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[[ファイル:三保洞に立つ鄭和の像.スマラン,インドネシア.jpg|サムネイル|三保洞に立つ鄭和の像.スマラン,インドネシア]]
{{Infobox 人物
+
'''鄭 和'''(てい わ / てい か、{{ピン音|Zhèng Hé}}, [[1371年]] - [[1434年]]
|氏名=鄭和
 
|画像= Zhen he.jpg
 
|画像サイズ=200px
 
|画像説明=[[マレーシア]]、[[マラッカ]]の[[スタダイス]]にある鄭和像
 
|生年月日= [[1371年]]
 
|生誕地= [[元 (王朝)|元]]・[[雲南省]][[晋寧区|昆陽鎮]]
 
|没年月日= [[1434年]]
 
|死没地= [[明]]
 
|職業= 武将、航海者、[[宦官]]
 
|配偶者=
 
}}
 
{{統合文字|鄭}}
 
{{中華圏の人物
 
| 名前=鄭和
 
| 画像=
 
| 画像の説明=
 
| 簡体字=郑和
 
| 繁体字=鄭和
 
| ピン音=Zhèng Hé
 
| 注音=ㄓㄥˋㄏㄜˊ
 
| 和名=ていわ
 
| 発音=ヂォンフォ
 
| ラテン字=
 
| 英語名=Zheng He
 
}}
 
'''鄭 和'''(てい わ / てい か、{{ピン音|Zhèng Hé}}, [[1371年]] - [[1434年]])は、[[中国]][[明]]代の武将。12歳の時に[[永楽帝]]に[[宦官]]として仕えるも軍功をあげて重用され、[[1405年]]から[[1433年]]までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられた。鄭和の船団は[[東南アジア]]、[[インド]]から[[アラビア半島]]、[[アフリカ]]にまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸の[[マリンディ]](現[[ケニア]]のマリンディ)まで到達した。本姓は'''馬'''、初名は'''三保'''で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では'''三保太監'''あるいは'''三宝太監'''の通称で知られる。
 
  
== 前半生 ==
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中国,[[]]の[[宦官]]で武将,南海遠征の総指揮官。三保太監,三宝太監とも呼ばれる。昆陽 (雲南省晋寧県) の人。本姓は馬。法名は福善。先祖は元朝のとき西域から雲南に移住したイスラム教徒。父はマハッジ (馬哈只) ,母は温氏。洪武 15 (1382) 年雲南が明朝に征服されると,明軍に捕われ,やがて宗室の燕王 ([[永楽帝]] ) のもとで宦官となって仕えた。[[靖難の変]] (1399~1402) では燕王に従って武功をあげ,永楽2 (1404) 年に内官太監に抜擢され,鄭姓を賜った。翌3 (1405) 年成祖永楽帝の命を受けて南海経略にあたり,宣徳8 (1433) 年まで前後7回,大船隊を指揮して東南アジアから西南アジアにかけて 30余国に遠征した。この遠征は,ヨーロッパ人来航以前における南方アジアの最大の事件であった。
=== 生い立ち ===
 
馬三保、すなわち後の鄭和は、1371年に馬哈只の子として[[雲南省]][[晋寧区|昆陽鎮]](現・雲南省[[昆明市]]晋寧区)で[[ムスリム]](イスラム教徒)として生まれた<ref>『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p74</ref>。姓の「馬」は[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|預言者ムハンマド]]の子孫([[サイイド]])であることを示し、名の「哈只(ハッジ)」は[[イスラム教]]の聖地[[メッカ]]への[[巡礼者]]に与えられる尊称[[ハッジ]]に由来する。父および先祖は、[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の[[中央アジア]]遠征のとき[[モンゴル帝国]]に帰順し、[[元 (王朝)|元]]の世祖[[クビライ]]のとき雲南の開発に尽力した、元王朝の[[色目人]]の[[政治家]][[サイイド・アジャッル]](賽典赤 Sayyid Adschall Schams ad-Din Umar (1211–1279))につながる。馬三保は、サイイド・アジャッルから数えて6代目の直系の子孫に当たる<ref>Shih-Shan Henry Tsai: ''Perpetual Happiness: The Ming Emperor Yongle''. University of Washington Press 2002, ISBN 978-0-295-98124-6, S. 38 ({{Google Buch|BuchID=aU5hBMxNgWQC|Seite=38|Linktext=eingeschränkte Online-Version|Land=US}})</ref>。鄭和がイスラム教徒の出身だったことは、のちに永楽帝が鄭和を航海の長として使おうと考えた理由の一つだと考えられる。
 
