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{{朝鮮の人物|
 
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'''金 性洙'''(キム・ソンス、{{lang-ko|김성수}}、 [[光緒]]17年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]([[1891年]][[10月11日]]) - [[1955年]][[2月18日]])は、[[日本統治時代の朝鮮]]の実業家、独立運動家。[[大韓民国]]の[[政治家]]、[[教育者]]、言論人。『[[東亜日報]]』や[[高麗大学校]]、[[韓国民主党]]などの設立者としても知られる。朝鮮独立のためには実力の養成が必要だとして、朝鮮人の立場を代弁するメディアとして『東亜日報』を、人材の育成を目的に[[中央高等学校]]と高麗大学校を設立した。実業家としても、[[京城紡織]]を中心に綿紡績・[[ナイロン]]生産に従事し、朝鮮内のみならず[[満州]]にまで事業範囲を伸ばしたが、このことにより、韓国では、2002年に発表された親日派708人名簿に登録され、2005年には民族問題研究所による親日派リストに含まれた<ref>中央日報 2009年11月06日12時29分 【コラム】恣意的に作られた親日人名辞典 [http://japanese.joins.com/article/425/122425.html]</ref>。[[1951年]][[5月]] - [[1952年]][[8月]] 第2任[[大統領 (大韓民国)|大韓民国の副統領]]。[[字]]は判錫(パンソク、{{lang|ko|판석}})、[[雅号|号]]は「仁村」(インチョン、{{lang|ko|인촌}})。
 
  
== 生涯 ==
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'''金 性洙'''(キム・ソンス、{{lang-ko|김성수}}、 [[光緒]]17年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]][[1891年]][[10月11日]]) - [[1955年]][[2月18日]]
[[ファイル:Donga kim.JPG|200px|thumb|[[東亜日報]]社屋内に建つ金性洙像]]
 
金暻中の四男として[[全羅北道]][[高敞郡]][[富安面]]に生まれる。金一族は祖父の代から所有地を増やし、父の暻中はその財力で地方官吏(郡守)となり、更に韓国統監府・朝鮮総督府の土地整理政策に協力することで資産を増大させ、併合後は朝鮮一の大地主と呼ばれるに到った人物である。[[正則学園高等学校|正則英語学校]][[錦城学園高等学校|錦城学校尋常中学校]]を経て[[早稲田大学]][[政治経済学部]]を卒業した。在学中は日本内地への朝鮮人留学生に資金面での援助を行い、後の人脈に大きく寄与している。帰国して教職を務める等した後、[[1919年]]に家業の紡績業を近代資本主義的会社である[[京紡|京城紡織]]として改組する。
 
  
[[1920年]]には東亜日報を設立し、[[1932年]]には財政難に陥った普成専門学校の経営を引き受け、今日の高麗大学校を設立した。東亜日報の文盲退治運動(ハングル文字普及運動)は購読者拡大、また紙面での民族品愛用運動も内地産品に品質で劣る京城紡織製品の販売促進、といった経営上の思惑もあったものの、それを超えて民族意識の高まりに貢献した。民族主義を煽る記事で総督府から停刊処分を受けもしたが、その朝鮮人世論への影響力を交渉材料として、総督府系国策銀行の朝鮮殖産銀行から京城紡織へ多額の融資を引き出すしたたかさも見せている。
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韓国の教育家,政治家。号は仁村。 1914年早稲田大学政経学部卒業後帰国,15年中央学校校主となり,19年京城紡織株式会社を設立,20年朝鮮語 (ハングル) による民間紙『東亜日報』を創刊。 29~31年欧米旅行ののち,32年普成専門学校 (現高麗大学校) の校主を引受けるなど,民族ブルジョアジーとして教育,産業,言論で植民地朝鮮のナショナリズムをリード。 45年解放とともにアメリカ軍政庁顧問会議長,46年韓国民主党首席総務 (党首) として政府樹立に活躍し,51年第2代副大統領に選ばれたが,イ・スンマン (李承晩) の独裁に反対して 52年辞退。野党を指導しつつ,55年2月 18日朝鮮戦争中に避難地釜山で病死した。
  
終戦後の[[1945年]]9月8日に、[[朝鮮人民共和国]]の内閣が発表され、文教部長に任命された。[[1947年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が、 [[トルーマン・ドクトリン]]を発表すると、当時韓民党主席総務だった金性洙は、トルーマンに対し賛辞を示す無線[[電報]]を送った。
 
 
金性洙は「'''金性洙系列'''」と呼称される集団を形成し、日本留学中より懇意にしていた[[宋鎮禹]]を伴い、以降も[[白南薰]](ベク・ナムフン、{{lang|ko|백남훈}})、[[許政]]、{{仮リンク|白寛洙|ko|백관수}}、[[趙炳玉]]、[[尹ボ善|尹潽善]]や{{仮リンク|張徳秀|en|Chang Deok-soo}}等とも近い関係を維持した。一方では、周囲の有能な若い知識人たちに財政支援をする奨学財団[[湖南学会]]([[湖南財閥]])等の活動も行っていた。結局、彼はこのような力を土台にして、人心を掌握し、独立以後代表的な[[右翼]]政党だった韓民党を創党する事に成功した。これに伴い、宋鎮禹や白寛洙、張徳秀等は、韓民党の重要な役職に就く事となった。
 
