥福をお祈りしたい。防災体制はあれ以来、強化を図っているが、改善に改善を重ねていかなければならない」と述べた。当時、大きな問題点として指摘された政府の危機管理体制については一定の改善が行われたとの認識を示した上で「十分ということはないのでいつも反省をしながら改善していく」と語った。
 
 
 
政府による支援が遅れた一方で、前述の通り民間による支援活動は積極的に行われた。
 
 
 
=== 耐震補強・既存不適格 ===
 
この地震が大惨事となった最大の理由は、老朽木造瓦屋根の住宅が多かったことであるが、その他の理由の一つに、[[近畿地方]]の[[瀬戸内海]]岸では他の地方に比べて地震の発生が少なかったことが挙げられる。地震の専門家の一部は、小さい規模の地震すら起こらないことで、[[エネルギー]](ひずみ)の蓄積が起こっており、ひとたび地震が発生した場合には規模の大きなものになる危険性をはらんでいることを述べていた。
 
 
 
しかし、1916年(大正5年)の明石海峡付近で発生した M 6.1 の地震以降約80年間顕著な地震活動が無かったことから<ref>[http://www.gsi.go.jp/REPORT/JIHO/vol83-2.html 国土地理院 兵庫県南部地震の概要 (地殻調査部 橋本学)] 国土地理院時報(1995,83集)</ref>「近畿地方は地震が少ない。仮に起こったとしてもそんなに大きな地震ではないだろう」といった“実体験”による過信から、「近畿地方では大きな地震は起こらない」とする誤解の広まり、または、地震自体を意識することが少なく専門家の指摘を信用する人間も少なかった。歴史的には近畿地方は幾度も大地震に襲われている([[地震の年表 (日本)|地震の年表]]を参照のこと)<ref>[[#Sangawa(2010)|寒川(2010), p255-265.]]</ref>。歌舞伎「地震加藤」は、[[豊臣秀吉]]の不興を買っていた[[加藤清正]]が、[[慶長]]元年([[1596年]])9月の[[慶長伏見地震]]で、[[伏見城]]から秀吉をおぶって逃げる話となっている。神戸は[[地震予知連絡会]]の「観測強化地域」にも指定されていた。
 
 
 
それまでの大地震の発生する構造については、[[太平洋プレート]]や[[フィリピン海プレート]]が[[日本海溝]]や[[南海トラフ]]において[[ユーラシアプレート]]の下に滑り込み、その[[プレート]]の跳ね返りによって発生するもの([[海溝型地震]])ばかりが注目されて内陸の[[活断層]]のずれによる直下型地震の発生はさほど注目されていなかった。実際に、これらのプレートの境界の近くに位置する[[関東地方]]と[[東海地方]]と[[紀伊半島]]においては、大地震([[関東地震]]・[[東海地震]]・[[東南海地震]]・[[南海地震]]など)の発生する可能性が最も高い地域として防災訓練や建造物の補強など徹底した対策が実施されて来た。ところが、[[近畿地方]]([[紀伊半島]])でも、[[太平洋]]岸である[[三重県]]と[[和歌山県]]とは対照的に、[[瀬戸内]]海岸である[[大阪府]]と[[兵庫県]]は無警戒に近い状態であった。
 
 
 
[[北海道]]・[[東北地方]]・[[北陸地方]]などの[[豪雪地帯]]であれば、地震の多発地帯以外でも、「[[雪]]」という重量物が屋根の上に積み重なる前提に家屋が建てられるために縦方向からの力に強くなるので、結果的に「地震」など揺れにも強い構造となることが指摘されている。ただし、2004年(平成16年)の[[新潟県中越地震]]において豪雪地帯の建物が少なからず倒壊・損壊したことで、[[耐雪構造]]と耐震構造を分けて考える必要性が指摘されるようになっている。
 
 
 
その後のビルディングも含めた物件を建築や補修する際には、阪神・淡路大震災における被害を教訓とした上に最低限度の耐震性を考慮した構造に変わっていっている。また、前述の「[[高架]]構造」になっている高速道路や一般道路、鉄道などの橋脚」の構造上の脆弱さが指摘され、行政主導のもとで補強工事<ref group="注釈">柱に、[[鉄板]]または[[炭素繊維]]を巻きつけるのが主流。</ref>が施工されていった。
 
 
 
==== 建築基準法 ====
 
最も重要な問題、すなわち古い住宅の耐震性がなくても違法とならない([[既存不適格]])問題は変更されなかった。さしあたり、1995年[[建築物の耐震改修の促進に関する法律]](耐震改修促進法)を制定し耐震改修を促進した<ref>[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H07/H07HO123.html 建築物の耐震改修の促進に関する法律(平成7年法律第123号)] </ref>。また、消防庁では公共施設の耐震改修を指導している。しかし、「阪神・淡路大震災」の起こった兵庫県でさえ、公共施設の耐震化率は48.3%にとどまっている。東京78.1%(消防庁 2003、各都道府県耐震改修状況)に比べて耐震化は遅れている。特に、民間の会社施設・マンションにおいての耐震化率はきわめて低い。さらに、ほとんど犠牲者が出なかった公共施設の耐震化は進んでいるが、犠牲者の80%以上を出した民間の耐震性のない木造住宅の耐震補強はほとんどなされていない。
 
 
 