  
=== 宦官・鄭和 ===
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{{テンプレート:20180815sk}}
鄭和が生まれた1371年には、雲南はいまだ元王朝系の[[梁王国]]の支配下に置かれていたものの、すでに中国本土は[[朱元璋]]の建てた明の支配下にあり、元の勢力は雲南など数か所で余喘を保っているのみとなっていた。[[1381年]]、鄭和10歳の時に明は雲南攻略の軍を起こし、翌[[1382年]]に雲南は滅亡。鄭和は捕らえられて[[去勢]]され、[[1383年]]ごろに[[宦官]]として当時燕王だった朱棣(のちの永楽帝)に献上された<ref>『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p80-82</ref>。
 
 
 
朱元璋の死後、[[1399年]]から[[1402年]]にかけての[[靖難の変]]において馬三保は功績を挙げ、帝位を奪取した永楽帝より宦官の最高職である太監に任じられた。さらに1404年には鄭の姓を下賜され<ref>『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p85</ref>、以後彼は鄭和と名乗るようになった。
 
 
 
== 大航海の計画 ==
 
[[ファイル:The Zheng He expeditions - Jap.jpg|thumb|right|400px|<center>鄭和艦隊の進路</center>]]
 
[[宋 (王朝)|宋代]]から[[元 (王朝)|元代]]にかけて、中国商人たちは東南アジア、南アジアの諸都市で活発な交易を行っていたが、明を建国した洪武帝は[[1371年]]に「海禁令」を出し、外洋船の建造と民間船舶による外国との通商を禁じた<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p46-47 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。この法は明王朝一代を通じて守られ、これは永楽帝の代においても例外ではなかった。一方で永楽帝は洪武帝時代の消極的な対外政策を改め、周辺諸国への積極的な使節の派遣を行っており、この一環として大船団を南海諸国に派遣し朝貢関係の樹立と示威を行う計画が浮上した。こうして1405年6月、鄭和は南海船団の指揮をとることを命じられた<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p74 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。
 
 
 
== 船団 ==
 
鄭和の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)と呼ばれ、『明史』によれば長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)、重量8000t、マスト9本であり、小さく見積もれば、長さは約61.2m、重量1170t、マスト6本という巨艦とも言われる<ref>http://www.teikokushoin.co.jp/q_and_a/common/images/q_and_a1.pdf を参照。ちなみに[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]の船団は120t級が3隻、総乗組員は170名、[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]の船団は250t級が3隻、総乗組員は88名である。</ref>。出土品や現代の検証から、全長50メートル前後という説もある{{sfn|山形 |2004|pp=71-75}}。またこのほか、給水艦や食糧艦、輸送艦も艦隊に加わっていたと推測されている<ref>『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p101-102</ref>。
 
 
 
艦隊の参加人員はどの航海においてもほぼ27000人前後となっており、正使、副使などの使節団を中心として、航海士や操舵手、水夫などの乗組員、指揮官を筆頭とした兵員、事務官や通訳などの実務官僚、医官などさまざまな職種からなっていた<ref>『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p92-96</ref>。
 
 
 
== 大航海の理由 ==
 
なぜ永楽帝がこの大航海を企図したかには様々な説がある。その代表的なものは以下の通りである。
 
# 靖難の変の際に[[南京市|南京]]から脱出した[[建文帝]]が南海に逃げたかも知れないので、それを捜索するためとする説。
 
# 西の[[ティムール朝]]の伸長を恐れた永楽帝が、[[ティムール]]の後ろの勢力と結んで挟撃するためという説。
 
# 朱元璋が明建設の際に滅ぼした[[張士誠]]の配下だった水軍勢力が反抗することを恐れて、これをまとめて南海に派遣したという説。
 
1の説はあり得ない話ではないが、主目的だったかには疑問がある。2の説についても、ティムールは第1次航海の年に死んでおり、ティムール個人の権威に基づいたティムール王朝は彼の没後、急速な分裂に向かっていたうえ、彼の後継者たちは明との友好路線を選択したためこれも理由とは考えづらい<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p164-165 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。3の説は朱元璋が張士誠を破ってから長い時が流れすぎており、さらに残存勢力は当時の明の国力からしてまったく脅威となる存在ではなかったため、これも考えにくい<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p164 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。
 
 
 
他に考えられる理由としては、[[簒奪]]という手段で帝位についた永楽帝は国内の白眼を払拭するために、他国の[[朝貢]]を多く受け入れる儒教的な聖王を演出することによって自らの継承を正当化しようとしたという説もある。政治的な理由よりも、中国艦隊が[[南シナ海]]や[[インド洋]]における海上覇権を樹立することによって諸国の朝貢を促すことが主目的だったとする説もある。費信などの記録も見ても、諸国の物産や通商事情に関心が寄せられているのは経済的な動機を立証するものとする。しかし、明は海禁政策を採っており、貿易は朝貢貿易に限っていた。朝貢貿易においては中華帝国側は入貢してきた国に対して、貢物の数倍から数十倍にあたる下賜物を与えねばならず、朝貢を促すことが経済的な利益につながるわけではない。このため、単に経済の面だけ見た場合、朝貢という貿易形態である以上は、明にとってはむしろ不利益となる。
 