 
[[1945年]][[12月27日]]の[[モスクワ三国外相会議]]の信託統治方針をめぐって、慎重派の宋鎮禹が[[12月30日]]に暗殺された後、[[1948年]]に韓民党主席総務を務めた事と、[[1951年]]5月から1年間、[[李承晩]]大統領の引きにより、[[副大統領]]職を引き受けた。金性洙の特徴は、この時期{{いつ|date=2012年8月}}の他の大物政治家と違い、韓民党主席総務と副大統領の職務を除き、自ら表舞台に出る事がなかった、という点にある。
 
 
== 人物 ==
 
独立後の韓国において、政治家の殆どが[[キリスト教]](主に[[カトリック教会|カトリック]])、もしくは[[仏教]]などに関連する[[宗教]]団体と提携して政治活動を展開していた、という時代だったにも関わらず、[[金九]](金九自身は[[キリスト教徒|クリスチャン]]だった)と並んで、いずれの宗教団体からも援助を受けていなかった数少ない政治家の一人だったことでも知られている。
 
 
== 評価と批判 ==
 
{{節stub}}
 
[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]]に、企業を運営して富を蓄積し、この過程で親日行為をしたという嫌疑で、[[2002年]]に発表された[[親日派]]708人名簿と、[[2005年]]に民族問題研究所が整理した[[親日派リスト]]に含まれている。しかし、この部分にも反論があって論難になっている。
 
そのような情勢下において、[[大法院 (大韓民国)]]は2017年4月13日に、仁村の曽孫である[[東亜日報]]社長の金載昊と仁村記念会が行政自治部長官を相手として提訴した親日反民族行為決定処分取消請求訴訟について、上告を棄却して、金性洙の親日行為を認めた<ref>{{Cite web
 
  | title = 韓国最高裁「金性洙は親日反民族行為者」認定
 
  | publisher = [[ハンギョレ]]
 
  | date = 2017/4/13
 
  | url = http://japan.hani.co.kr/arti/politics/27057.html
 
  | accessdate = 2018/3/7}}</ref>。続いて2018年2月13日には、韓国政府は大法院判決に基づいて、過去に行われていた金性洙の叙勲を剥奪した。虚偽功績による叙勲は叙勲法に基づき取り消さなければならず、国家報勲処の要請により行われたとされる<ref>{{Cite web
 
  | title = 「学内の親日派銅像は恥ずかしい」…撤去を要求する韓国の大学生
 
  | publisher = [[中央日報]]
 
  | date = 2018/2/28
 
  | url = http://japanese.joins.com/article/116/239116.html
 
  | accessdate = 2018/3/7}}</ref>。一連の韓国政府による措置を受けて、高麗大学では創設者である金性洙銅像を撤去するように学生団体が求めて、大学側と紛争化するに至った<ref>{{Cite web
 
  | title = 「親日派の銅像が恥ずかしい」韓国の大学で創設者像の撤去問題が再燃=「これでこそ国が発展」「嫌なら違う大学に行くべき」―韓国ネット
 
  | publisher = [[Record China]]
 
  | date = 2018/3/1
 
  | url = http://www.recordchina.co.jp/b575957-s0-c30.html
 
  | accessdate = 2018/3/7}}</ref>。
 
 
==参考文献==
 
*[[カーター・エッカート]](著)、小谷まさ代(訳)『日本帝国の申し子: 高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源1876-1945』草思社、2004年。  ISBN 4-7942-1275-5
 
 
== 関連項目 ==
 
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* [[朝鮮の歴史]]
 
* [[金奎植]]
 
* [[張勉]]
 
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* [[尹致昊]]
 
* [[尹致暎]]
 
* [[崔南善]]
 
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== 脚注 ==
 
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<!--=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group=注}}-->
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==
 
* [http://jww.iss.u-tokyo.ac.jp/publishments/issrs/issrs/pdf/issrs_48.pdf 東京大学社会科学研究所「戦間期日本の新聞産業」]
 
 
{{先代次代|[[大統領 (大韓民国)|大韓民国の副大統領]]|第2代: 1951年5月 - 1952年8月|[[許政]]<br>(権限代行)|[[張沢相]]<br>(権限代行)}}
 
{{韓国大統領}}
 
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{{DEFAULTSORT:きむ そんす}}
 
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[[Category:早稲田大学留学生]]
 
[[Category:早稲田大学留学生]]

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金 性洙(キム・ソンス、朝鮮語: 김성수光緒17年9月9日1891年10月11日) - 1955年2月18日

韓国の教育家,政治家。号は仁村。 1914年早稲田大学政経学部卒業後帰国,15年中央学校校主となり,19年京城紡織株式会社を設立,20年朝鮮語 (ハングル) による民間紙『東亜日報』を創刊。 29~31年欧米旅行ののち,32年普成専門学校 (現高麗大学校) の校主を引受けるなど,民族ブルジョアジーとして教育,産業,言論で植民地朝鮮のナショナリズムをリード。 45年解放とともにアメリカ軍政庁顧問会議長,46年韓国民主党首席総務 (党首) として政府樹立に活躍し,51年第2代副大統領に選ばれたが,イ・スンマン (李承晩) の独裁に反対して 52年辞退。野党を指導しつつ,55年2月 18日朝鮮戦争中に避難地釜山で病死した。




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