[[貿易の技術的障害に関する協定]]の第二条に強制規格は必要である以上に貿易制限的であってはならないと繰り返し強調されており、建築審議会は同調した内容の答申書を提出している。結果として、1998年の法改正以来、技術基準の「性能規定化」が進められている<ref>国交省 [http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0508pdf/ks050803.pdf はしがき]</ref>。地震国として構造力学に基づいて建材の質や形などを制限した従来のいわゆる仕様規定から、定型的な仕様または国際的な検証方法によって実質的な耐震性を測ろうとする性能規定に変わってきている。規制緩和が目的であって、必ずしも耐震化を主眼とする改正ではない<ref>加藤勝美 『プロが明かす欠陥住宅はこうして防げ』 時事通信出版局 2004年 pp.123-124. など、批判書が複数ある。</ref>。
 
 
 
なお、震災の犠牲者6434人のおよそ1割に当たる約600人が、室内家具の転倒による圧死と推定する調査(山口大・大田教授のグループ)があったことから、震災発生後しばらくは「家具転倒防止金具」を購入する人が多く見られたが、今では普及が鈍化している。
 
 
 
==== 耐震評価 ====
 
建築基準法は改正されたが、倒壊の多かった戸建住宅や低層鉄筋構造物が実際にどの程度の耐震性を有しているのかを試験する方法がなかった。このため、鉄筋コンクリート6階建までの実際の建物に震動を加え試験が行える施設として、大規模実験施設(実大三次元震動破壊実験施設)[[E-ディフェンス]]が兵庫県三木市の兵庫県立三木総合防災公園に建設された。また、耐震設計の際のシミュレーションデータとして、神戸海洋気象台で実際に観測された波形が使用されるようになった。
 
 
 
=== 地震観測 ===
 
1995年当時、[[東海地震]]の前兆現象の観測を目的とし地域を限定した観測網(関東・東海地殻活動観測網)は整備されていたが、阪神・淡路地域だけでなく全国を網羅するような地震観測網は整備されていなかった。したがって、兵庫県南部地震の予測および発生メカニズムを解明するために十分な基礎データの蓄積が無かった。このことを教訓とし、1995年6月16日地震に関する調査研究を推進するための法律『地震防災対策特別措置法』が制定され、「地震に関する基盤的調査観測計画<ref>[http://www.jishin.go.jp/main/seisaku/hokoku97/s8kei.htm 地震に関する基盤的調査観測計画 平成9年8月29日]地震調査研究推進本部</ref>」の一環として、日本全国を約20kmメッシュの地震計で網羅し観測を行う[[高感度地震観測網]]と基盤強震観測網の整備が開始された。
 
 
 
=== カセットコンロ・ガスボンベの規格 ===
 
同震災で、被災者らが避難生活中にどこでも使えるカセット式の[[ガスコンロ]]を調理などに利用していたが、当時のカセットコンロ・ガスボンベの規格は[[日本工業規格(日用品)の一覧|1991年(平成3年)7月1日にJIS規格 (JIS S 2147 / JIS S 2148) によって制定]]<ref name="mycom">{{Cite news|title=いろいろつないで活用できる、接続性の高いアイテムをピックアップ|newspaper=マイコミジャーナル|date=2004-10-22|url=https://news.mynavi.jp/series/kimeuchi/006/index.html}}</ref>されていたもので、ボンベのサイズや構成部品が厳密には規定されておらず、メーカーの異なるカセットコンロ・ボンベの互換性は完全ではなく数種類あった。
 
 
 
そのため、被災者間においてカセットボンベの貸し借りができない場合があり、メーカー側に疑問が呈されたり、規格統一の必要性が認識された<ref name="sonaeru">[http://www.sonaeru.jp/provision/energy/tt20100128a.html カセットガスボンベの消費期限と互換性] 備える.jp 2010年1月28日</ref>。
 
 
 
これを教訓として、[[日本工業規格(日用品)の一覧|1998年(平成10年)2月20日に日本工業規格「カセットこんろ (JIS S 2147)」「カセットこんろ用燃料容器 (JIS S 2148)」]]の改正が行われ<ref name="mycom"/>、ボンベの形状が一種類に規定され、メーカーを選ばずカセットコンロとボンベを装着することができるようになった<ref name="sonaeru"/>。
 
 
 
=== 水道のレバー ===
 
震災前のシングル湯水混合水栓の[[蛇口]]は、レバーを上げて止める「上げ止め式」が普及していたが、震災後はレバーを下げて止める「下げ止め式」が普及した<ref name="シングル湯水混合水栓 朝日新聞1">{{Cite web |url=http://www.asahi.com/national/update/0112/OSK201101120162.html |title=下げて止める蛇口「大震災を機に統一」都市伝説の真相は(1/2ページ) |date=2011年1月14日 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20110116010042/http://www.asahi.com/national/update/0112/OSK201101120162.html |archivedate=2011年1月16日 |accessdate=2017年1月17日 }}</ref>。震災による対策によるものだと噂話もあるが、[[日本バルブ工業会]]によると、理由は欧米で「下げ止め式」が圧倒的に普及していることに合わせたことによるものだと説明している<ref name="シングル湯水混合水栓 朝日新聞2">{{Cite web |url=http://www.asahi.com/national/update/0112/OSK201101120162.html |title=下げて止める蛇口「大震災を機に統一」都市伝説の真相は(2/2ページ) |date=2011年1月14日 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20110117042625/http://www.asahi.com/national/update/0112/OSK201101120162_01.html |archivedate=2011年1月16日 |accessdate=2017年1月17日 }}</ref>。また[[日本工業標準調査会]]は、震災対策を含めたグローバルな観点から下げ止め式に統一したと説明している<ref name="シングル湯水混合水栓 朝日新聞2" />。
 
