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− | {{Infobox 作家
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− | | name = 近松 門左衛門
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− | | image = Chikamatsu_Monzaemon.jpg
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− | | image_size = 200px
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− | | caption = 近松門左衛門像(画賛は近松自筆)
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− | | birth_date = [[1653年]]
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− | | birth_place = [[越前国]]
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− | | death_date = [[1725年]][[1月6日]]
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− | | occupation = [[浄瑠璃]]・[[歌舞伎]]脚本の作者
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− | | nationality =
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− | | period =
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− | | genre = 人形浄瑠璃・歌舞伎
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− | | subject =
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− | | notable_works = 『[[曽根崎心中]]』(1703年)<br>『[[冥途の飛脚]]』(1711年)<br>『[[国性爺合戦]]』(1715年)<br>『[[心中天網島]]』(1720年)
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− | | awards =
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− | | debut_works =
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− | '''近松 門左衛門'''(ちかまつ もんざえもん、[[承応]]2年〈[[1653年]]〉 - [[享保]]9年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]〈[[1725年]][[1月6日]]〉)とは、[[江戸時代]]の[[浄瑠璃]]及び[[歌舞伎]]の作者。本名は'''杉森 信盛'''(すぎもり のぶもり)。平安堂、巣林子(そうりんし)、不移山人(ふいさんじん)と号す。 [[家紋]]は「丸に一文字」。
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− | == 来歴 ==
| + | '''近松 門左衛門'''(ちかまつ もんざえもん、[[承応]]2年〈[[1653年]]〉 - [[享保]]9年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]〈[[1725年]][[1月6日]]〉) |
− | [[越前国]](現在の[[福井県]])の武士[[杉森信義]]の次男として生まれる。母は医者の家系で[[松平忠昌]]の侍医であった岡本為竹[[法眼]]の娘喜里。幼名は次郎吉、元服後の[[諱]]は信盛と称した。兄弟に母を同じくする兄の智義、弟の伊恒がいる。出生地については[[肥前国]][[唐津市|唐津]]、[[山城国]]、[[長門国]][[萩市|萩]]など諸説あったが、現在は越前とするのが確実とされている。 | |
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− | 近松の父である杉森信義は[[福井藩]]第三代藩主松平忠昌に仕え、忠昌の没後はその子[[松平昌親]]に分知された[[吉江藩]](現在の[[鯖江市]])で藩主昌親に仕えた<ref name="106997.html">[http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/61997 近松門左衛門の通説に新たな動き 元福井大教授「生誕地は鯖江」] [[福井新聞]](2016年10月17日)<!--|accessdate=2016-10-19--></ref>。近松の生誕年は承応2年(1653年)であるが、昌親の吉江への入部は[[明暦]]元年(1655年)であり、昌親と家臣団は吉江以前は福井に居住していたと考えられ、昌親に仕えた信義の子である近松も、[[福井市]]生まれとされている<ref name="106997.html"/>。しかし当時の福井藩に関する資料の調査では、昌親は[[正保]]3年(1646年)から江戸に在住し、その家臣団は藩主昌親の吉江入部以前、既に吉江に移って藩政に関わる執務を行っていたことが明らかとなっており、よって信義も他の家臣たちとともにこの時期から吉江に在住し、近松は吉江すなわち鯖江市で生まれたとする見方もある<ref name="106997.html"/>。
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− | [[寛文]]4年(1664年)ごろ、信義は吉江藩を辞し浪人となって越前を去り、京都に移り住んだ。信義が藩を辞した理由については明らかではなく、近松の消息も詳らかではないが、[[山岡元隣]]著の『宝蔵』([[寛文]]11年〈1671年〉刊行)には、両親等とともに近松の句「白雲や花なき山の恥かくし」が収められている。近松が晩年に書いた辞世文には「代々甲冑の家に生れながら武林を離れ、三槐九卿に仕へ咫尺し奉りて」とあり、青年期に京都において位のある[[公家]]に仕え暮らしたと見られる。その間に修めた知識や教養が、のちに浄瑠璃を書くにあたって生かされたという。
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− | その公家に仕える暮らしから離れ、近松は当時京都で評判の浄瑠璃語り宇治嘉太夫(のちの宇治加賀掾)のもとで浄瑠璃を書くようになった。それがいかなるきっかけによるものか明らかではないが、『翁草』([[神沢杜口]]著)によれば近松は公家の[[正親町公通]]に仕えていた時、公通の使いで加賀掾のもとに行ったのが縁で、浄瑠璃を書くようになったという。加賀掾は[[延宝]]3年(1675年)に京都四条で人形芝居の一座を立ち上げ、そこで浄瑠璃を語っていた。近松が加賀掾のために浄瑠璃を書くようになったのが、いつの頃からなのか定かではない。この当時の慣習として、浄瑠璃や歌舞伎の作者の名をまだ世に出すことがなかったからである。なおこの時期、兄の智義と弟の伊恒は[[大和国]][[宇陀松山藩]]に召し抱えられた。伊恒は藩医平井家の養子となり、のちに[[岡本一抱]](為竹)と改名している。
