那須与一
那須与一 / 那須資隆 | |
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時代 | 平安時代末期 |
生誕 | 嘉応元年(1169年)? |
死没 | 文治5年8月8日(1189年9月19日)?[1]/建久元年(1190年)10月?[2] |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源頼朝 |
氏族 | 那須氏 |
那須 与一(なす の よいち)は、平安時代末期の武将・御家人。系図上は那須氏二代当主と伝えられる。一般的に宗隆[3]と紹介されることも多いが、家督を相続した後は資隆と名乗ったと伝えられる(この項目での呼称は「与一」で統一する)。
Contents
名の由来
与一は十あまる一、つまり十一男を示す通称である。なお、与一を称した同時代人としては佐奈田義忠・浅利義遠がいる。彼らと那須与一を合わせて「源氏の三与一」と呼ばれる。
略歴
『吾妻鏡』など、同時代の史料には那須与一の名は見えないため、与一の事跡は軍記物である『平家物語』や『源平盛衰記』に伝えるところが大きい[4]。『平家物語』の記述から逆算すると、嘉応元年(1169年)・永万2年/仁安元年(1166年)・仁安3年1168年)頃、那須資隆の子として誕生した。誕生地は当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測されることが多い。
治承・寿永の乱において、兄・十郎為隆と共に源頼朝方に与し、その弟・義経軍に従軍した。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ、頼朝より5カ国に荘園を賜った[5]。また、為隆を除く9人の兄達が、皆平氏に味方し、為隆も後に罪を得たため、与一が十一男ながら那須氏の家督を継ぐ事となった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。
死亡時期は諸説[6]あるが山城国伏見において死去。家督は兄・五郎資之(之隆)が継承したが、まもなく鎌倉幕府の有力御家人宇都宮朝綱の子[7]・頼資が資之の養子となり家督を継ぎ、その頼資の子が、建久4年(1193年)に源頼朝の那須巻狩の際に饗応役を務めた(『吾妻鏡』による)光資である。
異説・伝承
幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父の資隆を驚嘆させたという地元の伝承がある。また、治承4年(1180年)、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している。『平家物語』に記される、扇の的を射抜く話が非常に有名である。
子孫についてはいないとされているが、歴史学者の那須義定などが主張する異説(越後那須氏)もあり、梶原氏と諍いを起こしたため家督を捨てて出奔し、越後国の五十嵐家に身を寄せ、結婚して一男一女を儲け(息子は越後那須氏の祖となる)たという。その他、常陸国、出羽国、阿波国にも与一の末裔と称する一族が存在したという伝承、寺伝がある。
また扇の的を射た功名で得たと伝えられている荘園のうち1つの備中荏原荘がある。この伝承が事実であるかどうかは不明であるが、少なくとも鎌倉時代中期の段階で那須氏の一族(荏原那須氏・備中那須氏)がこの地域を支配していたことを示す記録が残されている。また、与一に関する伝説の継承には備中那須氏を初めとする西国の庶流が関わっており、下野那須氏の間では少なくても南北朝期の段階では与一の伝説については認識されていなかった可能性も指摘されている[8]。
また、没年についても、文治5年(1189年)または建久元年(1190年)に没したとするのは頼朝の粛清を免れるための偽装、出家した理由は癩病にかかり顔が変わってしまったため、とする伝承もある。また、那須義定によると頼朝の死後に赦免されて那須に戻った後に出家して浄土宗に帰依し、源平合戦の死者を弔う旅を30年余り続けた後、貞永元年(1232年)に中風のため摂津国で没したという。
弓の腕を上げようと修行を積み過ぎた為、左右で腕の長さが変わってしまったと伝えられている。
墓所
墓所は、京都府京都市の即成院であるが、兄・資之が功照院という寺を建立し、分骨を埋葬したといい、永正11年(1514年)に、一度は廃寺になったものの、天正18年(1590年)、那須資景が那須氏の菩提寺・玄性寺(栃木県大田原市)として再建し、那須氏では、こちらを本墓としている。
また、兵庫県神戸市須磨区の碧雲寺宗照院には、那須與一宗高公御墓所という与一の墓とされるものがある。この墓にお参りすると、年老いても下の世話にならないとする言い伝えがある。また近くには与一が信仰したとされる北向八幡神社と、地元の人々が与一を祀った那須神社がある。
山形県米沢市中央5丁目の西蓮寺の北西隣の虚空蔵菩薩堂の前には、那須与一の名を刻む高さ約4.2メートルの三重石塔がある。これは与一の供養塔とされ、塔には「那須与一宗隆公」、「千坂対馬守景親公」と刻まれており、裏には「享保四年孟夏十三日建立」と建立日が刻まれている。千坂景親は上杉謙信の重臣だが、千坂氏は那須氏とは婚族関係にあり、与一の守本尊(虚空蔵菩薩像)が伝わっていたとされる。
また扇の的を射た功名で全国に得た荘園のうち1つの備中荏原荘の山中にも与一の五輪供養塔が存在する。また備中荏原の菩提寺として開基した永祥寺の境内には、屋島での合戦時に破り捨てた片袖を祭った袖神神社や、那須一族の居城とされる小菅城址や創建した神社も存在する。
那須家の墓は徳川家墓地(寛永寺)内にありそれは現在養寿院の管理にあるが2014年20代から26代の墓石が永代供養されてしまった。現在有るのは27代から33代の墓石となった。 以下の通りである。 20代 那須与一資房(すけふさ) 佐衛門大輔 1516年 永正13年丙子(へいし)上の庄へ越し給う 永正11年8月4日 上の庄、福原の那須家、断絶す
21代 那須与一政資(まさすけ) 壱岐守 1546年 天文(てんぶん)15年7月23日 卒
22代 那須与一高資(たかすけ) 修理大夫 法名 天性緒舜 1551年 天文20年1月23日 卒
23代 那須与一資胤(すけたね) 修理大夫 法名 江月院芦錐玄雪大膳定門
1583年 天正11年2月11日 卒
24代 那須与一資晴(すけあき) 修理大夫 法名 不携院殿休山慶罷大膳定門 1609年 慶長(けいちょう)14年12月7日 卒
25代 那須与一資景(すけかげ) 左京大夫 法名 須峯院殿月山洞智大居士 1656年 慶長14年12月7日 卒
26代 那須与一資重(すけしげ) 美濃守 法名 自鏡院殿心玄性大居士 1642年 寛永19年7月25日 卒
後世への影響
出典
- 『寛政重修諸家譜』
- 『続群書類従』
- 『平家物語』
- 『源平盛衰記』
- 村井章介 編『中世東国武家文書の研究』(高志書院、2008年)
- 山本隆志「白河結城家文書のなかの那須文書」
- 「関東御家人那須家の成立と東・西での展開」(改題所収 山本『東国における武士勢力の成立と発展』(思文閣出版、2012年 ISBN 978-4-7842-1601-7)
那須与一を扱った作品
歌謡曲
- 長編歌謡浪曲 屋島の扇 (三波春夫)
盆踊り
漫画・アニメ
- ドリフターズ (漫画) - 那須与一がメインキャラクターとして登場。
- ますらお -秘本義経記- 波弦、屋島 - 那須与一がキーパーソンとして扱われている。