 
 
なお、上記の説とは別に、永楽帝期の明は積極的な拡張政策を取っていた。永楽帝本人による[[モンゴル高原]]への親征をはじめ、[[ベトナム]]を支配していた[[陳朝]]を[[1400年]]に[[胡季リ|胡季犛]]が簒奪して成立した[[胡朝]]の成立を認めず、[[1407年]]に軍事侵攻を行って胡朝を滅ぼしベトナムを支配下に置いたのはその例である。また、こうした直接の軍事侵攻だけでなく、宦官を周辺諸国に派遣して朝貢を促すことも積極的に行われていた。[[チベット]]、[[ネパール]]、[[ベンガル]]といった西南部諸国には侯顕が繰り返し派遣され、とくにベンガルへの派遣においては海路が取られている。李達は[[東チャガタイ・ハン国]]や[[トルキスタン]]に4回派遣され、西域諸国との折衝にあたっていた。李興は[[シャム]]へと派遣され、女真人の亦失哈(イシハ)は軍とともに[[アムール川]]地方へと派遣されてこの広大な地方を明の支配下に組み込んだ<ref>『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p66-67</ref>。鄭和の南海遠征も、この動きの一環としてとらえることができる。こうした周辺諸国への朝貢要請に、軍事遠征の要素もある亦失哈や鄭和も含めてすべて宦官が用いられたことは、永楽帝政権の宦官重用を示す好例ともなっている<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p69-70 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。
 
 
 
== 鄭和の大航海 ==
 
=== 第1次航海(1405年-1407年) ===
 
{{main|{{仮リンク|鄭和の西洋下り|zh|郑和下西洋}}}}
 
[[1405年]]6月15日、鄭和34歳の時、永楽帝に諸国への航海を命じられ<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p74 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>、その年の年末には第1次航海へと出発した。『[[明史]]』によればその航海は'''下西洋'''('''西洋下り''')と呼ばれる<ref>小川博編『中国人の南方見聞録 瀛涯勝覧』吉川弘文館、平成10年。</ref>。船団は、全長42丈余の大船62隻、乗組員総数2万7800名余りからなる大艦隊だった<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p75 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。
 
 
 
[[太倉市#歴史|蘇州]]から出発した船団は[[泉州市|泉州]]→[[クイニョン]]([[チャンパ王国]]、現在の[[ベトナム]]南部)→[[スラバヤ]]([[マジャパヒト王国]]、[[ジャワ島]])→[[パレンバン]]→[[マラッカ]]→{{仮リンク|デリ・スルタン国|en|Sultanate of Deli|label=アル}}(現[[北スマトラ州]])→[[サムドラ・パサイ王国]](現[[アチェ|アチェ州]])→[[スリランカ|セイロン]]という航路をたどり、1407年初めにカリカット([[コーリコード]])へと到達した。
 
 
 
[[ジャワ島]]の[[マジャパヒト王国]]に滞在中には、宮廷は東王宮と西王宮に別れ内戦({{仮リンク|パルグルグ戦争|en|Paregreg war}})に巻込まれた。東王宮の所に滞在していた鄭和の部下が西王宮の襲撃時に死亡した為、鄭和が抗議し、西王宮に賠償金の支払いを約束させた。[[マラッカ海峡]]に近い[[スマトラ島]]の[[パレンバン]]寄港中には、同地における[[華僑]]間の勢力争いに巻き込まれた。当時パレンバンには梁道明およびその後継者である施進卿と{{仮リンク|陳祖義|zh|陳祖義}}の2派の華僑の有力者が存在し、抗争を続けていた。施進卿派は鄭和と協力関係を結び、陳祖義を牽制したが、これに対し陳祖義は鄭和艦隊を攻撃したものの大敗し、陳祖義は捕らえられて南京まで連行され、その地で斬首された。一方、施進卿は朝貢を約して明によって官位を与えられ、パレンバンは明の影響下に置かれることとなった<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p84-85 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。
 
 
 
この航海により、それまで明と交流がなかった[[東南アジア]]の諸国が続々と明へと朝貢へやってくるようになった。中でも朝貢に積極的だったのが建国間もない[[マラッカ王国]]であった。マラッカはこの後も鄭和の艦隊がやってくるたびに朝貢を行い、北のアユタヤ王朝の南進を阻んだ<ref>『世界の歴史 第13巻 アジアの多島海』p113 永積昭 講談社 1977年11月20日第1刷</ref>。こうしてマラッカは鄭和の保護下で力を蓄え、鄭和艦隊が派遣されなくなるころには地域強国として自立を果たし、東西貿易の中継港として成立した。
 