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− | [[天和 (日本)|天和]]3年(1683年)、[[曾我兄弟の仇討ち]]の後日談を描いた『世継曾我』(よつぎそが)が加賀掾の一座で上演されたが、翌年に加賀掾の弟子だった[[竹本義太夫]]が座本(興行責任者)となって大坂[[道頓堀]]で竹本座を起こし、この『世継曽我』を語り評判を取った。『世継曽我』に作者名はないが、義太夫が語った浄瑠璃のさわりを集めた『鸚鵡ヶ杣』序文の記述から、近松の作であることは間違いないとされている。以後義太夫は近松の書いた浄瑠璃を竹本座で語るようになり、[[貞享]]2年(1685年)に竹本座で出された近松作の『[[出世景清]]』は近世浄瑠璃の始まりといわれる。
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− | 貞享3年には竹本座上演の『佐々木大鑑』で、初めて作者として「近松門左衛門」の名を出した。[[元禄]]5年(1692年)、40歳で大坂の商家松屋の娘と結婚し(ただしこれは再婚ではなかったかといわれる)、その間に一女一男をもうけた。このうち男子は多門と称し絵師になっている。元禄6年以降、近松は歌舞伎の狂言作者となって京の都万太夫座に出勤し、[[坂田藤十郎 (初代)|坂田藤十郎]]が出る芝居の台本を書いた。十年ほどして浄瑠璃に戻ったが、歌舞伎作者として学んだ歌舞伎の趣向が浄瑠璃の作に生かされることになる。
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− | 元禄16年(1703年)、『[[曽根崎心中]]』を上演。[[宝永]]2年(1705年)に義太夫こと竹本筑後掾は座本の地位を初代[[竹田出雲]]に譲り、出雲は顔見世興行に『[[用明天王職人鑑]]』を出す。このとき近松は竹本座の座付作者となり、住居も大坂に移して浄瑠璃の執筆に専念した。[[正徳 (日本)|正徳]]4年(1714年)に筑後掾は没するが、その後も近松は竹本座で浄瑠璃を書き続けた。正徳5年の『[[国性爺合戦]]』は初日から17ヶ月の続演となる大当りをとる。
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− | [[ファイル:Tomb of Chikamatsu Monzaemon.jpg|180px|thumb|[[中央区 (大阪市)|大阪市中央区]]にある近松の墓。]]
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− | 享保元年(1716年)、母の喜里死去。同年、[[尼崎]]の[[広済寺 (尼崎市)|広済寺]]再興に講中として加わる。晩年は病がちとなり、初代出雲と松田和吉(後の文耕堂)の書いた浄瑠璃を添削している。享保9年、『関八州繋馬』を絶筆として11月に死去。享年72。辞世の歌は「それぞ辞世 さるほどにさても そののちに 残る桜が 花し匂はば」と、「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間あだなる 朽木書きして」。墓所は大阪市中央区谷町。もとは同地の法妙寺境内にあったが、法妙寺は[[大東市]]寺川に移転し、近松の墓だけが旧地に留まった。ただし移転した法妙寺にも近松の墓が建てられており、ほかには広済寺に墓が、[[法性寺 (墨田区)|法性寺]] に供養碑がある。戒名は阿耨穆矣一具足居士。[[忌日]]の11月22日は近松忌、巣林子忌、または巣林忌と呼ばれ、冬の[[季語]]となっている([[明治]]以降は新暦で行われる)。
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− | == 作品 ==
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− | 現在近松の作と確定されている浄瑠璃は110あまりで、そのうち24の作が[[世話物]]である。歌舞伎の作では30あまりが認められている。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマとした作品であるが、当時人気があったのは時代物であり、『曽根崎心中』などは[[昭和]]になるまで再演されなかった。同時期に[[紀海音]]も門左衛門と同じ題材に基づいた心中浄瑠璃を書いており、当時これに触発されて心中が流行したのは事実であるが、世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは近代以後の風潮に過ぎない。ちなみに享保8年(1723年)、幕府は心中物の上演を一切禁止している。
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− | 「[[虚実皮膜論]]」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にあると唱えたといわれるが、これは[[穂積以貫]]著の『難波土産』に近松の語として記されているだけであり、近松自身が書き残したとされる芸能論はない。ほかには[[箕面市]]の[[瀧安寺]]に近松が同寺に寄進した[[大般若経]]、尼崎の広済寺に自筆とされる養生訓などが伝わっている。
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− | 全集に『近松全集』([[岩波書店]])全16巻などがあり、勉誠社でも刊行されている。
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− | === 浄瑠璃 ===
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− | * 『[[出世景清]]』 - 貞享2年(1685年
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− | * 『[[曽根崎心中]]』 - 元禄16年(1703年)
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− | * 『兼好法師物見車』 - [[宝永]]3年(1706年)
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− | * 『[[堀川波鼓]]』 - 宝永4年(1707年)
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− | * 『碁盤太平記』 - 宝永7年(1710年)
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− | * 『[[冥途の飛脚]]』 - 正徳元年(1711年)7月以前
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− | * 『嫗山姥』 - 正徳2年(1712年)
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− | * 『大経師昔暦』 - 正徳5年(1715年)
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− | * 『[[国性爺合戦]]』 - 正徳5年(1715年)
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− | * 『[[平家女護島]]』 - 享保4年(1719年)
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− | * 『[[心中天網島]]』 - 享保5年(1720年)
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− | * 『[[女殺油地獄]]』 - 享保6年(1721年)
