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− | '''遣隋使'''(けんずいし)とは、[[推古天皇|推古]]朝の時代、[[倭国]](俀國)が技術や制度を学ぶために[[隋]]に派遣した[[朝貢]]使のことをいう。[[600年]](推古8年)~[[618年]](推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。なお、[[日本]]という名称が使用されたのは[[遣唐使]]からである。 | + | '''遣隋使'''(けんずいし) |
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− | [[大阪]]の[[住吉大社]]近くの[[住吉津]]から出発し、住吉の細江(現・[[細井川停留場|細江川]])から[[大阪湾]]に出、[[難波津]]を経て[[瀬戸内海]]を[[筑紫]](九州)[[博多|那大津]]へ向かい、そこから[[玄界灘]]に出る。 | + | 推古天皇のとき,聖徳太子が中国の隋へ派遣した使節。第1回は『[[隋書]]』に推古8 (600) 年,倭王の使者,隋にいたるとみえるが,日本側の記録は見当らない。第2回 (『日本書紀』では第1回) は同 15年,[[小野妹子]]を大使として派遣。国書には「日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す」とあった。第3回は同 16年,妹子が隋使[[裴世清]]らを伴って帰朝後,裴世清の帰国を送って再び渡隋,このとき学生高向玄理,学問僧[[旻]],南淵請安,慧隠らを随行。彼ら留学僧は帰朝後,大化改新に貢献している。最後は同 22年,[[犬上御田鍬]]を大使として派遣。のち遣唐使に引継がれた。 |
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− | [[倭の五王]]による[[南北朝時代 (中国)#南朝|南朝]]への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、[[東アジア]]の中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、[[朝鮮半島]]での影響力維持の意図もあった。この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。
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− | ==第一回(600年)==
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− | この派遣第一回 開皇20年(600年)は、『[[日本書紀]]』に記載はない。『[[隋書]]』「東夷傳俀國傳」は高祖[[楊堅|文帝]]の問いに遣使が答えた様子を載せている。
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− | <blockquote>
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− | 「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 [[結跏趺坐|跏趺坐]] 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」
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− | </blockquote>
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− | <blockquote>
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− | 開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。
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− | </blockquote>
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− | 俀王(通説では俀は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、[[多利思比孤]]とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、天より垂下した彦(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミで、[[大王 (ヤマト王権)|大王]]とされる。『[[新唐書]]』では、[[用明天皇]]が多利思比孤であるとしている<ref>『[[新唐書]]』東夷伝日本伝「用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」</ref>。
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− | 開皇20年は、推古天皇8年にあたる。この時派遣された使者に対し、高祖は所司を通じて俀國の風俗を尋ねさせた。使者は俀王を「姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩雞彌」と云うと述べている。ところが、高祖からみると、俀國の政治のあり方が納得できず、道理に反したものに思えたのであろう。そこで改めるよう訓令したというのである。
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− | ==第二回(607年)==
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− | 第二回は、『日本書紀』に記載されており、[[607年]](推古15年)に[[小野妹子]]が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている。
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− | 倭王から隋皇帝[[煬帝]]に宛てた国書が、『[[隋書]]』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である[[鴻臚卿]](こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという<ref>「帝覽之不悅 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」</ref>。
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− | なお、煬帝が立腹したのは俀王が「[[天子]]」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『[[大智度論]]』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す[[仏教用語一覧|仏教用語]]である。ただし、仏教用語を用いたことで中華的[[冊封|冊封体制]]からの離脱を表明する表現であったとも考えられている。
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− | [[小野妹子]](中国名:蘇因高<ref>川本芳昭,2004,p56</ref>)は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の家臣である[[裴世清]]を連れて帰国した妹子は、返書を[[百済]]に盗まれて無くしてしまったと言明している<ref>「臣參還之時 唐帝以書授臣 然經過百濟國之日 百濟人探以掠取 是以不得上」『日本書紀』</ref>。百済は日本と同じく南朝への朝貢国であったため、その日本が北朝の隋と国交を結ぶ事を妨害する動機は存在する。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている。
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− | 裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』にある。
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− | <blockquote>「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」
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− | </blockquote>
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− | <blockquote>
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− | 「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』