 
 
=== 第2次航海(1407年-1409年) ===
 
鄭和38歳。1407年9月に帰国後すぐに再出発の命令が出され、年末には第2次航海へと出発した。艦隊はまず[[1407年]]の明胡戦争で{{仮リンク|第四次北属時期|zh|安南屬明時期|en|Fourth Chinese domination of Vietnam}}に入った[[チャンパ王国]]へ寄港し、[[巴的吏]]が鄭和を迎えた。チャンパでいったん艦隊を分割し、本隊は[[マジャパヒト王国]]([[ジャワ]]の現[[スラバヤ]])へ直行する一方、分隊が[[アユタヤ王朝|アユタヤ]]を訪問したのち再集結し、カリカットおよびコーチンへ至った。帰路の途中の1409年2月1日、セイロン島のガレに[[漢文]]・[[タミル語]]・[[ペルシア語]]の3ヶ国語で書かれた石碑を建てている<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p96 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。その後同じルートを通って帰国し、[[1409年]]の夏に明に到着している。
 
 
 
=== 第3次航海(1409年-1411年) ===
 
鄭和帰着時には次回航海の準備は完全に整っており、同年9月には鄭和は第3次航海へと出発した。今度もほぼ同じ航路でカリカットに到達した。帰路のセイロン({{仮リンク|ライガマ王国|en|Kingdom of Raigama}}、現[[スリジャヤワルダナプラコッテ|コーッテ]])で現地の王が鄭和の船に積んである宝を強奪しようと攻撃してきたので鄭和は反撃し({{仮リンク|明・コーッテ戦争|zh|明-锡兰山国战争|en|Ming–Kotte War}}、{{lang|zh|明-錫蘭山國戰爭}})、王{{仮リンク|アラカイスワラ|en|Alagakkonara}}とその家族を虜にして本国へと連れ帰り<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p108-109 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>、[[1411年]]7月に帰国した。王の権威が失墜したセイロンでは、ライガマ王国から[[コーッテ王国]]へと政権が移った。
 
 
 
=== 第4次航海(1413年-1415年) ===
 
[[ファイル:Tribute Giraffe with Attendant.jpg|thumb|left|200px|キリンは甲板に穴を開けそこに首を通して輸送した]]
 
[[ファイル:WuBeiZhi.jpg|thumb|鄭和の航海図『{{lang|zh-tw|鄭和航海圖}}』の1頁(1628年)]]
 
これまでの3回の航海の成功を受けて、永楽帝はカリカットよりさらに遠方に船団を送ることを決定した。このため入念な準備が必要となり、それまでの航海が帰着後2カ月から3か月程度で再度出発していたのに対し、第4回の航海は帰着後1年半後に行われることとなった。この準備期間の間に鄭和は故郷の雲南省昆陽に戻って祖先の祭祀を行っている。また、その途中立ち寄った[[西安市|西安]]においてペルシア人通訳を雇っている<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p112-114 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。またこの航海に参加した馬歓により、のちに「瀛涯勝覧」が編まれることとなった。
 
 
 
[[1413年]]冬に出航した鄭和艦隊はカリカットへ至るまではそれまでとほぼ同じ航路を取り、そこから本隊はさらに西へ航海して[[ペルシャ湾]]の[[ホルムズ]]に到着した。鄭和が訪問したのはこのホルムズまでであり、ここで外交と通商を行った後同一ルートをたどって帰路につき、[[1415年]]7月に帰国した。一方スマトラで別れた分遣隊はさらに西へと向かって[[モルディブ]]に到着し、さらに[[インド洋]]をまっすぐ突っ切って[[アフリカ大陸]]東岸の[[モガディシオ]]へと到着した。さらに分隊は南進し、[[ブラバ (ソマリア)|ブラバ]]、ジューブといったスワヒリ都市を経由して[[マリンディ]]([[スワヒリ文明]]の中心都市のひとつだった、現[[ケニア]])にまで到達した。ここで分隊は北へと転じ、[[ラスール朝]]の統治下にあった[[アラビア半島]]南部の[[アデン]]に向かい、そこからラサやドファールといったアラビア半島南岸の港湾都市を経由してホルムズに到着し、そこから往路を通って中国へと帰着した。分隊の帰着は本隊よりも1年遅れ、[[1416年]]の夏となった<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p122 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。
 
 
 
帰路の途中、[[サムドラ・パサイ王国]]({{lang-id|Samatrah}} サマトラ、現[[アチェ|アチェ州]]北部)で、反逆者セカンダルに王位を簒奪されていた現地の王ザイン・アル=アビディンの要請を受け、鄭和は兵を使って反逆者セカンダルを捕らえてザイン・アル=アビディンに王位を取り戻させた<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p117 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。
 