 
 
=== その他の対応・問題点 ===
 
前述・後述の諸問題も含めて、この大震災は日本の災害対策上、重要な位置を占めている。
 
 
 
* 「阪神・淡路大震災を契機とした災害医療体制のあり方に関する研究会」が発足し、全国の都道府県ごとに「[[災害拠点病院]]」が設置・整備されることとなった。
 
* 地震に起因する火災(特にもらい火)などは、多くの「[[火災保険]]」では[[天災]]として填補除外条項(保険金を支払わない場合)とされているケース<ref group="注釈">損害保険では「オールリスク」タイプが一般向け保険であるが、「戦争」「自然災害」「自損」は入らない。</ref>が多く、採算性の問題も含めて改善が進んでいない。そのため、この震災を機会に「[[地震保険]]」への注目が集まるようになった(この震災で支払われた地震保険の支払額は、約783億円<ref>{{Cite news|title=地震保険の支払い4781億円に 大震災、阪神の6倍超|newspaper=共同通信|date=2011-05-06|url=http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011050601000816.html}}</ref>)。
 
* 自治体には、震災での建物の崩壊による圧死などの直接の死亡原因だけではなく、被災者が避難したあとの持病の悪化や停電による[[医療機器]]の停止による死亡などといった間接的な原因での死亡も関連死(認定死)として認定するかを審査する委員会が置かれた。ただし、[[失明]]・[[失聴]]・四肢の喪失・重度[[精神障害]]など死亡に準ずる重度障害の統計は発表されていない(統計が行われたかも不明)。
 
 
 
== 追悼行事 ==
 
[[File:Fire char kobe 2005.0117.jpg|thumb|right|260px|1.17追悼行事([[東遊園地]])]]
 
[[File:1.17 the Light of Hope 001.JPG|thumb|right|150px|1.17希望の灯り(東遊園地)]]
 
震災の記録・記憶を残すため、以下の施設が作られた。
 
* 「[[人と防災未来センター]]」 - [[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]([[新潟県中越地震]]による[[新潟県]]への別館建設も検討中)
 
* 「[[北淡震災記念公園]]」 - [[津名郡]][[北淡町]](現在の[[淡路市]]北部)([[兵庫県南部地震]]の[[震源]]となった[[野島断層]]を保存)
 
* 「[[神戸港震災メモリアルパーク]]」 - 神戸市中央区の[[メリケンパーク]](崩壊した[[メリケン波止場]]を保存)
 
毎年1月17日は、各地で追悼式典が行われている。
 
* [[東遊園地]](神戸市中央区三宮) - 発生時刻の5時46分と、その12時間前と12時間後の17時46分に黙祷を行う<ref>2012年以降は東日本大震災発生時刻の14時46分にも黙祷を行っている。</ref>。広場には、6,000本の灯篭で模った「1.17」を北側の[[神戸市役所]]庁舎を正面に掲示される(この灯篭が消えた場合は、式典開催者は手をつけずに、訪れた人々にろうそくを渡して点火してもらっている)。灯篭は毎年若干の違いがあるものの、16日夕方から17日21時まで点火されている。
 
* [[昆陽池公園]]([[伊丹市]]) - 発生時刻の12時間前に当たる16日17時46分に黙祷を行い、ロウソクを発生時刻に当たる17日5時46分まで点灯している。
 
* 学生で最多の死者が出た[[神戸大学]]では毎年慰霊献花式を執り行っている<ref>[http://www.kobe-u.ac.jp/NEWS/event/2016_01_15_01.html 神戸大学 神戸大学震災慰霊献花式(兵庫県南部地震犠牲者追悼行事) 2016年01月15日]</ref>。
 
また、1995年(平成7年)より毎年12月に、鎮魂と追悼・街の復興を祈願して「[[神戸ルミナリエ]]」が開催されているが、近年は開催当初の意義から乖離する傾向にあり、その開催目的に疑問を抱く市民も増えつつある。中には「形だけの心の通わない“鎮魂”は死者に対しても恥ずかしいし、この際、ルミナリエは廃止してほしい」といった声も上がっている。
 
 
 
被災地が即急に復興できたのは多くの支援者・ボランティアのおかげであったため、被災者は今も支援者に感謝の気持ちを声明や催し物によって示している。また、神戸市はこの支援活動の教訓や当時の恩返しの意味を込めて[[新潟県中越地震]]や[[スマトラ島沖地震]]の時はどこよりも早く、多くの人材、資材などの援助を行ってきている。また、防災事業では、現在においてもこの震災を例に挙げられることが多く防災事業の原点となりつつある。
 
 
 
神戸市立小学校の音楽教諭である臼井真作曲・作詞の『しあわせはこべるように』という歌が復興の歌として取り上げられることが多く、各種学校団体をはじめ多くの追悼行事で歌われている(今では『[[しあわせ運べるように]]』として、[[Cooley High Harmony]]や[[川嶋あい]]が歌っている)。
 
 
 
2011年に発生した[[東日本大震災]]([[東北地方太平洋沖地震]])では、「神戸」という歌詞の一部を各地域の名称に変えて歌われる動きがある。7月25日には作詞作曲者である臼井自身がCDブックを刊行。このCDには「しあわせ運べるように〜ふるさとver.〜」が収録される。「神戸」を「ふるさと」に変えて、一部編曲をしたものである。臼井曰く、「『ふるさと』とは被災地の地名の総称」とのことである<ref>{{Cite news|title=響け、ふるさと再生の歌 「しあわせ運べるように」CDブックで出版|newspaper=毎日新聞|date=2011-06-30|url=http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110630mog00m040004000c.html}}</ref>。このヴァージョンは2011年7月8日に[[ニッポン放送]]「[[上柳昌彦]]・[[山瀬まみ]] [[上柳昌彦 ごごばん!|ごごばん!フライデースペシャル]]」で流された<ref>[http://www.shiawasehakoberuyouni.jp/index.html 公式サイト]</ref>。
 