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− | </blockquote>
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− | これは'''倭皇'''となっており、倭王として臣下扱いする物ではない。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しも「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とある。これをもって天皇号の始まりとする説もある。また、「倭皇」を日本側の改竄とする見解もある<ref name="kawam"/>。
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− | なお、裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。
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− | 小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は[[流刑]]に処されるも直後に[[恩赦]]されて大徳([[冠位十二階]]の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、
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− | [[聖徳太子]]、[[推古天皇]]など[[倭国]]中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される<ref name="kawam">「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって」(川本芳昭,九州大学 史淵 141, 53-77, 2004-03-10)</ref>。
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− | == 年表 ==
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− | *[[600年]](推古8年)'''第1回'''遣隋使派遣。この頃まだ[[倭国|俀國]]は、外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使した。(『隋書』俀國伝)
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− | *[[607年]](推古15年) - [[608年]](推古16年)'''第2回'''遣隋使、[[小野妹子]]らを遣わす。「日出処の天子……」の国書を持参した。小野妹子、[[裴世清]]らとともに[[住吉津]]に着き、帰国する。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
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− | *[[608年]](推古16年) - ? (『隋書』煬帝紀)
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− | *[[608年]](推古16年) - [[609年]](推古17年)'''第3回'''遣隋使、小野妹子・吉士雄成など隋に遣わされる。この時、学生として倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・[[奈羅訳語]]恵明(ならのおさえみょう)[[高向玄理|高向漢人玄理]](たかむくのあやひとくろまろ)・新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)・学問僧として新漢人日文(にちもん、後の僧[[旻]])・[[南淵請安]]ら8人、隋へ留学する。隋使裴世清帰国する。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
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− | *[[610年]](推古18年) - ? '''第4回'''遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)
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− | *[[614年]](推古22年) - [[615年]](推古23年)'''第5回'''遣隋使、[[犬上御田鍬]]・矢田部造らを隋に遣わす。百済使、犬上御田鍬に従って来る。(『日本書紀』)
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− | *[[618年]](推古26年)隋滅ぶ。
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− | ==遣使の『日本書紀』と『隋書』の主な違い==
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− | *第一回遣隋使は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ。
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− | *ここでは中国史に合わせて遣隋使として紹介しているが、『日本書紀』では「隋」ではなく「大唐國」に遣使を派遣したとある。
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− | *『日本書紀』では裴世清、『隋書』では編纂された時期が[[唐]][[太宗 (唐)|太宗]]の時期であったので、太宗の[[諱]]・世民を[[避諱]]して裴清となっている。
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− | *小野妹子の返書紛失事件は『日本書紀』にはあるが『隋書』にはない(『隋書』には小野妹子の名前自体が出てこない)。
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− | *『隋書』では竹斯國と[[秦王国|秦王國]]の国名が出てくるが大和の国に当たる国名は記されていない。しかし、「都於邪靡堆」とあることから、都は「邪靡堆」にあったと推察される。
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− | ==脚注==
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− | == 参考文献 ==
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− | * [[川本芳昭]]「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって」[[九州大学]]『史淵』141, 53-77, 2004年。
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− | ==関連項目==
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− | *[[冊封]]
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− | *[[倭の五王]] 倭の五王が中国に朝貢している
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− | *[[遣唐使]]
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− | *[[遣明使]]
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− | *[[聖徳太子]]
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− | == 外部リンク ==
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− | *[http://www2.plala.or.jp/cygnus/R35.html 隋書タイ(俀)国伝]
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− | *[http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/zui/wa.htm 隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國]
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| [[Category:隋朝]] | | [[Category:隋朝]] |
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