 
 
明代以前、中国商人の活動範囲の西限は慣例的にインドの[[マラバール海岸]]にある交易港クーラム・マライ([[クイロン]])とされていたが、この第4次航海以降、[[ホルムズ]]を主な拠点としインド洋西海域に進出するようになった{{sfn|家島 |1993|pp=251}}。
 
 
 
=== 第5次航海(1417年-1419年) ===
 
[[ファイル:Zhenghe-sailing-chart.gif|thumb|鄭和はインドから更に西進し、スリランカからアフリカまで到達した。]]
 
5回目の航海は鄭和46歳、[[1417年]]の冬に出発した。この艦隊には第4回の時の各国使者が乗船しており、各国へ彼らを送り届けることも任務の一つとなっていた。本隊は前回通りのルートを通って、セイロンから前回と同じくホルムズまで到達し、[[1419年]]8月に帰国した。途中で分かれた分隊も前回と同様モルディブ諸島を経由し[[アフリカ大陸]]東岸のマリンディまで到着し、アデンなどを経由して、本隊から一年おそい[[1420年]]夏に帰国した<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p126 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。
 
 
 
この第5回航海のときに、ホルムズから[[ライオン]]や[[ヒョウ]]、ブラワから[[ダチョウ]]、モガディシオから[[シマウマ]]などの珍しい動物を連れ帰っている<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p134 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。特に永楽帝を喜ばせたのはアデンから贈られた[[キリン]]であり、これは王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物「[[麒麟]]」として紹介されたからである。現地のソマリ語で「首の長い草食動物」を意味する「ゲリ」が、伝説上の動物「麒麟」の音に似ていた<ref>ただし現在の麒麟の音({{ピン音|qílín}})とは似ていない。</ref>ことから、これが本物の麒麟だとして珍重された。現在の日本語でキリンをこの名で呼ぶのは、この故事によるものである。ちなみにキリンは日本語以外でも[[朝鮮語|韓国語・朝鮮語]]では「{{lang|ko|기린}}」({{lang|ko|麒麟}}、[[文化観光部2000年式]]:girin、[[マッキューン=ライシャワー式]]:kirin)というが現在の中国語では「長頸鹿」(“長いくびの鹿”、{{繁体字|長頸鹿}}、{{簡体字|长颈鹿}}、{{ピンイン|chángjǐnglù}})という。
 
 
 
=== 第6次航海(1421年-1422年) ===
 
6回目の航海は、鄭和50歳の[[1421年]]2月になる。それまでとは異なり、[[朝貢]]にやってきていた各国の使節を送ることが主目的となっており、このため期間も短かった。今度もほぼ同じ航路を取って、帰国は[[1422年]]8月だった。ただし、この航海で鄭和がどこまで行ったかについては論争があり、サムドラ・パセーまで鄭和が向かったことはほぼ確実とされているものの、そこで鄭和本人は引き返したとの説<ref>『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p136</ref>と、従来通りホルムズまで向かったとの説がある<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p137-138 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。いずれにせよ、前回同様分遣隊がスマトラから別れ、モルディブ、アフリカ東岸、アデンを経由し、[[1423年]]に中国へと帰着した<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p138 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。またこの時、鄭和艦隊の一部は[[ベンガル]]を訪れている<ref>『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p136-137</ref>。
 
 
 
=== 航海の中断 ===
 
[[1424年]]、鄭和は中国からパレンバンまでの短い航海を行った。パレンバンにおいては1406年の第1回航海の時に鄭和が介入して施進卿による政権が確立しており明とも友好関係にあったが、施進卿の死後その息子と娘による後継者争いが勃発し、勝利した息子の施済孫が地位の継承を明に求めたため、鄭和が使者となってその世襲を認めたのである<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p145 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。
 
 
 
鄭和は8月に中国に帰着したが、その前月の[[1424年]]7月に永楽帝は死去しており、帝位についた子の[[洪熙帝]]は民力休養を目指し、大規模な外征の中止を布告した。この布告の中には大航海の中止も含まれており、鄭和の航海はいったんここで止まることとなった<ref>『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p146</ref>。
 
 
 