 
 
=== その他の追悼イベント・モニュメント ===
 
* [[インフィオラータ神戸]]
 
* [[ポンテ・ペルレ]]
 
* [[神戸学院大学#大時計|神戸学院大学 大時計]](震災によって損傷した[[明石市立天文科学館]]大時計)
 
* [[弓弦羽神社]]
 
* [[河島英五]]は約10年間にわたってチャリティコンサート「復興の詩」を開いた。河島が平成13年(2001年)に死去後も、[[桂南光 (3代目)|桂南光]]ら友人によって同コンサートが続けられた。
 
* [[フラワーテント]]…[[鷲崎健]]が命名、参加。1995年2月17日から1か月間実施。
 
 
 
=== 復興・防災キャンペーン ===
 
* [[阪神・淡路大震災10周年「いのちを守るためにキャンペーン」]](NHKの震災10周年キャンペーン)
 
* [[ラジオ災害情報交差点]](在京ラジオ7局共同制作による災害情報番組)
 
* [[ネットワーク1・17]]([[MBSラジオ|毎日放送のラジオ]]の震災情報番組)
 
* [[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]](がんばろう神戸)
 
* [[See阪神・淡路キャンペーン]](兵庫県)
 
 
 
== 阪神・淡路大震災を題材にした作品 ==
 
=== 小説・詩 ===
 
* [[貴志祐介]] 『[[十三番目の人格 ISOLA]]』(1996年)
 
* [[藤尾潔]] 『[[大震災名言録]]』(1997年)
 
* [[村上春樹]] 『[[神の子どもたちはみな踊る]]』(2000年)
 
* [[夏緑]]『[[理央の科学捜査ファイル]]』シリーズ(2000年 - 2002年)…2000年の神戸市周辺を舞台とし主人公が被災者と設定されている。
 
* [[山田真哉]] 『[[女子大生会計士の事件簿]]』シリーズ(2002年)…主人公は阪神・淡路大震災で亡くなった姉の遺志を継いで会計士になる。著者の山田真哉自身が震災時に自宅の全壊を経験している。
 
* [[東野圭吾]] 『[[幻夜]]』(2004年)
 
* [[横山秀夫]] 『[[震度0]]』(2005年)…阪神・淡路大震災が起こった同じ日に起きたある事件が県警内部を揺るがす。刻々と伝えられる被災地の惨状をよそに、警察内部は権力闘争に明け暮れる。『[[このミステリーがすごい!]]』の平成18年(2006年)版で、国内歴代第3位に選ばれた。
 
* [[平山譲]] 『ありがとう』(2006年)
 
* [[あしだかおる]] 『1.17』(2006年)…女性向け月刊雑誌[[デザート (雑誌)|デザート]]の体験談手記を元に漫画にした作品。全2巻あり、上巻は体験談手記投稿者の地震発生当時、下巻はその10年後を描いた作品である。
 
* [[柴田哲孝]] 『[[GEQ (小説)|GEQ]]』(2010年)
 
* [[中山七里 (小説家)|中山七里]] 『[[月光のスティグマ]]』(2014年)
 
* [[和ヶ原聡司]] 『[[はたらく魔王さま!]]』(2011年 - )…ヒロインの親友が被災者として描かれており、当時の事を好奇心で色々聞かれることに嫌気がさしている。彼女のエピソードは、作者の友人の体験談が元になっている。
 
 
 
=== 漫画 ===
 
* [[高橋しん]] 『[[いいひと。]]』(1993年 - 1999年)…阪神・淡路大震災を背景としたエピソードが収録されている。
 
* [[大谷昭宏]]、[[大島やすいち]] 『[[こちら大阪社会部|こちら大阪社会部(阪神大震災編)]]』(1995年)
 
* [[郷田マモラ]] 『[[きらきらひかる (漫画)|きらきらひかる]]』(1995年 - 2000年)
 
* [[木村紺]] 『[[神戸在住]]』(1998年 - 2006年)…主人公自身は震災を体験していないが、知人・友人に被災者がいる。うち一人は震災ボランティアとしても参加しており、その立場からのエピソードも描かれている。
 
* [[山本航暉]] 『[[ゴッドハンド輝]]』(2001年 - 2011年)…阪神・淡路大震災を背景としたエピソードが収録されている。
 
* [[サライネス|サラ・イイネス]] 『[[大阪豆ゴハン]]』(1992年 - 1998年)…主人公の友人が被災した、というストーリーがある。
 
* [[かわぐちかいじ]] 『[[ジパング (漫画)|ジパング]]』(2000年 - 2009年)…番外編「守るべきもの」にて、本編のストーリーが開始される約10年前の平成7年(1995年)という設定で、主人公の自衛隊員が阪神・淡路大震災の被災地へ災害派遣で出動するストーリーがある。
 
* [[七三太朗]]、[[川三番地]] 『[[Dreams (漫画)|Dreams]](ドリームス)』(1996年 -、連載中)…兵庫県代表神戸翼成高校のエース・生田庸兵選手の家が阪神・淡路大震災で被災、両親を失ったために仮設住宅で弟、妹と一緒に暮らしているエピソードがある。
 