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− | === 歌舞伎 ===
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− | * 『仏母摩耶山開帳』 - 元禄6年(1693年)
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− | * 『けいせい仏の原』 - 元禄12年(1699年)
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− | * 『けいせい壬生大念仏』 - 元禄15年(1702年)
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− | == 近松門左衛門が登場する作品 ==
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− | *『[[峠の群像]]』([[1982年]]、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、出演:[[中村梅之助 (4代目)|中村梅之助]])
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− | *『[[八代将軍吉宗]]』([[1995年]]、NHK大河ドラマ、出演:[[江守徹]]) - 同作品の語り([[狂言回し]])も兼ねている。
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− | *『[[ちかえもん]]』([[2016年]]、NHK、出演:[[松尾スズキ]])
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− | == 脚注 ==
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− | {{脚注ヘルプ}}
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− | {{Reflist}}
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− | == 参考文献 ==
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− | * 松崎仁 「浄瑠璃作者としての近松門左衛門」 松崎仁ほか校注『近松浄瑠璃集』〈『新日本古典文学大系』91〉 岩波書店、1993年
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− | * 『近松門左衛門 三百五十年』 和泉書院、2003年
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− | == 関連項目 ==
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− | *[[近松心中物語]] - [[秋元松代]]の戯曲で、『冥途の飛脚』をベースに複数の近松戯曲をアレンジして構成されている。
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− | * [[日本の近世文学史]]
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− | == 外部リンク ==
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− | {{Wikiquote|近松門左衛門}}
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− | {{Commons|Category:Chikamatsu Monzaemon}}
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− | *[http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc13/index.html 近松門左衛門](文化デジタルライブラリー)
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− | * [http://www.city.sabae.fukui.jp/pageview.html?id=2430 福井県鯖江市>近松の情(こころ)にふれあうまちめぐり(近松門左衛門記念碑庭園など)]
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− | * [http://www.kosaiji.org/index.htm 広済寺と近松門左衛門]
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− | * [http://homepage2.nifty.com/hay/index.html 近松門左衛門と人形浄瑠璃の奇跡]
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− | * {{青空文庫著作者|1071}}
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− | * [http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/chikamatu/055monzaemon.html 尼崎市HP近松門左衛門]
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− | * [http://www.karatani.co.jp/komuten/amagsk/chika.htm 近松情報(尼崎情報)]
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− | {{Normdaten}}
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− | {{Portal bar|日本|江戸|文学|舞台芸術|人物伝}}
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| + | 江戸時代前期の[[浄瑠璃]],[[歌舞伎]]狂言の作者。本名杉森作左衛門信盛。号は巣林子,平安堂。越前吉江藩士であった父が浪人したのを機に上京,堂上貴族の一条恵観,正親町公通らに仕えた。[[宇治加賀掾]]門下を経て,貞享2 (1685) 年[[竹本義太夫]]のために『[[出世景清]]』を書き,以後義太夫と組んで活躍。また[[坂田藤十郎]]との提携を通じて,元禄期を代表する歌舞伎『[[けいせい仏の原]]』 (1699) ,『けいせい壬生大念仏』 (1702) なども書いた ([[元禄歌舞伎]] ) 。元禄 16 (1703) 年初めての世話物浄瑠璃『[[曾根崎心中]]』を書き好評を得て,以後浄瑠璃に専念。[[時代物]],[[世話物]]ともに優れ,従来の[[古浄瑠璃]]と一線を画した功績は大きく,[[井原西鶴]],[[松尾芭蕉]]と並ぶ江戸文学界の巨頭。代表作『[[けいせい反魂香]] (はんごんこう) 』 (1708) ,『[[冥途の飛脚]]』 (1711) ,『[[国性爺合戦]]』 (1715) ,『[[博多小女郎波枕]]』 (1718) ,『[[心中天の網島]]』 (1720) ,『[[心中宵庚申]] (しんじゅうよいごうしん) 』 (1722) など。 ([[元禄文化]] ) |
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