鄭和は帰着すると、[[1421年]]に[[北京]]への遷都が行われ副都となっていた[[南京]]の守備隊の長に任ぜられた。洪熙帝は在位わずか1年で[[1425年]]に没したものの、永楽帝末期の遷都や軍事遠征の頻発によって明の財政は疲弊しており、航海は中断されたままとなっていた。[[1428年]]には洪熙帝の子の[[宣徳帝]]によって、鄭和は南京にある大報恩寺の修復を命ぜられ、壮大な伽藍を建設した<ref>『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p146-147</ref>。この大報恩寺は南京の奇観として再建後長くランドマークとなっていた<ref>http://www.nanjingkankou.com/page/p13.html 「仏教遺跡」南京市公式観光サイト 2018年2月21日閲覧</ref>ものの、[[太平天国]]期の1856年に焼失し<ref>『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p147</ref>、[[2015年]]12月16日に再建された<ref>http://japanese.china.org.cn/travel/txt/2015-12/17/content_37337875.htm 「中国網日本語版(チャイナネット)」2015年12月17日 2018年2月21日閲覧</ref>。
 
 
 
=== 第7次航海(1430年-1433年) ===
 
[[宣徳帝]]統治下で国力の回復が進むと、皇帝は[[1430年]]に7回目の航海を計画し、鄭和にその指揮を命じた。9年ぶりの艦隊派遣であり、既に鄭和は60歳の老齢だったが、彼に代わる人材はいなかった。出発は[[1431年]]12月で、前6回と同じくチャンパ、スラバヤ、パレンバン、マラッカ、サムドラ・パセーと寄港していき、ここで本隊と分遣隊に分かれた。本隊は前回同様セイロン・カリカットを経由し、1432年12月にホルムズに到着し、50日間滞在してから往路の逆をたどって[[1433年]]6月に帰国した。一方分遣隊も前回同様モルディブ経由で東アフリカ、南アラビアの諸港を巡り帰国の途に就いた。またこの時はカリカットで本隊からさらに馬歓らを含む一隊が分派され、[[マッカ|メッカ]]に至ったという。この一隊はホルムズで本隊と合流して帰国した<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p158 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。
 
 
 
=== 最期 ===
 
最後の航海から帰国後ほどなくして、鄭和は死去した。おそらく1433年から[[1434年]]ごろと考えられている<ref>『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p151</ref>。鄭和は南京の牛首山に葬られ、その[[墓]]は現在でも[[南京市]][[江寧区]]牛首山に[[鄭和墓]]として残っている。
 
 
 
== 航海の意義と影響 ==
 
第1回から第3回の航海に関しては、いくつか変更がある場合があるものの、基本的には中国出航後[[クイニョン]]、[[スラバヤ]]、[[パレンバン]]、[[マラッカ]]、[[サムドラ・パサイ王国]]、[[スリランカ|セイロン]]、[[コーリコード|カリカット]]といった一定のルートを往復する形を取っている。これは中国商船の往来の頻繁であった海域内であり、この地域を巨大な鄭和艦隊が頻繁に行き来することは、海禁政策によって明の影響力が衰えていたこの地域の国々に、あらためて明の国威を示し国際秩序を組み直すとともに、私貿易を抑制して朝貢貿易を盛んにする目的を持っていた。第1回航海の時にこのルートの要衝であるパレンバンにおいて陳祖義を討伐し施進卿に官位を与えたことなどは、これをよくあらわしている。
 
 
 
それに対し、第4回以降はカリカットまではほぼ同じコースをたどっているが、そこからさらに遠方へと艦隊を進出させている。これはそれまでの中国商人の交易範囲の限界点であったカリカットなどのインド西海岸を越え、より遠方の、イスラム商人の海域であるインド洋やアラビア海をも朝貢の範囲内に組み入れようとしたことを示している。この航海では本隊はイランのホルムズに到達し、分遣隊はアラビア半島やアフリカ東海岸にまで到達しており、膨大な地理情報を中国にもたらした。ただしこの中国人にとって新たなる海域は、すでに季節風貿易が紀元前後からおこなわれている開発の古い海域であり、イスラム商人による貿易ネットワークがすでに確立していて、それ以前の中国にも断片的な情報はすでに届いていた。鄭和艦隊の派遣はこのルートにはじめて直接的に参入し、既存のネットワークに沿って政治的な影響力を及ぼそうとする試みだった<ref>『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p201</ref>。
 
 
 
また、鄭和の航海はいずれも年末に中国本土を出港し、夏ごろに中国に帰着するスケジュールとなっているが、これは[[南シナ海]]に吹く季節風を考慮したものであり、当時中国から東南アジア方面に向かう商船はどの船も同様の行程で航海を行っていた<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p26 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。
 
 
 
鄭和艦隊は基本的には平和的な修好と通商を目的とし、到着した土地で軍事行動を起こすことは少なかったが、艦隊には多数の兵員が乗船しており、泊地で攻撃を受けたり現地の勢力争いに巻き込まれた場合、軍事行動に出ることもあった。第一回航海時のマジャパヒト王国における内乱や、同じくパレンバンにおける施進卿と陳祖義の争いへの介入、第三回航海時のセイロンとの戦争、第四回航海時のサムドラ・パサイ王国の内紛への介入などがその例である。
 