 
 
=== 映画 ===
 
* [[山田洋次]] 『[[男はつらいよ 寅次郎紅の花]]』(1995年)
 
* [[菅原浩志]] 『[[マグニチュード 明日への架け橋]]』(1997年)
 
* [[後藤俊夫]] 『[[地球が動いた日]]』(1997年) - 同名童話を長編アニメーション映画化。
 
* [[榛葉健]] 『[[with…若き女性美術作家の生涯]]』映画版(2001年) - 多くの国際賞を受賞した同名テレビドキュメンタリーに追加取材を加えた劇場公開版。
 
* [[万田邦敏]] 『[[ありがとう (2006年の映画)|ありがとう]]』(2006年) - [[平山譲]]の同名小説を映画化。
 
* [[渡辺あや]] 『[[その街のこども|その街のこども 劇場版]]』(2010年) - 同名テレビドラマを再編集した劇場公開版。
 
* オドレイ・フーシェ『[[メモリーズ・コーナー]]』(2012年)
 
 
 
=== ドラマ ===
 
* 笠井健夫 『[[異人館通りの聖夜]]』(1995年)…[[MBSテレビ|毎日放送]]「[[エリアコードドラマ]]06」で放映。
 
* [[野沢尚]] 『[[恋人よ (1995年のテレビドラマ)|恋人よ]]』(1995年)…[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系で放映。主人公が神戸出身で、実家が被災したという設定。
 
* [[宮村優子 (脚本家)|宮村優子]]・[[長川千佳子]] 『[[甘辛しゃん]]』(1997年 - 1998年)…[[日本放送協会|NHK]]「[[連続テレビ小説]]」で放映([[NHK大阪放送局]]制作)。
 
* 小池康生 『LouLou〜被災地のDJ』(1997年)…ラジオドラマ。[[NHK-FM放送|NHK-FM]]「[[FMシアター]]」で放映(NHK大阪放送局制作)。
 
* [[井上由美子 (脚本家)|井上由美子]] 『[[きらきらひかる (漫画)|きらきらひかる]]』(1998年)…フジテレビ系で放映。郷田マモラの同名漫画をドラマ化。主人公の被災した姪の歯の司法鑑定が物語の一つのキーとなっている。
 
* [[大石静]] 『[[終のすみか]]』(1999年)…NHK「[[NHKドラマ館]]」で放映(NHK大阪放送局制作)。
 
* [[尾西兼一]] 『[[わかば (テレビドラマ)|わかば]]』(2004年 - 2005年)…NHK「連続テレビ小説」で放映(NHK大阪放送局制作)。
 
* [[渡邉睦月]] 『震度0』(2007年)…[[WOWOW]]で放映。横山秀夫の同名小説をドラマ化。
 
* [[水田伸生]] 『252 生存者あり episode.ZERO』 (2008年)…映画『[[252 生存者あり]]』の2年前を舞台としたスペシャルドラマ。映画公開の前日に、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系で放映。主人公が阪神・淡路大震災で両親を失う設定。
 
* [[井上剛 (演出家)|井上剛]] 『未来は今 10years old, 14years after』(2009年)…NHKで放映(NHK大阪放送局制作)。[[ドキュメンタリー]]を組み込んだ構成。
 
* 田辺満 『[[神戸新聞の7日間]]』(2010年)…フジテレビ系「[[土曜プレミアム]]」で放映。ドキュメンタリーを組み込んだ構成。
 
* 渡辺あや 『[[その街のこども]]』(2010年)…NHKで放映(NHK大阪放送局制作)。放送当日に東遊園地で行われた追悼のつどいが、ラストシーンとして撮影された。同年に再編集版が劇場公開。
 
* [[遊川和彦]]『[[純と愛]]』(2012年 - 2013年)…NHK「連続テレビ小説」(NHK大阪放送局制作)で2013年1月17日放送回にて主人公狩野(待田)純、兄正、弟剛の三兄弟が幼い時に被災し兄弟愛が深まったことを思い出すシーンが描かれた。
 
* [[相良敦子]]『[[サイレント・プア]]』(2014年)…NHK「[[ドラマ10]]」で放映。主人公里見涼は幼少時に被災し、すぐ側にいて瓦礫の下敷きになった弟光を助け出せずに置き去りにせざるを得なかった事が深い心の傷となった。「助けを求めている人の手を最後まで離さない」と心に決めてコミュニティソーシャルワーカー(CSW)の仕事に打ち込んでいる。
 
* [[テレビ未来遺産]] [[ORANGE 〜1.17 命懸けで闘った消防士の魂の物語〜]](2015年1月19日)…[[TBSテレビ|TBS]]
 
* [[岡本貴也]]『[[二十歳と一匹]]』(2015年)…NHK「[[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]」で放映(NHK大阪放送局制作)。阪神・淡路大震災で両親を亡くした主人公が、[[災害救助犬]]のハンドラーを目指す<ref>{{Cite news|title=菅田将暉:祖父の手紙懐に震災20周年ドラマ主演|date=2015-01-07|author=中田敦之|newspaper=MANTANWEB |publisher=毎日新聞デジタル|url=http://mantan-web.jp/2015/01/07/20150107dog00m200049000c.html|accessdate=2015-02-01}}</ref>。
 
 
 
=== 音楽 ===
 
[[第46回NHK紅白歌合戦]](1995年12月31日)では、[[由紀さおり]]・[[安田祥子]]、[[前川清]]、[[田村直美]]、[[南こうせつ]]の4組が、被災者へのメッセージの意味を込めた特別企画枠で出場した(審査の対象外)。
 
* [[平松愛理]] 『[[美し都〜がんばろやWe love KOBE〜]]』(1995年)
 
* [[香西かおり]]、[[伍代夏子]]、[[坂本冬美]]、[[長山洋子]]、[[藤あや子]] 『心の糸』(1995年) - チャリティーシングル。1995年12月までに約10万枚を売り上げ、収益金約3000万円が[[日本赤十字社]]兵庫県支部へ義援金として寄付された<ref>『[[朝日新聞]]』1995年12月10日付朝刊、兵庫面。</ref>。
 
* [[嘉門達夫]]、[[泉谷しげる]]、[[大江千里 (アーティスト)|大江千里]] 『[[怒りのグルーヴ 〜震災篇〜]]』(1995年) - 泉谷と大江はバックコーラスとして参加。
 
* [[タイマーズ]] 『サヨナラはしない』(1995年) - チャリティーシングルであり、印税は義援金として[[泉谷しげる|泉谷基金]]を経由し被災地に寄付された。表題曲は[[テレビ朝日]]系夕方ニュース番組「[[ステーションEYE]]」エンディングテーマのタイアップがついた一方で、カップリングには「ヘリコプター」という[[阪神・淡路大震災#過剰な取材|同震災に対するマスメディアの報道姿勢]]などを批判する内容の楽曲が収録され、この曲のみ歌詞カードに歌詞が記載されなかった。
 
* [[ソウル・フラワー・ユニオン]]、[[ヒートウェイヴ]] 『[[満月の夕]]』(1995年)…[[ガガガSP]]や[[沢知恵]]らがカバーしている。
 
* [[ロイヤル・ハント]]『Far Away』(1995年) 1995年発表アルバム「ムーヴィング・ターゲット」及び日本限定マキシ・シングル「ファーラウェイ」に収録されている。シングル盤はアレンジが違う。
 
* [[浜田省吾]] 『[[我が心のマリア|我が心のマリア/恋は魔法さ]]』(1995年)…印税・原盤収入をすべて被災者に寄付。
 
* [[河島英五]] 『森へ帰ろう』(1995年)…震災復興コンサート『復興の詩』のテーマソング。
 
* [[谷村新司]] 『メシアふたたび』(1995年)…売上の一部を義援金として被災者に寄付。PR一切なしで1995年12月までに2万枚を超える売上<ref>『[[読売新聞]]』1995年12月18日付大阪夕刊、1頁。</ref>。
 
* [[池辺晋一郎]] 『阪神大震災鎮魂組曲 1995年1月17日 混声合唱とピアノのために』(1996年)…原詩は[[森村誠一]]。
 
* [[渡辺貞夫]] 『I'm with you』(1996年、アルバム『Go Straight Ahead 'n Make a Left』所収)…1周年の犠牲者追悼終夜ジャズコンサートのために作曲されたレクイエム。
 
* [[J-FRIENDS]](1997年-2003年 [[TOKIO]]、[[V6 (グループ)|V6]]、[[KinKi Kids]]によるスペシャルユニット) 『[[People Of The World]]』1997年、『[[明日が聴こえる/Children's Holiday|Children's Holiday]]』1998年 作詞・作曲・編曲:[[マイケル・ジャクソン]]
 
* [[角松敏生]] 『崩壊の前日』(1999年)
 
* [[くるり]] 『[[虹 (くるりの曲)|虹]]』(1999年)
 
* [[天野正道]] 『[[おほなゐ 〜1995.1.17 阪神淡路大震災へのオマージュ〜]]』(2001年)…[[吹奏楽曲]]
 
* [[ガガガSP]] 『問題はない』(2003年)…シングル『[[満月の夕 (ガガガSPの曲)|満月の夕]]』に収録。
 
* [[森本ケンタ]] 『震えた朝に』(2005年)
 
* [[1000人のチェロ・コンサート]]…阪神・淡路大震災の追悼のために始まったコンサート。神戸では第1回から第3回が開催された。
 
* [[阿部芙蓉美]]『その街のこども』(2011年)…上記[[渡辺あや]]脚本による同名ドラマおよび映画の主題歌。ドラマで描かれた震災被災児たちをモチーフにした歌詞になっている。
 
 
 
=== 児童文学 ===
 
* [[舟崎克彦]]  作・絵『それでも夜は明ける』([[秋書房]])(1995年)…動物の国で起こった架空の大震災の話だが、阪神大震災をテーマにしたことが、あとがきで明記されている。
 
* [[肥田美代子]] 作・[[石倉欣二]] 絵『ゆずちゃん』([[ポプラ社]])(1995年)
 
* [[岸川悦子]] 作・[[ふりやかよこ]] 絵『地球が動いた日』([[新日本出版]])(1996年)
 
* [[長谷川集平]] 作・絵『明日は月ようび』([[文研出版]])(1997年)
 
* [[松谷みよ子]] 作・[[ささめやゆき]] 絵『おさじさんのたび』([[にっけん教育出版]])(1997年)
 
* [[高科正信]] 作・[[荒井良二]] 絵『さよなら地底人』([[フレーベル館]])(2005年)
 
* [[東海林のり子]]  作『まけるなしんちゃん―阪神大震災の子どもたち』(ポプラ社)(2005年)
 
* [[畑中弘子]] 作・[[三枝三七子]] 絵『ワルルルさん』([[くもん出版]])(2008年)
 
 
 