 
 
== 鄭和死後 ==
 
[[ファイル:Zheng He's tomb, Nanjing.jpg|thumb|鄭和の墓([[南京市]] 牛首山)]]
 
[[ファイル:Stellardiagram-Zhengho.jpg|thumb|200px|鄭和のホルムズ海峡からカリカットへの航海誌(1430年)]]
 
鄭和の死の翌年、[[1435年]]に宣徳帝が死去すると明は再び鎖国的になり、国力も衰退に向かって航海は行われなくなった。第7回航海の時に諸国から来航した使節たちは帰国の途を失って中国の地でむなしく3年を過ごし、[[1436年]]にジャワの使節の船に便乗して帰国することとなったが、この船は遭難して56名の死者を出した。[[1457年]]には[[天順帝]]によって再度の航海がもくろまれたが、廷臣の反対にあって断念している<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p199 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。また[[成化帝]]の時代にも「再び大航海を」という声が上がったが、航海にかかる莫大な費用と[[儒教]]的モラルから官僚の反対にあい、沙汰止みとなった。
 
 
 
鄭和の大航海の記録は、第4次航海と第7次航海に同行した{{仮リンク|馬歓|zh|馬歡|en|Ma Huan}}の『{{仮リンク|瀛涯勝覧|zh|瀛涯勝覽|label=瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)}}』や{{仮リンク|費信|zh|費信|en|Fei Xin}}『{{仮リンク|星槎勝覧|zh|星槎勝覽|en|Xingcha Shenglan}}』・{{仮リンク|鞏珍|zh|鞏珍|en|Gong Zhen}}『{{仮リンク|西洋番国志|zh|西洋番國志}}』などによって現在に残され、この時代の東南アジアの非常に貴重な資料となっている。
 
 
 
これらは民選のもので、鄭和の航海の公式記録は「鄭和出使水程」という記録に編纂され、宮中の資料庫に保管された。これは船団の編成、名簿、航海日誌、会計などの記録を網羅した膨大なものだったといわれる。しかし数十年後に成化帝が調査させたところ、そっくり紛失しており、理由は現在も謎となっている。一説には、航海の巨額の費用が民を苦しめ国を衰退させることを憂慮した{{仮リンク|劉大夏|zh|刘大夏}}という役人が、同様の大航海の準備資料とされないよう密かに持ち出して焼却したともいう<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p71-72 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。しかし鄭和艦隊の使用した[[海図]]の一部は民間に流出しており、その海図は[[1621年]]に[[茅元儀]]の著した「[[武備志]]」に収録され現代まで伝えられている<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p174 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。
 
 
 
上述の通り、大航海自体の経費に限らず、朝貢貿易において明は多額の出費を必要とする。永楽帝以後の明は財政緊縮の観点から朝貢貿易に制限・制約を加え、結果として朝貢国は激減している。またこれに伴って、インド洋交易においてはそれまでの中国船に代わりイスラムの商船隊が台頭してくるようになった<ref>「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p201-202 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷</ref>。
 
 
 
== その他 ==
 
鄭和を祀った寺院は[[華僑]]の多い東南アジアにいくつか存在し、なかでもインドネシア・ジャワ島の[[スマラン]]市にある三保洞(Sam poo kong)寺院は観光名所として知られている<ref>http://enjoytrip.wixsite.com/indonesia-jawa/semarang 「スマラン観光」インドネシア中部ジャワ州観光局情報 2018年2月23日閲覧</ref>。また、[[スラバヤ]]には{{仮リンク|鄭和清真寺|zh|泗水郑和清真寺}}があり、中国の駐インドネシア大使が[[揮毫]]を行ってる<ref>{{cite news |language = 中文 |author = 张茜翼、张素 |coauthors =  |url = http://www.chinanews.com/gj/2014/07-29/6438483.shtml |title = 印尼泗水郑和清真寺: 多元宗教包容发展 |publisher = [[中国新闻网]] |pages =  |date =2014年7月29日  |accessdate =2018年7月25日 }}</ref>。
 
 
 
鄭和は中国を代表する海の英雄であるため、艦船や島嶼などを中心に彼にちなんで名づけられたものが多数存在する。中国大陸では[[1987年]]に就役した[[中国人民解放軍海軍]]の[[練習艦]]が「鄭和」と命名され、世界各国を親善訪問している。[[台湾]]でも、1994年に就役した[[成功級フリゲート|成功級ミサイル・フリゲート]]の2番艦が「[[鄭和 (フリゲート) |鄭和]]」と命名されている。また、[[南沙諸島]]北部にあり周辺各国が領土主張を行っている[[ティザード堆]]は、中国側からは鄭和群礁と呼ばれている。
 