=== 前兆報告 ===
 
* 元[[大阪大学]][[弘原海清]]教授の『前兆証言1519! - 阪神淡路大震災1995年1月17日午前5時46分』 [[東京出版]]、1996年、ISBN 4-924644-53-6。
 
* [[戴峰]][[著書]]『大地震は予知できる』 (グリーンアロー出版社刊)1996年 ISBN 4-7663-3187-7
 
* 池谷元伺 『地震の前、なぜ動物は騒ぐのか』[[NHKブックス]]1998年
 
 
 
=== その他 ===
 
* [[与那原恵]] 『物語の海、揺れる島』(小学館)(1997年)…[[ルポルタージュ]]。「作られた伝説」(『[[諸君!]]』1996年8月号初出「被災地神戸『レイプ多発』伝説の作られ方」) - 震災後に広まった[[噂]]を検証。
 
* [[藤尾潔]] 『大震災命言録』(光文社→光文社知恵の森文庫→シネコルト社→名月堂書店)(1997年)…ルポルタージュ。推薦文は[[田辺聖子]]、表紙イラストは[[いしいひさいち]]、装丁[[南伸坊]]、イラスト・四コマ漫画[[たけしまさよ]]
 
* [[岡本貴也]] 『舞台|阪神淡路大震災』(2005年)[[演劇]]。
 
* 尾西兼一 『わかば』(2005年)…同名テレビドラマの舞台化。
 
* [[田中康夫]] 『[[神戸震災日記]]』(1996年)(新潮社 ISBN 4-10-365103-2→新潮文庫[[%E7%89%B9%E5%88%A5%3A%E6%96%87%E7%8C%AE%E8%B3%87%E6%96%99/4101434085|SBN 4-10-143408-5]])- 被災地でボランティア活動を行った田中本人の日記形式のルポルタージュ。
 
 
 
== 20年目の情報公開 ==
 
=== 阪神・淡路大震災「1.17の記録」 ===
 
[[2014年]](平成26年)[[12月9日]]、震災から20年の節目を迎えるのを機に震災の経験や教訓を継承するため、神戸市は震災当時の様子を撮影した写真を掲載する「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」を開設した<ref>{{Cite news|title=阪神大震災:神戸市が当時の写真1000枚、ネットで公開|newspaper=|date=|url=http://mainichi.jp/select/news/20141210k0000m040068000c.html}}{{リンク切れ|date=2015年9月}}</ref><ref>{{Cite news|title=阪神大震災の写真約1000枚、神戸市がCCライセンスで公開 2次利用OK|newspaper=|date=|url=http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1412/10/news073.html}}</ref>。地震直後や復旧・復興中の写真など主に神戸市広報課の職員によって撮影された約1万4700点から選ばれた約1000点の写真を公開している<ref>[http://www.bosaijoho.jp/institution/item_6878.html 〈阪神・淡路大震災20年〉神戸市、大震災『1.17の記録』 写真1000点公開] 防災情報新聞 防災情報機構 2014年12月15日</ref>。[[防災]][[教育]]などにも活用してもらえるように、[[住宅]]や[[火災]]などの[[カテゴリー]]を地域別に検索できるようにしている。[[神戸交通センタービル]]などといった市内の箇所の復興過程をたどれる「定点観測写真」も設けられている<ref>{{Cite news|title=阪神・淡路大震災の写真千点、ネットで公開 神戸市|newspaper=神戸新聞NEXT|date=2014-12-09|url=http://www.kobe-np.co.jp/news/bousai/201412/0007570772.shtml}}</ref>。写真は一部を除き[[クリエイティブ・コモンズ]] (CC BY 2.1 JP) の下に公開されており二次利用可能。
 
 
 
=== 記録動画の公開 ===
 
震災直後から1年間に亘り、神戸市職員が撮り続けた記録動画を20年目を機に公開する計画で進めている<ref name="kobe-np20141211">{{Cite news|title=阪神・淡路大震災直後の記録動画 全容を公開 神戸|newspaper=神戸新聞|date=2014-12-11|url=http://www.kobe-np.co.jp/news/bousai/201412/0007575369.shtml}}</ref>。これまで公開を差し控えてきた理由として市民感情を挙げている<ref name="kobe-np20141211"/>。20年目に当たり後世に語り継ぐために公開に踏み切ることになった<ref name="kobe-np20141211"/>。動画の収録時間は約48時間で、復興の道のりをまとめた短縮版を製作する予定にしている<ref name="kobe-np20141211"/>。
 
 
 
== 注釈 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
 
 
== 出典 ==
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*「[http://hdl.handle.net/2261/52524 阪神・淡路大震災で観測された地震動の特徴]」、東京大学,生産研究47巻5号,1995,5
 
* 『阪神大震災』読売新聞大阪本社編、1995年6月(読売新聞大阪本社夕刊1995年2月20日-7月15日)ISBN 4-643-95090-0
 
* {{Cite book|和書|author=[[寒川旭]] |title=秀吉を襲った大地震 |publisher=平凡社 |date=2010-01 |isbn=978-4-582-85504-3 |ref=Sangawa(2010)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[島村英紀]] |title=油断大敵 生死を分ける地震の基礎知識60 |publisher=花伝社 |date=2014-09 |isbn=978-4-7634-0712-2 |ref=Shimamura(2014)}}
 
<!--ページ数の右方の記載が引用かコメントか判断できないため--><!--**p26 「ひかり」発車直前、高架落下
 
** p36 「神戸・震度6」情報空白18分-神戸海洋気象台と洲本測候所の記録が送信できなかった
 
** p42 兵庫県の衛星通信機能が動作しなかった
 
** p46 目前の惨状 発表と落差-高見裕一、武村正義
 
** p48 陸上自衛隊第三師団第36普通科連隊(伊丹、黒川雄三)の「近傍派遣」
 
** p68 「くにかぜ2号」(国土地理院、運用は海上自衛隊徳島航空群)の情報が政府中枢に届かなかった
 
** p93 自衛隊の空撮 届かない-->
 
* 『阪神大震災の教訓』日経アーキテクチャ編、1995年、ISBN 4-8222-0411-1
 
<!--** p14-17、p80-81 芦屋浜シーサイドタウン
 
** p69 JIA調査では、81年新耐震基準の鉄骨造りでも、4割以上が修復不能だった
 
** p140-142 81年基準の鉄筋コンクリートでも、関東大震災に対してギリギリの安全性である-->
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{commonscat|1995 Great Hanshin earthquake}}
 
{{commonscat|Images from The Great Hanshin-Awaji Earthquake: A Record of 1.17|阪神・淡路大震災「1.17の記録」}}
 
* [[災害救助犬]]
 
* [[自衛消防組織]]
 
* [[震災復興再開発事業]]
 
* [[淡路島地震]]
 
* [[東日本大震災]]
 
* [[関東大震災]]
 
* [[阪神大水害]]
 
* [[ネフチェゴルスク地震]]
 
* [[She's Rain]] - 震災直前の神戸の街並みが遺された映画
 
* [[大阪府北部地震]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/hanshin_awaji/data/index.html 阪神・淡路大震災教訓情報資料集] - 内閣府
 
**[http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/hanshin_awaji/earthquake/index.html 阪神・淡路大震災の概要]
 
* [http://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/1995_01_17_hyogonanbu/kiroku.html 「阪神・淡路大震災から20年」特設サイト] - 気象庁
 
* [http://www.dri.ne.jp/shiryo/sinsai/kiroku/index.htm 震災と復興の記録・デジタル資料室] - 人と防災未来センター
 
* [http://web.pref.hyogo.lg.jp/town/cate3_223.html 被害状況・復興の歩み] - 兵庫県
 
* [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/eqb/index.html 震災文庫] - 神戸大学附属図書館
 
* [http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/ 特集 阪神・淡路大震災] - 神戸新聞
 
*[https://www.youtube.com/watch?v=Ne1ueSpCehE 阪神・淡路大震災アーカイブon Yesterscape] -神戸新聞・QOOQ
 
* [http://kobe117shinsai.jp/ 阪神・淡路大震災「1.17の記録」] - 神戸市
 
* [http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030267_00000 NHKアーカイブス  阪神淡路大震災] - 日本放送協会(NHK)
 
*[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010417_00000 NHKスペシャル シリーズ 阪神大震災 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]
 
*[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040348_00000 NHKスペシャル 阪神大震災5年  震度7の衝撃〜都市の備えはどこまで進んだか〜 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]
 
*[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040378_00000 NHKスペシャル 減災〜阪神大震災の教訓はいま〜 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]
 
 
 
{{日本近代地震}}
 
  
 
{{デフォルトソート:はんしんあわしたいしんさい}}
 
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[[Category:兵庫県南部地震|*はんしんあわしたいしんさい]]
 
[[Category:兵庫県南部地震|*はんしんあわしたいしんさい]]
[[Category:報道特別番組]]
 
[[Category:超長時間番組]]
 
[[Category:冬の季語]]
 
 
[[Category:神戸市の歴史]]
 
[[Category:神戸市の歴史]]
 
[[Category:兵庫県の歴史]]
 
[[Category:兵庫県の歴史]]
[[Category:自衛隊の歴史]]
 
[[Category:警察官が殉職した事件・事故]]
 

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阪神・淡路大震災.png
阪神・淡路大震災2.jpg

(はんしん・あわじだいしんさい)

1995年1月17日午前5時46分頃,兵庫県南部で発生したマグニチュードM)7.3(気象庁)の地震。気象庁による正式名称は「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」

震源は北緯 34°35.7′,東経 135°02.2′。震源の深さは約 16km。六甲・淡路島断層帯の一部が淡路島北部から阪神地区にかけて活動したために発生した内陸地震。

震源は明石海峡付近にあり,地震波から推定された断層は震源から北西―南東方向に延びた長さ 40~50kmの横ずれ断層で,その平均的なすべり量は約 2mである。淡路島北部の野島断層では地表に地震断層が現れた。

東北地方南部から九州地方までの広い範囲で有感となった。最大震度は気象庁の現地調査により断層に沿う神戸市芦屋市西宮市宝塚市北淡町で震度 7に達していたことがわかった。この地域では 1596年に M7規模の慶長伏見地震が発生している。また余震は断層に沿って長さ約 60kmにわたって分布し,本震の約 3時間後に最大余震(M5.4)が発生した。

人的被害は死者 6434人,行方不明者 3人,負傷者 4万3792人(総務省消防庁)。建物の被害も大きく,全壊 10万棟あまりを含む半壊および一部損壊を合わせた被災家屋数は約 64万棟。269件の建物火災が発生し,全焼家屋数は約 7000棟に上った。

鉄道や道路の橋梁および高架橋などの落下,港湾地区での広範囲にわたる液状化の発生,また断水,停電,ガス供給停止など都市基盤の被害も甚大であった。

東海道山陽新幹線の新大阪―姫路間は 1995年4月20日までの約 3ヵ月間不通となった。政府はこの地震災害を「阪神・淡路大震災」と命名した。