 
 
== 俗説 ==
 
中国側の一部資料<ref>鄭鶴声 鄭一欽編『鄭和下西洋資料』1146頁。鄭和は[[足利義満]]に倭寇取締りを要請し、義満はこれを受諾するとともに[[日明貿易|勘合貿易]]に同意したという。</ref>に、鄭和が1404年に皇帝の特使として10万人を率い、日本に派遣されたとの記述が見える。日本側にはこれを裏づける記録はない。
 
 
 
イギリスの作家[[ギャヴィン・メンジーズ]]は、2002年に刊行した『1421:中国が新大陸を発見した年』で、鄭和艦隊がコロンブスよりも以前にアメリカ大陸に到達し、マゼランよりも以前に世界周航を成し遂げたと主張した。この書籍は世界各国でベストセラーになったが、歴史学者からは偽史とみなされている([[ギャヴィン・メンジーズ]]の項参照)。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
[[File:Museum in honour of Zheng He in Nanjing.jpeg|thumb|right|220px|南京鄭和記念館]]
 
* [[寺田隆信]]『鄭和 中国とイスラム世界を結んだ航海者』 清水書院、1981年 『中国の大航海者 鄭和』清水新書 
 
* {{Cite book|和書|author=ルイーズ・リヴァーシーズ|others=[[君野隆久]]訳|year=1996|month=5|title=中国が海を支配したとき 鄭和とその時代|series=Shinshokan history book series|publisher=新書館}}
 
* {{Cite book|和書|author=宮崎正勝|authorlink=宮崎正勝|year=1997|month=7|title=鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編|series=中公新書|publisher=中央公論社}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[ギャヴィン・メンジーズ]]|others=[[松本剛史]]訳|year=2003|month=12|title=1421 中国が新大陸を発見した年|publisher=ソニーマガジンズ}} のちヴィレッジブックス
 
* {{Cite book|和書|author=太佐順|authorlink=太佐順|year=2007|month=11|title=鄭和 中国の大航海時代を築いた伝説の英雄|series=PHP文庫|publisher=PHP研究所|isbn=978-4-569-66812-3}}
 
* {{Cite |和書 |author = 山形欣哉 |title = 歴史の海を走る:中国造船技術の航跡 |date = 2004 |publisher = 農文協 |series = 図説 中国文化百華 |isbn = 4540030981 |ref = harv }}
 
* {{Cite |和書 |author = 家島彦一 |title = 海が創る文明:インド洋海域世界の歴史 |date = 1993 |publisher = 朝日新聞社 |isbn = 4022566019 |ref = harv }}
 
 
 
== 関連書籍 ==
 
* [[庄野英二]]『小説海のシルクロード 鄭和の大航海記』 理論社 1985年
 
* {{Cite book|和書|author=伴野朗|authorlink=伴野朗|year=1984|month=4|title=大航海|publisher=集英社|ref=伴野1984}} のち文庫 - 鄭和を主人公とした歴史小説。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Zheng He}}
 
{{ウィキポータルリンク|中国|[[画像:China.svg|40px|Portal:中国]]}}
 
{{ウィキポータルリンク|イスラーム|[[画像:Allah-green.svg|34px|Portal:イスラーム]]}}
 
* [[鄭和墓]]
 
* {{仮リンク|馬歓|zh|马欢}} - 通訳(第4次航海、第6次航海、第7次航海)
 
* [[世界一周#著名な世界一周]]
 
* [[ラスール朝]]
 
* [[真珠の首飾り戦略]]
 
 
 
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2018/12/31/ (月) 13:07時点における最新版

三保洞に立つ鄭和の像.スマラン,インドネシア

鄭 和(てい わ / てい か、拼音: Zhèng Hé, 1371年 - 1434年

中国,宦官で武将,南海遠征の総指揮官。三保太監,三宝太監とも呼ばれる。昆陽 (雲南省晋寧県) の人。本姓は馬。法名は福善。先祖は元朝のとき西域から雲南に移住したイスラム教徒。父はマハッジ (馬哈只) ,母は温氏。洪武 15 (1382) 年雲南が明朝に征服されると,明軍に捕われ,やがて宗室の燕王 (永楽帝 ) のもとで宦官となって仕えた。靖難の変 (1399~1402) では燕王に従って武功をあげ,永楽2 (1404) 年に内官太監に抜擢され,鄭姓を賜った。翌3 (1405) 年成祖永楽帝の命を受けて南海経略にあたり,宣徳8 (1433) 年まで前後7回,大船隊を指揮して東南アジアから西南アジアにかけて 30余国に遠征した。この遠征は,ヨーロッパ人来航以前における南方アジアの最大の事件であった。



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